聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★人体の驚異:血液の働き

2007-04-26 | 「神の存在について」



●「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。‥‥‥すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。」(レビ記17:11、14)。
 
 神のみことばである聖書は「肉のいのちは血の中にあるからである」と言っていますが、血液は確かにそのように呼ばれるだけの価値があります。人間の体をつくっている細胞は、酸素と栄養分を取り込んで、一種の燃焼を起してエネルギーを発生させ、みずからを更新したり、増殖したりして生命を維持しています。この代謝活動のもとである酸素と栄養分を、全身の細胞に送り届ける役目をしているのが「血液」です。この人間の血液のことを調べると、人体に流れている血液は、様々な機能を持っていることが分かります。その血液の働きのいくつかについて考えてみたいと思います。
 
【1】輸送機能。
 日本の国土には、道路が網の目のように走り、輸送用のトラックが毎日のように約1億3千万人もの人々に必要な物資を運んでいます。それと同じように、身体には18万キロメートルもの血管が走り、幾千兆ともしれない体中の細胞にくまなく、エネルギー源となる必要な栄養素と酸素を送り届け、不要な老廃物と炭酸ガス(二酸化炭素)とを回収し運び去るのです。その中で特に、酸素を運ぶために膨大な数の赤血球が働いています。赤血球は直径7~8ミクロンにすぎませんが、身体の赤血球をすべて一列に並べると、なんと地球をを4周以上も回るほどになるのです。
  
 赤血球の表面は薄い膜で包まれており、その中にヘモグロビン(血色素)という物質があります。つまり、新鮮な動脈血の赤い色は、鉄が酸化すると赤くなるのと基本的には同じもので、酸素が少なくなると、静脈血の黒っぽい色になります。代謝によって生じる二酸化炭素は、静脈血の血漿に溶けたりヘモグロビンに捕らえられたりして、肺に運ばれるのです。しかし、血液中の二酸化炭素は、からだの酸性とアルカリ性のバランスを保ったりする上で重要な働きをしていて、動脈血にも一定の量が溶け込んでいます。したがって、肺内の毛細血管から呼気の中に排出される二酸化炭素は、血中の二酸化炭素の一部に過ぎません。

 血液は体重の約8パーセント、例えば体重60キロの人は約4.8リットルの血液が含まれ、約一分間で全身をめぐっています。血液は一分間に約5リットル、24時間に7,200リットルの速度で、地球の周りの2倍よりももっと長い血管の中を流れていますが、その血液の流れは心臓のドキッ、ドキッという拍動によって行われているのですが、それにもかかわらず、毛細血管の中では、全くなめらかな一様な流れとなっています。それは、心臓がドキッと打つと血管が広がり、打ち終わると血管が縮むようになっているからなのです。 

【2】自衛(防衛)機能
 人間の身体を細菌の感染から守るために、血液はさまざまな兵隊や武器を持っていることをご存じでしょうか。その仕組みを知るとそれは実に驚異的です。その中の白血球は、一種の自衛隊(軍隊)の組織のような存在です。白血球は、血管の中だけでなく、細胞の間を自由に動き、敵を見つけ次第、これに接近し、取り囲み、包み込んでしまい、せん滅してしまうのです。そして、白血球は、免疫作用と大きく関わっていますが、これは非常に複雑な仕組みになっています。

 今体の中のある部分に外傷ができて、その傷が汚れている場合などに細菌軍(病原体)が侵入を開始したとします。するとすぐにその場所に白血球の防衛軍が駆けつけます。白血球は、いつもは一立方ミリに、5.000~9.000個ぐらいですが、細菌が侵入すると、急に10.000ぐらいに増員されるのです。そして、この白血球が細菌を自分の体の中に取り入れて殺して行くのですが、この白血球と細菌との大混戦の結果が膿(うみ)なのです。ある医学生から聞いた話ですが、「腫れ物」とはそこに白血球が集合した結果として生じる物なのだそうです。傷からの病原体の進入直後に、全身へと広がることを防ぐために、白血球が集合して包囲します。これを専門用語で"炎症反応"と呼ぶそうですが、炎症反応には4つくらいの特徴があるとのことです。◆発赤-赤くなる。◆疼痛-痛くなる。◆発熱-熱くなる。◆腫脹-腫れる。 

【3】補修機能。
 これは「血小板」の役目です。人間の血液の凝固と止血の仕組みは、血液の性質の中でも、もっとも神秘的であり、重要なものの一つであると言われています。怪我などによって、血管が破れると、そこから血液が流出しますが、血管の傷口に血小板が集まって、相互に結合してかたまりとなり、白色の血栓を形成して傷口をふさぎ、続いて血液の凝固が起こる仕組みになっているのです。それは、血液中のフイブリノーゲンというたんぱく質が長い線維に変わり、急速に網を張り、その網に赤血球が取り込まれて、赤色のかさぶたがつくられ、出血が止まるのです。また、血小板は、血管などを修復し、補修する働きがあります。

【4】体温調節機能など。
 部屋の温度を一定に保つには複雑な仕組みが必要になって来ます。しかし、人間の身体には、外気に関係なく、体温を一定に保つ機能が備わっているのです。体温が上昇すると、皮膚の中に入り込んだ血管が拡張します。この結果、温度の高い大量の血液が身体の内部から体表に移動します。こうして、体表で放射熱によって温度が失われ、体温が低下するのです。寒い時には、これとはまったく逆の現象が起こります。つまり、体表の血管が縮まってできるだけ多くの熱を体内にとどめるようにするのです。

 また、人間の心の状態と血液には微妙な関連があるということがある書物に書かれてあります。人が何かの悩みや大きな壁にぶち当たって落ちこんだり、心の不安や怒りが増大したりすると、造血機能を示すヘマトクリット値が下がったり、逆に、つとめて笑って心を快活に保つと、異常だった血沈が正常にもどったりするというのです。確かに私たちの命を支えているのは血液によるものです。血液の働きは実に神秘的であり、人間のからだの健康を維持することと微妙に関係しており、血液の不思議を知ることができます。

 被造物の中でも、最も身近なものは、自分自身の体です。人間の体は実に精巧に出来ていることを知らされますが、この血液の働きは、人が生きるために人体で行われているほんの一部の機能の例に過ぎません。他の多くの臓器、神経、脳の働き・・・・・などを調べて行くと、実に神秘的で驚くべきものがあります。私たちが、神(創造者:God)の存在とその英知を認めなければ、これをどのように説明できるでしょうか。進化論や唯物論では、決して説明できません。


●「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」(ローマ人への手紙1:20)。
 
 今回は、このように人体の血液は不思議な力を持ち、不思議な働きをするものであることを考えましたが、もっともっとすばらしいのは、イエス・キリストの血であることを聖書は語っています。人間の肉体のいのちを支えているものは血液なのですが、私たちが霊的な永遠のいのちを得るためには、イエス・キリストの尊い血が流される必要があったという事実なのです。聖書のみことば次のように語っています。どうか、あなたもこの永遠のいのちを得るために、イエス・キリストを信じて、永遠の滅びから救われて下さい。

●「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」 (Ⅰペテロの手紙1:18,19)。

●「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」(エペソ人への手紙1:7)。
 
●「なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」(コロサイ人への手紙1:19,20)。

 
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★天体の法則と創造者(神) 

2007-03-06 | 「神の存在について」
 
         
 
●「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。 主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。 彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。 」(詩篇14:1~3)。 

 時々、「今の時代に神(創造者)の存在など信じる者は愚かだ。」と言われる方に出会うことがありますが、私は決してそのようには考えられないのです。例えば、近代の天文学が進み、天体の運行については、もはや世の常識となっていますが、もう一度、その運行や広大な宇宙のことを、ご一緒に考えてみましょう。車、家、時計、テレビ、パソコンなどの小さなものであれば、「ああ、これは人が作ったものだ!」と分かるのですが、「宇宙」はあまりにも大きいためにそれを造った方がおられるなどということは普通あまり考えないかもしれません。しかし、宇宙を創造された方(神)はおられるのです。

 地球の半径は約6,370km。地球は24時間で一回転(自転)します。その時の赤道の表面速度は、秒速463m。地球と太陽との距離は約1億5千万km。地球は約365日間でに1回太陽の周囲を公転します。その公転速度は秒速30km.。そして、公転面と自転軸は23度半の傾きがあります。太陽系と銀河系の中心との距離は、約3万光年、すなわち28京4千兆km。また、銀河系のような「小宇宙」すなわち星雲は、1千億以上もあると言われていますが、そのすべての星雲はものすごい速度で互いに離散しているというのですが、私のような頭の鈍い者には、とても理解できないことです。

 このような広大無辺な宇宙が、このように複雑な法則のもとに運行しているのは一体なぜなのでしょうか。その運行にはそれぞれ意味があり目的があります。まず、地球は24時間に一回の周期で自転していますが、それがなければ太陽に面する地表は灼熱の地獄のようになり、その反対の面は氷に閉ざされてしまうそうです。もし、1日が24時間の2倍になれば、昼と夜の温度差が大きくなり、生物も人間も生きることができません。地球と太陽の距離がもっと近ければ生物は焼け、もっと遠くなると凍りついてしまいます。

 また、地軸の傾きがなければ、赤道付近はやはり灼熱の地獄となり、両極(南極と北極)は厚い氷に閉ざされてしまうのです。地球を含むすべての惑星の公転、銀河系を含むすべての星雲の自転は、各惑星および恒星相互間に働く引力によって、これが互いに中心部に集中して衝突しないために遠心力を働かせるためであるということをご存じでしょうか。また、星雲群が中心の周囲に公転しないのは、星雲間の距離がはなはだ遠く、その間の引力もほとんどないからであると言われています。

 みなさん、このようにこの広大無辺の宇宙の秩序と天体の法則、そしてそれぞれに意味があることを考えるならば、これらがすべて偶然の産物であると考えることが出来るでしょうか。神のことばである聖書は、これらの宇宙を創造されたのは神(God)であることを明確に語っています。そして、神の存在を認めることなくして、人生の意味は分からず、「人はどこから来て、何のために生きて、どこに向かっているのか。」という、人生で一番大切な問題に対する答えを見出すことはできないのです。

あなたが神(創造者)に生かされている存在であることは、間違いのない事実です。そして、この事実をしっかりと掴まない限り、あなたの人生のあらゆる問題に対する解答を得ることができないのです。
あなたも含めて、人類はこの創造者なる神に背を向けて、自分勝手な罪の生活を犯し続けて永遠の滅びに向かっていると、聖書は告げています。その罪を悔い改めて神に立ち帰るように聖書の神はあなたに語っています。どうか、この人生最大の問題を真剣にお考えになって、神が自らお遣わしになられれたイエス・キリストをあなたの個人的な救い主と信じ受け入れて是非、救われて下さいますようにお勧めいたします。創造者なる唯一の神に栄光が帰せられますように。

●「初めに、神は天と地を創造した。」(創世記1:1)。
  
●「天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てられた方、これを形のないものに創造せず、人の住みかに、これを形造られた方、まことに、この主がこう仰せられる。『わたしが主である。ほかにはいない。』‥‥」(イザヤ書45:18)。

●「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。」(詩篇19:1~3)。

●「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ロ-マ人への手紙1:20)。

●「あなた(神)の指のわざである天を見、あなたの整えられた月や星を見ますのに、人とは何者なのでしょう。‥‥」(詩篇8:3,4)

●「天は、主(神)の天である。しかし、地(球)は、人の子らに与えられた。」(詩篇115:16)。   

●「主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。」(エレミヤ書10:12)。

●「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。‥‥‥神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」(使徒の働き17:24,25)
 

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★三位一体の神について【2】

2007-01-22 | 「神の存在について」
    
 

 前回の記事に続いて、もう一回だけ、三位一体の神について聖書から考えてみたいと思います。これは人間の知性では完全に理解することが出来ない深い真理ですから、どうか、ご忍耐を持ってお読み下さい。聖書をお持ちの方は、どうぞ、聖書を開いてお確かめいただければ幸甚に存じます。全くの初心者の方は、他のカテゴリーにある分かりやすい記事から選んでお読み下さってもよろしいと思います。

●「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」(マタイの福音書3:16、17)。
 
 ここには、主イエス様がバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられた時のことが記されています。ここで、次の三つのことが明らかです。
①天から声を出された方は、御父なる神です。
②人間の姿をとっておられる御方は御子(イエス・キリスト)なる神です。
③鳩のように天から下られた御方は聖霊なる神です。

 ある異端の団体の人は、三位一体の真理に対して異常なまでの敵意を燃やして攻撃します。そして、彼らは、キリスト(御子)も聖霊も神ではないと言って、その神性を否定します。そして、「イエスがマリヤの胎内におられた時に、天におられた父なる神もいっしょにマリヤの胎内にいたのですか?」というおかしな質問をするのを聞いたことがあります。このような質問は、彼らが聖書が教える三位一体の神の真理を全く誤解していることを示しています。聖書の神は、御父と御子(イエス・キリスト)と聖霊という三つの位格(ペルソナ)をもつものであるけれども、一つの塊のようにいつもいっしょにいるということではありません。しかし、三つの位格があるけれども、一つであるのです。適切な例えかどうか分かりませんが、夫婦はそれぞれ別の人格を持っていますが、一体であることと似ています。

 また、新約聖書の中では、「御父、御子(イエス・キリスト)、聖霊」はそれぞれ「神」と呼ばれています。次のみことばをご覧下さい。

●「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。」(ローマ人への手紙1:7)。
ここでは、御父は「神」と言われています。

●「御子についてはこう言われています。『神(キリスト)よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの杖こそ、まっすぐな杖です。あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神(キリスト)よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたと共に立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。』」(ヘブル人への手紙1:8)。
 ここでは、明らかに御子(キリスト)について、「神よ。」と呼びかけておられます。

●「『アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。‥‥あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。』」(使徒の働き5:3,4)。
 ここでは、アナニヤとサッピラ(アナニヤの妻)は、聖霊を欺いて、罪を犯したのですが、それは「神を欺いた」罪であると断罪されています。すなわち、聖霊は神であることを示しています。

●「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」(エペソ3:16,17)。
 この使徒パウロの祈りの中にも三位一体の神が表されています。同じ章の19,20節にも、「キリストの愛」「神(御父)ご自身」「私たちのうちに働く力(聖霊)」の三位一体の神が表されています。

●「主イエス・キリストの恵み、神(御父)の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」(Ⅱコリント13:13)。
 これは、パウロの祈りですが、ここでパウロは、コリント集会(教会)の信者の上に、三位一体の神の祝福があるように祈っているのです。
        
      ===★三位一体の神と救いの関係★=== 

●「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」 (Ⅰペテロの手紙1:2)。

 ここでは、人間の救いのために三つの御方が働いておられるのを知ることができます。
①御父なる神の予知によって選ばれました。
②御子イエス・キリストの(十字架のみわざによる)御血の注ぎかけがありました。
③聖霊の聖めにあずかりました。

また、エペソ人への手紙1:1~14を開いてご覧になって下さい。
①父なる神のご計画(3~6節)。
②御子の救い(贖い)のみわざ(7~12節)。
③御霊(聖霊)の働き(13,14節)。
 
 このように、三位一体の神の真理は、私たちの罪の贖いに非常に深く直接的に関わっていることが分かります。もし、イエス・キリストが「神」以下の何かであったなら、イエス様はすべての人類の罪を贖うことはできないことになります。イエス・キリストは、人間の姿をとって現れた「神」なのです。イエス様が神であることの証明として、いくつもの例を上げることができますが、一例を上げますと、イエス様は新約聖書の中でいろいろな人(あるいは天使)によって礼拝を受けておられますが(マタイ9:8,14:33、ルカ24:52。使徒10:25,26、14:18。黙示録19:10、22:8,9。)、その礼拝を一度も拒んだことがありません。礼拝は神だけが受けるべきものであり、この事実は、イエスご自身が神であることを示すものです。

      ====★聖書の中の一つの原則★===

 聖書には、一つの原則があります。神のみわざにおける聖書での順序は、必ず次のようになっているということです。
①「父なる神」が何かの目的をお持ちになられる。
②「御子なる神(イエス・キリスト)」が父なる神の目的に従ってそれを実際に遂行される。
③「聖霊なる神」はその遂行を可能にする力であるということです。
この真理は、神のことばのすべてを通じて保たれています。
 
【1】創造のみわざにおいて。
①父なる神は創造の計画を立てられました。(エペソ1:9,10)。
②御子なる神はご自身によってすべてのものを創造され、保っておられます。(ヨハネ1:1~4。コロサイ1:16。ヘブル1:1~13)。
③聖霊なる神は創造の時の力です。(ヨブ26:13。詩篇104:30)

【2】贖いのみわざにおいて。
①父なる神はその愛のゆえに、人間を恵み給う御心を持たれました。(ヨハネ3:16。Ⅱコリント5:19)。
②御子なる神は、御父を愛する従順さのゆえに、贖いのみわざを完成されました。(ヘブル10:7~10)。
③そして、永遠の聖霊なる神によって、ご自身を傷なきものとして神にささげました。(ヘブル9:14)。

【3】復活のみわざにおいて。
①父なる神は、キリストを死人の中から引き上げられました。(使徒3:15)。
②御子イエス・キリストは、死人の中からよみがえられました。(ヨハネ10:18)。
③聖霊の力により、キリストはよみがえられました。(ローマ8:11。Ⅰペテロ3:18)。ここで、「霊において」とは、「み霊によって」の意味です。

 三位一体の神に関しては、聖書を調べるならば、まだまだ多くのところからその聖句を示すことができますが、今回はこれで終わりにします。どうか、聖書の中には一つの矛盾もありませんから、ご自身でさらにお調べなられて、イエス・キリストこそ真の救い主であることをお悟りになられますことをお勧めいたします。

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」

       

★三位一体の神について【1】  

2007-01-17 | 「神の存在について」



●「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)。

 聖書が語る神は、御父、御子(イエス・キリスト)、聖霊の三位一体の神です。「三位一体」という言葉は聖書には書かれていませんが、よく調べて見ると、これは明らかな真理であることが分かります。この真理は非常に重要であって、これを否定したり、無視したりして聖書を理解することは不可能です。また、ある異端はこれを否定しますが、この真理を否定すれば、キリストの十字架による救いも当然、理解できません。ヘブル語の名詞には、一個を表す「単数形」と二個を表す「二数形」と、多数を表す「複数形」とがあります。聖書の最初に「神」ということばが出て来る創世記1章1節では、複数形「エロヒム」が出て使われています。「神」ということばの二数形は「エロハイム」ですが、これは聖書では一度も出て来ないのです。

 「神」という単語の単数形はヘブル語で「エローア」ですが、最初にこのことばが出て来るのは、次の箇所です。「エシュルンは肥え太ったとき、足でけった。あなたはむさぼり食って、肥え太った。自分を造った神を捨て、自分の救いの岩を軽んじた。‥‥神でない悪霊どもに、彼らはいけにえをささげた。‥‥」(申命記32:15~17)。ここで、単数形の「エローア」ということばは、偶像の神々と区別するために用いられています。15節の「エシュルン」というのは、「正しい者」の意で、イスラエルの詩的な呼び名でなのです。「救いの岩」の「岩」は、力、確固、安全を表し、イスラエルの民の保護者なる神を象徴しています。

●「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 」(ローマ人への手紙1:20)。  

 神が創造された自然界をよく観察し、調べてみれば、確かに、その被造物(自然)の中に、当然、ご自身が三位一体の神であることを示す捺印を残しておられるのが分かります。すなわち、神はその自然の中に、ご自分の本質を表わす印(しるし)をつけておられるのです。確かに、自然界の一つ一つのものを見るときに、三位一体の神の印を帯びていることを知ることができます。つまり、自然界を見ることによって、それを造られた神様のご性質をある程度、理解することができます。すなわち、画家が自分の作品に自分の名前を書いて、「これは私の作品ですよ!」と示すように、神もその作品の一つ一つにご自分の印(しるし)をつけておられるのです。

 いくつかの例を上げてみたいと思います。どんな例えを用いても、この三位一体の神についての真理を完全に説明出来ませんが、神の被造物の中に「三つにして一つ」というものの例証は多く見ることができます。

【1】一人の人間は、一個の存在であるのに、「霊と魂と体」の三つからなっています。そして、三つですが、一つなのです。各自(からだ。霊。たましい。)は、全体を表現し、しかも全体は三つの中に表われています。
●「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」(Ⅰテサロニケ5:23)。

【2】宇宙は、「時間」と「空間」と「物質」から成り立っています。
●「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)。
この創世記1章1節の「初めに」は時間であり、「天」は空間であり、「地」は物質です。

【3】時間は、「過去」と「現在」と「未来」から成り立っています。時間も神の被造物ですが、私たちは、その時間の中で生かされています。そして、時間は、過去、現在、未来から成り立っているのです。

【4】空間は、「長さ」と「広さ」と「高さ(または深さ)」から成り立っています。

【5】また、物質は「エネルギー」と「運動」と「現象」から成り立っています。

【6】人間のたましいは、「感情」と「意志」と「知性(または理性)」から成り立っています。

【7】水は、(温度の変化によって)「液体」と「気体(蒸気)」と「固体(氷)」の三様の形を取ります。しかし、H2Oという水の性質に変わりはありません。

 これらは、ほんの数例に過ぎませんが、このように見て行くと、確かに、自然界には三位一体の神のご性質が表されており、その被造物に神の捺印が押されているということがお分かりいただけると思いますが、いかがでしょうか。もう一度、創世記一章に戻って考えてみましょう。
 
●「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。・・・・』と仰せられた。・・・・神はこのように人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:26、27)。

 創造主なる神は唯一であるのに、ここでなぜ、「われわれ」と複数形になっているのでしょうか。これは、御父、御子、聖霊の三位一体の神の本質を表していると言うことができると思います。 

●「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」(申命記6:4)。

 この箇所では、「神」は「エローヒム」という複数形になっています。単数は、「エローア」です。複数形でも、動詞は単数形を用いています。「神」は複数形の「エローヒム」ですが、その御方について「主はただひとりである。」となっています。これは、何か矛盾しているように見えますが、そうではなく、明らかに三位一体の神を表しているのです。旧約聖書には、「エローヒム」は、2.555回も出て来るそうです(私が数えて確かめたわけではありませんが・・・)。これは、三位一体の神をよく示しているということができると思います。最後に、新約聖書を少し開いてみましょう。

●「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国々の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。‥‥」(マタイの福音書28:19)。 

 ここには、主イエス・キリストがご自身を救い主と信じて救われた人々にバプテスマを授けるように弟子たちに命じられたことが書かれていますが、ここにも、三位一体の神が表されています。ここで、「御名」は英語の聖書を見ても分かるように、単数になっています。「父、子、聖霊」で三つですから、複数になっていいはずですが、単数になっているのです。これは、「三つであるけれども、一つの神」を表しているのです。この「三位一体」の真理を一度に全部を書くことはできませんので、今回はこれで終わります。どうか、あなたも聖書をよくお調べになられて、聖書が教える「三位一体の神」の真理を受け入れ、十字架であなたの身代わりに死なれた御子イエス・キリストを信じて、真の救いを経験されますように心からお祈りいたします。
 
◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」

 

★果たして偶然でしょうか?

2006-08-17 | 「神の存在について」
     

        

 アメリカ合衆国初代大統領であったGeorge Washington (ジョージ・ワシントン)(1732~1799)には、隠された多くの逸話があります。その一つに次のような話があります。それは、ジョージが5歳になった1737年の春のことでありました。ジョージのお父さんは、きれいに均(なら)した畑にキャベツの種を蒔きました。そして、彼のお父さんは、ある考えがあってのことですが、「GEOGE・WASHINGTON」という文字の形に種を蒔いたのです。そんなことは知らないジョージは、しばらく経ったある日その畑を通りました。そして、彼は、その畑に青々とした大きな文字が目についたのです。「おやっ!字が書いてある・・・・!ああっ!Gだ、次はEだ、Oだ、・・・・あれっ!GEOGE・WASHINGTON じゃないか。これは、一体、どうしたんだろう!」。
  
 口も利けないほど驚いたジョージは、大急ぎでお父さんのところへ走って行きました。「お父さん、お父さん、ちょっと、ちょっと!・・・・・。」「どうしたんだ、ジョージ。一体、何が起こったというのだ。」と、お父さんは聞きました。「お父さん、ちょっと畑に来てください。畑が大変なんです!」。ジョージはお父さんの手を引いて無理やりに畑へ連れて行きました。その黒い土のおもてには、美しい青い文字がくっきりと見えていました。ジョージは、不思議そうに言いました。「お父さん、これですよ!これが不思議ではありませんか?」と畑を指差して言いました。「どうして、キャベツの芽がぼくの名前に生えたの?。お父さんは、これまでにこんな不思議なことを見たことがありますか?」。
 
 ジョージのお父さんは答えました。「うぅーん。・・・・・なるほど!不思議と言えば不思議だが、しかし、別に不思議なことでもないんだよ!」。ジョージは驚いて聞きました。「えっ!どうして、これが不思議でないのですか?」。お父さんは、できるだけ平静を装って答えました。「ジョージ、お前はどう思うかね・・・。だれかがこのような文字になるようにキャベツの種を蒔いたと思うかね。それとも、ひとりでに、偶然にこのように生えたと思うかね・・・・?」。ジョージは、しばらく腕組みして考えてから答えました。「そりゃ~、だれかがこのようにしたのだと思います。おとうさん、だって、メチャクチャに種を蒔いたらメチャクチャに生えるに決まっているではありませんか!」。

 ジョージのお父さんは静かに答えたのでした。「そうだね、ジョージ。だれかがそうなるように種を蒔いたのだね。いや、おとうさんが、「GEOGE・WASHINGTON」という字が浮き出るように種を蒔いたのだよ。それと同じように、この宇宙も地球もいろいろな生物も、人間も、みんなひとりでに偶然に出来たのではなくて、天のお父様である神様(God)がお造りになられたのだよ・・・!」と、このようにわが子に神様のご存在について教えたと言われています。このようにして、小さい時から真の神様のことを知らされたワシントンは、大人になって、やがてアメリカの初代の大統領に選ばれても、神様のことを決して忘れることはなかったと言われています。小さい時に創造者である神様の存在について知ることは本当にすばらしいことです。その後の人生を大きく左右することは間違いありません。

 探検隊が太平洋の真中に今まで地図で見たことのない島を発見したとしましょう。上陸して歩き回っているうちに大きな都市があるのを発見します。しかし、そこには人は一人もいません。でも、立派な家もあり、団地もあります。舗装道路も自動車もあり、家の中を覗くと、水道、テレビ、冷蔵庫などの電気製品まで完備されてあります。しかし、いくら捜しても人が見つかりません。さあ、そのような街を見て、隊員たちは何と言うでしょうか?。「この都市はすべて偶然に出来たのだ!」というでしょうか。それとも、「この街の市民は一体、どこへ行ったのだろう!」と言うでしょうか。もちろん、後者に決まっています。隊員たちは決して、この街が偶然(自然)に出来たと考えることはありません。さて、この近代都市と私たちが住んでいる地球とどちらがすぐれているでしょうか。人間や生物の生命を保つためにすべての環境が整っているこの地球や、太陽系がひとりでに偶然に出来るはずがないと考えることは理性的な当然のことではないでしょうか。

 ある男の人が、クリスチャンに向かって、「神はいない!」と断言しました。それに対して、そのクリスチャンは皮肉たっぷりに、「私は今日、神を見ました。あなたが神です。なぜなら、神がいないことを知っているなら、あなたは実に神です。」と。人間は必ず、時間と空間との制限を受けているので、「神はいない。」などと言うことは決してできないはずであるというのです。無神論者が神のいないことを証明するためには、宇宙の果てまですべてのもの調べ尽くして、結論を出さなければならないのです。無神論者が、「神はいない。」と証明する根拠となる事実は何一つないのです。フランスの無神論者ヴォルテールは、大嵐になって、船は木の葉のように揺れ、雷が落ちたとき、「おぉ~、神よ。助けたまえ!」と言いました。彼の奥さんは、「あなた、今、何と言いましたか?」と尋ねると、「こんな時は何とでも言わなければなるまい。」と答えたとのこと。彼には、神がいないという確信がなかったのです。無神論者は、人生に明確な確信を持つことができないのです。

 それから、 これは大分若い頃何かの本で読んだ話で、うろ覚えなのですが、一人のクリスチャンの少女が重病で瀕死の状態にありました。もう口もきけないほど弱っており、耳もよく聴こえなくなっていました。ある日、その彼女の病床へ無神論者の友人(男性)が見舞いに来たのです。そして、彼は彼女は神を信じているのに神は何も助けてくれないではないかという意味を込めて、一枚の白い紙に、「God is nowhere!」(神はどこにもいない)と書いて彼女に見せました。そうしたら、その少女は黙ってその紙を受け取り、「nowhere」の”w”と”h”の間を少し離して、「God is now here!」(神は今、ここにいます!)と書き直しました。それを見たその友人は非常に驚き、何も返事をすることができませんでした。そして、彼女は間もなく、平安のうちに天のイエス様のみもとに召されたのでした。あなたも神の存在と共に、神が備えられたキリストの十字架による救いをお知りになられ、希望のある人生をお送り下さい。

●「家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。」(ヘブル人への手紙3:4)。

●「愚かな者は心の中で、『神はいない』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしいことを行っている。善を行う者はいない。」(詩篇14:1)。

●「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ人への手紙1:20)。

●「天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てられた方、これを形のないものに創造せず、人の住みかに、これを形造られた方、まことに、この主がこう仰せられる。『わたしが主である。ほかにはいない。』・・・」(イザヤ書45:18)。

●「主(神)は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって、天を張られた。」(エレミヤ書51:17)。

●「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」(詩篇8:3,4)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。
 

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★「地球は青かった‥!」

2006-07-11 | 「神の存在について」


 
 1961年4月12日、人類初の有人宇宙船が打ち上げられました。旧ソ連の「ボストーク1号」に乗って、ユーリ・ガガーリン飛行士は、人類ではじめて大気圏を飛び出したのです。300キロメートルの高さから地球をながめて「地球は青かった。……この世のものとは思われないほどの美しさだった。」という言葉を残しました。打上げから1時間49分後にガガーリンは地球にもどってきました。しかし、当時の旧ソ連の技術では着陸がむずかしかったので、ガガーリンは高度7000メートルで宇宙船を脱出し、パラシュートを使用しての帰還でした。しかし、今日、どうでしょうか。私たちが住む、この美しい惑星は、いま危機に瀕しています。緑の破壊や海洋汚染、 オゾン層の破壊、CO2による温度上昇などなど人類の果てしない欲望とエゴの前に地球はその美しい姿を失いつつあります。  
 
 ところで、あなたは夏の夜空を仰ぎなら「宇宙旅行ができたらすばらしいなあ~・・・」と考えたことがありませんか?でも、人工衛星には訓練された宇宙飛行士など限られた人しか乗ることができませんし、そのためには莫大なお金がかかります。また、宇宙は無重力ですから体がフワフワと浮き上がって、逆さになったりするので、コップの水を飲むのにも舞い上がってしまって、うまく飲めないので、チュウーブに入ったものか固まったものしか飲むことができません。また宇宙は真空で、空気の圧力がありませんから、一着が二億円もするような重くて窮屈な宇宙服を着なければ生きて行くことができません。だれでも一度は宇宙旅行にあこがれるとことがあると思いますが、実に不便で不自由な旅行であることは確かです。

 ところが、みなさん驚かないで下さい。実はあなたは今、既にもっとすばらしい、快適な宇宙旅行を実際にしているのです!! 「えっ!あなたは何を言っているのですか?」と、あなたは怪訝(けげん)な顔をされるかもしれませんね。この広大な宇宙を、あなたは「地球」というすばらしい宇宙船地球号に乗って、なんと毎秒30キロメートルという物凄いスピードで、太陽の周りを宇宙旅行しているのです。この地球号からは、夜になると、宇宙にあるたくさんの星をながめることができます。また、ちょうどよい強さの引力があるので、地上に立って歩くこともできますし、暑苦しい宇宙服など着なくても快適に過ごすことができます。地上の空気は音を伝えるので、自由に話をしたり、音楽や小鳥のさえずりの声などを聞くこともできます。

地球は太陽のまわりを回る惑星の1つであります。直径は約1万3000キロメートル、赤道のまわりは約4万キロメートルあります。地球はよく「水の惑星」と呼ばれ、太陽系の中でも地球にだけ液体の水が存在します。その水である海は地球の表面の7割を占め、このおかげで生物が住みやすい環境ができているのです。今までの調査でわかっているかぎりでは、太陽系9つの惑星と61以上の衛星のなかでも、生物が存在しているのは地球だけなのです。私たちは、このすばらしい環境が整えられた地球号で宇宙旅行しているのです。

 月の世界では、日中は110℃という焼けつくような暑さになり、夜になると氷点下120℃という凍る寒さになりますが、地球には空気がありますから昼と夜で温度の差が少ないので、生きて行くためには、ちょうど良い温度になっています。人間が科学の先端の技術を用いて作った人工衛星は、6,7人で満員になりますが、地球はなんと60数億人以上の人々の他に、多くの動物も乗せることができるばかりではなく、青い海や山脈、河川、また、人が生きるために必要なたくさんの食べ物、果樹や野菜、私たちの目を楽しませてくれる季節が変わるごとに咲き誇る美しい花々など、すばらしいものが満ちあふれています。

 人工衛星が偶然に出来ることはないように、その人工衛星よりもはるかにすばらしくできている地球が、偶然にひとりでに出来るわけがありません。実は、地球は創造者なる神がお造りになられたすばらしい「神工衛星」と言ってもいいかもしれません。この神が創造された「宇宙船地球号」に乗って、私たちは毎日快適な生活をしているのですが、そのことに気づかないで生きている方が大部分ではないでしょうか。そして、この地球には、すばらしい環境と美しい自然界が満ちているではありませんか。この地球は決して偶然の産物でないことは、真面目に考えれば誰にでも分かることです。次の聖書のことばにあるように、この地球は神が人の住む場所として環境を整えて与えられたのです。
 
●「天は、主(神)の天である。しかし、地(球)は、人の子らに与えられた。」(詩篇115:16)。 

●「天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てられた方、これを形のないものに創造せず、人の住みかに、これを形造られた方、まことに、この主がこう仰せられる。『わたしが主である。ほかにはいない。』‥‥」(イザヤ書45:18)。

●「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」(詩篇19:1)。

●「あなた(神)の指のわざである天を見、あなたの整えられた月や星を見ますのに、人とは何者なのでしょう。‥‥」(詩篇8:3,4)

●「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ロ-マ人への手紙1:20)。

●「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。‥‥‥神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」(使徒の働き17:24,25)。


 また、ロボットがひとりでに進化して出来ることがないように、そのロボットよりも100兆倍以上も精密に出来ている私たち人間の体や心が、ひとりでに進化して出来るわけがないのです。あなたも私も母親のお腹の中で、わずか10ケ月の間に、微小な受精した卵子から体のすべての器官が出来上がり、生まれて成長して来たのです。偶然に進化して出来上がったのではありません。人間の祖先は、決してアメーバーやトカゲやワニや猿のようなものではないのです。神はすべての動物や生物を種類によって造られ、人間は最初から、神が愛し給う「人間」として造られたのであって、偶然の産物ではないのです。
  
●「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)。

 聖書が示す天地万物を創造された神は、私たち人間をも創造され、体と命と霊をお与えになられ、日々太陽の熱や光、そして地から生産される食物を与えて生かしてくださっておられる愛に満ちたお方です。しかし、最初に神が造られた人間の始祖アダムとエバが罪を犯して神に反逆してから、その子孫は今日に至るまで、みな神に背を向けて自分勝手な自己中心の罪の生活を送っているのです。そして、今日の世界を見ると、確かに科学が進歩し、文明が発達し、世の中は便利になりましたが、人間は神を忘れ、「自分さえ良ければそれでいいのだ‥!」と、地球の陸も海も空も益々汚染し続けているのです。地球の温暖化により、世界中の気象に異変と異常が起こり、それがファクターとなっている災害も増加していることは事実です。

 愛の神様は、親が自分の子供たちが仲良くすることを望むように、人類が互いに愛し合うことを望んでおられますが、罪に満ちているこの地球上の人類は、互いに憎しみ合い、テロや殺戮(さつりく)をくり返しており、国家間の戦争の危機が常に存在します。今日、世界には地球を50回以上も焼いて破滅させるだけの核があると言われています。しかし、みなさん、希望を持ってください。聖書は人間に希望を与えるために書かれたものです。それは、今から約2,000年前に、神の御子イエス・キリストが地上に来られ、私たちに救いの道を開いてくださったのであります。キリストは、人間の罪のために、身代わりに十字架に架かられ、三日目によみがえられたお方なのです。どうか、あなたも救い主イエス・キリストを信じ受け入れ、救われて天国に入る方となって下さい。
 
●「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。」(ガラテヤ人への手紙1:4)。

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★人間の知識の限界

2005-10-06 | 「神の存在について」



●「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。 」(Ⅰコリント8:2)。
 
  人間は、ある一つの知識を持つと、知らず知らずのうちに自分は何か他人よりすぐれているような錯覚に陥ってしてしまう存在ではないでしょうか。私たちは、しばしば「この目で見なければ、信じられない。」ということばを聞くことがあります。しかし、一人の人間がどんなに世界中を廻って、いろいろなものを見たり聞いたり勉強したりして見聞を広めても、そこには必ず限界というものがあります。人間の目は確かにすばらしく出来ていますが、すべてのものを見ることができるわけではありません。人間の持っているすべての器官には限界があり、能力にも限界があります。目と同様に耳もそうであります。私たちの耳はどんな音でも聞くことができるわけではありません。ある限られた周波数の音しか聞くことができないのです。
 
 たとえば、昆虫のトンボや海中を泳ぐ魚の目は、かなり広角に見えるらしいですが、人間の目で見える範囲は、360度に対して120度くらいだと聞きました。そういう意味においては、人間の目はトンボより劣っていると言えるかもしれませんね。また、あまりにも速度(動き)が早すぎるものや、遅すぎるものも(その動きが)見えませんし、あまりにも大き過ぎるものや小さ過ぎるものも見えません。それでも、人間は「私はこの目で見るものしか信じない。」という人がいます。そして、いろいろなものを見たり聞いたり学んだりしながら成長し、ある年齢に達すると、その限られた知識の中で自分の思想や人生観や哲学を持つようになるのです。

 そして、ある一つの知識を持つとそれだけが正しいと思い込み、その虜(とりこ)になってしまうのであります。ここに、人生の落とし穴があるのではないでしょうか。その人は他の人の話に耳を傾けなくなるのであります。この世の中には多種多様な考え方がありますが、絶対を振りかざす権利はどこにもありません。若い頃、人生の先輩に「客観的にものを見なさい。」と、よく言われたことが何度かありますが、たとえ、客観的にものを見たとしても、あるいは見る角度を少し変えたとしても、それが人間の目で見るのであれば、やはりそこには限界があり、これが唯一正しいものであるとは言い切れないのであります。たとえ、視点を変えても、人の目から見たものでありますから大差ないのです。

 しかし、絶対的な権威を持って人生のすべてに解答を与える唯一の書物があります。すなわち、それは「聖書」(BIBLE)であります。「聖書」は人間的な目ではなく、全知全能なる神(創造者)の視点から、記されている永遠の真理の書であります。ですから、100%間違いのない書物であります。パウロが聖霊に導かれて書いた冒頭の「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。 」という聖句は、人はどんなに知識を蓄えても、私たちは、神の前に謙虚になる必要があることを教えているのではないでしょうか。ですから、自分が見聞して得た僅かばかりのスプーン一杯ほどの知識で「神の存在」を否定してしまうのは、実に愚かなことであると言わざるを得ません。次の聖書のみことばは厳粛であり、事実そのとおりなのです。
 
●「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行なっている。善を行なう者はいない。 」(詩篇14:1)。

 何度も繰り返しますが、私たちが得た僅かばかりの知識で「神はいないのだ」と結論を出してしまうことはあまりにも早計であり、決して賢明であるとは言えないのであります。大分以前のことですが、某新聞の投書欄に次のような主旨の記事が書かれてありました。「私は無神論者だ。私は神を信じない。この宇宙の存在も神によるものではない。これは、偶然に出来たもので、またやがて存在するすべてのものは消えて行くであろう。人間はある瞬間は存在し、また、次の瞬間には消えて行く蜻蛉(かげろう)のようなものだ。」と。そして、彼は最後に「しかし、この思想は淋しい。」と、この文章を結んでいるのであります。もし、みなさんの中に彼と同じ考え方や人生観を持っておられる方がおられるとしたら、それはあまりにも淋しい思想ではないでしょうか。

 宇宙の存在を考える時、現代の進化論には、多くの矛盾があることが分かります。「ゼロ」から宇宙は存在しません。したがって、現代の進化論者は、初めを「ゼロ」としないのです。エネルギーか、微粒子か何かが宇宙に存在したところから始めざるを得ないのであります。とすると、その最初のものは、どうして存在したかを説明しなければならないのですが、それを説明し得ない矛盾があります。現在、地球の周囲には、2万個近い人工衛星が遊泳していると言われています(正確な数字は分かりません)。そして、人間は宇宙や地球について多くの知識を持つようになりました。また、コンピューターの技術も驚くべきものがあります。現在の卓上で使うパソコンの機能は、以前であれば四階建てのビル一杯になるだけの機械がなければ計算できなかったものだと言われています。

 しかし、現代の多くの人は、科学によって人間を無限に幸せにするかのように考えている人はほとんどいないと思います。科学は決して人間の罪や死などの根本的な問題を解決することはできないのです。科学の進歩は決して人間を救うことはできないのであります。人間の脳は、140億に上る細胞から出来ています。その一つ一つが記憶装置の役割を果たしていて、人間が作り出したどんなコンピューターも及ばないのであります。人間の脳の記憶量は、「100万の記憶素子を持つコンピューターの一億台分ほどもある」と聞いて驚いていしまいます。そして、現に活動している人間の脳の構造と機能は、まだその2%ぐらいしか分かっていないのです。人間は自分の脳のことすら、これくらいのことしか知らないのです。

 ですから、人間は自分自身のことですら、まだほんの少ししか知らないのです。その僅かな知識で神の存在を否定することは決して賢いこととは思われません。ですから、かつての謙虚な科学者の多くは神の存在を認める敬虔な人たちであったのです。彼らは、謙虚に真理を探究したのであります。たとえば、ガリレオや、地動説を体系づけたコペルニクス、惑星の運動を研究したケプラー、そして著名な物理学者ニュートンなど、みな創造者(神)の存在を認めた敬虔な人たちであったのです。彼らは、自然界の背後にあってそれらのすべてを貫いている神の美しい秩序と法則があることを認め、また、それらを読み取ることこそ神に仕える道であることを確信していたのであります。創造者の存在を知ることは、人間が最初に知らなければならない知識であり、人が生きるための知恵なのです。

●「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟り(知識)にたよるな。 」(箴言3:5)。

●「主を知ることは知識の初めである。」(箴言1:7)。

●「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14:12)。

●「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Ⅰコリント人への手紙1:18)

 
 どうか、あなたも人間の知識にも、経験にも、能力にも限界のあることをお認めになられて、謙虚に神の存在を神じるところから始めなければ、人生の根本的な問題も悩みも何一つ解決し得ないことをお知りになられますように。人間の知恵によっては、愚かに見える「キリストの十字架の福音」のことばにこそ、人間の真の救いがあることを、どうかお知りになってください。

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★一体だれが造ったのですか?

2005-06-11 | 「神の存在について」

     

  万有引力の法則を説明したニュートンはある時太陽系の立派な模型を造ってもらいました。太陽を中心にして六つの惑星の速度の割合は実物と同じような比率で加減され、お互いの惑星間の距離も実物と同じ比率で造られていました。ただHandleを廻すことだけで、ちょうど実際の太陽系のように動きました。ある日、無神論者である友人A氏が部屋に入って来ました。彼は、驚きの目をもって模型の方へ行ってハンドルを廻しました。非常に感嘆した彼は言いました。「おぉ~、これはすばらしい!!一体だれがこれを造ったんですか?」とA氏は質問しました。それに対して、ニュートンはある意図があって「だれが造ったのでもありませんよ。その材料は自然に集まって来て、この模型が出来たのですよ。」と答えました。

 「君、私をからかわないでくれないか。私は馬鹿ではありませんよ。もちろん、だれかがそれを造ったはずです。造った人は天才です。是非、造った人を教えてください。」と、友人のA氏は言いました。それから、ニュートンは彼の肩に手を置いて、「これはあなたのよく知っている広大な『太陽系』のつまらない模型に過ぎません。このおもちゃのような物には、設計者も造り主もいないとは信じられないでしょう。しかし、この模型よりはるかにすばらしい太陽系が自然に出来たとあなたはいつも言っています。どうしてそんな非常識なことを考えるのですか。」と天地万物の創造主を信じていたニュートンは尋ねました。その話を聞いて、その時まで無神論者であった彼は、すぐ今までの考えを捨てて聖書に書かれている「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)ということばを堅く信じるようになったというエピソードが残っています。

 みなさんも、今までの先入観を捨てて宇宙の神秘的な事実を真正面から正直な心で考えましょう。地球のことを研究すると不思議な事ばかりです。まず、太陽からの距離はちょうど適当な距離になっています。今の二倍なら、水はすべて凍ってしまうし、その半分の距離なら、あまりにも暑くて動物も人間も生存不可能です。また、地球の自転の速度を10分の1に減らした場合、昼と夜の長さは10倍になり、やはり生きることができません。地球の表面積の陸と海の割合を逆にしたなら、雨はほとんど降らず、地は砂漠になってしまうのです。地球に23度の角度の傾きがなければ、春、夏、秋、冬の四季もなくなってしまい、赤道に近い所だけに野菜や果物が出来るのです。地球と月との間の距離を4分の1にすると、非常に激しい海の潮によって陸はなくなってしまいます。

 このように書くならきりがありませんが、私たち人間は広大な宇宙、地球のすばらしい景色、美しい花、五感を持っている不思議な人体などを見て、これらのものがすべて進化論者が言うように「偶然の産物」であると考えることができるでしょうか。これは、まことに非理性的、非科学的な考えです。適当な例えではないかもしれませんが、印刷所が何かの原因で爆発して、それによって、偶然にすばらしい百科事典が百冊もできるなどということがあるでしょうか。また、ピアノの鍵盤の上を猫が行ったり来たり往復しているうちに、すばらしい名曲が生まれるというようなことがあるでしょうか。しかし、この広大な宇宙や霊魂があり思考力を持った人間が偶然に出来るということを信じることはそれよりもはるかに困難なことです。創造者の存在の事実を認めるということは、人生のすべての問題に優先して真剣に考えるべきことです。

 人々は人間に命を与え、人間を生かしておられる神に背を向け神に反逆しているために現在の世の中は何もかも狂ってしまったと言えるのではないでしょうか。国家間の争い、人命を軽視する風潮、凶悪犯罪の急増、地球環境の悪化、目を覆うばかりの不道徳、人間は神中心に生きるべきであったのに、人間の自分勝手な自己中心の罪の結果、今のような堕落退廃した汚れた世の中になってしまったのです。みなさんも今までの人生を振り返ってみて下さい。なすべき正しいことを知りながら、何度もそれをしなかったことがありませんか。また、してはいけないとよく知りながら、それをしてしまったことはないでしょうか。聖書によると、そのことは罪なのです。人間には良心がありますから、当然それを知ることができるはずです。

 しかし、神様はこのような罪深い人間に救いの道を開いてくださいました。自分の努力によって自分を救うことはできませんが、約2,000年前、神はご自分のひとり子であるイエス・キリストを救い主としてこの世に遣わしてくださいました。キリストが十字架の上で死なれたのは、私たちが受けるべき刑罰の身代わりだったのです。それによって神はご自分の大いなる愛を人間に示してくださったのです。キリストは十字架で死なれましたが、預言通り、死後三日目の墓よりよみがえられました。神の前に、自分の罪を認め悔い改めて、キリストを個人的な救い主として信じ受け入れるならば、だれでも例外なく救いを受けることができるのです。

●「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)。

●「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」(ローマ人への手紙1:20)。


●「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。」(ガラテヤ人への手紙1:4)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。



 

★偶像の空しさと真の神様

2005-06-01 | 「神の存在について」
   
八百万(やおよろず)の神と言いますが、日本では神様と言えば、随分いろいろなものを神様として拝んでいます。ある所に、毎朝必ず東の方角を向いて太陽に手を合わせて拝んでいるお爺さんがいました。ある晩、そのお爺さんが、提灯(ちょうちん)を手にして、一人の知人(実は、この知人は真の神様を信じていたのですが‥)の道案内をしました。しばらく歩いて、ようやく目的地に着いたときに、その知人はお爺さんには一言のお礼も述べず、いきなり、わざと提灯にひざまづいて「提灯さん、ありがとうございました。お陰で、この暗い夜道を無事に来ることが出来て本当に助かりました。」と、お礼を言いました。それを見て、人のよいお爺さんも、自分が馬鹿にされているような気持ちになり、ひどく立腹して、その知人に文句を言ったのだそうです。

 すると、その人はそのお爺さんに言いました。「お爺さん、あなたも実は同じようなことをしているのですよ。あなたは、毎朝太陽を拝んでいますが、太陽は言わば、神様が世界を明るくするために宇宙にぶら下げてくださった提灯(ちょうちん)のようなものなんですよ。太陽が神様ではないのです。だから、私たちは、太陽をお与えくださった造り主であられる神様にだけ感謝とお礼をささげなければならないのですよ。」・・・・・・・

 このお話でもお分かりと思いますが、太陽はすばらしくできていて人間に必要な熱や光を与え、また、植物の成長にもどうしても必要なものであり、私たちは大変な恩恵を受けているわけですが、太陽は神ではありません。ですから、太陽は拝んだりする対象ではないのですね。また、動物や、人間にかたどって作られた木や石や金銀、また、紙や板に書かれたり刻まれた文字を拝んだりすることは愚かなことです。また、生きた人間を神として拝むことも愚かなことですが、人間の手で作られた偶像や宮を拝むことも愚かなことです。真の神様は、人間の手で造られたものではなく、天地宇宙だけでなく、人間をも造られた偉大な御方であり、日々恵みの中に生かしてくださっておられるのです。

 今から約二千年ほど昔、偶像がいっぱいに満ちていたギリシャの首都アテネで、使徒パウロは心に憤りを感じて偶像の空しさと真の神について次のように語って、悔い改めて神に立ち返るように人々に迫ったのであります。

●「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。 また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。‥‥‥そのように私たちは‥‥神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。 神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」(使徒の働き17:24~29)。  

 預言者イザヤは、神の聖霊に導かれて、次のように偶像を造ることの愚かさについて語っています。これを説明すれば、低学年の小学生でも理解できます。それなのに、大学を出た大人でも、この単純な真理が分からない人が多いのです。サタンによって霊的な目が曇って見えなくなっているのですね。高等教育を受けて創造者である神の存在を否定する者が、人間の手で作った偶像に手を合わせて、「どうぞ、守ってください。救ってください。」と祈ったりすることに何の矛盾も感じないことは、本当に不思議なことと言わざるを得ません。
 
●「わたし(唯一の神)のほかに神があろうか。‥‥偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。 だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。‥‥鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。 木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。 彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。‥‥‥ それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。 その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。 その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う 。」(イザヤ書44:8~17)。

●「わたし(真の神)をだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。袋から金を惜しげなく出し、銀をてんびんで量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これにひざまずいて、すぐ拝む。 彼らはこれを肩にかついで運び、下に置いて立たせる。これはその場からもう動けない。これに叫んでも答えず、悩みから救ってもくれない。」(イザヤ書46:5~7)。 

●「私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。 彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。 口があっても語れず、目があっても見えない。 耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。 手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。 」(詩篇115:3~8)。

●「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人(となられた方)としてのキリスト・イエスです。 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。 」(テモテへの第一の手紙2:4~6)。
 

              
 

★体の不思議(器官:舌)

2005-05-23 | 「神の存在について」



  人間の体の器官の一つ一つについて、考えてみますと、誠に不思議と言わざるを得ません。例えば、今日は、「舌」について考えてみましょう。舌の役目は私たちの「門番」であり、「スポークスマン」でもあります。門番というのは、この小さな器官の取調べを受けずにはひとかけの食物も、一滴の液体も体の中に入り込めないからです。舌は口を通るすべてのものの味をみます。舌の表面にある約3,000の味蕾が、まだ誰も発見することの出来ない秘密の方法で、食物や飲物を味わうのです。このジュースは甘い、この漬物は少し塩が効き過ぎている、この薬はいつ飲んでも苦い、この夏みかんは酸っぱい、というように瞬時に判断するのです。「味覚は舌だけではありません」とある研究者は言っています。俗にのどちんこ、軟口蓋といわれる部分にも、舌の表面にあるのと同じ味の感覚器「味蕾」があり、甘味等を感じるのだそうです。
 
 そして、もしも少しでも変なものだと思うと、体の中にそれを入れないようにします。誰でも嫌なものを食べて、吐き気をもよおした経験があると思います。舌の「門番」が怪しいものを発見し、すぐにそいつを追い出せと連絡します。その結果、吐き気が起こり、体に害を与えるものを吐き出してしまうのです。しかし、「門番」というのは、ただ、通行人を調べるだけではありません。門の近くの交番を整理してスムーズに通行できるようにするのです。同じように舌は交通整理もします。今試しに舌を動かさずに物を食べてみてください。第一によくものを噛めないということに気づきます。食物を次から次へと歯の間に送り込んで、万遍なく噛み砕かせるのが舌の役目です。

 また、舌を動かさないと、物を飲み込むこともほとんどできません。舌の働きは実に巧妙で、歯で噛んだものをうまく移動させ咽頭へ送り、飲み込ませる役割があります。正月の新聞には、どこかのお年寄りが餅を喉につまらせて亡くなったという記事が毎年のようい載っています。これもお年寄りが飲み込みが悪いためです。特に入れ歯のお年寄りが多いそうです。舌がなければ、食べ物の味が分からなくなって、食事が味気なくなってしまうだろうと考えるでしょうが、実際には、食べ物を飲み込めない、すなわち食べられなくなってしまうのです。また、食べ物の中に少しでも異物が混じっていると、例えば、ご飯の中に砂一粒が入っていても、舌の先の微妙な動きで、口から出すことも可能です。

 さて、その次に「スポークスマン」というのは、言うまでもなく舌が話すためにどうしても必要なものだからです。舌くらい自由に動かすことの出来る器官は他にありません。私は英語の発音で、今でも「L」と「R」の区別が明確に出来ませんし、「S」と「th」の発音もうまく区別できません。しかし、それでも、舌は十分に称賛するに価する働きをしていることは疑う余地がありません。ヘレン・ケラーがサリバン女史の口の中に指をつっこんで、ある音を出す時に先生の舌がどんな位置でどんな形になっているかを確かめながら、発音を学んでいったありさまを読む時、大きな感動すら覚えますが、私たちの舌が無意識に必要な位置で必要な形をとるということを心から感謝せずにいることはできません。

 このように、体の器官の中のたった一つを考えてみても、実に不思議であり、私はこれを造られた創造者(神様)がいらっしゃることを少しも疑うことができません。進化論者は、目、耳、鼻、手、足、指、内臓の各器官、血液、神経などの一つ一つについて、また、この地球上のすべての生き物、広大な宇宙についても、すべて「偶然の産物」であると断言できるのでしょうか?進化論者の説明はあまりにも矛盾が多く、科学的というよりも非科学的と言わざるを得ません。知性的な動きをするものの背後には、それを設計し創造された知性を持たれたお方(神)を認めることは当然であり、これは理性的なことであります。

 今回は「舌」について書きましたので、それに関する聖書のことばをいくつか記したいと思います。聖書には、次のような警告があります。

●「あなたのに悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。 悪を離れ、善を行なえ。平和を求め、それを追い求めよ。 」(詩篇34:13,14)。

●「私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私がで罪を犯さないために。私の口に口輪をはめておこう。 」(詩篇39:1)。

●「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはそので欺く。・・・彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、・・・彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。 」
       (ローマ人への手紙3:13,14)。

●「同様に、も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。 は火であり、不義の世界です。は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。 どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。 しかし、を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。 」(ヤコブの手紙3:5~8)。

●「私たちは、をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じをもって、神にかたどって造られた人をのろいます。」(ヤコブの手紙3:9)。

●「穏やかなはいのちの木。偽りのはたましいの破滅。」(箴言15:4)
 

 人間の舌は、ひとつは神様を賛美するために造られたのですが、これを私たちは正しく用いているでしょうか?「二枚舌」ということばがありますが、舌は一枚で十分で二枚もあれば、邪魔で仕方がありませんね(笑)。平気で嘘を言う変節の多い政治家のように舌を二枚も持っていないので、お互いに大切にしたいものであります。自分の舌を、いつわりや、ねたみや、陰口や、そしりなどのために使うことのないようにしたいものです。しかし、舌を正しく用いることは、神の救いと恵みがなければ、だれにも出来ないことであります。ところで、私たちのために十字架で死んでくださったイエス・キリストの舌はどのようなものであったのでしょうか。

●「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(ペテロ第一の手紙2:22,23)。



★神の実在と無神論の空しさ

2005-04-09 | 「神の存在について」
    
   

    「神」という字は、「示」偏に「申」と書きます。聖書が語る神は、その字のとおり、ご自身が人々に知られることを望んでおられるのであり、ご自身を啓示される御方であります。しかし、聖書によれば、サタン(悪魔)が神の実在を否定しようと躍起になって奮闘しているのであります。あのエデンの園において、サタンがこの世に罪をもたらしてから、人間の霊的な目が覆われ、霊なる神を見ることができなくなってしまったのです。人間の犯した罪の故に、神との交わりが断ち切られてしまったのです。ですから、人間は生来のままでは、みな霊的な盲人なのであります(私も、かつてはそうでしたが‥‥)。

 それで、人々は「私の目には神など見えないから、神なんか存在しないのだ。」というような理屈を言うのです。今日では、無神論をとなえれば、いっぱしの学者にでもなったように考えている人が多くいるのはではないでしょうか。それは例えて言えば、盲人が家の前に立って、「家が見えないから家はないのだ。」と言うのと、同じことではないでしょうか。また、耳の聞こえない人がすばらしいオーケストラを聞いていながら、「自分には、聞こえないから、音楽はないのだ。」と言うのと同じであります。また、どなたかが壊れたカメラで景色を写した場合、何も写らないからといって、その人は「ああ、景色がなくなってしまった。」と言うでしょうか。

 時計が故障して、時計の針が進まなくなった場合、あなたは、「時間がなくなった」と言うでしょうか。決して、そのように言う人はいないと思います。しかし、「神が見えない」と言いながら、自分自身に欠陥がないかどうかを人は確かめようともしないのです。神があなたに見えなくとも、神が存在しなくなったわけではありません。 あなたは太陽に背を向けて暗い穴の中に首を突っ込んで、「光が見えないから太陽はないのだ。」と言うでしょうか。決してそのようには言わないと思います。全世界のすべての人が無神論者となったとしても、神が存在しなくなるわけでもありません。神(創造者)は永遠から永遠まで存在される方であり、宗教とも関係のない方です。宗教は人間の作り出したものですが、神は人間がこの地球上に存在するようになる以前、すなわち、永遠の昔から存在される方であります。これは、実に宗教の領域ではなく、真理の問題です。

 聖書では、人間はアダムより受け継いだ悪い性質のために罪の奴隷になってい ると言っています。また、罪の報いは死(永遠の死、つまり神から永遠に引き離されること)であるとも言っています。 人間は、神から自由になりたくて、必死になってその理屈を考えるのです が、結局はそれがそれが不可能であることを悟るのです。しかし、どんな罪人であってもその生涯の最後の瞬間にでもイエス・キリストを信じて、救いを体験した多くの人がいます。私の知人にも80歳過ぎてから創造者を認め、救われて喜んで天国に行った人もいます。あなたも、謙虚な心で神の存在を認め、あなたの罪のために死なれたイエス・キリストを信じられるなら、神様の豊かな恵みとあわれみを受けることが出来るのです。

●「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)。

●「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。‥‥それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。 」(ローマ人への手紙1:20~25)。

●「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。 昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。 話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。」(詩篇19:1~4)。

●「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行なっている。善を行なう者はいない。 」(詩篇14:1)。

●「神は、すべての人に、いのちと息と万物をお与えになった方だからです。‥‥確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」(使徒の働き17:25~28)。

●「主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」
 
 
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★神が見ています!!

2005-03-10 | 「神の存在について」




 大変興味深い話を聞いたことがあります。かつて、ある所に、善悪を弁えない一人の不心得な男がいました。ある日、小学生であった自分の子供を連れて、他人の畑にこっそりと入って行きました。そして、その男は「これから俺は野菜を盗むから、お前はここに立って番をしていろ!そして誰か見ている者があったらすぐ知らせるのだ!分かったな!」と、自分の子供に厳しく命じました。  

 ところが、この少年は日頃、神の存在とキリストについて教える集会の日曜学校に行っていて、真の神様について聞いていましたので、お父さんの言いつけがとても悲しくもあり、また、恐ろしくてたまらなかったのです。それでも、父親の言いつけなので、しばらく我慢して、その場に立っていましたが、とうとう我慢できなくなって、大声を張り上げて次のように言いました。「お父さ~ん、見ている人がいます!」その男は驚きあわてて、「なんだと、本当か、だれが見ているんだ!」と聞き返しました。すると、その少年は、大声で「神様が見ておられます!!」と答えたのです。お父さんは自分の子供に何も答えることが出来なかったそうです。 

 この少年は、本当に賢い少年だと思います。「誰か見ている者があったらすぐ知らせるのだ。」と、お父さんに命じられたので、忠実にお父さんの言われるとおりに命令を実践したのです。そして、「神様が見ておられます!」と、大声で叫んだのです。それにしても、この少年は本当に賢い少年でした。子供の時から聖書の話を聞き、神様の存在を教えられると、人は確かに賢くなります。「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」(詩篇119:130)とある通りですね。新約聖書に登場するテモテという人物も幼少の頃から母親に神様のお話を聞き、聖書に親しんでいたので、とても知恵のある人でした。

 神は全知全能のお方であり、また、どこにでもおられる偏在のお方であります。神に見えないものは一つもありません。これは、人間の理解力を超えている事実であります。旧約聖書に登場するあの有名なモーセという人物(ユダヤ人)は、神の摂理の中にあって、エジプトの王宮で育てられたのですが、彼が40歳になった時、自分の同胞であるひとりのヘブル人がエジプト人に打たれているのを見て、血が騒ぎ、「あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、」(出エジプト1:12)彼は、そのエジプト人を打ち殺し、その死体を砂の中に埋めてしまいました。しかし、あたりを見回し、人がいないのを確認したはずなのにその罪を隠すことはできませんでした。そうです。神がすべてを見ておられたのです。

 また、旧約聖書に出て来る当時のイスラエルの王ダビデは、王国も安泰で、気が緩んでいたのでしょう、ある日の夕暮れ時、ダビデは昼寝の床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの非常に美しい女を見て、使いの者をやり、その女を召し入れて、姦淫の罪を犯してしまいました。そして、ダビデはその女がみごもったことが分かると、今度は、その悪行がばれないように画策して、その女の夫を戦場の最前線に出させて死ぬように仕組み、その忠実な部下の兵士ウリヤを殺してしまったのです。彼の妻は、夫ウリヤが戦死したことを聞いて、非常に悲しんだのは、当然です。ダビデは完全犯罪を企てましたが、後に、神は預言者ナタンの口を通して「あなたがその男です!」と直言させ、彼の二つの罪はすべて暴かれ、白日のもとに晒されたのであります。

●「主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。 」(箴言15:3)。

●「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。 」(ヘブル人への手紙4:13)。

●「主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。 御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。 主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。 」(詩篇33:13~15)。

●「わたしは近くにいれば、神なのか。遠くにいれば、神ではないのか。 人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。天にも地にも、わたしは満ちているではないか。」(エレミヤ23:23,24)。

●「たとい、私が『おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ。』と言っても、あなた(神)にとっては、やみも暗くなく、夜は昼のようです。暗やみも光と同じことです。」(詩篇139:12)。

●「神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。 」(伝道者の書12:14)。
 

 あなたは、いかがでしょうか?今までの人生を振り返ってみて、すべてをご存じの神の前に良心が責められるようなことがありませんでしょうか。どうか、あなたも自らの人生を顧みて、神の前にご自分の罪を悔い改め、神が備えられたイエス・キリストの十字架による救いの道を拒むことのありませんように。十字架に架かられ、三日目によみがえられた キリストを信じる者は、すべての罪が赦され、神のさばきから救われるのです。これが、キリストの福音です。
 
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★神に対する恐れを知らぬ人間

2005-02-15 | 「神の存在について」

                       

●「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」
(詩篇19:1)。
 
 
  第二次世界大戦前、日本が「大日本帝国」と自ら呼んでいた頃の話でありますが、ある時、ドイツで列国の代表が集まって会議が開かれました。当時のドイツの外務大臣、リッペントロップがまず挨拶に立ち、しばらくの演説のあと、「我がドイツは、神以外の何ものも恐れないのであります!!」という言葉を締めくくりにして、彼はその名演説を終えました。聴衆は、盛んな拍手でそれに応えたのは当然でありました。

 ところが、続いて日本の代表の演説の順番が来たのですが、当時の松岡外務大臣は、開口一番、次のように語ったと言われています。「我が日本は、その神(まことの創造者:全能の神)をも恐れないのであります!!」その途端、会場には軽蔑の意味合いを込めた冷ややかな失笑が漏れたという話が残っていますが、世界に恥を晒した有名な話として伝えられています。これは、日本人の一人としてまことに恥ずかしい限りです。日本には、昔から八百万(やおよろず)の神々、偶像の神が満ちていますが、日本人は全知全能の真の神を知らない民族なのです。真の神を恐れない現代の風潮を考えると、とても悲しい気持ちになります。

 聖書はその冒頭から、天地万物を創造された唯一の真の神の存在について明確に啓示しており、この神を信じない者は「愚か者」であると断言しています。ところで、あなたはどうでしょうか。偶像の神を信じておりますか。それとも、真の神の存在をお認めになられますか。あるいは、無神論者か進化論者でしょうか。いずれにしても、創造者を認めないことは、あなたが今、見ているそのパソコンをデザイン設計し、製作した者を認めないこと以上に愚かなことなのです。

●「初めに、神は天と地を創造した。」(創世記1:1)。

●「主(神)を恐れることは知識の初めである。愚かな者は知恵と訓戒(神のことば)をさげすむ。」(箴言1:7)。

●「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。 主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。 彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。 」(詩篇14:1~3)。
 

 また、新約聖書の中でも使徒パウロは真の神の存在は明らかであり、弁解の余地がないと大胆に断言しているのであります。人間に与えられた理性をもって、この広大な宇宙と地球上の秩序や美しい花や生物、そして、神秘的な人間の体の組織や細胞などを見るなら、創造者の存在をどうして疑うことができるでしょうか。その神に対する恐れの欠如が今日の罪と混乱に満ちた世界を作り出してしまったのです。「彼らの目には、神に対する恐れがない。」(ローマ3:18)とあるとおりです。

●「‥‥不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいまた。‥‥それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。 」(ローマ人への手紙1:18~25)。
 

 今から、約二千年前、使徒パウロは、当時のギリシャの首都アテネの街が偶像で満ちているのを見て、心に強い憤りを感じて次のように叫んだのであります。パウロが今日生きていたとしたら、日本中が偶像に満ちている姿を見てやはり同じように叫んだに違いありません。私たちは、人間の手で作られた偶像ではなく、万物の創造者である唯一の真の神に立ち帰るべきであるのです。  

●「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。‥‥‥ 確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。‥‥神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。 神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。 」(使徒の働き17:24~30)。  
 


    

★最初のボタンのかけ違い

2004-12-31 | 「神の存在について」

 あっという間に、一年が過ぎ去り、今日はもう大晦日です。
それにしても、「この世の中何か、益々おかしくなって来たのでは‥‥」と考えておられる方は決して少なくないように思われます。今年は、夏の異常な猛暑(酷暑)、台風や地震の災害だけでなく、人間の心も冷え切っており、異常とも思える凶悪な犯罪は多発し、しかも、犯罪は低年齢化、益々、道徳的にも退廃と悪化の一途を辿っているように思われてなりません。

創造者であるまことの神を無視するという「最初のボタンのかけ違い」というミスを犯してしまった人類(始祖はアダム)は、矛盾、悪と不正、退廃と不道徳に対して無感覚になってしまい、悪に対して鈍感になり、麻痺してしまっている状態となっているのです。どこまでも、かけ間違ったボタンを次々とかけ続けながら、その間違いに気づいていないというのが現実の世界なのであります。悲しいことに、一国の指導者、為政者でさえそのことに気づいていないのです。

私たちは、朝、寝ぼけて服やシャツのボタンのかけ違いをしてしまうということがないでしょうか。そのかけ違いを直すために、二つ目、三つ目のボタンを直しても駄目なのです。最初の一番目のボタンからかけ直す必要があります。それと同じことが、今の世界に(いや、あなた自身にも)必要なのです。すなわち、「神の存在を認める」ことから始める必要があるのです。

「来年こそは、幸せで平和な一年でありますように!」と、誰もが願っているでしょうが、決して楽観はできない状況であり、安易に考えてはなりません。凶悪犯罪の増加だけでなく、地球の温暖化から来ると思われる異常気象と災害の多発でさえも、人間の欲望を満たそうとする自己中心の神を認めない罪と無関係ではないのです。最初のボタンから、かけ直さなければ、何一つ問題は解決しないのです。家庭における子供のしつけ、教育現場における混乱など、何もかもが今は行き詰っている状態ですが、これも最初のボタンのかけ違いから直さなければ、どうにもならないのです。

「最初のボタンのかけ違い」というのは、人間が「神の存在」を認めず、どこまでも、神に背を向け、自分勝手な罪の道を歩んでいるということであります。その神を無視した態度を悔い改めることこそ、第一のボタンからかけ直すことであります。

●「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)。

●「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」
(詩篇19:1)。

●「天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てられた方、これを形のないものに創造せず、人の住みかに、これを形造られた方、まことに、この主がこう仰せられる。『わたしが主である。ほかにはいない。 』」(イザヤ書45:18)。

●「主(創造者)を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。 」(箴言1:7)。

●「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。‥‥‥ そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。 神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」(使徒の働き17:18~30)。

イエス・キリストは、あなたが偶像から真の神様に立ち返る道を開くために、約二千年前に、すでに十字架と復活のみわざによって、それを成し遂げられたのです。どうか、みなさん、神が存在することは明白な事実でありますから、正しい人生の選択をなさってください。

 

★無神論に希望はあるか

2004-12-23 | 「神の存在について」

      死の床から娘は弱々しい声で尋ねました。「お父さん。私はお父さんの言っていたことを信じていいの?それとも、お母さんが聖書から教えてくれたことを信じたらいいの?」。娘のこの質問は、父にとって、大きな試みとなり、そして長い時間、彼は悩んだのです。

 無紳論者である父にとって、もし死に直面している娘に慰めのことばをかけるとすればが、今がチャンスです。そして、ついに彼は口を開いて言いました。父はなんと答えたでしょうか。なんと、「お母さんの言ったとおりに信じなさい。」と答えたのでした。
 
 死の床にある者に対して聖書の神を信じる者は、確信をもって、慰めと希望を与えることができます。しかし、無神論者には、死に直面している者に対して何の慰めも与えることができないばかりか、自らも死に対して何の備えもなく、死に対して不安と恐怖をもちながら生きているのです。

「神の存在」について、パウロは聖書の中で次のように明確に述べています。

●「なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」
                 (ローマ人への手紙1:19,20)。


 「レ・ミゼラブル」の著者ユーゴーが、ある夜、友人と散歩をしていました。友人がため息をつきながら言いました。「ユーゴー君、この大空を見たまえ。きらめく星々を!幾万光年ともしれぬ大空に、無数の星を敷きつめておられるのだ。神は何と偉大ではないか!」ユーゴーはすかさず、答えました。「その星を見る目を人間に与えてくださった神は、さらに偉大なるかな!」。実に味のある会話だと思われませんか。肉体の一部分、しかも、小さい目が、何万光年ともしれない遠距離の星々を見ることができるとは!!

  イエス・キリストは、人類の罪のために身代わりとなられて死んでくださり、三日目によみがえられた方です。ですから、キリストを信じる者には復活の希望があるのです。死を目前にしても、なお、平安を持っていることができます。

●「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』 ‥‥」(ヨハネの福音書11:25、26)。

●「あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。」(Ⅰペテロ1:21)。 

 
 あなたも、人生のあらゆる問題の根源に関わるこの神の存在について、どうか真剣にお考えになってください。神が実在することは、証明する必要がない事実であり、あなたが神に生かされている存在であることは自明の理であります。