聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★晩秋と人生の儚さ

2006-10-26 | 「人生と孤独」



 ●「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。 」(Ⅰペテロ1:24,25)。

 北国では日毎に秋が深まり、朝夕はめっきりと冷え込む季節となりました。しかし、黄色、橙色、深紅の紅色、緋色など、色とりどりの鮮やかな美しい紅葉の葉も、やがて 寒い木枯らしに吹き散らされて晩秋から初冬へ駆け足に 移って行くのです。 冬枯れの時が、間もなく訪れようとしている晩秋の物憂いこの季節は、どなたも何か人生の孤独とか、空虚で儚い寂しさを感じるのではないでしょうか。また、ご年配の方であれば、ご自分の人生をこの晩秋から初冬にかけての季節に重ね合わせてお考えになることもあると思いますが、いかがでしょうか。

 冒頭に記しました聖句のように、人生は一時はどんなに繁栄しているように見えても、それは、みな草の花のようであるというのです。「草はしおれ、花は散る。」のです。人間の一生も必ず散る時が来るのです。春や夏に咲く花々も美しく咲きますが、しばらくすると、枯れて散ってしまいます。秋の美しい紅葉の葉の一枚一枚が初冬の木枯らしに吹き飛ばされてしまうように、人の生涯もどんなに栄えても散ってしまうときが来るのです。人生の晩年も冬枯れの木々の葉っぱのように感じることはありませんか?かつて、モーセは人生の儚さを想い、次のように詩(うた)っています。

●「あなた(神)が人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます・・・・・・・・私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」(詩篇90:5~6) 。

 一体、人間はなぜ孤独を感じるのでしょうか。孤独、空しさが何処から来ているのかということを深く掘り下げて考えていく時、私たち人間は実は、肉体や精紳、心を持っているのみではなく、霊的な側面を持っている者であることを教えられるのであります。神様は人を造られた時、霊と魂を持つ者として造られました。しかし、殆どの人々は、体や心を満たすことばかりに人生を費やしていて、魂を枯渇させるといることに気づかないでいるのです。ですから、どんなに表面的には有意義で繁栄している生活をしていても、心の奥底にある孤独感と空虚感が消えることはないのです。あなたの魂の奥底で真に求めているお方は、実は神様(創造者)であることを、どうかお知りになっていただきたいと思います。

 神様のみがあなたの内側の深い渇きと心の空洞を満たす事が出来るお方なのであります。もともと神様は私たち人間が神様との個人的な交わりを持つ存在としてお造りになられたのです。神様に背を向けた人生を私たちが送ろうとするとき、取り去ることのできない、神様以外には決して埋めることのできない空洞があるのをあなたは発見します。アウグスチヌスが、何世紀も前に語った次のような有名なことばがあります。「神様、あなたはあなたご自身のために私たちをお造りになりました。私たちの心は、あなた御自身に自らの安らぎを見出すまでは、真の平安を得ることはありません。」とのことばは真実です。
 
 自分の心の内側の思いや動機を深く探るならば、今まで自分が考えていたほどには、良い人間ではなく、醜く汚れた思いが満ちていることを知らされて愕然とするのを否むことができません。しかし、聖書が語っている偉大な真理は、神様は私たちを新しく造り変えたいと願っておられるということです。主イエス様は私たちの外側の行動を変えるというだけではなく、内側の心の奥深いところの思いをも変えることがお出来になるお方なのです。主イエス様は、人は「心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」(マタイ12:34,35)と言われました。私たち人間は神の前にはすべての人が罪人であることを聖書は明確に語っています。

 このような罪に満ちた人生から抜け出すには、まず、あなたの人生をキリストに明け渡すことです。あなたの心と思いの中に、キリストに入ってくださる様にお願いすることです。そして、毎日キリストと共に歩むことを学び、キリストによって人生が満たされることを経験することなのです。あなたはバケツに長い間溜まって、もう臭くなってしまっている水を見た事があると思います。どの様にしてバケツをきれいに出来るのでしょうか。それは、その汚く臭くなってしまっている水を捨ててしまい、そのバケツをきれいに洗うことによってです。そして、新しい新鮮な水を入れるのです。

●「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 」(Ⅱコリント5:17)。

 これこそ、キリストが私たちのためにして下さることなのです。私たちは、キリストに自分の人生を委ね、聖書のみ言葉によって心を満たすことが何よりも優先しなければならないことであり、大切なことなのです。私たちは、神から離れ、神に背を向け、神に反逆した自己中心的な生活をして来ました。しかし、愛に満ちた神は、このような罪深い者たちのために、ご自身のたったひとりの御子イエス・キリストを救い主として、この世に遣わしてくださいました。罪のない聖よい33年間の地上の生活を送られたイエス様は、その生涯の最後に十字架に架かって、身代わりに死んでくださり、また三日目に復活されて、今も生きていられるあなたの救い主です。

●「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 」(Ⅱコリント4:16~18)。

 あの大使徒パウロは、人生の晩年を迎え、加齢と共に体が衰えても、決して意気消沈したり、勇気を失うことはありませんでした。絶望したり、希望を失うこともありませんでした。益々、キリストの再臨という輝かしい希望で胸を膨らませたのです。あなたも、キリストを信じるなら、パウロと同じようになれるのです。若い時はみな希望と夢があり、力もあります。しかし、年を重ねる毎に体は衰え、元気がなくなり、未来に対して明るい希望をもつことができなくなります。しかし、クリスチャンは違います。益々、天の故郷を思い、希望に輝くのです。お若い方も、是非、今のうちに死を迎える備えをなさってください。

●「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。 」(伝道者の書12:1)。

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★人生の本当の力は何か!

2006-10-18 | 「人生の幸せと平安」



 人間は、だれでも生きるための力(force、power、might、enegy)を求めています。どうしても、生きて行くためには力が必要なのです。ですから、「力」と名のつく言葉を並べて見るときりがありません。そして、人はそういう「力」と名のつくものを好むのであります。そして、「力」は日常生活のあらゆる場面や分野にわたって使われています。権力、体力、能力、学力、視力、聴力、握力、筋力、脚力、財力、精神力、理解力、集中力、判断力、指導力、免疫力、治癒力、技術力、迫力、活力、威力、火力、出力、資金力、電力、水力、労働力など、数えればきりがありません。政治や国家間でも、経済力、戦力、兵力、核兵器の力、政治的圧力、支配力、統率力‥‥etc。これらはほんの一部だけを無秩序に並べただけであります。

 これらは、物理的な面においても、日常生活においても、対人関係においても、教育の現場でも、医学の世界で、政治の世界でも、あらゆる分野で用いられているものの中から、僅かなものを記しただけです。そして、最近は、辞書にないような新しい言葉も使われるようになっています。最近は、老人力などという言葉も耳にします。それでは、神のみことばである聖書には、「力」について何を語っているのでしょうか。聖書の言葉を示しても、最初から納得される方はまずないのではないかと存じます。人間の考えと比較すると、あまりにもその相違が歴然としているからであります。

●「十字架のことば(キリストの十字架の福音)は、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。 」(Ⅰコリント人への手紙1:18)。

●「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。 」(ローマ人への手紙1:16)。

●「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」(Ⅰコリント人への手紙1:21~24)。

●「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。 」(Ⅰコリント人への手紙2:4,5)。


 新約聖書の中で、パウロが語っているこれらの真理をみなさんは理解できるでしょうか。初めて読まれる方は、何のことかさっぱり分からないという方も多いのではないかと思います。聖書が語るところによれば、人類の始祖アダムがエデンの園で罪を犯した時以来、人間はみな(もちろん、私も含めて)罪を犯すようになり、すべての人は罪人であると断罪しています。そして、その罪の結果、今日のような混乱した無秩序な世界になってしまったのであります。頻発する殺人、いじめを苦にした子供の自殺など、悲しい事件も連日報道されています。また、多発する凶悪な犯罪、不道徳で淫乱な読み物やTV放送、また、インターネットの世界もしかりであります。

 聖書は「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることが出来ず・・・。」(ローマ3:23)と語っていますが、人間は本来神の栄光を現す者として造られたのですが、罪を犯すことによって、神の栄光を受けるにふさわしくない者になったのであります。もし、神の人類に対する介入がなければ、人類は永遠の滅亡を刈り取り、永遠の地獄(火の池)の中で苦しまなければならない者となったのであります。しかし、愛なる神は、このようなあわれな罪人となってしまった人間を救うために救いの道を備えてくださったのであります。それこそが、神ご自身が遣わされた御子イエス・キリストの十字架の福音なのであります。これこそが、神が現された「神の力」なのであります。

 神の御子は、処女マリヤの胎に聖霊によって宿られ、あのユダヤの寒村ベツレヘムの馬小屋で誕生され、やがて30歳からの3年半の公生涯には、多くの愛と力を伴なった奇蹟を行われ、ご自身が神の御子であることを示された後、33歳の時に、全人類の罪のために身代わりとなって十字架で死なれた御方なのであります。ここに神の真実の愛が示されたのであります。だれでも、このキリストをご自分の個人的な救い主と信じるなら、罪と永遠の死後のさばきから救われるのであります。これ以外に、だれも救われる道はないと聖書は断言しています。神が用意してくださったこの十字架と復活こそ、まさに「神の力」なのであります。上記した三つの聖句は、みなこの十字架の福音こそ「神の力」であると言っているのであります。

 人生のすべての本当の力の根源は、この「キリストの十字架の福音」であり、これこそが「神の力」なのであります。この神の提供している福音を無視して、いかに人類が努力しても、世界の有能な指導者が知恵を出し合って協議しても、山積する諸問題は解決することは決してありません。また、医学がいかに進歩しても、それによって世界から病気を亡くすることはできないし、死の問題を解決することもできないのであります。地球の温暖化は益々進み、地球環境は悪化の一途を辿り、異常気象による地球規模の災害は益々拡大し、エゴイズムの塊となっってしまった人間は、世界中の賢者が集まって知恵を出し合っても、諸問題を解決することはできないのであります。

 しかし、キリストのい福音を信じて神に立ち返るなら、あなたの人生には希望があり、死後も永遠の天国に入ることができるのであります。そして、この地上の生涯においても、神から与えられる恵みと力によって生きることができるのです。パウロは、次のような確信に満ちたことばを語っています。どうぞ、これらのことばに耳を傾けてください。神に奉仕することも、神の恵みによる力によって行うことができるのであります。実に、生きる力は神の前に自らの罪と弱さを認め、神の力であるキリストの福音を信じ、すべてを神に信頼して生きる者に与えられるのであります。一つの国家の力においても、核兵器などを保有することによって力を誇示するようなことは神の前には愚かなことであることは言うまでもありません。

●「私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。」(エペソ人への手紙3:7~9)。

●「『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。 」(Ⅱコリント人への手紙12:9,10)。

●「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。 」(ピリピ人への手紙4:12,13)。

●「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ書40:28~31)。


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★貧しくなられたキリスト

2006-10-11 | 「キリストの偉大なる生涯」



 ●「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。 」(Ⅱコリント8:9)。

  キリストは富んでおられたお方でしたが、貧しくなってくださいました。キリストは天地万物をお造りになられた力ある創造者でしたが、被造物の姿をとってくださいました。永遠の昔から御父(父なる神)と共に親しく交わっておられたお方でしたが、貧しい乙女マリヤの胎に聖霊によって宿られ、人の姿をとって、しかも赤子としてこの世に誕生せられたのです。神の御子であられるならば、人々は宮殿のような所にご誕生になられる場所を用意するべきであったのに、ユダヤの寒村であったベツレヘムの薄汚い馬小屋で誕生せられ、飼葉桶に寝かせられました。少年時代は、イエスの父ヨセフが大工であったので、キリストは大工の子として忠実に働き、両親に仕えられました。キリストは何と貧しくなってくださったことでしょうか。

 どうしてそのようなことができたのか、本当に不思議なことですが、永遠の神の御子は時間を創造され、時間を支配しておられるお方なのに、人類の歴史の中に介入され、時間の中に入って来られました。そして、33年間という長い時間の中で生活なさいました。万物を今も保持しておられるお方なのに、この地上で33年間も旅人のようにして生活なさいました。何千億とう無数の星一つ一つを造られ、また、その星の軌道を正確に定められ、天体を造られたお方であるのに、その無数の星の中のたった一つの小さな星の一つである「地球」に、誕生せられたのです。そして、キリストは地球の引力を造られたお方ですが、引力が支配する地球上で生活なさいました。これは何と驚くべきことでしょう。これは何と不思議で、神秘的なことでしょうか。キリストは何と貧しくなってくださったことでしょうか。

 キリストはこの地上に、ご自分の住まいとして庭付きの立派な邸宅をお持ちになられたのではありませんでした。貧しい質素な家に住まわれたのです。ある時は、旅の途中に宿る場所もなく、野宿をされたことでしょう。ある時は、嵐の湖の小船の中で、船のともの方で、枕をして休んでおられました。人々の病いや煩いを癒されたり、お話をなさったりして、お疲れだったのでしょう。また、ある時は長旅でお疲れになられ、古井戸の側で腰を降ろして休んでおられました。そこにちょうど、水を汲みに来た婦人に、「わたしに水を飲ませてください。」と言われたのです。万物を造られたお方ですから、当然、海や川や湖や井戸の水をお造りになられたはずです。そのお方が、「わたしに水を飲ませてください。」と所望されたのです。キリストは何と貧しくなってくださったことでしょうか。

 キリストが神の御子であるならば、人に仕えられる生涯を送って当然ではないでしょうか。人間は、誰でも偉くなって人に仕えられるような生涯を送りたいと願うのではないでしょうあか。しかし、聖書は「人の子(キリスト)が来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである。」(マタイ20:28)とありますように、キリストの生涯は人々に仕えるためのご生涯でありました。寝食を忘れるがごとくにして、イエス様は人々のために働かれました。ある時は、人々のために祈り、徹夜で祈り明かされました。イエス様ご自身がご自身について、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子(キリスト)には枕する所もありません。」(マタイ9:58)と仰せになられました。そのような貧しく多忙な日々を送られたのです。

 キリストがこの世を去られる臨終の時には、静かな家の暖かい布団の上で、静かに息を引き取ったのでしょうか。いいえ。決してそうではありません。キリストは、エルサレム郊外のゴルゴダ(「どくろ」と言われている場所)という丘の上で、十字架に貼り付けにされ、群集の嘲笑と罵倒と、渇きと激痛と、血を吐くような悶え苦しみの中で、息を引き取ったのです。キリストは死刑になるような重罪を犯したのでしょうか。いいえ。そうではありません。キリストの生涯の最後の3年半(公生涯)の間、キリストは病気や煩いで苦しんでいる人々の病を癒し、忌み嫌われていたらい病人を癒し、自分の罪に悩み苦しむ者に救いの手を差し伸べ、「良き訪れ」を述べ伝え、人々を愛することの他は何もしなかったのです。しかし、彼の最期は十字架上での処刑だったのです。

 「キリストが貧しくなられた」というのは、単に物質的に貧しくなられたことを意味していません。もちろん、そのような意味も含まれています。なぜなら、キリストは「私たちの弱さに同情できない方ではありません。」(ヘブル4:15)とありますように、貧しい人々を理解するためであります。しかし、ここで、「キリストが貧しくなられた」と言っているのは、それ以上の深い意味があります。創造者なる神の御子が被造物の姿をとられ、人に仕える僕となってへりくだられ、謙遜の限りを尽くされ、全く罪のない御方が罪人の一人のようにして、処刑場に引いて行かれ、罪人である私たちの身代わりに十字架で死んでくださったことであります。この尊い救い主イエス・キリストを信じる者には、永遠の滅びから救われるだけではなく、「神の子」という身分が与えられるのです。「富む者」というのは、物質的に豊になることを意味しません。罪が赦され、永遠のいのちを与えたられ、神の子とされ、永遠に主とともに天国に住むことのできる特権なのであります。

●「人の子(キリスト)が来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである。」(マタイ20:28)。
 
●「すべてのものは、この方(キリスト)によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。・・・・・・・・・・この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネの福音書1:3~12)。

●「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その(十字架の)死によって、悪魔という、死の力を持つ者(サタン)を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル人への手紙2:14,15)。


●「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ人への手紙2:6~11)。

 しかし、イエス・キリストは、この地上での33年間は貧しいご生涯でしたが、十字架の死後、三日目に復活され、その後40日間弟子たちとともにされ、やがて天に上げられ、今は輝かしい栄光のうちにあって、すべての名にまさる名を与えられておられるのであります。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためであると聖書は語っています。天にあるすべての富は、イエス・キリストのものであります。そして、キリストを信じる者たちはその霊的な富に与ることができるのであります。これは、なんとすばらしい恵みではありませんか?あなたも、キリストを信じて救われたいとは思われませんか?

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★人生の五つの”W”?

2006-10-05 | 「聖書と人生」
     
             

 日毎に秋が深まり、朝夕はめっきり冷え込む季節になりましたね・・・。ところで、どなたでも、人は生きている限り、悩みがあり、苦しみがあり、またいろいろな疑問に直面することがあるのではないでしょうか。あなたは、いかがでしょうか?今日は、人生の次の五つの質問(What? Where? Who? Why? Which?)について考えてみましょう。人生は、時々ゆっくりと立ち止まって考えてみる必要があるのです。 

【1】What?(何)
 人間は、毎日何のために生き、何のために勉強し、何のために働いているのでしょうか?人生を生きる目的と意味は何なのでしょうか?
その答えは神のことばである聖書にあります。

●「わたしの名で呼ばれるすべての者(人間)は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ書43:7)。

●「イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。 」(マタイの福音書4:4)。

●「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。」(ローマ人への手紙14:8,9)。

●「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ人への手紙1:21)。 ⇒(キリストを信じたパウロのことば)


【2】Where?(どこ)
 人間(あなた)は、どこから来て、どこに向かって歩んでいるのでしょうか?あなたは、母親のお腹の中で、わずか10ケ月で完全に出来上がったのです。人間は本当にアメーバーから進化して、偶然の積み重ねによって、今日の人間になったのでしょうか?もし、そうであるなら、あなたの体はあまりにもすばらしく出来ていると思いませんか?血液の働き、複雑な神経組織と細胞、脳の働き、内臓の働き、人間の理性や知性や感情、人間の良心とその呵責、親がわが子を愛する心・・・・etc。
あなたは、これらのことに何の疑問も感じることはありませんか?
その答えは神のことばである聖書にあります。

●「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)。

●「神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名をアダムと呼ばれた。」(創世記5:1,2)。

●「それはあなた(神)が私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。・・・・・あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう」(詩篇139:13~17)。


【3】Who?(誰)
 人間を造り、霊を与えて、毎日あなたを生かしておられるのはだれでしょうか?あなたは自分の意志や力で、自分の心臓を動かしているのではありませんね。あなたが意識してもしなくても、数十年以上も、瞬時の休みもなく、心臓は鼓動を繰り返しています。全知全能の神(創造者)以外に考えられるでしょうか?
あなたは、不思議に思うことはありませんか?
その答えは神のことばである聖書にあります。

●「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息(霊)を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。」(創世記2:7,8)。

●「・・・・神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。・・・・」(使徒の働き17:25~28)。


【4】Why?(なぜ)
 自然界のすべての現象についても、「なぜなのだろうか?」と観察すれば、そのどれにも神の御手のすばらしいわざを見出すことができます。広大な宇宙の神秘とその秩序、地球の適度の引力や太陽からの距離、空気の調和、美しい四季の変化、一粒の種からいろいろな野菜や果物や穀物が出て来て、私たちの食物となることなど・・・・考えれば不思議なことだらけですね。
その答えは神のことばである聖書にはっきりと記されてあります。

●「初めに、神は天と地を造られた。」(創世記1:1)。

●「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。」(詩篇19:1~6)。

●「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」(ローマ人への手紙1:20)。


【5】Which?(どちら) 
 人間はだれでも生きている間、幸福でありたいと願っているはずです。あなたは、幸せな人生を生きたいと思われますか?それとも、不幸な一生を送りたいと思われますか?当然、どなたも幸せな生涯を望んでおられることでしょう。また、すべての人は、一刻一刻と必ず死ぬ瞬間に近づいているのです。あなたが癌にならなくても、交通事故に遭わなくても、そして、今どんなに若く健康な方であっても、すべての人間の死亡率は100%なのです。それは、人間が神の前に罪を犯した結果であると聖書はすべての人に語っています。それだけでなく、死後には、二つの永遠の世界(天国と地獄)があるのです。あなたは、天国と地獄のどちらを選びますか?この人生の選択は人生最大の厳粛な決断なのです。それは、約二千年前、あなたの罪のために身代わりとなって十字架で死なれ、よみがえられたイエス・キリストを信じるか否かにかかっているということなのです。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネの福音書3:36)。

●「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 (ヨハネの黙示録21:3,4)。

●「いのちの書に名の記されていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(ヨハネの黙示録20:15)。
 
●「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイの福音書7:13,14)。

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