聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★人生の逆境の中でこそ。

2004-11-29 | 「人生の試練と逆境」

               

   北国は日毎に秋が深まり、初冬を迎える季節となりました。ところで、森の中で木の切り株を見ますと、同心円のように、幾重にも筋が入っていますね。これを年輪というのは、みなさんもご存じと思います。人間も年をとることを、年輪を加えるなどと形容します。これは木の年輪から来ているのです。
 
ところで、山の木の切り株などの年輪の中心は、真ん中になく、北側にみな片寄っているのです。それは、なぜかと言えば、日光と南風を十分受けて育つ南側は、年輪の目が幅広くなります。それだけ肉付きがよく成長しているわけです。反対に北側は、寒さから身を守るために、厚い皮をつけて戦います。したがって、年輪の目が幅狭く、中心がそちらに片寄るのです。

ところが伐採され、用材として製材されるとき、陽の光を受けて育った南側の部分は板になります。北風を受けて育った部分は柱になるのです。柱は家で最も重荷がかかり大切な部分となります。材木でも、逆境で苦労して鍛えられてこそ、柱として大切に用いられるのです。

人生には浮き沈みがあり、順境も逆境もあります。人は、だれも逆境や試練の道を通ることを望みません。しかし、人生は長い目で見れば、むしろ順境より、逆境の苦しみの時の方が、私たちを益していることが多いのではないでしょうか。
ソロモン王は、その人生の晩年に、聖書の中に次のようなことばを記しました。

●「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。 」(伝道者の書7:14)。
 
人生の逆境は、その逆境の中で今までの自分の歩みを反省させ、人生を深く考えさせるためのチャンスであり、愛なる神からの贈り物であることをお知りになってください。その事実を知る時に、あなたの人生に対する見方が今までとは全く違ったものとなるのです。

●「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)

●「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることの出来ないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)。


この詩篇119篇の作者と同じように、あなたも「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」と言い得る日が来ることを信じて、今の試練を乗り越え、逆境を意味のあるものとして生かしてください。

もし、あなたが真摯な心で聖書を開くなら、どのような絶望的な人生を送っている人でも、真の希望を見出すことができます。そして、今、あなたに与えられているの試練は、これからの人生に決して無駄になることはないのです。いや、あなたの人生を永遠の視点からご覧になられる愛なる神様の配剤なのです。

   





★神の絶大な愛をご存じですか。

2004-11-27 | 「神の愛について」

 
 
  愛なる神様のみことばである旧新約聖書66巻は、神様の全人類に対するラブ・レターのようなものです。ですから、旧約聖書の中にも新約聖書の中にも、神の私たちに対する愛について書かれた聖句が満ち溢れていますが、その中の一部だけをご紹介しましょう。

●「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43:4)。 

●「神は、実に、そのひとり子(キリスト)をお与えになったほどに、世(あなたや私)を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3:16)。

●「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ人への手紙5:6~8) 。


 新約聖書には、神の愛(アガペーの愛)のご性質については、下記のようなすばらしい聖句があります。このような崇高な「愛」は人間はだれも持ち合わせておりませんが、この愛の代わりに「キリスト」と入れかえて読んでみますと、不思議にピッタリと合うのです。なぜなら、キリストは、真実な神の愛の御性質をお持ちの御方であるからす。キリストは、神の御子であり、神から私たちのために遣わされたすばらしい救い主なのです。

●「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 不正を喜ばずに真理を喜びます。 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。 」(Ⅰコリント人への手紙13:4~8)

 しかし、上記の聖句の中の「愛」の代わりに、ご自分のお名前を入れてお読みになってみてください。私の場合は、あまりにも不釣合いで、その場から逃げ出したいくらい恥ずかしい思いになります。どなたも、同じ思いをするのではないでしょうか。「あ~、私の名前を入れるとピッタリだ~!」と思われる方は一人もいないはずです。なぜなら、人間はみな罪人であり、自己中心で真の愛を持ち合わせていないからです。

 どうか、神の絶大な愛について、真剣にお考えになってみてください。そして、あなたの罪のために身代わりに十字架で死なれた神の御子イエス様を信じて、永遠のいのちを受け、神の愛に満たされた幸福な生涯を送ってください。イエス・キリストを信じる者には、死後も永遠に天国で生きることが約束されているのです。これは、偽りののない真実な神の約束です。

           
 


★死の恐怖からの解放。

2004-11-26 | 「人の死とその備え」



 「人間はなぜ死ぬんでしょう。千年も万年も生きたいわ!」
これは明治時代の小説家徳富蘆花が書いた「不如帰」(ほととぎす)の中の一節ですが、日本近代文学を代表する有名な名セリフの一つと言われています。私たちは、口に出して言わなくても、誰でも死に対して不安と恐れを持っています。多くの人々は、人生について考えますが、解答を出せないままでいるのです。色々な哲学書や人生論を読みますが、満足できる解答は返って来ないのです。

 作家の川端康成氏は、ノーベル賞を与えられ、大変な名誉を得ました。しかし、彼も人生のことについては完全な解答を持っていませんでした。自分をごまかし続ける生活に耐えることができなかったのです。ですから、自ら命を絶つ他になかったのです。死の恐怖を持ったまま日々を送ることは何と寂しく暗い人生ではないでしょうか。
 
 人生について、真剣に考えるなら、だれでも必ず「壁」にぶち当たります。そして、その壁は、私たちが想像する以上に大きなものです。それは、「人間の死」という現実です。人間は、自分の主権の及ばない、暗黒の向こうにある何かに怯えて、死を恐れて生きているのではありませんか?あなたは、どうでしょうか。

 しかし、私は一生涯死の恐怖の中で生きている多くの人々にすばらしい福音があることをお伝えしたいのです。それは、神のみことばである聖書に書かれています。イエス・キリストは、神から全人類に遣わされた救い主ですが、十字架に架かって私たち罪人の身代わりに神の刑罰を受けて死んでくださり、三日目によみがえられたお方です。これは、作り話ではありません。本当の話です。

●「‥‥これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」 (ヘブル人への手紙2:15)。

●「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 』・・・・」(ヨハネの福音書11:25)。


 これは、イエス・キリストが語られた力に満ちたことばです。何と力強く、勇気づけられることばではないでしょうか!!
キリストを信じる者は、永遠のいのちが与えられ、死後の永遠のさばきからも救われるのです。そして、クリスチャンには未来において、必ず復活するという希望が与えられています。あなたも、是非、死の不安や恐怖から解放された希望と確信に満ちた幸福な人生をご自分のものとされますようにお勧めいたします。

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」

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★不思議に思いませんか?

2004-11-23 | 「神の存在について」

   
 
人間の体は不思議に満ちています。一個の細胞から、200種の形も違い、人間の科学技術ではまねのできない複雑な仕事をこなす細胞が、分裂するうちに生まれてくるのです。それが何十兆の数の細胞になる280日ぐらいの間に、目になり、骨になり、心臓、肺、肝臓などが完成して赤ちゃんが誕生してくるのです。誕生の後は、細胞は固有の性格が確立して、一種類の細胞から別々の役割を持つ細胞が分かれて生まれてくるということはないのですが、しかし、例外があるのです。

 それは、様々な働きをしている血液の細胞たちの、生みの親である骨髄の細胞です。骨の中は空洞になっていて、その空洞はドロドロした骨髄で満たされているのですが、そこには、「幹細胞」と呼ばれる丸い小さな細胞が無数に収められています。この幹細胞は血液中に流れるすべての細胞の生みの親で、分裂を繰り返して増殖しながら、全く異なった機能を持った様々な細胞に分かれていくのです。これは、実に不思議なことです。

 たとえば、血流に乗って全身に酸素を運ぶ「赤血球」、怪我などで出血したときに血を凝固させて止血してくれる「血小板」、また、病原菌やウイルスと戦って敵を撃退させ、破壊する多種類の生命防衛軍の役目をする細胞、すなわち
「白血球」というと呼ばれる細胞などです。

 この生命防衛軍が外敵と戦う基本戦略はどういうものかといいますと、一人の人間の200種類ある60兆の細胞一つ一つには、それがあなたの細胞であることを示す共通のマークが印されています。自分と、そうでない細胞を見分けて、よそ者を攻撃するのです。他人から移植された細胞や臓器を、白血球の細胞たちがよそ者として攻撃することによって起こるのが、臓器移植の拒絶反応です。あなたのすべての細胞に、あなた独自のマークがついていて、それがあなたの命を外敵から守っていてくれるのです。あなたは宇宙に二人といない独自の存在であり、それがあなた自身の価値なのです。 

 万物の設計者であり、創造者である神の存在を信じないで、これをどのように説明できるでしょうか。アメーバーが偶然に発生して、その後も偶然の積み重ねによって色々な生物に進化して、ついに今日の人間ができてきたのだという進化論にはあまりにも矛盾が多すぎるのです。私は、創造者なる神の存在を堅く信じている者ですが、創造者を信じることは決して非理性的なことではなく、また非科学的なことでもありません。あなたも、是非、聖書を手にしてお読みになってみませんか?

●「あなた(神)にとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私がひそかに造られ、‥‥仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなた(神)の目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。」(詩篇139:12~16)。

●「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」(ローマ人への手紙1:20)。


 創造者(神)を信じないことは、神の前に最大の罪であると聖書は教えています。あなたを日々生かしておられれ、様々な恵みを注いでいてくださる神に立ち返るこを神は求めておられます。そして、神が遣わされた救い主、イエス・キリストを信じて、罪とさばきから救われてください。



★一切れのパンと幸福。

2004-11-21 | 「人生の幸せと平安」

            

●「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」(箴言17:1)

●「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。」(箴言15:17)。


  ここに記しました二つの聖句は、旧約聖書の「箴言」という書の中に記されているものですが、本当の家庭の幸せとは何かをよく教えているように思います。「幸福」というのは、決して複雑なものでもなければ、またずっと遠くにあるものでもないのです。自己中心の罪の生活を捨てて、真の神に立ち帰るところに真の平和と幸福があるのです。

現代の日本は物質的には豊かになりとても繁栄しており、昔に比べると食べ物もあふれるほど豊かにありますが、世界中の多くの国の子供たちは貧困と飢餓に苦しんでいます。一切れのパンさえ口にすることが出来ずに、毎日何万人という人たち(その中の多くは幼い子供たちなのです)が餓死しているという現実があります。

日本には、物質も食べ物も豊かにありますが、しかし実際には、その心は満たされず、空虚であり、本物の幸福とは何かを知らずに空しい日々を過ごして生きているのではないでしょうか。

多くの家庭では、外面的には物があふれ、幸福そうに見えても、醜い争いが絶えず、本当に平和な家庭は稀にしかないというのが現実ではないでしょうか。人間は、対物ではなく、対人関係の中に生きています。ですから、対人関係が幸いでなければ、真の家庭の幸福もないのです。

冒頭のみことばは、美しい宮殿に住み、多くの女性に囲まれながら、毎日のように山海の珍味のご馳走を食べていたソロモンが晩年に書いたことばです。彼は、おいしいご馳走をいっぱい食べて争いに満ちた家に住むよりも、心の底からの平安を求めていたのです。たとい、ソロモンでなくとも、「ご馳走がなくてもいい、贅沢な邸宅がなくてもいい、本当の平和な家庭が欲しい!」と思っている人が案外多いのではないでしょうか。

家庭の平和と真の幸福は、決して物質の豊かさにあるのではないことを聖書は教えています。人間が神(創造者)と和解するために、神がお遣わしになった救い主御子イエス・キリストを信じ受け入れる時に心に平安と満足が与えられ、神との平和な交わりを楽しむことができ、また、他人の過ちや失敗を心から赦し、愛することができるようになります。

イエス・キリストは、あなたの罪の赦しのために、十字架上で、真っ赤な血潮を流して身代わりに死んでくださり、三日目によみがえられたお方なのです。このお方を信じる時に、神の前にすべての罪が赦された者となり、本当の意味で幸福な者となることができます。そして、当然、その結果として家庭にも平和が訪れるのです。あなたも是非、キリストを信じて本物の幸福を味わってみてください。  

          
 

★人生の重荷をおろす。

2004-11-20 | 「人生の幸せと平安」

            

   日光の東照宮の徳川家康の遺訓に、「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し」というのがありますが、重みのある深く考えさせられることばですね。今日もその重い荷を背負って、人生の長く孤独な旅を、喘ぎながら、トボトボと歩き続けておられる方も多いのではないかと思います。それは、あまりにも寂しい孤独な姿ですね・・・。それは、もしかしたらあなた自身の姿かもしれません。
 
 それは、自分が犯した過去の過ちの重荷であったり、職場の人間関係や家庭内の問題、病気の不安や自分の人生の老後の心配、死に対する不安や恐れであったりと、その重荷の中味は人によって様々だと思いますが、人はそれぞれ何か重荷を負いつつ人生を歩んでいるのが偽らざる現実ではないでしょうか。

人生においては、その生き様はみな百人百様ですが、ある方にとっては、ときには、その重荷が耐え難いほど重く肩にのしかかって来ることがあるのす。時々、人生に行き詰まり、悲嘆に暮れ、疲労困憊して自ら命を断つ方もおられます。老後や将来に対して、希望が持てない時代に私たちは生きています。それは政治のためであるという方もおられるでしょう。でも、私たちは、もっと根本的なところに目を向ける必要があるのです。

 あなたが今、どのよな環境や事情に置かれていたとしても、私はそのような方たちにすばらしい朗報(福音)があることをお伝えしたいのです。数千年にわたって、多くの人々が次の聖書の約束のことばに希望と慰めを見出して来ました。それは、まさしく、イエス・キリストが、あなたをご招待しておられる約束のことばです。

●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところへ来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
 
●「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)。

  ここで、「疲れた人」というのは、「疲れ果てた人」という意味があります。イエス様は、どれほど疲れ果てていても、どん底に落ちて途方に暮れていても、決して見捨てることはありません。一人の哀れな罪人としてイエス様のところに行って、助けを求めるなら、罪赦されて、心からの平安を得ることが出来るのです。なんと、大きな慰めに満ちたことばではありませんか。
 
  イエス・キリストは、私たちの生活や心配事の重荷だけではなく、人生の罪(神を無視した自己中心な生活)の重荷を負ってくださり、身代わりに十字架で死んでくださった方なのです。どうか、あなたもイエス・キリストを信じて神様からの平安と幸福を得てくださいますようにお祈りしています。

                
 

★人のいのちの尊さ。

2004-11-20 | 「聖書と人生」



  最近は、日頃のテレビや新聞報道で、人のいのちがあまりにも軽々しく扱われれているように思えてなりません。小学生や中学生までが、簡単に残虐な方法で友人や幼子を殺したりするようなことはひと昔前には想像することもできなかったことであります。親子や夫婦の間でも、いとも簡単に憎しみから、あるは、些細な出来事から人のいのちを殺(あや)めてしまうようなことが日常的に行われている世の中です。

 創造者なる神を認めない今の世界は、「人のいのちの価値」が分からなくなっているのです。学校の先生も、「なぜ人間のいのちは尊いのか?」と質問されても子供に答えることができないのです。もちろん、限られた僅かな人を除いて、親も正しい意味において「人間とは何か」を知らないので子供に「いのちの大切さ」を教えることが出来ないのが現実です。

 また、世界に目を向けると、戦争と殺戮とテロなどが日常的に行われ、テロにはテロでと、互いに報復で応酬し、いつまで経ってもこの報復合戦は終わることがないのです。それで多くの若い兵士や何の抵抗もできない婦女子の尊いいのちが毎日のように失われています。その惨状は目を覆うばかりです。戦慄するほでに恐ろしいことでも、それが日常的に行われるようになると、人々はそのことに麻痺してしまい、あまり恐怖感を持たなくなり、驚かなくなるということもあるのです。これは、本当に恐ろしく悲しいことであります。

 聖書の中で、人間のいのちの尊さについて、イエス様は次のように言われました。これは、私たちのいのちの根源であられる神の御子・イエス・キリストのお言葉ですから権威があり、また真実なことばです。

●「人は、たとい全世界を得ても、自分のいのちを損じたら何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。」(マルコの福音書8:36)

●「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などには、お住みになりません。‥‥神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」(使徒の働き17:24,25)。


 たった一人の人間のの命は、全世界のすべてのものよりも重く、価値があることを聖書は語っていのです。それは、創造者(神)がご自身に似せて人を創造されたからです。肉体のいのちは尊いものですが、人間は肉体だけではなく、霊とたましいと体から成っており、霊的な存在なのです。人間は死後においても、永遠に存在し続けるのです。キリストは、私たちに永遠のいのちをお与えになるために、十字架上で、私たち罪人の身代わりに死なれたお方なのです。どうか、聖書をお買い求めになられて、さらに真剣に、あなたのいのちの問題についてお考えになってみて下さい。

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★人生の晩年が来るとき。

2004-11-16 | 「聖書と人生」



  北海道の11月は晩秋から冬に向かう頃で、雪が降ったり解けたり、一年中で一番、陰鬱な季節ではないかと思います。何か人生の晩年を重ね合わせて考えさせられるような風情と哀愁を感じる季節ですね。

 さて、私たちの人生にも必ず晩年がやって来ます。若い青春時代はあっという間に過ぎ去ってしまうのです。私にも20代の若い青春時代がありました。30~40代の働き盛りの時代もありました。50代も、瞬く間に過ぎ去りました。そして、今はもう60代前半です。あと、どれだけの人生が残されているのかは、誰にも分かりません。
 
 どなたの人生にも若くて希望と力に満ち溢れた青春時代があります。しかし、今、自分は若い、まだまだ人生は先が長いのだと思って青春を謳歌している人も、必ず人生の晩年が近づいているという事実があることを、是非、肝に銘じて覚えていただきたいのであります。聖書には次のような聖句があります。

●「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。 太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。」(伝道者の書12:1,2)。

 どうか、「何の楽しみもない!」という人生の晩年が来る前に、真の神様(創造者)に立ち返りましょう。そのためには、今から、若いうちに聖書を読み、晩年に備え、また死の問題を解決する必要があります。神に立ち返る道は、決して難しくはありません。すでに、今から約二千年前に、イエス・キリストによって、その道は備えられています。

 イエス・キリストは、ご自身のことを次のように紹介されました。このような偉大な力あることばを語られた方はイエス・キリストだけであります。

●「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。だれでも、わたしを通してでなければだれひとり父のみもと(天国)に来ることはありません。」(ヨハネの福音書14:6)。

 イエス・キリストは、世界中のすべての人々、そしてあなたの個人的な救い主です。どうか、あなたも、聖書を手にしてお読みになってください。「人生は出会いで決まる。」と言われます。神とイエス・キリストとの出会いこそ、あなたの人生を豊かで実りあるものにすることは間違いありません。

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★あなたは、孤独ですか。

2004-11-16 | 「人生と孤独」



木枯らしが吹く寒い季節になりましたね。人は誰でも「孤独」を感じる時がありますね。友達と楽しく笑っておしゃべりをして、家に帰って部屋にひとりいるときに、ふっと寂しく感じることが誰でもあると思います。 また、多くの人々が行き交う賑やかな街の雑踏の中でも、「自分はひとりぼっちだ・・・・。孤独だ。」と思う時がありませんか?

また、長い間連れ添った伴侶が病死したり、親しい友人と死別したとき、家族や親友が遠い所に行ってしまった時の別離の悲しみ、職場の人間関係がうまく行かなくて疎外感を味わっているときなど、人は誰でも、孤独感に陥る時があるのではないでしょうか?
 
人間は「自分が誰からも愛されていない。」と思うときに一番孤独を感じるものです。しかし、聖書にはこのような慰めに満ちたことばがあります。あなたは、世界中のだれからも愛されていないと思うときも、天地を創造された神様はあなたを愛しておられるのです。

●「わたし(神)の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。
 
●「見よ。わたし(イエス)は、世の終わりまで、いつも、あなたとともにいます。」(マタイの福音書28:20)。

●「あたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」(ヨハネの福音書14:18)。

人は自分はだれかから真実に愛されていると実感できるときに満足感があり、決して「孤独」だとは感じないのです。実は、あなたの罪(すべての人間は神に背を向けて自分勝手な自己中心の生き方をしていること)のために、十字架上にまで架かって身代わりに死んでくださったほどにあなたを愛してくださったお方がおられます。それは神の御子イエス・キリストです。

どうかイエス様の愛を、どうかお知りになって下さい。あなたの寂しく空しい心が神の愛で満たされることは間違いがありません。どうか、あなたもキリストを信じて神に立ち返ってくださるように心からお勧め致します。

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★一体、人生とは何なのか。

2004-11-15 | 「聖書と人生」



  人はみな、おのおの、価値観や人生観、哲学や思想信条も違いますが、それぞれの目標に向かって、毎日休むことなく、学生は勉強し、社会人は働き、主婦は家事や育児に専念したりしながら、一生懸命に生きています。しかし、人生とは一体何なのでしょうか?人は、どこから来て、何のために生きて、どこに向かっているのでしょうか。

 「人生」とは、「人が生きる」と書きますね。ですから、人とは何かが分からない限り「人生」も分からないし、「人生とは何か」という疑問に答えを見出すことはできませんね。あなたは、このことについてどうお考えになられますか‥‥。

 人間は、果たして進化論者が言っているように、何もないところから偶然に発生したアミーバーから、爬虫類や、その他色々な生物に進化し、偶然の積み重ねによって猿になり、ついに人間にまで進化して来たという説を本当に信じることが出来るでしょうか。

 広大な宇宙を見ても、人間の体を調べても、神経伝達や血液の流れの仕組み、その他の各々の臓器やあるいは、脳の記憶装置など、実に神秘的で、精密に秩序正しく出来ていると思われませんか?「偶然」と長い時間をかければ、果たして「秩序」というものが生まれて来るでしょうか?

●「初めに、神は天と地を創造した。」(創世記1:1)。

●「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)

●「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」。


 人間は、偶然の積み重ねと自然淘汰によって進化して来た存在ではなく、創造者である唯一の真の神によって、しかも神のかたち(内面的な意味において)に似せて創造された存在なのです。ここに、人間の尊厳があり、生きる意味もあるのではないでしょうか。これが分からなければ、結局、人生において、何一つ解決はありません。

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」 



★心に平安をお持ちですか

2004-11-15 | 「人生の幸せと平安」

    私たちは、どんなにお金や財産があっても、地位や名誉を得ても、それによって、本当の心の安らぎを持つことはできません。毎日、いろいろな心配事を持ち、仕事や日常生活の雑事に追われながら、また未来に不安を抱きつつ、生きているのが現実ではありませんか?

 私たちは、今、心からの平安を持っているでしょうか? 聖書の中から、私たちに心の平安と慰めや励ましを与えてくれる聖句をいくつかご紹介しましょう。マタイ11:28のみ言葉は、私が若い頃、聖書を読み始めて最初に惹きつけられ、心に刻まれたみことばです。言葉では表せない平安を覚えたのを記憶しています。
 
●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたし(キリスト)のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11章28節)

●「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、この世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がせてはなりません。恐れてはなりません。」
(ヨハネの福音書14:27)

●「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ人への手紙4:6,7)。


 最初のみことばは、イエス・キリストが、あなたを救いに招いておられる優しいおことばです。ここで、「疲れた人」とは「疲れ果てた人」という意味があります。イエス様は、疲れ果てた人、重荷を負って苦労している者を招いておられるのですね。
肉体的な疲れは、若い人であれば、一夜の眠りで癒されるでしょう。しかし、精神的な疲れは夜に床に入っても、簡単には癒されないのです。

●「人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。」(箴言18:14)。

●「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」(詩篇4:8)。
 

イエス・キリストは、神が遣わされた人類の救い主であり、罪のない聖よいご生涯ののちに、十字架に架かって、私たちの身代わりに死んでくださったお方です。このお方は、疲れている者に真の平安を与えてくださいます。幼子はお母さんのあたたかい腕に抱かれているとき、一番安心できるように、私たちも、愛の神様の懐に憩うとき、ほんとうの安らぎを得ることができるのです。
是非、あなたも、キリストを救い主と信じて救われて、真の平安を得て下さいますように。

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