聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★人間には良心がある!

2007-06-14 | 「人間の罪の問題」



 人間であれば、どなたにも「良心」というものがあります。これは、天地万物の創造者なる神様が人間に与えてくださったすばらしいものの一つなのです。人間は、アメーバーから、偶然に進化したものではなく、最初から神の愛の対象である「人間」として創造されたのです。多くの人が信じている進化論によっては、「良心」というものを決して説明できません。しかし、人間の良心は、注意していないと、あなたが置かれている環境によって、あるいは子供から大人に成長するにつれて、罪を重ねる度に鈍感になって行くことがあるのです。最近は、恐ろしい殺人事件などが続発していますが、人間の良心も長い間、汚れた罪を犯していると麻痺してしまうことがあるので、よくよく注意する必要があります。 

 ある外国人が「良心」について次のような説明をしたのを聞いたことがあります。つまり、「良心とは、譬えて言えば、三つの角(かど)のあるものが心の中に入っていて、もし、私が悪いことをするとそれがぐるぐる廻り、角があるので、心の中を傷つけ痛みを感じるのです。しかし、なお悪いことを続けると、それがぐるぐると廻り続けているうちに、いつの間にか、その角がすり切れてしまうのです。するともう悪いことをしても、痛みを感じなくなってしまいます。良心とはそういうものなのです。」という説明です。それを聞いて、「なるほど!」と納得したのを覚えています。それが良心の麻痺というものでないかと思います。何かの異臭がする部屋に住んでいる人は、その異臭に慣れてしまいますが、外から来た人はすぐその臭いに気づきます。

 ところで、「良心」ということばの真の意味は何でしょうか。それは、「何々と共に知る」という意味を持っています。そして、それは、「神(God)と共に知る、判断する。」ことを差しているのです。つまり、神が私たち人間に「良心」というすばらしい見張り役(番人)を与えてくれたのです。この番人は、神と共に協力して働き、決して悪いことを見逃したり、大目に見たり、おべっかを使ったりしないで正義の神に服従するのです。ですから、私たちが真の神を知らないとしても、この良心によってしばしば善悪を見分けることができるのです。これは神の与えてくださったすばらしい賜物であり、知恵です。

 昔、ギリシャの哲学者で、ピタゴラスの弟子の一人がある靴屋で一足の靴を、他日お金を払う約束で買って帰えりました。そして、その約束の日が来たので、代金を払いに靴屋に行きました。すると、その主人がすでに死んでいて、そこに居なかったのです。そこで彼はただで靴が買えたと心ひそかに喜びながら帰ったのですが、彼の良心がそれを許しませんでした。毎日責められた末、とうとう堪え切れなくなって、再び靴屋へ行き、その代金を靴屋に置き、「彼は、すべての人にとって死んでいたとしても、私にはなお生きているのです!!」と叫んだのだそうです。だれでも、彼の心中を察することができると思います。

 彼の「良心」は、昼も夜も休むことなく彼の行いについて責めたのでした。彼はその良心の呵責には勝てなかったのです。私たちにおいても同じです。私たちは、何か悪いことを心に企てたり、悪事を働くと、良心が強く責めるのです。実はそれは、神様からの警告のランプなのです。私たちは、それを無視することができません。私たちはどんなにしても自分が犯した罪を隠すことができません。良心は、天の真の神様と共に働いているのです。だれに対しても、特別扱いをして見逃してくれたりは決してしないのです。この良心が正常に働いていて、その良心の呵責を敏感に感じる人は幸いです。

 今から約三千年前、あのイスラエルのダビデ王も、姦淫の罪と殺人罪を犯してしまいました。姦淫の罪を覆い隠すために、ダビデの忠実な部下であった彼女の夫を戦場の最前線に行かせて、死なせてしまったのです。彼は、一つの罪を隠すために、さらに罪を犯してしまい、二重に罪を犯しました。そして、心の中で「よし、これで大丈夫だ!」と完全犯罪を企て、それをやり遂げたつもりで平然とした顔をしていましたが、彼の良心は決して彼を許しませんでした。下に記した詩篇の一部を読めば分かりますように、神の御手が昼も夜も彼の上にあって、彼は良心の呵責によって苦しめられたのです。

●「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」(詩篇32:1~5)。 

 しかし、聖書はすばらしい慰めと救いの道を教えています。ダビデがそうしたように、心からへりくだって自分の犯した罪を神様の前で告白し、赦しを求める時に、あわれみ深い神様は、その罪を赦してくださるのです。そして、その罪からの救いの道を開いてくださった方が、イエス・キリストなのです。イエス・キリストが、十字架の上で私たちの罪の身代わりとして死んでくださり、流してくださった血は、イエス様を信じ受け入れる人の心を雪よりも白く洗い聖めてくださるのです。それによって、もう罪の責めで苦しむこともなく、むしろ、感謝と喜びと希望に満たされた心で神様にお仕えする日々を送ることができるのです。
 
●「‥‥後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており‥‥」 (1テモテ4:1,2)。
 
●「彼ら(異邦人)はこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。―― 私の福
音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。」(ローマ人への手紙2:14,15)。

●「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」(ヘブル人への手紙9:14)。

 私たちは、外側を飾ることにはとても気を使うのですが、心の中のことには無関心、無頓着に過ごしていないでしょうか。しかし、もし自分の心の中を見ることができるなら、それこそ目を覆いたくなるのではないかと思います。タバコを吸う人の食道は、キセルの管の中のようにヤニでいっぱいだそうです。肺癌になったとしても不思議ではありません。同じように、私たちの良心が罪に汚れていては、やはり心の平和も喜びもないのは当然です。不安と恐れだけが襲って来ます。どうか、心がきよめられ、平安を得る救いを真剣に求めて下さい。十字架のイエス様のもとに行くまでは決して心の平安は得られません。十字架の血潮によってお互いに心をきよくしていただこうではありませんか。

●「‥‥御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(1ヨハネ1:7)。
●「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義(正しい者)と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:25)。
 

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★三つの悪いことがある

2007-05-24 | 「人間の罪の問題」
            
             

 ある人が、人々が悪いとは思っていないけれども、実は悪いことが三つあると言ったのを聞いたことがあります。その三つというのは、次のことです。
(1)信じたいことだけ信じて、信じたくないことは信じないという態度。
(2)聞きたいことだけ聞いて、聞きたくないことは聞かないという態度。
(3)見たいものだけ見て、見たくないものは見ないという態度。
殺人や強盗、詐欺‥‥などはみな悪いことであると誰でも知っています。でも、どうして上記の三つが悪いことなのでしょうか。ごいっしょに考えてみましょう。

【1】信じたいことだけ信じて、信じたくないことは信じないという態度。
 これが、一体なぜ悪いのかと思われる方も多いと思います。何を信じようが、信じまいが一向に構わないではないか。信じなくても、警察に捕まるわけでもないし、と大方の人々は考えるでしょう。例えば、お座敷列車に乗って、飲めや歌えのドンチャン騒ぎをしている人たちがいるとします。その時、車内放送で、「みなさん、この先の鉄橋が落ちました。このまま、前進すると川に転落してしまいますので危険です!」と言われても、多分、ほとんどの人は信じたくないでしょう。しかし、それがもし事実ならば、信じないでドンチャン騒ぎを続けることは馬鹿げていると思いませんか。聖書の中にその実例があります。あのノアの大洪水の時の記事です。

●「昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。」(1ペテロ3:20)。

●「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。‥‥人の子(主イエス・キリスト)が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」(マタイの福音書24:35~39)。

  
 ノアの時代の大洪水は、実際に起こった歴史上の事実です。創世記6章~9章にその事実が書かれています。地上の人々の生活が乱れ、悪と汚れが充満したので、神様は40日40夜の雨と大洪水で罪人を滅ぼそうと決意されました。神は、神を敬うノアとその家族に命じて、とてつもない大きな箱舟を造らせたのです。そして、神はすべての人に来るべき大洪水のこと、悔い改めて信じて箱舟に入れば一人残らず救われることを宣べ伝えさせたのです。しかし、雲一つない晴れ上がった空を見上げて、人々はノアを嘲笑し、だれ一人として信じようとする人はいませんでした。そんなことは信じたくなかったのです。

 やがて、その時が来て天の水門が開かれて、大雨が降り始め、‥‥人々は慌てて箱舟に押しかけて来たのです。しかし、箱舟の戸はピタリと閉まったままです。「俺たちが悪かった。ノア~!開けてくれ、頼む!」と、人々は箱舟の回りに次から次へと集まって来ました。しかし、扉は叩いても引っ張ってもびくともしません。神がその扉を閉じたのです。神が閉じた扉はだれも開けることができないのです。そして、ノアとその家族8人以外の、その当時の世界のすべての人は大洪水によって滅んでしまいました。彼らはそのようなことは信じたくありませんでした。そして信じませんでした。信じたくないことは信じないという態度を取った人はみな滅びたのです。そして、現代も、人々は神のメッセージに対して同じ態度を取っているのです。

●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネの福音書3:36)。

●「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます』」(マルコの福音書16:15,16)。


【2】聞きたいことだけ聞いて、聞きたくないことは聞かないという態度。

●「数日後、ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、『今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。』と言った。」(使徒の働き24:24~26)。

 昔、ローマ総督ペリクス(当時、カイザリヤに駐留していた)は、福音を宣べ伝えたために囚人となっていたパウロを引き出して、色々と話を聞きました。賄賂を出せば、牢から出してやるという取引をしたかったのです。ところが、キリストの伝道者であったパウロは、神の正義について、来るべき神の審判(最後の審判)のことについて大胆に話したのです。ところが、ペリクスは、妻ドルシラを彼女の最初の夫から横取りしたり、金銭欲に溺れるような不道徳な生活をしていたので、恐れを感じて、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。」と言って帰らせ、軟禁状態にしておいたのです。

 ペリクスは、その後、パウロの審理を2年間も放置しておいた無責任な人であったのです。彼は、聞きたいことだけは聞き、聞きたくないことは、「また、あとで機会があれば聞くことにしよう‥‥」と考えたのです。聞きたくないことを先延ばしにしたのです。そして、彼はついに救いのチャンスを失って永遠の滅びに入ってしまったのです。あなたは、どうでしょうか。あなたは耳が痛くなることや、良心の呵責を感じるようなことは、なるべく今は聞かないことにしようと思っておられないでしょうか。でも、そのような態度は、永遠に救いの機会を失ってしまうかもしれないのです。

【3】見たいことだけ見て、見たくないことは見ないという態度。

●「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハネの福音書3:19~21)。
 
 時々、家や道の横の大きな石を動かしたりした時、石の下に黒いワラジ虫がたくさんいるのを見たことがあると思います。すると、一匹残らず光を避けて、急いで暗やみの中に逃げ込むのです。それと同じように、光を見ようとしない人には、人生の夜明けは決して来ることがありません。一生涯(いや、死後もです!)暗やみの生活です。イエス・キリストは、「世の光」として来られた御方なのです。私たちは、神が遣わされた世の光なるキリストをまっすぐに見なければならないのです。また、私たちは自分の汚れと醜さも、まっすぐに見なければなりません。

●「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」 (マルコの福音書7:20~23)。
 
 ここに、イエス・キリストが語られた人間の罪の目録があります。私たちは、正直に自分自身を見るときに、自分の心の中にこのような罪があることを認めざるを得ません。このような自分のうちの醜い罪を見たくないかもしれませんが、しっかりと見なければならないのです。そうすれば、その罪からの救いのために十字架にかかって身代わりに死んでくださった神の御子(イエス・キリスト)を当然、信じるはずではないでしょうか。

●「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ。世の罪を取り除く神の小羊。』」(ヨハネの福音書1:29)。

●「‥‥やみがあなたがたを襲うことがないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」(ヨハネの福音書12:35,36)。
 

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★世界最初の殺人事件!

2006-09-28 | 「人間の罪の問題」



 最近は、あまりにも簡単に人の命が奪われるという、悲しい殺人事件のニュースが日常茶飯事となっています。親がわが子を殺し、子が親を殺し、キレル若者が家に放火をして全焼させてしまったり、学校では友達の間で、互いに傷つけ合い、昔はとても考えられなかった殺傷事件が頻発して起こっています。この日本の国は一体、どうなってしまったのだろうか。日本人はどこに向かって行こうとしているのだろうか・・・・と嘆く方も多いのではないでしょうか。また、無思慮な若者たちが飲酒運転をすることによって、車は走る鋼鉄の凶器と化し、普通に道を歩いている通行人や幼い子供たちの行列に、突然、車が突っ込んで来て多数の命が奪われ、負傷することも珍しくなくなって来ました。これは、本当に悲しいことではないでしょうか。

 なぜ、このように人の命が軽視され、簡単に人殺しが行われるようになったのでしょうか。もちろん、これは日本人だけの問題ではなく、世界的な傾向でもあります。人々が互いに憎み合い、殺戮と戦争は今日まで、ずっと繰り返され、いつの時代にもあったことなのです。大昔から現代に至るまで、人が人を殺すという恐ろしいことが罪が行われて来たのであります。人が人を殺すことによって、どれだけ家庭を不幸にし、一般社会に悪影響を与え、人の心を暗くさせ、悲劇をもたらして来たことでしょう。しかし、そのような愚行から人間は何も学んで来なかったのです。例えば、戦争によって人は何か益を受けたり、それによって問題が解決したことがあるでしょうか。断じてないと言っても過言ではありません。

ところで、世界最初の殺人事件はいつ起こったかご存じでしょうか。それは、神が啓示された「聖書」にはっきりと記録されています。創世記の四章には、その生々しい殺人事件が記るされているのです。

●「ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。『なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。』 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。『野に行こうではないか。』そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、『あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。『知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。』 」(創世記4:3~9)。  

 ここに記されてあるように、その殺人は、兄(カイン)が弟(アベル)を殺すという家庭内の殺人事件として起こったことであります。そして、その殺人の動機は何かと言いますと。それは「妬み」と「怒り」と「憎悪」であります。殺人のために何かの凶器を用いたかどうかは明確には分かりませんが、それが野で行われたことを考えると、ある程度の大きさの石で殴りかかったのではないか、刃物を用いたことも推測できます。そして、そこには、明らかに「殺意」があったのであります。カインは最初から、弟アベルを殺す目的で、野に誘ったのであります。殺意がなくて、争っているうちに人を死なせてしまうこともありますが、この場合は、「殺意」があった明らかであり、その罪は非常に重いことが分かります。

 人類の始祖アダムとエバの間に、カインとアベルの二人の兄弟が与えられました。そして、弟アベルは羊を飼う者となり、兄カインは、土を耕して作物を収穫する農耕者となったのです。そして、収穫の時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たのです。また、アベルは信仰によって(ヘブル11:4)、その羊の初子の中から、最良のものを自分自身で持って来たのです。主は、信仰によってささげられたアベルのささげ物に目を留められました。なぜ、神がアベルのささげ物にだけ目を留められたのかについては、今は、ここで触れないことにしますが、兄のカインはこれによって、弟アベルを妬み、怒り、憎悪の念を持ち、ついには殺人の罪を犯してしまいました。この家庭に何と悲しい不幸な事件が起こったことでしょうか。

 人間の罪は、常に悲しい結果をもたらします。創世記三章に記録されてあるように、禁断の木の実を食べて神に反逆し罪を犯したアダムとエバは、その罪の意識があったので、「主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」(3:8)のです。これが、最初の罪の結果です。今日も人は罪を犯すと、まず、それを隠そうとします。犯した悪を隠蔽しようとする心は今日も同様であります。その次に、アダムが神様に責任を問われたとき、最初に言ったのは「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(3:12)という言葉でした。これは、「責任転嫁」です。そして、女を問い詰めると、同じように、「蛇(サタン)が私を惑わしたのです。それで、私は食べたのです。」(3:13)と、やはり責任転嫁をしたのです。このように、神に背を向けた結果は、まず夫婦の間に亀裂が生じさせたのです。

 そして、創世記四章まで来ると、罪は家庭内に入って来ました。兄弟間の争いから殺人事件に発展したのです。罪がいかに素早く外側に向かって浸透し、伝染して行くものであるかを知らされるのであります。人はなぜ人を殺すようになったのでしょうか。それは、明らかに人類が人にいのちを与えておられる神に背を向け、反逆し、神を忘れた生活をしているからであります。人間にいのちをお与えになったのは創造者なる神であり、特に日本人はその創造者を認めようとしませんから、人命を軽視する傾向にあります。神を恐れることを知らない人生は暗く不幸な人生です。そして、いのちを軽んじる社会になってしまったのです。

 みなさん、どうか真剣に考えてみて下さい。ある方は「人が人を殺してなぜ悪いのですか?」と真面目に質問しました。もし、今日の学校で教えている進化論的教育が正しいのであれば、すなわち、アメーバーが何らかの理由で、自然発生して爬虫類とか、いろいろな動物に進化して、ついに偶然の積み重ねによって、今日の人間になったのだととすれば、「人が人を殺してはいけない」という理由が見つからないことになります。進化論は「自然淘汰によって、環境に順応する生物だけが生き残って行く」という論理ですから、人殺しも戦争も否定する根拠がないことになります。しかし、聖書は、創造者(God)が、人にいのちを与えたことを明言しています。これは、厳粛なことです。律法がなくても、人は人殺しは悪いことであることを良心によって分かっています。その良心は神が与えたのでなければ、どこから来たのでしょうか(進化論では説明できません)。

●「神はこのように、人をご自身のかたち(内面的に)に創造された。神のかたちに創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)。

●「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息(霊)を吹き込まれた。そこで、人は生きものとなった。」(創世記2:7)。

●「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は・・・・・すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。 」(創世記17:24,25)。

●「殺してはならない。」(出エジプト記20:13)。”「十戒」の中の第六戒”
  これは、神から与えられているいのちの尊さを教えているものです。

●「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身を(十字架で)お捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ガラテヤ人への手紙1:4)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

 
 主イエス様はあるとき、「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。・・・兄弟に向かって・・・・『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナ(地獄)に投げ込まれます。」(マタイ5:21,22)と言われました。神は外側に表われた罪だけではなく、心の中まですべてをお見通しの御方であり、聖なる神の前には、すべてが裸なのであります。神は光であって、人が闇の中で行った事もすべて明らかにされる時が来るのです。しかし、同時に愛なる神はその御子イエス・キリストの身代わりの死によって、私たち永遠の滅びに向かっている人類を救おうとなさったのであります。そして、肉体のいのちよりも、もっと大切なのは、「永遠のいのち」であります。どうか、この尊いいのちをご自分のものとなさいますように心からお勧めします。

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★偶像崇拝の罪

2006-09-13 | 「人間の罪の問題」
   

 今日は、みなさんにとってちょっと耳の痛い話になるかも知れませんが、一般的に日本人は偶像崇拝(礼拝)に関して無知であり、また、その偶像崇拝の空しさとその罪の恐ろしさについて、理解されていない方が多いように思われます。このことについて、聖書はどのように告げているのかを見てみたいと思います。人間の手で作ったものであっても、生きている人間や動物であっても、あるいは死んだ人であっても、自然界や太陽であっても、創造者である唯一の神以外のいかなるものであっても、それを礼拝することは、みな罪であると聖書は語っているのであります。「・・・・の神」と簡単に何でも神にしてしまう日本人は、唯一の絶対者である全知全能の神だけを礼拝するということはなかなか理解できないようであります。
    
【1】偶像崇拝の空しさ。
●「異邦人の道を見習うな。天のしるしにおののくな。・・・・・・国々の民のならわしはむなしいからだ。それは、林から切り出された木、木工が、なたで造った物にすぎない。それは銀と金で飾られ、釘や、槌で、動かないように打ちつけられる。それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、いちいち運んでやらなければならない。そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ。」(エレミヤ書10:1~5)。

●「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮(神社)などには、お住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。‥‥」(使徒17:24、25)。

●「偶像を造る者はみな、むなしい。・・・・だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。・・・・・鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。・・・・」(イザヤ書44:9~17)。


 偶像は人間が考え、造り出した神の代用品です。私たち人間は神によって造られたのです。この造られた人間が神を造ることは出来ません。人間は人形を造ることが出来ても、人形は人間を造ることはできません。これらのことは幼い子供でも分かることです。また、偶像は人を救うことができません。関東大震災の時の話ですが、一人のお婆さんが、一番大切にしていた神棚の神、仏壇の位牌を風呂敷に包み、背中に背負って、安全な所に逃げ出して、「ああ、よかった!神さまと仏さまを救い出すことができて!」と言ったとのこと。人を救うのではなく、人に救ってもらわなければならない偶像の神々は無力で、空しいものだとは思われませんか。

【2】偶像崇拝の罪。
●「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。・・・・・」(出エジプト記20:3~5)。

●「なぜなら、神について知りうることは、彼らには明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。・・・・・・彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らを・・・・それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。」(ローマ人への手紙1:19~25)。

●「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」(Ⅰコリント6:9,10)。

【3】偶像崇拝と悪霊の関係。
●「私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。」(Ⅰコリント10:19~20)。

 聖書の語るところによれば、人類に偶像礼拝を教え、偶像を造らせ、偶像を拝ませ、偶像に仕えさせているのは一体だれなのかと言うと、それは悪魔であると教えています。悪魔は人類最大の敵であります。そして、昼夜を問わず、人間を真の神から離し、人を地獄に引き入れ、滅ぼすために働いているのです。悪魔は霊的実在者であり、実際に生きて働いているのです。私たちは、科学が進歩し、物質文明が豊かな時代に生きていますが、戦争の危機は増すばかりであり、日常化した殺人事件のニュース、自殺者は増加し、人類は益々不幸になっています。その背後に巨大な悪魔と悪霊の働きがあることを知る必要があります。

【4】偶像崇拝の罪に対する神のさばき。
●「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。・・・・・・神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人(イエス・キリスト)により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方(イエス・キリスト)を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」(使徒の働き17:28~31)。

●「いのちの書に名の記されていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。・・・・・しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」(ヨハネの黙示録20:15,21:8)。


【5】人々が偶像より神に立ち返るのを忍耐して待つ愛の神。
●「主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。」(Ⅰテサロニケ1:8~10)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。


 聖書は神からの愛の手紙であると同時に、実に多くの警告に満ちている書物であります。聖書を読む時に、自分の気持ちにぴったり合うところ、好きな聖句だけを選んで読む人がいます。また、神からの慰めだけを求めて読む人もいます。しかし、聖書66巻のすべては神に霊感されて書かれた永遠の真理の書であり、聖書の真理のすべてを受け入れる時に真の平和と幸福を得ることができるのであります。偶像に仕えて不幸になっている人類を憐れみ、神は救い主として、ご自身の御子をお遣わしになられたのです。十字架上で深紅の血にまみれた御子イエス様の姿を見上げて下さい。そこに神の愛のすべてが表されているのであります。キリストの十字架はあなたを永遠の地獄から救うためであったのです。人間の罪とさばきについての記述も真実でありますが、その恐ろしい滅びからの救いの記述も間違いのない真実なのであります。これを信じるか否かは、あなたの永遠の運命に関わる重大事であります。

◆(E-mail): goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」 

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★平和の道を知らない人間

2006-05-14 | 「人間の罪の問題」

       

 人間は誰でも、争いのない平和な家庭と平和な社会を求め、また戦争のない平和な世界を願っています。しかし、平和を願う人間の心とは裏腹に、人類の歴史にはいつも争いと戦争があり、人々は戦争やテロの不安と恐怖に怯え、世界は戦争による地球環境破壊と混乱によって、益々取り返しのつかない暗い方向に向かっているように思われます。
 
 理性を与えられている人間が、どうして戦争を回避することができないのでしょうか。戦争によって得るものは何もないと知りながら、人類はなぜ、その歴史から教訓を学ぶことが出来ないのでしょうか。ほんとうに人間は平和を求めながら、平和の道を知らない、平和を実現し得ない存在であることを知らされるのであります。新約聖書のローマ人への手紙3章に記されている次のことばは真実であると実感させられます。
 
●「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神に対する恐れがない。」 (ローマ人への手紙3:10~18)。

 聖書のみことばが語るごとく、人類は平和の道を知らないのです。平和を願う心はあっても、平和の道、すなわち平和を得る方法を知らないのです。 また、「彼らの足は血を流すのに速く」とありますが、人類が互いに憎しみ合い、殺し合うことによってどれだけ多くの人々の血が流されているでしょうか。そして、戦争によって得るものは何もなく、「破壊と悲惨」があるだけであります。戦争によって多くの人の命が奪われ、資源を失い、地球環境は汚染され、破壊と悲惨は目を覆うばかりです。

 では、人類はなぜ平和の道を知らないのでしょうか。それは、「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」からです。天地万物を創造された真の神様は、聖よく正しいお方であり、また「平和の神」であります。人類が平和の神に背を向けて、自分勝手な罪の道を歩みはじめたその時から、人間の心はいつも不安と恐れと不信と疑いに満たされ、その心から「平和」が消え去ってしまったのです。神との断絶によって神との平和な関係が失われ、人と人との間にも平和な交わりがなくなってしまったのです。 

 戦争と殺戮が繰り返され、益々悪化する犯罪の報道などによって、人間の罪の性質のいい知れない深刻さを痛感させられますが、神との断絶こそ、憎しみと争いの根本的な原因です。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」(ヤコブの手紙4:1,2)と聖書は明確に告げています。

 しかし、この平和を実現し得ない人類に本当の「平和」をもたらしてくださったお方が平和の神であり、その神に遣わされた救い主が「平和の君」なる主イエス・キリストであります。神と神に反逆する人類との和解のために、人類の罪の身代わりとなって、あの十字架でご自身の血を流して死んでくださったのです。キリストを自分の救い主として信じ受け入れるならば、誰でも罪が赦され心の中に本当の平和を持つことが出来るのです。

●「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(Ⅱコリント人への手紙5:19~21)。

 あなたも神に背を向けた生活を止めて、キリストを信じて神との平和を得る者とされ、悲惨な争いと憎しみに満ちたこの世にあって、キリストの平和の福音(良き訪れ)を大胆に宣べ伝えることによって、真の意味で「平和を作り出す」方となられませんか。それこそが、真の平安と希望に満ちた人生なのです。

◆(E-mail): goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」
 

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★人間の罪とその結果

2005-09-20 | 「人間の罪の問題」
 
ある本に次のようなことが書かれていました。戦時中、日本の一人の軍人が捕虜を生きたまま解剖するという恐ろしい経験をしたのですが、戦後、その罪の呵責でず~っと長い間悩み続けたのです。そして、時間が経つうちに、やがて、だんだんその呵責を感じなくなって行くという内容です。人間というものは、ある時その心の中に罪の自覚が起こっても、あるいはそういう罪を教えられても、いつの間にかその自覚が希薄になって消えて行ってしまって何も残らなくなってしまうことがあるのです。ちょうど、広い太平洋に毒薬を一滴落としたようなもので、それがだんだん薄められて行くと、いつの間にかその毒が分からなくなってしまうのです。人間の罪についても同様のことが言えるのです。

 「公害」の問題が一時は大変大きな問題となりましたが、最近は当時ほど大きな問題として取り上げられなくなって来ているように感じます。しかし、実際には、当時に比べて何も改善されていないというか、さらに悪化しつつあると言っても過言ではないと思います。「公害」時代になって分かって来たことの一つに「希釈」(うすめる)ということの恐怖があります。大分以前の話ですが、スウェーデンの海で、海藻の多くが死滅したので調べたところ、工場排水に銅イオンが含まれていたことが分かりました。それは、ごく少量で何でもないと思われるほどであったのです。ところが、実はその薄められた少量の毒が海藻類の命取りになったのです。気がつかないうちに少しづつ海藻に害を与えていたのです。

 「水俣病」の場合も同じです。メチル水銀が大量に海に流れ込んだなら、魚介類は急に死んだと思いますが、当然、死んだ魚介類を人は食べるはずがありません。したがって、もしそうなら「水俣病」は起こらなかったはずです。ところが、毒が薄められていたので、気がつかないうちに魚介は汚染され、それを食べた人が「不治の病」となってしまったのです。海に落ちた猛毒は一度は分からないほどに薄められますが、プランクトン→魚→動物→人間という順序でだんだん濃縮されて、体の中に毒が残って、恐ろしい結果となることが分かったのです。太平洋の中に消えたはずの毒の一滴が突然の死を引き起こすように、人間が罪の自覚や罪の結果に恐怖しなければならない時が必ず来ることを聖書は厳粛に告げています。

●「見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。」(エゼキエル18:4)。

●「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。 」(ガラテヤ人への手紙6:7)。

●「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。 ・・・・・」(ローマ人への手紙2:1~5)。


 ユダヤ人は、自分たちは異邦人のように汚れた者ではないと自負していました。しかし、旧約聖書のユダヤ人の歴史を読むと、ユダヤ人も異邦人もみな同じように罪人であることがはっきりと示されています。それは、例えて言えば米の品質検査官が先のとがった細い管を米の俵(袋)に差し込んで、中から少量の米を取り出して、その米の品質を見て、その全体の等級を決めるのによく似ています。神は、全人類の中から、ユダヤ民族だけを取り出して、それに律法を与えてそれを守れるかどうかを試されたのです。そして、ユダヤ人は律法を守れないことがはっきりしました。ですから、ユダヤ人の恥ずべき罪状は全人類の罪状であると言い切ることができるのです。

 ユダヤ人も異邦人も、聖なる神の前にはみな罪人であり、悪を行えば罰せられるのであります。それには人種による差別はありません。異邦人(ユダヤ人以外の外国人)には、律法が与えられませんでしたが、良心が与えられましたので、それによって罪が分かるはずであります。また、当然ですが貴賎貧富や男女による差別もありません。私たちは、社会が悪い、政治が悪い、親が悪い、学校が悪い・・・・・といいますが、そして、それは事実そのとおりであるかもしれませんが、だからといって、それは神の前には言い訳にならないのです。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

 人間の罪に対しては、必ずさばきがあります。そして、それは人が人を裁く時のような不完全なものではありません。神による完全な正義のさばきであります。聖書に記されている神は、人の心の中に隠されている思いもすべてご存じであり、それを明らかにし、正確に裁かれる方であります。しかし、神は人間の心の中の罪も、外に表された罪過もすべて裁くことのできる正義の御方でありますが、同時に愛の神でありますので、私たち罪人のために救い主をお遣わしになられ、その救いを提供しておられる方なのです。

●「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 」(ローマ人への手紙3:23,24)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。 


 「死」と「永遠のいのち」。これは、人間が最終的に行き着くところの両極端であります。私たちは、罪のゆえに、当然、死、すなわち永遠の滅び(地獄)に行くべき存在であります。しかし、愛なる神様は、イエス・キリストの十字架のゆえに、「永遠のいのち」を恵みによって与えてくださる方であります。しかし、そのためには、自分の罪の事実を素直に認めて、賜物としての救い(永遠のいのち)を受け入れる従順な心がなければならないのです。神様はあなたにもその賜物を与えようとしておられます。どうか、あなたも、頑なな心を開いて、救い主イエス様を信仰によって受け入れ、尊い救いをご自分のものとなさってくださいますようにお勧めいたします。


 

★人間の罪の影響力

2005-07-21 | 「人間の罪の問題」
            
  人間の罪の問題について三つのことを考えることができます。すなわち、罪は、第一に自分を傷つけ、第二に他人(ひと)を傷つけ、さらに神のみ心を傷つけるものであるということです。  

【1】罪はまず自分自身を傷つけるのです。
 暴飲暴食、酒やタバコ、覚せい剤、不道徳な生活などの不節制によって、どれほど、自分の体の健康を害することでしょうか(病気の原因のすべてがそうであるという意味ではありません)。そのような不節制に勝つことが出来ずに、体を痛め、心配と気苦労で自分の命を縮めることもあるのです。また、心の不安や悩みがどれほど健康を害することでしょうか。言い換えれば、人々は神を離れた心の不安や罪のために自分のいのちを縮めることがあるのです。

 罪はまた、自分の環境に悪い影響を及ぼします。一例を上げると、若い時から酒がもとで、放蕩生活に陥り、ついには宿る家もない放浪者のように落ちぶれの身となることもあります。自分が蒔いた種は刈り取らなければならないのです。罪はまた自分の心を不安にします。罪は人の心から安心と平安を奪ってしまうものであります。「清い良心はもっとも良い枕である。」という諺がありますが、心にやましいことがなければ、何の煩悶もなく安らかに眠ることができますが、罪があれば心に平安がありません。「世の中の人は知らねど罪あれば、わが身を責むるわが心かな」と詠った人がいますが、悪いことをした犯罪人は、寝返りばかりして、夜、床に入っても苦しまなければなりません。
 
●「悪者は、追う人もないのに逃げる。」(箴言28:1)。

 かつて、大阪で金庫破りの窃盗犯があった頃のこと、ある日、芦屋川の附近を一人の男が歩いていました。後ろから一人の巡査が何気なく歩いていたのですが、ふと石に躓いた瞬間、前につんのめるようになったのです。すると、、前を歩いていたその男がものに驚いた馬車馬のように急に走り出したのです。これは怪しいとにらんだ巡査は後を追いかけて、「コラー!」とばかりに襟首を捕まえて、取り調べると、それこそ、金庫破りの窃盗犯であったというのです。重罪人が罪を犯してから捕まるまでには必ず、数㎏は体重が減っていると言われています。人間には良心がありますから、罪を犯して平気でいることができないのです。

 また、罪というのは、自分の一生を駄目にしてしまうものであります。罪はそれを犯す度毎に、一つの習慣性となって人間の道徳性を破壊して行くもので、人の意志の力は弱くなり、良心は麻痺して行きます。そして、終わりには、人間そのものが台無しになってしまいます。飲酒や不道徳も、その人の人格を破壊してしまうものであります。また、繰り返し繰り返し嘘をついていると、それが習慣性となり、良心は麻痺してしまい、嘘をついても平気でいるようになってしまうのです。

【2】 罪は、また、他人を傷つけます。
 一つの石を静かな湖面に投げますと、その波動が池全体に広がって行くように、罪は必ず、四方の人々にも影響を与えます。罪には伝染性があるのです。誰かが、人の悪口を言ったり、中傷したりすれば、間違いなく、それは周囲に伝染して行きます。罪の小石の一つが家庭の中に投げられると、一家の平和も団欒もすぐ破られてしまいます。短気な夫、すぐヒステリーになる妻、道徳的にだらしない親がいたらどうでしょうか。それは、間違いなく、家庭の平和を奪うものとなります。罪は、人を傷つけずにはおかないのです。怒り、妬み、恨み、高慢、貪り‥‥‥これらは、言葉に、態度に、顔の表情に必ず表われて、他人の心を傷つけてしまいます。

【3】罪は、神のみこころを傷つけます。
 子供の親に対する罪は親不幸であり、大きな罪です。また、夫婦以外で性的な関係を持てば、妻が夫に、また夫が妻に対して不貞の罪を犯すことになります。また、国民の国に対する罪は法を犯す犯罪となります。そして、最も大きな罪は、人間の神に対する不信仰の罪であり、これほど恐ろしい罪はないのです。子供の喧嘩を見て、もっとも心を痛めるのは親なのです。同様に、この世の中で人々が憎み合い、争い、傷つあっているのを見て、人を創造された神様は心が張り裂けるばかりにその御心を痛め、悲しんでおられるのです。私たちの毎日の罪がどれほど、神の御心を痛め、悲しませていることでしょうか。次のみことばは、あのダビデ王が犯した罪の大きさを悟り、悔い改めて告白したときのものです。

●「私はあなた(神)に、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。」(詩篇51:4)。

 かつて、ある都市が大震災に見舞われた時、一人の子供は家の棟木の下に足を敷かれて逃げることができないでいました。父親は何とかしようとして焦るのですが、力及ばず、火はだんだん廻って来て、一刻の猶予もならない状況になりました。いよいよ見切りをつけた父親は、、何を思ったのか、手斧を持って来て、子供に言ったのです。「せがれ、許してくれ。俺はお前の命を助けたいからお前の足を切るぞ!痛いだろうが我慢してくれ!」と、まるで薪(たきぎ)でも切るかのように斧をふるって足首を切ったのです。そして、やっとのことでわが子を助け出したということなのです。親の愛というのはもの凄いものだと思います。

 しかし、神の愛はもっと凄いのです。何とかして、罪の刑罰から救い出そうとしてご自身のひとり子を世に遣わしてくださり、私たちの身代わりに十字架にまでつけてくださいました。どうか、神の犠牲的な驚くべき愛を無になさらないで、イエス・キリストを信じて、神に背を向けた罪の生活から救われてくださいますようにお願いいたします。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。 もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。 」(マルコの福音書9:43~45)。


 神は愛なる方ですから、どんな大きな犠牲を払ってでも、恐ろしい永遠の地獄からの救いを願っておられるのです。神は真剣です。サタン(悪魔)も抵抗しています。どうぞ、あなたも真剣になって、この罪と死の恐怖から解放された幸いな生活を求められませんか。

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★人間の罪と心の汚れ

2005-07-01 | 「人間の罪の問題」

  私たち人間は、だれでもうわべを美しく飾って、人の前に自分をきれいに見せようとする傾向があります。美容院が繁盛するのも、化粧品が飛ぶように売れるのもその一つの表われではないでしょうか。しかし、私たちの心の汚さについては殆どの方が無関心です。
 
 心の中のことは口に表われるものですが、私たちが毎日いろいろなことばを口から発しますが、そのことばは、すべて誰に聞かれても恥ずかしくないものでしょうか。冷静な時は、まだよいとしても、少し感情が高ぶったり、人から中傷されたりして嫌な思いさせられたりすると、人間は顔に似合わないような汚いことばを平気で吐くものです。私たちが毎日語ることばを録音して、それを一日の終わりに聞くとしたら、私たちは、きっと顔を赤くしてしまうのではないでしょうか。

 昔、一人の少年を連れた老人が病院を訪れて、「私はまだ医者にかかったことがないのが自慢ですが、わしの子供たちはみんな弱くて小さい時に死んでしまった。一人残った子供の父親もこの間、結核で亡くなってしまった。残されたこの子も弱くて年中風邪ばかり引いて困ったものです。」と訴えるのです。おかしいと思った医師は老人の胸にレントゲンをかけて見たら、一家の病原菌は、この老人の胸中に発見されたという皮肉な話があります。

 自覚症状のない病気ほど恐ろしいものはありません。真面目に働き、特別悪いことはしていないから‥‥と自分は善人であると思っておられる方はおられないでしょうか。私たちは、通常、法律的な犯罪以外は、罪であると意識しないかもしれません。しかし、聖書が教える罪というのは、それだけではなく、心の中の罪や汚れこそがすべての表に表われる犯罪の源であるというのです。
 
 レントゲンで胸を診られるとき、誰でもちょっと怖い感じを持つのではないでしょうか。もしかしたら、胸に空洞があるかもしれないという不安があるからです。人間は、自分で見られないところを見るのが怖いのです。それと同様に、人間は神の前に出るのを恐れるのですね。人間は神の声を聞きたくないのです。本当の自分の姿を見たくないし、また知りたくないからです。
 
 聖書は、人間の心を写す鏡のようです。聖書を真剣に読むなら誰でも自分が不完全な人間であり、罪人であることが分かって来ます。でも、神の前に、すべてをさらけ出す勇気を持っていただきたいのです。神様はあなたの心の中のすべてをご存じの御方であります。そして、その心の中の罪と汚れ、罪のさばきからの救いも用意してくださっておられるのです。

 人間というのは、罪の力に対して無力であり、一人の人間が真面目に生きようとすれば、もうそれだけで容易ではないことに気づきます。孔子は「不善を改むることあたわず、これわが憂いなり。」と言い、王陽明(学者)は、「山中の賊は平らぐるに易く、心中の賊(罪や汚れ)は、平らげ難し。」と、言いました。また、あの使徒パウロでさえ、「私には、自分のしていることが分かりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。‥‥‥私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ人への手紙7:24)と告白したのです。これは、すべての人の心からの叫びではないでしょうか。人間には善をしたい心があっても、それを行う力がないのです。

 暗い部屋の中では、どれだけの塵(ちり)があるか分かりません。しかし、戸の隙間から漏れる朝日の光に照らされると、千万無数の塵が飛び回っているのが見えて来ます。光が強ければ強いほど、小さい塵までも見えてくるのです。それと、同様に聖書のみことばの霊的な光によって、自らの心中が照らされると、自分の罪深さを初めて知るのです。
 
 一体、人間はどこで罪を犯すでしょうか。あなたの手で物を盗んでも手が痛くなるでしょうか。いいえ。口でウソをついたら口が痛くなるでしょうか。いいえ。目で汚れたものを見たら、目が痛くなるでしょうか。いいえ。あなたの心が痛むのです。人間には良心があるので、良心の呵責を覚えるのです。手も、口も、目も、あなたの心の中から出て来る罪を犯す道具のようなものに過ぎません。そして、-----人間の霊魂は肉体的な死の後にも存在しますから、その罪のさばきを受けるのは当然なのです。

 一つの石を池に投じれば、最初小さな波動が起こり、それがやがてその波紋が全面に広がって行くように、心の中に潜む罪もいつか外に表われて、周囲の人々にも害毒を及ぼします。怒り、恨み、妬み、高慢、貪りも、あるいは言葉に、あるいは行為に、あるいは態度に表われて、人の心に痛手を与えます。怒りに満ちた一言は刃物のように他人を傷つけ、高慢と恨みに燃える目の一瞥は、人の心に毒矢を射込むのです。「罪を犯すことは仕方のないことだ。そんなこと周りの人がみんなやっているではないか。」と言う人がいますね。
 
 しかし、その言葉を言っている人が被害者の立場に立つと、相手が言う「仕方がないではないか!」という言葉を決して受けつけません。また、法律的な罪を犯した場合、裁判官に「仕方がないではありませんか。」と言っても通用しないのです。ですから、私たちの罪が永遠の地獄に値すると言われる神の前に立った時に、同じような言い訳をしても通用しないのです。それは空しい口実に過ぎないし、罪の生活を続けたいからに他ならないのです。

●「クシュ人(エチオピヤ人:黒人)がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行なうことができるだろう。 」(エレミヤ書13:23)。

●「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよ。 」(エレミヤ17:9)。

●「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。 」(ヤコブの手紙1:14,15)。

●「人から出るもの、これが、人を汚すのです。 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねた み、そしり、 高ぶり、愚かさであり、 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコの福音書7:20~23)。

 聖書の中のこれらのみことばは、みな人間の罪深さを示しています。しかし、神は、私たちのように腐ってしまった人間を愛してくださり、ご自分の御子をこの世にお遣わしになられ、十字架につけられ、罪なきキリストが私たちの身代わりに神の刑罰をお受けくださったのです。この尊い救い主を信じる者はみな罪赦されて天国に入ることが出来るのです。なんと、驚くべき神の愛でしょうか。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「神は、罪を知らない方(キリスト)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。 」(コリント人への第二の手紙5:21)。

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★不幸の原因は人間の罪

2005-06-21 | 「人間の罪の問題」

  「愛に満ちた慈悲深い神様がおられるのなら、どうして、人間の世の中にいろいろな不幸や災いがあるのか。」ということばをよく聞くことがあります。確かに、昔からこの世は憂き世だ、苦の娑婆だ、涙の谷だと言って、喜んで世渡りをしている者は誠に少ないのが現実です。
 
 病気で苦しむ者もあれば、貧困に喘ぎ苦しむ者もおり、あるいは事業で失敗する者もあり、死別の悲しみもあれば、あるいは家庭の不和に悩む人もあれば、突然の事故に遭遇して一瞬に家族が不幸に見舞われることもあり、また時には、裕福な暮らしをしていても心の中には様々な不安や心配事と悩みで満ちている人々も少なくありません。また、世界中に起こっている戦争やテロの報復合戦の悲劇は、一体なぜなのだ!と人は言うのです。

 「もし、愛の神が本当にいるのであれば、もっと、人間を幸福に暮らせるようにしてくださってもよさそうなものではないか!‥‥」との人々のことばは、もっともな考えであります。私も、若い頃、最初に聖書を手にした頃、同じようなことを考えたことがあります。しかし、そこには、ちゃんとした説明のできる理由があるのです。神様が人間を、わざわざ苦しめておられるのではないのです。実は、人間が神様に背を向けて、罪を犯し、神から離れ、災いをわが身に招いているのです。人間の不幸と悩みは、外から来るよりも実は心の中から来るのです。 

 昔、こんな話を聞いたことがあります。ある町外れの飲食店に、夜おそく、大きな鞄を提げた立派な紳士が入って来て、時もおそくなって町の旅館は閉まっているから一晩泊めてもらいたいとのこと、見れば、相当のお金もありそうな、よいお客がやって来たと奥座敷へ案内し、丁重に取り扱いました。そして、こんな金持ちを泊めてもしか泥棒でも入ってはと、いつになく戸締りも厳重にし、これで安心と床に就いたのはよいのですが、実はそのお客が泥棒で、家人が寝静まったのを見届けてむっくりと起き上がり、着物から金庫のお金から、すっかり大鞄の中に入れて、こっそり出て行ってしまったのです。夜が明けてみて家人はびっくり仰天、しかし、泥棒を家に閉じ込めておいていくら戸締りを厳重にしても何の意味もないのです。

 そのように、どんなに自分の境遇をよくし、持ち物を豊かにし、教養を身につけて外側のことばかり作り上げても、心の中に罪を宿していては、泥棒を内に閉じ込めているようなもので、聖書は災いの最初の原因は実は心の中にあると言っているのです。しかし、罪といえば、「私には、罪などない。警察の厄介になった覚えもないし、刑務所に入った記憶もない。」と言われる方もおられるでしょう。
 
 しかし、例えばの話ですが、コレラやペストや赤痢などの病気は伝染病で、そのまま放置しておいては、大変で法律上このような伝染病の人は、隔離病院(棟)に入れることになっていますが、それなら、隔離病院以外に病人はいないかと言えば、そんなことはありません。もっと念の入った病気がたくさんあります。自宅で苦しんでいる人もたくさんいるのです。

 それと同様に、窃盗、強盗、殺人、放火、誘拐、詐欺‥‥などの恐ろしい罪を犯した人は放っておいては、社会を乱すことになるので、刑務所に入れますが、しかし、ねたみ、恨み、偽り、高慢、放蕩、淫乱、好色、不品行、などのように根深い心の病気がたくさんあって、自分も苦しみ、また他人をも苦しめているのが、世界の実情です。罪と言っても、外側に現れたものは実は枝葉で、心の中にその根があるのです。主イエス様は次のように教えられました。

●「人から出るもの、これが、人を汚すのです。 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねた み、そしり、 高ぶり、愚かさであり、 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」 (マルコの福音書7:20~23)。

 ですから、心の中の罪の思いがすべての犯罪の種であり、卵なのです。一つの卵でも暖めれば雛が飛び出して来るように、人の心の中からもいろいろな罪が飛び出して来るのです。人には、外に現れた罪だけしか見えませんが、神様はその種をも卵をも罪として取り扱い、これを処置なさるのであります。聖よい神の前に、「私には罪など一つもない。」と言い得る人がいるでしょうか。
 
 人間は、みな、「罪」という爆弾を抱えて世渡りをしているようなものです。その爆弾がいつ爆発するか、自分でさえも分からないのです。自分は、絶対人殺しなどのような恐ろしい罪を犯すことなどあり得ないと考えておられる方が多いと思います。でも、ちょうど、そのような犯罪を犯す条件下に置かれるならば、だれでもその可能性を否定することができないのです。

●「義人はいない。ひとりもいない。 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。‥‥‥すべての人は罪を犯したので、神からの栄光を受けることができず‥‥」 (ローマ人への手紙3:10~12,23)。
 
 ある人に一人の女の子があって非常に可愛がっていました。そこで子どもの方でも父親の帰りが待ち遠しくて仕方がありませんでした。毎日靴音が聞こえると飛び出して行って父親を迎えるのです。 父親もそのことが何よりも楽しみでありました。ところが、ある日父の留守中に、この娘が父親が大切にしていた床の間の花瓶を割ってしまいました。それで、その日に限って父の帰るのが怖くて仕方がありませんでした。父親の靴音が聞こえると、障子の陰に隠れてしまいました。

 小さな罪でも、それがこのように親しい親子の交わりを妨げる結果となるのです。それと同じように、神は愛に満ちた慈悲深いお方ですが、人間の心に罪があり、その生涯が汚れているならば、聖よい神様との交わりはできなくなるのです。地球の130万倍近くもある太陽でも、目に一枚の銅貨を当てればもう見えなくなります。そのように、心の目を罪が覆うならば、神様が見えなくなってしまうのです。

●「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。 」(イザヤ書59:1)。

●「主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。 」(イザヤ書55:7)。

●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。 」(ヨハネの福音書3:36)。


 イエス・キリストは、あなたの罪のために十字架で身代わりに神の刑罰を受けて死んでくださった救い主です。どうぞ、ご自分の罪をお認めになられて、救い主を受け入れ、幸福と希望に満ちた人生をお送りください。

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★「善悪」の天秤と天国

2005-06-04 | 「人間の罪の問題」



  私は若い時に、ある方と聖書と人生について、また、死後の問題や天国と地獄のことを話す機会があったのですが、この方は、ある考え方を持っていました。その方の意見はこうでした。大体の内容は次のようなものであったと思います。「私は、このように考えますがどうですか。人間には誰でも善悪があります。そして、一人の人間の生涯の間の善悪を天秤にかけて、『善』が『悪』よりも多ければ、死後天国に行き、『善』よりも『悪』の方が多ければ、残念ながら地獄に投げ込まれると考えています。」 今日でも、このような考えをお持ちの方が結構多いのではないかと思います。

 私はある小冊子で読んだこを思い出して、その方に次のように答えたのです。「例えば、Aさんという男の人が今日、赤十字社の事務所へ行って、5万円を寄付したと仮定しましょう。この団体は、洪水とか台風、疫病の流行している時などに人々を救護したり、その他いろいろな慈善を行っているのですから、この寄付行為を善と考えても差支えないですね!」その方は、「はい、あなたのおっしゃる通りです。」と返事をしました。それを聞いて、私は話を続けました。「しかし、受け取りを貰って事務所を出たAさんは、帰途、ちょうど空腹だったので、果物屋の前を通りかかった時、美味しそうなリンゴを見て、これは大好物だと思って、店員さんが見ていない時に、リンゴを手に取って素早くポケットに入れ、家に急いで帰ろうとしました。ところが、向こう側に立っていたお巡りさんがこれを見て、後をつけて来ました。ここまでの話は分かりましたね。これは、あくまでも仮定の話ですよ!」

 彼は「はい、分かりました。」と答えました。「‥‥それから、お巡りさんは、後ろからついて来て、『これ、これ、お前はここで何をしているのかね』と声をかけ、そのあと、次のような会話が続きました。『は、はい!リンゴを食べています。』『それは分かっているが、どこから来たのか』『あの~、あっちの果物屋から来ましたよ』『それも分かっている。でも、それは実は盗んだものではないのか』と聞かれたのです。Aさんは、慌てて『あの~、実はその通りなのです。私はこのリンゴを盗みました。どうか、お許しください。』と懇願しました。お巡りさんは、『他人の物を盗んでおいて、許してくださいとは何事だ!!』と厳しく答えました。‥‥」

 以下、次のように話は続きました。「‥‥Aさんは、それを聞くとすぐ、ポケットから先程の受け取りを出して、自分の立場を弁明しました。『お巡りさん、どうか、これを見てください。これは、私が先程5万円の善行を行った証拠ですよ。だから、今回の1個100円のリンゴを盗んだことくらい許してくれてもいいではありませんか。5万円から100円の悪を引いたとしても、4万9千9百円の善が残っているではありませんか。』とAさんは答えました。」というような話をしたのです。 私は「さて、もし、あなたがお巡りさんだったら、なるほど!と感じて許すでしょうか。」と彼に尋ねました。これを聞いた彼は、笑ったまま何も答えることができませんでした。

 また、次のようなことを仮定として考えてみてください。ある人が車を運転していて、通りがかった道の橋の下の川で子供が溺れているのを見ました。それで、彼はそれを見て、かわいそうに思い、急いで車を止めて、川に飛び込んで命がけでその子供を救助したのです。その後、彼は運転中に不注意のため、わき見運転中に事故を起こし、人を跳ねてしまいました。さて、この人は最初に一人の子供を救助する善行を行い、その後で不注意のために事故を起こし、通行人に大怪我をさせてしまったのですが、この人は最初の善行のゆえに、後に犯した罪がすべて許されるということがあるでしょうか。

 読者のみなさんは、私が言いたいことがお分かりだと思います。私たちは、人生の中で、誰でも善と悪を行ったことがあると思います。どんなに善が勝っているように見えても、たった一つの悪さえ消す力はないのです。従って、悪の一つ一つに神の刑罰があることは明白ではないでしょうか。その上、人間の善行は自分や他人の目から見た善行であって、まったく聖よい神の目には「汚れた衣」のようであり、善行などというものは実はないのです。聖書にも「善を行う人はいない。一人もいない。」と書いてあります。人は、常に自分より悪い人と比較して、「自分は、あの人よりは勝っている!」と、勝手に考えて自己満足しているのです。10円盗んでも、1億円盗んでも、泥棒であることには違いありません。1回嘘をついても、1万回嘘をついても「嘘つき」であることには、変わりはないのです。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。 

 私たちは、この神より受ける死後の刑罰から、どのようにしたら救われるのでしょうか?難行苦行や善行によってでしょうか?また、人間が作り出した宗教によってでしょうか。いや、決してそうではありません。神の前にはすべての人は有罪者です。有罪者の私たちは、神様の恵みと憐れみによらなけば、永遠の滅びに至る以外にないのです。愛と憐れみに満ちておられる真の神様は、哀れな私たちを救うために、御子イエス・キリストを遣わされました。これは、驚くべき神の愛であります。

●「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(コリント人への第二の手紙5:21)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。 

●「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 神は、キリスト・イエスを、その血に よる、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。」(ローマ人への手紙3:23~25)。


 このように、私たちは、神の御前にはみな罪人ですが、キリストが十字架上で、私たちの身代わりとなって神の刑罰を受けてくださったので、有罪者であってもキリストを信じる者は罪赦され、神の御前に義(正しい者)とされるのです。あなたも愛の神様の救いの御手を拒まないで、是非この尊い救いをお受けくださいますように。

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★醜い心の中の罪

2005-05-28 | 「人間の罪の問題」

       

   若い頃、こんな話を聞いたことがあります。青森県のある町に顔が半分非常にゆがんだ婦人がいました。その方は、以前はミス青森銀行になったほどの美人であったそうです。ところが、このミス青銀に一人の女友達がいたのですが、日頃から美人の彼女に対してひそかに強い嫉妬心を抱いていました。ある日、二人が一緒にいたとき、その友達は何かを話しかけるふりをして、ミス青銀に近づき、あっという間にその美しい顔に塩酸をかけてしまったのです。突然の叫びを聞きつけて人々は助けに走りましたが、すべてはあとの祭りでした。「ああ~、なんと惨いことを!!」
 
 彼女の顔は、一瞬にして醜く焼けただれてしまいました。彼女は非常に悩み苦しみましたが、後になってその苦しみによって教会に導かれ、イエス・キリストを救い主として信じることによって、新しい喜びと力を与えられたことを聞きましたが、そのような罪を働いた彼女の友達はなんと大きな罪を犯してしまったことでしょうか。しかし、これと同じように、自分の感情を押さえきれずについに本性を表して、大きな罪を犯してしまうというような事件は、最近は日常茶飯事のごとく、起こっているのが実情ではないでしょうか。今は、昔よりもっと恐ろしい罪が平気で行われ、何かのきっかけですぐキレテしまう人が多くなっています。毎日の新聞報道で、読みたくないような事件があまりにも多過ぎます。

 ある県知事は次のようなことを言ったことがありました。「誰もが(法律的な)犯罪人ではない。しかし、誰もが殺人罪を犯し得る思いや、願いや欲望を持っている。」と。これらは、すべてあなたの良心が細大漏らさず記録しています。自分自身のことを考えてみても、もし、殺人犯と同じような状況に置かれた場合、絶対に自分はそのような大罪は犯すことなどあり得ないとは言い切れないのではないかと思います。ただ、今まで、私の場合、たまたまそのような状況や境遇に置かれたことがなかったというだけのことかもしれません。「すべての人は、一度死ぬことと、死んだ後罪のために神様のさばきを受けることが定まっている。」(ヘブル9:27)と記されていますので、良心の声を無視することは大変危険なことであります。また、必ず罪に伴う心の不安や良心の呵責も生じて来ます。

一つの例ですが、ある旅館で、一人の客のお金が盗まれたことがありました。旅館の主人は旅館の信用にかかわりますから大変困りました。その夜、 何を思ったのか、大変賢い女中頭は全部の女中に新 しいシー ツを一枚ずつ渡しました。そして翌朝、そのシーツを見ると、他のものはみなきれいであったのに、一枚だけが何故か特別にシワになっていたのです。女中頭は早速そのシーツに寝た女中を呼んで調べてみたところ、その女中が犯人であることを白状したのでした。どうして、そのようなことが分かったのでしょうか。彼女はお金を盗んだため不安と心配で眠ることが出来ず、一晩中、寝返りばかりうっていたため、誰よりもシーツが乱れたのでした。こうして、その行動から彼女の罪は明らかになったのです。人間には、例外なく神が与えた良心があり、罪を犯すと良心の呵責があるのです。そして、隠されていることで、神の前には明らかにならないものはないのであります。


 昔、イスラエルのダビデ王は、大変恥ずかしい不道徳な罪を犯したことがありましたが、そのときに、彼の良心は非常に苦しみ、告白している事実を聖書は記録しています。ダビデは自分の犯した罪を隠し抜いて、忘却のかなたへ押しやったつもりでいたかもしれませんが、彼の良心はそれを許しませんでした。ダビデは大罪に覆い隠して王の威厳を保っておりました。でも、彼の良心は呻き苦しんでいたのであります。払いのけても払いのけても、神の御手の重圧は昼夜を問わず、彼を苦しめたのです。ダビデはその時のことを次のように告白しています。「悪人は追う人もないのに逃げる。」(箴言28:1)とありますが、「主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。」(箴言15:3)とあります。その証拠に、法的犯罪を犯した人は、通常は捕まるまでに数キロは体重が減っているということを聞いたことがあります。

●「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」(詩篇32:3~5)。

 しかし、みなさんの中には、「私は善人だし、そんな悪人でもなく、大罪を犯したこともないので天国に行けるだろう‥‥」と思っている方もおられるでしょう。そのようなあなたは、ご自分の汚れた心に気づいておられないのです。例えで話しましょう。コップの底に泥が一センチほど溜まっていても、コップを動かさなければ、上部の水は澄んだままです。しかし、一回でもその水をかき回してみてください。それまで沈殿していた泥が一遍に上がってきて、コップの水全体が泥水になってしまいます。あなた(私もですが)の心もそれと同じです。日常何も問題ないときは、ある程度いい人で紳士的であり得るかもしれません。ところが、ちょっとした意見の相違とか、体の疲れ、仕事の失敗や誘惑などにあうと、それまでの心の底に沈殿していた怒り、つぶやき、不安、妬み、汚れた思いなどが一遍に泥のように上がってきて、あなたの生活全体を汚してしまうのです。

●「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ人への手紙7:24)。

●「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、 高ぶり、愚かさであり、 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。 」(マルコの福音書7:20~23)。
 

 しかし、神様はこのような罪人に対して救いの道を開いてくださり、ご自身の御子イエス・キリストをお遣わしになられ、私たちの身代わりとして十字架につけてくださったのです。何という驚くべき愛でしょうか。

●「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 」(ローマ人への手紙3:23,24)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

 
             
 

★世界で一番恐ろしい動物?

2005-05-19 | 「人間の罪の問題」

 

  もし、あなたが「世界で一番恐ろしい動物は何ですか?」と問われたらどのように答えられるでしょうか。「百獣の王ライオンだろうか?いや、トラか熊かな?大蛇か人食いザメか‥‥?」と、いろいろ頭の中で、あれこれ思いをめぐらすに違いないと思います。次のような話を聞いたことがあります。ニューヨークの「ブロンクス動物園」に行くと、「世界で一番恐ろしい(危険な)動物」(The Most Dangerous Animal in The World )という看板を掲げた檻があるそうです。「何の動物だろう?」と思い、おそるおそる近づいて見ると、その檻の中には、動物はいませんでした。なんと、その中には、「鏡」が置いてあったのです! 檻の中を覗いたら自分の姿が映るようになっていたのです。つまり、この動物園の園長さんは、本当に怖い恐ろしい動物は、「あなたですよ。人間ですよ!!」と教えたかったのでしょうか。半分は、ジョークが入っていると思いますが、これは笑って済ますことのできない人間の「真実の姿」ではないでしょうか。
    
 確かに、最近の世の中は、人間にこんな恐ろしいことが出来るのだろうかと思うようなことが次々と続いて起こっています。母親がわが子を虐待して殺したり、道を歩いていて突然刃物で斬りつけられるような通り魔事件、少年がビルの上から幼児を投げ落として簡単に殺してしまったり、男が少女を首に輪をつけて何ケ月も自宅に監禁する、・・・・etc というような出来事が日常茶飯事のごとく起こっています。また、世界各地で続発する無差別テロなど、目に余る恐ろしいことが起こっています。

 しかし、これは最近の出来事に限らず、世界の歴史を振り返ると、国の内外を問わず、戦争の歴史を見ても分かります。第二次大戦でヒトラー率いるナチス軍が当時、迫害の対象としていたユダヤ人をアウシュウィッツ等の「絶滅収容所」に収容、処刑用ガス室において、実に600万人にも及ぶ大量虐殺を行ったという事実です。このようなことは、とても人間が出来ることとは考えられません。最近においても、イラクなでは無抵抗な多くの弱い婦女子が虫けらのように戦争の被害を受け殺されました。現在も、世界の各地で、一度に人をたくさん殺すための最新兵器の研究がなされているのです。このようなことは、残虐極まりないと言わざるを得ません。

 さて、私が紹介している聖書は「人間の心」の真の姿をありのまま示す「鏡」のようなものですが、その聖書は次のように語っています。人間の罪というのは、周囲を見回さなくても、あなた自身の心の中を見れば分かることであります。自分だけは違う、そんなことはないと言えないのであります。

●「人から出るもの、これが、人を汚すのです。 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコの福音書7:20~23)。

●「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。 」(エレミヤ書17:9,10)。

●「義人はいない。ひとりもいない。 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。‥‥‥彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。‥‥‥彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、・・・彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。‥‥‥彼らの足は血を流すのに速く、 彼らの道には破壊と悲惨がある。 また、彼らは平和の道を知らない。‥‥‥彼らの目の前には、神に対する恐れがない。‥‥‥すべての人は、罪を犯した‥‥」 (ローマ人への手紙3:10~23)

●「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。 彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。 」(ローマ人への手紙1:29~32)。
 

 聖書の中には、このような罪の目録が書かれている箇所が他にもいくつも出て来るのです。また、「聖書」は、文字通りに聖よいことが書いてある書と思い込んでいる方もおられると思いますが、実際にはそうではなく人間の歴史上に起こったあらゆる罪が、赤裸々に書かれています。殺人、姦淫、不品行、淫乱、酩酊、誘拐、戦争の数々、そして、みなさんは驚かれるかもしれませんが、戦争で飢餓の苦しみの中にあった時に、貴婦人がわが子を鍋で煮て食べるという恐ろしいことまで書かれています。

 これらの事実は聖書の記述のほんの一部に過ぎませんが、やはり人間は「世界で一番恐ろしい動物」であると言っても過言ではありません。動物の世界ならしっぽを巻けばそれ以上危害を加える事はありません。むやみやたらと、人を殺すと言うような事はないでしょう。しかし、人間は顔で笑って、心で人を憎み、平気で人を殺す事を考えて、それを実行に移すのです。どのような動物であっても、大量殺戮するための原爆や核兵器を作るようなことはないのです。

 神が造られたエデンの園は、最初は愛と平和、聖さ、光といのちに満ちた憩いの場所であったのです。現在のような罪に満ちた暗い世界ではありませんでした。人間は単なる動物の一種ではなく、神によって特別に創造された存在であり、神の姿(内面的に)に似せて造られた霊的存在であったのですが、アダムがエデンの園で神に反逆して罪を犯した時から、全人類に罪と死が入って来たのであります。

●「そういうわけで、ちょうどひとりの人(アダム)によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。 」(ローマ人への手紙5:12)。 

 しかし、神は罪を憎んでも人を憎まず、このような罪を犯して永遠の滅亡に向かっていた人間に対してご自身の愛を表してくださり、救いの道を開いてくださったのであります。神はご自身の尊い御子イエス・キリストを救い主としてこの世に遣わしてくださいました。次のみことばは、聖書の中でも、一番よく知られている聖句で、「聖書の富士山」とも言われています。どうか、あなたも愛なる神の救いの手を拒まないで永遠のいのちをご自分のものとなさってください。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。 

          

★あなたに必要なのは救いです

2005-04-03 | 「人間の罪の問題」



  これは、アメリカのペンシルバニヤ州でのことですが、伝道集会の後に、一人の見知らぬ男が、キリストの十字架の福音を語った伝道者S氏に次のように話しかけました。「どうもあなたの説教が気に喰わん。あなたは、いつもキリストの十字架の話ばかりしている。私は、キリストの十字架の話なんか大嫌いなんですよ!キリストの死について説くかわりに、手本(模範)としてのイエスを説いた方がずっと、いいと思うんですが・・・・。」

 それで、「では、もし私が手本としてのイエスを説くなら、あなたは喜んで彼に従おうとおっしゃるのですか。」とその伝道者は言いました。その男は答えました。「そうです。そうすれば私はキリストの跡について行きます。」そして、その伝道者は次のように答えました。「ああ、そうですか。分かりました。では、キリストの模範を話しますから聞いてください。『キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されませんでした。』とありますが、あなたはその通りに実行できますか?」とS氏は尋ねました。 

 その見知らぬ男は、非常に困惑したような顔付きで、「いいえ、私は罪を犯しますし、ウソも言います。そんなことを実行するのはとても不可能です。」と答えました。それを聞いて、伝道者のS氏は「そうでしょう。だからあなたは、まず第一に、キリストを手本や模範としてでなく、救い主として必要としているのです。」と言ったのです。その男はS氏のことばを、ただ頷いて聞く以外にありませんでした。そして、このことは、この男だけでなく、すべての人に必要なことであることをお知りになっていただきたいのです。

 どんなに立派な教えを説いても、人間にはそれを行う力がないのです。人間が良い教えを全部実行できるなら、救いも救い主(メシヤ:キリスト)も必要ないことになるのであります。聖書を読んで、まず、知らされるべきことは私たちはみな罪人であり、無力な弱い人間であるということなのです。あなたも例外ではありません。

●「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。 主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。 彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。」(詩篇14:1~3)。

●「義人はいない。ひとりもいない。 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」(ローマ人への手紙3:10~12)。

●「 私(使徒パウロ)には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。・・・・・・・・ 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ人への手紙7:15~24)


●「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。 」(ローマ人への手紙3:)

●「キリストも一度(私たちの)罪のために死なれました。正しい方が悪い人々(私たち)の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。 」(ペテロの第一の手紙3:18)。

●「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私(パウロ)はその罪人のかしらです。」(テモテへの第一の手紙1:15)。


 溺れている人は溺れている人を救うことはできません。盲人は盲人を手引きすることができません。負債のある人は、負債のある人を助けることができません。罪人は、罪人を救うことはできません。しかし、イエス・キリストはあなたを救うことが出来ます。彼には何一つ罪がなかった完全な方であるからです。そのキリストが、あなたの身代わりに十字架で死んでくださったのです。聖書には、そのことが何度も何度も強調されています。それほど、この問題は大切であるからです。どうぞ、あなたも救われなければならない罪人であることをお知りになられ、キリストの十字架の福音を心から信じることができますようにお勧め致します。

            

★人間の貪欲の罪

2005-01-22 | 「人間の罪の問題」



 「人間と豚と、どちらが食いしん坊か」と尋ねたら、多分、多くの人は豚と答えるでしょう。ところが事実は逆で、人間の方がずっと食い意地が張っているのだそうです。ある人が実験してみました。豚に好物を腹いっぱい食べさせました。鼻の先にご馳走を突きつけ、後ずさりして、いやいやするほど食べさせたそうです。そして、後で豚の胃袋を解剖して調べてみると、胃袋には、シワが寄っていて、まだいくらかは余裕があったというのです。豚はどんなご馳走でも腹八分目で止めるのです。

 人間の場合、ご馳走を満腹になるだけ十分食べたあとの胃袋をレントゲンで調べると、ぱんぱんに膨れ上がり、テカテカに光るほどになっているのだそうです。そこで、子供の頃からよく聞かされたことばを思い出す方も多いと思いますが、「食事は腹八分目にしなさい」と。「腹八分目にしなさい」という忠告は、人間だけに必要なのでしょうか。

 なぜ人間はこんなに食べるのか。ある人は、それは、人間が食物を料理することを知ったからだ、と言います。食事が美味しいので、暴飲暴食するというわけです。それも確かに一理ありますが、もっと大切なことがあります。それは、豚は神が与えた本能のコントロールによって生きているのですが、人間は自由意志を働かせて生きていることです。食べること、食べないこと、どちらでも自由に選ぶことができるのです。そこに人間の本質と特徴があります。

 ですから、日常生活の中で自由意志の訓練が大切なのです。人間の心の働きには、知性、感情、意志があります。ところが、人間は神に対する不従順の罪によって、神から離れ、神との交わりがなく、神のいのちから切断されているので、心が正常に働かなくなっているのです。すなわち、知性は曇ってつむじ曲がりになっています。感情は混乱し、特に性的な関係において、ハートの歪みが露わになっているのです。そして、意志は薄弱無力になっています。そして、正しく意志を働かせることができないのです。高等教育を受けても、人間の貪欲という罪は直らないのです。

 先日、車を運転中にラジオで聞いたことばなので、記憶が定かではありませんが、有名なガンジーが言った名言で、「この地球には人間が生きて行くのに必要なものはみな備わっているが、人間の貪欲を満たすだけのものはない。」という意味のことを言っています。私はなるほどと思いながら聴いていました。今日、人間は非常に貪欲になっています。しかし、世界の貧しい国々では、毎日何万人も飢えに苦しみ餓死しているという矛盾した事実があります。

 自由意志を正当に働かせるために、そして人間が人間らしく生きるためには、どうしても神の救いが必要なのです。イエス・キリストによって、知性、感情、意志の全人格的な新生が必要なのです。神の御子イエス・キリストは、このように罪によって歪んでしまった人類を救うために、人となってお生まれになられ、十字架で私たちの自己中心という罪の身代わりに死なれた救い主なのです。

●「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(ルカの福音書12:15)。

●「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。 」(ヤコブの手紙1:14,15)。

●「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。 あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。 」(ヤコブの手紙4:1~3)。
 

私たちに、本当に必要なのは、貪欲に胃袋を満たすことではなく、心の飢えと空洞を満たす天からのパンを食すること、すなわち、イエス・キリストを心から信じ、受け入れることなのです。あなたも、どうか、そのことに一日も早くお気づきになられますように。

●「わたし(キリスト)がいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネの福音書6:35)。

●「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント人への手紙5:17)。 


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★自分の罪に気づくこと

2004-12-21 | 「人間の罪の問題」


  「ぼくは、夕ご飯の時、おかずをこぼした。父から、『よそ見しているからだ!』と、叱られた。弟も、『そうだよ、よそ見しているからだよ!』と言った。しばらくして、父もおかずをこぼした。家の中が、シーンとなった‥‥‥」。これは、小学生の男の子の作文ですが、その情景が目に浮かぶようで、思わず、笑ってしまいました。わが家でも、子供が小さい時、それと似たようなことがあったような気がします。子供が悪いことをした時叱るのですが、私自身も同じ失敗をして平気な顔をしているのですね・・・・・。

  人間というのは、他人の欠点や失敗はすぐ気づくのですが、他人には寛容になれず、他人をさばきやすいものであります。しかし、自分の罪や欠点には、なかなか、気づかないという弱さがだれにでもであるのではないでしょうか。

  イエス様も、「さばいてはいけません。さばかれないためです。 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。 ‥‥まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7:1~5)と言われました。

  フランスの思想家パスカルは、「人間の偉大さは、自己のみじめさを認めるところにある」と言いましたが、中国の王陽明という学者は「山中の賊は平らぐるに易し。されど、心中の賊(自分の罪のこと)は平らぐるに難し。」と言って、自分の心の中の罪を征伐するのはいかに困難であるかを語っています。人間は真面目に生きようとすればするほど、自分の心の中に醜い汚れと罪があることを知らされるのではないでしょうか。

  聖書の中で、使徒パウロも、自分の心の中の罪に苦しみ、次のように告白しているのです。

●「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。 ‥‥私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」(ローマ7:15~19)。

  ヒルティというスイスの思想家は、こんなことを言っています。「私は、病気で幸福な人をたくさん見て来ました。また、貧しくて幸福な人をたくさん見て来ました。しかし、心が罪で腐っていて、幸福な人に一回も会ったことがありません。」と。

  また発明王エジソンに、ある人が次のようなことを尋ねました。「あなたの発明中の中で、何が一番大きな発見でしたか?」。すると、意外な答えが返って来たのです。「私が罪人であることを知ったことです。そして、このような罪人を神様が愛していてくださるということを知ったのは更に偉大な発見でした。」と。本当に偉大な人というのは、言うことも違うものですね!!

  鏡の前に立つと、自分の顔の汚れも、しわも、ホクロも何でもそのまま写してしまいます。それと同様に、聖書は私たちの心の中の醜さや汚れや罪をはっきり映し出す鏡のようなものです。だれでも、真摯な心で聖書を読みますと、聖なる神の前には、すべての人は罪人であることを明確に自覚させられるのです。そして、その罪と、罪の結果の死後のさばきからの救いの道も神様はすでに備えてくださっているのです。下記のみことばは、使徒パウロの説得力のあることばです。

●「‥『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(Ⅰテモテ1:15)。

●「この方(キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには私たちが救われる名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。」(使徒の働き:4:12)。

 キリストは、あなたの罪からの救いのために十字架に架かられたあなたの救い主なのです。どうか、この人生の大切な事実をよくよくお考えになられて、救い主イエス・キリストを信じて救われてください。あなたの人生においてもっとも大切な罪の解決は、十字架につけられたいえす・キリストにあるのです。