聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★親切なサマリヤ人

2007-09-08 | 「キリストの愛」


 ルカの福音書の中に、イエス様が自分は律法を守っていて正しい人間である考えていた一人の律法の専門家との対話の中で、「私の隣人とはだれのことですか。」との彼の質問に対して答えられた有名な「親切なサマリヤ人」の例え話がありますので、そこから少し書いてみたいと思います。
 
●「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣り人になったと思いますか。」(ルカの福音書10:30~36)。
 
イエス様が語られたこの例え話は、多くの教訓を私たちに教えていますが、特にこの話に登場する三種類の人たちを通して、それぞれ私たちに大切なことを語っていますので、私たちの人生について考えてみましょう。
(1)エルサレムからエリコへの道を下って行って、そこで強盗に会い、半死半生の目に遭った人、この人の中にこそ、私たち罪人の姿が描き出されているのです。
(2)半殺しにされて倒れている人を見ながら、そっぽを向いて通り過ぎてしまった祭司やレビ人の中に頼りにならないこの世の姿を見ることができます。
(3)この傷つき倒れている旅人の所へわざわざ近寄って来て、介抱し、自分のお金を払ってまで、その人を宿屋まで連れて行って面倒を見たサマリヤ人の中に、私たちを救ってくださるために天から来てくださったイエス・キリストの姿が描き出されています。
 
【1】強盗に襲われた旅人。
 一人の男(ユダヤ人)がエルサレムの都からエリコに下って行きました。そして、その「エリコへ下る道」で強盗に襲われたのです。私たちの人生においても、思いがけないこと、予期しないことが突発的に起こることが多いものです。自分の人生設計通りに生きることのできる人は皆無に近いと言っていいでしょう。ある方の話によると、エリコへ下る道は二つあったそうです。一つは遠回りですがあまり危険のない安全な道です。もう一方は近道であって早く着くのですが、曲がりくねった険しい道で、強盗に襲われることが多い道です。そして、彼は多分友人の忠告があったにもかかわらず、この曲がりくねった危険な道を選んで下って行ったのです。

 そして、彼は強盗に襲われて、打ちのめされ、半殺しにされてされてしまったのです。この男の姿の中に私たち罪深い人間の姿が示されています。まず、私たちの前には、いつも選ぶべき二つの道があります。一つは神様に従って歩いて行く正しい道です。もう一つは、自分勝手に歩いて行く罪(自我)の道です。そして、その道は「下って行く道」なのです。エリコは地中海より250m低い所にあった町です。聖書の中で、「下る」という言葉が出て来ると、多くの場合(すべてではありません)、あまりよくない意味があります。アダムがエデンの園で罪を犯して以来、人類の歴史は常に下っていると言っても過言ではありません。自分では、教養を身に付け、修養して向上していると思っていても、神に従わない道は常に下っているのです。

 そして、その道は曲がりくねった罪の道です。しかも、その道のあちらこちらに私たちに襲いかかる悪魔(サタン)が待ち構えているのです。自己中心のわがままな道は、最後には自分を滅ぼすことになるのです。この旅人は自分の持ち物を奪われて、着物を剥ぎ取られて、その上、殴られて半死半生の状態で道端に倒れています。私たち人間の姿がここにあります。もう自分ではどうすることもできないあわれな状態です。この傷ついて倒れている旅人は、放置しておけば間違いなく、死んでしまう絶望的な状態です。これは、あらゆる現代の人間の姿なのです。現代においても、世界の道端は霊的に略奪され、傷つき倒れて横たわっている人でいっぱいなのです。これがこの世の現実なのです。

●「足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。 」(イザヤ書1:6)

●「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ書7:24)。

●「あなたの傷は癒しにくく、あなたの打ち傷は痛んでいる。」(エレミヤ書30:12)。


 あのパウロのことばは、パウロだけでなく、世界中のすべての人の心からの叫びなのです(たとい、自分で気づいていなくても)。あの使徒パウロをして、「私は本当にみじめな人間です。」と言わしめるほどに罪の傷は癒しにくいのです。このエリコに下る道で強盗に襲われた旅人にあるものは、《孤独と不安と恐れ》であり、《絶望と悲しみ》であったのです。人のために何か良い行いをしようとする前に、自分自身が救われなければならないみじめな罪人であることを、徹底的に知らなければ、キリストの十字架の深い意味も知ることができません。だれも、そこまで深刻に考えなくてもと考えている方も多いと思いますが、これが人間の本当の姿なのです。

【2】祭司とレビ人。
 この二人は旅人が道端で倒れて苦しんでいる姿を見て、うめき声を聞きながら、向こう側をそっぽを向いて行ってしまいました。これは、愛のない冷たい人たちです。祭司は、エルサレムの神殿で神様に仕え、人々を助ける人であったのです。レビ人というのは祭司の手伝いをして、やはり人々を助ける役目の人であったのです。しかし、神殿で神様に仕えていた彼らが、いったん自分たちだけになってエリコへ下る道を急いでいた時に、苦しみ呻いて助けを求めていたその旅人を見ながら、見て見ぬふりをして、通り過ぎてしまうのです。この祭司とレビ人の中にいざという時には頼りにならないこの世のものの姿を見ることができます。この世の中には、まことの愛というものがいかに稀であり、少ないものであるかを示しています。

 これは、この世の宗教家だけに限ったことではなく、学校の先生、医者、政治家であるかもしれません。彼らは、あまりにも利己的で、またあまりにも多忙なために最小の援助さえ提供しようとしなかったのです。彼らは、「私とは関係のないことだ。このようなことにかかわっている時間などない。」と心の中で考えたかもしれません。ですから、祭司もレビ人も「この人を見ると、向こう側を通り過ぎて行った。」のです。この世は、本質的に自己中心的であり、これが人間の本当の姿なのです。この世の多くの宗教をよく調べるならば、利己的で愛のないものであることが分かります。大部分がお金や利権によって動いているのです。
 
 ”本当に利己的でない純粋な愛を見出すのは、ゴミ箱の中にダイヤモンドを発見するよりも困難なことだ!”と言った人がいますが、この世の中に真の愛を求めても決して満たされることはないということも事実なのです。しかし、この祭司やレビ人を私はさばくことができません。なぜなら、これは、自分自身の姿でもあると気づかされるからです。私は、今日まで幾度となく、困っている人、傷つき悩んでいる人、助けを必要としている人の側を通り過ぎてしまったことでしょうか。あなた自身はどうでしょうか。「自分には愛がある人間だ。」と言い切れる自身がおありでしょうか。私たちは、他人のことは「あの人は愛がない冷たい人だ。」と「簡単に口では言えますが、他人の中にあるものは、また自分の中にもあるということも事実なのです。 

【3】親切なサマリヤ人。
 最後に、その見捨てられた男のところにさまりや人がやって来ました。この人は、家畜に乗って来たのですが、彼のうめき声を聞いた時、心から同情して、その傷ついた男の人の所へ駆け寄ったのです。このサマリヤ人は、その哀れな旅人の前に跪いて、じっとその傷口を見ました。そして、自分が持っていたぶどう酒で傷口を消毒し、オリーブ油を注いで包帯をし、自分が乗って来た家畜にその男を乗せて、わざわざ宿屋まで連れて行って、自分のお金を取り出して、「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら私が帰りに払います。」とまで言いました。彼は、持っているすべてを与えて、この見知らぬ旅人に対して自分の命の危険を冒してまで愛と親切の限りを尽くしました。”人生は出会いで決まる”ということばがありますが、この旅人がこのサマリヤ人に出会ったことは本当に幸いなことでした。

 そして、この「親切なサマリヤ人」の姿こそ、実はイエス・キリストご自身の姿なのです。サマリヤ人がこの傷ついた旅人の所に来てくださったように、イエス・キリストは、私たちを罪と滅びから救うために、大変な犠牲を払って天から来てくださったのです。そして、その33年間のご生涯の最期に十字架の血潮というぶどう酒で私たちの罪の傷口を洗い、聖霊の油をもって私たちの罪の傷を覆ってくださった御方なのです。イエス・キリストは、私たちを責めることもなく、ただ黙って十字架でご自分の血潮を流して、私たちの罪を赦し、「アガペーの愛」によって包帯をしてくださったのです。このサマリヤ人の自分を忘れ、自分の危険を顧みることもしない打算のない愛はキリストの純粋な愛を示しています。

 このサマリヤ人が、そのお金も労力も、物も時間もすべてを犠牲にして旅人を助けたように、キリストは私たち全人類のために十字架で、ご自分の命までも犠牲になさったのです。傷の手当てをし、介抱する姿 ----- ここに、キリストの無限の愛と優しさと思いやりとが余すところなく、表されています。”包帯を巻いてあげられなければ、他人の傷口に触れてはならない。”とのことばを読んだことがあります。私は、他人の傷口に触れてかえって、結果的にその傷口を広げてしまうことのある愚かな人間です。しかし、イエス・キリストの愛は違います。イエス・キリストは、十字架の血潮に染まった愛の包帯で私たちの傷口を覆ってくださるのです。

●「愛は多くの罪を覆うからです。」(1ペテロ4:8)。

 この例え話の中でイエス様はわざとユダヤ人と敵対関係にあったサマリヤ人(ユダヤ人と異邦人の混血の民)を登場させました。このような敵対関係は、その当時、」もう400年以上も続いていたのです。そして、その憎しみの関係は、イエス様の時代にもまだ続いていたのです。ですから、このサマリヤ人がユダヤ人にした親切は信じられない出来事であったのです。このサマリヤ人は傷つき倒れているユダヤ人にユダヤ人を見て、「かわいそうに思い」ました。この「かわいそうに」ということばは、同情を表わすギリシャ語の中でも、一番強い表現で、”内臓が揺り動かされる”というような深い同情を意味することばなのです。そして、彼はその愛を実際の行動にによって表わしたのです。ただ、彼は外国人を愛したのではなく、400年に亙る憎しみの歴史を越えて、敵に対して真の隣人となったのです。

 私たち人類もまた、神に対して長い間敵対していた者たちであります。しかし、イエス・キリストは、そのすべてを乗り越えて、無条件で私たちを一方的に愛してくださいました。これは、まさに「人知をはるかに越えたキリストの愛」(エペソ3:19)です。この親切なサマリヤ人の姿の中にキリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」のすべてが表わされています。十字架はそのクライマックスです。私たちは、あの強盗のように人を傷つけたことはないでしょうか(言葉でも、精神的にも)。私たちは被害者意識を強く持ちやすいのですが、自分が加害者になっていることを忘れやすい者です。また、祭司やレビ人のように助けを必要としている人の側を故意に通り過ぎたことはないでしょうか。私たちは、自分が傷つき倒れているみじめな罪人であることを素直に認めているでしょうか。

 私たちは、主から遠く離れ過ぎていて、助けを求めることができない時、あのサマリヤ人のようにイエス様の方から近づいてくださるのです。心のうめき声を聞いてくださるのです。イエス・キリストがあなたを助けるために、天から下って来られました。私たちの声にならないようなかすかな呻き声をも聞いて、同情して近づいてくださるのです。どうか、キリストが差し出しておられる愛の御手を拒まないで下さい。そして、キリストは例え話の最後に、「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)と言われました。キリストを信じて救われた人は、今度はほんとうに隣人を愛する力が与えられるのです。真の愛は「私の隣人とは誰か。」と問わしめるような冷たいものではありません。

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★迷い出た羊とキリストの愛

2007-02-08 | 「キリストの愛」
        
         

●「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカの福音書15:4~7)。


 これは、主イエス様が語られた譬え話ですが、ここには、迷い出た一匹の羊を血眼になって捜す羊飼いの姿が描かれています。これは、イエス・キリストの愛を分かりやすく表しているお話ですが、この羊飼いのように、イエス・キリストは私たちを懸命になって捜しておられるのです。この羊飼いの愛には、次の四つの特徴があることが分かります。

【1】かけがえのない愛です。
 これは、いなくなった一匹の羊を捜す《かけがえのない愛》です。この一匹を他の羊で代用することができないのです。この羊飼いは、「いなくなった一匹」の羊を愛しているのです。イエス・キリストは、私たち一人一人を個人的に愛しておられます。あなたや私の人格を愛する愛なのです。「物」であれば、一つ失った時に、他のもので代用することができますが、神の愛は、親がわが子を一人一人個人的に愛する愛のように、他の人で代用することができない《かけがえのない愛》なのです。

【2】打算のない愛です。
 この羊飼いは、《打算のない愛》です。すなわち、計算しない愛です。この羊飼いは99匹を野原に残して、迷い出た一匹の羊を捜しに出ました。一匹の羊を捜しに行っているうちに、野原に残した99匹の何匹かは狼などの野獣に襲われて食べられたしまうかもしれないのです。人間の愛の中には、母親がわが子を愛するような全く打算のない純粋な愛もあります。しかし、打算的で、自分の利益にならなければ、愛することを止めてしまうような安っぽいものも多くあります。最近は、もらう年金の額を計算して、熟年離婚する夫婦もあると聞いたことがありますが、本当に悲しい、打算的で利己的な愛ではないでしょうか。これは、もう愛と言えるものではありません。

【3】忍耐の愛です。
 これは、失った一匹の羊を見つけるまで捜す、《忍耐の愛》です。真の愛は途中で諦めることをしないのです。この羊飼いは、歩き疲れたから止(や)めるということをはしませんでした。捜すのが困難だからと止(や)めるということはしませんでした。捜すのに疲れて眠くなったからと言って、止(や)めようとはしませんでした。諦めてわが子が行方不明になった時に、親は決して諦めることをしないで何日も何日も血眼になって必死に捜し続けるというのが普通ではないでしょうか。いや、突然、隣国に拉致されて行方不明になったわが子の帰りを何十年も待ち続けている親もいるのです。それが「愛」というものなのではないでしょうか。

【4】優しい愛です。
 この羊飼いの愛は、傷ついた羊をいたわる《優しい愛》でありました。この羊飼いは、傷ついて弱っていた両肩に「羊をかついで」帰って来ました。この羊飼いには、傷ついた羊に対する思いやりといたわり、同情心があったのです。なぜなら、この羊飼いは、多分傷つき倒れていたであろう羊の首に縄をつけて、無理矢理曳いて来たのではありませんでした。弱り果てている羊をいたわり、同情して、優しく肩にかついで帰って来たのです。キリストの愛も、同様です。今日、大人も老人も主婦も子供も、世界中の多くの人々が傷つき倒れています。そのような人たちにキリストはやさしく接してくださいます。そして、迷っている人々を、神のみもとに連れ帰ってくださるために天から来てくださった神の御子なのです。

【5】喜び分かち合う愛です。
 この羊飼いは、見つけた羊をかついで大喜びで帰って来ました。そして、友だちや近所の人たちを呼び集めて、「いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。」と言ったのです。本当の喜びというのは、分かち合うものです。喜びは、分かち合うからこそ、喜びなのです。嬉しいことがあった時に、自分の部屋で一人だけで喜んでいても、あまり楽しくは感じないのではないでしょうか。イエス・キリストが失われた羊のような私たちを捜し求めて、見つけた時の喜びはそのような喜びなのです。そして、天においても大きな喜びがあります。

●「人の子(キリスト)は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカの福音書19:10)。

 このルカ19章1~10節には、神から迷い出て孤独になり、生きる意味を見失ってしまった一人の人間が、キリストに見出されて、愛なる神様のみもとに帰り、その懐(ふところ)に抱かれて平安を見出したすばらしい見本があります。それは、ザアカイという取税人のかしらです。彼は、子供の頃から背が小さくて、「や~い!チビのザアーカイ!」といじめを受けていて、コンプレックスを持っていました。人間は誰でも、多かれ少なかれ、コンプレックスを持っているものです。彼は大人になり、ローマ政府から委託されて税金を徴収する取税人のかしらになりました。そして、集めたお金をごまかして、着服していました。彼はお金を貯めることに人生の価値を見出したように感じるようになったのです。

 彼は、自分をいじめた奴らを見返してやろうと考えたのかもしれません。しかし、彼の空虚な心はお金によっては決して満たされることはありませんでした。彼はユダヤ人でしたが、ローマの手先となって税金を取り立てていたので、売国奴のように言われ、大人になっても、やっぱり孤独で、だれも友だちになってくれませんでした。彼の心は満たされず、孤独感から解放されることはありませんでした。でも。イエス様は彼の孤独な心の中を全部知っていました。また、同時に、彼が罪を犯していたこともご存じでした。その日、ザアカイはイエス様を自分の家に招き、悔い改めて、イエス様を救い主と信じて救われたのです。あなたも、このザアカイのように、キリストに出会って、神に帰ることが出来たら感謝ですね。

●「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(Ⅰペテロの手紙2:22~25)。

 イエス・キリストこそ、本当の私たちの羊飼いなのです。このお方は、神から迷い出てしまった私たちを救い出すためにこの世に来てくださり、私たち罪人のために十字架にまでかかって、身代わりに死んでくださったのです。命がけで、いや、ご自分のいのちを捨ててまで、私たちを愛してくださったすばらしい救い主です。このお方は、死後三日目によみがえられた救い主であり、今も天において生きておられる方なのです。

●「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。‥‥ たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。 」(詩篇23:1,2)。
 
 イエス・キリストを救い主と信じて、キリストを真の羊飼いとして生きる者の幸いがここに記されてあります。羊飼いのもとに帰って、安らぎと憩いを見出している羊のように、何の心配もなく、神の懐(ふところ)に憩うことが出来、また平安の中に導かれるのです。そして、死の陰の谷を歩くことがあっても、少しも平安を失うことがありません。神から迷い出た人間にとって、神のみもとに帰る以外に決して平安を得る道はないことを是非、お知りになられ、主イエス様を救い主として信じ、救われてください。聖書で、救いと言っているのは、神の永遠の裁きからの救いのことです。神は、すべての人に死後の永遠の滅びからの救いを備えて下さいました。

 
◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」 

             

★良い羊飼いであるイエス様

2007-01-26 | 「キリストの愛」

    

●「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます。」(ヨハネの福音書10:11)。 
 今年は全国的に暖冬が続いているようですが、皆様ご機嫌いかがお過ごしでしょうか。さて、ちょっと季節外れの記事になるかと思いますが、ご容赦ください。パレスチナ地方は、雨が少なく、緑も豊かではありません。このような地方で自分の羊に水を与え、牧草を与えて養うことは、とても厳しい仕事でした。旧約聖書の中でも、その地に住む人々が大きな干ばつに見舞われた出来事や、井戸を確保するためにこの地方の部族が争った出来事などが数多く記されています。また、この地方では一日の寒暖の差も大きく、砂嵐の季節があったり、一年の内の気候の変化も激しく、羊飼いはそのような中をあちこちに点在する僅かな青草と水飲み場を求めて、自分の羊を導くのです。 
 
 このような地方では、野の獣にしても餌(えさ)になる物はそれほど多くはなく、狼などの野獣が羊を襲いに来ることも決して珍しいことではありませんでした。羊飼いはこのような外敵から自分の羊を守り、自分が飼っている羊に水と青草を与えるために、命がけで働き、また羊はか弱く迷いやすい家畜ですから、羊飼いに導かれることなしには生きていけなかったのです。このように羊飼いと羊が一体となっている姿は、パレスチナの人々にはごく身近なものであり、主イエスさまは、しばしばこのような羊飼いと羊の譬えを用いて弟子や群衆に神のことを語り聞かせたのです。また、ユダヤの指導者たちと論争をする時にも、主イエスさまはこうした身近な譬えを用いられたのです。

主イエスさまは「わたしは良い牧者です。良い羊飼いは羊のために命を捨てます。」と言っておられます。この言葉はギリシャ語本文では「わたしこそが本当に良い羊飼いです。」と強いインパクトを持った言葉のようです。ヨハネによる福音書が成立したのは、主イエスさまが十字架にお架かりになってから60年以上の時を経た紀元90年代であると考えられています。この福音書の記者ヨハネは自分の信仰の証として主イエスさまを読者である私たちに紹介し、私たちを「良い羊飼いである主イエス」のみもとに招き、導こうとしていることがよく分かります。今日、私たちは主イエスさまが聖書のみ言葉によって、迷える羊のような私たち一人ひとりの名を呼んで下さり、私たちをみもとに招いておられることを覚えることができたら幸いです。
 
 私たちが羊飼いである主イエスさまに一人一人の名前を呼ばれていることを考えてみましょう。 羊飼い主イエスさまは羊飼いがその羊の一頭一頭に名を付けその性質も知っておられるように私たちの全てを知ってくださり、私たちの名を呼び、一つの群れとするために、私たちを導いてくださっておられるのです。私たちは、生まれてから今日まで、どれだけ自分の親や周囲の人々から、自分の名前を呼ばれたことがあるでしょうか。私たちがまだ乳飲み子で自分で自分が誰であるかを意識できないような時から、周りの人から優しく穏やかで柔らかな声で数え切れないほど幾度も名前を呼ばれて来たのはではないかと思います。

 それは例えて言えば、まだ形の定まらない大理石の原石にノミを加えているようなことであり、私たちが名前を呼ばれるたびに少しずつ自分が名前を持った尊い一人の人間であることを刻み込まれ、次第に今の自分が彫り上げられてきたと言えるのではないでしょうか。あるいはまた、身に危険が及びそうになった時や過ちを犯しそうになった時に、親は厳しく子どもの名前を呼んで、安全な場所へ連れ戻し、もう危険な所に行かないように、更にはもう過ちを繰り返さないように導こうとします。そのように子を知り子を思う親のように、羊の一頭一頭を知っている良い羊飼いである主イエスさまは、私たちの名を呼び私たちをかけがえのない羊として導こうとしておられるのです。
 
 しかし、その一方で、良い羊飼いが安全な正しい方へと羊を導こうとすれば、それまで羊を食い物にしていた強盗のような権力者たちは自分の偽善や貪欲が暴かれることを恐れて、良い羊飼いであるイエス・キリストを嫌い、イエス様を殺そうとさえし始めるのです。その様な時にも良い羊飼いである主イエスさまは先ず第一に、ご自分の羊のことを思い、愛する羊のためには命をも惜しまないことを、このみことばは語っているのです。このみこばをよく吟味してみると、主イエスさまが「良い羊飼い」について一般論を述べておられると同時に、「わたしは」を主語にしてご自分の羊のために「命を捨てます」ということを強調して語っていることに気付かされるのです。

 当時のユダヤ教の指導者たちがイスラエル民族としての救いにこだわり、その枠に入らない人々を排除していた中で、多くの異邦人(日本人もユダヤ人から見ると異邦人です)が救いを求めて主イエスさまのみもとに集まって来ることを主は知っておられました。主イエスさまはそのような異邦人を拒否したり排除することなく、神の救いの恵みはこの世に生を受けているすべての人に及んでいることを教え、主イエスさまはその羊を守る羊飼いのようにお働きになったのです。その結果、主イエスさまはイスラエル民族の一致と団結を乱す者として神殿の権力を持つ指導者によって弾圧され迫害を受け、結果的には十字架に掛けられて命を奪われることになるのです。

 主イエスさまは、例えて言えば、民族的な血統書付きの羊のみを集める羊飼いなのではなく、選民意識の強かったユダヤ人によってはじき出された雑種や混血の羊たちのことをも受け入れ、囲いの外にいる羊たちのことさえ心にかけてくださる優しい羊飼いとして記されています。良い羊飼いである主イエスさまは、この羊飼いを慕い求めて集まる羊のために、そして迷い出し飼い主を失った羊のためにも「自分の羊のために命を捨てます」とまで言ってくださいました。真の羊飼いであられる主イエスさまは、ご自身の命を捨てて私たちを救い出し、私たちに神のみもとでの永遠の安らぎと憩いが与えられることを示してくださいました。このような良き羊飼いである主イエスさまに私たちは自分のすべてを知られており、親しく名前を呼ばれ導かれるのです。
 
 私たちは、良い羊飼いであられる主イエスさまの御声を聞き分けることができるでしょうか。イエス様を信じて従おうとされるなら、そのみ声を聞き分けることが出来るのです。主イエス・キリストは、このみことばの通りに、十字架に掛けられ、永遠の滅びから私たちを救ってくださるために死んで下さいました。羊と羊飼い(牧者)とどちらが価値があるでしょうか。もちろん、それは言うまでもなく、羊飼いの方にはるかに価値があります。しかし、驚くべきことにその羊飼いが羊のためにいのちを捨てられたのです。主イエスさまの御声を聞いて従って行くことは、私たちがかけがえのない自分自身として生きていくことを意味しています。私たちは、主イエスさまによって養われ導かれている者として、羊飼い主イエスさまのすばらしい福音を囲いの外の多くの迷える羊たちにも届けるために働くことができる者となるのです。
 
 囲いの外にいる羊や主イエスさまの御声を聞かない羊は、良き羊飼いである主イエスさまの御声に導かれて生きる人々を見て初めて自分もその喜びに与りたいと思い、自分も主イエスさまの愛に触れたいと思うようになります。ですから、良き羊飼いである主イエス様に導かれるクリスチャンたちは、主イエスさまの御声を聴き、導かれ、生かされていくことがどんなに大きな喜びであるかを僅かでも証しできればと願っているのです。私たちは、すべての人が良き羊飼いである主イエスさまのもとに導かれることを願っています。クリスチャンは、そのためにこの世に遣わされている者たちなのです。私たちは、一人でも多くの人が感謝して主イエスさまの福音を信じてみ言葉に聞き従っていくことが出来るように祈っているのです。 

 また、主イエス様は「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」 (ヨハネの福音書10:17,18)と言われました。主イエス様は、人間の側から見ると、そのいのちを無理矢理に奪われたように見えますが、そうではなく、自ら進んでいのちを捨てられ、また十字架の死後、墓に葬られ、三日目に自らよみがえられた御方なのです。どうか、このようなすばらしい救い主を信じて救われ、希望に満ちた生涯に導かれる主イエス様に従う方となって下さい。

●「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主(御父なる神)は、私たちのすべての咎を彼(キリスト)に負わせた。」(イザヤ書53:6)。

●「わたし(イエス)の羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして、彼ら(クリスチャン)はわたしについて来ます。」(ヨハネの福音書10:27)。


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★十字架上の七つの言葉

2006-11-27 | 「キリストの愛」

 イエス・キリストが尊く偉大なご生涯の後に、十字架に掛けられて死なれたことは、どなたでもご存じのことと思います。しかし、その十字架上で、キリストは「七つのことば」を発していますが、その一つ一つは実に驚くべき神の救いと愛のみわざを示していることをご存じでしょうか。ちなみに、聖書の中で「七」という数字は完全数を表しています。では、イエス・キリストが十字架上で語られたその七つのことばについて、ごいっしょに考えてみましょう。

【1】御父へのとりなしの祈り(赦しのことば)。
●「父よ。彼らをお赦し下さい。父よ。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカの福音書23:34)。 
  
 イエス様が十字架上で語られた七つのことばは、「父よ。」で始まっていますが、十字架上の最後のことばも「父よ。」で終わっているのです。イエス・キリストは実に「神の御子」であられる御方であり、永遠の昔から御父と御子として少しの妨げもなく親しいお交わりの中にあられたのです。聖なる神に対して、「父よ。」と呼びかけることのできる御方はイエス・キリスト以外には一人も存在しないのです。この神の御子が私たち罪人(全人類)のために救い主として、人の姿をとって御父のみもとからこの地上に来てくださったのです。そして、その神の御子イエス・キリストがそのご生涯の最後に、十字架に掛けられたのです。

 イエスの御体を十字架につけたその釘が手首の肉に食い入り、骨を削り、木に突き刺さって血が流れました。そして、十字架のイエスは、裂ける手足の激痛に身もだえしつつ、血を吐くような苦しみの中で「父よ。彼らをお赦し下さい。・・・・・」と、とりなしの祈りをささげてくださいました。一体「彼ら」とは、だれなのでしょうか。イエスを釘づけにしたローマの兵士、イエスに死刑の判決を言い渡した総督ピラト、イエスを裏切ったイスカリオテのユダ、イエスを妬んでピラトに訴えたユダヤの律法学者たち、イエスを見捨てて散って行った弟子たちなど、みな含まれているでしょう。しかし、実はイエスが「彼ら」と言われたとき、今日生きているあなたや私を含めて全人類の罪の赦しのためにとりなしの祈りをなさったのです。そうです。あなたのためにもです。イエス・キリストはあなたの人生と決して無関係ではないことをお知りになって下さい。

【2】イエスの約束のことば。
●「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカの福音書23:43)。

 ゴルゴダの丘に三本の十字架が立てられました。当然、十字架は極悪人が磔(はりつけ)にされる極刑であります。両側には二人の強盗がつけられ、しかしその真中には全く罪の無かったイエス・キリストが十字架につけられていたのです。キリストの十字架は罪人(全人類)の身代わりのゆえです。しかし、二人の強盗は最初はどちらもイエスを罵倒し、嘲っていましたのですが、途中で強盗の一人に明らかな変化が起こりました。十字架上のイエスのあまりにも崇高なお姿を見て、彼はイエスを神の御子と認め、心から救い主と信じたのです。その悔い改めた強盗に対するイエスの約束のことばが、これです。どんなに罪深い人も、悔い改めてイエスをキリスト(救い主)と信じるならば、さばきから救われ、永遠のいのちを受けることができるのです。

【3】思いやりのことば。
●「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」(ヨハネの福音書19:26)。
●「そこに、あなたの母がいます。」(ヨハネの福音書19:27)。


 十字架刑は、世界で最も残酷な処刑の方法であると言われています。たった三つの傷口に体重をまかせ、しかもその傷口を絶えず広げることによって、血を絶え間なく、絞り取っていくのです。その苦痛がどれほどのものであったかは想像を絶するものがあります。このような苦しみの中では、通常は他人のことを考えたり、思いやるなどという余裕はないのが常であります。人間というのは、自分が辛いとき、苦しいときには、自分を悲劇の主人公のように思い、他人からの同情を自分の方に引こうとするのが普通ではないでしょうか。もちろん、苦しみに会えば会うほど、他人に同情できるような思いやりの心が生まれることも事実ですが‥‥。

 しかし、イエスという御方は実に偉大であり、不思議な方です。その十字架の苦しみの足もとにイエスの母マリヤが立っていたのです。イエスは、そのマリヤに目を注いで、そしてついに声をかけられました。「女の方よ。」と。マリヤはイエスが幼少の時からずっと愛を持って育み、わが子として見守って来ました。しかし、イエスと母マリヤの関係は特別な関係であり、神の御子が聖霊によってマリヤの胎に宿ったのであり、イエスの母であると同時にマリヤも含めて全人類の救い主として来られた御方です。ですから、この「女の方」という言い方には特別に深い意味が込められているのです。
 
 それと同時に、マリヤはイエスの母であることに間違いありません。イエスはご自分が十字架で死んだあとの母の老後のことを気にかけてずっと十字架まで従って来た愛弟子ヨハネに、母親を託することばを優しく語られたのです。人間的には、イエスは親孝行をしたいお気持ちもあったはずです。でも、今イエス様はご自分がやがて息を引き取ろうとしている間際にも母のことを案じて、このような思いやりのある暖かいことばをかけられたのです。普通の人には、苦しみの絶頂の中にあってこのような細やかな心配りは決してできないことです。

【4】神に見捨てられたことば。
●「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイの福音書27:46)。

 まず、このことばは旧約聖書の詩篇22編1節と同じことばなのですが、そこには、やがて来られるメシヤの十字架の場面が預言されています。聖書によると、イエスの御口からこのことばが発せられたのは「午後三時ごろ」でした。そして、それは「大声で」叫ばれたのです。十字架に掛けられたのは、朝の九時頃ですから、その時から六時間も経過して、血は流れ続け、喉は渇き、死の一歩手前まで来ている時に、全力を振り絞って、「大声」で叫ばれたのです。昼の十二時には、全地は暗くなって三時まで続きました。

 暗くなってから三時間の沈黙があって最初のことばがこれです。それも大声で叫ばなければならないほど重要なことばでした。「神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」(Ⅱコリント5:12)とありますように、罪無きイエスが私たちの代わりに神に捨てられたのです。この三時間の暗やみについて私は全部説明することはできません。しかし、イエスにとってそれがどんなに恐怖であったかは、想像するに難くないと思います。神に捨てられるということが、どれほど恐ろしいことかお考えになったことがあるでしょうか。それは、みな私たちの救いのためであったのです。

【5】死の苦しみのことば。
●「わたしは渇く。」(ヨハネの福音書19:28)。

 体から血が流れ出る時はとても喉が渇くということを聞きました。六時間の十字架の苦しみです。ずっと、傷口はえぐられ続けており、血は絶え間なく流れ出ていました。ですから、体液が極度に薄くなっていたことは確かであります。その渇きは限界に達したとき、イエスは「わたしは渇く。」と言われたのです。それを聖書の記者は、「聖書が成就するために」と注釈しています。「私が渇いたときには酢を飲ませました。」(詩篇69:21)の成就です。そして、そのとおりに、ローマの兵卒は「酸いぶどう酒」をイエスの口元に差出し、その渇きはさらに増したのではないでしょうか。

【6】救いの完成のことば。
●「完了した。」(ヨハネの福音書19:30)。

 口語訳聖書では、このことばは「すべてが終わった。」でしたが、それを読むと「すべてが終わってしまった。もう駄目だ!」というような意味に誤解されやすいですが、「完了した。」の方が意味が明確に分かるように思います。イエスは死を迎えられる瞬間に「完了した。」と言われました。この箇所の意味は、旧約聖書にも預言されていた人類救済の贖いのみわざがすべて「完了した」ということです。キリストが受肉され、赤子として誕生されたのも、多くの迫害や試練を通られたのも、三年半の公生涯も、すべてはこのみわざを完成するためであったのです。十字架の六時間の苦しみ、特に後半の三時間の闇の中の沈黙の時間もすべてはこのときのためであったのです。イエスの生涯の目的は、すべて十字架の死にあったのです。そして、このキリストが成就された救いのみわざは「完了した」のですから、人間が自らの救いのためにこれに加えるものは何もありません。

【7】父なる神にゆだねることば。 
●「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカの福音書23:46)。

 イエスの六時間にわたった十字架の苦しみの最後のことばも最初と同じ、「父よ。」であったのです。「わが神」ではなく、「父よ。」であったのです。イエスはなすべきすべてが完了して、ご自分の肉体の死が間もなくやって来ることをご存じでした。そのわずかの間、イエスは目を天に向けて御父を見ました。多分、この時には暗闇が晴れていき、闇間から光が射していたかもしれません。この時のイエスの心は安らぎが満ち、幼児の父親に対する呼びかけにも似た純粋なものではなかっただろうかと推測します。その時の御父は、「わが神。」と叫んだ時のものではなく、昔と変わらなぬ慈愛に満ちた御父の御顔であったでしょう。イエスは一切のことを御父にゆだねて、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と言って、間もなく息を引き取ったのです。あなたも、最後に息を引き取る瞬間に愛なる神にすべてをゆだねることが出来る人生を是非選択なさって下さい。イエス・キリストをあなたが救い主として信じる時にそれが可能なのです。

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」
 



 

★罪なき者まづ石を擲て 

2005-12-07 | 「キリストの愛」
 
     

●「‥‥すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、イエスに言った。『先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。』 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』‥‥」(ヨハネの福音書8:3~7) 

 聖書をお持ちの方は是非、新約聖書のこの箇所を開いてご覧ください。この所には、人間の罪深さ、醜さが浮き彫りにされていると同時に、それと対比されて主イエス様の愛と恵み、そして神の御子としての知恵と威厳が十分に表されています。何よりも主イエス様が罪人の救い主となられるためにこの世に来られた比類のない愛の御方であることがはっきりと示されています。また、人は自分の罪や欠点を悟るのには鈍感で疎いものですが、他人の罪は素早く発見し、また厳しく断罪するものであることをも教えれるのです。

 イエス様はある朝、エルサレムの宮の庭で人々に教えておられました。ところが、律法学者とパリサイ人が姦淫の現場で捕らえられた一人の婦人を宮で教えておられたイエス様のところへ引っ立てて来て、「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」と彼女を訴えたのであります。律法によれば、姦淫の罪を犯した場合は男女とも罰せられるべきであったのですが(申22:22)、律法学者たちは、弱い立場にある女性だけを連れて来たのは奇妙な話です。しかし、彼らの心の中には何かの魂胆と悪意があったことは確かなことです。その魂胆というのは、6節にありますように、イエス様を試して、イエス様の答えの中から何か告発する理由を得るためであったのです。最初から主イエス様を陥れる目的で、彼らが仕組んでおいた所にはまった婦人を餌にして、彼女を引っ立てて来たのが真相ではないかと思います。

 しかし、イエス・キリストは律法学者たちの質問に動じることもなく冷静沈着に神の御子としての権威と知恵をもってお答えになられました。もしも、イエス様がモーセの律法の命じる通り石打ちの刑を執行するように命じれば、ローマの主権を犯す越権行為(反逆罪)になるわけです。なぜなら、当時ローマの管轄下にあるユダヤ人が同胞を勝手に死刑にする権限は与えられていなかったからです。そして、もしもイエス様が「赦してやりなさい」と言えば、イエスはモーセの律法に背く者という理由で告発しようとしていたのです。いずれにしても、彼らは主イエス様を罠にはめて陥れようとしていたことは明確な事実です。しかし、この彼らの訴えに対して主イエス様はご自身の知恵をもって見事にお答えになられたのです。

 イエス・キリストは、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(文語訳:「なんぢらの中、罪なき者まづ石を擲て」)とお答えになられたのです。このような答えは、律法学者たちも全く予想もしていなかったことであろうと思います。今や、イエス様を告発する理由を得ようとしていた学者たちが告発される側に立たされたのです。これは、だれも予想しなかった展開です。一瞬のうちに立場が逆転してしまいました。ここにイエス・キリストの驚くべき知恵があります。イエス様の所へいかなる難問を持って来たとしても、主イエス様は、それに対して動揺したり、お答えに窮するというような場面は、聖書のどこにも見当たりません。

 律法学者やパリサイ人たちは、自らを義として他人をさばく者たちであります。彼らは、律法によって人を罰することばかり考えて、この女性に対しても一片の憐れみの心も示そうとしなかったのです。彼らは、聖書を読みながら、そのみことばをもって自らをさばくことをせず、人をさばくことだけを考えていたのです。人間というものは(自分も含めて)、人をさばくことにおいては、自分が一度も罪を犯したことがないかのように厳しくさばくものです。しかし、自らの本当の弱さ、罪深さ、心の醜さを知るときに、だれ一人として他人をさばくことなどできなくなるのではないでしょうか。実際、人を表面的にしか見ることのできない不完全な人間が人を裁くなどということは絶対にできないことです。人を裁くことは、あくまでも神ご自身のものであり、神ご自身の主権によることなのです。

 しかし、イエス・キリストの「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」とのことばは、彼女を訴える律法学者たちの心を突き刺す両刃の剣のようなことばであったと思います。イエス様は神の御子ですから、その語ることばには、両刃の剣のように鋭く人の心を刺す権威があったのです。他人の罪を責めることには鋭敏であっても、自分の罪を知ることには鈍感であった律法学者たちにも、この主のおことばには鋭く心が刺し貫かれたに違いありません。彼らは、だれ一人自分には罪がなく完全な者であると主張できる者はありませんでした。ところで、あなたは罪のない者として彼女に石を投げつけることができるでしょうか?

 また、宮の中には、イエス様の話を聞きに来た群衆がおりましたが、彼らはみな傍観者であり、この気の毒な女性に同情したり、憐れみの心を持ったりする人はだれひとりいませんでした。民衆はみな「私には関係ないことだ。」と考えていたのです。だれひとり、罪に関して自分自身の問題として考えようとはしませんでした。しかし、イエス様の威厳に満ちたこのことばによって、自らの罪が示され、だれひとり傍観者でいることはできないことを知ったのです。「彼らはそれを聞くと、年長者から始めて、ひとりひとり出て行き‥‥」(9)とあります。主イエス様の鋭いことばの光に打たれた時、彼らの良心が責められて、老人を初め、若者に至るまで一人一人みなその場から去ってしまったのです。

 さて、この姦淫の罪を犯した女性は、ユダヤの律法学者たちに訴えられた女性でした。この女性は自分が罪人であることが分かっていました。彼女は罪人としてイエス様のところへ引かれて来たのです。そしてこの汚らわしい悪習慣から何とかして解放されたいとの思いがあったのではないでしょうか。人はだれでも、自らを罪人の立場に置く時、はじめて神の愛に触れることが出来るのです。そのとき、キリストの愛と救いがはっきりと見えて来るのです。そして、彼女は主イエス様の愛に触れることができたのです。彼女が顔を上げた時には、そこにはただイエス様おひとりだけがおられることに気づきました。そして、その主イエス様こそ、彼女にとって最も必要としていたお方であったのです。

 イエス様は、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われましたが、罪のない御方はイエス・キリストだけであります。罪を示され、良心を刺された罪人たちはみな出て行き、イエス様だけがひとり残されました。比類なく聖く正しい御方はイエス様だけであります。ですから、イエス・キリストだけが彼女に石を投げる資格と権威がある御方なのであります。しかし、イエス様は彼女に石を投げるために来られたのではなく、彼女を救うために来られた御方なのです。主イエス様だけが彼女の理解者であり、彼女に心から同情できる愛の御方であり、彼女を救うことのできる救い主として来られた御方であったのです。

 唯一彼女に石を投げる資格のある罪なき御方イエス・キリストが、何と彼女のために身代わりに十字架にかかって死んでくださったのです。彼女だけではなく、世界中のすべての罪人の身代わりとなって死んでくださったのです。この箇所には、罪人の友として、罪人を救うために世に来られたイエス・キリストの福音が余すところなく表されています。神は、ご自身の身をかがめるようにして罪人のところまで来られ、罪人の立場に立ってくださったのであります。神の御子イエス様は、薄暗く汚い家畜小屋の中で誕生せられ、貧しく聖よいご生涯を送られた後、十字架に架けられて死なれ、三日後に復活されたのであります。どうぞ、あなたもご自分の罪をお認めになられて、イエス・キリストの福音を信じて救われてください。
 
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◆(E-mail): goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」
  

★良き羊飼いなるキリストの愛

2005-11-10 | 「キリストの愛」

                 

●「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカの福音書15:4~7)。

 北海道では、今日初雪が降り、朝目覚めた時には、家々の屋根も畑も白一色になっており、いよいよ寒い冬の季節の到来です。
さて、前回にも記しましたが、ここに書きましたのは、イエス様が語られた三つの例え話の中の最初の話ですが、神の愛、キリストの愛を分かりやすく教えている箇所です。素直な心で読むならば、決して難しい話ではありません。百匹の羊を持っている羊飼いがいました。この羊飼いは、雇われた人ではなく、これらの百匹の羊の一匹一匹をかけがえのない羊として心から愛していました。ある日、数えてみると、一匹がいなくなっていることに気づいたのです。この「羊飼いの愛」はどのような愛であったのかを考えてみましょう。

[ 1 ] 《かけがえのない愛》
 この羊飼いの愛は、いなくなった一匹の羊を捜す「かけがえのない愛」であります。この一匹を他の羊で代用することはできないのです。この羊飼いは、このいなくなった一匹を愛していました。それと同様に、イエス・キリスト(神)は、人類を十把一絡げにして愛するのではなく、私たち一人一人を個人的に愛しておられるのです。神とキリストの愛は、私たち一人一人の人格を愛する愛なのであります。物であれば、他の物で代用できますが神の愛は親がわが子を愛するように他の人で代用できるものではありません。

[ 2 ] 《打算のない愛》
 この羊飼いの愛は、「打算のない愛」であります。計算しない愛であります。この羊飼いは、99匹の羊を野原(荒野)に残して、迷い出た一匹の羊を捜しに出かけました。実際的なこととして、一匹を捜しに出かけて行っているうちに、野原に残した99匹の何匹かは、狼などの野獣に襲われて食べられてしまうかもしれないのです。でも、この羊飼いはそのような計算をして、捜しに出かけたのではありませんでした。その失った一匹を愛していたからです。人間の愛の中にも、母親がわが子を愛するように、全く打算のない純粋な愛もあります。成長したわが子に、「あなたを育てるのに、これまで(      )円かかったから、その分のお金を払いなさい。」という親はいないでしょう。しかし、一般的には人間の愛は打算的で、自分の利益にならなければ、愛することを止めてしまうような安っぽいものもあるのであります。キリストの愛も、まったく打算のない無償の愛であります。

[ 3 ] 《忍耐深い愛》
 この羊飼いは、「いなくなった一匹を見つけるまで捜す」という「忍耐深い愛」であります。真の愛は途中で、諦めることをしないのです。この羊飼いは、歩き疲れたからといって、捜すのを止めることをしなかったのです。捜すのが困難だからと言って止めることをしませんでした。もし、わが子が行方不明になった場合、親は決して諦めずに来る日も来る日も血眼になって必死に捜し続けるのではないでしょうか。それが、親のわが子に対する愛というものであります。「眠くなったから‥‥」と言って寝てしまわないのです。中学生の時に、某国に拉致された娘さんの帰りを数十年も待ち続け、現在も捜し続け、そのために運動しているご両親の話は感動的であります。イエス・キリストの愛は、それよりもはるかに「忍耐深い愛」であります。真の羊飼いなるキリストは、今日もあなたを捜しておられることをご存じでしょうか。

[ 4 ] 《優しい愛》
 この羊飼いの愛は、傷ついた羊をいたわる「優しい愛」であります。羊飼いは、「羊をかついで」帰って来ました。弱っている羊の首に縄をつけて無理やりに引っ張ってきたのではありませんでした。この羊飼いには、傷つき、疲れ果てていた迷子の羊に対する思いやりといたわり、同情心がありました。彼は優しい羊飼いであったのです。「優しい」という字は、「人を憂う」と書きますね。他人のことを真心から心配するのが本当の優しさであり、愛であります。キリストの愛も同様であります。

[ 5 ] 《喜びを分かち合う愛》
 この羊飼いは、迷子の羊を見つけた時、大喜びでその羊をかついで帰って来て、友達や隣近所の人たちを呼び集め、「いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。」と言ったのであります。「喜び」というのは、分かち合うからこそ、喜びなのです。分かち合うからこそ幸せなのであります。何か嬉しいこと、楽しいことがあってもその喜びを分かち合う人がいなければ、それは本当の喜びと言えるでしょうか。嬉しいときに、自分の部屋でただ一人で、喜んでも少しも楽しくないのではないでしょうか。「喜び」の本質は、それを分かち合うところにあるように思えるのですがいかがでしょうか。イエス・キリストは、失われ迷子になった羊のような私たちを、このような大きな愛で愛してくださっているのです。罪人である私たちが、悔い改めて神に立ち返るときに、天においては、大きな喜びが湧き起こるのです。

[ 6 ] 《いのちを捨てる愛》
 イエス・キリストは、ご自身で「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネの福音書10:11)と言われました。羊よりも羊飼いの方に価値があることは明らかであります。しかし、その羊飼いが羊のためにいのちを捨てるのです。これは、理屈に合わない矛盾した話です。しかし、これよりもはるかに大きな愛があるのです。創造者である神の御子が、神から迷い出てしまった罪人である私たちのために十字架にかかってご自分のいのちを捨ててくださったのです。何という驚くべき愛でしょうか。

●「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(Ⅰペテロの手紙2:24,25)。

●「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」(詩篇23:1)。
  
 キリストを救い主と信じて、キリストを羊飼いとして生きる者の幸いがここに記されています。私たちの真の牧者であるキリストのもとには、真の憩いと平安があります。神から迷い出た人間にとって、神の懐に帰る以外に決して平安を得る道はないことを、是非、お知りになってください。


   

★迷い出た羊を捜す愛

2005-11-03 | 「キリストの愛」




●「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。 」(イザヤ書53:6)。


 聖書によれば、人間はみな飼い主から迷い出た羊のようなものであると語っています。たとえ、自分でそのように考えなくても聖書はこれが人間の真実の姿であると語っているのであります。人間はそれぞれ、みな「ぼくはこっち」「私はあっち」と各々自分の道に向かって歩いているというのです。神様が心配しているのに、「大きなお世話さ」と言わんばかりに、神様のことなんか全くおかまいなしなのです。その上、さらに悪いことには、多くの方々が決して自分が迷子であることを認めようとしないのです。いや、事実、自分が迷っていることに気づいていないというのが本当の人間の姿であります。

 自分が迷っているのにそれに気づいていないことほど危険なことはありません。少なくとも、迷っていると分かれば自ら帰る道を探すのであります。帰る手立てを考えるのです。しかし、人間はみな街を歩いている人を見ても、「私は迷ってなんかいませんよ!」というような顔をして歩いている人ばかりのように思えるのです。子供を導くはずの学校の先生も、また交番で道を尋ねる人に教えているお巡りさんも、やはり自分は迷っているとは思っていません。多くの宗教家たちも、迷っている人に道を教えているように見えますが、実は盲人を手引きする盲人なのです。政治家も、医者も、大学教授も、学生も、法律家や裁判官も、家庭の主婦も、老人もみんな羊のように迷っていると、聖書は教えているのです。

●「私は、滅びる羊のように、迷い出ました。どうかあなたのしもべを捜し求めてください。」(詩篇119:176)。

 この詩篇の記者は、自分が迷い出た者であることを認めている人であります。この人は迷い出ているけれども、次の四つの点で幸いな人であります。
①自分が迷い出ていることを知り、それを認めています。 
②迷い出たままの状態が続けば、滅びであることを認めています。「滅びる羊のように‥‥」。
③自分で帰ることができない弱い者であることを認めています。「どうかあなたのしもべを捜し求めてください。」
④自分はどこに帰るべきかを知っています。神(あなた)のもとに帰らなければならないことを知っています。
   

●「また、(イエスは)群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。 」(マタイの福音書9:36)。

 当時のユダヤのこの群集の姿こそ、今、全世界の迷っている人々の姿を写しているものではないでしょうか。私は子供の頃、羊の世話をしたことがありますが、羊は迷いやすく、弱い家畜であり、敵に対して無防備で傷つきやすく、どうしても羊飼いが必要であります。しかし、この群集は羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れているのです。飼い主のもとを離れた迷子の羊に残されたものは何でしょうか。「飢えと危険と孤独」だけであります。やがて、疲れ果て、倒れ果てて、狼などの餌食になるだけであります。これらの羊同様に、神から離れ、迷い出た人間に待ち受けているものは、不安と孤独と、決して満たされることのない飢えと渇き以外の何ものでもありません。

 迷子に必要なのは、お菓子や玩具ではありません。お父さんお母さんのあたたかい懐(ふところ)です。それと同様に私たちに必要なのは、聖書が示すところのまことの神様に帰ることであります。イエス・キリストは、私たちを救い、助け出そうとして、天から下って来られ、人としてのご生涯を全うされ、私たちの罪のために身代わりとなって死んでくださいました。そのイエス・キリストを信じ導かれて神のみもとに帰り、その神の愛の懐に抱かれることこそ、私たちが全き平安を得る道であります。イエス・キリストは、今も、東奔西走しながら、半狂乱になって、迷子になったわが子を捜し廻る母親のように、必死になって、私たちの名を呼んで、捜し廻っておられる愛のお方であります。どうか、このような偉大なキリストの愛に一日も早くお気づきになられますように心からお勧めいたします。
 
●「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカの福音書15:4~7)。
  
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★優しいイエス様の愛

2005-10-27 | 「キリストの愛」
  
     ( 白樺と紅葉 )
            

●「すると、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。『主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。』 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ。』と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。 イエスは彼に言われた。『気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。・・・・・・・』」 (マタイの福音書8:2~4)。   

  今日は、福音書の中の一つの記事からキリストの愛について考えてみましょう。当時のユダヤ人社会においては、「らい病」は人々から最も忌み嫌われている病気の一つでありました。らい病は、旧約聖書のレビ記13章に上げられている七つの皮膚病の総称であって、今日のハンセン氏病とは異なるものではないかと思われます(新改訳第2版の訳:ツァラアト)。らい病は汚れた病気とされ、この病気に罹った者は一般の人々から隔離されて、町の外に住まなければならなかったのです。ですから、彼らは人々から見捨てられた非常に可哀そうな孤独な環境にいた人たちでありました。 ここに登場するらい病人はイエス様の名声を聞いて、居ても立ってもいられない気持ちを押さえることが出来ずに、人前に出てはいけないという禁制をも破って、イエスの前に姿を表したのではないかと思われます。

 そして、主のみもとに来て、ひれ伏して「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」(2)と言いました。彼はぶしつけに「どうか、この忌まわしいらい病を直してください。」と自分の一方的な願望をイエス様に押し付けるようなことはせず、「もし、みこころならばきよめてください。」と、どこまでもへりくだってイエス様のみ前に「ひれ伏して」イエス様に願ったのであります。ここに彼の謙遜な姿が示されています。自分の意志よりも、神のみこころを第一にしたのです。これが、通常のご利益信仰とは異なるところではないでしょうか。「直してくれたら信じるけれども、直してくれなければ信じない。」という自己中心の信仰と根本的に異なっているのです。

 その上、彼は「もし主のみこころならば、きよめることがおできになります。」と言って、イエス様をメシヤ(救い主)と堅く信じていたのであります。そのらい病人の謙遜な願いに対して、イエス様はどのような態度を取られたでしょうか。かつて、孔子という人は自分の愛弟子がらい病になった時、らい病院(保養院)に隔離して、数メートル離れて、「ああ、災いなるかな!汝の災い汝に及べり、汝に不幸あり、汝の努力をして癒えんことを!」と言ったそうであります。しかし、イエス・キリストは孔子の取った態度とは全く異なっています。主は、彼の信仰を認めて彼に優しく触れられたのです。

 その当時、ユダヤ人社会ではらい病は汚れた病気で、その病人に触るとその人も汚れると考えられていたのです。それだけでなく、触った者は感染すると考えられていたのです。しかし、イエス様はそのようには、少しもこだわらずに彼に触ったのであります。ここに、ご自分のことは顧みず人々から見捨てられて、孤独な状況にある人々を救おうとされた主イエス様の愛の姿があります。イエス様はいかに愛の深い御方であるかを知ることが出来ます。そして、イエス様はただ愛のお方であるばかりではなく、メシヤとしての偉大な力を示す権威をお持ちでした。「わたしのこころだ。きよくなれ。」と言って、らい病を一瞬にしてきよめられたのです。

 ですから、ここには汚れたらい病人をきよめられたイエス様の優しい愛と共に、救い主としての偉大な力を見ることができるのであります。ところで、「らい病」は人間の罪の例証とされていました。らい病人が特別に罪深いという意味ではありませんので、誤解なさらないでください。ですから、ひな型としてらい病がきよめられることは、罪が赦され、神に近づき得る状態とされることを意味していました。さて、ここでイエス様は「だれにも話さないようにしなさい。」(4)と言われました。多くの人は、ここで、イエス様の噂が広まれば、イエス様は益々有名になり、大勢の人が救われて信者になったのではないかと考えるかもしれません。しかし、イエス様は人間的な名声を求めるためにこの世に来られたのではなく、また名声のために多くの奇蹟を行ったのでもありません。

 むしろ、この噂が広まることによって人々がイエス様を単なる病気を直してくれる人、現世的なご利益を与えてくれる人として理解するようになることを警戒したのであります。イエス様には、人々を罪から救うために十字架に架かって人類の身代わりに死なれるという救い主としての最大の目的があったのであります。そのためには、この時点では、病気を直したという噂が広まらない方が良かったわけであります。ただ、直ったことを証明してもらうためには、律法によって命じられた通りにする必要があったのであります。あなたも、キリストの十字架の深い意味を是非、もう一度、立ち止まってお考えになってみて下さい。

●「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。 」(ヨハネの第一の手紙1:7~10)。

●「人知を越えたキリストの愛を知ることができますように。‥‥‥」(エペソ人への手紙3:19)。
 

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★友のために命を捨てる愛

2005-10-18 | 「キリストの愛」



   青函連絡船「洞爺丸」の海難事故から、もう50年以上も過ぎようとしていますが、ご年配の方であればまだ記憶に新しいことと思います。1954年(昭和29年)9月26日の夕刻から夜にかけて大型の台風15号が北海道を襲い、函館市をはじめ、その周辺の町や村は大きな被害を受けました。台風は陸上だけでなく海でも猛威をふるい、甚大な被害をもたらしました。この夜、函館湾内では幾隻もの船が荒れ狂う風と波の直撃を受けて座礁転覆し、多くの人々が尊い生命を失いました。

  当時の青函連絡船「洞爺丸」は、最新鋭の連絡船で、スマートで美しい船体をしていたので「海峡の女王」と呼ばれていたそうですが、その洞爺丸が大型の台風が近づく函館港を出港、青森へ向かおうとしていました。50年前は今と違って気象衛星などなく、観測体制は不十分でした。このため、北海道に接近しつつあった台風の位置、大きさ、速度を正確に知ることはできませんでした。そのため、船長は判断を誤り、「洞爺丸」を出航させてしまったのです。

  出帆を遅らせたものの、風波は高く、港内にあることは危うくなり、港外に出たのですが、高波のためにそれ以上進むことが出来ず、一時投錨することになりました。そして、やがて午後10時半頃、船内放送で乗客全員に救命胴衣(Life jacket)の着用指令が出されました。船に乗り合わせた人々は数時間にわたって恐怖にさらされることとなりました。船は大波にあおられ、乗客はパニックに襲われました。その船客の中に、アメリカから日本へ伝道のために来ていた宣教者ディーン・リーパーという若いクリスチャンと、カナダから日本に来ていた宣教者のアルフレッド・ラッセル・ストーンさんがいました。その背後に明らかに神の摂理があったことは否めません。

  船内はパニック状態で、急に騒然とした雰囲気になり、約1000人余りの船客は、恐れと慄きでわななきながら、懸命に救命胴衣を身に着けようとしていました。ストーンさんとリーパーさんは、あわてたり、泣き叫んだりする乗客をなだめ、励ましつつ救命胴衣の着用の手助けをしてやりました。その中で、一人の少女が自分の救命胴衣の紐が切れて、着けられなくなって泣きそうになっていたのですが、それを見たリーパーさんは、急いで自分の身に着けていた救命胴衣を外しながら、冷静沈着に「私よりもあなたの方が若い。これは、あなたが着けるべきです。私は泳ぎも出来るし、安心しなさい・・・・」と、手早く、その少女に救命胴衣を着けさせたのです。何と驚くべき愛でしょう。

  「洞爺丸」は、風速50メートルを超える暴風と高さ10メートル近い荒波に翻弄され、ついに座礁し、間もなく、ドーンと鈍い音を立てて船は転覆してしまいました。この海難事故で亡くなった死者の数は1155人、海難史上2番目といわれるほどの大惨事になったのです。助かった人はわずか160名ほどで、事故から2日後にストーンさんの遺体が、それからさらに後にリーパーさんの遺体が発見されました。多くの犠牲者は救命胴衣を着けたまま亡くなっていたのに、この2人は救命胴衣を身に着けていませんでした。2人とも自分の救命胴衣を日本人に譲って死んでいったのです。しかし、船内で、リーパーさんの救命胴衣を着けてもらったその少女は、奇跡的に命が救われたのです。

  この話は、後にあの時に自分を助けてくれた宣教者がリーパーさんだったことを知って、この少女の証言によって明らかになったのであります。 2人の外国人の愛の行為は多くの人々に深い感動を呼びました。亡くなった時、ストーンさんは52才、リーパーさんは33才の若さでした。リーパーさんはは、愛妻と4人の子供さんを遺して亡くなったのです。キリストの十字架の愛を身をもって示し、日本人の生命を救ったという話は、その後も人々の間に語り継がれています。

●「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネの福音書15:13)。

●「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 」(ヨハネの第一の手紙3:16)。

●「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への手紙5:6~8)。


  ストーンさんとリーパーさんは、確かに見ず知らずの他人のために自分のいのちを犠牲にしてまで、人々のいのちを救ったすばらしい人に違いありません。しかし、私がこの話を書いたのは、この2人の偉業を讃えるためではありません。それよりも忘れてならないのは、イエス・キリストの十字架の身代わりの死であります。イエス・キリストは、あなたや私、そして世界中のすべての人々の罪のために十字架上で身代わりとなって死んでくださった救い主なのであります。この尊い救い主を信じて永遠のいのちをご自分のものとなさいますようにお勧めいたします。

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★神との和解と十字架

2005-07-30 | 「キリストの愛」
         
これは、かつてアメリカであった出来事ですが、ある一人息子が父親と激しく口論して家出をしました。何年間も家に帰らなかったのですが、ある日、病気で「ハハキトク」の電報がその息子に届きました。その息子はお母さんに対しては悪い気持ちは持っていなかったのですぐ帰りたかったのですが、どうしても帰りたくない理由があったのです。それは、息子が憎んでいる大嫌いな父親に会いたくなかったということです。しかし、息子は思い悩んだあげく、ついに決心して、家に帰ることにしたのです。そして、列車で長い旅をして家に着いたのです。

 お母さんが伏している部屋に入った時には、お父さんはベッドの右側に立っていましたが、息子とお父さんはお互いに何も挨拶をしないで、目を合わすこともしませんでした。息子は、お母さんのベッドの右側に立って、お母さんをじっと見ていました。そのとき、お母さんはもう虫の息だったのです。お母さんの最後の願いは、父と息子が和解することでしたが、その可能性は全くないように見えました。ところが、そのとき、その母親は自分のほんの僅かしか残っていない力を振り絞って、片手を出し、夫(お父さん)の手を掴みました。そして、今度は、もう一つの手を出して、息子の手を引っ張って、とうとう二人の手を合わせたのであります。しかし、ちょうどその瞬間にお母さんは静かに息を引き取り、この世を去ったのでした。けれども、このお母さんのしたことによって、父親と息子は和解させられたのです。そして、その時、何年間にも亙る憎しみは完全に消えたのです。

さて、キリストはこの母親と同じようなことをしてくださったのであります。人間は愛する神に背を向けて反逆し、神に敵対するようになったのですが、「神を憎む者」と聖書で言われるほどの者になりました。しかし、神は決して人間を憎んだり、敵対しているわけではないのです。イエス・キリストは神に遣わされて、この世に来られ、私たち人間の罪の身代わりとして十字架で死んでくださいました。そして、三日目に復活されたのであります。このキリストが、今、まことの神との間に立って仲介者となってくださったのであります。私たちは神の前に自分の救い主として信じるように、神が求めておられるのです。

先程のお母さんは、父の手をも息子の手をも引っ張らなければなりませんでした。けれども、神はそのようなお父さんとは違います。神の愛の御手はもう、私たちに伸ばされているのです。キリストは、遠く離れていた私たちの手を、ご自分の愛の御手で掴んで、神の御手に合わせようとしてくださったのであります。私たちは、自分に与えられた自由意志で、その愛の御手を拒む(断る)こともできます。しかし、そうすれば、私たちの罪は赦されることなく、私たちは神に立ち返ることができません。どうか、神が伸ばしていてくださる愛の御手を無視しないでください。神様は、ずっと長い間、私たちに愛の御手を差し伸べておられます。

●「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。 」(ローマ人への手紙10:21)。

●「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。 」(ローマ人への手紙5:7~:11)。

●「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。 」(コロサイ人への手紙1:20)。

●「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。 」(コリント人への手紙5;20)。《使徒パウロのことば》

●「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。 」(テモテへの第一の手紙2:4,5)。


●「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」(ルカの福音書23:34)。 

どうか、イエス・キリストが十字架上で流された血潮の代価と、キリストの十字架上における愛のとりなしを、無になさらないでいただきたいのであります。これは、私からの心からの懇願でもあります。どうか、神との真の平和の交わりをあなたもご自分のものとなさってくださいますようにいのります。

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★敵をも赦す愛がある!

2005-05-25 | 「キリストの愛」
 
           (家の近くの庭で撮ったチューリップの写真です)
  人間にとって、一番難しいことの一つは人を赦すことですが、先頃大変美しい話を読みました。それは、かなり古い話ですが、トルコ人によるアルメニヤのクリスチャンの迫害があった時のことです。一人のアルメニヤの少女とそのその兄とが、血に飢えかわいた一人のトルコ兵に追跡され、遂に兵士は二人を田舎の小道に追いつめ、残酷にも、その少女の目の前で彼女の兄を殺してしまったのです。彼女はやっとのことで、逃げ伸びましたが、後に看護婦(師)となって働くようになりました。

さて、ある日のこと、彼女の働いていた病院に、一人の負傷した兵士が担ぎ込まれて来ました。彼女は、間もなくその兵士こそ、かつて自分の兄を殺した者であることに気づきました。しかし、その兵士の状態は、注意深い看護がなければ生命に影響する程のものだったのです。彼女はその兄を殺したトルコ兵を、それこそ骨身を惜しまず日夜看護にあたったのでした。その看護のお陰で、その兵士は快復に向かいつつありました。

そしてある時、彼はその看護婦(師)こそかつて自分が殺した人の妹であることを知ったのであります。兵士は彼女に「何故あなたはあなたの兄を殺した私のためにこのように親切にしてくれるのですか?」すると、彼女は答えました。「私は私の敵を赦すことのできるクリスチャンの信仰を持っているからです。」と。彼女は、愛と真心からの行為をもって、その敵である兵士に打ち勝ったのです。何と心打つ感動的な話でしょうか。憎しみや悪意に満ちた今の時代にあって、それらのものに代わって、赦しの心がこの社会に満たされたら、どんなにこの世の中が良くなることでしょうか。しかし、この人を赦す心は、自分だけの力や努力では決して真似のできないものであります。

 この「赦す」という心を神様に与えられるまでは、生まれながらの人間にとって、これほど、難しいことはないのです。イエス・キリストは「‥‥わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。 」(マタイの福音書5:)と弟子たち に教えられました。しかし、イエス・キリストはご自身でそのように教えられたばかりでなく、自らそれを実践され、模範を残されたのであります。これは、人知をはるかに超えたキリストの愛であります。

 キリストは、この地上で33年半を過ごされましたが、一人の人をも憎むことはありませんでした。どんな酷い扱いを受けても、決して人を呪ったりすることはありませんでした。キリストは最後まで、忍耐をし続けられたのです。人々の憎しみと反抗は、キリストを十字架にはりつけにすることにより頂点に達しました。しかし、その時キリストはどうされたでしょうか。 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」(ルカの福音書23:34)と、天に目を向け、父なる神に静かに執り成しの祈りをされたのです。キリストは、人間の側からはとうてい理解できないくらい、人間を最後まで愛し通されたお方なのです。

 キリストは、人間の心に持つ罪を憎んでもその人を憎むことはなさいませんでした。心から愛されたのです。ご自身を殺そうとしている人たちの為にすら祈り、そして命までも捧げげられたのです。この赦しの心こそ、今日の社会と私たち一人一人に一番必要なことであります。しかし、人を赦す前に、あなた自身の罪が、神様に赦される必要があります。なぜなら、すべての人は例外なく、聖よい神の前に罪を犯して永遠の滅び(地獄)に向かっているからです。もちろん、聖書でいう罪というのは、法律的な犯罪だけでなく、心の中の憎しみ、ねたみ、高ぶり、そしり、‥‥なども含んでいます。

 キリストを信じて、罪がすべて赦された者は、神の真の愛が分かって、人をも赦さなければならないことが分かります。そして、そのように、実践する力をも神様が与えてくださるのです。初代教会の最初の殉教者は、ステパノという人ですが、彼は、多くの群集に囲まれ、石打ちの刑に処せられました。そして、その時のことが聖書に記録されています。彼は、自分に石を投じる者のために、少しも憎しみを持たずに、彼らを愛し、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と、祈ってから息を引き取ったのです。

●「‥‥人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。 こうして彼らがステパ ノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。『主イエスよ。私の霊をお受けください。』 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。『主よ。この罪を彼らに 負わせないでください。』こう言って、眠りについた。 」(使徒の働き7:57~60)。

●「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ人への手紙4:32)。


 この真の愛のお方イエス・キリストの十字架の赦しを経験した多くの人々は、キリストの愛後と赦しの心に触れて、キリストの福音を証しするために自らの命も惜しまずに従う人に変えられたのであります。憎しみは破壊をもたらします。しかし、真の愛と人を赦す心は、常に建設的です。あなたも、キリストのすばらしい愛を知りたいとは思われませんか?

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★悲しい身代わりの死

2005-05-21 | 「キリストの愛」



  随分昔の話ですが、上野(かうずけ:群馬県全域)と常陸(ひたち:茨城県北東部)の国の国境の峠に磯野しろべえとかいう名前の非常に極悪な山賊が住んでいました。彼は、毎日毎晩、出かけて行って、旅人を捕まえ、脅して、金銀はもちろん、その衣類まで巻き上げてしまうという酷い悪人であったのです。ところが、その人にはお菊さんという一人娘があったのですが、とても心のやさしい美しい人でした。奥さんが病気で亡くなったので、お菊さんと二人で暮らしていたのです。お菊さんは、山賊のお父さんには似合わないほど、心のやさしい美しい心の持ち主であったそうです。
 
 それで、いつもそのお菊さんはお父さんのことで心を痛めていたのでした。そして毎晩のようにお父さんの前に手をついて、「おとうさん、お願いです。あなたがお酒を飲みたいならいくらでもいくらでも私が働いてお金をあげますから、山賊だけはやめてください。」頼んだのです。しかし、何度も何度も頼んだけれども、お父さんは、山賊をやめようとしませんでした。・・・・・・・そして、やはり、ある日のこと、磯野四郎平は、峠の方に出かけて行きました。ところが、その日に限って一日中獲物を探しても何も収穫がなかったのです。

 その日の夕方まで待ったけれども何も商売にならないので、気が苛立ち、イライラしていました。しかし、ふと、夕暮れになって向こうの方を見ると、ある一人の女の人が顔を隠しながら足早に通り過ぎようとしました。それで、すぐに、彼はその女の人を追いかけて、「待て~!!」と言ったのですが、逃げて待たなかったので、朝から何の獲物もなかったのでその女の人をいきなり、一刀のもとに切り殺してしまったのです。そして、彼はその懐中から一つの財布を取り出して、急ぎ足で自分の家に帰ったのです。しかし、自分の家に帰ったのですが、家には、その日に限って灯りがついていなかったので、不審に思いつつも家に入り、一人で酒を飲んでいました。

 そして、なんとなく気になって途中で酒を飲むのを止めて、彼は先ほどの財布のことを思い出して、懐(ふところ)から取り出して見て、彼は「あ~っ!」と叫んで驚きました。それは、死んだ妻が持っていた財布で、中を開けてみると何も入っていなかったのです。そして、財布の中には、お金の代わりに一枚の紙切れが入っていて、それには「お父さん、山賊だけはやめてください。」と書かれてあったのでした。なんと、彼はこの時に至って自分の娘を殺してしまったことに気づいたのでした。酒の酔いもすっかり醒めてしまったのは当然のことで、彼は驚愕にただ体を震わせ、泣き崩れてしまいました。

 この出来事によって、彼は後に、回心したと伝えられています。お父さんを愛していたそのお菊さんは、自分の命を賭けてまでお父さんを救おうとしたのです。お菊さんの死は、あまり悲しく涙を誘いますが、しかし、本物の愛ゆえの感動的な「身代わりの死」であったのですね・・・・。私は、この話を聞いて、神の御子イエス・キリストの「身代わりの死」のことを考えずにいることはできません。今から約2.000年前、イエス・キリストは、あなたの罪の身代わりになって、十字架に掛かって死なれたのです。これは、本当の話です。

●「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々(私たち罪人)の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」(ペテロの第一の手紙3:18)。
 
●「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への手紙5:6~8)。

●「『どくろ』と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。『あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。』兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、『ユダヤ人の王なら、自分を救え。』 と言った。‥‥‥ そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。 太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。 イエスは大声で叫んで、言われた。『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた。この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、『ほんとうに、この人は正しい方であった。』と言った。 」(ルカの福音書23:33~47)。
 

 イエス・キリストは、十字架上で血を吐くような苦しみと渇きと、人々の嘲りと無関心の中で、周りで傍観していた人々だけでなく、今日生きておられるあなたの罪のためにも、父なる神様に向かって「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と執り成しの祈りをなさってくださった方です。これは、人間には出来ることではありません。どうぞ、神様がお遣わしになられた救い主イエス様の愛をお信じになられて救われてください。

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★「塩狩峠」であった出来事

2005-04-28 | 「キリストの愛」

  (実際に厳寒の「塩狩峠」を喘ぎつつ上っている当時のSLの情景です。)
 
   私事で大変恐縮ですが、私が小学低学年(2年生?)の頃、私たち家族は両親と共に上川郡和寒町の菊野から、同じ和寒町の塩狩(峠)に引っ越して来ました。そこで、開拓農家の貧しい生活を強いられたわけですが、最初の頃は、土壁を塗った掘立小屋のような所で生活したので、真冬には風雪が土壁の隙間から入って来るようなこともありました。氷点下30度を下るシバれる(凍るような寒さ)日もありましたが、朝目覚めた時には、吐いた息が布団の襟に凍りついて、ガバガバになっていたことも度々ありました。塩狩は田舎でしたので小学校も、中学校もなく、当時は汽車(SL)で和寒の小学校、中学校まで通学したのです。高校時代もやはり、士別高校までSLで通学したのです。私にとって、その頃の一番懐かしい思い出となって脳裏に焼きついて残っているのは、実は「塩狩峠」を黒煙をあげて驀進するSLの情景です。  
 
 この旭川→稚内間を結ぶ鉄道・宗谷本線の塩狩峠は、旭川から北へ約30キロの地点にあり、かなり険しい急な勾配がある峠で、塩狩峠を汽車が上る時には、先頭の蒸気機関車一台で列車を引っ張ることができないので、ふもとの駅から列車の後端にもさらに一台の機関車を繋いで、深い山林の中をいく曲がりもしてあえぎあえぎ上るのです。ところで、子供の頃、昔(明治時代)一人のクリスチャンの鉄道員がいて、その峠で殉職したという話を聞いたのを漠然と記憶していました。のちに、クリスチャン作家の三浦綾子さんが「塩狩峠」という小説を書いていますが、その中に書かれている一部のことは、小説ではなく、本当にあった感動的な実話であり、大人になってからその小説を読んで、子供の頃うろ覚えで聞いた話を思い出して、改めて感動したのを覚えております。

 明治時代の終わり頃ですが、旭川に長野政雄という鉄道職員(庶務主任)がいました。彼はクリスチャンでしたが、大変信仰厚く、性格は極めて温容で人徳のある立派な人物であったと伝えられています。彼はその生活も実に質素で、洋服などもみすぼらしい服装であったと言われています。また、非常に粗食で、弁当のお采なども、大豆の煮たものを一週間でも十日でも食べていたほど質素であったそうです。というと、甚だ吝嗇(りんしょく)のように思われるかもしれませんが、そうではなく、国元の母に生活費を送り、神様に多くの献金をしていたと聞きました。そして、伝道にも熱心で、略伝を引用すれば、「其の立ちて道を説くや猛烈熱誠、面色蒼白なるに朱を注ぎ、五尺の痩身より天来の響きを伝へぬ。然るに壇をくだれば、あい然たる温容うたた敬慕に耐えざらしむ。」とあります。氏の人柄と信仰を垣間見ることのできる一文です。

 そして、長野政雄氏は、稀に見る立派な人格の持ち主であったのか、他の勤務地で問題のある怠惰な者、粗暴な者、酒乱な者など、どうにもならないような余され者が彼の所に回されて来ると、たちまち変えられ真面目に働くようになったと伝えられています。次のようなエピソードがあります。彼が札幌に勤務していた頃、職場にAという酒乱の同僚がいました。彼は同僚や上司からは無論のこと、親兄弟からも、甚だしく忌み嫌われていました。益々、やけになって酒を飲み、遂には発狂するに至ったとうことです。当然職を退かざるを得ないことになりました。Aの親兄弟は彼を見捨てました。ところが一人長野政雄氏は、親兄弟までに捨てられたAを勤務の傍ら真心をこめて看護し、彼に尽くしてやまなかったというのです。しかも、全治するまで、彼を看護し続け、上司に何度も懇願し、復職するまでに至ったのであります。まさに、愛の権化のような人格を持った人物であったのです。

 さて、このような長野政雄氏ですが、明治42年2月28日夜、鉄道職員として、その信仰を職務実行の上に現し、人命救助のために殉職の死を遂げたのです。その日の夜は、なぜか最後尾に機関車がついていなかったため、急坂を登りつめた列車の最後尾の連結器が外れ、客車が後退をはじめたのです。そのとき、偶然、乗り合わせていた鉄道職員の長野政雄氏がとっさの判断で、自らの体をブレーキ代わりにしようとして線路に身を投じて、自分の体で客車を止めたのです。そして彼は殉職し、乗客は救われたのです。何か、思わず身震いするような感動を覚えないでしょうか。「愛の大きさは、その人の払った犠牲の大きさによって量られる。」と言われますが、他人のために自分のいのちを捨てるほど、大きな犠牲はありません。

 彼は乗客を救うために身代わりになって死んだのです。この長野政雄氏の殉職の死は、後々まで多くの人に感銘を与え、語り継がれました。長野政雄氏が塩狩峠において犠牲の死を遂げたことは、鉄道関係者、キリスト信者などはもちろんのこと、一般町民も氏の最後に心打たれ、感動してやまなかったと伝えられております。彼の殉職直後、旭川、札幌に信仰の一大のろしが上がり、多くの人が信仰に入ったと伝えられています。三浦綾子さんの小説は、もちろん大部分がフィクションですが、長野政雄氏が、多くの乗客を救わんがために、自らの命を投げ出して、殉職したことは紛れもない事実なのです。

 ところで、これは非常に感動的な話ですが、今から約二千年前に、世界の歴史上、このようなこととは比較にならないほど、大きな出来事があったことをご存じでしょうか? それは、天地万物を創造された神の御子イエス・キリストが、神に背を向けて歩んでいる全人類の救い主として、この世にお生まれになられ、33年半の罪のない完全に聖よいご生涯を送られたのですが、最後に私たち罪人の罪のために十字架に掛けられて、私たちの身代わりに神の刑罰を受けて死んでくださったという事実です。これは、作り話ではなく、単なる宗教や道徳の話でもなく、人類の歴史上に現実にあったことなのです。

 アダムがエデンの園で神に背いて、園を追放された時から今日まで、人類は急な坂を転げるようにどんどん滅亡に向かっているのですが、キリストは、身代わりに十字架に架かって人類を永遠の滅びから救ってくださるために死んで、しかも三日目によみがえられた御方でなのす。これほど、感動すべき出来事は、この人類の歴史上他にありません。そして、この出来事は、あなたの将来の人生と無関係ではないのです。あなたが、この事実に対してどのような態度を取るかによって、あなたの死後の永遠が決定されるほど、重大なことなのです。どうか、この事実を真剣に受け止めていただきたいのです。

●「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネの福音書15:13)。

●「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のため には、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への 手紙5:6~8)。

●「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。 どうか、この神に栄光がとこしえにあ りますように。アーメン。」(ガラテヤ人への手紙1:4、5)。

●「人知を越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ人への手紙3:19)。


          
 

★キリストの比類なき愛

2005-03-28 | 「キリストの愛」

                     
  これは、あくまでも例え話であり、フイクションですので誤解のないようにお願いします。ある中国人の青年が道を歩いていると、深い井戸に足をすべらせて落ちてしまいました。彼は水の中で溺れかかって、大声を出して助けを求めました。すると、側を通りかかった一人の白髪の老人が「子どもよ、一体どうしたのか。」と聞きました。そこで、彼は井戸の中から叫んで、「はい、私は誤って井戸に落ちてしまったのです。」と答えると、その老人は「あなたが、もし私の教えをよく守っていたなら、井戸に落ちてしまうことはなかったであろうに‥‥」と言って去って行ってしまいました。この人は「孔子」であったというのです。
 
 ところが、しばらくして、もう一人の老人が通りかかって、「子どもよ。一体どうしたのか。」と、同じような質問をしました。「はい、私は誤って井戸に落ちてしまったのです。助けてください!」と救助を求めました。すると、その老人は、「ああ、そうか、それでは、静かに目を閉じて瞑想してみなさい。」と答えました。そこで、彼は目を閉じてみたのですが、水を飲み、溺れ苦しみながら目を上げると、すでに先ほどの老人も去ってしまって、そこにはいませんでした。この老人は「釈迦」であったというのです。

 さて、次にもう一人の30代の若い方が来られました。彼は、憐れみに満ちた声で、「子よ、一体どうしたのか‥‥」と、尋ねました。すると、井戸の中から、「はい、私の不注意のために落ちてしまったのです。もう溺れて死にそうです。早く助けてください!」と叫ぶ青年の声が聞こえて来ました。彼は、このことばを聞くや否や、自分の体をロープで縛り、直ちに、深い井戸の中まで降りて行って、その溺れている青年を力強い手で捕まえて、水の中から引き上げて救出してくださったのです。そして、優しく彼の手を取って、「さあ~、子供よ、これから再び落ちたりしないように、わたしといっしょに歩いて行こう‥‥」と言われたのです。そして、この方こそ、イエス・キリストであるというのです。

 イエス・キリストを信じることは、すばらしい教えを守って行くことでもなければ、難行苦行をすることでもなく、また、瞑想したり精神統一したりすることでもありません。キリストの十字架によって救っていただいた者が、生涯の間、イエス・キリストといっしょに歩いて行くことなのです。溺れている人に必要なのは、良い教えでもなければ、道徳や宗教でもありません。イエス・キリストによる「救い」が必要なのです。神の御子イエス・キリスが人の姿をとって、この世に下って来られたのは、罪の中に苦しんでいる人々を救い、天国に着く時までいっしょに歩んでくださるためなのです。

 釈迦も孔子も、人間的には大変立派な方であります。そして、この世の中には、立派な教えを説く人や、良い教えを広める宗教家もたくさんおられるでしょう。しかし、溺れている人に必要なのは良い教えや道徳などではありません。溺れている人に必要なのは、緊急な「救い」であります。聖書によれば、人間は聖なる神の前にはみな罪人であって、溺れている人と同様であります。イエス・キリストは、この世の多くの宗教家とは比べることのできない比類なき御方であり全人類の救い主なのです。

 あなたに、真に必要なのは、あなたの罪のために身代わりに死んでくださったイエス・キリストを信じて受けることのできる「救い」であります。キリストは、私たちを罪と永遠のさばきから救ってくださり、この地上の生涯の悲しい時、辛い時、また試練の日にも、天の御国に入るその時まで、共に歩んでくださるお方なのであります。何と、幸いな人生ではないでしょうか。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世をさば くためではなく、御子によって世が救われるためである。 」(ヨハネの福音書3:16,17)。

●「この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」 (使徒の働き4:12)。

●「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。 」(Ⅰテモテへの手紙1:15)。

●「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。 」(Ⅰテモテへの手紙2:4,5)。

●「ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合ってい た。 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。 」(ルカの福音書24:13~15)。

●「‥‥‥見よ。わたし(キリスト)は、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 (マタイの福音書28:19、20)。


 どうか、あなたも主イエス・キリストを心から信じ受け入れて、一日も早く救われてください。神様も、そのことを望んでおられるのです。


          
 

★罪は二度さばかれることはない

2005-03-18 | 「キリストの愛」



  私がまだ若い頃のことですが、東北地方に住んでいるある一人のクリスチャンから大変興味深い話を聞いたことがあります。この話は明治5年12月に実際にあった出来事なのです。それは、「日本死刑史」という本に記録されていることですが、絞首刑史としては非常に珍しい稀有な事件が起こったのです。その年の夏、石鉄県(現在の愛媛県)の群や村で、騒擾事件が起こった時のことですが、租税課出張所に放火した犯人○○○○が逮捕され、裁判の結果死刑を宣告されました。そして、同年の11月28日に死刑が執行されました。間違いなく、死刑は執行されたのです。 

 親族の者から「死体引き取り」の願書が出ていたので、死体を下げ渡し、遺族がその死体が入った棺をかついで帰る途中、四里半(18㎞位?)ばかり来たところで、なんと、死体が少し脈を打ち始めたのです。みなが非常に驚いて見ている中に、その死刑囚は完全に蘇生したのです。その報告を聞いて驚いた県聴こう課は、急いで確かめに行くと、間違いなく生き返っているではありませんか‥‥‥!!。これは、驚天動地の出来事であったことはだれも否定できません。

 そこで、県では、どう始末したらよいか困り果て、進退伺いを提出したのです。ところが、この伺いに対し、明治6年9月18日、「スデニ絞罪処刑後、蘇生ス。マタ、論ズベキナシ。直チニ本籍ニ編入スベシ。」という指令が発せられたのでした。絞首刑は既に執行されたのであるから、法的処置はすべて終わっている。また再び死刑を執行する論拠もない。直ちに、本籍に入れて、平常人の生活に戻ってよいというわけである。これは、日本で、実際にあった過去の事件です。

 私はこの話を聞いた時、即座に、私たち罪人の身代わりとなって十字架で死なれたイエス・キリストのことが脳裏をかすめたのであります。私たち人間は例外なく、聖にして義なる神の前にはみな罪人であります。そして、聖書に、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」(ヘブル人への手紙9:27)と明確に語っているように、だれ一人、自分は神にさばかれるような罪は犯していないと言うことのできるような人はいないのです。他人からは善人と思われているような人も、聖なる神の前では「私には罪はない。私は正しい」と、胸を張って言うことができる人はだれもいないのです。聖書は次のように厳粛に告げています。

●「義人はいない。ひとりもいない。 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。‥‥‥すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず‥‥ 」(ローマ人への手紙3:10~23)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「神は、罪を知らない方(キリスト)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。 」(コリント人への第二の手紙5:21)。

●「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。 三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。 」(マタイの福音書27:45~46)。


 イエス・キリストが十字架にはりつけにされて処刑された場面で、午後三時頃に、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と、絶叫されたことはよく知られていることですが、これまでの約二千年の間、この御言葉ほど、多くの方々に誤解されて来たみことばはないと思われます。このイエス・キリストの叫びは、実に、私たち罪人の身代わりになって、神にさばかれ、捨てられた叫びなのです。ですから、イエス・キリストを自分の個人的な救い主として信じ受け入れるならば、もう、決して死後において、その罪のさばきを受けることがないという事実を強調したいのです。

●「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 」(ローマ人への手紙8:1)。 

 冒頭に記した実話は、キリストの十字架の真理の一面を示すために挙げたのであって、十字架のすべてを語るものではありません。「一度、さばかれた罪は二度と決してさばかれることはない。」という真理を強調するために例話として引用したものです。この点を、どうか誤解なさらないでいただきたいと思います。
 
 あなたの罪のさばきは、キリストが代わりに受けてくださったので、もし、あなたが神の御子イエス・キリストを、あなたの個人的な救い主として信じられるならば、もう死後においては永遠に二度とさばかれることはあり得ないないということをお知らせしたかったのです。これは何と尊い救いではないでしょうか。しかし、もし、神がご自身の御子を十字架につけてまであなたに、このようなすばらしい救いを提供しておられるのに、それを拒まれるならば、あなたの死後には永遠の滅び以外にはないということも事実なのです。どうか、この聖書の福音の真理を深くお考えになっていただきたいのです。そして、どうか、永遠の神の裁きから救われて天国に入る方となっていただきたいのです。