聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★厳粛な最後の審判

2006-12-19 | 「死後の二つの行き先」

●「また私(ヨハネ)は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。」(ヨハネの黙示録20:11)。

  私たちが住んでいる現代の社会は、道徳的ジャングルの中に陥りつつあります。破壊された家庭、病んでいる教育現場、性病、子供と大人の自殺者の急増、損なわれた女性らしさ、堕胎、邪魔者のように扱われる子供たち、これらのものがボロボロの着物のように世界中の道端にばらまかれているのです。また、その他、地球規模で、諸々の問題が山積しており、この世界中の人々が、巨大迷路に入って出口を捜しあぐねているような状態ではないでしょうか。どなたも、口では否定していても、いつか終末が来ることを知っているのです。世界の終末はいつ来るのでしょうか。しかし、確かに終わりの日は近づいています。そして、やがて最終的には「最後の審判」の日が来るのです。

 聖書は、創造以来の人類の歴史書であると言っても過言ではありません。そして、人間が住んでいるところ、どこにでも罪というものがあるのです。この地球上に生き、そして死んだ無数の男女には多くの違いがあります。皮膚の色や文明の違い、彼らは異なった土地で、また異なった時代に生きました。彼らは、それぞれ異なった環境の中で生きました。しかし、聖書が告げている厳粛で明確な事実は、すべての者が一つの大きな集合点に向かって進んでいるということであります。たくさんの支流が集まって一つの河口に流れるように、彼らは流れて行き、彼らはすべて「大きな白い御座」に来なければならないのです。

 「大きな白い御座」というのは、ヨハネの黙示録の中の最後の光景です。使徒ヨハネは、それを「大きな」白い御座と呼びました。「最も大きな」とも、「いっそう大きな」とも記していません。換言すると、それは、今まであったいかなる「座」とも比較されていません。いや、比較できないのです。この御座だけが「大きい」のです。その前にあっては、他のいかなる座も、色あせて、あとかたもなくなってしまいます。地上の王たちの玉座の中に、いまだかってそれと等しいものが見られたことはありませんでした。とても恐ろしい光景をもった、その大きな白い御座は、いつか、あなたがたの造り主(創造者である神)、また、あなたがたのさばき主に会わなければならない場所なのです。

 この御座は、大きいだけでなく、「白い」御座であります。他のどのような座とも比較できない「白い」御座なのです。それは、聖さと曇りなき正義の御座であります。だれもその裁判官を欺くことはできません。また、この地上にあるような賄賂は、その御座に通用することは決してありません。そして、すべての人の魂の運命を定める最終判決が、神の絶対的な正義によって下されるところであります。そして、すべての人は公正な裁きを受けるのです。

 それは、白くて大きいのですが、その上、それは「御座」であります。その御座に座しておられる御方こそ、王の王、主の主であられるイエス・キリストであります。彼は最高権威者であります。彼が一度下したさばきはもう覆されることはなく、その刑罰から逃れることは絶対に出来ないのです。これは「御座」なのです。この御座の上に更に大きな御座は決してありません。何と恐ろしい厳粛さが、その光景を取り巻いていることでしょうか。何と厳粛に満ちた威光が「大きな白い御座」に座しておられる方に満ちていることでしょうか。

 そして、その御座の前に立つ人々はどのような人々でしょうか。「死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。」とヨハネは記録しています。この世の人たちが大きな者とみなした人たちも、また小さい者とみなされた人々も、その御座の前の呼び出されました。その罪が小さいと見えた者も、またその罪が大きく、よく目立った人も、みなその聖なる御座の前に立たなければなりませんでした。貴賎貧富にも関係なく、国籍も関係なく、皮膚の色も関係なく、すべての人類がその御座の前に立っているのをヨハネは見たのです。そして、その御座に座っておられる御方の神の裁きを受けなければならないのです。

 そして、その最後の審判はどのように行われるのでしょうか。「数々の書物が開かれたが‥‥死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。」と記されています。その日には、善悪を記録してある神の覚え書きが開かれます。神はすべての人の生涯の最も小さなことも、人の前からは隠されていた心の中で犯した罪の秘密まで、忠実に記録されているこれらの書物が開かれた上で、注意深く審査されるのです。永遠の神の前にあっては、時間の不足はありませんから、そのさばきが急がれることはありません。この地上の裁判では、限られた時間の中で不完全な人間が裁判官ですから度々、間違った判決や冤罪などもありますが、「最後の審判」においては決してそのようなことはないのです。

 しかし、最後にもう一つの別の書物が開かれます。それは、「いのちの書」であります。その書は、イエス・キリストを自分の救い主として個人的に受け入れ、信じた者たち、すなわちクリスチャンたちの名前がすべて記されてある名簿のようなものでしょうか。この「大きな白い御座」の前に立たされて、聖なる御方のさばきを受けるのは、この世の不信者であり、キリストの救いを拒んだ人々であります。キリストを信じた者がその御座の前に立たされて、さばきを受けることは決してありません。なぜなら、神の御子が、この世に来られその生涯の終わりに、自分の身代わりとなって神にさばかれてくださったことを信じた者は、すべての罪が赦され、永遠のいのちをすでに受けており、その救いを失うことはあり得ないからです。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「この方(キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには私たちが救われる名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。」(使徒の働き:4:12)。

●「わたし(キリスト)は道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもと(天国)に来ることはありません。」(ヨハネ14:6)。

●「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネの福音書5:24)。

 
 どうか、あなたも神が備えてくださったこのすばらしい救いをお受けになって下さい。キリストを信じた者の最終的な行き先は、恐ろしい「火の池」ではなく、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」慰めに満ちた天国なのです。 

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」

 



★不思議な死の大行進

2006-08-05 | 「死後の二つの行き先」
 
    

●「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、それを見出す者はまれです。」(マタイの福音書7:13、14)。

 大分前に何かに書いてあった話を思い出したのですが、アフリカ南部のカラハリ砂漠に、スプリング・バックというカモシカが住んでいるそうです。普通は5、6頭~2、30頭の小さな群れをつくっていますが、ある日、突然、一ヶ所に集まり始めやがて数万頭の大群になることがあるというのです。すると、リーダー格の大きな鹿が先頭に立って、ゆっくり歩き始めるのです。ぎっしりと体を寄せ合ったカモシカたちはそのあとに従って徐々に前に進み始めます。そして、途中にある草を食べながら進むのです。おなかのすいたカモシカたちはわれ先に前の方にもぐり込み草にありつこうとしますが、決して群れを離れようとはしません。臆病なシカたちは天敵の襲撃を恐れて、群れの中にもぐり込みながら、他のシカよりも前に出ようとするのです。

 だんだんせり合いが激しくなり、仲間を押しのけながら進みます。そうやってスピードがついてしまうともう止まることができません。前のシカが走れば、後のシカが遅れまいと追いかける。すると前のシカはさらに速く走ろうとする、といったぐあいに加速度がつき、ついに何万頭という群れが全速力で走り出すのです。リーダー格のシカは、初めは新しい場所へ仲間を連れて行くつもりだったのでしょうが、やがて目的をすっかり忘れて、ただ走ることしか考えずに、ひたすら前へ前へと突っ走ります。砂けむりをあげて疾走するカモシカの群れは、砂漠を横切ってついに海岸に出ます。が、先頭のシカたちは後から押されるものすごい力で止まることができず、どっと海中になだれ落ちていき、やがて海岸はあわれなスプリング・バックの死体でうずまるのです。

 一体、なぜこのようなことが起こるのでしょうか。多分、仲間が増えて来たので、もっと草の多い海岸地方へ移動しようと進むうちに、生来の臆病な性質と、われ先に食を得ようとする利己心が、このような哀れな結果を招くことになるのではないでしょうか。でも、よく考えて見ますと、私たち人間もまったく同じような行進を続けているではないでしょうか! 疾走しているカモシカに「なぜ走っているのか?」「どこに向かって走っているのか?」と尋ねたとしますと彼らは、「さあね。みんなが走るから、自分も走っているんだ。みんなに追い抜かれないように走っているだけなんだ!」と答えることでしょう。彼らはどこに向かって走っているのかなどとは考えようともしないで、ただ他のシカよりもよい草を得よう、他に追い抜かれないようにしようと、必死になって走っていたのです。抜きつ抜かれしながら、ただ走り続けているのです。

 ところで、冒頭のみことばにも書きましたが、神のことばである聖書は、私たちも人間もみな恐ろしい滅びの道を突き進んでいると教えているのです。人類がまっしぐらに滅亡への道を突進していると言ってもにわかには信じられない方も多いと思いますが、聖書は何度も繰り返してそのことに警鐘を鳴らしているのです。私たちは、将来のことを考えて、勉強、就職、結婚、そして社会的地位の獲得や、財産の獲得とお金儲け、名誉などを追い求めて、当面の目標を立てて一生懸命に努力をしています。友達や周りの人たちみんながやっているから、自分もやらなければ・・・・と、追い立てられるように前に進もうと励みます。しかし、たとえその願いがかなったとしても、そのその終局が滅びであるとするなら何という悲しいことではないでしょうか。

 聖書によると、初めに神はご自身のかたちに人間を創造されました。そして、人間には神を喜ばせ、神の栄光のために生きるという目的があったのであります。ところが、人間はその創造主である神から離れ、神に背を向けて自分勝手な自己中心の罪の道を歩むようになってしまいました。最初に神が与えた目的を見失い、神から離れてしまったのです。聖書では、神から与えられた人生の正しい目的から離れた生活を「罪」と呼んでいます。神に背を向けて自己中心な生き方をしている人はみな罪人なのであります。どなたでも正直にご自分の心の中をさぐってみれば、その心の中は高慢、妬み、偽わり、他人を中傷すること、醜い不道徳な心、利己心などでいっぱいであることに気づくはずです。

 最近は、毎日の新聞報道でも暗いニュースが多く、肉親や友人の間でさえ平気で人殺しが行われ、人のいのちが軽視され、殺人などの報道は日常茶飯事になっています。また、周囲の世界に目をやると、戦争や殺戮、恐ろしいテロなどが各地で起こっていて、その悲惨さは目を覆うばかりであります。しかし、聖書によれば、この人間の罪は必ずさばかれる時が来るのです。神のみことばである聖書には、次のように書かれていますので、立ち止まってご自分の人生に当てはめてお考えになってください。

●「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)。

●「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」(ヘブル書4:13)。


 しかし、愛なる神は、まっしぐらに滅びへの道を突き進んでいる人類を深くあわれまれて、救いの道を備えてくださったのであります。それは、神のひとり子イエス・キリストによる救いです。神の御子イエス様は、今から約2.000年前に、み父のみもとから人間の姿をとってこの地上に来られたのです。そのご生涯はまったく聖よく、一点の罪もありませんでしたが、私たちの罪を背負って、身代わりに十字架上で神の刑罰を受けて死んでくださったのです。十字架上で死なれた主イエスは、墓に葬られましたが、聖書の預言どおりに三日目に死からよみがえり、真の救い主であり、命の君であることを立証されたのであります。キリストの十字架は、人間の側からみれば、当時のユダヤの指導者たちの妬みによるものですが、実は愛なる神が人類を救うために立てられた永遠のご計画であったのです。

●「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。 どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ガラテヤ人への手紙1:4、5)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。


 この地球上に住んでいる大部分の人たちは、あのカモシカの群れの死の大行進のように、神に背を向けた自己中心の罪の生活を続け、永遠の滅亡に向かって物凄いスピードで、走り続けているのです。滅亡への道を選ぶか、永遠のいのちへの道を選ぶかはあなたの心次第なのです。あなたは、どうかこの事実に一刻も早くお気づきになられて救い主イエス・キリストを信じて救われてください。神は、ご自身の愛のゆえに、この瞬間にも警鐘を乱打しておられるのです。

◆(E-mail): goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」


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★人間の死後の世界は?

2006-06-24 | 「死後の二つの行き先」
                

  人は生きている限り、だれでも無意識の中にも「死」について考えない人はいないのではないかと思います。人生について、生きることと死ぬことについて真面目に考える人もいれば、いい加減に軽くあしらう人もいれば、故意に死について考えるのを避けようとする人もいます。あるいは、「死後の世界などあるはずがない!」と断言する方もおられます。しかし、無神論者や唯物論者であっても、「死」に対して何らかの恐怖や不安を抱いていることは確かです。人が癌を宣告されたり、災害や交通事故などに恐怖を抱くのも、所詮死が怖いからではないでしょうか。しかし、それでも不思議なことに、死を自分自身の問題として考えることなく、「他人は死んでも自分だけは死なない。」というような顔をして生きている人がいるのもまた事実なのです。

 人間の死について、真剣に考え悩んでおられるAさんが、あるものに次のようなことを書いています。「死後の世界は本当にあるのだろうか?当たり前のことだが、今を生きている私には到底分かるはずもない。死という入り口に立って、はじめてその扉の向こうを知ることになるのだろうか。『天国か地獄か、どちらがいい?』と聞かれれば、それは天国の方がいいと答えるに決まっている。誰も自ら好んで、地獄へ行きたいなんて思わないだろう。昔から人々は死の恐怖に怯えて来たことは事実である。そして、私も人はなぜ死ぬのだろうと考える時がある。目に見えない世界というものは、不思議と大きな脅威を感じるものである。生と死、生まれながらの境遇の差異など、生まれてから死ぬまで人生の悩みは尽きません。‥‥‥」

 「‥‥‥でもそれだけ生命というものは、多くの神秘性を秘めているのだと思います。生死について、学術的なものから霊的なものまで、実に様々な説があるかもしれないけれど、何が正しくて何が間違っているかなんて、本当のところ誰にも分からないのだろう。心の拠り所を求めて迷い彷徨う中で、『これは絶対に間違いのない真理です』と言い切られると、そうなのかもしれないと思ってしまう。よく分からないけれど、間違いなく天国へ行けるける切符を手に入れたような安心感が欲しいのです。死後の世界。それはあるのかもしれないし、ないのかもしれない。それを否定する人もいれば、肯定する人もいるだろう。人それぞれ、その思いは十人十色だ。だけど、私は真理はひとつのような気がするのです。」

 私は、このAさんの「人生」における生と死の問題を真っ向から考えようとする真摯な考え方、真面目に「死」の問題を熟考する姿に共鳴すら覚えるのであります。今の時代、多くの方は、人生、今が楽しければそれで良いのだと言って「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」(Ⅰコリント15:32)と、刹那的な快楽生活を追い求めて行く人たちの中にあって、生きる意味や死の問題について真剣に考えていることは幸いなことであり、このような人生の求道者は稀有に近いと言っても過言ではありません。私は、彼の文章の中で、「私は真理はひとつのような気がするのです。」と言っていることに対して、彼が大変理性的で、その論理が整然としているのを感じるのです。「真理は一つである。」ということは正しいことです。 

 「1+2=3」という答えは一つです。この答えは一つであり、時代や国によって変わることはありません。「この宇宙はどうして出来たのか?」という質問の答えは一つです。進化論も正しければ神(創造者)が造られたという答えも、両方とも正しいということはないのです。聖書は「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)と語っています。真理はこれ一つです。人間の死の問題についても同様です。その問題の答えは、一つです。聖書は「死がどのようにして人類に入って来たのか。」「人間の死後はどなるのか。」「人間はどうしたら死の恐怖と不安から解放されるのか。」について、明解に答えています。

 ですから、どうか、みなさん、Aさんと同じ悩みをお持ちの方は、是非、神が啓示された唯一の真理の書である聖書の語る言葉に耳を傾けて下さい。アダム以来のすべての人類は神の前に罪を犯しました。そして、死後、神の永遠のさばきを受けるべき者となってしまった人間一人一人を愛なる神様は、ご自身のひとり子、イエス・キリストを救い主として、この世に遣わされ、キリストは罪のない聖よいご生涯の後に、十字架に架かられて私たち罪人の身代わりとなって死んでくださったのです。そして、死後三日目に復活されたのです。このお方を救い主として信じる者は永遠のいのちを受け、死後も天国に行くことが出来るのです。しかし、それを信じるか、信じないかは聞く者一人一人の自由です。信仰はだれによっても強制されたりするべきものではありません。

●「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ人への手紙5:12)。
 
●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

●「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への手紙5:6~8)。 

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 」(ローマ人への手紙3:23,24)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 (ヨハネの黙示録21:4)。


 「天国と地獄」。「死と永遠のいのち」。これは、人間が最終的に行き着くところの両極端です。私たちは、罪のゆえに、当然、永遠の滅び(地獄)に行くべき存在であります。しかし、愛なる神様は、イエス・キリストの十字架のゆえに、「永遠のいのち」を恵みによって与えてくださる方なのです。しかし、そのためには、自分が神の前に罪人であるという事実を素直に認めて、賜物としての救い(永遠のいのち)を受け入れる従順な心がなければならないのです。神様はあなたにもその賜物を与えようとしておられます。どうか、あなたも、砕かれた心をお持ちになられて、救い主イエス様を信仰によって受け入れ、愛なる神様の尊い救いをご自分のものとなさってくださいますように心からお勧めいたします。

◆(E-mail): goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」  

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★人生列車の終着駅

2006-04-24 | 「死後の二つの行き先」



 少年時代の私はSLが走る線路の近くに住んでいましたので、驀進して力走する姿とあの汽笛の音は60代半ばになった今も懐かしく私の耳に残っています。もくもくと黒煙を上げて峠を喘ぐようにして上って行く蒸気機関車(D51)の姿は、私たちの人生を彷彿とさせる何かを感じさせるものがありますね。 

 人生はよく旅にたとえられますが、私たちの人生を「列車の旅」にたとえて考えて見ましょう。列車にはいろいろな人が乗って来ます。観光旅行、仕事の出張、急用があっての急ぎ旅。最近は見なくなりましたが、昔は行商のおばさんたちが大きな荷物を背負って乗り込んで来たものです。喜びや悲しみを抱えている人々が乗り合わせている列車は、まさに人生の縮図とも言えるのではないでしょうか。

 私たちの「人生列車」にも色々な人々が乗り合わせて来ます。例えば、同級生や会社の同僚などです。隣に乗り合わせただけで、人生の長い旅を共にすることになります。互いに他人であった者たちが結婚して伴侶となるのもその一つです。転職やその他思いがけない出来事などで列車を乗り換える人もいるでしょう。

 しかし、「人生の終着駅」は一体どこなのでしょうか。「人生の終わりなど考えたくない。考えても仕方がないではないか!」とお考えの方もおられると思います。しかし、どなたにも人生の終着駅に着く時が必ず来るのです。「死」という「人生の終着駅」に着くのですが、それを考えると、人生は孤独な旅であることを深く考えさせられます。しかも、聖書によれば、人生の旅は「終着駅」で終わるのではありません。

 聖書には、「人間には、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている。」(ヘブル人への手紙9:27)と記されているのであります。「一度死ぬこと」は当たり前だと言って無視する人もいますが、「死後のさばきを受ける」ということを、あなたは笑って否定出来るでしょうか。私たちは、虫けらのように簡単に人殺しをしてしまうような世の中の悪人見ると、「あんなやつは裁かれて当然の報いを受けるべきだ。」と考えるのです。

 しかし、自分も自ら犯した罪のために死後に裁かれてその報いを受けるという話になると、誰もが急に否定し始めるのです。聖書は、「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」(ヘブル人への手紙4:13) と厳粛に警告しています。

 人生列車に「終着駅」があるのであれば、当然「始発駅」もあるはずです。あなたに「いのちと息と万物をお与えになった方」は聖書が語る創造主であられる真の神様です。この神様によってあなたはこの世に生を受け、あなたの人生はスタートしたのです。あなたはこの神様に対して申し開きをしなければならないのです。「義人はいない。一人もいない。‥‥‥すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。」(ローマ人への手紙3:10,23)という聖書のことばに対して、一体だれがそれを否定することができるでしょうか。国の法律を犯さなくても、心の中で人を憎んだり、妬んだり、嘘をついただけでも神の前には罪なのです。

 しかし、聖書が語る神は「愛の神様」ですから、私たちに救いの道を開いてくださいました。神はご自身の御子主イエス様をこの世に遣わされ、主イエス様は人類を「罪のさばき」から救うために、私たち一人一人の罪を身代わりに背負って十字架で死んでくださり、三日目に復活された救い主なのです。

 人生の終着駅の向こうには二つの行き先があります。罪の当然の報いである「神のさばきの火」(火の池)に入るか、罪が赦されて神様の備えられた「永遠の天国」に入るかです。どうか、あなたもこの大切な問題を真剣にお考えになって、主イエス様を信じて「永遠の天国」というすばらしい「終着駅」に行く列車に乗り換えられますようにお勧めいたします。天国は次のような涙や悲しみが全くない幸いな所です。


●「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 (ヨハネの黙示録21:4)。

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★天国と地獄への分かれ道

2005-03-01 | 「死後の二つの行き先」

                

  人間は、だれでも必ず死ぬ時が来ることを知っていますが、「人は、死んだらどうなるのか」という問題に対して、殆どの方は漠然としていて、「分からない‥」と答えます。また、「死後は無であるに決まっている!」と断言する方もおられます。しかし、その根拠となるものはなく、ただの推測に過ぎません。 人間というものは、とかく自分が望んでいることを信じたがるのです。しかし、この「死と死後」の問題は、軽々しく取り扱うべき問題ではなく、非常に厳粛な事柄です。死後には永遠の世界があるからです。

 さて、死後の世界は無ではなく、明確に二つの世界があると神の言葉である聖書は告げています。その二つというのは、「天国」と「地獄」(火の池)です。地獄と書いたのは、日本人に分かり易く書いたのであって、文字通りには、「火の池」(英訳:Lake of fire )です。私は、ただ聖書に書いてある事実だけを皆様に紹介しています。そして、それを信じるか信じないかも自由であります。第一に、「天国」については、ヨハネの黙示録に次のように書かれています。

●「また私(ヨハネ)は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。 ‥‥神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』‥‥」(ヨハネの黙示録21:1~4)。

 また、地獄(火の池)については、次のように記述されています。これは、大きな白き御座における人類の「最後の審判」の場面です。ヨハネは、神から啓示されてその見たままを記したのです。ですから、これは、うそ偽り無く、真実な言葉です。私は、これをそのまま信じております。

●「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。 それから、死とハデスとは、火の池(Lake of fire )に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(ヨハネの黙示録20:11~15)。

 そのすべてを紹介するスペースはありませんが、新約聖書の多くの個所で、死後には、間違いなく、二つの世界があることを語っています。イエス・キリストは次のように語られました。

●「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。 」(マタイの福音書7:13,14)。 

 ここで、「滅び」とは永遠のさばきである「火の池」を示しており、「いのち」は永遠の慰めに満ちている天国を示しています。そして、殆どの方が永遠の滅びに至る広い道を歩んでいると、イエス様は警告されました。今の時代も同じです。神の存在や、地獄について語ると、人々はあざ笑うのです。しかし、それは聖書にもあらかじめ予告されていたことなのです。

 それでは、天国行きと地獄行きとの分かれ道は、どこにあるのでしょうか。日本人の多くの方が考えているように、殺人犯や極悪非道な犯罪者が行くところが地獄で、いわゆる善人とか、多くの慈善を行った人が天国に行くのでしょうか。いいえ。そうではありません。聖書には、次のように書かれています。これは、非常に重要な真理ですから、よくよくお考えになってください。

●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ(天国に入る)が、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒り(神の永遠のさばき)がその上にとどまる。 」(ヨハネの福音書3:36)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。
 

 これらのみことばにありますように、死後の二つの世界を分けるものは、神が救い主としてこの世に遣わされた御子を信じるか否かにかかっているのです。神の存在を認めるだけでは、天国に入ることはできません。キリストの十字架がその分岐点です。パウロは聖霊に導かれて次のように書いています。

●「十字架のことば(福音)は、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。 」(コリント第一の手紙1:18)。 

 私たちの救い主として十字架につけられたイエス・キリストを信じ受け入れるなら、人は救われるのです。イエス様と共に十字架につけられたあの二人の強盗は、一人は地獄へ、一人は天国に行きました。それは、キリストを信じたか否かで二つに分かれたのです。そしてそれは、永遠の別離です。パウロは老人になり、福音のために牢獄に繋がれていましたが、殉教を目前にして、彼の最後の手紙にこのように書いています。そこには、死後の世界に対して、少しの不安もなく、確信に満ちていることが分かります。あなたも、今、永遠の分かれ道の分岐点に立っています。あなたはどちらの道を選ばれますか?どうぞ、勇気をもって賢明な決断をなさって下さい。

●「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。 」(テモテへの第二の手紙4:8)。  

           

★良心の呵責と神の刑罰

2005-02-06 | 「死後の二つの行き先」
   

 

 これは、何十年も前に新聞で報道された事件ですが、ある男が人を殺して、その死体を土に穴を掘って投げ込み、その上にコンクリートを流し込んで長い間、隠していたのですが、良心の呵責に耐えかねて、警察に自首して出たということがありました。彼は、もう一年すれば時効になるはずでしたが、その苦痛に耐えられず、あと一年を待つことができなかったのです。

 人間には、罪には必ず刑罰が伴うものであるという意識があるのです。だれが、いつ、刑罰を与えるということは明白には分からなくとも、誰かが、いつかは罰を与えるものであるという考えを取り除くことはできないのです。ですから、彼は被害者の遺族には、罪滅ぼしのために出来るだけの親切を尽くしたのですが、しかし、それによって、完全に良心の呵責はなくならなかったのです。

 一体、これはどういうわけでしょうか。その理由は、正しい審判を行う神が存在するからであります。ですから、この神の御前で、自分に罪があると思うとき、心は不安と恐れででいっぱいになるのです。たとえ、他人が「あなたは、親切でいい人です。」と言ってくれたとしても、それによって、神は赦してくれるとは思いませんから、良心の呵責と苦痛は少しも減らないわけです。

 また、今から34年も前の1971年7月の新聞に「時効後、真犯人?名乗り」という見出しで、新聞に報じられた記事がありましたが、それは当時大変話題になり、人々を驚かせました。ご年配の方はご記憶にあるかと思います。一人の男が、22年前の殺人の「真犯人は私です」と名乗り出たのです。一方、犯人として判決に従い、懲役15年の服役を終わったNさんは、ずっと、無実を主張し続けて来ました。その真犯人も、やはり長い間、良心の呵責に苦しんでいたのです。

次のみことばは、ユダヤの王ダビデが、姦淫と殺人の罪を犯した時に、苦悶の中で詠んだ告白の歌であります。良心の呵責に苦しむダビデの心中を察することができます。

●「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、(神の)御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」(詩篇32:3,4)。 

  これらの事件の事実から、人が罪を犯したとき、その当事者の良心に呵責を与える正義の神がおられることと同時に、人間である裁判の限界を知らされるのであります。シーザーは、「人間というものは、自分の望んでいることを信じたがるものだ。」と言いましたが、その通りだと思います。多くの人々は地獄や死後のさばきの事実があることを信じませんが、彼らは、それを証明したからではなく、「信じたくない」から信じないのです。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

●「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ人への手紙6:7)。
 

  死がすべての人に襲って来るようにすべての人は、死後において正義なる神の裁判を受けなければならないのです。そして、その行いに応じて裁かれるのです。例えるならば、私たちの行いをすべて神の倉の中に貯えているようなものです。定められたさばきの時(最後の審判)が来ると、各々の倉から全部出されて神の座の前にさらされてさばきを受けるのです。そして、聖書の神は全知全能の神ですから、人の心の奥底まで知り尽くしておられます。神は、あなたの全生涯の行為だけでなく、その動機までも追求されます。神は小さな悪をも見逃さない聖なるお方なのです。

 最後に、最も大切な歴史的事実を皆様にお伝えしたいのです。それは、私たち罪人(国の法を犯さなくとも、すべての人は神の前に罪人です)の身代わりとなって、神の御子イエス・キリストが十字架上で死んでくださったという事実です。これが、キリストの福音なのです。

●「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マルコの福音書15:34)。 

 このお言葉は、神の御子であるイエス・キリストの十字架上での絶叫です。キリストはあなたや私たちの罪を負って、身代わりにこの恐ろしい神の刑罰を受けられたのです。もし、あなたが、イエス・キリストを救い主として信じ受け入れるなら、罪と死後のさばきから救われ、神の怒りが下ることはありません。死後の行き先は、二つしかありません。キリストを信じて罪赦された者は天国で、キリストの福音を拒んで、死んだ人は火の池に入れられるのです。

 ある老裁判官が退官する時に、次のように述懐したそうです。「私は今まで多くの人々を裁いて来たが、今度は神の法廷で私が裁きを受けなければならない。」と。あなたは、どのような状態で生ける絶対正義の神の前に立ち得ることができるでしょうか。キリストを救い主と信じて、キリストを弁護人として立つことのできる人は幸いです。

●「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 」(ローマ人への手紙8:1)。

●「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たち(クリスチャン)のためにとりなしていてくださいます。」(ローマ人への手紙8:34)。


   


★タイタニック号の悲劇

2004-12-25 | 「死後の二つの行き先」

    1912年4月12日、それまでに建造されたものの中で最も壮麗で、安全を誇った豪華客船「タイタニック号」がアメリカ向け処女航海の大西洋上で氷山に衝突して沈没して多くの犠牲者を出したことは、知らない人はいないほど有名な海難事故であります。

タイタニック号が沈没した時、英国リバプール市にあるホワイト・スター汽船会社事務所の前に起こった光景は、筆舌に尽くしがたいものであったと言われています。この不運な汽船に乗り込んだ人たちの家族や友人の群れが道路いっぱいにあふれ、交通はすっかり遮断されました。そして、事務所正面入り口の両側に、大きな掲示板が掛けられ、その一つには、大きな字で「生存者」、もう一つの方には「行方不明者」の名前が書き出されたのです。

ひっきりなしに、乗船者の名前を書いた紙片を持った係員が事務所から出て来て、入り口に立ち、大勢の人を見ながら、紙片を高く上げると、群衆はまるで水を打ったように静かになり、「生存者」の方か、「行方不明者」の方か、どちらかの掲示板に紙片がはり出されるか、みな息を殺すようにして見守ったと言われています。

これらの群集は、この豪華客船に乗っていた人の運命は、ただ、二つのグループに分けられていたことを知っていたのです。つまり、「生」か「死」のグループのどちらかであります。
そして、世界中のすべての人々は、神の前にただ、二つののグループのどちらかに属することになるのです。これは、聖書が語るまことに厳粛な事実であり、聖書は、次のように記しています。

●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者(信じない者)は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネの福音書3:36)。

また、このタイタニック号の海難事故について、一人の記者が次のように語っています。「愕然とさせられることは、その船が沈んだということではなく、15時間前に無線によって警報を受けていたにも拘わらず、その船は沈み、しかもその直前まで、船は全速力を出し、楽隊は楽器を鳴らし、船客は踊りに耽り、明らかに、だれ一人として前方に氷山のあることに注意していなかったことです。」と。

また、聖書は「人々が、『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。」(Ⅰテサロニケ5:3)と警告しています。多くの人々は現状維持の態度を取り続けているために、滅びが目前に迫っていると聖書が警告しているにも拘わらず、それを無視しているのであります。救われるためには、キリストを自らの個人的な救い主と信じて受け入れ、今までの罪の人生を悔い改めて、方向転換をしなければなりません。

 これは、ある本に書かれてあったことですが、タイタニック号を建造した造船技師は有名な無神論者でしたが、その船底に「神などはいない!」と刻みつけたと言われています。これが、事実かどうか確かめるすべがありませんが、もし、そうなら、恐ろしいことです。このような不真面目な者に対して、神の審判が下るのは当然であります。神は決して侮られるような方ではありません。

●「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ人への手紙6:7)。
●「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。」 (詩篇14:1)。


 キリストの十字架と復活の福音を信じる者は救われて永遠のいのちを受け、福音の恵みを拒む者は永遠の滅びに入るのです。次のみことばは、キリストご自身が、はっきりと語られた厳粛なことばです。どうか、あなたの永遠の未来、死後のために備えをなさってください。

●「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。 」(マタイの福音書7:13,14)。

        

★必ず来るもの・人間の死。

2004-12-13 | 「死後の二つの行き先」

           

 今日は、誰もがあまり考えたくない問題に、あえて触れてみたいと思います。人生において、すべての人に確実に来るものは何でしょうか。それは、非常に現実的な問題であり、「死」の問題です。それは、どなたも考えたくないことであり、できるだけそのことを話題にしたり、考えるのを避けようとするのが常ではないかと思います。

 多くの人は、「死後のことは分からない」と言いながらも、だれでも「死にたくない」と願うのです。「生への執着は生ける者の本能である」と言えばもっともらしく聞こえますが、その不可解な死に怯えながら、逃げ回っているのが人間の本当の姿でないでしょうか。病院に「4号室」がないのも「死」に通じてると考えるからです。 

 私は近くにガレージを借りていますが、そこには「⑤」という番号がついています。
①②③と続いて、④がなく、私のガレージが⑤番になっています。ホテルの部屋なども「4」のつく部屋がないところが多いと思います。日本人は「4」の数字を忌み嫌うのです。とにかく、「死」は恐ろしく、その「死」ということばすら避けたいとの思いがあるわけですね。

 この切なる願いにも拘わらず、死はすべての人に迫っています。金持ちも貧乏人も、有名人も無名な人も、今健康な人も病人も、それらのことに関係なく、「死」はすべての人に平等に襲って来るのです。そして、死後に何があるか分からないので、尚更、不気味であります。「自分は若いから、まだ大丈夫だ‥‥」と、お考えの方もおられると思いますが、必ずしも、年配者が先に逝くとは限らないのですね。また、健康な人が病弱な人より先に逝くとは限りません。私の母は昔から病弱でしたが、元気だった父が亡くなってから15年経った今(89歳)も生きています。

 先日、私が住んでいる市の31歳の青年がバイクに乗って走っていたのですが、交差点で一時停止を怠って乗用車と衝突、即死しました。私の息子と同じ年の前途有為の青年でした。会ったことはありませんが、電話で話したことがあったので、新聞で事故死のニュースを見て驚いた次第です。

 「人間というのは、みな細い糸にぶら下がって生きているようなものだ」と、言った人がいますが、その糸がいつ切れるかはだれもわからないのです。人は、若く健康な人も死ぬ時はあっけなく死んでしまいます。ですから、死の問題の解決なくして、人生の真の問題の解決はなく、人生には本当の意味で希望がないことになります。最新の医療でさえ、ただの延命の手段の一つであるなら、根本的な解決にはなりません。

 人間は、いくら考えても、死後のことを知ることはできませんが、神のみことばである聖書は、人間の死後について、次のように厳粛に告げています。

●「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

●「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。 海はその 中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第 二の死である。 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。 」(ヨハネ黙示録20:11~15)。


 ここで、話を閉じてしまうと、みなさんにただ恐怖感を与えるだけで終わってしまうことになります。しかし、みなさん、聖書は私たちに真の希望を与える書物であり、聖書には、この正義の神の恐ろしい「最後の審判」から救われる道が書かれています。それが「福音」(God's Word)( good news )(gospel) であり、「良きおとずれ」なのです。神の御子イエス・キリストが十字架で、人類の罪の身代わりに死なれ、三日目に復活されたのは、そのためなのです。次のような幸いな聖書のことばがあります。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「あなたがたは、恵みのゆえに信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ書2:8)


 神が遣わされた救い主イエス・キリストを自分の個人的な救い主として信じ受け入れる時に、だれでも罪赦されて、永遠のいのちを受けることができるのです。そして、死後にも天国に入ることが出来ます。是非、あなたも、この神様からのすばらしい賜物をご自分のものとなさってくださいますように。人の死後は天国と火の池(lake of fire)の二つの世界があり、それは永遠に続くのです。決して、人は死んで無になるのではありません。