聖書から人生を考えよう

私のプログへようこそ!!
お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★聖書の預言と天気予報

2005-02-27 | 「聖書について」



  2005年2月22日夕刻、鹿児島県・種子島宇宙センターから打ち上げられた国産ロケットH2A7号機が、曇天を突いて宇宙に飛び出し、打ち上げに成功しました。悪夢のロケット爆破から1年3ヶ月の苦労がやっと実った瞬間でした。 気象庁でも、失 敗すれば気象観測に重大な支障をもたらすだけに、担当官たちの喜びも非常に大きかったことが推測できます。
 
 さて、日本人はよく日常の挨拶で、「今日はいい天気ですね!」とか、「暑い日が続きますね!」とか、「今朝はシバレますね~!」(北海道弁)などと言います。ちなみに、中国人は挨拶で「飯は食いましたか。」と尋ねることが多いと聞きました。また、日本人の手紙の書き出しは、まず「時候」の挨拶から始まるのが普通ではないでしょうか。初対面の人と、何から話を始めたらよいか分からないような時にも、天気の話から始めることが多いのが日本人です。

 また、日本では、マイクの感度のテストをする場合にも、たとえ雨天であっても、「本日は晴天なり。本日は晴天なり・・・・」を繰り返すのが一般的です。このように、日本人ほど、天気を気にする民族、天気を話題にする民族も珍しいのではないかと思います。テレビやラジオでは、一日中繰り返し、「天気予報」を流します。これは、日本人の民族性や気候風土と何か関連があるのかもしれません。

 かなり古い新聞に面白い記事が載っていたので、私のスクラップブックに挟んでおいたのですが、それによると、天気予報が日本で初めて登場したのが明治17年(1884年)6月1日であったそうです。その歴史的な第一回天気予報は、「全国一般、風ノ向キハ定マリナシ、天気ハ変ワリ易シ、但シ、雨天ガチ。」というものであったそうです。「風ノ向キハ定マリナシ」と言っているので、どの風向きでも心配はありません。また、「天気ハ変ワリ易シ」と断っているので、どんな天気になっても誰も苦情を言うこともできません。全天候型の天気予報なのです。

 このような天気予報であれば、あってもなくてもいいようなものですね!しかし、現在のように科学が格段に進歩して、気象衛星を使い、コンピューターを駆使して、行われている現在の天気予報でも、時々、その予報が外れる事があります。最近は、地球環境が温暖化し、急激に変化しているので、これは私の推測ですが、特に長期予報の場合は、益々、高い確率で天気予報を出すのが困難になって来ているのではないでしょうか。

●「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたら されたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(ペテロの第二の手紙1:20~21)

 さて、神のことばである聖書は、人間の意志によって書かれた書物ではなく、神の霊感によって記された書物であります。ですから、聖書はこの世界と人類の未来について多くのことを語っていますが、その預言(神のことば)が外れるということは絶対にないのです。聖書の預言は100%の確率で成就するのです。キリストの生涯について、旧約聖書には108位の事柄について預言されています。そして、現在までに成就すべきことは、確実に成就しているのです。

 また、イスラエルの民が離散する事や再び故国に帰って来ることなど、イスラエルの長い歴史についても、数々の多くの預言があります。例えば、旧約のダニエル書には、世界の四大帝国(バビロン・メディアとペルシャ・ギリシャ・ローマ)の興亡についての預言が記されていますが、すべてその通りに成就したのであります。その他、聖書に書かれた時点ではまだ起こっていない未来についての多くの記事(預言)がありますが、それらは確実に成就し、聖書は真実であることを証明しています。また、世界の終末についても、人間の死後のことについても、聖書は明確に断定的に語っています。また、「預言」とは神のことばのことであり、「未来の予言」の意味だけでなく、過去のことも現在のことも含んでいます。

 人間は時間に拘束され、それに従属しています。時間に対して、人間はどんなに抵抗しても無力です。ですから、人間は、未来のことを知ることはできません。人間は、時間の流れの中に生かされているので、常に「現在」というものを起点として、「未来」と「過去」というものを考えるわけです。しかし、神は時間の外におられる方であり、時間を超越して存在されるお方です。ですから、神にとってはすべてが現在であるが故に、人間の側から見て未来に属することも正確に予知できるわけであります。未来について正確に予知するのは、全知全能の神以外には決してできないことであり、また、「聖書」によってそれを人類に知らしめることができるお方なのです。

●「預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。 」(旧約聖書:申命記18:21~22)。

 神様は、人の口を通して未来に起こることをあらかじめ、人々に知らせることができる方です。そして、その預言者が真の預言者であって、神からのことばを語っているかどうかのテストは、その語ったことばがその通り実現するかどうかによって、判別することができるのであります。しかし、悪魔は預言を実現させたり、不思議なことをしたりして人々を偶像の神々に導こうとします。終末の時代には、サタンは何か不思議なことを行って、人々を惑わそうとすることが聖書に予告されてあるので、十分に注意しなければなりません。今も、多くの異端者や偽教師が現れているのは事実です。今の時代は、聖書が完結され、聖書の中に神のみこころがすべて啓示されているので、聖書と矛盾するようなことを語る「預言者」(?)が表れたら要注意です。イエス・キリストは次のように言われました。

●「人に惑わされないように気をつけなさい。 わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。 」(マタイ24:4)。 

 聖書は神のみことばであり、その中心は、イエス・キリストです。キリストはあなたの罪のために十字架上で身代わりに死んでくださり、三日目(日曜日の早朝)によみがえられました。どうか、あなたも、偽りの教えに騙されることのないように、神のみ前に自らの罪をお認めになられ、悔い改めて、神が遣わされた救い主イエス・キリストを信じて救われるようにお勧めいたします。

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★母親の愛と神の愛

2005-02-23 | 「神の愛について」
     


  この話は、もう何十年も前に、スコットランドで実際に起こった出来事です。その古風な高地にある村は、木の生えない切り立ったスコットランドの山と山の間にありました。そして村の人たちは山間(やまあい)の畑で作物を作って生活していました。仕事の間、幼い子供たちはそばで遊び、赤ん坊はバスケットの中で眠っていました。

 ある朝、ものすごく大きな鷲が大空を舞っていましたが、すごい早さで急下降し、畑の方に飛んで来たかと思うと、バスケットの中で眠っていた赤ん坊を素早くわし掴みにして、空中高く舞い上がりました。村人たちは、すぐ追いかけましたが、鷲は高く舞い上がり、高い山の上の岩の上に、その赤ん坊を置いて飛んで行ってしまったのです。そして、もうその赤ん坊は助からないとだれもが考えました。 

 その時、勇敢な船乗りが、この急な山の斜面を登ろうとしましたが、あまりにも急で危険なため、諦めざるを得ませんでした。さらに、いかにも体のがっちりしたベテランの山男がこの急斜面に挑みましたが、やはり、途中で諦めて山を下る以外になかったのです。
ところが、なんと、更に、一人の貧相な農民の女の人がこの危険な斜面に挑んだのです。屈強な体格のいい男が無理だったのだから、これはあまりにも無謀な話です。

 ところが、彼女は意を決したように、命を賭けて溶岩をよじ登り始め、一歩一歩、上へ上へと登って行きました。そして、なんと、彼女はついにあの絶壁の頂上へと達したのであります。下の方では、村人たちが緊張して息を殺すようにして、張り詰めた雰囲気の中で、ハラハラしながら彼女を見ていました。彼女は、今度は一歩一歩、赤ん坊を背負ったまま、下り始めたのです。そして、村人たちの喜びと驚嘆の叫び声の中で、山のふもとに辿りついたのです。これは、なんと驚くべき光景でしょうか。

 一体、がっしりとした体格の良い船乗りや山男に出来なかったことが、どうして、この婦人にできたのでしょうか。これは、本当に不思議なことです。その答えは、ただ一つです!。その農夫の婦人は、その赤ん坊の「母親」であったのです。当然、その母親はわが子を強く愛していました。「愛は不可能を可能にならしめる不思議な力を持っている」のであります。「愛」はみなすばらしいものですが、とりわけ母親の愛は崇高なものではないでしょうか。母親の美しい愛は、たとえ全世界を敵(相手)に回しても、自分がお腹を痛めて産んだわが子を愛するものです。

 しかし、母親の愛よりも、何百倍(いや、幾万倍)も崇高な愛があります。それは、ご自身のひとり子イエス・キリストを賜ったほどの「神の愛」です。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたし(神)はあなたを忘れない。 」 (イザヤ書49:15)。
 

 この世で最も美しく、崇高であるはずの「母親の愛」も、最近は、どうも怪しくなって来ました。自分のお腹を痛めて産んだわが子を、泣き止まないからとか、言うことを聞かないからとか、そんな簡単な理由で、虐待して殴り殺したり、食べ物も与えずに放置して死なせたり、昔は考えられないような目に余る悲しいできごとが多くなって来ました。「たとい、女たちが忘れても、このわたし(神)はあなたを忘れない。」との聖句は、そのような愛の冷えた時代が来ることを、神様は2,700年も前に予知していたかのようなみことばにも思われます。母親があなたのことを忘れることがあっても、神はあなたを忘れることはないのです。

●「私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。」(詩篇27:10)。 

●「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への手紙5:5~8)。 

●「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 私はこう確信しています。死も、いのちも、‥‥今あるものも、後に来るものも、力ある者も、 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 」(ローマ人への手紙5:5~8)。
 

●「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」(Ⅰヨハネの手紙4:8)。
   


★キリストの完全な生涯

2005-02-18 | 「キリストの偉大なる生涯」
   
  

   私たちは、あまりよく知らない道を車で走っている時、どしゃ降りの雨の日とか、雪が降りしきる日などによく道を間違える時がありますが、その場合、間違った地点まで、Uターンして、そこから別の道へ入るわけです。私自身かなりの方向音痴で、度々そのような失敗をする者であります。私たち人間は、例外なく、地上に生まれた人間なら、だれにも間違うことがあるのであります。  

 私たちは、人生においても、間違ったり、間違った決定をしたりすると、私たちは迷い始めた場所まで、人生の道を引き返し、やり直すことができたならと、どんなに、しばしば願うことでしょうか。これは、一般的な経験であり、人間にとって当然のことではないでしょうか。

 しかし、イエス・キリストの生涯は特別であります。彼は決して一つの間違いもしませんでした。もし、あなたが、キリストのご生涯について、聖書を注意深くお読みになられるなら、そのことについて確信を持つことができます。主イエス・キリストは、決して、「多分、そうでしょう。」とか、「おそらく、‥‥でしょう。」とか、「わたしは、そう思います。」などというようなことばは、決して用いられませんでした。彼の語る言葉は、常に明瞭であり、権威と確信に満ちており、曖昧模糊としたものは何もなかったのであります。
 
 最も、偉大な哲学者たちは、「考える人たち」でした。彼らは人生の諸々の問題に直面して、悩み、それらの問題に頭脳を働かせ、そして、その末に結論を出したのです。しかし、私たちは、イエス・キリストが誰かに詰問されて答えに窮したり、彼が難問を前にして考え込んだりしている姿を、聖書の中に決して見ることができません。ある意味で、彼は「考える人」ではなかったというのは真実です。これは、決して思考することがなかったという意味ではありませんので、その点は誤解なさらないでください。

 イエス・キリストは、すべての時代のすべての人とものに対する答えを、正確に、明瞭に絶対的確信をもって、知っておられました。彼は、当然、「人生とは何か」とかについて考え込むこともなかったわけです。彼は、「人生の目的」を知っておられました。キリストは、この地上に存在している理由が分からないからと困惑してそれを解き明かそうとして、何日も考え込むなどということも決してなかったのであります。

 イエス・キリストは、何故この世にいるか、どのようにしてご自身が死なれるかも知っておられました。彼は墓(死)の向こうに何があるかも知っておられ、それを解明する必要はありませんでした。彼は、ご自身がいつ死の時が訪れるか、また死なれる時には十字架で死なれること、そして、死後、三日目に復活されることもすべてご存じでありました。

 イエス・キリストは、あるとき、宗教指導者たちに向かって、「あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」(ヨハネの福音書8:24)と言われ、また、ご自身については、「あなたがたのうち、だれがわたしに罪があると責める(ことのできる)者がいますか。」(ヨハネ8:46)と言われました。彼らは、主イエスに向かって、嘲笑し、非難しましたが、だれもイエス・キリストの権威ある堂々としたことばに言い返すことはできませんでした。そして、そののち、だれも、主イエスのうちに、その行動や語られたうちの一つの言葉にさえも、いかなる罪も見出した者はいないのです。そして、今日に至るまで、「キリストに罪あり」として、その証拠を示した人は一人もいないのであります。

 そして、イエス・キリストの生涯のうちのもう一つの驚くべきことは、彼が一度も「言い訳け」をなさったということがないという事実です。これは、彼が礼儀に欠けていたからではありません。彼には無作法や礼儀に反するようなことは一つもなく、完全な紳士であられました。キリストには、その語った言葉や働きについて、言い訳をするようなことは何一つなかったのであります。
 
 イエス・キリストは、死の前日の夕方、注目すべき祈りをなさいました。。「あなた(父なる神)がわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」(ヨハネの福音書17:4)。主イエスは神の前に確信をもって、このように祈ることができたのです。キリストは御父のみこころを完全に成し遂げられたのであります。

 キリストのご生涯ほど、完全無欠(無比)な生涯は他に全くないということは、疑う余地は微塵もありません。ですから、失敗したり、間違ったことを取り消すためにご生涯のある地点まで、逆戻りしようとする必要もそう願うことも決してありませんでした。キリストが、「わたしはわざを成し遂げました。」とおっしゃった時、過去を振り返ったばかりでなく、翌日ご自身の身の上に何が起こるかもご存じであられました。その次の日、主イエスが十字架につけられたとき、六時間の苦しみの後、午後三時頃、すべてのみわざを終えて彼は大声で「完了した。」と叫ばれたのであります。

●「この方のなさったことは、みなすばらしい。‥‥」(マルコの福音書7:7:37)。

●「あの人(キリスト)のように話した人は、いまだかつてありません。」
(ヨハネの福音書7:46)。

●「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。 」(ペテロ第一の手紙2:22~24)。

●「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。 また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。 」(ヘブル人への手紙7:25,26)。
   




 

★神に対する恐れを知らぬ人間

2005-02-15 | 「神の存在について」

                       

●「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」
(詩篇19:1)。
 
 
  第二次世界大戦前、日本が「大日本帝国」と自ら呼んでいた頃の話でありますが、ある時、ドイツで列国の代表が集まって会議が開かれました。当時のドイツの外務大臣、リッペントロップがまず挨拶に立ち、しばらくの演説のあと、「我がドイツは、神以外の何ものも恐れないのであります!!」という言葉を締めくくりにして、彼はその名演説を終えました。聴衆は、盛んな拍手でそれに応えたのは当然でありました。

 ところが、続いて日本の代表の演説の順番が来たのですが、当時の松岡外務大臣は、開口一番、次のように語ったと言われています。「我が日本は、その神(まことの創造者:全能の神)をも恐れないのであります!!」その途端、会場には軽蔑の意味合いを込めた冷ややかな失笑が漏れたという話が残っていますが、世界に恥を晒した有名な話として伝えられています。これは、日本人の一人としてまことに恥ずかしい限りです。日本には、昔から八百万(やおよろず)の神々、偶像の神が満ちていますが、日本人は全知全能の真の神を知らない民族なのです。真の神を恐れない現代の風潮を考えると、とても悲しい気持ちになります。

 聖書はその冒頭から、天地万物を創造された唯一の真の神の存在について明確に啓示しており、この神を信じない者は「愚か者」であると断言しています。ところで、あなたはどうでしょうか。偶像の神を信じておりますか。それとも、真の神の存在をお認めになられますか。あるいは、無神論者か進化論者でしょうか。いずれにしても、創造者を認めないことは、あなたが今、見ているそのパソコンをデザイン設計し、製作した者を認めないこと以上に愚かなことなのです。

●「初めに、神は天と地を創造した。」(創世記1:1)。

●「主(神)を恐れることは知識の初めである。愚かな者は知恵と訓戒(神のことば)をさげすむ。」(箴言1:7)。

●「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。 主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。 彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。 」(詩篇14:1~3)。
 

 また、新約聖書の中でも使徒パウロは真の神の存在は明らかであり、弁解の余地がないと大胆に断言しているのであります。人間に与えられた理性をもって、この広大な宇宙と地球上の秩序や美しい花や生物、そして、神秘的な人間の体の組織や細胞などを見るなら、創造者の存在をどうして疑うことができるでしょうか。その神に対する恐れの欠如が今日の罪と混乱に満ちた世界を作り出してしまったのです。「彼らの目には、神に対する恐れがない。」(ローマ3:18)とあるとおりです。

●「‥‥不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいまた。‥‥それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。 」(ローマ人への手紙1:18~25)。
 

 今から、約二千年前、使徒パウロは、当時のギリシャの首都アテネの街が偶像で満ちているのを見て、心に強い憤りを感じて次のように叫んだのであります。パウロが今日生きていたとしたら、日本中が偶像に満ちている姿を見てやはり同じように叫んだに違いありません。私たちは、人間の手で作られた偶像ではなく、万物の創造者である唯一の真の神に立ち帰るべきであるのです。  

●「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。‥‥‥ 確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。‥‥神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。 神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。 」(使徒の働き17:24~30)。  
 


    

★病床にある友へ

2005-02-12 | 「人生の試練と逆境」



南国では、もう梅の便りが聞かれる季節なのでしょうが、北国では氷点下の厳しい真冬日の寒さが続いています。このような寒い季節に、病床に伏して呻吟(しんぎん)する日々を送っておられる方にとっては、病気の癒されることは当然ですが、なおさら春の暖かい季節が待ち遠しいことと思います。私の家内も、現在、重い病気があり闘病中なのです。

「病床は人間最大の学校である。」ということばを聞いたことがありますが、辛い病床の背後に神様の摂理のあることは確かだと思いますけれども、病床が人生を学ぶ学校であると考えることはそれほど簡単なことではないと思います。しかし、その苦しい困難のあとに必ず更に幸いな何か得るものがあると信じて、どうか、未来に希望をもって前向きに今の試練を乗り切ってくださいますようにお願いいたします。 

「寒さに震えた者ほど、太陽の暖かさを知る。人生の悩みをくぐった者ほど、生命の尊さを知る。」とは、ホイットマン(アメリカの詩人)のことばです。病床に伏している時は、人生のすべてが暗く思われ、悲観的になりやすいものですね。しかし、朝の来ない夜はなく、春の来ない冬もありません。また、止まない雨もありませんし、出口のないトンネルもないのです。暗いトンネルの中を車で普通に走ることができるのは、必ず出口があると信じているからではないでしょうか。

人間は、だれでも健康な時には何でも自分の力でやって行けるような自信に満たされているものですが、一旦病気になると、別人のように無気力になるということがあります。そして、それが人間の正直な姿ではないでしょうか。人間は、決してそれほど強いものではありません。そして、病床は人が孤独になるところでもあります。人は何かを失った時に、その失ったものの価値が分かることが多いものです。健康を失って病気になったとき、その健康の有難さや価値が分かるということもありますね。

人間みな、お金、財産、地位、健康など、何かの目的をもって生きているわけですが、人生の目的を、もし「健康」と考えた場合、病床にあるあなたは今は不幸であることになります。そして、悲しいことですが、その目的と定めたことの反対の結果が出ることが多いのが人生ではないでしょうか。そして、その反対の結果が出たときには、惨めで絶望的になり、あるいは無気力になり、またその逆に周囲に当り散らしたりしやすい弱さを露呈してしまいます。

しかし、人間の絶望と逆境と孤独の中でこそ、人生の真実を見出すことが多いというのもまた事実ではないでしょうか。あなたの病床のすぐ側に神様が立っておられるのです。あなたは、決してひとりではありません。どうか、そのことを忘れないでいただきたいのです。If winter comes can spring be far behind?とありますね。「冬来たりなば、春遠からじ」と同じような意味でしょうか。今、あなたに必要なのは、忍耐です。そして、真の希望があれば、忍耐も出来るのですね。

実のところ、「不幸」は複雑なものですが、「幸福」は単純さの中にあります。あなたは、今、その病床で、母親の腕の中に抱かれた幼児のように、神の懐(ふところ)に身をゆだねることができるのです。そこに真の平安と幸福があります。聖書には、次のような幸いなみことばが多くあります。

●「主は病の床で彼を支えられる。病むときにどうか彼を全くいやしてくださるように。」(詩篇41:3)。

●「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30:5)。

●「彼(キリスト)はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。‥‥まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。‥‥彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。‥‥」(イザヤ書53:3~5)。


 このイザヤ書53章のみことばは、キリストについての十字架を中心とした旧約聖書の預言であります。そして、その約700年後、このみことば通りにすべてが成就しました。キリストがこの地上に来られたのは、人々の病気を癒すためではありませんが、ご自身が神の御子であり、神から遣わされた救い主であることを示すために病気に苦しむ多くの人々を癒され、ご自身の愛と恵みと力を示されました。そして、やがて33歳の時に十字架で私たちの身代わりに死んでくださり、三日目によみがえられたのです。

●「イエスは、すべての町や村を巡って‥‥御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。また、群集を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかいそうに思われた。」(マタイの福音書9:35,36)。  

●「私たちの大祭司(キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル人への手紙4:15)。
 

 そして、イエス・キリストを救い主として信じ受け入れた者は、死後には永遠の慰めに満ちた天国が用意されているのです。そこには、もう病気の苦しみはありません。人の死によって涙を流すこともありません。悲しみや痛みもありません。いかなる苦痛も味わうことはないのです。この地上の苦しみや悲しみは、もう永遠に過去のものとなるのです。

●「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21:4)。  

 

★放蕩息子のたとえ話

2005-02-10 | 「神の愛について」



  新約聖書の中で、イエス様が語られたとても有名なたとえ話があります。それは、「放蕩息子」の例え話と言われていますが、次のような話です。私はこのたとえ話を何百回も読みましたが、何度読んでも、飽きることがない感動的な話です。

●「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。・・・・」 (ルカの福音書15:11~24)。


  このたとえ話は、一般的に「放蕩息子のたとえ話」と言われていますが、実は、イエス様はこのたとえ話によって「神の愛」がいかに絶大であるかを語りたかったのです。「神の愛を示すたとえ話」と言った方が正確かもしれません。このたとえ話の中で、ふたりの息子の父親は「まことの神様」を示しています。また、父親から財産の分け前をもらって、家を出た放蕩息子(弟)は、神から離れて罪の中に生活している私たち人間の姿を表しています。(実は、このたとえ話には、このあとに続きが書かれていて、兄息子は父親の家にいて生活していましたが、自分を正しい者と思っていたパリサイ人を示しており、同様に罪人であったのです。)

 この弟息子は、父親の家で幸福に暮らしていたのに、親から自由になりたいと思って、勝手に家を飛び出して遠い国に行って、財産を浪費し、毎日遊び暮らして放蕩三昧な罪深い生活をしていました。これは、まことの神様の愛から離れて、神に背を向けて自分勝手に生活している人間の不幸で危険な姿を示しています。

 しかし、父親からもらった大切な財産をすべて使い果たし、飢えと孤独を経験し、惨めな人生のどん底まで落ちて、やっと彼は自分の犯した罪と間違いに目覚め、本心に立ち返って、豚小屋の中で、悔い改めて家に帰る決心をするのです。私たちも、神様の前に自分が今置かれている神を無視した生活がどんなに危険なものであるかを悟って、悔い改めることを神は待っておられるのです。この弟息子は、父の家から離れたために多くのものを失いました。お金、健康、暖かい家庭、健康、友人、信用など‥‥です。しかし、たった一つの失われなかったものがあるのです。それは、「父親の愛」です。あなたも、多くのものを失ったかもしれません。しかし、「神の愛」だけは失っていないことを、どうか覚えてください。

 毎日毎日、断腸の思いで息子の帰りを待っていた父親は、ある日の夕暮れ時、トボトボと重い足取りで帰って来た息子を遠くから見つけ、走り寄って彼を抱き、何度も何度も口づけして迎えました。そして、この父親は、こんな放蕩息子のために、彼に着せるための「一番良い着物」を用意し、美味しいご馳走を作って家中で、息子の帰宅を喜びました。父親の喜ぶ姿が目に見えるようですね。神の愛もそれと同様なのです。

 あなたも、今、愛の神様から離れて、人生の悲哀と孤独と空しさを経験していませんか?でも、祝福と平安に満ちた父の家(神様のところ)に帰る勇気を持ってください。父の家にはパンがあり余っていたように、神様のところには、霊的な祝福が豊かに満ちているのです。あなたがご自分の罪を悔い改めるなら、神のひとり子イエス・キリストの十字架のみわざの故に、あなたのすべての罪を赦して、受け入れてくださるのです。

●「主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。 」(イザヤ書55:7)。 




★良心の呵責と神の刑罰

2005-02-06 | 「死後の二つの行き先」
   

 

 これは、何十年も前に新聞で報道された事件ですが、ある男が人を殺して、その死体を土に穴を掘って投げ込み、その上にコンクリートを流し込んで長い間、隠していたのですが、良心の呵責に耐えかねて、警察に自首して出たということがありました。彼は、もう一年すれば時効になるはずでしたが、その苦痛に耐えられず、あと一年を待つことができなかったのです。

 人間には、罪には必ず刑罰が伴うものであるという意識があるのです。だれが、いつ、刑罰を与えるということは明白には分からなくとも、誰かが、いつかは罰を与えるものであるという考えを取り除くことはできないのです。ですから、彼は被害者の遺族には、罪滅ぼしのために出来るだけの親切を尽くしたのですが、しかし、それによって、完全に良心の呵責はなくならなかったのです。

 一体、これはどういうわけでしょうか。その理由は、正しい審判を行う神が存在するからであります。ですから、この神の御前で、自分に罪があると思うとき、心は不安と恐れででいっぱいになるのです。たとえ、他人が「あなたは、親切でいい人です。」と言ってくれたとしても、それによって、神は赦してくれるとは思いませんから、良心の呵責と苦痛は少しも減らないわけです。

 また、今から34年も前の1971年7月の新聞に「時効後、真犯人?名乗り」という見出しで、新聞に報じられた記事がありましたが、それは当時大変話題になり、人々を驚かせました。ご年配の方はご記憶にあるかと思います。一人の男が、22年前の殺人の「真犯人は私です」と名乗り出たのです。一方、犯人として判決に従い、懲役15年の服役を終わったNさんは、ずっと、無実を主張し続けて来ました。その真犯人も、やはり長い間、良心の呵責に苦しんでいたのです。

次のみことばは、ユダヤの王ダビデが、姦淫と殺人の罪を犯した時に、苦悶の中で詠んだ告白の歌であります。良心の呵責に苦しむダビデの心中を察することができます。

●「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、(神の)御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」(詩篇32:3,4)。 

  これらの事件の事実から、人が罪を犯したとき、その当事者の良心に呵責を与える正義の神がおられることと同時に、人間である裁判の限界を知らされるのであります。シーザーは、「人間というものは、自分の望んでいることを信じたがるものだ。」と言いましたが、その通りだと思います。多くの人々は地獄や死後のさばきの事実があることを信じませんが、彼らは、それを証明したからではなく、「信じたくない」から信じないのです。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

●「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ人への手紙6:7)。
 

  死がすべての人に襲って来るようにすべての人は、死後において正義なる神の裁判を受けなければならないのです。そして、その行いに応じて裁かれるのです。例えるならば、私たちの行いをすべて神の倉の中に貯えているようなものです。定められたさばきの時(最後の審判)が来ると、各々の倉から全部出されて神の座の前にさらされてさばきを受けるのです。そして、聖書の神は全知全能の神ですから、人の心の奥底まで知り尽くしておられます。神は、あなたの全生涯の行為だけでなく、その動機までも追求されます。神は小さな悪をも見逃さない聖なるお方なのです。

 最後に、最も大切な歴史的事実を皆様にお伝えしたいのです。それは、私たち罪人(国の法を犯さなくとも、すべての人は神の前に罪人です)の身代わりとなって、神の御子イエス・キリストが十字架上で死んでくださったという事実です。これが、キリストの福音なのです。

●「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マルコの福音書15:34)。 

 このお言葉は、神の御子であるイエス・キリストの十字架上での絶叫です。キリストはあなたや私たちの罪を負って、身代わりにこの恐ろしい神の刑罰を受けられたのです。もし、あなたが、イエス・キリストを救い主として信じ受け入れるなら、罪と死後のさばきから救われ、神の怒りが下ることはありません。死後の行き先は、二つしかありません。キリストを信じて罪赦された者は天国で、キリストの福音を拒んで、死んだ人は火の池に入れられるのです。

 ある老裁判官が退官する時に、次のように述懐したそうです。「私は今まで多くの人々を裁いて来たが、今度は神の法廷で私が裁きを受けなければならない。」と。あなたは、どのような状態で生ける絶対正義の神の前に立ち得ることができるでしょうか。キリストを救い主と信じて、キリストを弁護人として立つことのできる人は幸いです。

●「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 」(ローマ人への手紙8:1)。

●「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たち(クリスチャン)のためにとりなしていてくださいます。」(ローマ人への手紙8:34)。


   


★人類の不平等と神の愛

2005-02-03 | 「神の愛について」



  ある方が、世界の人類に関して、一つの統計結果を書いています。どのくらい正確な統計であるのかは、はっきり分かりませんが、大変興味深いもので次のような内容です。

 もし、現在の人類統計比率をきちんと盛り込んで、全世界を「100人の村」に縮小するとどうなるでしょう。その村には、57人のアジア人、21人のヨーロッパ人、14人の南北アメリカ人、8人のアフリカ人がいます。52人が女性で、48人が男性です。70人が有色人種で、30人が白人、6人が全世界の富の59%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍、80人は標準以下の居住環境に住み、70人は文字が読めません。50人は栄養失調に苦しみ、1人が瀕死の状態にあります。1人(たった1人!)は大学の教育を受け、そしてたった1人(たった一人!)だけがコンピューターを所有しています。

もしこのように、縮小された全体図から私達の世界を見るなら、今までと少し別な視点から世の中を見ることができるのではないでしょうか。私たちは、ものごとを見る時、どうしても、自分とその周囲の僅かな狭い視野からものごとを判断し、結論を出しやすいのですが、視点を変えてグローバルな視野でこの世界を見るなら、また、自分自身が置かれている状況を客観的に見ることが出来るように思われます。そして、同時に、この世界は何と不平等な世界だろうかと疑問を持ってしまうことも事実です。
  
世界中には、戦いの危険にさらされ、家族が引き裂かれ、投獄される孤独や苦悩、あるいはその日に食べる一切れのパン、スプーン一杯のスープもない飢餓に苦しみ、拷問や死の恐怖を感じながら生きている人々が数多くいることも事実なのです。また、独裁者が人民を抑圧し、自分の意見を一言も言えない言論の自由のない国に住んでいる人もいます。もし、あなたが冷蔵庫にいくらかの食料があり、着る服があり、頭の上に雨露をしのぐ屋根があり、寝る場所があるのなら、あなたは世界の75%の人達より裕福で恵まれているのです。

もし銀行に預金があり、財布にお金があるならあなたは、この世界の中でもっとも裕福な上位8%のうちの一人なのです。もし、あなたの両親がともに健在で、そして二人がまだ一緒なら、それはとても稀なことであるわけです。また、日本人は文字が読めることを当然のように考えていますが、本や新聞などの文字を読める人は、世界中で、たった30%しかいないのです。私たち日本人はその点では大変恵まれています。もちろん、この日本でも、住む家のないホームレスの方もおられます。また、今、この瞬間にも、都会のどこかで、一人暮らしの老人が孤独死しているという現実があるかもしれません。この世界には、まだ知られていない多くの不安と恐怖に満ちた悲惨な現実があることをもまた事実なのです。

あなたは、この世界は何と矛盾に満ちており、何と不平等な世界だろうかと疑問を持たれるに違いありません。しかし、それでも聖書の神様は、依然として「愛の神」であるのです。神様は、あなたが、現在、どのような状況や環境にあろうとも、神様に愛されているということは事実なのです。人生が、もし地上の生涯だけで終わるのであれば、この世界は確かに不平等であると考えざるを得ないと思います。しかし、聖書によれば、肉体的な死は、死後の世界の入り口であり、永遠の始まりに過ぎません。そして、死後には天国と地獄は確かに存在します。神様は、私たちをかけがえのない一人一人として個人的に愛しておられ、そのために全人類の救い主としてご自身の御子を遣わされました。

●「神にはえこひいきなどはないからです。」(ロ-マ人への手紙2:11)。
 
●「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。‥‥ 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。」(イザヤ書43:4,5)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 」(ヨハネの福音者3:16、17)。 

●「‥‥イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 」(ローマ人への手紙3:22)。
 

 イエス・キリストを心から信じる者に、天国に入ることの出来る「永遠のいのち」の救いが与えられることにおいては、何の差別も不平等もないのです。これは、神様の恵み以外の何ものでもありません。