聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★「目からうろこが落ちる」

2006-06-30 | 「聖書と人生」
 
              

●「するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。・・・・」(使徒の働き9:18)。

 みなさんは、「目からうろこが落ちる。」ということばをご存じだと思います。また、そのようなことばを用いたことがおありではないでしょうか。あることをきっかけにして、ものごとの真相や本質が急に分かるようになり、ものごとの実態が明らかになったような時などに、「目からうろこが落ちた!」などと表現することがあるのです。人間の目には鱗(うろこ)なんてついていないのに、どうしてこのような言い方をするのだろうと思ったことはありませんか。また、日本人の多くがこのことばは、日本や中国の故事などから来たことばだと思い込んでおられるかもしれませんが、実はこの語源は「聖書」からきていることをご存じだったでしょうか。

 新約聖書の「使徒の働き9章」には、パウロの回心に関連して、次のような内容のことが書かれています。頭脳明晰で有能な学徒であり、当時のユダヤ人社会から将来を嘱望されていた青年サウロ(後の使徒パウロ)は、当時、十字架に架けられて死んだイエスをキリスト(救い主)と信じるクリスチャンたちに憎悪の念を抱き、キリスト迫害に加担していたわけですが、非常な怒りと殺害の意に燃えてエルサレムからダマスコという町に向かって旅をしていたのです。青年サウロは、イエスを信じるというクリスチャンがユダヤ教のしきたりを破ったりすることを教えていると言うことを聞き、我慢が出来ず、クリスチャンであれば、男でも女でも見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためにダマスコの町に向かって旅をしていたのです。

 サウロの行動は、自分は神の前に正しいことをしているという確信と正義感に満ちたものであったのですが、彼が道を進んで行って、ダマスコの町の近くまで来たとき、突然、天からの光(復活されたキリストの栄光)が彼を巡り照らしたのです。 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞きました。 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」 との答えがありました。そして、サウロは地面から立ち上がりましたが、目は開いていても何も見えなくなっていました。そこで同行していた人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行ったのです。

 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしませんでした。さて、ダマスコの町にはアナニヤという弟子がいたのですが、神はアナニヤに、幻の中で、「サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。」と命じました。しかし、アナニヤは神に対して、サウロがエルサレムで、クリスチャンたちにどんなにひどいことをしたかを訴えました。 しかし、神は彼に次のように言われました。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」と答えられたのです。それ以後のことは聖書に次のように記されています。

●「そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう祈った。『兄弟サウロ。あなたが来る途中でお表われになった主イエスが、わたしを遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。』するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がってバプテスマを受け、食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。」(使徒の働き9:17~20)。

 「サウロの目からうろこのようなものが落ちて、目が見えるようになった。」とありますが、その前に天からの光に圧倒され目が見えなかった3日間の闇の中にいた間、彼は飲み食いもせず祈っていたのですが、この時まで闇の中に生きていたサウロの人生を180度方向転換させ、回心に導き、キリストの喜びの証人へと変えたのは、明らかに天からの光でありました。この3日間の暗闇、神がご介入された神秘的な時間にサウロの心の中に何かが起こり、その後の彼の生涯を変えたことは事実であります。人生の暗闇と言えるような状態の中にいるときこそ、神が特別にその人の人生に介入され、物事の実態が見え、新しい生き方に出会うチャンスといして神が与えておられることをこの言葉は教えているのではないでしょうか。

 サウロの目からうろこのようなものが落ちたとあるのですが、英訳をみると、「fish scales(うろこ)」と書かれています。うろこはキリストの本当の姿を見抜けない象徴的なものとして表されているように思われますが、この後、迫害者サウロが回心し、使徒パウロとしてキリストの福音を宣べ伝える伝道者となったことからも、人生の覚醒と転換を表現した言葉として、今日に伝わったのではないでしょうか。しかし最近では、もっと身近に、何か新しい事実に気づいた時などに、「なるほど、そういうことだったのですか。”目からうろこが落ちた”ような心境ですね!」などと使われることもありますね。しかし人生において、何よりも大切なことは、聖書のみことばの光に照らされて、あなたの心の”目からうろこが落ちる”という経験をすることです。

●「わたし(キリスト)は、この民と異邦人との中からあなた(パウロ)を救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。 」(使徒の働き26:17,18)。

●「‥‥この世の神(サタン:悪魔)が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。 『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」(Ⅱコリント4:4~6)。


 このみことばは、異邦人のための福音伝道者として遣わされた使徒パウロが、当時のギリシヤのコリントの町の人たちに書いた手紙の一部ですが、生まれつきの人間はみなサタンの働きによって霊的に盲目にさせられていて、自分自身のことだけでなく、神のこともキリストの栄光の福音も分からなくなっており、天からの光(神のみことば:聖書)によらなければ、霊の目が開かれないのだと語っているのです。どうか、あなたが、神の言葉である聖書をお読みになられ、自らの罪をお認めになられ、神が遣わされた御子イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で身代わりに死なれ、三日目に復活された御方であることを信じて神様からの恵みによる救いを受けることが出来ますように。

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★人間の死後の世界は?

2006-06-24 | 「死後の二つの行き先」
                

  人は生きている限り、だれでも無意識の中にも「死」について考えない人はいないのではないかと思います。人生について、生きることと死ぬことについて真面目に考える人もいれば、いい加減に軽くあしらう人もいれば、故意に死について考えるのを避けようとする人もいます。あるいは、「死後の世界などあるはずがない!」と断言する方もおられます。しかし、無神論者や唯物論者であっても、「死」に対して何らかの恐怖や不安を抱いていることは確かです。人が癌を宣告されたり、災害や交通事故などに恐怖を抱くのも、所詮死が怖いからではないでしょうか。しかし、それでも不思議なことに、死を自分自身の問題として考えることなく、「他人は死んでも自分だけは死なない。」というような顔をして生きている人がいるのもまた事実なのです。

 人間の死について、真剣に考え悩んでおられるAさんが、あるものに次のようなことを書いています。「死後の世界は本当にあるのだろうか?当たり前のことだが、今を生きている私には到底分かるはずもない。死という入り口に立って、はじめてその扉の向こうを知ることになるのだろうか。『天国か地獄か、どちらがいい?』と聞かれれば、それは天国の方がいいと答えるに決まっている。誰も自ら好んで、地獄へ行きたいなんて思わないだろう。昔から人々は死の恐怖に怯えて来たことは事実である。そして、私も人はなぜ死ぬのだろうと考える時がある。目に見えない世界というものは、不思議と大きな脅威を感じるものである。生と死、生まれながらの境遇の差異など、生まれてから死ぬまで人生の悩みは尽きません。‥‥‥」

 「‥‥‥でもそれだけ生命というものは、多くの神秘性を秘めているのだと思います。生死について、学術的なものから霊的なものまで、実に様々な説があるかもしれないけれど、何が正しくて何が間違っているかなんて、本当のところ誰にも分からないのだろう。心の拠り所を求めて迷い彷徨う中で、『これは絶対に間違いのない真理です』と言い切られると、そうなのかもしれないと思ってしまう。よく分からないけれど、間違いなく天国へ行けるける切符を手に入れたような安心感が欲しいのです。死後の世界。それはあるのかもしれないし、ないのかもしれない。それを否定する人もいれば、肯定する人もいるだろう。人それぞれ、その思いは十人十色だ。だけど、私は真理はひとつのような気がするのです。」

 私は、このAさんの「人生」における生と死の問題を真っ向から考えようとする真摯な考え方、真面目に「死」の問題を熟考する姿に共鳴すら覚えるのであります。今の時代、多くの方は、人生、今が楽しければそれで良いのだと言って「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」(Ⅰコリント15:32)と、刹那的な快楽生活を追い求めて行く人たちの中にあって、生きる意味や死の問題について真剣に考えていることは幸いなことであり、このような人生の求道者は稀有に近いと言っても過言ではありません。私は、彼の文章の中で、「私は真理はひとつのような気がするのです。」と言っていることに対して、彼が大変理性的で、その論理が整然としているのを感じるのです。「真理は一つである。」ということは正しいことです。 

 「1+2=3」という答えは一つです。この答えは一つであり、時代や国によって変わることはありません。「この宇宙はどうして出来たのか?」という質問の答えは一つです。進化論も正しければ神(創造者)が造られたという答えも、両方とも正しいということはないのです。聖書は「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)と語っています。真理はこれ一つです。人間の死の問題についても同様です。その問題の答えは、一つです。聖書は「死がどのようにして人類に入って来たのか。」「人間の死後はどなるのか。」「人間はどうしたら死の恐怖と不安から解放されるのか。」について、明解に答えています。

 ですから、どうか、みなさん、Aさんと同じ悩みをお持ちの方は、是非、神が啓示された唯一の真理の書である聖書の語る言葉に耳を傾けて下さい。アダム以来のすべての人類は神の前に罪を犯しました。そして、死後、神の永遠のさばきを受けるべき者となってしまった人間一人一人を愛なる神様は、ご自身のひとり子、イエス・キリストを救い主として、この世に遣わされ、キリストは罪のない聖よいご生涯の後に、十字架に架かられて私たち罪人の身代わりとなって死んでくださったのです。そして、死後三日目に復活されたのです。このお方を救い主として信じる者は永遠のいのちを受け、死後も天国に行くことが出来るのです。しかし、それを信じるか、信じないかは聞く者一人一人の自由です。信仰はだれによっても強制されたりするべきものではありません。

●「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ人への手紙5:12)。
 
●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

●「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への手紙5:6~8)。 

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 」(ローマ人への手紙3:23,24)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 (ヨハネの黙示録21:4)。


 「天国と地獄」。「死と永遠のいのち」。これは、人間が最終的に行き着くところの両極端です。私たちは、罪のゆえに、当然、永遠の滅び(地獄)に行くべき存在であります。しかし、愛なる神様は、イエス・キリストの十字架のゆえに、「永遠のいのち」を恵みによって与えてくださる方なのです。しかし、そのためには、自分が神の前に罪人であるという事実を素直に認めて、賜物としての救い(永遠のいのち)を受け入れる従順な心がなければならないのです。神様はあなたにもその賜物を与えようとしておられます。どうか、あなたも、砕かれた心をお持ちになられて、救い主イエス様を信仰によって受け入れ、愛なる神様の尊い救いをご自分のものとなさってくださいますように心からお勧めいたします。

◆(E-mail): goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」  

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★驚くべき恵み・・・!

2006-06-18 | 「聖書と人生」
 
 

●「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。 」(ローマ人への手紙1:16)。

 みなさんは、「アメイジング・グレース」(Amazing grace)という歌をご存じだと思います。「驚くべき恵み」(聖歌229番)という意味の賛美歌ですが、差別を乗り越え希望と連帯を乗り越える歌として一般の人々にも広く歌われているようです。この歌の作詞者は18世紀の英国のロンドンで生まれたJhon Newtn(ジョン・ニュートン)(1725~1807)という人です。彼の父は地中海航路の商船の指揮官で、彼も11歳の時から父に従って船に乗り、仕事を手伝うようになりました。やがてお父さんが引退したあとはひとりで船乗りとして働くようになるのですが、ある時乗組員になった船がアフリカのある港からアメリカ大陸へ黒人を奴隷として運ぶ船であったのです。そして彼はこの船で、彼自身が奴隷のように過酷な労働を強いられたのです。

 そんな彼を救出したのは彼の父の友人であった船長さんでした。彼はその後独立して自分で船を持つようになりますが、その若き船長となった彼に託された仕事が、また奴隷の運搬であったのです。アフリカとアメリカを今度は自分が指揮して黒人たちを運搬するようになったのです。当時の奴隷貿易は過酷を極めるひどいものであったと言われています。彼は、暗い船底に奴隷たちを押し込め、反乱を恐れて、奴隷たちを恐れて、暴力を振るったのです。そして、彼はこのような無慈悲な生活を送りながら、何の罪悪感もありませんでした。

 そんなあるとき、彼は航海中に大きな嵐に出会ったのです。船はかつてないほど激しく揺れ、浸水も起きて、生命の危険に晒され、もう駄目かと感じた時、彼の心にかつて読んだ聖書の言葉がよみがえって来ました。最初は彼の罪を責める言葉が浮かびましたが、ジョン・ニュートンの母が彼に渡した聖書を読み、神は求める者に答えてくださるという約束を知り、深い慰めを感じて、彼は初めて「おお、神よ。助け給え!」と心から祈ったのです。すると不思議なことにその祈りのあと急に嵐はやみ、彼の船は奇跡的に助かったのです。

 この時、ジョン・ニュートンの心の中で大きな変化と転向が起きたのです。彼はそれを自分の第二の誕生日としてしっかり記憶していました。それは1748年5月10日、彼が22歳の時です。それまで奴隷船の黒人たちは家畜以下の扱いをうけていたのですが、これ以降、彼の船に乗せられた黒人奴隷たちだけは最低限の人間としての尊厳だけは守られるような扱いをされるようになりました。やがて彼は1755年頃に病気がもとで船の仕事から引退しますが、この後の人生を彼は一生神に仕えるために過ごしました。ラテン語を学び、聖書も勉強しなおして、キリストの福音を伝える者と変えられたのです。

 この「アメイジング・グレイス」は1765年頃に書かれたものと思われますが(作曲者は不詳)、奴隷貿易などという罪深いことをしていた自分のようなものにまで、神は祈りに応えて救いを与えてくれたという奇蹟に対する感動を歌ったものです。私は、「アメイジング・グレイス」が作詞された背後にこのような出来事があったのを詳しく知ったのは、最近のことですが、そのことを知ってからあらためてこの歌の歌詞を読んでみて、涙と共に大きな感動を覚えるのです。確かにジョン・ニュートンは罪深いことをしたのですが、神の前ではこのような悪人も等しく罪と永遠の滅びから救われるのだというすばらしい恵みと真実がここにあるのです。

「 驚くばかりの恵みなりき      この身の汚れを知れるわれに。
  
  恵みはわが身の恐れを消し    まかするこころを起させたり。

  危険をも罠をも避けえたるは   恵みのみわざというほかなし。

  みくにに着く朝いよよ高く      恵みのみ神を讃えまつらん。」

                          (聖歌229番)


 「驚くべき恵み!何と胸をときめかせる言葉でしょう!自分のような無頼漢をさえ救われるとは!私はかつて失われていたのに、今は神に見出され、かつて目が見えなかったのに、今や見ることができるとは何とすばらしいことでしょう・・・・・!」この歌詞には、神の溢れる恵みへの純粋な喜びと感謝の心が溢れているのがよく伝わって来ます。ジョン・ニュートンは数年の後に奴隷貿易から足を洗い、最後にはキリストの恵みの福音を伝える伝道者となって神様に仕えるようになったのです。何と多くの人々がイエス・キリストを信じることによって変えられたことでしょうか。イエス・キリストとともに十字架につけられた極悪な強盗の一人は、自分の罪深さを悟り、信仰を告白しました。そして、彼は十字架上で、死の直前に救われたのです。

 約2000年前、あのエリコの町において、不正な富で私服を肥やしていた取税人ザアカイ(ルカの福音書19章)は、イエス・キリストとの出会いを経験して、自分の富を貧しい人に施すことを約束しました。神を汚す者としてクリスチャンを迫害していたパウロは、復活された栄光のイエス・キリストに出会って、その人生は180度方向転換させられ、その時まで反対していたそのキリストの福音をローマにまで伝えたのです。イエス・キリストを信じた人たちは、極悪人も罪と欲望の奴隷であった人も、みな人生の方向を180度転換して神の栄光を表す者となったのです。これは、まことに不思議なことです。それは一体、なぜでしょうか。

 それは、冒頭のみ言葉に書かれてあるように、キリストの福音は、私たちの心を捕らえ、私たちの人生を根本から変えてしまう神の力なのです。イエス・キリストに出会い、自分自身の個人的な救い主として信じ受け入れる時、あなたの人生は滅びから救いへ、迷いから喜びへと変えられるのであります。どうぞ、あなたも、イエス・キリストを信じて、このすばらしい体験をご自分のものとなさってください。

●「あなたがた(クリスチャン)は、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 」(エペソ人への手紙2:8,9)。

●「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント人への手紙5:17)。

●「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Ⅰコリント人への手紙1:18)。  



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★悲しむ者は幸いである

2006-06-10 | 「人生と孤独」
   
    

●「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイの福音書5:4)。

 聖書には、時々人間の思いとは全く反対の逆説的なことばが出てくるので、多くの人が戸惑いを覚えることがあります。しかし、そこにこそ、人生の真理の深い意味が隠されているのです。この聖句もその一つではないかと思います。多くの悲しみは不幸であり、それを避けたいと思うのは、ごく自然のことです。「悲しむ者は幸いです。」とは、不思議なことばではないでしょうか。人は、富や地位、名誉、健康、愛する家族や友人などを失うときに悲しみの感情を覚えるのです。また、信じていた親友に裏切られたり、人間関係がこじれてしまったときにも、悲しみの感情が込み上げてきます。

 人間はすべてが順調に行き、自分の思い通りにことが運んでいる時は得意になって、益々自分の力を過信して高慢になって行くものであります。しかし、思いがけないことが起こって壁に突き当たって行き詰ると、はじめて自らの弱さを認め、他者の助けの必要を強く感じるのです。悲しみの中にある人は失望しており、孤独です。そして、慰めを求めています。そして、その求める心が真の慰め主なる神に触れるのです。悲しい時に、人から慰めを受けても、それは、一時的なものであり、表面的なものものです。しかし、神からの慰めこそ、真に心の底から与えられる慰めなのです。

●「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」(コリント人への第二の手紙1:3,4)。

 聖書の神は、「気落ちした者(へりくだった者)を慰めてくださる神」(Ⅱコリント7:6)であります。また、「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」(Ⅱコリント7:10)とありますように、悲しみを受けとめる心にも二種類あることが分かります。ただ、悲しいと嘆くだけで終わるのではなく、悲しみの淵に立って、静かに今までの自分の人生を顧みる砕けたたましいのみが神のみこころに触れるのです。この時こそ、自己中心的な罪の生活を悔い改めるべき、神が与えたチャンスなのです。

 聖書の中には、悲しんでいる者がイエス様に出会って、神の慰めを受ける場面がよくあります。ナインの町のやもめは、一人息子が死んで葬儀が終わり、出棺の途中でイエス様と弟子たちの一行に出会い、イエス様はひとり息子に先立たれた彼女を見て、深く同情され、「泣かなくともよい。」(ルカ7:13)と言われました。そして、続いて「青年よ。あなたに言う。起きなさい。」(ルカ7:14)と言いますと、何とその青年は生き返って棺から出て来たのであります。彼女が大きな慰めを受けたことは当然です。イエス・キリストこそ、力ある慰め主なのです。

 また、イエス様が早朝に宮に入られ、集まって来た民衆に教えておられた時のこと、そこに律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの婦人を連れて来て、「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」(ヨハネ8:5)と問い詰めました。彼らはイエス様を告発する理由を得ようとしてイエス様を試したのです。そして、彼らが問い続けてやめなかったので、イエス様は彼らにきっぱりと言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」 と。

 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエス様だけがひとり残されたのです。そして、その婦人に、「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」と。イエス様は、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と言明されたのです。自らの罪の重さと恥ずかしさで悲しんでいた彼女はイエス様によって慰めを受けたのです。当然のことですが、イエス様は、 彼女のためにも十字架で血を流して死なれたのです。

●「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。」(伝道者の書7:2,3)。

 現代においては、多くの人々は、快楽や笑いを求め、どうしたら愉快に過ごすことが出来るかを求めて生きています。しかし、聖書は「悲しみは笑いにまさる。」と言っています。なぜでしょうか?それは、悲しみは私たちの心より不純物を取り除く効果があるからであります。賢明な人は、喪中の家を訪ねて人生の「死」についてじっくり考えるのですが、愚かな人は、今、どうしたら楽しく過ごすことができるかだけを考えます。だから、聖書は「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。」と言っているのです。葬儀においては、人間は必ず「死」の時を迎えなければならないという厳粛な事実を教えられるのです。

 私たちの人生の最も悲しい時が、最も有益な時となることもあるのであります。星は長く暗い冬の夜にこそ最も輝きます。ダイヤモンドは、熱と巨大な岩石の圧力によって生じると言われています。貴重な宝石は、みな高熱と高圧の産物であります。見事な色彩の陶器は高温の炎の中で焼き上げられてこそ、生まれるのです。また、高価な香水は圧搾によってもたらされと聞いたことがあります。この同じ書の同じ章には、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。」(伝道7:14)とあります。逆境は、人間が反省するために、生涯のあちこちに散りばめられて配剤されているのです。

 人生には、多くの悲しみと苦しみがありますが、イエス様ご自身について、聖書の中で、「悲しみの人で病を知っていた。」(イザヤ書53:3)と預言されています。イエス様は人間の痛みと悲しみを知っておられる方です。私たちが悲しみに沈む時、悲しみの人であられるイエス・キリストは近くにおられます。そして、その時こそイエス様の恵み深い愛に触れることが出来るのです。悲しみを経験しない人は、神の慰めも経験できません。また、イエス様は人類に同情されるお方というだけでなく、私たちに真の希望と光を与えて下さるのであります。あなたが悲しみと孤独の中にあるとき、あなたは決してひとりではないことをお知りになって下さい。神があなたに慰めを与えようとしておられるのです。

●「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、・・・・・・・その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」(イザヤ書63:9)。

●「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。 」(詩篇119:71)。

●「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 (ヨハネの黙示録21:4)。  


          

★人生は「3-4=0」??

2006-06-05 | 「聖書と人生」
           
       

  私がまだ大分若い頃のことですが、「3-4=0」という題名のトラクトをもらったことがあります。それを見たとき、「これは一体何を意味しているのだろうか・・・?」と疑問に感じたのを覚えています。みなさんは、「3-4=0」なんて、そんな引き算があるはずがない。「なんとばかばかしい!」と言って、それを捨ててしまわれるでしょうか。答えは「(-1)に決まっているじゃないか!」とおっしゃる方が多いと思います。しうかし、賢い人は、「いや、これには何か隠された謎か、深い意味があるに違いない・・・・。」と、それを受け取って、立ち止まって考えられるかもしれませんね。

 「3-4=0」。この引き算は、実はばかばかしいどころか、人生の大切な問題を教えているのです。これは、あなたにとっても無関係ではない重大な問題なのです。これを解き明かしますと、「3」は「産」、すなわち出産のことです。また、「4」はすなわち「死」を意味しているのです。私たちは出産(3)でこの世に生まれて来て、死(4)でこの世を去るのです。あとに残るものは何もない。肉体は灰になりやがて消えてしまうのです。しかし、もちろん、これは地上の肉体のことであって、死後も霊魂は永遠に存在するものであることを忘れてはなりません。ですから、「0」は「霊」にも通じると言い得ることができるかもしれませんね。

 私たちは「オギャア~!」と生まれて来て、70年か80年の人生を送って、やがて死んで行くのですね。その儚い短い人生の間に、やれ勉強だ!やれ受験だ!やれ就職だ!やれ結婚だ!やれマイホームだ!と慌しく、あくせく生きているのが人生です。人間は一体、何のために生まれて来て、毎日のように泣いたり、笑ったり、悲しんだり、怒ったり、悩んだりして生きているのでしょうか。人生とは何なのでしょうか。あなたは、この問題について真剣にお考えになったことがありますでしょうか? もし、お考えになられたことがなければ、これからでも遅くはありませんから、是非、真剣にお考えになってみてください。

 この人生の重要な問題に対して解明する本があると言ったら、あなたは驚かれることでしょう。でもそれは確かにあるのです。それは、世界のベストセラーである「聖書」なのです。この聖書こそ、神が人類に与えた最大のプレゼントなのです。あなたの人生に永遠の希望を与え、喜びと平安と真の心の満足を与えるのが、この聖書なのです。このように書きますと、なんとひとりよがりな人だろうと思われるかもしれません。しかし、私は確信をもって、みなさんに聖書こそ、人生の道しるべであり、人生の大海原を航海する者にとって、安全な羅針盤であると断言することが出来るのです。

 時計は何のために作られるのでしょうか。もちろん、時刻を知らせるためです。家は何のために建てられるのでしょうか。もちろん私たちが住むためです。車は何のために作られるでしょうか。もちろん、人や荷物を乗せて運ぶためです。では、目に見えない微生物はどうでしょうか。彼らも、不要なものを腐敗させ土に返らせるという大切な働きをしているのです。あんな小さな生物ですら、そんな大きな役目があるなら、人間にはどれほど大きな役目あるのでしょうか。私たちは、何のために生かされているのでしょうか。人間が進化論者が言うようにアメーバーから偶然に進化して来て、今も偶然に生きているなら、人生には何の意味もないことになります。なぜなら、偶然というものには、意味も目的もないからです。

 神(創造者:God)は、この世界とその中にあるすべてのものをそれぞれの役目に応じてお造りになりました。そして、祝福を与える対象としてまた、共に歩むパートナーとして、神は私たち人間をお造りになられたのです。この神の愛の中を、神と共に歩むことこそが、私たちの最高の生き方であると聖書は語っています。更に聖書は、本来の生き方から離れてしまって罪の中を歩んでいる私たちを今も愛してくださっている神様について語っているのです。私はこの神の愛を聖書に基づいて少しでも分かり易く伝えることが出来たらと願って、このブログを綴っているのです。どうか、忍耐をもって、他のカテゴリーの記事もお読みになっていただきたいのです。

●「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)。

●「家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。」(ヘブル人への手紙3:4)。

●「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに創造された。」(創世記1:27)。

●「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のためにわたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ書43:7)。

●「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人(となられた)としてのキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテへの手紙2:5)。

●「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々(クリスチャン)が、もはや自分のためではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(Ⅱコリント5:15)。

●「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ1:21)。


 神の栄光を表すために創造された人間が罪を犯して、死後永遠のさばき(第二の死)を受けるべき者となってしまったのですが、神はご自身の御子をこの世に遣わされ、十字架にまでつけて、私たちの身代わりに罰しなさったのです。この御方を信じる者には永遠のいのちが与えられ、人生の明確な目的と希望をもって生きることができます。クリスチャンが生きる目的とその意味はキリストご自身そのものなのです。

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