聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★父親の愛と神の愛

2007-08-30 | 「神の愛について」



●「すると王は身震いして、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。『わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子。』 」(2サムエル18:33)。

●「それで、この日の勝利は、すべての民の嘆きとなった。この日、民が、王がその子のために悲しんでいる、ということを聞いたからである。民はその日、まるで戦場から逃げて恥じている民がこっそり帰るように、町にこっそり帰って来た。王は顔をおおい、大声で、『わが子アブシャロム。アブシャロムよ。わが子よ。わが子よ。』と叫んでいた。 」(2サムエル19:2~4)。


 かつてのイスラエルの王ダビデは、実に数々の苦難と波乱に満ちた生涯を送った王であったことは、聖書を読むとよく分かります。羊飼いの少年から身を起して、初代の王サウルに代わって王位に就きましたが、それは、神の導きで、彼が神を恐れ敬い、その導きに従ったからでした。でも、彼にも欠点があり、ある失敗のために非常な苦境を経験しなければならなかったのです。それは、実子アブシャロムが父親のダビデに反逆して、王位をめぐって親と子が戦わなければならなくなったことです。これは、ダビデにとっては非常につらい経験であったと思います。わが国でも、戦乱の昔、親子兄弟が相分かれて血で血を洗うような悲しい歴史が多く残っていることは、みなさんもご存じのことと思います。

 さて、ダビデ王の第三子であるアブシャロムは、父の王座を狙って謀反を起し、ひそかに工作して、民の心を自分に引き寄せ、クーデターを起したのです。不意をつかれたダビデは、一時は非常な危険に晒されたのですが、かろうじて逃げのび、幾多の苦難の後、やがて陣容を整えることができました。そして、双方の軍隊がエフライムの森で戦ったのです。この時、ダビデ王は出陣する将軍たちに「わたしに免じて、若者アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ。」(18:5)と命令しました。ダビデにとっては、実のところ、自分のことよりも、自分に反逆を企てたアブシャロムのことで胸がいっぱいであったのです。自分のいのちを狙う敵ではあったのですが、アブシャロムはダビデにとって、愛するわが子であったのですから、当然のことであったと思います。 

 アブシャロムは、自分の出世のためには父の命をも奪おうと考えた野心家であったのです。2サムエル記18章の記述にあるように、エフライムの森で激しい戦いが繰り広げられたのですが、アブシャロムの軍隊に多くの戦死者が出て、密林で行き倒れなった兵士も多く、ダビデ王の軍隊が大勝したのです。戦いの最中アブシャロムは騾馬に乗っていたのですが、騾馬が大きな樫の木の下を通ったとき、アブシャロムの頭が樫の木に引っ掛かり、彼は宙吊りになってしまいました。それでダビデの軍隊は、木に宙吊りになっていたアブシャロムの心臓を槍で突き刺したので、アブシャロムは殺されてしまったのです。そして、戦線からの伝令が王のもとに走って来て、「あなたの神、主がほめたたえられますように。主は、王様に手向かった者どもを引き渡してくださいました。」(18:28)と、伝えたのです。

 そうしたら、王は「若者アブシャロムは無事か。」と聞きました。伝令は、王の悲しみを思い(あるいは王を恐れて)、「‥‥何があったか分かりません」と口を濁して答えました。そこへ、第二の伝令が走って来て、王に「王さまにお知らせいたします。主は、きょう、あなたに立ち向かうすべての者の手から、あなたを救って、あなたのために正しいさばきをされました。」(18:31)と伝えました。王は、またその伝令に「若者アブシャロムは無事か。」と、再び尋ねたのです。そして、その伝令は「王さまの敵、あなたに立ち向かって害を加えようとする者はすべて、あの若者(アブシャロム)のようになりますように。」と言って、「死んだ」ということばを使わないで、ダビデの息子の死を遠回しに伝えたのです。この伝令のことばによって、わが子アブシャロムの戦死を知ったとき、王は身震いして悲しみ、門の屋上の部屋に上がって泣き続けました。

 まさに、王の心は断腸の思いであったことでしょう。そして、王は泣きながら、次のように叫び続けました。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」 聖書は、わが子を失った時のダビデの嘆きを、このように切々と書き記しているのです。父親に背いたわが子の罪を責め、咎めようともせず、「ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。」と叫んだダビデの愛が私たちの心を打ちます。ダビデは勝利の喜びよりも、わが子の死を嘆き悲しんだので、その軍隊は戦いに敗れて逃げ帰った民のようにひそかに町にはいり、輝かしい勝利はすべての民の悲しみとなったことが記録されてあります。

 たとい、自分に反逆したわが子であろうとも、その子の死を悲しまない親がいるでしょうか。自分が天下をとるためには父のいのちをも奪おうとしたアブシャロムでした。しかし、たとい彼がいかなる悪事を働こうとも、ダビデにとっては、わが子であったのです。それゆえダビデはアブシャロムの死を悼み、泣き悲しんだのです。この父親のわが子への愛情や機微は、ダビデの命を守るために身命を賭して戦った将軍や兵士には、用意に理解できなかったかもしれない。しかし、父親の愛とはそういうものなのではないでしょうか。わが子が死ぬことを望む父はいません。このダビデのわが子アブシャロムに対する親の愛は、神の愛をよく表していると思います。

 あのルカの福音書15章の例え話を思い出してください。弟息子は、父の家にいることに満足できないで、父に反抗して家出をし、父親からもらった財産で毎日贅沢に遊び暮らし、放蕩三昧の生活をして、湯水のように財産を使い果たし、どん底の生活をするまでに落ちぶれてしまいました。最初は周りにたくさんいた友人も、一人二人とみな去って行きました。「落ちぶれて 袖に涙のかかる時 人の心の奥ぞ知らるる。」という歌がありますが、この時の彼の心境は、この歌を詠んだ人の心境に似たものがあったと思います。人の心の冷たさに触れ、深い孤独感の中にあったはずです。彼は、豚小屋の中でやっと本心に立ち帰って、悔い改める決心をしたのです。

 ボロボロになって、乞食のようになって、帰って来たわが子に父親は駆け寄り、抱擁し、何度も何度も口づけし、抱擁したのです。「口づけした。」ということばは、直訳では「何度も何度も口づけした」という意味だそうです。そして、息子が帰えって来たときのために用意していた、最上の着物を着せ、肥えた子牛を屠って、ご馳走を作り、祝宴を開いたのです。父親は、「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」と、言いました。この例え話の中の兄は、自分の義を誇り、他人を見下げてさばいていたパリサイ人を表していますが、彼はこのような父の態度に満足せず、怒って家に入ろうともしませんでした。

 しかし、父親は、彼を諭すように言いました。「おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」と。何と大きな父親のわが子に対する愛ではないでしょうか。英文で、「愛は不在と隔たりと沈黙には耐えられない。」というような意味のことばを読んだことがあります。この父親は、こんなできそこないのような息子でも愛していました。弟息子が父から遠く離れていた「不在」と「隔たり」と「沈黙」には、耐えられないほど苦しみを味わい、断腸の思いであったことでしょう。ある人が「『親』という字は『木の上に立って見る』と書くでしょう。親不孝な子供でも、親というのは、木の上に立って、わが子の帰りを待っているのです。」と言ったことばが今でも心に残っています。
 
 この例え話では、「父親」は「神」を表しています。息子は私たち神から離れ、神に反抗して永遠の滅びに向かっている私たち罪人を示しています。ですから、この例え話は、「神の偉大な愛」を表しているのです。三つの例え話は、御子イエス・キリスト、聖霊、御父の三位一体の神の愛を示しているのです。預言者エゼキエルは、「わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」(エゼキエル書33:11)と、神のメッセージを語っています。神のみこころは、私たちが滅びることではなく、生きることであると語っています。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への手紙5:6~8)。

●「キリストも一度(人類の)罪のために死なれました。正しい方が悪い人々(私たち)の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」(1ペテロ3:18)。


 父なる神から遣わされた御子イエス・キリストが十字架にかかって死なれたのは、自らの罪のために滅びるほかはない私たちが生きるためであり、永遠のいのちを得るためであったのです。神は、こんな罪深い者たちのために、ご自身のひとり子イエス・キリストを遣わしてくださったのです。何という偉大な驚くべき愛ではないでしょうか。どうぞ、神が差し伸ばしておられる愛の御手を拒むことのないようにお勧めいたします。
 
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★天国とはどんな所ですか?

2007-08-23 | 「ご再臨と信者の真の希望」
         
        

 ある方から「クリスチャンが行く天国とはどんな所ですか?」と聞かれたことがありますが、聖書にはどのように書いてあるのか、見てみましょう。ヨハネの黙示録21章と22章に天国の様子が書かれてありますから、その箇所を開いてご覧になってください。ヨハネは神様から示された黙示を、そのまま記録しています。そして天国については、あまり詳細には書かれていませんが、それには意味があるように思います。ヨハネは、「天国にあるもの」より、「天国にはないもの」について多く書いているように思います。なぜなら、天国のすばらしさをどのような美しい形容詞を用いて描写したとしても、私たちの限界のある能力では、次元の違う世界のことを完全には理解できないからではないかと思います。そのようなことを念頭において、お読みになってください。ヨハネは、七つの「ないもの」を記して、新天新地の一部を描写しています。

●「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』」(ヨハネの黙示録21:1~4)。 

【1】天国には「海」がない。
 ここには、「もはや海もない。」(黙示録21:1)と記されていますね。この地球上に海を造られたのは、神様です。そして、人類はその海から、私たちが生きるために必要な魚や種々の海産物など多くの海からの恵みを受けて来ました。また、海がなければ、雨が降ることがありませんから、地上の様々な植物も育たなかったわけです。しかし、海はまた一度牙を剥くと、非常に恐ろしいところでもあるのです。今日までの人類の歴史の中で、どれだけ多くの船舶の海難事故などで多くの人々のいのちを飲み込んで来たことでしょうか。海は、ある意味では、あらしなどによる危険や恐怖の象徴であったとも考えられます。黙示録には、「海から一匹の獣(反キリスト)が上って来た」(13:1)とあるので、悪の根源のように考えられていたのかもしれません。また、海は少しも休むこと知らない不安定なものを示しています。

【2】天国には「死」がない。
 人類の始祖アダムとエバは、神様が備えられたあの「エデンの園」はすばらしい所でした。そして、彼らが神に反逆して罪を犯す前には、この地球上には人間を不幸にして来た「死」はなかったのです。人間が罪を犯した結果、そこは、まさに「失楽園」となり、それから、幾千年間もの間、人類は死の恐怖の奴隷となってしまい、絶えず死の恐れと不安に慄きながら生きて来ました。しかし、主イエス・キリストの十字架と復活のみわざによって、死は滅ばされ、新天新地においては、もはや死はなくなってしまったのです。天国においては、永遠に「死」はありません。

【3】天国には「悲しみ」がない。
 「悲しみ」も、やはりアダムとエバの罪の結果、人類に入って来たものですが、キリストの十字架と復活のみわざによって、神様は完全に取り除いてくださいました。アダムの罪以来、いつの時代にも、人類は多くの悲しみと悲惨を経験して来ました。しかし、キリストは「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」と言われています。人間の悲しみを理解され、あのゲッセマネの園では「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」と言われたお方ですが、そのキリストが十字架でその罪の結果の「悲しみ」をも負ってくださいました。そして、天国では、神様ご自身が私たちの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるというのです。何と慰めに満ちた光景ではありませんか。
 
【4】天国には「叫び」がない。 
 叫び(crying)は、泣き叫ぶことです。人間の罪がある所には死があり、死がある所には、悲しみがあり、悲しみがある所には、叫びがあります。今日の私たちの周囲のあちこちから、人々の泣き叫ぶ声が聞こえて来ます。不幸があった家からも遺族の泣き叫ぶ声が聞こえて来ます。ある国々では、今日も戦場と化した街々から、父や母を失った子供たちの泣き叫ぶ声が聞こえて来ます。でも、新天新地では、もう叫び声は聞こえて来ることはけっしてないのです。

【5】天国には「苦しみ」がない。
 「苦しみ」ということばが、聖書に最初に出て来るのは、創世記3章です。エデンの園で人間が罪を犯す前には、「苦しみ」は全くありませんでした。「エデン」は歓喜の意味があります。そこは、楽しみと喜びで溢れていました。しかし、アダムとエバが神に反抗して罪を犯した直後に、女には、「みごもりの苦しみ」と「出産の苦しみ」が入って来ました。また男には、「苦しんで」食を得なければならなくなったのです。聖書には、人類のありとあらゆる苦しみが記されています。しかし、イエス・キリストの十字架と復活の勝利によって、すべての不幸の根源は取り除かれ、新天新地には、もはや「苦しみ」もありません。それは、もう過去のものとなってしまったのです。

【6】天国には「のろわれるもの」がない。 
「もはや、のろわれるものは何もない。」(黙示録22:3)。 
 最初のエデンの園には、もちろん、「のろわれるもの」は何もありませんでした。人類に「のろわれるもの」が入って来たのは、やはり人間の罪の結果なのです。神は罪を犯したアダムに対して次のように言われたのです。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。」(創世記3:17)。しかし、イエス・キリストは、人類に対するのろいを取り除くために、罪人の身代わりになって、十字架に掛けられて、のろわれた者となってくださったのです。

【7】天国には「夜」がない。
「もはや夜はない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」(黙示録22:5)。 
 現在の天と地は、神様が最初に創造された秩序であり、地球の自転により、昼と夜があり、昼は働いて夜は休むことが出来るようにしてくださったのです。これは神様の愛の配慮によるものであったのです。しかし、夜は闇であり、暗いのです。現在、人類の文明の発達によって大都会は不夜城のようになっていますが、これは、正常なものではありません。私たちは、明日の朝になれば、地上を明るくしてくれる太陽が東の空から昇って来ると信じているので、夜も安心して床に入り、眠ることが出来ます。永遠に朝が来ないと仮定すれば、だれも安心して夜床(ベッド)に寝ることができません。だれでも、夜は怖いのです。しかし、天国には永遠に夜がないというのです。そして、「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである」(黙示録21:23)とあります。

 私は、ある意味で消極的な面から天国(新天新地)について書いたたのですが、天国で何よりもすばらしい幸いなことは、そこに御父なる神と、私たちのために十字架にかかって身代わりに死んで復活してくださった主イエス・キリストが共におられることなのです。冒頭のみことばでも、「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられる。」とあります。また、イエス様と共に十字架につけられた二人の強盗のうち、悔い改めた一人に対して、イエス様は「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)と約束されました。また、主イエス様は、刻々と近づいていた十字架刑の直前において、弟子たちを励まして、次のように言われたのです。 

●「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所(天国)を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネの福音書14:1~3)。 

 とにかく、天国のすばらしさは、だれもそれを人間のことばで表現することはできないのではないかと思います。パウロは、第三の天(神が臨在される所:天国)について次のように語っています。パウロが大きな試練の中にあって落胆していた時に、神様は彼を激励するために第三の天(天国)を見させてくださったのです。この時のことを、それから14年後に、諸事情があってやっと口を開いて語るほど、その天国のすばらしさを人間のことばでは表現できなかったのではないでしょうか。それは、あまりにもすばらしかったからです。その経験はパウロにとって生涯忘れることができなかったものとなったことは間違いありません。

●「私はキリストにあるひとりの人(パウロ自身)を知っています。この人は十四年前に―肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。私はこの人が、―それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。― パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。」(2コリント12:2~4)。 

●「私達は、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(2ペテロ3:13)。 

●「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。 」(ピリピ人への手紙3:21)。
 

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★皮の衣を着せてくださった神

2007-08-16 | 「神の愛について」

     
    
●「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」(創世記3:6,7)。

●「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」(創世記3:21)。


冒頭に記した二つのみことばは、創世記3章の出来事の中に書かれてあるものですが、今日はこのみことばを中心に少し考えてみたいと思います。創世記というのは、家に譬えると「玄関」のようなもので、旧約新約聖書66巻の「入り口」のようなものです。家に入る時には玄関から入らなければなりません。裏口や窓から入ることも出来ますが、通常は玄関から入ります。それから、創世記というのは、いろいろなことの「初め(起源)」について書いてあります。最初が分からないと、その後を読んでも、なかなか理解できないのです。ですから、創世記には、「宇宙の起源」「地球の起源」「生命の起源」「人類の起源」「結婚の起源」「人類の罪の初め」「罪の贖いの黙示(予告)の初め」「言語の起源」「文化の初め」「民族の初め」「選民イスラエル(ヘブル民族)の初め」など‥‥etc。

さて、神様は最初に人間を創造されて、すばらしいエデンの園に住まわせてくださいました。「エデン」とは、「喜び」「歓喜」「楽しみ」などの意味があることばです。アダムとエバさん夫婦は、エデンの園で神様との親しい交わりを喜び、平和と満足を味わい、愛と光といのちに満ち溢れたすばらしいところであったのです。そこには、憎しみや戦争もありませんでした。当然、人殺しもありませんでした。妬みや悲しみもありませんでした。苦しみもありませんでした。死もなく、涙もありませんでした。空虚な気持ちとか、孤独を感じることもありませんでした。神様が、人間が生きるために必要なすべてのものを満たしてくださっていたからです。エデンの園は、ほんとうにすべてが満たされたすばらしいところでした。神と人との間に何の隔たりもなく、幸いに交わることができたのです。

ところが、創世記3章に入ると、人類のすべての悲しみと苦しみと混乱の根源である罪が入って来たのです。アダムとエバは、禁断の木の実を食べて神に反逆し、罪を犯してしまいました。これが人類のすべての不幸の始まりとなったのです。罪の結果、彼らがもった最初のものは、羞恥心と有罪感であったのです。これが、神のいましめに背いて、善悪の知識の木の実を食べた悲しい結末であったのです。次に、彼らは自分たちの裸をおおうために、「いちじくの葉」をつづり合わせて、自分たちの腰の覆いを作ったことでした。このいちじくの葉は、朝早く取った時には、新鮮で、みずみずしく、美しく見えたかもしれませんが、太陽が昇ると、その太陽の熱でしおれ、夕方になった頃にはもう枯れてしまっていたに違いありません。

これらの事実は、人間の自己義認を示しており、また、自らの罪を覆うための人間のあらゆる努力がいかに空しいものであるかをよく示しています。人間が作り出した世界中のあらゆる宗教も、哲学も、その裸の恥(人間の罪)を覆うことはできません。どんなに難行苦行を積み重ねて修業してみても、認罪の意識を取り除くことはできないのです。人間はみな自分の羞恥心と有罪感をおおい隠そうとして、高度の学歴と教養を身に着け、道徳的にも努力をしますが、それは、一時的には役立つかのように見える「いちじくの葉」のようなものなのです。いちじくの葉は、夕方にはもう枯れてしまい、役に立たなくなってしまうのです。あなたが、今、一時的に満足しているあらゆるものは、人生の夕方には、枯れてしまう空しいものとなるのです。
 
しかし、この創世記3章には驚くべきことが書かれているのです。すでに、罪を犯した人類に対する神の救いのご計画が記されているのです。神は人を誘惑した蛇(サタン)に対して「わたしは、おまえ(サタン)と女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫(キリスト)との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼(キリスト)のかかとにかみつく。」(創世記3:15)と宣言しました。神は、驚くべきことですが、罪に対するさばきとともに、救いのご計画を啓示されたのです。これは、神の救いに対する最初の約束なのです。ここで、「女の子孫」というのは、ヘブル語の原語では複数ではなく、「単数」になっているので、メシア、すなわち、キリストを示しています。ここに、キリストよるサタンへの勝利が示されており、キリストの福音が予表されているのです。

「おまえ(サタン)の頭を踏み砕き」は、サタンとその力に対する完全な勝利を表しています。敵の頭を打ち砕くならば、それは致命的なものとなります。しかし、それに対して、「(キリストの)かかとにかみつく」は、相手に激しい苦痛を与えるものとなっても、それは、致命的なものとならないことを示しているのです。「キリストのかかと」と「悪魔の頭(かしら)」との比喩的表現は、キリストが十字架の死ののちに復活されることに対して、悪魔は最後には、決定的にうち滅ぼされてしまうということを示しています。この3章には、神のさばきと、人間が神に背いた結果、罪がこの世に入って来たことを示していますが、同時に、神の愛と慈しみが記されており、神の恵みがすでに記されていることは驚くべきことではないでしょうか。

さらに、もう一つの驚くべき神の愛と哀れみが記されています。それは、冒頭の二番目の聖句です。「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」というこの短い聖句に神の限りない深い哀れみと、キリストの十字架による救いのご計画が暗示されているのです。つまり、アダムが自分で作った手製の衣(いちじくの葉をつづり合わせたもの)に代えて、神は、アダムとエバのために、皮の衣を作って、着せてくださったのです。そして、特に注目していただきたいのは、皮の衣を作るためには、どうしても動物を屠って、血を流す必要があったということです。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」とありますが、これは、こののち数千年後に成就するキリストの十字架の贖いを予表しているのです。
 
神が人に与えた皮の着物は、日が昇ると枯れてしまうような一時的な衣ではなかったのです。神が与えた衣は、血を流すことによって得た皮の衣であったのです。これは、キリストの十字架の贖いの血を信じるすべての者に与えられるキリストの義の衣を表しているのです。イエス・キリストの義の衣を着せられたクリスチャンたちはそ恵みをどんなに感謝しても、し過ぎることはないのです。私たちが自分で正しいと思ってした行いも、聖よい神の御目からご覧になると、汚れた(不潔な)着物のようであると聖書は厳粛に告げています。あの預言者イザヤも召された時に言いました。「ああ。私は、もうだめだ。私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。」(イザヤ6:5)と。

●「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。」(イザヤ書64:6)。 

●「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」(イザヤ書61:10)。

●「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。 」(ガラテヤ書3:26,27)。

●「ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。』 」(ルカの福音書15:22)。
 

この放蕩息子の父親のように、愛に満ち給う神は、永遠に有効な「一番良い着物」を用意して、あなたが、罪を悔い改めて神に立ち返るのを待ち望んでおられるのです。その永遠に有効な一番良い着物とは、イエス・キリストが十字架でご自身の血を流して贖いのみわざを成し遂げてくださったことを信じることによって、あなたにも与えられるのです。私が若い時、聖書に精通したある先輩の兄弟が、「聖書は、旧約新約合わせて、1,189章あるけれども、人類の罪がなかった時代は最初の2章だけです。3章から罪が入って来て、全人類は死の恐怖の奴隷になっています。聖書には3章から、ずっと、目に見えない黒い線(人類の罪)が引かれています。しかし、同時に赤い線(キリストの十字架の血)も引かれているのです。」と。あなたは、どう思われますか。

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★救われるために何をするか

2007-08-10 | 「信仰と救いについて」

               

●「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(Ⅰテモテ2:4)。 
 
冒頭に記した聖句にありますように、聖書が語っていることは、「神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられる。」ということです。ここで言っている「救い」というのは、この世の多くのご利益宗教が説いているものとは、全く違います。病気からの救いのことではありませんし、貧困からの救いのことでもありません。また、人生のいろいろな悩みや苦しみからの救いのことでもありません。ここで言っている「救い」は、人類が神に罪を犯して神から離れた結果の罪の生活と、死と死後の永遠のさばきからの救いを意味しているのです。ですから、これは、あなたも含めて「すべての人」と関係があるのであり、「私には関係ないですよ」とは言えない重大な真理なのです。

ある方からのご質問ですが、「友人のクリスチャンに勧められて聖書を読み始めたのですが、聖書の中で、救われるためにはどうしても知らなければならないる必要不可欠な真理は、一体何なのでしょうか?」という丁寧な文面のメールでした。聖書は単なる道徳の書でもなく、文学の本でもなく、歴史の本でもなく、また宗教の教典でもありませんから、これは的を得た大切な質問であると思います。文章の書き方や文面から、人生を真摯に真面目に考えていらっしゃる方であるとの印象を強く受けました。聖書は、多くの重要な真理を教えていますが、救われるためにどうしても知らなければならないこととして、以下のような真理(事実)を選んで記しましたので、どうか、ご自分に当てはめて吟味なさってください。

【1】まことの神は唯一であられます。
聖書は、神は唯一であることを断言しています。聖書の記述は明確であり、ここに曖昧なことは一つもありません。真理は一つなのです。これは、人間の考えではなく、唯一の神がご自身で啓示なさった真理なのです。

●「神は唯一です。」(テモテ第一2:5)
●「わたし(God)は初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はいない。」(イザヤ書44:6)。
●「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメ。 」(Ⅰテモテ6:15,16)。
●「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。 」(イザヤ書45:22)。


【2】神は天地万物の創造者であり、また、神ご自身の愛の対象として人間をご自身に似せてお造りになられました。
人間は、けっしてアメーバーから進化した偶然の産物ではありません。もし、そうであれば、人間が生きる意味も目的も真の希望もないことになります。聖書の記述は、この点に関しても明瞭です。

●「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)。
●「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」
●「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息(霊)を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)
●「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 」(創世記1:27)。


【3】人間は神の権威に反抗して、罪人となりました。
ある人は、「私は、神に反抗などしていない。神を馬鹿にするようなことも言っていない。」と言います。でも、あなたは、今まであなたを生かしてくださった神を無視した生活をしたことがないでしょうか。親を無視している子どもがいたとしたら、それは、大変な親不幸です。でも、あなたを生かしてくださっている神を無視して生きることは、もっと大きな罪ではないでしょうか。

●「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、それというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)
●「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず‥‥」(ローマ人への手紙3:23)。


【4】それゆえに、人間と神との交わりが断絶してしまったのです。
人間は、真の神を礼拝し、交わる代わりに、木や石や金銀で作った偶像を拝むようになり、真の神の代用品として、生きている人間や動物、その他いろいろなものを拝む対象としているのです。肉体的には生きていても、神から離れた人間は霊的には死んでいると聖書は語っています。

●「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ59:2)。

【5】人間の罪の結果は死(死後のさばき)です。
これは、だれも認めたくないことだと思います。恐ろしいからです。でも、聖書は厳粛にそのことを告げているのです。どんなに否定しても、真理は変わることはありません。他人が極悪非道な犯罪を犯した場合、その人は当然、さばかれるべきであると人は考えます。しkし、人は自分のことになるとそれを否定したいのです。正義の神の前に、人間の罪がさばかれるのは当然であはないでしょうか。

●「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)
●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。
●「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。‥‥そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(ヨハネの黙示録20:15)。


【6】神は、罪人である私たちのために、救いの道を備えて下さいました。
神は正義の御方であると同時に愛の神ですから、あなたが、必ず来るこの御怒りを逃れるために、救いの道を備えて下さったのです。愛なる神は、ご自身の御子イエス・キリストを救い主として遣わしてくださいました。

●「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。‥‥私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への手紙5:6~8)。
●「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」(Ⅰテモ1:15)。


【7】イエス・キリストは、あなたがその罪から救われるために、この世においでになられれ、罪のない聖よいご生涯を送られましたが、罪を犯した全人類のために十字架に掛かられ、身代わりとなって神の刑罰を受けて死んでくださり、墓に葬られましたが、三日目によみがえられました。
それでは、あなたは、救われるために何をしなければならないのでしょうか?上に記した聖書の事実(真理)をそのまま信じ、受け入れることです。そして、イエス・キリストが、あなたを愛され、あなたの罪のために死なれたこと、葬られたこと、三日目に目に見える栄光の体で死者の中から復活された救い主であることを個人的に心から信じることです。それ以外に救いの道はないと聖書は断言しています。

●「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネの福音書17:3)。
●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。
●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネの福音書3:36)。
●「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒の働き16:31)。
●「この方(キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには私たちが救われる名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。」(使徒の働き:4:12)。
●「わたし(キリスト)は道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもと(天国)に来ることはありません。」(ヨハネ14:6)。


ですから、あなたが心からご自分の救いを望まれるのであれば、神の御前に跪いて次のように真剣にお祈りしてみたらいかがでしょうか。神は真実なお方ですから、必ず、その祈りを聞いてくださいます。
===「神様、この罪人の私をあわれんで下ださい。キリストは私の罪を十字架ですべて背負って私の身代わりとしてご自分の御血を流して死んで下さいました。また、死後三日目に、死者の中から復活されたことも心から信じます。どうか、私の罪を赦して下さい。そして、聖書の約束通りに、信じる者に永遠のいのちを与えて下さい。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。」===
 
◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」

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★四つの福音書について

2007-08-04 | 「聖書について」

  暑中お見舞い申し上げます。みなさん、お元気でお過ごしでしょうか。 
さて、最近聖書を読み始めたばかりの一青年から、次のような質問のメールをいただきました。「新約聖書の初めに、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書という四つの福音書がありますが、どうして、福音書が一つではなく四つあるのですか?それから、四つの福音書の内容で、互いに矛盾すると思われる記事もあるように思いますが、これをどのように理解したらいいのでしょうか。」というようなご質問の内容です。できるだけ難しいことは省いて、自分が理解している範囲内で、できるだけ簡潔にお答えしたいと思います。

 適切かどうか分かりませんが、一例を挙げますと、私たちが、家族や友人の一人を他人に紹介する場合、いろいろな紹介の仕方があると思います。例えば、その人の職業や職場における仕事の内容、その人の家柄や生い立ち、その人の人柄とか性格的な面、または何かの特別な能力や趣味など、いろいろな側面がありますから、紹介の仕方も人によって当然違って来ると思います。四つの福音書は、それぞれ、取税人、医者、漁師など職業の違う四人の記者によって、イエス・キリストのご生涯を記録したものですが、同じ出来事でも、類似している表現の箇所もたくさんありますが、全く同じ表現で書かれている箇所は、ほとんどありません。また、四つの福音書は、それぞれ違う視点からイエス・キリストのご生涯を紹介しているのです。

 また、「四つの福音書の内容で、互いに矛盾すると思われる記事もあるように思いますが、これをどのように理解したらいいのでしょうか。」とのご質問にお答えしたいと思います。これも、例えて申しますと、どこかである事件が起こった場合に、四人の新聞記者が現場に駆けつけ、取材した場合に、その四人の記者の記事が、一字一句全く同じ表現で、内容も全く同じということはまず考えられないことです。それぞれの記者は、その事件を記事にする場合、どこに強調点を置くかは、微妙に違って来ると思います。同様に、四福音書において矛盾と感じられる箇所も、けっして矛盾ではなく、それぞれの記者の強調や視点が違うということが言えるのではないかと思います。それでは、四福音書を、それぞれ比較対照して、それぞれの特徴などを見てみましょう。
 
【1】マタイの福音書について。
(1)記者は、取税人マタイです(9章9節)。当時、取税人という職業は、ローマ政府から、ユダヤ人から税を取り立てる仕事のために使役されていて、同胞のユダヤ人からは、売国奴のように言われて嫌われていたのです。マルコ2:14では、マタイは「レビ」と呼ばれています。彼は、主イエス様から、「マタイ」と名づけ直されたようです。取税人という侮蔑的名称が、「神の賜物」を意味するマタイという使徒的名称に変えられたことはすばらしいことです。
(2)この書の使命:「メシヤ、また王としてのキリスト」を表すことです。
(3)このマタイの福音書は、元来は特に「ユダヤ人」が用いるために書かれています。それで、この福音書には、しばしば、旧約聖書からの引用が多いのはそのためなのです。
(4)この書の特徴の一つは、「成就」という語が度々出て来ることです。旧約聖書の預言がキリストによって成就したことを示すために、旧約から引用されている聖句は、60箇所以上もあります。
聖書を初めて、手にして、「さあ、これから聖書を読むぞ!」と意気込んで、読み始めたものの、冒頭からイエス・キリストの系図なるものが、長々と書かれていて、手鼻をくじかれた気分で、うんざりしてしまう方も多いと思います。でも、これも、旧約聖書のメシヤについての預言の成就として書かれているもので、どうしても欠かせないものなのです。
(5)ですから、ある人たちが言っているように、四福音書に不一致や不調和というものはありません。それぞれが、特殊な目的のもとに書かれているのです。それぞれ異なった方面から主イエス・キリストを描写しているのです。繰り返しますが、マタイの福音書は、「王としてのキリスト」を描いているのです。

【2】マルコの福音書について。
(1)この福音書の記者は、使徒の一人ではなく、使徒の同労者の一人であったマルコによって書かれています。彼は、使徒12:12にあるように、マリヤ(新約聖書には数人のマリヤが出て来ますから混同しないでください)の息子であって、ある程度豊かな生活をしていたと思われます。彼は、幼名をヨハネと言い、のちにマルコと改名したのです。彼は、使徒ペテロに導かれて、回心した者と考えられています。彼は、ペテロの道ずれとなって、その語ったところを記録したのです。マルコは、恵まれた環境の中で、慈愛深い母のもとで温室の花のように育ったのですが、厳しい困難に会うと挫けてしまうところがあったようです。パウロの伝道旅行に随行したのですが、その困難に耐えることが出来ず、伝道の第一線から退いて、エルサレムの母の家に帰ってしまったのです(使徒13:13)。その間の消息は不明ですが、マルコは、もう一度、主の憐れみによって信仰が回復させられ、その尊い働きに用いられたのです。主は、一度失敗した者をも、さらに砕いて用いてくださるのです。もし、主が彼を再び、彼を立たせてくださらなければ、今日の「マルコの福音書」もなかったことになるのです。
(2)この書の使命:「神の僕(しもべ)としてのキリスト」を表すことです。
(3)この書は、元来ローマ人のために書かれたものと信じられています。ですから、旧約聖書からの引用が、きわめて少ないことに気づきます。ユダヤ人の言語が説明されています(3:17。5:41。7:11、34。14:36)。
(4)この書の鍵になることばは、「すぐに」「ただちに」(翻訳によって多少、表現が異なります)ということばが頻繁に出て来ます。1章だけでも、10回くらい出て来ます。それは、何故かと言いますと、僕(しもべ)は、休む暇もなく、主人の御こころを行い、その命令を忠実に実行することにあるからです。
(5)この書の特徴は、いろいろありますが、「系図」がないことです。僕(奴隷:slave)には、系図は必要ありません。マタイでは1章に、ルカでは、3章にキリストの系図が書かれています。また、誕生と幼少の頃の記録が全くありません。もちろん、これらは重要な事柄ですが、僕を述べるにに必要なものではありません。神の子イエス・キリストであり、「神のしもべ」であるお方は、1章の冒頭から休みなく働いておられる姿が出て来るのは、印象深いことです。

【3】ルカの福音書について。
(1)この福音書の記者は、ユダヤ人ではなく異邦人であり、ギリシャ人であったと思われます。ルカは教育のある人で、医者を職業としていました。彼がパウロの同労者として最初に記されてあるのは、使徒16:10です。ルカは、一人の医者として、人間を温かい目で見ていることを示す箇所が随所に出て来ます。この福音書の記者ルカは、「使徒の働き」と共に、最初は、たった一人の友人テオピロに宛てて、書いたのです。たった一人の人間のために、彼は多くの時間を割いて、綿密に調べてこれを書き上げたのです。
(2)この書の使命:「完全な人間としてのキリスト」を表すことです。ルカは、キリストの神性について語ると同時に、キリストが人間であることを力説しています。この福音書に示されている主のご性格は、きわめて人間的であり、「神の子」であると同時に、「人の子」であったのです。
(3)4章1~13節にあるように、悪魔の誘惑を受けられました。「罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)とある通りです。ですから、イエス様は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。どうか、この大切な真理を肝に銘じて記憶してください。
(4)ルカの福音には、イエス様が御父に祈られた姿が、他の福音書に比べて、頻繁に出て来ます。主が、そのご生涯において、すべての時間を神に対して、絶対的な信頼をおいて生きられたのです(3:21、5:16、6:12、9:18,29、11:29、22:41~44)。主イエス様は「祈りの人」であったのです。
「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ、切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」(22:44)。この時、すなわち、ゲッセマネの園における祈りの時、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけたのです。ここにも、人間としてのイエスが十分に示されています。 

【4】ヨハネの福音書について。
(1)この福音書の記者ヨハネは、漁師であったのです。多分、漁師の親方の子であったと思われます(彼の父には、雇い人がいました。マルコ1:20)。その母サロメは、財産をささげて主に仕えた婦人たちのうちの一人です。この事実と彼がエルサレムに自分の家を持っていたということから考えて、彼がかなり豊かな暮らしをしていたことが明らかです。ヨハネの性格は、気性が荒く、せっかちで、気が変わりやすい人であり、「雷の子」と呼ばれたのですが、主の恵みによって変えられ、思慮深い愛の使徒に変えられたのです。ライオンが羊のようになったのです。これは、主の恵みのみわざです。
(2)この書の使命;「神の御子であるキリスト」を表すことです。
このヨハネの福音書は、霊感によって書かれた書簡の中では、最後のもので、書かれた時は、主が昇天してから、50年は十分に経過していました。この書は、聖書の中では、最も奥行きを持ったものであると言っても過言ではないと思います。ヨハネは、主の使徒たちの中では一番長命だったのですが、彼は、福音書の他に、ヨハネの手紙Ⅰ、Ⅱ、Ⅲと、ヨハネの黙示録を書いていますが、主が彼の長命は、そのための主のご計画であったのではないかと思われます。
(3)この書の鍵のことばは、「信じる」ということばです。多分、私の記憶違いでなければ、100回前後、「信じる」ということばが出て来ます。
一体、何を信ずべきなのでしょうか。それは、人であるイエス・キリストの神性を信じることです。
(4)この福音書には多くの特色がありますが、この書には、キリストがなされた奇蹟(神の御子としてのしるし)の中から、7つだけ選ばれて記録されてあり、それぞれにみな霊的な意味があります。それらがキリストの神性を明らかに示していることは確かです。
(5)他の三つの福音書は、一般的には「共観福音書」と呼ばれていますが、このヨハネの福音書は、それらの福音書と比べて、内容が深く霊的で特別な福音書と言えるかもしれません。いずれにしても、この書が書かれた目的は、はっきりと書かれています。

●「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネの福音書21:30,31)。 

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。


◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」

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