聖書から人生を考えよう

私のプログへようこそ!!
お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★あなたは孤独ですか?

2005-10-30 | 「人生の幸せと平安」




  あなたがとても辛く苦しい時、また何か大きな過ちを犯してしまって周囲の人たちから冷たい視線を浴びている時に、あなたを励ましたり、慰めたりしてくれる友人がいるでしょうか。また、あなたが明日の生活の不安と心労のために疲れ切って、疲労困憊している時なに、あなたのことを心配し、温かいことばをかけて慰め、現実に助けてくれる友人がいるでしょうか。

  あなたは、「自分のことなんか、誰も関心を持ってくれる人もいないし、心配してくれる友人なんて誰もいないに決まっているよ!」と嘆いたり、孤独感に陥ったりしたことがありませんか。他人には言わなくても、心の奥底ではみんなそんな寂しい思いをしたことがあるのではないかと思います。

  でも、「あなたが、今どのような状況にあったとしても、本当にあなたのことを愛していてくださる方がおられるのですよ!」と言ったら、あなたは驚かれるでしょう。でも、これは紛れもない事実なのです。聖書の中で、真の神様はあなたに対して、次のように個人的に語りかけておられます。もちろん、あなただけでなく、全世界のすべての人々に向かって個人的に呼びかけておられるのです。


●「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書34・4)。 

  人間の罪のゆえに、永遠の死と滅びの危険に晒されているあなたを命がけで愛しておられる方、いいえ、あなたのために実際に身代わりに死んでくださった方がおられるのです。「そ、そんな馬鹿な!!」とあなたは思われますか? でも、これは歴史的な事実なのです。そのお方こそ、神の御子イエス・キリストなのです。聖書の中で、一番有名で大切なことばは次のみことばです。このみことばには、聖書全巻を凝縮して要約したような神の愛が表されているのです。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(あなた)を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3・16)。

  聖書が語る神は、全宇宙を創造された偉大なお方であり、あなたを造られ、あなたを日々、恵みのうちに生かしておられるお方ですが、人間は一人残らず、みな神に対して罪を犯してしまいました。しかし、愛なる神は、ご自身のひとり子をこの世にお遣わしになられ、神の御子イエス・キリストはすべての人の罪のために身代わりに十字架で死なれ、死後三日目に墓からよみがえられました。

  御子を信じる者はだれでも罪が赦され、本当の平安を持つことができます。あなたを生かし、愛しておられる真の神を認め、神のもとに立ち返るところに真の幸福があるのです。愛なる神様との交わりの中にこそ、本当の安らぎがあるのです。その時、あなたは、決して自分はひとりぼっちではないことを知るでしょう。

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


★優しいイエス様の愛

2005-10-27 | 「キリストの愛」
  
     ( 白樺と紅葉 )
            

●「すると、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。『主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。』 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ。』と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。 イエスは彼に言われた。『気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。・・・・・・・』」 (マタイの福音書8:2~4)。   

  今日は、福音書の中の一つの記事からキリストの愛について考えてみましょう。当時のユダヤ人社会においては、「らい病」は人々から最も忌み嫌われている病気の一つでありました。らい病は、旧約聖書のレビ記13章に上げられている七つの皮膚病の総称であって、今日のハンセン氏病とは異なるものではないかと思われます(新改訳第2版の訳:ツァラアト)。らい病は汚れた病気とされ、この病気に罹った者は一般の人々から隔離されて、町の外に住まなければならなかったのです。ですから、彼らは人々から見捨てられた非常に可哀そうな孤独な環境にいた人たちでありました。 ここに登場するらい病人はイエス様の名声を聞いて、居ても立ってもいられない気持ちを押さえることが出来ずに、人前に出てはいけないという禁制をも破って、イエスの前に姿を表したのではないかと思われます。

 そして、主のみもとに来て、ひれ伏して「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」(2)と言いました。彼はぶしつけに「どうか、この忌まわしいらい病を直してください。」と自分の一方的な願望をイエス様に押し付けるようなことはせず、「もし、みこころならばきよめてください。」と、どこまでもへりくだってイエス様のみ前に「ひれ伏して」イエス様に願ったのであります。ここに彼の謙遜な姿が示されています。自分の意志よりも、神のみこころを第一にしたのです。これが、通常のご利益信仰とは異なるところではないでしょうか。「直してくれたら信じるけれども、直してくれなければ信じない。」という自己中心の信仰と根本的に異なっているのです。

 その上、彼は「もし主のみこころならば、きよめることがおできになります。」と言って、イエス様をメシヤ(救い主)と堅く信じていたのであります。そのらい病人の謙遜な願いに対して、イエス様はどのような態度を取られたでしょうか。かつて、孔子という人は自分の愛弟子がらい病になった時、らい病院(保養院)に隔離して、数メートル離れて、「ああ、災いなるかな!汝の災い汝に及べり、汝に不幸あり、汝の努力をして癒えんことを!」と言ったそうであります。しかし、イエス・キリストは孔子の取った態度とは全く異なっています。主は、彼の信仰を認めて彼に優しく触れられたのです。

 その当時、ユダヤ人社会ではらい病は汚れた病気で、その病人に触るとその人も汚れると考えられていたのです。それだけでなく、触った者は感染すると考えられていたのです。しかし、イエス様はそのようには、少しもこだわらずに彼に触ったのであります。ここに、ご自分のことは顧みず人々から見捨てられて、孤独な状況にある人々を救おうとされた主イエス様の愛の姿があります。イエス様はいかに愛の深い御方であるかを知ることが出来ます。そして、イエス様はただ愛のお方であるばかりではなく、メシヤとしての偉大な力を示す権威をお持ちでした。「わたしのこころだ。きよくなれ。」と言って、らい病を一瞬にしてきよめられたのです。

 ですから、ここには汚れたらい病人をきよめられたイエス様の優しい愛と共に、救い主としての偉大な力を見ることができるのであります。ところで、「らい病」は人間の罪の例証とされていました。らい病人が特別に罪深いという意味ではありませんので、誤解なさらないでください。ですから、ひな型としてらい病がきよめられることは、罪が赦され、神に近づき得る状態とされることを意味していました。さて、ここでイエス様は「だれにも話さないようにしなさい。」(4)と言われました。多くの人は、ここで、イエス様の噂が広まれば、イエス様は益々有名になり、大勢の人が救われて信者になったのではないかと考えるかもしれません。しかし、イエス様は人間的な名声を求めるためにこの世に来られたのではなく、また名声のために多くの奇蹟を行ったのでもありません。

 むしろ、この噂が広まることによって人々がイエス様を単なる病気を直してくれる人、現世的なご利益を与えてくれる人として理解するようになることを警戒したのであります。イエス様には、人々を罪から救うために十字架に架かって人類の身代わりに死なれるという救い主としての最大の目的があったのであります。そのためには、この時点では、病気を直したという噂が広まらない方が良かったわけであります。ただ、直ったことを証明してもらうためには、律法によって命じられた通りにする必要があったのであります。あなたも、キリストの十字架の深い意味を是非、もう一度、立ち止まってお考えになってみて下さい。

●「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。 」(ヨハネの第一の手紙1:7~10)。

●「人知を越えたキリストの愛を知ることができますように。‥‥‥」(エペソ人への手紙3:19)。
 

■■■■□□□□■■■■□□□□■■■■
 

★友のために命を捨てる愛

2005-10-18 | 「キリストの愛」



   青函連絡船「洞爺丸」の海難事故から、もう50年以上も過ぎようとしていますが、ご年配の方であればまだ記憶に新しいことと思います。1954年(昭和29年)9月26日の夕刻から夜にかけて大型の台風15号が北海道を襲い、函館市をはじめ、その周辺の町や村は大きな被害を受けました。台風は陸上だけでなく海でも猛威をふるい、甚大な被害をもたらしました。この夜、函館湾内では幾隻もの船が荒れ狂う風と波の直撃を受けて座礁転覆し、多くの人々が尊い生命を失いました。

  当時の青函連絡船「洞爺丸」は、最新鋭の連絡船で、スマートで美しい船体をしていたので「海峡の女王」と呼ばれていたそうですが、その洞爺丸が大型の台風が近づく函館港を出港、青森へ向かおうとしていました。50年前は今と違って気象衛星などなく、観測体制は不十分でした。このため、北海道に接近しつつあった台風の位置、大きさ、速度を正確に知ることはできませんでした。そのため、船長は判断を誤り、「洞爺丸」を出航させてしまったのです。

  出帆を遅らせたものの、風波は高く、港内にあることは危うくなり、港外に出たのですが、高波のためにそれ以上進むことが出来ず、一時投錨することになりました。そして、やがて午後10時半頃、船内放送で乗客全員に救命胴衣(Life jacket)の着用指令が出されました。船に乗り合わせた人々は数時間にわたって恐怖にさらされることとなりました。船は大波にあおられ、乗客はパニックに襲われました。その船客の中に、アメリカから日本へ伝道のために来ていた宣教者ディーン・リーパーという若いクリスチャンと、カナダから日本に来ていた宣教者のアルフレッド・ラッセル・ストーンさんがいました。その背後に明らかに神の摂理があったことは否めません。

  船内はパニック状態で、急に騒然とした雰囲気になり、約1000人余りの船客は、恐れと慄きでわななきながら、懸命に救命胴衣を身に着けようとしていました。ストーンさんとリーパーさんは、あわてたり、泣き叫んだりする乗客をなだめ、励ましつつ救命胴衣の着用の手助けをしてやりました。その中で、一人の少女が自分の救命胴衣の紐が切れて、着けられなくなって泣きそうになっていたのですが、それを見たリーパーさんは、急いで自分の身に着けていた救命胴衣を外しながら、冷静沈着に「私よりもあなたの方が若い。これは、あなたが着けるべきです。私は泳ぎも出来るし、安心しなさい・・・・」と、手早く、その少女に救命胴衣を着けさせたのです。何と驚くべき愛でしょう。

  「洞爺丸」は、風速50メートルを超える暴風と高さ10メートル近い荒波に翻弄され、ついに座礁し、間もなく、ドーンと鈍い音を立てて船は転覆してしまいました。この海難事故で亡くなった死者の数は1155人、海難史上2番目といわれるほどの大惨事になったのです。助かった人はわずか160名ほどで、事故から2日後にストーンさんの遺体が、それからさらに後にリーパーさんの遺体が発見されました。多くの犠牲者は救命胴衣を着けたまま亡くなっていたのに、この2人は救命胴衣を身に着けていませんでした。2人とも自分の救命胴衣を日本人に譲って死んでいったのです。しかし、船内で、リーパーさんの救命胴衣を着けてもらったその少女は、奇跡的に命が救われたのです。

  この話は、後にあの時に自分を助けてくれた宣教者がリーパーさんだったことを知って、この少女の証言によって明らかになったのであります。 2人の外国人の愛の行為は多くの人々に深い感動を呼びました。亡くなった時、ストーンさんは52才、リーパーさんは33才の若さでした。リーパーさんはは、愛妻と4人の子供さんを遺して亡くなったのです。キリストの十字架の愛を身をもって示し、日本人の生命を救ったという話は、その後も人々の間に語り継がれています。

●「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネの福音書15:13)。

●「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 」(ヨハネの第一の手紙3:16)。

●「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への手紙5:6~8)。


  ストーンさんとリーパーさんは、確かに見ず知らずの他人のために自分のいのちを犠牲にしてまで、人々のいのちを救ったすばらしい人に違いありません。しかし、私がこの話を書いたのは、この2人の偉業を讃えるためではありません。それよりも忘れてならないのは、イエス・キリストの十字架の身代わりの死であります。イエス・キリストは、あなたや私、そして世界中のすべての人々の罪のために十字架上で身代わりとなって死んでくださった救い主なのであります。この尊い救い主を信じて永遠のいのちをご自分のものとなさいますようにお勧めいたします。

   ★.。.:*・゜`☆.。.:*・゜`★.。.:*・゜`☆.。.:*・゜`★  

★すべての人のために

2005-10-13 | 「信仰と救いについて」



   私は、バスという乗り物が好きです。特に、昔のあのボンネットが前に突き出たかたちのバスが田舎道を走るのを懐かしく思い出すことがあります。子供の頃、塩狩峠の近くに住んでいたので、家のすぐ近くにバス停があり、街(和寒町)まで、買い物や用事を親に頼まれてよく利用したことがあります。バス停に停まる度に、いろいろな人が乗ったり降りたりするのですが、腰の曲がったお爺さんもいれば、買い物に出かけるお母さん、仕事帰りのお父さんもいます。お母さんに手を引かれた小さな子供も乗って来ます。

  乗客の一人一人の表情を見ていると飽きることがありません。田舎のバスは、定刻に来ることもあれば、遅れて来ることもあり、のんびりしていました。昔のバスは車掌が乗っていましたが、今はほとんどワンマンカーになってしまいましたね。現在住んでいる市にもバスが走っていますが、最近は、自家用車をよく使うのでバスに乗る機会がほとんどなくなってしまいました。ところで、英語のバス(Bus)は、元々はラテン語のオムニバス [omnibus](乗合自動車)から来たもので 、これは 「すべての人のために」という意味があるのをご存じでしょうか。

  確かにバスはすべての人のためにその定められた路線を走っています。「あなたはこのバスに乗ることができませんよ!」と、特定の人を差別したり排除されることはありません。お金さえ払えば誰でもそのバスに乗車することができるのです。立派な紳士でなくても、野良着を着た農夫や作業服を着た労働者であっても、服装や身分などに関係なく、自由に乗降することができます。しかし、バスはすべての人のために走っているのですが、そのバスに乗らなければ、目的地に行くことができないのは当然のことです。
 
  ところで、あなたは神様がすべての人のために用意してくださった「バス」のことをご存じでしたか。イエス・キリストはすべての人を救って天国にまで運んでくださるために神様が遣わしてくださった御方なのです。これは、本当にすばらしいことです。街の路線を走るバス(Bus)は、乗るためにお金を払わなければなりませんが、天国行きのバス(乗合自動車)は、善行を積んだ人や、修業を重ねた立派な人や、宗教家や、身分の高い人とか、そんなことには一切関係なく、どんな貧しい人でも、どんな極悪な罪人でさえも、一円もお金を払わずに無料で乗れるのですから、これは本当にあり難い話ですね。これが、キリスト福音(うれしいニュース)なのです。
 
●「‥‥というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人(キリスト)がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(Ⅱコリント人への手紙5:14、15)。

●「イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」(ヘブル人への手紙2:9)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。 」(ローマ人への手紙1:16)。

●「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」(テモテへの第一の手紙2:4~6)。


  愛なる神様は、私たち「すべての人のために」ご自身の御子イエス・キリストを救い主として遣わしてくださいました。これはとても大きな神様の愛による犠牲のみわざです。御子イエス・キリストは十字架に架けられて、私たち罪人のために身代わりに死んでくださり、三日目の日曜日の早朝によみがえられた方なのです。そして、そればかりではなく、神様は「すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられる」方なのです。

  神様が用意してくださったバスの名前は「キリスト福音号」です。乗車のためにお金を払う必要はありませんし、何の代価も必要ではありません。神様は無料でこのバスを用意してくださったのです。そして、このバスの行き先には「天国行き」と書かれてあります。天国以外のところに連れて行くことがありません。そして、このバスに乗ると途中下車はできません。天国に直行するのです。

  この天国行きのバスは、今日もあなたのために走っています。バス停に佇んでいるあなたが、開いたドアから乗り込もうとせず、神の愛を拒んでおられないでしょうか。あなたが救われるためには、神様が用意してくださった天国行きのバスを信じて、運転手(キリスト)にすべてをゆだねて、それに乗り込む必要があるのです。どうぞ、あなたも救われるためにその勇気を持って下さい。イエス・キリストをどうぞ、信じて救われて下さい。
 
          

★人間の知識の限界

2005-10-06 | 「神の存在について」



●「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。 」(Ⅰコリント8:2)。
 
  人間は、ある一つの知識を持つと、知らず知らずのうちに自分は何か他人よりすぐれているような錯覚に陥ってしてしまう存在ではないでしょうか。私たちは、しばしば「この目で見なければ、信じられない。」ということばを聞くことがあります。しかし、一人の人間がどんなに世界中を廻って、いろいろなものを見たり聞いたり勉強したりして見聞を広めても、そこには必ず限界というものがあります。人間の目は確かにすばらしく出来ていますが、すべてのものを見ることができるわけではありません。人間の持っているすべての器官には限界があり、能力にも限界があります。目と同様に耳もそうであります。私たちの耳はどんな音でも聞くことができるわけではありません。ある限られた周波数の音しか聞くことができないのです。
 
 たとえば、昆虫のトンボや海中を泳ぐ魚の目は、かなり広角に見えるらしいですが、人間の目で見える範囲は、360度に対して120度くらいだと聞きました。そういう意味においては、人間の目はトンボより劣っていると言えるかもしれませんね。また、あまりにも速度(動き)が早すぎるものや、遅すぎるものも(その動きが)見えませんし、あまりにも大き過ぎるものや小さ過ぎるものも見えません。それでも、人間は「私はこの目で見るものしか信じない。」という人がいます。そして、いろいろなものを見たり聞いたり学んだりしながら成長し、ある年齢に達すると、その限られた知識の中で自分の思想や人生観や哲学を持つようになるのです。

 そして、ある一つの知識を持つとそれだけが正しいと思い込み、その虜(とりこ)になってしまうのであります。ここに、人生の落とし穴があるのではないでしょうか。その人は他の人の話に耳を傾けなくなるのであります。この世の中には多種多様な考え方がありますが、絶対を振りかざす権利はどこにもありません。若い頃、人生の先輩に「客観的にものを見なさい。」と、よく言われたことが何度かありますが、たとえ、客観的にものを見たとしても、あるいは見る角度を少し変えたとしても、それが人間の目で見るのであれば、やはりそこには限界があり、これが唯一正しいものであるとは言い切れないのであります。たとえ、視点を変えても、人の目から見たものでありますから大差ないのです。

 しかし、絶対的な権威を持って人生のすべてに解答を与える唯一の書物があります。すなわち、それは「聖書」(BIBLE)であります。「聖書」は人間的な目ではなく、全知全能なる神(創造者)の視点から、記されている永遠の真理の書であります。ですから、100%間違いのない書物であります。パウロが聖霊に導かれて書いた冒頭の「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。 」という聖句は、人はどんなに知識を蓄えても、私たちは、神の前に謙虚になる必要があることを教えているのではないでしょうか。ですから、自分が見聞して得た僅かばかりのスプーン一杯ほどの知識で「神の存在」を否定してしまうのは、実に愚かなことであると言わざるを得ません。次の聖書のみことばは厳粛であり、事実そのとおりなのです。
 
●「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行なっている。善を行なう者はいない。 」(詩篇14:1)。

 何度も繰り返しますが、私たちが得た僅かばかりの知識で「神はいないのだ」と結論を出してしまうことはあまりにも早計であり、決して賢明であるとは言えないのであります。大分以前のことですが、某新聞の投書欄に次のような主旨の記事が書かれてありました。「私は無神論者だ。私は神を信じない。この宇宙の存在も神によるものではない。これは、偶然に出来たもので、またやがて存在するすべてのものは消えて行くであろう。人間はある瞬間は存在し、また、次の瞬間には消えて行く蜻蛉(かげろう)のようなものだ。」と。そして、彼は最後に「しかし、この思想は淋しい。」と、この文章を結んでいるのであります。もし、みなさんの中に彼と同じ考え方や人生観を持っておられる方がおられるとしたら、それはあまりにも淋しい思想ではないでしょうか。

 宇宙の存在を考える時、現代の進化論には、多くの矛盾があることが分かります。「ゼロ」から宇宙は存在しません。したがって、現代の進化論者は、初めを「ゼロ」としないのです。エネルギーか、微粒子か何かが宇宙に存在したところから始めざるを得ないのであります。とすると、その最初のものは、どうして存在したかを説明しなければならないのですが、それを説明し得ない矛盾があります。現在、地球の周囲には、2万個近い人工衛星が遊泳していると言われています(正確な数字は分かりません)。そして、人間は宇宙や地球について多くの知識を持つようになりました。また、コンピューターの技術も驚くべきものがあります。現在の卓上で使うパソコンの機能は、以前であれば四階建てのビル一杯になるだけの機械がなければ計算できなかったものだと言われています。

 しかし、現代の多くの人は、科学によって人間を無限に幸せにするかのように考えている人はほとんどいないと思います。科学は決して人間の罪や死などの根本的な問題を解決することはできないのです。科学の進歩は決して人間を救うことはできないのであります。人間の脳は、140億に上る細胞から出来ています。その一つ一つが記憶装置の役割を果たしていて、人間が作り出したどんなコンピューターも及ばないのであります。人間の脳の記憶量は、「100万の記憶素子を持つコンピューターの一億台分ほどもある」と聞いて驚いていしまいます。そして、現に活動している人間の脳の構造と機能は、まだその2%ぐらいしか分かっていないのです。人間は自分の脳のことすら、これくらいのことしか知らないのです。

 ですから、人間は自分自身のことですら、まだほんの少ししか知らないのです。その僅かな知識で神の存在を否定することは決して賢いこととは思われません。ですから、かつての謙虚な科学者の多くは神の存在を認める敬虔な人たちであったのです。彼らは、謙虚に真理を探究したのであります。たとえば、ガリレオや、地動説を体系づけたコペルニクス、惑星の運動を研究したケプラー、そして著名な物理学者ニュートンなど、みな創造者(神)の存在を認めた敬虔な人たちであったのです。彼らは、自然界の背後にあってそれらのすべてを貫いている神の美しい秩序と法則があることを認め、また、それらを読み取ることこそ神に仕える道であることを確信していたのであります。創造者の存在を知ることは、人間が最初に知らなければならない知識であり、人が生きるための知恵なのです。

●「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟り(知識)にたよるな。 」(箴言3:5)。

●「主を知ることは知識の初めである。」(箴言1:7)。

●「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14:12)。

●「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Ⅰコリント人への手紙1:18)

 
 どうか、あなたも人間の知識にも、経験にも、能力にも限界のあることをお認めになられて、謙虚に神の存在を神じるところから始めなければ、人生の根本的な問題も悩みも何一つ解決し得ないことをお知りになられますように。人間の知恵によっては、愚かに見える「キリストの十字架の福音」のことばにこそ、人間の真の救いがあることを、どうかお知りになってください。

 □■☆★☆□■☆★☆□■☆★☆□■□