聖書から人生を考えよう

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★四つの福音書について

2007-08-04 | 「聖書について」

  暑中お見舞い申し上げます。みなさん、お元気でお過ごしでしょうか。 
さて、最近聖書を読み始めたばかりの一青年から、次のような質問のメールをいただきました。「新約聖書の初めに、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書という四つの福音書がありますが、どうして、福音書が一つではなく四つあるのですか?それから、四つの福音書の内容で、互いに矛盾すると思われる記事もあるように思いますが、これをどのように理解したらいいのでしょうか。」というようなご質問の内容です。できるだけ難しいことは省いて、自分が理解している範囲内で、できるだけ簡潔にお答えしたいと思います。

 適切かどうか分かりませんが、一例を挙げますと、私たちが、家族や友人の一人を他人に紹介する場合、いろいろな紹介の仕方があると思います。例えば、その人の職業や職場における仕事の内容、その人の家柄や生い立ち、その人の人柄とか性格的な面、または何かの特別な能力や趣味など、いろいろな側面がありますから、紹介の仕方も人によって当然違って来ると思います。四つの福音書は、それぞれ、取税人、医者、漁師など職業の違う四人の記者によって、イエス・キリストのご生涯を記録したものですが、同じ出来事でも、類似している表現の箇所もたくさんありますが、全く同じ表現で書かれている箇所は、ほとんどありません。また、四つの福音書は、それぞれ違う視点からイエス・キリストのご生涯を紹介しているのです。

 また、「四つの福音書の内容で、互いに矛盾すると思われる記事もあるように思いますが、これをどのように理解したらいいのでしょうか。」とのご質問にお答えしたいと思います。これも、例えて申しますと、どこかである事件が起こった場合に、四人の新聞記者が現場に駆けつけ、取材した場合に、その四人の記者の記事が、一字一句全く同じ表現で、内容も全く同じということはまず考えられないことです。それぞれの記者は、その事件を記事にする場合、どこに強調点を置くかは、微妙に違って来ると思います。同様に、四福音書において矛盾と感じられる箇所も、けっして矛盾ではなく、それぞれの記者の強調や視点が違うということが言えるのではないかと思います。それでは、四福音書を、それぞれ比較対照して、それぞれの特徴などを見てみましょう。
 
【1】マタイの福音書について。
(1)記者は、取税人マタイです(9章9節)。当時、取税人という職業は、ローマ政府から、ユダヤ人から税を取り立てる仕事のために使役されていて、同胞のユダヤ人からは、売国奴のように言われて嫌われていたのです。マルコ2:14では、マタイは「レビ」と呼ばれています。彼は、主イエス様から、「マタイ」と名づけ直されたようです。取税人という侮蔑的名称が、「神の賜物」を意味するマタイという使徒的名称に変えられたことはすばらしいことです。
(2)この書の使命:「メシヤ、また王としてのキリスト」を表すことです。
(3)このマタイの福音書は、元来は特に「ユダヤ人」が用いるために書かれています。それで、この福音書には、しばしば、旧約聖書からの引用が多いのはそのためなのです。
(4)この書の特徴の一つは、「成就」という語が度々出て来ることです。旧約聖書の預言がキリストによって成就したことを示すために、旧約から引用されている聖句は、60箇所以上もあります。
聖書を初めて、手にして、「さあ、これから聖書を読むぞ!」と意気込んで、読み始めたものの、冒頭からイエス・キリストの系図なるものが、長々と書かれていて、手鼻をくじかれた気分で、うんざりしてしまう方も多いと思います。でも、これも、旧約聖書のメシヤについての預言の成就として書かれているもので、どうしても欠かせないものなのです。
(5)ですから、ある人たちが言っているように、四福音書に不一致や不調和というものはありません。それぞれが、特殊な目的のもとに書かれているのです。それぞれ異なった方面から主イエス・キリストを描写しているのです。繰り返しますが、マタイの福音書は、「王としてのキリスト」を描いているのです。

【2】マルコの福音書について。
(1)この福音書の記者は、使徒の一人ではなく、使徒の同労者の一人であったマルコによって書かれています。彼は、使徒12:12にあるように、マリヤ(新約聖書には数人のマリヤが出て来ますから混同しないでください)の息子であって、ある程度豊かな生活をしていたと思われます。彼は、幼名をヨハネと言い、のちにマルコと改名したのです。彼は、使徒ペテロに導かれて、回心した者と考えられています。彼は、ペテロの道ずれとなって、その語ったところを記録したのです。マルコは、恵まれた環境の中で、慈愛深い母のもとで温室の花のように育ったのですが、厳しい困難に会うと挫けてしまうところがあったようです。パウロの伝道旅行に随行したのですが、その困難に耐えることが出来ず、伝道の第一線から退いて、エルサレムの母の家に帰ってしまったのです(使徒13:13)。その間の消息は不明ですが、マルコは、もう一度、主の憐れみによって信仰が回復させられ、その尊い働きに用いられたのです。主は、一度失敗した者をも、さらに砕いて用いてくださるのです。もし、主が彼を再び、彼を立たせてくださらなければ、今日の「マルコの福音書」もなかったことになるのです。
(2)この書の使命:「神の僕(しもべ)としてのキリスト」を表すことです。
(3)この書は、元来ローマ人のために書かれたものと信じられています。ですから、旧約聖書からの引用が、きわめて少ないことに気づきます。ユダヤ人の言語が説明されています(3:17。5:41。7:11、34。14:36)。
(4)この書の鍵になることばは、「すぐに」「ただちに」(翻訳によって多少、表現が異なります)ということばが頻繁に出て来ます。1章だけでも、10回くらい出て来ます。それは、何故かと言いますと、僕(しもべ)は、休む暇もなく、主人の御こころを行い、その命令を忠実に実行することにあるからです。
(5)この書の特徴は、いろいろありますが、「系図」がないことです。僕(奴隷:slave)には、系図は必要ありません。マタイでは1章に、ルカでは、3章にキリストの系図が書かれています。また、誕生と幼少の頃の記録が全くありません。もちろん、これらは重要な事柄ですが、僕を述べるにに必要なものではありません。神の子イエス・キリストであり、「神のしもべ」であるお方は、1章の冒頭から休みなく働いておられる姿が出て来るのは、印象深いことです。

【3】ルカの福音書について。
(1)この福音書の記者は、ユダヤ人ではなく異邦人であり、ギリシャ人であったと思われます。ルカは教育のある人で、医者を職業としていました。彼がパウロの同労者として最初に記されてあるのは、使徒16:10です。ルカは、一人の医者として、人間を温かい目で見ていることを示す箇所が随所に出て来ます。この福音書の記者ルカは、「使徒の働き」と共に、最初は、たった一人の友人テオピロに宛てて、書いたのです。たった一人の人間のために、彼は多くの時間を割いて、綿密に調べてこれを書き上げたのです。
(2)この書の使命:「完全な人間としてのキリスト」を表すことです。ルカは、キリストの神性について語ると同時に、キリストが人間であることを力説しています。この福音書に示されている主のご性格は、きわめて人間的であり、「神の子」であると同時に、「人の子」であったのです。
(3)4章1~13節にあるように、悪魔の誘惑を受けられました。「罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)とある通りです。ですから、イエス様は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。どうか、この大切な真理を肝に銘じて記憶してください。
(4)ルカの福音には、イエス様が御父に祈られた姿が、他の福音書に比べて、頻繁に出て来ます。主が、そのご生涯において、すべての時間を神に対して、絶対的な信頼をおいて生きられたのです(3:21、5:16、6:12、9:18,29、11:29、22:41~44)。主イエス様は「祈りの人」であったのです。
「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ、切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」(22:44)。この時、すなわち、ゲッセマネの園における祈りの時、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけたのです。ここにも、人間としてのイエスが十分に示されています。 

【4】ヨハネの福音書について。
(1)この福音書の記者ヨハネは、漁師であったのです。多分、漁師の親方の子であったと思われます(彼の父には、雇い人がいました。マルコ1:20)。その母サロメは、財産をささげて主に仕えた婦人たちのうちの一人です。この事実と彼がエルサレムに自分の家を持っていたということから考えて、彼がかなり豊かな暮らしをしていたことが明らかです。ヨハネの性格は、気性が荒く、せっかちで、気が変わりやすい人であり、「雷の子」と呼ばれたのですが、主の恵みによって変えられ、思慮深い愛の使徒に変えられたのです。ライオンが羊のようになったのです。これは、主の恵みのみわざです。
(2)この書の使命;「神の御子であるキリスト」を表すことです。
このヨハネの福音書は、霊感によって書かれた書簡の中では、最後のもので、書かれた時は、主が昇天してから、50年は十分に経過していました。この書は、聖書の中では、最も奥行きを持ったものであると言っても過言ではないと思います。ヨハネは、主の使徒たちの中では一番長命だったのですが、彼は、福音書の他に、ヨハネの手紙Ⅰ、Ⅱ、Ⅲと、ヨハネの黙示録を書いていますが、主が彼の長命は、そのための主のご計画であったのではないかと思われます。
(3)この書の鍵のことばは、「信じる」ということばです。多分、私の記憶違いでなければ、100回前後、「信じる」ということばが出て来ます。
一体、何を信ずべきなのでしょうか。それは、人であるイエス・キリストの神性を信じることです。
(4)この福音書には多くの特色がありますが、この書には、キリストがなされた奇蹟(神の御子としてのしるし)の中から、7つだけ選ばれて記録されてあり、それぞれにみな霊的な意味があります。それらがキリストの神性を明らかに示していることは確かです。
(5)他の三つの福音書は、一般的には「共観福音書」と呼ばれていますが、このヨハネの福音書は、それらの福音書と比べて、内容が深く霊的で特別な福音書と言えるかもしれません。いずれにしても、この書が書かれた目的は、はっきりと書かれています。

●「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネの福音書21:30,31)。 

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。


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