私たち人間が、この世に生まれて来る出産の模様は、だれでも大体同じと言ってもいいのではないかと思います。約280日間母親の胎内で、成長を続けた胎児は、陣痛と共に娩出され、「オギャ~!」と産声を上げてこの世の仲間入りをします。仮死状態で生まれる場合を除き、正常分娩の赤ちゃんの生まれ方は、大体同じであります。
それに比べて、人間の死に方はなんと千差万別ではないでしょうか。安らかに大往生を遂げる人もあれば、七転八倒の苦しみのあとに、死を迎える人もあります。また、交通事故で急死する人もあれば、癌のように徐々に死に至る場合もあります。死ぬ年齢によっても、死はその人にとっても、また、家族の人にとっても、かなりの差を生じます。たとえば、90歳の老人が老衰のために死ぬのと、働き盛りの一家の主人が癌で死ぬのとでは、家族に与える影響もかなり違ってきます。
人間、医者であっても、みなと同じように病気に倒れることがありますし、死を免れることができないわけです。肺癌になった50代の国立病院の内科医が、見舞いに来た同僚に言ったそうです。「人間であることって、辛いですね。みな死ななければならないのですから。」。この言葉を聞かされたその人は、死を覚悟された先生の気持ちを思い、言葉に詰まったと述懐していたそうです。
どなたの人生にも最後は死をもって終わるわけですが、もう何年も前のことですが、「生命とは何か」を最も深く考える職業は何かという問いを約2,000人の医師にしたたそうです。
その結果は、①医師:49.3%、②宗教家19.3%、③哲学者15.8%であったそうです。
そして、「医師が生命を強く意識する時は?」の問いには、①患者が死亡する時:50.9%、②生命が誕生する時:34.7%、③闘病の姿を見る時:30.7%、‥‥などとなっているそうです。
人が死んで行くのを見る時に最も生命を強く意識するというのは、頷けることであります。「命」は神のものであり、人間の力の及ばない領域のものであります。ですから、人間は生命を与えておられる神の前に恐れの心を持たなければならないのであります。人に命を与え、生かしておられる絶対的な主権者は創造者なる神であります。
そして、大切なことは、人は死んですべてが終わりなのではありません。肉体は滅んでちりに返っても、人間のたましいと霊は永遠に存在するのです。そして、死後において私たちに命を与えて生かして下さった神の前に出なければならない時が必ず来るのであります。聖書には、次のような厳粛なことばが書かれており、死に備えるようにと、警告しておられます。
●「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。‥‥神は善であれ、悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」(伝道者の書12:7,14)。
●「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」
(ヘブル人への手紙9:27)。
●「あなたは、あなたの神に会う備えをせよ。」(アモス書4:12)。
そして、神は聖なる方であると同時に愛の神ですから、死後の恐ろしいさばきから救われる道もすでに用意されておられるのです。イエス・キリストは、約2,000年前に、全人類の救い主として、この世に下って来られた神の御子であり、33歳の時に私たち罪人の身代わりとなって、十字架に架かられ死なれたお方であります。そして、死後三日後に復活され、死を征服された御方なのです。
●「この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」 (使徒の働き4:12)。