聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★あなたの若い日に神を!

2007-09-15 | 「聖書と人生」


        

●「あなたの若い日に、あなたの創造者(神)を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』という年月が近づく前に。」(伝道者の書12:1)。

最近、考えさせられていることの一つは、現代の多くの若者たちに、「生きる意味が分からない。」「生きることに疲れた。・・・・」「明日への希望がない。」「この世から消えてしまいたい。」「死にたい。」などのことばが、ネット上でも氾濫していることであり、今の若者が直面している大きな問題は「生きる意味の不況」ではないでしょうか。 一部屋に一台テレビがあるような暮らし。 一家に何台も車があるような暮らし。インターネットや携帯電話で、世界の情報をリアルタイムで瞬時に得ることができる便利な社会。しかし、 それはこの地球上の一握りの人たちにのみ許された豊かさなのです。 そして、現代の文明と文化的な生活は、必ずしも彼らに幸福と満足を与えているわけではなく、それとは裏腹に彼らは生きることの空しさを感じているのです。

 今、私たちの社会を襲っている問題の本質とは何なのでしょうか。それは「生きる意味」が見えないということではないでしょうか。 今、日本の社会のいたるところで起こっているのは、「生きる意味」の雪崩れのような崩壊ではないでしょうか。なぜ自分が生きているのかが分からない。 生きることの豊かさ、何が幸せなのかが分からない。 その崩壊がまず目に見える形で現れているのが 若者の危機ではないでしょうか。 若者だから「夢」がある、若者だから「生きる活力」に満ちているといったイメージは 既に過去のものとなったとう人もいます。 現代の若者には覇気や意欲がなく、無気力になっています。いつも疲れているように見えます。「なぜ生きているのか、意味が分からない。」 そういった若者が日本中にあふれているのが現実なのです。

 若者だけでなく、小学生のような児童も、言葉で表せない空しさと孤独を感じて、心で叫んでいます。学校で勉強する意味も、生きることの意味も分からず、疲れているのです。ある本の著者は、小学校二年の女の子の次のような遺書のことを紹介しています。「ママ、パパへ。わたしは 生きていてもいみのない人げんです。わたしがいきていても みんながこまるだけです。 ママ、パパ。長いあいだおせわになりました。 なにもいわず、わたしをしなせてください。 ・・・・・・。」。 私が住んでいる街でも、近年女子児童がいじめが原因で自殺してしまいました。そして、親や学校の先生たちや友だちにも幾通もの遺書を書いて自殺したのですが、その遺書はとても痛々しいものです。その少女を大人が誰も助けることが出来なかったことを思うととても残念で悲しく思います。

 自殺の増加と低年齢化に、世の中の大人たちも戸惑っているようです。科学や医学などは、確かに急速に進歩しているのですが、 人類の闇はますます深まっていると言えるのではないでしょうか。 「強く生きなさい。」と励ます本が相次いでベストセラーになっているそうですが、それらの本は「生きていても何の意味もない。」と考えている若者に対して、一体、どんな説明が用意されているのでしょうか。「強く生きなさい。」「しっかり生きなさい。」と連呼しても、 若者たちの耳には空しくこだまするだけではないでしょうか。殺人、自殺、暴力、虐待などは、 「一体、生きる意味はどこにあるのか。」 「苦しくとも、生きねばならぬ理由は何か。」 と必死に求めても知り得ぬ、深い闇へのいらだちが 生み出す悲劇ではないかと言う学者もいます。

 人が生きて行くためには、多くの悩みがあり、苦しみがあり、幾多の逆境と試練を通らなければなりません。 これら諸問題の根底にある「人生の意味と目的」と「生命の尊厳」が明らかに示されない限り、どんなに対策を講じようとしても水面に描いた絵のように空しく感じられるのではないでしょうか。「人生に目的はあるのか。」「生きる意味は何なのか。」 だれも、その質問に答えることができないのです。教育の現場は荒れており、学校の先生でさえも、生きる意味を教えることができないで悩んでいます。これは、教育界における最大のテーマでもあるのです。学校で、生きる方法や術(すべ)を教えても、「人が生きる意味」を教えなければ、人生においてそれが何の意味があるというのでしょうか。

 人類は、この問題の答えを見出さない限り、ますますこの深い闇の中に入って行く以外にないのです。では、政治の力によって、この「難問」に対する答えを与えることができるでしょうか。その答えは「NO!」です。児童や青少年の健全な成長や、青少年犯罪の防止のために、国でいろいろな法律を作って、多くの子供たちを十把一絡げにして道徳や生きる術(すべ)を教えようとしても、一人一人が「生きる意味と目的」が分からなければ、真の意味で、政治の力で「美しい国」を造ろうとするすべての策は徒労に終わるでしょう。これは、日本だけの問題ではなく、世界のどこの国でも直面している問題なのです。また、これは、若者だけの問題ではなく、老若男女、すべての年代の人たちが考えなければならない深刻な問題なのです。

 「私は、何のために生まれて来たのか。」「生まれて来なければよかった。」「私がいるだけ、みんなに迷惑。」と思って日々、葛藤しながら生きている青少年がいっぱいいます。それだけ、いろんな悲しみや苦しみが世界にあふれています。現実は経済的に富める国の人も、貧しい国の人もそれぞれの苦しみをかかえて生きています。アメリカでは、他殺よりも自殺のほうが多く、殺人によって亡くなる人の1.7倍の人が自ら生命を絶っているそうです。世界保健機関によれば、2.000年には100万人が自殺しています。日本では、年間自殺者が3万人を越えています。現実にはその10倍とも言われる自殺未遂者がいるため、毎日1.000人からの日本人が自殺に追い込まれていることになるのです。交通事故の年間の死者数が6.000人台であることを考えると、これは異常な数字ではないでしょうか。

 潜在的に自殺願望を持った人も多くいますが、昨日まで幸せの絶頂にいたと思われていた人が突然の不幸で、今日自殺することだって珍しいことではないのです。人生に「意味と目的」を見出せず、挫折したり、不幸な境遇に遭うとその困難を乗り越えて生き続けることが出来なくなってしまうのです。自分だけはそういうことにはならないと言い切れるでしょうか。どんな逆境に遭遇しても、「生きるのはこのためだ!」という明確な目的を持っているでしょうか。あなたご自身も周りの人たちも、いよいよ追い込まれて、初めて生きる目的を探すのでは遅過ぎるのです。苦しみに耐え切れず自殺してしまう方が多いのです。「生きる目的」など、そこまで深刻に考えなくてもと思っておられる方も、肉体的にも精神的にもまだ元気な時に真剣に考えていただきたいのです。

●「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)。

●「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」(箴言1:7)。

●「神はこのように、人をご自身のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)。


 人生の真の意味を問うこれらの問題の解決は、聖書の中にあります。「生きる意味は何か。」の深刻な問題の解決は、目先の表面的なことでは不可能なのです。この世の中のあらゆる問題の解決のためには、人間の”原点”に帰らなければなりません。あなたが、もしワイシャツのボタンを掛け違えたならば、最初から掛けなおす必要があります。途中から、掛けなおしても問題は解決しません。聖書を読んで初めて、その人生の暗い闇の中に光明が差し込んで来るのを悟ることが出来ます。時計は時間を計るためにあり、椅子は人がそこに座って休むためにあり、家は人が住むために作られます。学校の教育で教える進化論は、あたかも科学的であり、事実であるかのように、大部分の人たちが考えていますが、全く非科学的であり、非理性的であることを覚えて下さい。人間は、偶然に出来た産物ではなく、創造者(God)によって造られた存在なのです。造られた存在であれば、当然、そこに創造者が与えた意味があるのです。

 「人生」とは、「人が生きる」と書きます。ですから、「人とは何か」「人間はどこから来たのか」というその人間の原点に立ち返らない限り、人生の意味も分からないことになります。人間は神によって造られ、生かされている存在です。しかし、人類の始祖アダムは神の掟を破ってしまったのです。でも、愛なる神は人類が今日まで神に反逆し、神に背を向けて自分勝手な道を歩んで滅びに向かっているのを哀れんでくださり、ご自分の御子イエス・キリストを救い主としてお遣わしくださいました。この御方が十字架で私たち罪人の身代わりに死んでくださったのです。この神の御子イエス・キリストを自分の救い主と信じる者は救われ、永遠のいのちを受けることができます。そして、いつくしみに満ちた神は疲れてきっている若者をも招いておられ、真の平安を与えてくださるのです。 

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11:28)

 
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★老後への人生設計

2007-07-25 | 「聖書と人生」

      

●「まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。‥‥私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るので。 ‥‥それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうし て私たちに知恵の心を得させてください。」(詩篇90:4~12)。 
  
 旧約聖書のこの詩篇90篇は、モーセの神に対する祈りのことばですが、ここには、永遠の神の前には、人間の一生とは何と儚いものであるかということが記されています。永遠の神の前には、、千年でさえも一瞬のうちに過ぎ去ります。また人生を花に譬えていますが、花はどんなに美しく咲いても、必ず枯れてしまいます。そして、枯れる時には、あっという間に枯れてしまうので、人生も草花のようであるというのです。しかし、人間と花の違いは、花は散って終わるけれでも、人間は死で終わるのではないということです。必ず、神の前に出なければならないときが来ることを教えています。

 人間は、今どんなに若く健康な人も、必ず年を重ねて、老後を迎えます。私は、幼少の頃の数々の思い出も、少年時代のことや青年時代に過ごした日々を昨日の出来事のように思い出すことが出来ます。でも、あっと言う間に、もう60代半ばを少し過ぎた年齢になってしまいました。モーセは、「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。」と言っていますが、この詩篇は、約三千年前に記されたのですが、医学が進歩した今日と当時と比較しても、人間の平均寿命は、それほど変わっていないことが分かります。ですから、「私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。」と、モーセは祈っています。

 自分の生涯の日を正しく数えることは誰にもできません。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」(伝道者の書3:2)とあります。また、「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」(箴言27:1)というみことばもあります。それゆえ、「正しく数える」とは、神が人生のすべてを支配しておられ、一人一人の人間の命を握っておられるという事実を知って、神の前に自分の罪を悔い改めて、神の救いを受けて、日々、神に感謝し、信頼して生きて行く謙虚な人生のことを言っているのです。人間は神を知って、初めて「自分の人生の日を正しく数える」ことができると言えるのです。

●「年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。」(詩篇71:9)。

●「神よ。あなたは、私の若いころから、私を教えてくださいました。私は今もなお、あなたの奇しいわざを告げ知らせています。年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。 」(詩篇71:17,18)。


 これは年老いた信仰者の祈りです。老化現象とよく言いますが、これはかなりの個人差があり、一般的には決定的なものはないようです。一応、年齢的に見ると、ある調査では、自らの老いを自覚するのは60~69歳の方で38%、80歳以上で54%、85歳以上になっても自分は中年だと思っている人が37%もいると言いますから驚きます。「老醜」ということばを聞くことがあいますが、あまり好きなことばではありません。これは、必ずしも身体的な衰えの醜さを指すのではなく、心の中にある醜さを指す場合が多いようです。残された生涯も長くないという自覚から、物へ執着が強く表われて来るものと思われます。
 
●「わたしに聞け、‥‥。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。 」(イザヤ書46:3~4)。  

 この記事は、直接には神がイスラエルの民に、偶像の神々ではなく真の神に最後まで信頼するように勧めているところですが、現代の私たちにも語っていることばです。人は、いろいろと老後の心配をしますが、ほんとうに神を信頼する人生を歩んでいるなら、老後の心配はいらないのです。人が老い、死に向かって行く時、お金は頼りになりません。真に信仰に立つ人は、老いの淋しさはあっても、物に頼ることをしないで、ただ、ひたすら神に頼り、神のために生きる人生の幸いを知っているので、益々、輝きを示して行くことができるのです。老後の孤独と不安から私たちを解放して、喜びと希望を与えてくれるのは、神様だけです。

●「彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。」(詩篇92:14)。

 神に信頼する人生の幸いがここにあります。たとえ、体は衰えても、その内側は霊的ないのちの喜びにあふれて、みずみずしく、生き生きしてしているというのです。神のために豊かに実を結ぶ、祝福された幸いな人生です。今、若い方も必ず、人は老いるときが来ます。そして、人は、若い時の生き方、心の持ち方が中脳にセットされていて、老人になった時に、それが繰り返し出て来るのだそうです。つまり、若い時の生き方が善良であれば、年老いても、好かれる老人になり、反対に意地悪で、強情、自己中心な老人は、若い時にも、やはりわがままな人生を送った人であり、若い時の生き方は、老後に必ず出て来るというのです。

 今回のテーマから脱線しますが、世界の長寿国について、ある本に大変興味深い事が書かれていました。ロシア連峰のコーカサス地区、エクアドルのアンデス山中、ネパールのヒマラヤ山中に、120~130歳の年齢の人が多いそうですが、これらの長寿の人々には、三つの目立った特長があるのだそうです。「摂取カロリーが低いこと。肉体労働に従事していること。しかも、老人は一族の長と考えられていて、人々から尊敬されていること。」だそうです。お年寄りが無価値と考えられている所では、彼らは老衰が早く、気難しい態度になり、病気にもなりやすいと言うのです。日本でも、百歳以上の長寿者の家庭は、例外なくお年寄りが大切にされていると言われています。何か、考えさせられることですね。

●「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(2テモテ4:6~8)。

 これは、青年時代にキリストを信じて、その後、生涯の間キリストの福音を大胆に宣べ伝え、信仰を全うして人の殉教直前のパウロのことばです。死を迎えようとする人の臨終のことばですが、死に対する微塵の不安も恐れもない彼の心中が記されています。彼は、信仰のために多くの迫害や試練も通りましたが、充実感に満ちて老後を迎えたことが分かります。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」(伝道者の書12:1)とありますが、若い日に、神を信じることができたら、一番幸いです。もちろん、テモテのように幼い時から聖書に親しむ機会が与えられた人は、更に幸いです。しかし、ヨハネの福音書3章に登場するニコデモのように、老人になってから、キリストを信じて救われる人もいます。

 最悪なのは、年を取っても、まだイエス・キリストを信じて救われていない方です。なぜなら、死が直前に迫っているからです。そして、聖書によれば、死後には決して救われるチャンスはないのです。どうか、一刻も早く、キリストの福音を信じて、救われ、神に仕える生涯を歩み、そして死後にも永遠に希望のある天国に入る方となって下さい。先日、北海道のHで聖書から「永遠のいのち」について語っていましたが、98歳のお婆さんが出席されていて、真剣に聖書に耳を傾けていたのを見て驚きました。あなたにも、まだ、救われるチャンスは残されています。「余生」とは、”余った人生”と書きますが、神が与えたいのちに、余った人生などはないのです。神に立ち返って、有意義で希望に満ちた生涯を全うしましょう。

●「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(2コリント6:2)。

●「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 」(2コリント4:16~18)。


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★人間は神のロボットではない

2007-07-09 | 「聖書と人生」



●「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)。

●「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたち彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)。

 
 神は、人間を土地のちりから造られたと聖書は明確に教えています。ある方はこれを神話のように言いますが、霊感によって記された聖書の記事のすべては、永遠不変の神の真理であり、私はこれをそのみことばの通りに信じています。そして、神は、ちりを取り、ご自身に似せて形造り、息(霊)を吹き込まれると人間は生きものとなったのです。ここに人間の尊厳性と共に脆弱性(もろさ)が見事に描き出されています。「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれをくださった神に帰る。」(伝道者の書12:7)とあるように、人がちりから出てちりに帰ることは聖書に書かれていますが、さらに人間の体で必要とする成分が土の中に含まれていることも、非常に興味深いことではないでしょうか。

神の「息」とは神の「霊」のことであり、人間は動物とは違い、霊的な存在として造られたのです。神の霊が与えられたことによって人は生きるものとなったのです。人が「生きる」ということは、ただ単に動物のように生存することではありません。そして、この神が与えられた霊こそが、神を敬い、神を慕い、神と交わり、神を礼拝し賛美する思いを人間の心の中に与えているのです。また、「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」(伝道者の書3:11)と聖書は言っていますが、これこそが人間にだけ与えられた神の賜物なのです。動物は、本能によっていろいろなことをしますが、人間のように未来のことや永遠のことを考えることはありません。

それでは、どうして神は人間にこの霊を与えられたのでしょうか。それは、神と人間が何の妨げもなく親密な交わりを持つためであり、これは神が人間を愛の対象(または、パートナー)として創造されたことを示しています。そして、神は決して強制的に神を敬うような人間を造られたのではありませんでした。ロボットは、人間が自分の思う通りにコントロールでき、あやつることができるのですが、神は人を創造された時に、決してロボットのようには造られなかったのです。もちろん、神はそのようなロボットのような人間を造ることは出来たと思います。もし、そうすれば、今日だれ一人として神に逆らい、神に背を向け、自分勝手な罪の生活をすることはなかったでしょう。しかし、神の英知に満ちたご計画は人間の考えに比べてはるかに勝っているのです。

では、神はどうしてそのように人間をロボットのようにお造りにならなかったのでしょうか。これは、少しお考えになればすぐに分かることではないかと思います。あなたも、私も人間はだれ一人として自分はロボットのようにはなりたくないと考えると思います。もしそうであるならば、そこには何の心の交流もつながりもなく、ただ言いなりに動く機械的な服従があるだけではないでしょうか。そうであるならば、そこには、愛情も、意志の疎通も、愛の交流も存在しないことになります。ところが、ロボットでなく人間であれば、たとえまだ物事がよく分からない幼児であったとしても、親の言うことを理解して、何かごく簡単な行動をしただけでも、親にとっては、どんなに嬉しいことでしょう。そこには、必ず、喜びがあります。

たとえ、それが大人から見たら取るに足らないことであっても、とにかくその小さな心で自分の意志で理解して、自分から行動して親の要求に応えたのです。そこにこそ、本当の心のつながりと愛の交流が生まれるのではないでしょうか。このように考えてみますと、人間でさえそうであれば、まして神が人間を造られた時、ロボットのように造られなかった理由を知ることができると思います。機械的な服従ではなく、神のみ言葉に対して、自分がどう判断して従うかを神は人間に要求され、またそれをご覧になっておられるのです。ですから、神は人に自由に選択できる「自由意志」を与えられたのです。人間は神のロボットではなく、自由意志が与えられているということは、本当にすばらしいことなのです。是非、人間に与えられたこのすばらしい特権についてお考えになってください。

ですから、人は自分の心で、霊で、はっきり真の神様のみこころを判断して、神を認め従うべきなのです。ところが、残念なことに人間はこの神を認めることも、信じることもできないくらい遠く離れてしまったのです。その上、神ならぬ神々(偶像)を作り出して、それを拝むに至っては、正義なる真の神様がその不従順な人間を、激しい裁きをもって報いられたとしても当然のことではないでしょうか。例えてみますと、もし、人間にコントロールされるロボットが隣家の玄関のガラスを割ったとします。でも、その自由意志のないロボットには、その責任を問われることはありません。しかし、自由意志を持った人間がキャッチボールをしていて、隣家の窓のガラスを割った場合は、当然責任が問われ、その償いをしなければなりません。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

●「神は善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」(伝道者の書12:14)。
 

しかし、神は正義であられると同時に愛の神であるのです。神にとって、どうしてご自分の造られた人間が滅びることを願っておられるはずはありません。一日も早く、一人でも多く救われることを望んでおられるのです。そのために、神はご自身のひとり子イエス・キリストをこの世に全人類の救い主として遣わしてくださいました。イエス・キリストは神に人を近づけるために、天から来られたただ一人の救い主です。キリストは心から人々と愛と憐れみを示され、悩める者や病める人々に救いの御手を差し伸べられ、また、盲人の目を開けたり、死人をよみがえらせたり、その他多くの数えきれないほどの奇蹟を行って、ご自身が神の御子であり、救い主であることをはっきりと証明されたのです。また、恵みに満ちたことばと共に、権威と力に満ちたことばも、数多く語られました。

イエス・キリストのなさった多くの恵み深いみわざを見て、砂糖に蟻が群がるごとくに、人々はキリストのあとに従ったのです。しかし、彼らの求めていたものは、罪と死後の裁きからの救いではなく、この世的な救い(一時的なこの世の幸福)であったのです。そして、イエス・キリストは、その生涯の最期の33歳の時に、十字架に架かって、全人類の罪の身代わりとなって死んでくださり、墓に葬られたのですが、死後三日目に復活されて墓から出て来られたのです。これは、人類の歴史上、最も驚くべき奇蹟であり、これを通して、キリストが神の御子であり、神と等しい方であることをはっきりと示しています。この御子イエス・キリストを信じる者はすべての罪が赦され、永遠のいのちを受けることができるのです。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

キリストの大きな愛があなたに強く迫っています。今日も、キリストはあなたの心に語り続けています。キリストは、ある時、ユダヤ人に向かって「ああ、‥‥わたしは、めんどりがひなを集めるように、あなたがたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、それを好まなかった。」(ルカ23:37)と言われましたが、これは現代の私たち一人一人にも語っておられる警告のことばです。神の審判がいかに厳粛で厳しいものであることを知っているからこそ、真剣に私たち神から離れている者たちを神の怒りから救おうとして招いておられるのです。どうぞ、あなたもその心の耳を開いて、キリストの招きに応じてください。

●「わたし(キリスト)は道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもと(天国)に来ることはありません。」(ヨハネ14:6)。

●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11:28)。

●「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたし(キリスト)のところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ14:6)。
 

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★真理の側に立つ決断を!

2007-07-02 | 「聖書と人生」




 ●「ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そして、ついにその声が買った。ピラトは彼らの要求どおりにすることを宣告した。」(ルカの福音書23:23,24)。
  
 人はだれでも、毎日いろいろな場面で物事を判断し、選択したり決断したりしながら生きています。しかし、人間は一生のうち右か左か、重大な決定を迫られる岐路に立つことがあります。イエス・キリストを十字架刑に処すと判決したローマの総督、ポンテオ・ピラトの場合もその重大な立場に立たされました。当時イスラエルはローマの支配下にあり、ローマ政府の派遣した総督によって統治されていました。イエス・キリストは、この地上で完全無欠の聖よい正しい生活をしていました。ですから、当時のユダヤの腐敗した宗教家たちにとっては、キリストはけむたい存在であり、彼にに対する妬みもあったのです。彼らはキリストの正義と聖よさの前には決して立ち向かうことが出来ないのを知っていましたから、策略をもって、キリストを落とし入れようと企んだのです。

 ピラトは原告のユダヤの祭司長や長老たちが口々に不利な証言を申し立てているのに、一言も弁明しようとせず、じっと立って表情一つ変えずに、狂いたけっている群集とは全く対照的な柔和な姿の被告(イエス)見て、不思議に思い、非常に驚いたことが聖書に記されています。そして、ピラトは直感的に、この人は善人であると分かったのでしょうか。ピラトは、イエスを何度調べても罪(ローマの法律における罪)を認めることはできませんでした。ピラトはイエス様の無罪を認めながらも、自分の任地であるユダヤの有力者たちの機嫌を損ねては、自分に不利になると思い、自己保身のために妥協案を出したのです。それは、「キリストと当時の評判の囚人バラバとどちらを赦してほしいか。」というものでした。それは祭りのたびに群集が願い出る囚人一人を総督が赦免する慣例になっていたからです。

 ピラトは、これならさすがの群集もイエスの釈放を要求するに違いないと考えました。バラバとは、その当時名前を聞いただけでも恐ろしがるほどの凶悪な罪人であったからです。しかし、ピラトの予想に反して、群集はバラバの釈放を求め、イエスを十字架に付けるように要求したのです。人々は全く罪のない聖よく正しいイエス・キリストではなく、罪人の中でも極悪な犯罪人を釈放するように望んだのです。イエスが罪のないお方であり、当然、十字架の刑などに処すべき方ではないと分かっていながら群集は、なおもピラトに対し、イエスを十字架につけることを要求し続けたのでした。そして、イエスを有罪者として扱い、祭りの特赦でイエスを釈放しようと考えたピラトの計画は完全に失敗しました。

 ピラトは、とうとう自分の意志に反して、イエスを釈放したいとの思いがありながら、自分の地位や名誉や立場を守るために、また、人を恐れてイエスを死刑にする宣告を下してしまいました。ピラトは、自分の利益と一致するなら喜んでこの世的な正義を行おうとしましたが、大きな犠牲や損失が伴なうなら止めるという態度を取ったのです。そして、彼がいつも自分自身に問う質問は、「私の義務は何か。正義は何か。」ではなく、「私の利害関係は何か。」であったのです。ピラトはこの事件後、間もなくあれほど執着していた地位から追放されて、やがて自殺をして果てたと伝えられています。これは、私たちに対する大きな教訓ではないでしょうか。彼の魂は永遠に救われる機会を失ってしまいました。

 しかし、一見矛盾するように見えるこの出来事の背後に真の神様の愛に満ちた救いのご計画が織込まれていたのです。つまり、イエス・キリストは、バラバの身代わりになっただけでなく、歴史上のすべて人類のの罪を負って、十字架で身代わりに死んでくださったのです。あなたは、「私はバラバのような極悪な者ではない。バラバよりは善人だ!」と考えてはいないでしょうか。聖書は「すべての人は罪を犯したので。神からの栄誉を受けることが出来ない。」(ローマ人への手紙3:23)と厳粛に告げています。神は天からこの地を見おろして「彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐れ果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」(詩篇14:3)と言っておられるのです。
 
 話は少しさかのぼりますが、ピラトは群集の激しい憎しみにたじろぎ、なすすべを失っていた時、彼の妻から使いがやって来て「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しい目に会いましたから。」(マタイの福音書27:19)と警告しました。ピラトの心はこの言葉によって、ますます当惑しました。彼は職務上、公正な裁判をすべきでしたのに、内心臆病な彼は、群集を敵に廻すことにも躊躇して、とうとう「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」(マタイの福音書27:22)と叫んだのでした。ピラトはなおも、「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」と叫んだのですが、もはや群集の声には勝てませんでした。彼は、良心の声を無視して、悪を赦して、真理を罰することに妥協してしまったのです。

●「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」(マタイの福音書27:22)

 さて、このピラトの口から発せられた「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」ということばは、すべての時代のすべての人々に投げかけられた厳粛な問いなのです。ピラトが民衆に尋ねたこの質問は、私たち一人一人に対する大切な質問でもあるのです。あなたも、私も一人も逃れることのできない重大な質問です。これは、私たちの永遠を決定する重大問題なのです。この質問に対する答え如何によって、私たちの運命が決定されると言っても過言ではないほど厳粛で、重要な質問なのです。ピラトにも良心があったのです。しかし、彼は良心に従ったのではなく、民衆の声に従ってしまいました。ピラトは最終的に、もう永遠に取り返しのつかない決断を下してしまったのです。あなたは、イエス・キリストにどのような態度を取られるでしょうか。
 
 真理を真理として受け入れることこそ、純粋な本物の信仰なのです。たとえ、自分にとって、不都合なことも不利なことも、真理はどこまでも真理です。真理とは、ものごとの真の姿を表すものです。だれも、真理を変えることはできません。また、それを覆い隠すこともできません。イエス・キリストを信じたら「出世できるだろうか。」とか、「結婚できるだろうか。」とか、「金儲けができるだろうか。」などと、打算が入って来ると、純粋な正しい信仰をもつことができないと思います。あなたの心の中で、良心の声とサタンの声が戦っています。どちらの声にあなたは従うでしょうか。あなたの罪のために十字架にかかって身代わりに死んでくださったイエス・キリストを信じて永遠の滅びから救われて下さい。どうか、あなたの目先のことではなく、永遠を考えて正しい決断をなさってくださいますように。
 
●「わたし(キリスト)は道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもと(天国)に来ることはありません。」(ヨハネ14:6)。

●「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(1コリント2:4,5)。

 
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★人が生きる目的は何か?

2007-05-30 | 「聖書と人生」



 ある大学で、一人の学生が人生に悩み、自殺を図ったことがありました。幸いにも未遂に終わったのですが、そこで一人の教授がその学生に尋ねました。「君は、なぜ自殺を図ったりしたのか。」と。

しかし、その学生は恨めしそうにその教授に、「それでは、先生は、なぜ生きているのですか?」と聞き返したそうです。その教授は、返答に困り、答えることができませんでした。「人が生きる目的と意味は何か?」。これは、人生における重要な質問です。でも、学校の先生も、生徒や学生に質問されて答えることができないのです。

人が「今」を生きることができるのは、何らかの目的と希望を持っているからです。これがないと、人は自殺するか、惰性で生きるしかないのです。小説家のヘミングウェイも、「人生には何の意味もないのだ。」と言って自殺したのは有名な話です。 

 いつの時代のことか明確ではありませんが、かつて、ギリシャにおいて囚人に対する厳しい刑罰に、次のようなものがあったと聞きました。一つの大きな桶に水をいっぱい入れてあるのですが、その水を汲んでバケツに入れ数百メートルくらい離れた場所にあるもう一つの桶に水を運び入れます。

それが終わると、また最初の桶にその水を汲み移すのです。この同じ作業を何度も何度も、往復して繰り返すのです。このような作業を繰り返すと大抵の囚人は参ってしまうのだそうです。これと大変似たような話を最近読んで、「世界には似たような話があるものだなあ~!」と不思議に思った次第です。

 昔、ナチスの囚人に対する拷問にこういうものがあったとそうです。ある所に沢山の重い石が積み上げてあります。その石を囚人に命じて、他の場所まで移動させます。 囚人たちは汗みどろになり、全力を出し切って、その石を移動させ、やっとのことで命じられた場所に運び終えます。

しかし、やっと作業が終わったと思ったら、もとの場所へもう一度運ぶように命じられるのです。彼らはその重い石をまた汗みどろになって、その場所まで運ぶのです。すると今度は、もう一度、先ほどの場所に運ぶように命じられるのです。そして、囚人たちは、この二箇所の場所を何度も往復する重労働を延々と繰り返すのです。この作業を繰り返すうちに、終いには頭がおかしくなってしまう者が続出するのだそうです。

 このような行為に人はなぜ耐えられないのかというと、いくつかの理由を上げることができます。(1)まず第一に、この作業には、何の目的もないからです。(2)この作業には、何の意味も価値もないからです。(3)また、この作業にはいつまでも終わりがないからです。

人間は、何の目的もなく、意味もないことを延々と続けることに耐えることができません。このようなことを自分の自由意志に反してやらされると、精神的におかしくなったとしても不思議なことではありません。同じ重労働でも、その石を運ぶことによって、何かの建造物を建てるとか、堤防を作るとか、明確な目的があれば、苦しくても辛くても、その労働に何らかの喜びや充足感を持つことができると思いますが、目的のない仕事を続けるのは辛いことです。

 人間、苦しいことや辛いことがあっても、その試練や困難を乗り切って、生きて行くことができるのは、何らかの目的を持っているからではないでしょうか。 しかし、その目的も、実は多くの人にとって、目先の一時的なあるいは表面的なもの、気休めににしかならないものであることが多いのではないかと思います。「○○の一流大学に入るため勉強する」。「有名な企業に就職するために‥‥する」。「マイホームを建てるためにお金を貯める」。「有名なスポーツ選手になるために自らを鍛錬し、そのために励む」。「病気をしない健康な体を作るためにあらゆる努力をする」。このようなことを書けばきりがありませんが、これらはみな人生の根本的な目的とはなり得ないものです。

 もう何年も前の話ですが、英国のある新聞が「お金とは何か。」について、その定義を募集し、最優秀作品に当選したのは、「金とは幸福以外のあらゆるものを与えることのできる万能の供給者であり、天国以外のどこにでも行くことのできるパスポートである。」というものであったそうです。お金が人生を幸せにすると錯覚して、お金を儲けるために血眼になって働く人もいるかもしれません。しかし、それは、空しい希望に過ぎません。お金で幸福を得た人は、この世に一人もいないのです。かつて栄華を極めたイスラエルのソロモン王は「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、空しい。」(伝道者の書5:10)と言っています。  

 それでは、一時的な目先の目的ではなく、人間が人間として生きる根本的な目的は何なのでしょうか。それを正しく教えるのは、天地万物を創造された真の神様だけであると確信を持って言うことができます。時計は時間を知るためにあり、家は人が住むためにあり、車は人や物を運ぶためにあるように、作られたものには必ずそれを作った人の目的があるのです。

進化論者は、人はアメーバーから進化して来た「偶然の産物」であると言います。人間が偶然の産物ならば、そこにはその存在の意味とか、目的などを問うことはできません。また、彼らは当然、その目的を説明することができません。偶然に意味などないからです。しかし、人間を創造された真の神様(God)は、聖書によって、人を創造された目的を明確に語っているのです。


●「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)。

●「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ書43:7)。


人間は、神ご自身のかたち(内面的な性質、人格など)に似せて、神の栄光のために創造された(created)のですが、人類の始祖アダムは神の前に罪を犯し、神から離れ、神に背を向けて生きるようになり、全人類は神の警告通り、罪と苦しみと死の恐怖の中に生きるようになりました。しかし、神は正義なる御方ですが、旧約聖書の中で繰り返し繰り返し、この世界に救い主を遣わされることを預言されていたように、約2.000年前に神の御子イエス・キリストはこの世に赤子として誕生され、罪なき聖よいご生涯の終わりに私たちの罪のために身代わりとなって十字架で死んで、三日目によみがえってくださったのです。

 この尊い救い主、イエス・キリストを信じる者は、神のさばきから救われ、永遠のいのちが与えられ、生きる喜びと平安と幸福が与えられ、真の希望が与えられ、人生の本当の意味と目的を持って生きることができるのです。復活されたイエス・キリストを信じて、その人生が180度変えられた使徒パウロは、次のように語ることができました。死を超越した真の希望と人生の目的を知った人のことばです。パウロにとって、人生を生きることは、漠然とした曖昧模糊としたものではありませんでした。はっきりとした目標(目的)があったのです。また、死後の世界に対しても、明確な確信と希望を持って世を去ったのです。


●「‥‥キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人(クリスチャン)が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々(クリスチャン)が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(2コリント5:14,15)。

●「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ人への手紙1:21)。

●「‥‥あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、神の栄光を現わすためにしなさい。」(1コリント10:31)。
 
●「‥‥私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(2テモテへの手紙4:6~8)。

  
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★人生の五つの”W”?

2006-10-05 | 「聖書と人生」
     
             

 日毎に秋が深まり、朝夕はめっきり冷え込む季節になりましたね・・・。ところで、どなたでも、人は生きている限り、悩みがあり、苦しみがあり、またいろいろな疑問に直面することがあるのではないでしょうか。あなたは、いかがでしょうか?今日は、人生の次の五つの質問(What? Where? Who? Why? Which?)について考えてみましょう。人生は、時々ゆっくりと立ち止まって考えてみる必要があるのです。 

【1】What?(何)
 人間は、毎日何のために生き、何のために勉強し、何のために働いているのでしょうか?人生を生きる目的と意味は何なのでしょうか?
その答えは神のことばである聖書にあります。

●「わたしの名で呼ばれるすべての者(人間)は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ書43:7)。

●「イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。 」(マタイの福音書4:4)。

●「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。」(ローマ人への手紙14:8,9)。

●「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ人への手紙1:21)。 ⇒(キリストを信じたパウロのことば)


【2】Where?(どこ)
 人間(あなた)は、どこから来て、どこに向かって歩んでいるのでしょうか?あなたは、母親のお腹の中で、わずか10ケ月で完全に出来上がったのです。人間は本当にアメーバーから進化して、偶然の積み重ねによって、今日の人間になったのでしょうか?もし、そうであるなら、あなたの体はあまりにもすばらしく出来ていると思いませんか?血液の働き、複雑な神経組織と細胞、脳の働き、内臓の働き、人間の理性や知性や感情、人間の良心とその呵責、親がわが子を愛する心・・・・etc。
あなたは、これらのことに何の疑問も感じることはありませんか?
その答えは神のことばである聖書にあります。

●「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)。

●「神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名をアダムと呼ばれた。」(創世記5:1,2)。

●「それはあなた(神)が私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。・・・・・あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう」(詩篇139:13~17)。


【3】Who?(誰)
 人間を造り、霊を与えて、毎日あなたを生かしておられるのはだれでしょうか?あなたは自分の意志や力で、自分の心臓を動かしているのではありませんね。あなたが意識してもしなくても、数十年以上も、瞬時の休みもなく、心臓は鼓動を繰り返しています。全知全能の神(創造者)以外に考えられるでしょうか?
あなたは、不思議に思うことはありませんか?
その答えは神のことばである聖書にあります。

●「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息(霊)を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。」(創世記2:7,8)。

●「・・・・神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。・・・・」(使徒の働き17:25~28)。


【4】Why?(なぜ)
 自然界のすべての現象についても、「なぜなのだろうか?」と観察すれば、そのどれにも神の御手のすばらしいわざを見出すことができます。広大な宇宙の神秘とその秩序、地球の適度の引力や太陽からの距離、空気の調和、美しい四季の変化、一粒の種からいろいろな野菜や果物や穀物が出て来て、私たちの食物となることなど・・・・考えれば不思議なことだらけですね。
その答えは神のことばである聖書にはっきりと記されてあります。

●「初めに、神は天と地を造られた。」(創世記1:1)。

●「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。」(詩篇19:1~6)。

●「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」(ローマ人への手紙1:20)。


【5】Which?(どちら) 
 人間はだれでも生きている間、幸福でありたいと願っているはずです。あなたは、幸せな人生を生きたいと思われますか?それとも、不幸な一生を送りたいと思われますか?当然、どなたも幸せな生涯を望んでおられることでしょう。また、すべての人は、一刻一刻と必ず死ぬ瞬間に近づいているのです。あなたが癌にならなくても、交通事故に遭わなくても、そして、今どんなに若く健康な方であっても、すべての人間の死亡率は100%なのです。それは、人間が神の前に罪を犯した結果であると聖書はすべての人に語っています。それだけでなく、死後には、二つの永遠の世界(天国と地獄)があるのです。あなたは、天国と地獄のどちらを選びますか?この人生の選択は人生最大の厳粛な決断なのです。それは、約二千年前、あなたの罪のために身代わりとなって十字架で死なれ、よみがえられたイエス・キリストを信じるか否かにかかっているということなのです。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネの福音書3:36)。

●「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 (ヨハネの黙示録21:3,4)。

●「いのちの書に名の記されていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(ヨハネの黙示録20:15)。
 
●「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイの福音書7:13,14)。

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★目的のない人生の旅?

2006-09-07 | 「聖書と人生」

          

 北国はもう秋です。秋の季節は、いろいろ人生のことを考えさせる季節ですね。ところで、人生はよく旅にたとえられることがあります。しかし、この旅はよくよく考えてみると、私たちが行くべき目的地を決めてから出発をした旅ではなく、ふと気がついた時には、自分はもうすでに列車に乗っていたという旅でなのです。しかも、自分自身が行き先を定めていないばかりでなく、この列車にも「行き先」を示す表示板がないという不思議な列車に乗ってしまったようなものではないでしょうか。そこで近くの席の同乗者に、恐る恐る尋ねてみます。「あなたはこの列車はどこに向かっているかご存じですか?」と訊いても、その人も「さあ~、私もよく分からないのですよ。どうなんでしょうか。」と答えるとしたらどうでしょうか。

 しかし同乗者の意見が一致しているのは、この列車の次の停車駅は、どうやら「肉体の死」という名前の駅らしいということです。その駅が、終着駅なのか、その先も列車は走り続けるのか、そのあたりになると同乗者の考えはまちまちで、意見が分かれてしまいます。つまり人生は、肉体の死で終わりなのか、死後の世界も永遠に続くのかということです。仮に死後の世界があるとしても、肉体を離れた霊は、一体どうなるのか?また「天国」とか「地獄」は本当に存在するのだろうか。もし、「天国」に入るための条件は何なのかなど、答えに確信が持てない疑問が次々に生じて来るのであります。

 人生という旅の目的は、一体何なのでしょうか。人間は何のために生きて、どこへ向かっているのでしょうか。人は誰でも、この世に生を受けた後、再びこの世を去っていくという時間の流れの中に生きていることは分かっています。しかし、人が生きるということは、この世だけのことなのでしょうか、あるいは死後も別の世界で生きることになるのでしょうか。「人は、死んだ後どこに行くのか?」という質問は、人間の歴史が始まって以来、今日まで続いているテーマであると言うことができます。ある人は、「人間、死んだら終わりだよ。死後の世界などあるはずがないよ!」と言います。あなたは、この問いに対する自分の確かな答えを持っているでしょうか?

 「どうせ、正しい答えが分からないのだから考えないことにしている・・・・。」これは多くの人がとっている態度であるかもしれません。しかし、どんなに考えないようにしても、すべての人に確実に来るものが死であるとするならば、分からないから何もしないという態度は、とても危険なものではないでしょうか。人間は、心の奥底ではみな死を恐れているのです。ですから、「4」は「死」に通じるからということで、4の数字や番号を忌み嫌い、故意に避けたりするのです。「神なんかいない!」と豪語している無神論者も、やはり死に対して恐れがないのかというと、そうではないのです。心の奥底では、ひそかに恐怖感を抱いているのであります。

 話は変わりますが、統計によると日本での自殺者数は、最近は3万人を越えています。その原因や動機となった直接の内容は、失恋、生活苦、失業、事業不振、倒産、リストラ等です。また健康問題も自殺の原因になっています。この数は、他の事件や事故による死者数と比べてどうでしょうか。交通事故死者は全国で、約1万人前後です。また病気や事故での突然死の死者数は、1万数千人くらいの数です。死を避けようと必死に戦いながらも、その望み叶わず死を迎えなければならない人々よりも、自ら望んで死を選ぶ人々の数が、圧倒的に多いということは異常事態であります。日本において、ひっそりと他人の気づかない所で、これほど多くの人たちが自らの命を断っているのです。人生の生きる意味と目的が分からないで、孤独のうちに自殺の道を選ぶ人も多くいることは確かであります。

 あなたは、「私は何のために生まれてきたのだろうか?」という質問に対して、あなたの造り主である真の神様に問いかけてみることをしたことはありますか。多くの人たちは、どうしても自分の中に自分の存在意義を見出そうとしてしまいます。自分の中には答えを見つけられずにいるわけは、あなたを造られたのはあなたではなく創造者なる神様だからです。神様は聖書を通してその答えを私たちに語りかけておられるのです。私たち一人一人は傷つき、悩み、欠点だらけの弱い存在であり、迷子になった子供が泣いて親を捜しているようなものであります。ですから、創造者なる真の神様の愛の懐に立ち返る必要があるのであります。

 「聖書は何と言っていますか。」(ローマ書4:3、ガラテヤ書4:30)というみことばが聖書にありますが、人生のすべての疑問や問題に直面した時に、私たちは「聖書は何と言っているのか。」と、神が人類に啓示された永遠の真理の書である聖書に尋ねなければなりません。多くの人々が抱えている人生の様々な質問と疑問に対して、神のみことばである聖書は”ズバリ”答えている書物であります。ですから、私たちは、聖書によって「人生」に対しても、生きる意味や目的についても、確固たる確信と永遠に続く希望を持って生きることができるのであります。以下、聖書の中から、いくつかの人生の疑問に対して聖書が語っているみことばを記してみました。

(1)宇宙と地球上のすべてのものを創造された神。
●「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)。 

(2)人をも造られた神。
●「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)。 

(3)神が人を創造された目的。
●「わたし(神)の名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれ(人間)を創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ書43:7)。

(4)すべての人間はみな罪を犯し、罪人となった。
●「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。‥‥‥すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず‥‥。」(ローマ人への手紙3:10~23)。

(5)死後には人間の罪に対するさばきがある。
●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

●「海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして、人々はおのおのその自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である(肉体の死は第一の死)。」
 

(6)神は正義の御方であるが、愛の神であり、人類の救いのためにご自分の御子を世に遣わされた。
●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。
 
(7)神の御子イエス・キリストは、人間の罪のために身代わりとなって十字架で死んでくださり、三日目によみがえられた。
●「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々(私たち罪人)の身代わりとなったのです。」(ペテロの第一の手紙3:18)。

●「 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への手紙5:6~8)。

●「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ人への手紙4:25)。


(8)クリスチャンの本当の希望は何か(再臨と復活)。
●「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。 」(ピリピ人への手紙3:20,21)。 

●「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。 」(Ⅰテサロニケ4:16,17)。

●「あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。 」(ペテロの第一の手紙1:21)。

●「‥‥また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21:3、4)。


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★人間の弱さと神の恵み

2006-07-24 | 「聖書と人生」



●「私には、自分のしていることが分かりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。‥‥‥私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ人への手紙7:24)。
 
 人間は、だれでも良心を持っていますから、「一人の人間として正義感をもって正しく生きて人生を終わりたい。」という願いが心の底のどこかに必ずあるはずです。しかし、理想と現実との間には大きなギャップがあり、心の中に少しの汚れも偽善もなく、清く正しく生きるなどということはとても難しいということに気づくのです。孔子は、「義を聞きてうつる能わざる(正しいことを聞いて自分を正しくできない)、不善を改むる能わぎる、これわが憂なり」と言い、王陽明(学者)は、「山中の賊は平らぐるに易く、心中の賊(罪や汚れ)は、平らげ難し。」と言ったことはみなさんもご存じだと思います。どんなに正しい立派な教えがあっても、人間にはそれを実践することができないというのです。

 理性では、人間はどうあるべきか、またどのような倫理観を持って生きるべきかということは分かっているのです。しかし、それを実行する力がない自らの弱さに気づくのです。人は、罪の力に対して無力であり、一人の人間が真面目に生きようとすればするほど、もうそれだけで容易ではないことに気づきます。冒頭の聖句は、パウロが回心してクリスチャンになってから告白していることばなのです。クリスチャンになると、それ以前に考えていたよりはるかに人間は罪深く汚れた罪人であることを意識するようになります。ある意味で、このパウロのことばはすべての人間の”心からの叫び”ではないかと思います。人間には善をしたい、正しいことをしたい、日々美しい心で生きたいという願いがあっても、それを行う力がないのです。

 パウロは、信仰をもってから、最初は「私は使徒たちの中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。」(Ⅰコリント15:9)と言いました。また、さらに時間が過ぎた頃には、「すべての聖徒の中で一番小さな私・・・・。」(エペソ3:8)と言いました。また、その後、老境に入って殉教直前になってから、「‥『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(Ⅰテモテ1:15)と書いています。「私はその罪人のかしらです。」というのは、世界中のすべての人は罪人だけれども、私はその中で最も罪深い罪人です、ということであります。人間は、聖書の神に出会うとともに、自分が人生を長く経験すればするほど、益々自らが罪深い存在であることを自覚するようになるのです。

 どんな人に対しても、思いやりのある優しい自分でありたい。自分をいかに悪く言いふらすような人でも、心から赦してあげたい。嘘のない誠実な人生を歩みたい。どんなときも他人に対して暖かい広い心をもった謙遜な人でありたい。自分を嫌い、あるいは憎んでいる人でも、分け隔てなく接して、他人の失敗を寛容な心で受け入れてあげたい。国籍や人種、職業、貴賎貧富などに関係なく、一人の人格を持った人間としてすべての隣人を愛する者でありたい。不道徳な汚れた思いを持たず、自分の心をいつも清く保ちたい。どのような誘惑に対しても強い正義感で退け、倫理観を持つ人間でありたい。人間であれば、このような理想はだれでも持っているはずです。しかし、現実にはそれと反対のことをするのが人間の弱さではないでしょうか。

●「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることが出来るのです。」(ヘブル人への手紙2:18)。

●「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 」(ヘブル人への手紙4:15、16)。


 渇きや空腹や疲れを経験したことがなければ、そのような人たちのことを理解するころができません。また、貧しさを経験したことがなければ、貧乏人の気持ちが分かりません。また、鞭で打たれた経験がなければ、そのような人の痛みや苦しさが分かりません。でもキリストは、人間の弱さを経験したことのない全知全能の神のままでななく、ご自身も肉体を持ったこの世に下って来られ人間となってくださり、空腹や渇きを経験され、肉体的な疲れも人間としての苦しみや悲しみも経験され、悪魔(サタン)の誘惑に勝つのがどんなに困難であるかをも経験してくださったのです。だから、人間の弱さも苦悩も理解できる方なのです。
 
 また、イエス・キリストは、人間の弱さをご存じのお方であり、キリストは「争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。彼(キリスト)はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともない。」(マタイ12:19,20)と書かれていますように、傷んだ葦、くすぶる灯心のような弱い人間に対して、常に優しく柔和に接してくださった方なのであります。人々から忌み嫌われ、隔離されて住んでいたらい病人がイエス様に救いを求めた時にも、やさしく手を触れ、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われると、そのらい病人はすぐに治り、きよめられたのであります。幼い子どもにも、心身に障害を持った人にも、弱い病人にも、同じようにやさしく接してくださいました。

 人間は、精神的にも肉体的にも、種々の周囲の悪い環境や試練に対しても無力な存在なのです。また、その他いろいろな面において弱い者たちではないでしょうか。外面的に(肉体的にも、精神的にも)どんなに強そうに見える人間であっても、実際は弱い存在であります。「どんなに大きな困難に直面しても、それを乗り越え生き抜こうとする逞(たくま)しさと、針の先ほどのささいなことが原因で絶望的になってしまう脆(もろ)さとが一個の人間の中に同居しているのである。」という意味のことを言った人がいますが、これは真実に近いことばではないでしょうか。小さな試練(いや、本人にとっては大きなことかもしれません)で、簡単に死の道を選んでしまう人もいるのです。

 肉体的なことに関しても同様です。若くして頑健な体を持っている人は、自分は強い人間であると思うかもしれません。しかし、使徒パウロは、聖書の中で、人間の体を「土の器」(Ⅱコリント4:7)と表現しています。***** もちろん、実際に神が人を創造されたとき、「土地のちりで人を形造り、その鼻に息(霊)を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)と記されています。***** 事実、そのときパウロには肉体のとげ(何かの病気か欠陥)があり、彼の体は迫害のために鞭打たれ、体中に傷痕がいくつもあったのです。そして、肉体的には、もう体はボロボロになっていたことでしょう。加齢と共に、益々彼はその肉体的な弱さを感じていました。しかし、そのようなパウロが次のように書いているのです。

●「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 」(Ⅱコリント4:16~18)。

●「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。 」(Ⅱコリント12:9,10)。

●「・・・・・私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。 」(ピリピ人への手紙4:11~13)。
 

 パウロは、「私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。」と語って、自らの弱さを何度も語ったのですが、キリストを信じる者は天国に入れられるだけでなく、この地上でも、多くの試練や困難に打ち勝ち、誘惑にも勝利し、肉体的な弱さや病気の苦しみの中にあっても、希望をもって喜んで生きることができたのです。これは、すべて神の力とキリストの恵みによることであります。自分がどんなに弱く無力であると思っている人も、神に信頼する時に強くなることができるのです。いいえ、自分の弱さを自覚すればするほど、益々神に信頼することを学ぶことによって、強くされるのです。あなたも、首をうなだれ、下を向いて悲しそうな顔をして人生を生きる必要はないのです。もっと、力強く、前向きに生きる人生が備えられているのです。

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★「目からうろこが落ちる」

2006-06-30 | 「聖書と人生」
 
              

●「するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。・・・・」(使徒の働き9:18)。

 みなさんは、「目からうろこが落ちる。」ということばをご存じだと思います。また、そのようなことばを用いたことがおありではないでしょうか。あることをきっかけにして、ものごとの真相や本質が急に分かるようになり、ものごとの実態が明らかになったような時などに、「目からうろこが落ちた!」などと表現することがあるのです。人間の目には鱗(うろこ)なんてついていないのに、どうしてこのような言い方をするのだろうと思ったことはありませんか。また、日本人の多くがこのことばは、日本や中国の故事などから来たことばだと思い込んでおられるかもしれませんが、実はこの語源は「聖書」からきていることをご存じだったでしょうか。

 新約聖書の「使徒の働き9章」には、パウロの回心に関連して、次のような内容のことが書かれています。頭脳明晰で有能な学徒であり、当時のユダヤ人社会から将来を嘱望されていた青年サウロ(後の使徒パウロ)は、当時、十字架に架けられて死んだイエスをキリスト(救い主)と信じるクリスチャンたちに憎悪の念を抱き、キリスト迫害に加担していたわけですが、非常な怒りと殺害の意に燃えてエルサレムからダマスコという町に向かって旅をしていたのです。青年サウロは、イエスを信じるというクリスチャンがユダヤ教のしきたりを破ったりすることを教えていると言うことを聞き、我慢が出来ず、クリスチャンであれば、男でも女でも見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためにダマスコの町に向かって旅をしていたのです。

 サウロの行動は、自分は神の前に正しいことをしているという確信と正義感に満ちたものであったのですが、彼が道を進んで行って、ダマスコの町の近くまで来たとき、突然、天からの光(復活されたキリストの栄光)が彼を巡り照らしたのです。 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞きました。 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」 との答えがありました。そして、サウロは地面から立ち上がりましたが、目は開いていても何も見えなくなっていました。そこで同行していた人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行ったのです。

 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしませんでした。さて、ダマスコの町にはアナニヤという弟子がいたのですが、神はアナニヤに、幻の中で、「サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。」と命じました。しかし、アナニヤは神に対して、サウロがエルサレムで、クリスチャンたちにどんなにひどいことをしたかを訴えました。 しかし、神は彼に次のように言われました。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」と答えられたのです。それ以後のことは聖書に次のように記されています。

●「そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう祈った。『兄弟サウロ。あなたが来る途中でお表われになった主イエスが、わたしを遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。』するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がってバプテスマを受け、食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。」(使徒の働き9:17~20)。

 「サウロの目からうろこのようなものが落ちて、目が見えるようになった。」とありますが、その前に天からの光に圧倒され目が見えなかった3日間の闇の中にいた間、彼は飲み食いもせず祈っていたのですが、この時まで闇の中に生きていたサウロの人生を180度方向転換させ、回心に導き、キリストの喜びの証人へと変えたのは、明らかに天からの光でありました。この3日間の暗闇、神がご介入された神秘的な時間にサウロの心の中に何かが起こり、その後の彼の生涯を変えたことは事実であります。人生の暗闇と言えるような状態の中にいるときこそ、神が特別にその人の人生に介入され、物事の実態が見え、新しい生き方に出会うチャンスといして神が与えておられることをこの言葉は教えているのではないでしょうか。

 サウロの目からうろこのようなものが落ちたとあるのですが、英訳をみると、「fish scales(うろこ)」と書かれています。うろこはキリストの本当の姿を見抜けない象徴的なものとして表されているように思われますが、この後、迫害者サウロが回心し、使徒パウロとしてキリストの福音を宣べ伝える伝道者となったことからも、人生の覚醒と転換を表現した言葉として、今日に伝わったのではないでしょうか。しかし最近では、もっと身近に、何か新しい事実に気づいた時などに、「なるほど、そういうことだったのですか。”目からうろこが落ちた”ような心境ですね!」などと使われることもありますね。しかし人生において、何よりも大切なことは、聖書のみことばの光に照らされて、あなたの心の”目からうろこが落ちる”という経験をすることです。

●「わたし(キリスト)は、この民と異邦人との中からあなた(パウロ)を救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。 」(使徒の働き26:17,18)。

●「‥‥この世の神(サタン:悪魔)が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。 『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」(Ⅱコリント4:4~6)。


 このみことばは、異邦人のための福音伝道者として遣わされた使徒パウロが、当時のギリシヤのコリントの町の人たちに書いた手紙の一部ですが、生まれつきの人間はみなサタンの働きによって霊的に盲目にさせられていて、自分自身のことだけでなく、神のこともキリストの栄光の福音も分からなくなっており、天からの光(神のみことば:聖書)によらなければ、霊の目が開かれないのだと語っているのです。どうか、あなたが、神の言葉である聖書をお読みになられ、自らの罪をお認めになられ、神が遣わされた御子イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で身代わりに死なれ、三日目に復活された御方であることを信じて神様からの恵みによる救いを受けることが出来ますように。

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★驚くべき恵み・・・!

2006-06-18 | 「聖書と人生」
 
 

●「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。 」(ローマ人への手紙1:16)。

 みなさんは、「アメイジング・グレース」(Amazing grace)という歌をご存じだと思います。「驚くべき恵み」(聖歌229番)という意味の賛美歌ですが、差別を乗り越え希望と連帯を乗り越える歌として一般の人々にも広く歌われているようです。この歌の作詞者は18世紀の英国のロンドンで生まれたJhon Newtn(ジョン・ニュートン)(1725~1807)という人です。彼の父は地中海航路の商船の指揮官で、彼も11歳の時から父に従って船に乗り、仕事を手伝うようになりました。やがてお父さんが引退したあとはひとりで船乗りとして働くようになるのですが、ある時乗組員になった船がアフリカのある港からアメリカ大陸へ黒人を奴隷として運ぶ船であったのです。そして彼はこの船で、彼自身が奴隷のように過酷な労働を強いられたのです。

 そんな彼を救出したのは彼の父の友人であった船長さんでした。彼はその後独立して自分で船を持つようになりますが、その若き船長となった彼に託された仕事が、また奴隷の運搬であったのです。アフリカとアメリカを今度は自分が指揮して黒人たちを運搬するようになったのです。当時の奴隷貿易は過酷を極めるひどいものであったと言われています。彼は、暗い船底に奴隷たちを押し込め、反乱を恐れて、奴隷たちを恐れて、暴力を振るったのです。そして、彼はこのような無慈悲な生活を送りながら、何の罪悪感もありませんでした。

 そんなあるとき、彼は航海中に大きな嵐に出会ったのです。船はかつてないほど激しく揺れ、浸水も起きて、生命の危険に晒され、もう駄目かと感じた時、彼の心にかつて読んだ聖書の言葉がよみがえって来ました。最初は彼の罪を責める言葉が浮かびましたが、ジョン・ニュートンの母が彼に渡した聖書を読み、神は求める者に答えてくださるという約束を知り、深い慰めを感じて、彼は初めて「おお、神よ。助け給え!」と心から祈ったのです。すると不思議なことにその祈りのあと急に嵐はやみ、彼の船は奇跡的に助かったのです。

 この時、ジョン・ニュートンの心の中で大きな変化と転向が起きたのです。彼はそれを自分の第二の誕生日としてしっかり記憶していました。それは1748年5月10日、彼が22歳の時です。それまで奴隷船の黒人たちは家畜以下の扱いをうけていたのですが、これ以降、彼の船に乗せられた黒人奴隷たちだけは最低限の人間としての尊厳だけは守られるような扱いをされるようになりました。やがて彼は1755年頃に病気がもとで船の仕事から引退しますが、この後の人生を彼は一生神に仕えるために過ごしました。ラテン語を学び、聖書も勉強しなおして、キリストの福音を伝える者と変えられたのです。

 この「アメイジング・グレイス」は1765年頃に書かれたものと思われますが(作曲者は不詳)、奴隷貿易などという罪深いことをしていた自分のようなものにまで、神は祈りに応えて救いを与えてくれたという奇蹟に対する感動を歌ったものです。私は、「アメイジング・グレイス」が作詞された背後にこのような出来事があったのを詳しく知ったのは、最近のことですが、そのことを知ってからあらためてこの歌の歌詞を読んでみて、涙と共に大きな感動を覚えるのです。確かにジョン・ニュートンは罪深いことをしたのですが、神の前ではこのような悪人も等しく罪と永遠の滅びから救われるのだというすばらしい恵みと真実がここにあるのです。

「 驚くばかりの恵みなりき      この身の汚れを知れるわれに。
  
  恵みはわが身の恐れを消し    まかするこころを起させたり。

  危険をも罠をも避けえたるは   恵みのみわざというほかなし。

  みくにに着く朝いよよ高く      恵みのみ神を讃えまつらん。」

                          (聖歌229番)


 「驚くべき恵み!何と胸をときめかせる言葉でしょう!自分のような無頼漢をさえ救われるとは!私はかつて失われていたのに、今は神に見出され、かつて目が見えなかったのに、今や見ることができるとは何とすばらしいことでしょう・・・・・!」この歌詞には、神の溢れる恵みへの純粋な喜びと感謝の心が溢れているのがよく伝わって来ます。ジョン・ニュートンは数年の後に奴隷貿易から足を洗い、最後にはキリストの恵みの福音を伝える伝道者となって神様に仕えるようになったのです。何と多くの人々がイエス・キリストを信じることによって変えられたことでしょうか。イエス・キリストとともに十字架につけられた極悪な強盗の一人は、自分の罪深さを悟り、信仰を告白しました。そして、彼は十字架上で、死の直前に救われたのです。

 約2000年前、あのエリコの町において、不正な富で私服を肥やしていた取税人ザアカイ(ルカの福音書19章)は、イエス・キリストとの出会いを経験して、自分の富を貧しい人に施すことを約束しました。神を汚す者としてクリスチャンを迫害していたパウロは、復活された栄光のイエス・キリストに出会って、その人生は180度方向転換させられ、その時まで反対していたそのキリストの福音をローマにまで伝えたのです。イエス・キリストを信じた人たちは、極悪人も罪と欲望の奴隷であった人も、みな人生の方向を180度転換して神の栄光を表す者となったのです。これは、まことに不思議なことです。それは一体、なぜでしょうか。

 それは、冒頭のみ言葉に書かれてあるように、キリストの福音は、私たちの心を捕らえ、私たちの人生を根本から変えてしまう神の力なのです。イエス・キリストに出会い、自分自身の個人的な救い主として信じ受け入れる時、あなたの人生は滅びから救いへ、迷いから喜びへと変えられるのであります。どうぞ、あなたも、イエス・キリストを信じて、このすばらしい体験をご自分のものとなさってください。

●「あなたがた(クリスチャン)は、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 」(エペソ人への手紙2:8,9)。

●「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント人への手紙5:17)。

●「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Ⅰコリント人への手紙1:18)。  



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★人生は「3-4=0」??

2006-06-05 | 「聖書と人生」
           
       

  私がまだ大分若い頃のことですが、「3-4=0」という題名のトラクトをもらったことがあります。それを見たとき、「これは一体何を意味しているのだろうか・・・?」と疑問に感じたのを覚えています。みなさんは、「3-4=0」なんて、そんな引き算があるはずがない。「なんとばかばかしい!」と言って、それを捨ててしまわれるでしょうか。答えは「(-1)に決まっているじゃないか!」とおっしゃる方が多いと思います。しうかし、賢い人は、「いや、これには何か隠された謎か、深い意味があるに違いない・・・・。」と、それを受け取って、立ち止まって考えられるかもしれませんね。

 「3-4=0」。この引き算は、実はばかばかしいどころか、人生の大切な問題を教えているのです。これは、あなたにとっても無関係ではない重大な問題なのです。これを解き明かしますと、「3」は「産」、すなわち出産のことです。また、「4」はすなわち「死」を意味しているのです。私たちは出産(3)でこの世に生まれて来て、死(4)でこの世を去るのです。あとに残るものは何もない。肉体は灰になりやがて消えてしまうのです。しかし、もちろん、これは地上の肉体のことであって、死後も霊魂は永遠に存在するものであることを忘れてはなりません。ですから、「0」は「霊」にも通じると言い得ることができるかもしれませんね。

 私たちは「オギャア~!」と生まれて来て、70年か80年の人生を送って、やがて死んで行くのですね。その儚い短い人生の間に、やれ勉強だ!やれ受験だ!やれ就職だ!やれ結婚だ!やれマイホームだ!と慌しく、あくせく生きているのが人生です。人間は一体、何のために生まれて来て、毎日のように泣いたり、笑ったり、悲しんだり、怒ったり、悩んだりして生きているのでしょうか。人生とは何なのでしょうか。あなたは、この問題について真剣にお考えになったことがありますでしょうか? もし、お考えになられたことがなければ、これからでも遅くはありませんから、是非、真剣にお考えになってみてください。

 この人生の重要な問題に対して解明する本があると言ったら、あなたは驚かれることでしょう。でもそれは確かにあるのです。それは、世界のベストセラーである「聖書」なのです。この聖書こそ、神が人類に与えた最大のプレゼントなのです。あなたの人生に永遠の希望を与え、喜びと平安と真の心の満足を与えるのが、この聖書なのです。このように書きますと、なんとひとりよがりな人だろうと思われるかもしれません。しかし、私は確信をもって、みなさんに聖書こそ、人生の道しるべであり、人生の大海原を航海する者にとって、安全な羅針盤であると断言することが出来るのです。

 時計は何のために作られるのでしょうか。もちろん、時刻を知らせるためです。家は何のために建てられるのでしょうか。もちろん私たちが住むためです。車は何のために作られるでしょうか。もちろん、人や荷物を乗せて運ぶためです。では、目に見えない微生物はどうでしょうか。彼らも、不要なものを腐敗させ土に返らせるという大切な働きをしているのです。あんな小さな生物ですら、そんな大きな役目があるなら、人間にはどれほど大きな役目あるのでしょうか。私たちは、何のために生かされているのでしょうか。人間が進化論者が言うようにアメーバーから偶然に進化して来て、今も偶然に生きているなら、人生には何の意味もないことになります。なぜなら、偶然というものには、意味も目的もないからです。

 神(創造者:God)は、この世界とその中にあるすべてのものをそれぞれの役目に応じてお造りになりました。そして、祝福を与える対象としてまた、共に歩むパートナーとして、神は私たち人間をお造りになられたのです。この神の愛の中を、神と共に歩むことこそが、私たちの最高の生き方であると聖書は語っています。更に聖書は、本来の生き方から離れてしまって罪の中を歩んでいる私たちを今も愛してくださっている神様について語っているのです。私はこの神の愛を聖書に基づいて少しでも分かり易く伝えることが出来たらと願って、このブログを綴っているのです。どうか、忍耐をもって、他のカテゴリーの記事もお読みになっていただきたいのです。

●「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)。

●「家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。」(ヘブル人への手紙3:4)。

●「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに創造された。」(創世記1:27)。

●「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のためにわたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ書43:7)。

●「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人(となられた)としてのキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテへの手紙2:5)。

●「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々(クリスチャン)が、もはや自分のためではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(Ⅱコリント5:15)。

●「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ1:21)。


 神の栄光を表すために創造された人間が罪を犯して、死後永遠のさばき(第二の死)を受けるべき者となってしまったのですが、神はご自身の御子をこの世に遣わされ、十字架にまでつけて、私たちの身代わりに罰しなさったのです。この御方を信じる者には永遠のいのちが与えられ、人生の明確な目的と希望をもって生きることができます。クリスチャンが生きる目的とその意味はキリストご自身そのものなのです。

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★人生の目的と意味は何か

2006-05-19 | 「聖書と人生」

       
  ●「だれが知ろうか。影のように過ごすむなしいつかのまの人生で、何が人のために善であるかを。だれが人に告げることができようか。・・・・・・ 」(伝道者の書6:12)。

 旧約聖書の伝道者の書の中で、筆者は「影のように過ごすむなしいつかのまの人」と言っています。確かに私たちの人生は儚く短いものであります。二度と繰り返すことのできない一度の人生で、私たちがいかに生きるかということは、私たちが真面目に考えなければならないテーマであります。この伝道者の書は、人生の目的は何か、生きる意味は果たしてどこにあるのかを探求した書物であります。

 「影のように過ごすむなしいつかのまの人生で、何が人のために善であるのか」、すなわち「一体、人間にとって何が幸福なのか!」------この問いのもとに哲学が生まれ、芸術が生まれ、宗教が生まれたのであります。この問いこそ古今東西のすべての人間が切に知りたいと願って探求し続けて来た人生最大のテーマであります。ですから、人生の若い時に、この伝道者の書を読み、その教訓を学ぶことは大変有意義なことであります。

●「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」(伝道者の書1:2:3)。

 この伝道者の書は、イスラエルの王ソロモンによって書かれたものであります。ソロモンは、歴史上もっとも有名で有力な王であり、当時(今から約3.000年前)の全世界に知恵と富と文才で知られていた王であり、東西を通じての大賢者と言われている人であります。ソロモンは富と栄誉を持ち、想像を絶する権力を持って、贅沢の限りを尽くして、世界一の幸福者と呼ばれるにふさわしい人物であったのです。しかし、彼が常に繰り返したのは、「空の空」ということばであったのであります。

 ソロモンの晩年の作であるこの書は、ソロモンは決して幸福な人ではなかったという事実を私たちに示しております。この伝道者の書の中には、37回も「空しい」という語が用いられています。旧約聖書に「空しい」を意味する語が、72回出て来るのですが、そのうちの約半分は、この「伝道者の書」に出て来るのです。ですから、栄華を極めたソロモン、そしてこの伝道者の著者であるソロモンがいかに空しい人生を送った人であるかが分かると思います。

 この伝道者の書が私たちに伝えようとしているメッセージの中心が何かと言えば、それは神から離れては人生は空しいものであって、退屈と失望と孤独に満ちているものであるということであります。また、この書は著者ソロモンが幸福と満足を得るために、試みた人生の長い「実験の記録」であるということが出来ます。神(創造者)を持たない生活がいかに空しいものか、その実験(体験)を詳細に記録したものであります。神様は、ソロモンに権力も富も能力も与えました。そして、人生を探求する知恵と多くの機会を与えられたのであります。

 そして、数多くの探求と経験の後に、ソロモンは、「神から離れては、この地上の人生には確実な幸福を見出すのは困難であり、空しいものである。」と結論を下したのであります。この「空」とか「空しい」という言葉は、元来は”息”という意味があって、すぐに消えてしまう空しいもの、移ろいやすいものを指しているのです。「日の下」という言葉は、29回も出て来ますが、これはこの地上の人生を表す言葉です。ですから、この地上の人生にのみ限定して観察するならば、どんなに労苦しても「何一つ益になるものはない。」と言い切っているのであります。

 ソロモンは普通の人が決して経験できないようなことを経験したのです。例えば、彼は700人の妻と300人の妾を持ちました。そして、多くの金銀財宝の冨を得ました。巨大な権力と名声を得ることができました。ありとあらゆる快楽を味わいました。彼は多くの知識を得、哲学を学び、事業を拡張し、建築を研究し、13年も費やして自分のための宮殿も建てました。そして、その実験の結果、何の満足も得ることが出来ず、「神なしの人生は何をやっても空しい。だから、若い時に神に立ち返りなさい。」と人々に勧めているのであります。

 このように、ソロモンは「自分の目の欲するものは何でも拒まず、心の赴くままにあらゆる楽しみを試み」、いろいろな事業もやったけれども、その結果は「すべてが空しく、風を追うようなものである。」ことが分かったのです。このようにソロモンの実験の結果は、すべてが空しく、この地上の人生で何一つ、益になるものはないということであったのであります。ソロモンの実験の結果は次のようなものです。

●「その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた空しい。」(伝道者の書2:22~23)。

●「あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』という年月が近づく前に。・・・・・・・結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道者の書12:1~14)。

 この書の12章には、この書の結論が書かれています。ソロモンが人生の探求の結果得たものは、神を恐れ敬うこと、これこそが人間の本分であり、すべてであるということであります。私たちの人生に真の満足と意味を与えるのは、神のみであるということであります。ソロモンは自分で経験してみて、神を信じる人生が一番幸いであると語っているのであります。そして、この書は若者への呼びかけで終わっています。「あなたの若い日に」とありますように、人生の土台は早いうちに敷く方が良いのです。

 この伝道者の書が与えられたのは、私たちが、人生において多くの無駄な努力をしなくてもよいように、ソロモンが自ら経験した結果を通して若い人に一つの警告として与えられているのであります。人生の大部分を費やして、無駄な実験を繰り返す必要はないということであります。そして、この書は、一個人の人生の経験を通して知り得た教訓の記録ですが、全人類に当てはまる普遍的な真理なのです。この書は、人間が罪のゆえに、神から離れ、空しくなってしまったことが書かれており、神の帰るように勧めていますが、その神に帰る道については記されてありません。それは、新約聖書に記されています。

 ある書物にこんなことが書いてありました。「空しい」という字をもし数字で表すならば「0」ですが、1×0=0。100.000×0=0。1000億×0=0。100兆×0=0。どんなに大きな数字でも0を掛ければみんな0になってしまうのです。この「0」という数字は巨大な数字をも飲み込んでしまう恐ろしい数字であります。莫大な資産やお金を蓄え、大きな地位や名誉を得、また社会的に多くの貢献をしても、もし、神を信じない人生であればすべては「空」であり、「0」になってしまうのであります。

●「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネの福音書14:6)。

 伝道者の書には、神に帰る道が示されていませんが、新約にはその道が明確に示されているのです。イエス・キリストこそ、その唯一の道であります。キリスト以外には決して道はありません。イエス・キリスは、私たちを神のない空しい人生から救い出すために、この世界に救い主となって来てくださいました。そして、十字架で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったのです。この御方を信じる者は、罪が赦され、神との交わりを回復して、本当の喜びに満ち溢れたた人生を歩むことが出来ます。

            

★聖書の光が心を照らす

2006-05-09 | 「聖書と人生」

       
    
●「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」(詩篇119:130)。 
  
  北国に住む者にとっては、厳しく長い冬の後の春の陽気と明るく暖かい光を浴びるのは、本当に心地良いものです。また、早朝のまだ部屋が薄暗い時でも、入り口のドアを開けると、朝日がサ~っと差し込んで来て部屋を明るくしたり、カーティンをいっぱいに開けて窓から朝日を迎え入れるのはとても清々しい気持ちになります。そして、戸を開けるためには、最近ははデパートなどでは便利な自動ドアーもありますが、通常は自分でドアの取っ手を廻して開けなければなりませんね。そうです。自分の意思で戸を開けるのです。そうすると、光が差し込んで来るのです。

さて、冒頭の聖句ですが「みことば」は神のみことば、すなわち「聖書」のことです。あなたの人生でも、神のみことばである聖書を手にして、自分の手で(自分の意思で)聖書を開き、神のことばとして心に迎え入れるならば、神の光があなたの暗い心に差し込んで来るのです。自分も青年時代にそのような経験をしました。そして、その時から自分の人生が新しくなったのです。聖書は実に不思議な本であります。本屋さんに行けば、ありとあらゆる本が棚に並んでいますが、聖書だけは特別です。これは、人が書いた本ではありますが、神のことばなのです。なぜなら、聖霊に導かれて書かれた本だからです。

聖書を開き、人生の真理を尋ねる人は、老若男女を問わず、神がそのひとの心を照らしてくださるので、人生の正しい生き方への洞察が与えられるのであります。聖書を真剣に調べるならば、あなたの暗く希望のない人生に光が差し込んで来ます。これは、嘘偽りなく真実のことなのです。「わきまえのない者」というのは、神を信じない不信仰な生活のために人生の諸々のことにおいて正しい判断が出来なくなっている人のことであります。しかし、聖書は光の根源である神のみことばですから、神に背を向けて霊的に盲目になっている人間の霊眼を開いてくださるのです。

聖書のみことばの戸が開かれて、自分の心に光が差し込むと、次のようなことを神様は悟らせてくださいます。①創造者(神)が存在されること。②自分が神の前に汚れた罪人であり救いが必要な者であること。③罪をもったまま死んだなら、死後の裁きがあること。④愛なる神はご自分の御子を人類の救い主としてこの世に遣わされ、十字架に架けて私たちの身代わりに罰しなさったこと。⑤イエス・キリストを救い主として個人的に受け入れるように語りかけてくださること・・・・etc。

旧約聖書に「あなた(神)のみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)とありますように、確かに神のことば聖書は私たちの人生を照らす光なのであります。また、この聖書は、イエス様ご自身が「その聖書が、わたしについて証言(あかし)しているのです。」(ヨハネの福音書5:39)と語っていますが、旧約39巻、新約27巻からなる聖書は、神からの啓示として人間に与えられたもので、誤りがなく、神のことばとしての権威を持っています。その中心主題は、イエス・キリストの十字架による救いなのです。

●「すべてのものは、この方(キリスト)によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方(キリスト)にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光(キリスト)はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネの福音書1:4,5)。

●「わたし(イエス・キリスト)は、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネの福音書8:12)。

●「悪いことをする者は光(キリスト)を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光(キリスト)のほうに来ない。しかし、真理を行う者は、光(キリスト)のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハネの福音書3:20,21)。

●「わたし(キリスト)は光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」(ヨハネの福音書12:46)。

キリストの十字架と復活から、2.000年経った今も、このイエス・キリストの福音が宣べ伝えられているのは、人々の霊的な目を開いて「暗やみから光」(使徒26:18)の中に導くためなのです。どうか、あなたも、あなたの罪のために身代わりに十字架に架かられたイエス・キリストを信じて救われ、光のうちを歩む人生に導かれますよう祈るものです。ですから、私たちクリスチャンは繰り返し繰り返し、キリストの十字架と復活の福音を宣べ伝えているのです。

●「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。 『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。 」(Ⅱコリント4:5,6)。

◆(E-mail): goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」


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★大切なことを忘れていませんか

2006-04-29 | 「聖書と人生」




●「人は、たとい全世界を得ても、自分のいのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。」(マルコの福音書8:35,36)。

 私は若い頃、次のような話を聞いたことがあります。ある一人の貧しい母親が古井戸に出かけて洗濯をしておりました。ところが、彼女の耳もとにパチパチという音が聞こえてきました。ただならぬ気配を感じて振り返って見ると、いまや自分の家がメラメラと燃え上がっているではありませんか!

 母親は大慌てで、家に駆け込み、寝具、食器、炊事道具、その他の家財道具などをいち早く持ち出しました。そして安全な場所に避難したその時、突然恐怖と戦慄が彼女を襲い、棒立ちになってしまいました。そして、やがて顔面蒼白になり腰を抜かしたように座り込んでしまったのです。実は彼女は取り返しのつかないことをしてしまったのです。いくらかの品物を運び出しましたが、なんと自分の赤ん坊が炎の中に置き去りにされていることを忘れてしまっていたのです。

 あなたは、きっと彼女を愚かな母親だとお笑いになるかもしれません。しかし、もしあなたがあなた自身の「魂(たましい)」を置き去りにして、仕事や金儲けや遊興に夢中になっているとしたらどうでしょうか。現代人は、人生において最も大切なことを忘れ、見失っているのです。多忙な仕事と煩雑な家事、娯楽とレジャーなど人生の付随的な事柄のために追い廻され、空しく過去って行く日々を送ってはおられませんか。

 非常に目まぐるしく忙しく押し流されて行く日々を過ごす現代にあって、あなたの人生を決定的なものにする根本的なことをお忘れでないでしょうか。それは聖書が語るあなたの創造者(神)を忘れた生活であり、これはあなたの命にかかわる重大問題なのであります。真の神は万物の創造主なる全知全能の聖よい御方であり、人間をも造られご自身の愛によって人間を生かしておられる御方です。

、神を忘れ、失われた孤独な人生を送るようになったのです。あなたは、あなたの「神」をお忘れではありませんか。これは宗教の問題ではありません。あなたの魂に本当の平安と満足がないのは、あなたが神を忘れ失われた生活をしているからなのです。

 あがめるべき神を無視した自分勝手な生活をすることを聖書では「罪」と言っていますが、神は完全な正義と聖さとをお持ちの御方ですから、人間の罪に対する公平な審判を行われます。神のことばである聖書は「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)と厳粛に告げています。

 しかし、聖書が語る神は愛なる方ですからあなたが永遠の火の刑罰を受ける恐ろしい滅びに至ることを決して望んではおられません。愛に満ち溢れておられる神は、今から約2,000年前に、ご自身の愛する御子イエス・キリストを人類の救い主としてこの世に遣わしてくださいました。キリストは処女マリヤより生まれ、30数年の聖よい生涯を送られ、数々の奇蹟と力あるわざによって神の御子であることを証しされました。

 その3年半の公生涯の終わりに十字架にかかって私たちの身代わりに神の刑罰を受けて死んでくださいました。しかし、3日後にイエス様はよみがえられ、そののちその栄化されたお体をもって天に昇っていかれたのです。このイエス・キリストは今も天に生きておられるあなたと私の救い主なのであります。これは、聖書に記録されている歴史的な事実であります。

 これらの事実を認め、イエス・キリストを自分の救い主として個人的に信じ受け入れる者は誰でも罪赦され、神の救いを受けるのであります。しかし、この救いを拒み、なお、罪のうちにとどまるならば、あなたの未来には永遠の滅びが待っているだけなのです。どうか、この人間の永遠のいのちに関わる重大な問題を放置されるこなく、是非、真剣にお考えになってください。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

◆(E-mail): goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」
 
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★たった一度の人生

2006-04-21 | 「聖書と人生」
  
          

 「ひとりしかいない自分、一度しかない人生を本当に生かしきらなけなければ、人間生まれてきた甲斐がない。」

 これは山本有三の小説「路傍の石」の一節です。人間は誰でもたった一つしか持っていないものならば、非常に大切に使います。決して粗末に扱ったりはしません。
  
 みなさん、私たちの人生はたった一度だけのものです。面白い本であれば繰り返して読むことができますし、楽しい旅行ならば、もう一度、計画することもできます。しかし、人生は、老年に達してからまた、死に直面する時に、もう一度やり直したいと思っても決してできないのです。
 
 あなたは、たった一度しかないあなたの人生を空しく費やしてはおられないでしょうか。また、人生の意味とか目的などについて何の解決もないまま、その日その日をただ本能のおもむくままに過ごすことはありませんか。 

 聖書は、「明日のことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」(箴言27:1)と私たちに告げています。あなたもぜひ人生の大切な命と死の問題について真剣にお考えになって下さい。

  「私はどこから来たのか?」
  「私は何のために生きているのか?」
  「私はどこへ行くのか?」

 
 これは人間が存在する限り必ずついてまわる疑問であります。聖書は、この疑問に明確に答えることができる唯一の書物です。 聖書の中心はイエス・キリストであり、この方があなたと全世界のすべての人々のために十字架で死なれたのです。二度と繰り返すことのできない人生、そして、死後の永遠のこともお考えになって、賢明な人生を選択なさってください。

 どうか、神の愛のメッセージをお聞きになるために、聖書を正しく教えている教会(集会)にお出かけになって下さい。また、聖書をお買い求めになられて、ご自分で聖書をお読みになられることをお勧めいたします。正しく教えている集会かをお知りになりたい方は、ご遠慮なく私宛にメールしてくだい。