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聖書から人生を考えよう

私のプログへようこそ!!
お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★人間の厳粛な死について

2007-09-22 | 「人の死とその備え」


●「私たちは、必ず死ぬ者です。私たちは地面にこぼれて、もう集めることのできない水のようなものです。神は死んだ者をよみがえらせてはくださいません。どうか追放されている者を追放されたままにしておかないように、ご計画をお立てください。」(2サムエル14:14)。
 
 このことばは、エルサレム南方にあったテコアの町に住んでいた知恵ある一婦人のことばです。この一節だけを考えてみたいのですが、少しだけその背景の説明が必要かと思います。異母弟を殺したアブシャロム(ダビデ王の息子)は、父ダビデの怒りを恐れてエルサレムに帰らず、三年の間ゲシュルの王の所に身を隠していました。わが子がたといどのような大罪を犯したとしても父のわが子への愛情は簡単に消えるものではありません。しかし、たやすく息子を赦すことの出来ない王ダビデにとって、この三年はまことに長い年月であったであろうとことは推察できます。そのダビデ王の心中を察した部下のヨアブ(ダビデの軍の長)は一計を案じて、一人の知恵のあるテコアの女の協力を得てダビデにアブシャロムを呼び戻す召還の機を提起したのです。

 テコアの女は、ヨアブから指図されるままに、長い間喪に服している女を装い、王のもとに行って、言いました。「実は、この私は、やもめで、私の夫はなくなりました。このはしためには、ふたりの息子がありましたが、ふたりが野原でけんかをして、だれもふたりを仲裁する者がいなかったので、ひとりが相手を打ち殺してしまいました。そのうえ、親族全体がこのはしために詰め寄って、『兄弟を打った者を引き渡せ。あれが殺した兄弟のいのちのために、あれを殺し、この家の世継ぎをも根絶やしにしよう。』と申します。あの人たちは残された私の一つの火種を消して、私の夫の名だけではなく、残りの者までも、この地上に残さないようにするのです。」 と言って不孝なやもめ女を演じました。これは、すべてダビデがわが子アブシャロムを呼び戻すための策であったのです。

 それで、ダビデ王は彼女に同情し、この女のために命令を出すことを約束しました。そして、これは、ダビデの心情に訴えて、追放したわが子アブシャロムを赦し、召還させるためにした演技であったのです。それで、このチャンスを逃さず、その女は王に強く迫って言いました。「このはしために、一言、王さまに申し上げさせてください。あなたはどうして、このような神の民に逆らうようなことを、計られたのですか。王は、先のようなことを語られて、ご自分を罪ある者とされています。王は追放された者を戻しておられません。 私たちは、必ず死ぬ者です。私たちは地面にこぼれて、もう集めることのできない水のようなものです。‥‥」(2サムエル14:12~14)。冒頭の聖句から、人生の大切ないくつかの真理と、ここに暗示されているキリストの福音について考えてみたいと思います。

【1】人間は必ず死ぬ者である。 
 彼女は「私たちは、必ず死ぬ者です。」と言いました。これは、何と厳粛なことばではないでしょうか。すべての人は、いつか必ず死ななければならない存在です。これには、いかなる差別もありません。老人だけでなく、今若い人もやがていつか死ぬ時が来ます。病気や病弱な人だけでなく、今健康に何の不安もない頑健な体を持った人も、やがては必ず死ぬ時が来ます。貧しい人だけでなく、大金持ちも例外なく死ぬ時が来るのです。また、身分の低い人だけでなく、一国の大統領や宰相も死ななければない時が必ず来るのです。だれでも、病院の医者から「あなたは癌です。」と告知されたら、非常に大きなショックを受けるでしょう。なぜでしょうか。死ぬのが怖いからです。最近は医学が急速に進歩して今は完治する癌も多くありますが、昔は、「癌」は死の宣告を意味しました。
 
 人間が一番忌み嫌う言葉は、「死」ではないでしょうか。死が怖いので、できるだけ死について考えないようにします。私は家のすぐ近くにガレージを借りていますが、左から1番、2番、3番とあって、その次が私の借りているガレージなのですが、4番ではなく、5番なのです。「4」は欠番になっています。日本人は「4」は「死」を連想させるので、忌み嫌います。ホテルも、病院も4号室がないのが一般的ではないかと思います。しかし、人がどんなに「死」について考えないようにしても、人間は動物と違って未来のこと、また死のことを考えざるを得ないのです。どんなに死を避けようとしても、すべての人はこれを避けることはできません。人間は、この世に生を受けて、誕生した瞬間から、一刻一刻と死に向かって歩んでいるのです。ですから、この死の問題の解決なしに人生にどんな意味があるでしょうか。

 どうか、あなたもご自分の問題として真剣にこの「死」の厳粛な事実についてお考え下さい。ニュースで、だれか有名人が若くして亡くなったことが報じられると、人は驚き、悲しむでしょう。でも、「死」を自分の問題として真剣に考えようとする人は稀にしかいません。隣りの家の人が何かの病気や事故で死んでも、「自分だけは死ぬことはない。」と頭の中で考えているのではないでしょうか。街を歩いている人を見ても、電車に乗っている人を見ても、みな、「自分は死とは関係ない。」と思って生きているように見えるのは、私だけでしょうか。人は、出産、入学、進学、就職、結婚、マイホームの建築、老後などのために備えをします。しかし、なぜ、人は、万人に必ず訪れる死のために備えをしようとしないのでしょうか。私にはそれが不思議でなりません。
 
 「もし、世界に核戦争が勃発したらどうしょう‥‥」と、世界の指導者たちはそのような事態を避けるために、懸命に努力をしています。なぜでしょうか。それは、「死」が恐ろしいからです。しかし、冷静になってお考えください。核戦争が起こっても、死者の数は、起こらなかった時よりも多くなるわけではありません。なぜなら、人間の死亡率は100%だからです。核戦争やテロが起こらなくても、人は必ず死ぬ時が来るのです。地球の温暖化は進み、地球環境は益々悪化の一途を辿り、私たちが住みにくい環境になりつつあります。これから、年々、温暖化が進んで行くと、地球の生態系も変わり、また、真夏の猛暑はさらに酷くなり、大型台風その他の甚大な被害を与える災害の増加などを人々は恐れています。それは、なぜでしょうか。明らかなことは、人はみな「死」を恐れているからです。

 では、人はなぜ死ぬようになったのでしょうか。人類は最初から死ぬべき者として創造されたのではありません。唯一の神(創造者)は、最初のアダムを創造されたとき、すべての良い環境が備えられたエデンの園に住まわせました。神である主は、人に命じて仰せられたのです。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」 (創世記2:16,17)と。ところが、人間は悪魔の誘惑に陥り、サタンの誘いのままに、妻のエバと共に禁断の木の実を食べ、神の掟を破り、死ぬべき者となってしまいました。それから、人類は今日に至るまで、神に背を向けて自分勝手な罪の道を歩み、死と永遠の滅びへの道をまっしぐらに突き進んでいるのです。

●「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです」(ローマ人への手紙5:12)。

●「罪から来る報酬は死です。‥‥」(ローマ人への手紙6:23)。

●「一生涯死の恐怖につながれて奴隷になっいる‥‥。」(ヘブル人への手紙2:15)。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」(ヘブル人への手紙9:27)。


 ですから、どんなに科学や医学が進歩しても、人間の「死」の問題を解決することは不可能なのです。医学によって、ある病気を一時的に治癒させることができたとしても、それは僅かに延命に役立つかもしれませんが、「死」の問題の解決にはならないのです。科学の力も、権力も、お金の力も、人類の「死」の問題を解決することはできません。人ができるだけ健康に留意し、そのために様々な努力をしたとしても、人は決して「死」から逃れることはできません。私たちが死を避けようとして逃げても、「死」が私たちを追いかけて来るのです。逃げても、逃げても、追いかけて来るのです。太陽が前方にある時、自分の影が後ろにできますが、その影からどんなに逃げようとしても、逃げることは不可能ですね。自分の「死」から逃げることも同じことなのです。

【2】こぼれた水が再び器に戻ることがないように、人は一度死んだら、再び地上に戻ることはない。
 「私たちは地面にこぼれて、もう集めることのできない水のようなものです」。
日本にも、「覆水盆にかえらず。」という古い諺がありますが、太公望の妻は、読書ばかりしている太公望に愛想を尽かして出ていったにも関わらず、彼が斉の宰相になった事を知って復縁を求めました。この時太公望は水を入れたお盆をひっくり返し、「元に戻せたら希望に応じる。」と言ったそうです。この中国の故事から、一度別れた夫婦は元には戻らないということがもともとの意味のようです。ここで、「神は死んだ者をよみがえらせてはくださいません。」というのは、永遠の復活を否定したことばではなく、人間は一度死んだら、もはや地上には戻っては来ないという意味です。天に向かって叫んでも、地に向かって慟哭しても、死んだ人は再び地上に戻ることはないのです。

【3】神は罪によってエデンの園から追放された人類に回復の道を備えられた。
 この知恵のあるテコアの婦人は、「どうか追放されている者を追放されたままにしておかないように、ご計画をお立てください。」と、ダビデに訴えたのですが、この要求は受け入れられ、アブシャロムは連れ戻されたのです。それと同じように、神様は、神に敵対して罪を犯し、霊的には死んだ者となり、肉体的にも死ぬべき者となり、死後には「第二の死」という永遠の裁き(火の池)を受けるべき者となってしまった哀れな人類を顧みてくださり、もう一度回復させてくださる救いの道を備えられました。それは、神のひとり子イエス・キリストをこの世に遣わし、罪の全くない聖なる御方を十字架につけて、私たちの罪の身代わりに罰してくださることによって、この御方イエス・キリストを信じる者をみな救ってくださり、永遠のいのちを与えてくださるという神の約束なのです。

 あなたのために、十字架上で死なれた御方は墓に葬られて三日目によみがえられ、今も生きておられるあなたの救い主です。どうか、神のこの絶大な救いへの愛の招きを断ることなく、御子イエス・キリストを信じて救われてください。主イエス様は、今日もあなたに救いの手を差し伸べておられるいつくしみ深いお方なのです。どうぞ、神の恵みを無になさいませんように、心からお勧めいたします。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。 」(ヘブル人への手紙2:14,15)。

●「キリストも一度(人類の)罪のために死なれました。正しい方が悪い人々(私たち)の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」(1ペテロ3:18)。
  
●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)。

 

管理人:「北国のこひつじ」

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★平安の中に死を迎える備え

2007-04-09 | 「人の死とその備え」




 大正時代にあったことですが、群馬の山間の貧しい村に、おみつさんという少女が住んでいました。おみつさんは、肺病を患い、床に伏していたのですが、悲しそうな顔をすることもなく、その顔はいつも明るく喜んでいるので、家族や近所の人たちは気持ちが悪くなって「キツネにつかれたのだ・・・!。」と言って離れの小屋に移し、キツネを追い出そうとしていぶしをかけました。しかし、おみつさんの喜びに満ちた顔は少しも変わりませんでした。そして、ついにおみつさんは平安に満ちた顔をして、死の時を迎え、息を引き取ったのでした。そして、おみつさんが死んだあと、敷いていたせんべい布団の中から一冊の「聖書」が出て来たのです。そして、家族も近所の人たちも、彼女の喜びと安らぎが「聖書」から来たことを知ったのです。

 私たち人間が、この世に生まれて来る出産の模様は、大体同じです。約280日間母親の胎内で成長を続けた胎児は陣痛と共に娩出され、産声を上げて、この世の仲間入りをします。仮死状態で生まれる場合やその他の例外を除いて、正常分娩の場合の赤ちゃんの生まれ方は大体同じです。------しかし、それに比べて人間の死に方は何と千差万別のことでしょうか・・・・。安らかに大往生を遂げる人もあれば、七転八到の苦しみの後に死を迎える方もおられます。また、交通事故のように急に、突然、何の心の準備もなく死に至る場合もあります。また、癌のように徐々に死に至る場合もあります。

 また、その人の死ぬ年齢によっても、本人にとっても家族にとってもかなりの差を生じるのではないでしょうか。90歳の老人が老衰のために死ぬのと、働き盛りの一家の大黒柱ともいうべき主人が癌で死ぬのとでは、家族に与える影響はかなり差があるように思います。また、幼い子供が病気や事故で死んだ場合の両親や家族の悲しみは計り知れないものがあります。その幼児の親は、悲しみが癒されるまでに何年もかかると言われています。また、昔に比べて最近は死に方も、益々複雑多様化しているように思われます。歩道を歩いていても、一瞬にして車に跳ねられたり、偶然通り魔に会って、瞬時にいのちを失う場合もあります。

 しかし、どのように死を迎えるかより、もっと大切な問題があります。それは、人間は死んですべてが終わりということではないのです。人間の霊魂は不滅であり、死後においても永遠に存在することを聖書は教えています。人間は自分自身の行動に対して責任を持っている高度な存在であることは、誰でも認めていることであると思います。しかし、同時に、その行動と存在の責任を70年か80年の短い人生において、すべて取ることは不可能なのです。これに対して、聖書は人間は単なる高度な霊的存在であるばかりではなく、永遠の存在でもあるがゆえに、その責任を永遠の世界において取らなければならないと明確に教えています。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

 しかし、神は正義のお方であり、聖なる神ですが、同時に愛と恵みに満ちた神でもあるのです。それで、神は罪深い人類の救いのために神ご自身のひとり子、イエス・キリストをこの世にお送りくださり、この御方が十字架にかかって、私たちの身代わりに死んでくださり、また三日目によみがえってくださいました。これは、人知をはるかに超えた偉大なる神の愛であり、驚くべき愛です。この尊い主イエス・キリストをすべての人が自分の個人的な救い主として信じて、永遠の滅びから救われるように神様は望んでおられるのです。 
  
●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「わたし(キリスト)は道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもと(天国)に来ることはありません。」(ヨハネ14:6)。

●「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」 (ヨハネの福音書14:27)。

●「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。‥‥しかり。彼らはその労苦から解き放たれて休むことができる。‥‥」(ヨハネの黙示録14:13)。  

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★死の恐怖から救われた船長

2007-02-24 | 「人の死とその備え」

 これは、ある外国の実際にあった話です。ジョン・コーツ船長は頑丈な体格をした荒々しい男で、人々に恐れられていました。しかし、ある航海の途中病気にかかり、自分の死が近いのを知ったのです。それとともに、死に対する不安と恐怖に襲われ、救われたいと望んで、まず船の一等士官を呼びました。「K君、私はじきに死ぬだろう。安心できるように祈ってくれないか。」と頼みました。ところが、彼は「船長、私は今まで一度も祈ったことがありません。」と答えたのです。

 船長は続けて、「では、君の聖書を持って来て、適当なところを読んでくれないか。」と頼みました。ところが、「船長、私は聖書も持っていないのです。」との答えです。「しかたがない。第二士官を呼んでくれ。」やがて、第二士官が船長のベッドの傍らに立ちました。しかし、第二士官も次に呼ばれた第三士官も祈ることも出来ず、聖書を持っていなかったのです。哀れにも、まさに死に直面している船長のために、祈りのできる者か、聖書を持っている者をくまなく探したのです。

 ようやく、コックボーイの一人が聖書を持って、いることが分かり、船長のもとに呼ばれました。「H君、そこに座って私のために聖書の中から適当な箇所を読んでくれないか。」 ところが、少年Hは、聖書のどこを読んだらいいか分からなかったのです。そして思い出したのは、母親がいつも子供の頃に読んでくれた旧約聖書のイザヤ書53章でありました。その箇所は、キリストが誕生される700年以上も前にキリストについて預言されて書かれたところであったのです。少年はさっそく読み出して、5節のところまで来たのです。そこには、次のように書いてありました。

●「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ書53:5)。

 自分の救いのために熱心に聞き入っていた船長は、この聖句に至った時、突然叫んだ。「ちょっと、待ってくれ。今のところをもっとはっきり知りたい。もう一度、読んでくれないか。」それで、その少年によって、その聖句がもう一度繰り返して読まれました。それを聞いていた船長は、「ううん、そうか、そうか・・・・。」とうなずきました。その時、H少年は、勇んで言ったのです。「船長!私が家にいてこの聖句を読んだ時、母に言われて、『私たち』の代わりに、私の名をその中に入れて読んだことがあります!」

 コックボーイのH少年は、「・・・・彼(キリスト)は、Hのそむきの罪のために刺し通され、Hの咎のために砕かれた。彼への懲らしめがHに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、Hはいやされた。」と自分の名前を入れて読みました。そのとき、船長には、身を乗り出すようにして、「H君。今、君が入れた名の代わりに、私の名のジョン・コーツ、ジョン・コーツを入れて読んでくれないか。」それで、H少年は、船長が言われるままに、次のように読み出しました。

 「しかし、彼は、ジョン・コーツのそむきの罪のために刺し通され、ジョン・コーツの咎のために砕かれた。彼への懲らしめがジョン・コーツに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、ジョン・コーツはいやされた。」と。船長は言いました。「もうそれでよい。ありがとう。」 コックボーイの少年が去った後、船長の耳にこの聖句は鐘の音のように繰り返し繰り返し彼の心に響いたのでした。これは、ジョン・コーツが、今までに経験したことのない不思議な心の平安でした。

 そして、ジョン・コーツは心は喜びで満たされ、キリストの十字架の死がまさしく自分のためであることを知り、それを受け入れて、みことばの約束の通り神の子となる特権を得たのです。そして、数日後、船長の霊はこの世を離れて、神のみもとに召されたのです。これは、何と感動的な話ではないでしょうか。人は、今、どんな健康な人も、いつかこの世を去らなければならないときが来ます。そして、その行き先は、聖書の語るところによれば、天国か地獄かのどちらかなのです。

●「しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネの福音書1:12) 。

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」



★死亡率100パーセント

2006-12-12 | 「人の死とその備え」
  
     

●「あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」(アモス書4:12)。
 
   師走は何かとあわただしい時節ですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。ところで、もしあなたが「死亡率は100パーセントです!」ということばを耳にされたら、あなたは、「一体それは何の病気ですか?」とお尋ねになられるのではないかと思います。「何かの癌の病気だろうか?」とか、その他、「ウイルス感染による何かの病気かもしれない。」などと、いろいろ思いを巡らすことでしょう。参考のために申し上げますと、因みに、ある統計によれば死亡の原因として日本で多いのは平成17年では、癌が30.1%、心臓病16.0%、脳卒中12.3%、肺炎9.9%。この4つで7割だそうです。でも、10代は事故死が多く、20代は自殺が多いという結果が出ています。

 それでは、一体「死亡率100パーセント」というのは、何が原因なのだろうか?と思われることでしょう。単刀直入に申し上げましょう。それは、「人間の死亡率は100%」ということです。癌にならなくても、交通事故に遭わなくても、戦争やテロで死ななくても、人間は最後にはみな100%死ぬのです。いかに医学が進歩したとしても、日本人の平均寿命が伸びたとしても、人はみな最後には死ぬのです。そして、「自分は今は若いから安心だ!」とか、「自分は健康だから安心さ!」などと言うことはできないのです。若い方も、ある日突然、何かの事故に遭遇しないとは断言できません。健康には自信があると思っている方も、安心はできません。ある日、突然急病で倒れ、救急車で病院に運ばれたら、もう心臓が停止して息を引き取ってしまっていたということも決して珍しくないのです。

 世界中で、平均すると1年に6千万人が亡くなっています。1日に換算すると、世界中で、16万5千人位の方が亡くなっている計算になります。もちろん、その中には生まれて間もない赤ちゃんや幼児もいれば老人もいます。豪邸に住んでいるお金持ちの人もいれば貧乏人やホームレスの人もいます。身分の高い人や権力者もいれば、その反対に身分の低い人もいます。また、頑健な体を持った健常者もいれば、身体障害者もいます。人種も様々です。「死」はすべての人に平等に、必ず来るのです。人間はだれでも、できるだけ自分の「死」について考えないように努めようとしますが、これは、どうしても避けることのできない現実です。

 ですから、「私は絶対大丈夫!」と言い切れる人はだれもいないのです。「死」の問題はすべての人に無関係ではありません。どのようなことでも他人の問題として考えているうちは、人はそんなに真剣にならないものです。しかし、自分自身の問題として捉えるときに、初めて真剣に考えるようになるのではないでしょうか。「死」はあなた自身の最も重要な問題です。新約聖書の中で、主イエス・キリストは権威のあるおことばで、次のようなお話をなさいました。これは、例え話ではなく、事実であります。イエス様は多くの例え話をなさいましたが、その中で名前が出て来たことは一度もありません。しかし、この話には「ラザロ」という名前が出て来ますので、実話であることが分かります。

●「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 ‥‥」(ルカの福音書16:19~28)。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

 人は死んだら何もなくなって無の世界で、「死んだらもうおしまいだよ。」と思っておられる方も多いですが、神の言葉である聖書によれば、決して肉体の死ですべてが終わりではなく、人間はみな神の前には罪人ですから、死後には神の永遠のさばきがあることを教えています。しかし、神は愛なる御方ですから、人類が救われる道を備えて下さいました。その救いの道というのは、神がご自分の御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになられ、赤子としてユダヤ寒村ベツレヘムの馬小屋で誕生せられ、33歳の時に、私たちの罪を背負って十字架に掛けられ、身代わりに死んで、三日後に復活されたことであります。どうか、この大いなる神の愛をお知りになって下さい。キリストを救い主と信じることこそ、「死」に備えることなのです。そして、このイエス・キリストの御名による以外には救われる道はないことも聖書は断言しているのです。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。
 
●「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への手紙5:6~8)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「この方(キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには私たちが救われる名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。」(使徒の働き:4:12)。


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★やがてその日が来る!

2006-11-02 | 「人の死とその備え」

 ●「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。 」(マタイの福音書24:37~39)。
 
 みなさんは、今の世界がいつまでも平和で、この地球環境も住み心地が良く、幸福な日々を過ごすことができる時代が長く続くのを願っておられると思います。しかし、この地球は、ますます温暖化による環境破壊が進み、異常気象による災害は毎年のように甚大な被害をもたらしつつあります。それだけでなく、人間の心の腐敗と不道徳と汚れは目を覆うばかりで、人々の犯罪はますます悪化の一途を辿っています。その上、国際間の緊張状態は増すばかりで、世界の指導者たちは絶えず、戦争回避とテロ対策に頭を悩ませているのです。また、教育の現場もいじめによる子供の自殺が相次ぎ、どこから手をつけて良いか分からないほど病んでおります。一体、これからの世の中はどのようになるのでしょうか。

 世界の各地で、核実験が行われ、殺人兵器生産のための研究が行われ、そのために膨大なお金を費やしています。すでにこの地上には、この地球を数十回も焼き滅ぼしてしまうだけの核が保有されていると言われています。今や、人類は自らの力でこの世界に破滅をもたらそうとしているのです。多くの世界の指導者たちは、この恐るべき身の毛もよだつような可能性について語っているのです。しかし、この世には、将来この世界にどのようなことが起こるかを正確に預言している書物は神のみ言葉である「聖書」だけであり、その聖書の預言が成就する確率は100%です。実は、聖書の大部分は人類の将来について書いていると言っても過言ではありません(聖書が書かれた時点においての話です)。

 聖書によると、神(God)はこの広大な宇宙をお造りになられ、地球上のあらゆる植物や動物をお造りになられたのですが、そのような偉大な神が、私たち人間をもお造りになられたのです。最初に造られた人間アダムとエバ夫婦は、エデンの園で、神との交わりを楽しみ、何の不自由もない、幸福で平和な生活を営んでいたのです。そこには、憎しみや争いはありませんでした。苦しみも病気も涙もありませんでした。「エデン」とは、「歓喜」とか「喜び」という意味がありますが、人類に「罪」が入って来る前の「エデンの園」には、食物も十分にあり、平和な喜びが満ち溢れていたのです。神との間にも幸いな愛の交わりがあって、人間は来る日も来る日も、至福の楽しい時間を過ごしていたのです。

 しかし、そのような幸福は長くは続かなかったのです。やがて、人間は神の掟を破り、神に背を向けて、自分勝手な自己中心の罪の生活を始めたのです。その結果、この世界にはいろいろな苦しみが入って来ました。家庭内では夫婦の間にも亀裂が生じて、互いに責任転嫁をし、兄弟間では妬みによる殺人事件まで起こるようになりました。そして、最初にアダムが犯した罪は、時間の経過と共に人類の中に深く浸透していったのです。そして、今から数千年前、あのノアの時代には、この地上は非常に堕落し、不道徳が横行し、悪がますます増大していたのです。旧約聖書の最初の書である創世記(6章以降)では、その時代について次のように記録されてあります。

●「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。・・・・・・地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。」(創世記6:5~12)。

 何代もの歴史を経ると、人間はさらに悪を重ね、もっともっと悪くなって行ったのです。けれども、とうとう神の忍耐の緒が切れる時がやって来たのです。「わたしが創造した人類をこの地上から滅ぼす。」と、神は言われたのです。ノアの時代は、非常にすばらしい文化と文明が発達していました。しかし残念ながら、人々は神の掟(おきて)を破ったのです。それで、神はこれらの人々を、大洪水によって「滅ばす」と言われたのです。神は愛の御方ですが、罪をさばかれる正義の神であり、怒りの神であります。ノアの時代は、性的な不道徳が氾濫し、神が定めた結婚関係も軽視され、全地球上に暴虐が満ちていた時代、暴力の時代でした。現代の世相も同様であり、多くの点でノアの時代と類似しています。

 ところが、神にはできないことが一つありました。神を信じ、神の御前に聖よい生涯を送っていたたった一人の人を滅ぼすことが出来なかったのです。神がこの地球をご覧になられた時に、主のみ心にかなった生活をしていたノアとその家族がいたのであります。「ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」(創世記6:9)と記されています。ノアは神を信じていました。毎日お祈りをしました。彼は妻に対して誠実を尽くしました。彼は子供たちを正しく導きました。偽りを言わない真実な人であったのです。そして、どんなに迫害されても、たった一人でも神の前に立ち上がった人であったのです。

 神様は、このノアとその家族を救う方法を考えました。ノアに大きな箱舟を造ってその中にノアとその家族といろいろな動物を入れるように命じました。箱舟の大きさも造り方も教えましたが、ノアは神様に命じたとおりにしたのです。人々はノアを嘲笑し、ばかにしました。「洪水なんか来るはずがない!ノアのやっていることは馬鹿げている!」と人々は彼を笑い、嘲りました。しかし、ノアは黙々と箱舟を造り続けたのです。多分、砂漠か小高い山の中腹に彼は箱舟を造っていたと思われます。人々はノアが気が狂ってしまったと考えたに違いありません。しかし、ノアは信仰を神においてたった一人でも立ったのです。

 神は、「あと七日たつと、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から滅ぼす。」と言われました。それで、ノアは「やがて大洪水がやって来る。」と大声で叫び、人々に警告し、罪を悔い改めて神に立ち帰るように勧めましたが、人々は雲一つない空を見上げて、大笑いして、ノアの声に耳を傾ける人は一人もありませんでした(ノアの家族以外に)。しかし、いよいよ最期の日がやって来ました。すべての動物の一つがいずつが箱舟に入って行きました。ノアは多分、箱舟の入り口で、目に涙を浮かべて、「みなさん、罪を悔い改めて神に立ち帰ってください。」と繰り返し訴えたことでしょう。そして、最期にノアとその家族が箱舟に入ったのです。

●「・・・・それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。それから、大洪水が、四十日間、地の上にあった。水かさが増していき、箱舟を押し上げたので、それは、地から浮かび上がった。水はみなぎり、地の上に大いに増し、箱舟は水面を漂った。水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。 水は、その上さらに十五キュビト増し加わったので、山々はおおわれてしまった。」(創世記7:16~20)。

 これは、歴史上に実際に起こった出来事であり、また現代に生きる私たちに無関係な話ではないのです。今日もノアの時代と同じように罪と不道徳が蔓延しています。しかし、神は正しい方であると同時に愛の御方であります。神は約二千年前、私たち罪人を救うためにご自身の御子イエス・キリストを救い主として、世に遣わされ、罪のない御子を十字架にまで架けて身代わりに罰しなさったのです。たった一つの天国に行く道があります。それはキリストによる道です。キリストが自分の身代わりに十字架で死んでくださり、三日後に復活されたことを心から信じることです。現代にも、ノアの時代と同様「箱舟」があります。それは、イエス・キリストです。みなさん、どうか、一刻も早く今の時代の箱舟を示すイエス・キリストに逃れて神のさばきから救われてください。

●「確かに、今は恵みの時、救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)。

 あの大洪水の時、箱舟の入り口の戸を閉めたのは、ノアではなくて、主(神)ご自身であったことを覚えてください。今の新約の恵の時代もいつまでも続くのではなく、神が恵の時を終わらせる時が必ず来るのです。どうぞ、あなたも是非、真剣に、ご自分の問題としてお考えになって下さい。やがて、神が箱舟の戸をお閉めになる時が来るのです。そして、その日は迫っているかもしれないのです。新約聖書には、300回以上もキリストは再び来られる(再臨)ことが書かれています。信じる者を天に引き上げ、不信者をさばくためです。あなたが、救われる唯一の道は、あなたが罪を悔い改めてイエス・キリストを心の中に受け入れることです。周囲の人々がばかにしても、どうか堅く信仰に立って下さい。神はすべての人々が救われることを望んでおられるの愛の神なのです。

●「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」 (Ⅱペテロ3:3~7)。

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」 

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★決断を遅らせてはならない

2005-09-14 | 「人の死とその備え」

       

 いつも古い話で恐縮ですが、昭和46年1月、北海道美唄市のある美容院(室)の美容師宿舎において悲惨な火災事故が起こり、人々の涙を誘ったことがありました。当時の新聞報道によりますと、その時、寝室の窓には化粧格子がはまっていて、非常口もなかったそうです。火災現場では、幅1メートル位の狭い階段で、10人の女性が絡み合うようにして倒れていました。しかも、一人を除いた他の女性はみな16歳~27歳までの若い女性ばかりであったそうです。しかし、一つ不思議に思われることがありました。それは、全員がきちんと身支度し、オーバー、ハンドバック、またはある人は手袋まで嵌めていたのです。もし、彼女たちが火災に気づいたとき、洋服を着るより先にいち早く逃げていたら、あるいは助かっていたのではないかとも考えられます。  
  
 火事場での女性の物惜しみなのか、年頃の娘さんらしい身だしなみなのか、その辺のことは想像の域を出ませんが、実に悲しい出来事であり、当時の新聞のニュースを読んだ時、同情の涙を禁じ得なかったことを記憶しております。調べてみると、昭和7年にも東京の白木屋大火で、身だしなみにこだわった多くの女店員が逃げ遅れて亡くなったことがありました。白木屋は、寛文2年から続く江戸の老舗であり、三越と並ぶデパートとなり、昭和6年に新ビルが完成して間もない昭和7年12月16日に大火があり、店員・問屋関係者14人が犠牲となったのです。4階おもちゃ売り場の歳末の飾り付けに、電球の火花が引火し、商品に燃え移り、あっと言う間に大きな火事になったということであります。 家事だと気づいたら、まず急いで逃げる決断をすることが肝要であります。どんなに身だしなみを整えても、逃げ遅れて死んでしまったら何もならないのです。

 さて、前置きが長くなりましたが、神のことばである聖書は、神に背を向け続けているこの罪の世界は、やがて神の審判を受けようとしていることを明言しております。しかし、神は罪を犯して永遠の滅亡に向かっている人々を愛しておられ、ご自身のひとり子、イエス・キリストを救い主として世に遣わされました。そして、神の御子イエス・キリストは十字架につけられて、私たち罪人のために身代わりに聖よい神の刑罰を受けて死んでくださいました。この世界には、必ず、神の怒りの裁きが下る日が来るのであります。でも、イエス・キリストを自分の救い主と信じる者は救われて、永遠のいのちを受け、死んだ後にも、天国に入ることができるのであります。神は真実であり、偽りを言うことはありません。その偽りのない真実な神のことばが聖書なのです。

 そして、今の恵みの時は決していつまでも続くものでないことを聖書は語っています。今こそ、キリストを信じる決断をすべき時であり、その決断を遅らせてはならないことを教えています。聖書が勧めていることは、「いのちか死か」、「救いか滅びか」、「天国か地獄か」、二者択一の選択を迫っているのであります。この世界は確かに急速なスピードで終末に向かって突進しています。この世界は、譬えて言えば座礁して遭難、沈没しかかっている船のようであります。船客であるあなたがすべきことは、船からの脱出であり、破損した箇所を修理したりすることではありません。そのような時間はもう残されていないといってもよいでしょう。この世界は、もっと深刻な緊急な状況下にあるのです。

 神様は、すでに巨大な救命ボートを用意しておられます。急いでそのボートに飛び降り、脱出することが求められているのであります。そのライフ・ボートは、「イエス・キリスト」であり、キリストの十字架と復活の福音こそが人類を救われる唯一の神の方法です。その他に救いの道はないと聖書は繰り返し語っています。「遅すぎる決断は決断しないことと同じです。」とある人が言ったことばを覚えています。すべてに優先すべきことは、キリストを自分の救い主として受け入れることなのです。どうか、みなさん、聖書は神の永遠の真理の言葉です。単なる宗教の一つではありません。イエス・キリストの福音を信じる決断が遅すぎないように、躊躇しないで急いで決心して下さい。
 
●「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒の働き4:12)。

●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネの福音書3:36)。

●「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイの福音書7:13,14)。
  
●「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。 」(ローマ人への手紙13:11~14)。) 

●「見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。‥‥私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」(申命記30:14,19)。

●「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(コリント人への第二の手紙6:2)。 


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★人間のいのちの価値

2005-09-03 | 「人の死とその備え」



●「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。 自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。 」(マルコの福音書8:36,37)。

  最近は、人命があまりにも軽く扱われ、簡単に人のいのちを奪ってしまうような事件事故のニュースが多いので、人間の尊厳は一体どうなったのかと何か悲しくなってしまうことがあります。冒頭のみことばは、人間のいのちの価値を正しく知っておられる神の御子イエス・キリストのことばです。人のいのちは、全世界のすべてのものをもってしても代えることのできないほど尊いものであるとイエス・キリストは語っておられます。

 この世の中には、価値のあるものがたくさんありますが、本当に価値のあるものは決してお金に替えることの出来ないものなのです。そして、人間のいのちにも決して値段をつけたり、お金に替えたりすることができないのです。しかし、現実には、何かの事故などで人命が失われたりしますと、必ず補償の問題が起こって来ます。人間の命の問題をお金で解決することなど不可能であることは当然でありますが、しかし、それでも止むを得ず、命に値段をつけなければならないことが現実に起こるのであります。参考までに、、過去のいくつかの事故の補償金について例を上げてみますと以下の通りです。

 昭和29年、青函連絡船「洞爺丸」事故の補償金は、1人56万5千円だったそうです。それから12年後の昭和41年の全日空機羽田沖墜落事故では、死亡者1人に500万円が支払われました。そして、昭和60年8月の日航ジャンボ機が群馬県御巣鷹山に墜落した事故は、まだ記憶に新しい方も多いと思いますが、当事者の年収などを基に算定して、平均6.000万~8.000万円が支払われたとお聞きしました。そして、現在、車の任意保険では、対人は1億円以上が常識と言われている時代であります。しかし、日本を離れると、事情は少し異なって来ます。平成に入って間もなくの頃だったと記憶していますが、中国へ修学旅行に出かけた高知学芸高校の生徒と先生28人が列車事故で死亡したという悲惨な事故がありました。その補償交渉の結果は、1人で500万円だったのです(同じ事故で亡くなった中国人の犠牲者は何とたったの8万円であったそうです)。あまりにも安い「命の値段」ではないでしょうか。

 私がこのような実例をいろいろと申し上げましたのは、人間の命に値段をつけることがいかに困難であるかということを示したかったからであります。人間は人の命が尊いものであることをどなたでも、知っていると思いますが、しかし、人間が考える命の価値と神様がお考えになる命の価値との間には大きな開きがあることが分かります。イエス・キリストは、一人の人間の命は、全世界のすべての金銀財宝をひっくるめたものよりも価値があると言われたのです。そして、人間の命について考えなければならない大切な事実は、一度いのちを失ったならば、どれほどの代価を払っても、もう再びその命を買い戻すことは不可能であるということなのです。

 全世界の富をもってしても、たった一人の人間の命を買い戻すことができないのです。人間の命がいかに大きな価値があるかお分かりかと思います。それなのに、人々は人の命をあまりにも軽々しく扱い、粗末にしているのではないでしょうか。日本では、1年間に平均して25.000人くらいの自殺者があるという最近の統計があります。もちろん、自殺に至るいろいろな事情があるのは分かります。しかし、人間の命の価値がどれほど尊いものであるかという自覚が希薄であるということは確かなことではないでしょうか。また、最近は、大人の命も子供の命もあまりにも軽々しく奪われて行くのを見ると、本当に恐ろしくもありまた悲しいことです。そして、人がどのように評価しようとも、人間の命は社会的身分や人種や貧富の差や老若男女によって区別などはなく、みな同じ価値があるのです。

 しかし、聖書が重んじているところの人間のいのちの尊さというのは、単なる肉体的な命のことだけではなく、人間の魂の価値と「霊的ないのち」のことであります。すなわち、人間の永遠のいのちの問題です。上述した事故の補償の問題などは、みな人間の肉体的な命の問題ですが、もっと大切ないのちがあるのであります。人間の肉体的な命は、この地上に生きているだけですが、人間のたましいは永遠に存在するのです。人間は肉体的な死をもってすべてが終わるのではなく、死後において神のさばき(第二の死)を受けなければならないのですが、イエス・キリストは神から離れて永遠の滅び(地獄)に向かっている私たちを憐れみ、救い出すために父なる神から遣わされ、私たちの罪のために十字架で身代わりに神のさばきを受けてくださった唯一の救い主なのです。

 ですから、人生にとって最も尊いものは、「永遠のいのち」であります。キリストの福音を拒んでこれを失ってしまう人生はまことに空しく希望のない人生であります。大切なのは、キリストを信じて、この霊的な新しいいのちをキリストから受けることです。そのためには一つの決断が必要です。そして、この霊的な永遠のいのちを失ってしまうならば、どのような代価を払っても、それを再び買い戻すことは不可能なのです。「自分の身代金を神に払うことはできない。たましいの贖いしろは高価であり、永久にあきらめなくてはならない。」(詩篇49:7,8)とあります。神への不信仰による永遠の損失を金銭によって穴埋めすることは不可能なのであります。どうか、みなさんがイエス・キリストを信じ受け入れて、神が与えようとしておられる「永遠のいのち」を、是非、ご自分のものとなさってください。
   
●「人の子が来たのが、多くの人のために贖いのために贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(ペテロ第一の手紙マタイの福音書20:28)。

●「あなたがたが、先祖から伝わった空しい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷も汚れもない子羊のようなキリストの血によったのです。」(ペテロ第一の手紙1:18,19)。

●「わたし(キリスト)は彼ら(信じる者)に永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父はすべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」(ヨハネの福音書10:28,29)。 

            
 

★人間は単なる物質の塊?

2005-06-27 | 「人の死とその備え」
    
  すべての人は、やがてただ一人で、地上のいかなる友人からも、親しい家族からも離れて命から死への有限な時間から永遠への境界線を踏み越えなければならない時が来るのです。そして、人間の命は最後の呼吸、最後の鼓動ですべてが終わってしまうのでしょうか。ある人々は、人間は死んだらすべてが終わりで、「無」の世界であると考えます。決して、そうではありません。肉体の機能は停止し、死とともに冷たくなり硬直が始まりますが、しかし、魂は永遠の中に歩を進めるのです。

 ある日のこと、一人のキリストの伝道者に、人間に魂があることを決して信じないという一人の男の人が近づいて来て、「博物館に行ってみてください。そうすれば、人間を構成しているあらゆる物質が展示してありますから、人間を造り上げている16品目の中には、いくらかの水分、澱粉、石灰、糖類、りんなどがあります。しかし、『魂』と記された品目などありませんよ!」と、勝ち誇ったように言いました。そのキリストの伝道者は、その男に振り向いて、「私は忙しいのです。申し訳ありませんが、あなたとお話している時間がありません。」と言いました。

 「そらね!あなたがたクリスチャンはみんな同じなんです。科学的な事実に直面すると、あなたがたは、逃げるのです。あなたがたは答えることができないのです。」とその男は叫びました。伝道者は彼に答えました。「あなたは大変な誤解をしていらっしゃいます。私が理論的な多忙な人間だからこそ、何リットルかの水、幾グラムかの糖類、澱粉、石灰、燐などとお話する時間がないのです。もし、私の友人たちが、私がそのような無生物の混合物と話しているのをだれかが見たら、さぞかし、私が頭がおかしくなったのではないだろうかと考えるに違いありません。」と、その伝道者は答えました。その男はそれに対して、何も答えることができなかったそうです。

フランスの有名な哲学者アンリ・ベルグソン氏は、「人が死んだら、それでおしまいだと考えるただ一つのはっきりした証拠と言われているものは、死体を放置しておくと腐ってなくなってしまうということである。だから、もし、人間の肉体を離れての精神活動が少しでもあるということになれば、死後の世界がないという証拠はなくなってしまう。」ということを言っていますが、彼は正直に語っており、これは傾聴に値することばであります。しかし、人間はだれでも、自分が単なる肉の塊ではないということを認めているのです。

 人間には、疑う余地もなく、私たちが身体と呼ぶことができる驚くべき機械よりもすぐれたものがあります。すべての人間には「たましい」があるのです。それゆえ、人間は死後も永遠に存在し続けると伝えております。あの有名なゲーテのことばですが、 「霊魂は不滅である。何となれば、人々はこの考えを欠くことができないから・・・・」と言っています。人間が永遠を考えること自体、霊魂が永遠に存在することを証明しているというのであります。人間が「たましい」を持っているのではなく、人間はたましいそのものなのであります。私たちは、その人の顔や服装や外見を見て、「あの人が田中さんです。とても温厚な立派な方です。」とか言ったり、判断したりします。しかし、その人の内側の、心、精神、霊魂とかは目に見ることができないのです。

●「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息(霊)を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)。

●「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。 」(伝道者の書3:11)。

●「こうしてついに、銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉のかたわらで砕かれ、滑車が井戸のそばでこわされる(肉体の死を意味する)。 ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」(伝道者の書12:6,7)。


 人間は、死によって、肉体はもとのちりに帰り、霊は神のもとに帰るのであります。ここで、誤解しないでいただきたいことは、人間は死んだらみな天国に行くということではなく、人が死ぬと、私たちの霊はもはや自分の意志ではどうにもならないところ、つまり神の御手の中に帰って行き、正当なさばきを受けなければならないということであります。神が備えられた救いを受け入れた者と、救いを拒んだ不信者とは当然、その行き先が違うのであります。ですから、人が、食べることや着ることに心を配り、体の病気が治っても、その人のたましいが死後永遠の滅びの苦しみから救われなければ、その人生に何の意味がるのでしょう。また、どうして人生の幸福を味わうことができるでしょうか。

 イエス・キリストはある時、人々に向かって次のような譬え話をなさいました。ルカの福音書12章にある話です。ある金持ちの農夫の畑が豊作になり、彼は、心の中で「どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。」と考え、 そして言いました。「あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。 」そして、自分のたましいに向かって、「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」と言おうと考えたのであります。しかし神はその彼に対して次のように言われたのであります。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」

●「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。 」(マタイの福音書16:26)。

●「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。 」(Ⅰテサロニケ人への手紙5:23)。


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★今こそ決断の時です!

2005-06-14 | 「人の死とその備え」

■□■□   ある青年が、初めて家を離れて、大学に入りました。彼の両親はクリスチャンだったので、その家庭生活は聖書の教えに基づいていました。大学生になった息子は、家から離れたこの機会に、この世のいろいろな快楽を経験したいと思いましたが、小さい時から聖書の話を聞かされていたので、罪を赦されないまま死んで神に会うことが怖かったのです。 青年は、その大学教授のひとりがクリスチャンだと知って、その教授に相談に行きました。「先生。ぼくは死ぬ前に神に会う準備をしたいのですが、どのくらいの時間があればよろしいでしょうか。」
 
 その学生の質問に教授は、「5分もあれば十分でしょう。」と答えました。青年はそれを聞いてちょっと驚きましたが、大いに安心して、お礼を言って帰ろうとしました。これからも思う存分に快楽や罪を楽しんで、自分の人生の終わりが来たときに神の赦しを得て救われようと考えたからです。しかし、教授が学生を呼び止めて言いました。「今度は、私が君に質問したいことがあのだが、答えてくれるかね。」「はい、何でしょうか。先生。」と学生は不思議そうに尋ねました。「君はいつまで生きると思いますか?」その学生は答えました。「さあ、それは誰にも分からないと思います。」

 そのあと教授は次のように言ったのであります。「それなら、今すぐ、神に会う備えをした方がいいですよ。あと5分生きられるという保証は何もないのですから。」このあと、この青年がどういう行動を取ったかについては、みなさんのご想像にお任せしたいと思います。しかし、今日、多くの人々がキリストの福音(良きおとずれ)を聞いても、この青年と同じように考えています。若い時には、好きなことをして、年を取ってから死ぬ直前に、神に呼び求めて救われたらそれで良いのではないかと考えるのです。しかし、一体だれが自分の死ぬ時を知っている人がいるでしょうか。

 このように考える人々の多くは、(新約聖書のルカの福音書23章の記事にあるのですが)主イエス様といっしょに十字架につけられた二人の強盗のうちの一人が、その生涯の最後に赦されて天国に行ったことを引き合いに出して弁明しようとします。そこで、この出来事をもう少しよく考えて見たいと思います。犯罪人の一人と数えられ苦しんでおられた救い主イエス様が、二人の強盗の間で十字架につけられたのであります。そして、それは真中の十字架にかけられたイエス・キリストは、その三人の中で一番悪い者とされたことを意味しております。

 初めのうち、強盗は二人ともイエス・キリストをののしっていました。けれども、主イエス様の苦しんでおられる姿を見、また主イエス様がご自身を十字架につけた者たちのために「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」(ルカ23:34)と祈られるのを聞いて、一人の強盗は、自分の罪を認め、今までの神に背を向けた罪の人生を悔い改めたのです。そして、その悔い改めた強盗の一人は、「イエス様。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」という、すばらしい信仰の告白をしました。これは実にすばらしい信仰告白です。血を流しつつ、苦しんでおられる主イエス様は、決して王様らしくはありませんでした。しかし、信仰の目をもって、その強盗はイエス様は確かに主であり、王でると認めたのであります。

 この強盗は永遠にこのようなすばらしい優れた御方、偉大な救い主と共にいたいと願ったのであります。そして、救い主イエス様は彼の祈りに答えてくださり、彼は救われたのです。けれども、もう一人の強盗がいました。彼もイエス様の脇にいて同じことを見、同じことばを聞きました。しかし、彼が救われたとは、聖書のどこにも書かれていません。イエス様といっしょに十字架につけられた二人の強盗の一人は救われて、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」との幸いな約束のことばをいただき、もう一人は滅びたのであります。

 聖書が十字架の二人の強盗の出来事を記録している理由は二つあります。そして、その一つの理由は、死の直前でも、悔い改めた一人の強盗が救われたのですから、どのような状況にある人でも最後まで絶望しないで神の恵みにすがるならば、救いを受けることができるということを教えているということです。臨終の最後の数分でも、救われるチャンスはまだ残されているということであります。そして、もう一つの理由は、もう一人の強盗が前の強盗と同じイエス様を見、また十字架上のとりなしの祈りを聞いたのに、救われることなく永遠に滅びたという厳粛な事実であります。ですから、神が与えておられる救いのチャンスをあとに引き伸ばしてはいけない、決断の時を遅くしてはならないということを教えているということです。

●「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。 悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。 」(イザヤ書55:6,7)。

●「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』という年月が近づく前に。」(伝道者の書12:1)。

●「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」(箴言27:1)。

●「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント人への手紙6:2)。


 神様は、憐れみ深い御方であり、悔い改めて神に立ち返るなら、救い主を受け入れる者はだれでも無条件で赦し、受け入れてくださるのです。求めても遅すぎることがあることを聖書は教えています。「遅すぎる決断は決断しないのに等しい。」というのは真理であります。神の恵みの時は永遠に続くのではありません。ルカ伝16章の「金持ちとラザロ」の話で、あの金持ちは死んでから求めましたが、すでに遅すぎたのです。ノアの大洪水の時も「主は彼(ノア)のうしろの戸を閉ざされた。」(創世記7:16)とありますが、戸が閉ざされたあと、人々が救いを求めてもすでに遅すぎたのです。

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★死に勝利する人生

2005-05-06 | 「人の死とその備え」

          

  最近は、道を歩いている時も、通勤電車に乗っている時も、車を運転している時も、登下校時の小学生であっても、どこにいても、何をしていても、「ここなら安全‥‥」という場所がなくなりつつあるように思われます。児童が学校で勉強している時にも、突然、暴漢が学校に侵入して襲われて殺傷されるという事件もあれば、一家で家族が団欒しながら、楽しい夕食を共にしている時でさえ、車が突っ込んで来て、一瞬にして命が奪われるということもあります。人災もあれば、天災もあり、いつ何が起こるか誰も予測することもできないような時代に生きているのです。今朝も、深夜に自宅で寝ていた老婦人が車に轢き逃げされて即死するという痛ましい事故のニュースが報じられていました。想像もできないような事故(事件)です。

 人生と死についてある人が語った次のような言葉を読みましたが、誠に的を射た言葉ではないかと思います=====「私たちの人生は、今にも切れそうな細い糸にぶら下がっているようなものである。人生という旅路の一歩一歩には、墓が不気味に大きな口を開けて私たちを待っているのである。死はすべての人の敵である。帝王であっても、恐るべき刈り手の大鎌に屈しなければならない。科学者や医者はこの怪物を宮殿の扉から遠ざけようと勇敢に戦う。しかし、屍の衣をまとった恐怖の暴君は、こっそり護衛の中を通り抜け、王の寝室に忍び込み偉大な君主をも彼の黒いマントに包み込んでしまうのである。」

 確かに、すべての人は死から逃れることができません。死は、すべての人の最後の敵であり、しかも、すべての人を捕らえてしまいます。どんな権力者も、賢者であっても、死を逃れたり、死に打ち勝つことができないのです。たとえどれほど普段から健康管理に気をつけ、また体を鍛えている人であっても、必ず人間は死んで行くのです。やがて私たちはこの世を去り、家には食卓の空席と、着ていた服がハンガーに掛けられたまま寂しく残るのです。

 ある時、一人の看護師さんが次のように言ったそうです。「私は病室でどうすることもできない無力感に襲われるときがあります。死の近づいた患者さんがお医者さんの白衣を掴んで、『先生、助けてください!お願いです!私、怖いのです!』と泣きながらすがりつく姿を何度も見たのです。でも、私たちは、何もしてあげることができませんでした。私は‥‥あのような死に方をしたくありません。実は、私も死が怖いのです。」看護師さんだけでなく、医者もやはり死の前には無力であり、死に行く患者をどうすることもできないのが現実ではありませんか。医者は延命のために僅かに役に立つかもしれませんが、いかに医学が進歩しても「死」を解決する力はありません。白衣をパジャマに着替えてベッドに横たわり、死に慄いている医者は幾人もいるのです。

 では、人はなぜ死を恐れるのでしょうか。それは、死によってすべてが終わってしまうのではなく、死後に罪の罰を受けなければならないということを無意識のうちに知っているからです。聖書に、「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)と警告されています。神様から離れてしまった私たちは、人生の真の目的を見失いました。ちょうど、母親を見失った迷子の子供のように、人間の心は不安と恐れの心を抱きつつ、ただ、世の流れに流される者となったのです。世間が私たちの善悪を決めるのではありません。私たちの善悪を判断する基準は天地を創造された神様であります。今まで、神を無視し、神様に背中を向けて生きて来たことが罪なのです。やがて、死の魔の手が私たちに振り下ろされる時、神に会う備えをしていない者にとって、決して平安と希望はないのです。

 それでは、どうしたら、死に勝利できるのでしょうか。どうしたら、さばかれることなく天国に行くことができるのでしょうか。それは、イエス・キリストを自分の救い主として、単純に信じ受け入れることです。なぜなら、キリストは、神の御子であり、この地上に人間の姿をとってお生まれくださった救い主だからです。このお方は、ご自分が神の御子であられることの証拠を数々示して、最後に、私たちが犯した数々の罪のために身代わりとなって十字架で罪の罰を受けてくださり、私たちの罪を清算されたのです。そして死後、三日目に固く閉ざされた墓と死の壁をぶち破って復活してくださったのです。神様は、御子イエス様を私たちの代わりに罰し、彼を信じる者を天国に行けるようにしてくださったのです。

 御子イエス・キリストを信じて救われることは、決して難しいことではありません。救いは神様からの恵みであり、賜物なのです。あなたは、人からプレゼントをもらう時、ただ、感謝して、あなたの手を差し出してそのプレゼントを「ありがとう!」と言って受け取るだけでいいわけです。神様の救いを受けることもそれと同じことなのです。神様は、あなたが救われるために、善行とか、立派な行いとか、難行苦行したりなど、難しいことを要求しているわけではないのです。自分の罪を認め、心から悔い改めて感謝して、イエス・キリストを信じるだけで良いのです。今、すぐでもあなたはその救いを受けることができます。それは、あなたの心次第なのです。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ人への手紙4:25)。

●「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないた めです。 」(エペソ人への手紙2:8,9)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。


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★死に対する備えは?

2005-04-18 | 「人の死とその備え」
  


 人間は、通常は自分が健康な時ほど死を恐れません。また、若い人ほど死を他人事のように考える傾向があるようです。しかし、他人事としてだけ考えていた死が、いよいよ自分のこととして考えざるを得なくなった時、私たちは、誰でも、初めて忘れてはならないことを忘れていたという嘆きを感じるのではないでしょうか。しかも、準備すべきであったのに、何の準備もなく、この厳しい現実に、しかも、ただ一人で立ち向かわなければならないということに、恐ろしいまでの孤独感と絶望感を覚えるのであります。死に臨む時こそ、人生における最後の孤独の瞬間であります。その時、一体、だれに頼り、だれに訴え、だれにすがったらよいのでしょうか。
 
 人間はだれでも、借りものの思想で人生を送ることがいかに愚かであるかということを、自らの死に直面した時(あるいは、自らの死期が刻々と近づいていると悟った時)に初めて気づくのであります。借りものの思想では、絶対にこの死を乗り切ることができないのです。学者や知識人は、古今東西の多くの人々の知識や知恵を、自分の脳裏に蓄えています。そして、時として、それがあたかも自分のものであるかのような錯覚に陥るのであります。しかし、「死」という厳しい現実の前に立たされて、ごまかしは決して通用しないことを知らされるのです。

 人は、だれでも死を恐れます。医学的には、死を定義して「生命活動(生活機能)の永久停止」と呼ぶでしょう。しかし、私たち人間にとって、この科学的説明がなされたからといって、それで問題が解決したわけではないのです。医学が人間の生命活動の停止を科学的に確認して、臨終を告げた時、その科学的正確さとは無関係に、私たちの心の中には、死別の悲しみが襲って来ます。この悲しみ、不安、嘆きというものを科学的に説明することも、解消することも出来ないのです。

 ***人生には、目に見えない「死」という穴が、あちこちにたくさんあって、人はいつか必ずその穴に忽然と姿を消し、隠れてしまうのである。そして、一度その穴に落ちたらもう二度と出て来ないのである。一体死とは何なのか!!‥‥天に向かって叫んでも、もう死んだ家族は帰らないのだ。地に向かって慟哭しても、死んだ友人はもう帰らないのだ。ああ、死はなんと、冷酷で無常なものではないか!!***
私たちは、何事でも他人の問題として考えている間は、あまり真剣にならないのです。死についても同様であります。死は他人の問題ではないのです。あなた自身の問題です。

 支那の始皇帝は、不老不死の薬を求めて、世界中に使者を送ったと言われています。また、旧ソビィエトのスターリンが死んだあと、彼は、自分のために不老不死の薬を作り出そうと科学者を集めて三つも工場を建てていたことが分かりました。どのような権力者も、死を征服することが出来ず、また、死の恐怖を取り去ることは出来ませんでした。現在も、世界中の多くの科学者が不老不死の薬を作ろうとして研究しています。しかし、それでも、人間から、死を取り除くことはできないのであります。死の問題は、医学(科学)の問題ではなく、霊的な問題であるのです。

●「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。 笑うときにも心は痛み、終わりには喜びが悲しみとなる。」(箴言14:12,13)。 

 人が正しいように見える道であっても、究極的には死の滅びに至る道があるというのであります。人生の娯楽や笑いは、死の不安と恐怖、心の悩みを一瞬だけ忘れさせるだけにしか過ぎません。この世の、快楽や笑いによって、この死の問題を曖昧にごまかしてしまっても、心には平安も満足もないのです。

●「そういうわけで、ちょうどひとりの人(アダム)によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ人への手紙5:12)。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。


●「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主(イエス・キリスト)もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その(十字架の)死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、 一生涯死の恐怖 につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。 」(ヘブル人への手紙2:14,15)。

●「神は、罪を知らない方(イエス・キリスト)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。 」(コリント人への第二の手紙5:21)。

●「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 」(ローマ人への手紙4:25)。
 

 私たちは、聖書の中にのみ、死の問題の解決があることを見い出すことが出来ます。死の根本的な原因と、その死後のさばきからの救いは、神が世に遣わされた御子イエス・キリストが成し遂げてくださったのであります。「真の幸福は安全の背後にある」ということばを聞いたことがあります。どうか、あなたも、この問題を解決されまして、本当の幸福を掴んでください。あなたの罪のために、あなたの身代わりとなって、十字架で死んでくださり、三日目によみがえられたキリストをあなたの救い主と信じるだけで救われるのです。

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★ある老人の悲しい死

2005-03-24 | 「人の死とその備え」



  北海道の今年の冬は異常に降雪が多い年で、三月に入っても、まだ雪が降り積もっていたのです。最近になってやっと、雪解けが始まり、春の足音が近づきつつあるのを感じる季節となりました。
昨年の冷たい木枯らしが吹く初冬の頃であったと思いますが、私は隣町に住んでいた73歳になるTさん(男性)から、聖書のことを知りたいので訪ねてほしいとの連絡(はがき)をいただいて、何度か訪ねたことがありました。彼は、十年ほど前に奥さんを病気で亡くされ、長い間連れ添った妻に先立たれたTさんは、身寄りもなく、ひっそりと暮らしていたのです。

 最初に彼の家を訪問した時、玄関で立ち話をして帰ろうとしたのですが、勧められるままに、部屋に案内され、飾り気のない居間は雑然としていて、一目で老人の一人暮らしと分かる質素な生活ぶりを感じることができました。彼は、定年退職したあと、友人の保証人になったためにかなりの借金があり、それを返済するために、老骨に鞭打って、近くの高校の夜警の仕事をしていたのであります。そして、やがて来るであろう自らの「死」について、寂しげに話していたのが印象的でした。 その後、彼は聖書の福音を伝える集会 に熱心に集うようになり、聖書の話を頷きながら熱心に聞いていたのです。

 この3月の半ばの頃ですが、彼に電話しますと、その日の夜は仕事もなく、集会に出られるということで、とても喜んでいたのです。隣町までは、交通の便が悪いため、私は彼が集会に出られる時は、夜七時半からの集会に間に合うように車で迎えに行くようにしていたのです。そして、その日もいつもと同じように、七時十分頃、いつもの待ち合わせの場所まで、彼を車で迎えに行ったのです。
ところが、いつも時間に几帳面で私が行くのを待っているのが常であった彼が、その日は何故か、その場所に来ていませんでした。時間がないので、急いで彼の家まで走って行って見ましたが、玄関は鍵もかかっていない状態で、家には灯りもついていませんでした。私は、集会の時間があるので不審に思いながらも、急いでまた車を走らせて自宅に戻ったのです。

 気になっていたので、翌日、数回彼の家に電話をしてみましたが、通じなかったのです。 そして、三日後に友人からの電話で、昼前のテレビのローカル・ニュースで、Tさんが落雪事故で亡くなったことを報じていたとの知らせに、私も愕然としたのであります。あとで、新聞報道で知ったことですが、彼は、昨年12月に亡くなった友人宅(当時は空き家)の軒下を一人で除雪していた時に、屋根からの落雪に埋まり、窒息死したらしいということであります。彼は、二日以上の間、雪の下に埋もれたまま、だれも助ける人もなく、孤独な死を遂げたのであります。彼の人生はなんと、寂しい人生ではなかったでしょうか。そして、なんと、孤独な死ではないでしょうか。皮肉なことに、彼の家のすぐ近くに駐在所もあったのですが、誰も気づかなかったようです。

 人間の一生は、百人百様、みなその生き様も通る道も違っており、また、いつ死ぬか、いかなる死に方をするかも、だれも知ることができないのであります。病死、自然死、事故死、自殺、‥‥etc。そして、病死にしても千差万別、数え切れないほど、いろいろな種類の病気があります。事故死にしても、交通事故、海や山での遭難事故、あるいは、災害による事故など、挙げれば切りがありません。しかし、確実なことは、すべての人は、必ず、自らの死の時を迎えなければならないということであります。その備えは、あなたに出来ているでしょうか。そして、すべての人は死後に神に会うのです。

●「あなたは、あなたの神に会う備えをせよ。」(アモス書4:12)。

●「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」(伝道者の書3:1,2)。

●「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。・・・・・・・それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」(詩篇90:10~12)。

●「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」(箴言27:1)。

●「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。 」(伝道者の書7:2)。
 
 聖書の中には、上記のような勧めのみことばもあります。「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。」とは、一体どういうことなのでしょうか。喪中の家に行くことによって、人生の空しさと儚さを悟り、人生がいかに短いかを知り、知恵をもって生きなければならないことを学ぶので、祝宴の家に行くよりもまさっているという意味であります。人間の死について、あまり人は聞きたくないと思います。しかし、今晩、敢て私は、このことについて書かせていただきました。

 Tさんとこの地上で電話で交わした最後のことばは、「では、今晩またお会いしましょう‥‥」でありました。Tさんが、雪に埋もれている僅かな時間に、聞いていた福音を思い出して、イエス・キリストを信じて主のみもとに召されたのか、あるいは、信じないで神に会う備えのないまま逝ったのか、それは、Only God knows(神のみぞ知る)であります。さて、あなたは、死に対する備えが出来ておられますか?  

 

 

★死に対して備えよ!

2005-01-06 | 「人の死とその備え」
 
  私たち人間が、この世に生まれて来る出産の模様は、だれでも大体同じと言ってもいいのではないかと思います。約280日間母親の胎内で、成長を続けた胎児は、陣痛と共に娩出され、「オギャ~!」と産声を上げてこの世の仲間入りをします。仮死状態で生まれる場合を除き、正常分娩の赤ちゃんの生まれ方は、大体同じであります。
 
 それに比べて、人間の死に方はなんと千差万別ではないでしょうか。安らかに大往生を遂げる人もあれば、七転八倒の苦しみのあとに、死を迎える人もあります。また、交通事故で急死する人もあれば、癌のように徐々に死に至る場合もあります。死ぬ年齢によっても、死はその人にとっても、また、家族の人にとっても、かなりの差を生じます。たとえば、90歳の老人が老衰のために死ぬのと、働き盛りの一家の主人が癌で死ぬのとでは、家族に与える影響もかなり違ってきます。
 
 人間、医者であっても、みなと同じように病気に倒れることがありますし、死を免れることができないわけです。肺癌になった50代の国立病院の内科医が、見舞いに来た同僚に言ったそうです。「人間であることって、辛いですね。みな死ななければならないのですから。」。この言葉を聞かされたその人は、死を覚悟された先生の気持ちを思い、言葉に詰まったと述懐していたそうです。

 どなたの人生にも最後は死をもって終わるわけですが、もう何年も前のことですが、「生命とは何か」を最も深く考える職業は何かという問いを約2,000人の医師にしたたそうです。
その結果は、①医師:49.3%、②宗教家19.3%、③哲学者15.8%であったそうです。
そして、「医師が生命を強く意識する時は?」の問いには、①患者が死亡する時:50.9%、②生命が誕生する時:34.7%、③闘病の姿を見る時:30.7%、‥‥などとなっているそうです。

 人が死んで行くのを見る時に最も生命を強く意識するというのは、頷けることであります。「命」は神のものであり、人間の力の及ばない領域のものであります。ですから、人間は生命を与えておられる神の前に恐れの心を持たなければならないのであります。人に命を与え、生かしておられる絶対的な主権者は創造者なる神であります。

 そして、大切なことは、人は死んですべてが終わりなのではありません。肉体は滅んでちりに返っても、人間のたましいと霊は永遠に存在するのです。そして、死後において私たちに命を与えて生かして下さった神の前に出なければならない時が必ず来るのであります。聖書には、次のような厳粛なことばが書かれており、死に備えるようにと、警告しておられます。

●「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。‥‥神は善であれ、悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」(伝道者の書12:7,14)。

●「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」
(ヘブル人への手紙9:27)。

●「あなたは、あなたの神に会う備えをせよ。」(アモス書4:12)。

 そして、神は聖なる方であると同時に愛の神ですから、死後の恐ろしいさばきから救われる道もすでに用意されておられるのです。イエス・キリストは、約2,000年前に、全人類の救い主として、この世に下って来られた神の御子であり、33歳の時に私たち罪人の身代わりとなって、十字架に架かられ死なれたお方であります。そして、死後三日後に復活され、死を征服された御方なのです。

●「この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」 (使徒の働き4:12)。
      

★死の恐怖からの解放。

2004-11-26 | 「人の死とその備え」



 「人間はなぜ死ぬんでしょう。千年も万年も生きたいわ!」
これは明治時代の小説家徳富蘆花が書いた「不如帰」(ほととぎす)の中の一節ですが、日本近代文学を代表する有名な名セリフの一つと言われています。私たちは、口に出して言わなくても、誰でも死に対して不安と恐れを持っています。多くの人々は、人生について考えますが、解答を出せないままでいるのです。色々な哲学書や人生論を読みますが、満足できる解答は返って来ないのです。

 作家の川端康成氏は、ノーベル賞を与えられ、大変な名誉を得ました。しかし、彼も人生のことについては完全な解答を持っていませんでした。自分をごまかし続ける生活に耐えることができなかったのです。ですから、自ら命を絶つ他になかったのです。死の恐怖を持ったまま日々を送ることは何と寂しく暗い人生ではないでしょうか。
 
 人生について、真剣に考えるなら、だれでも必ず「壁」にぶち当たります。そして、その壁は、私たちが想像する以上に大きなものです。それは、「人間の死」という現実です。人間は、自分の主権の及ばない、暗黒の向こうにある何かに怯えて、死を恐れて生きているのではありませんか?あなたは、どうでしょうか。

 しかし、私は一生涯死の恐怖の中で生きている多くの人々にすばらしい福音があることをお伝えしたいのです。それは、神のみことばである聖書に書かれています。イエス・キリストは、神から全人類に遣わされた救い主ですが、十字架に架かって私たち罪人の身代わりに神の刑罰を受けて死んでくださり、三日目によみがえられたお方です。これは、作り話ではありません。本当の話です。

●「‥‥これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」 (ヘブル人への手紙2:15)。

●「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 』・・・・」(ヨハネの福音書11:25)。


 これは、イエス・キリストが語られた力に満ちたことばです。何と力強く、勇気づけられることばではないでしょうか!!
キリストを信じる者は、永遠のいのちが与えられ、死後の永遠のさばきからも救われるのです。そして、クリスチャンには未来において、必ず復活するという希望が与えられています。あなたも、是非、死の不安や恐怖から解放された希望と確信に満ちた幸福な人生をご自分のものとされますようにお勧めいたします。

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」

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