聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★人間の厳粛な死について

2007-09-22 | 「人の死とその備え」


●「私たちは、必ず死ぬ者です。私たちは地面にこぼれて、もう集めることのできない水のようなものです。神は死んだ者をよみがえらせてはくださいません。どうか追放されている者を追放されたままにしておかないように、ご計画をお立てください。」(2サムエル14:14)。
 
 このことばは、エルサレム南方にあったテコアの町に住んでいた知恵ある一婦人のことばです。この一節だけを考えてみたいのですが、少しだけその背景の説明が必要かと思います。異母弟を殺したアブシャロム(ダビデ王の息子)は、父ダビデの怒りを恐れてエルサレムに帰らず、三年の間ゲシュルの王の所に身を隠していました。わが子がたといどのような大罪を犯したとしても父のわが子への愛情は簡単に消えるものではありません。しかし、たやすく息子を赦すことの出来ない王ダビデにとって、この三年はまことに長い年月であったであろうとことは推察できます。そのダビデ王の心中を察した部下のヨアブ(ダビデの軍の長)は一計を案じて、一人の知恵のあるテコアの女の協力を得てダビデにアブシャロムを呼び戻す召還の機を提起したのです。

 テコアの女は、ヨアブから指図されるままに、長い間喪に服している女を装い、王のもとに行って、言いました。「実は、この私は、やもめで、私の夫はなくなりました。このはしためには、ふたりの息子がありましたが、ふたりが野原でけんかをして、だれもふたりを仲裁する者がいなかったので、ひとりが相手を打ち殺してしまいました。そのうえ、親族全体がこのはしために詰め寄って、『兄弟を打った者を引き渡せ。あれが殺した兄弟のいのちのために、あれを殺し、この家の世継ぎをも根絶やしにしよう。』と申します。あの人たちは残された私の一つの火種を消して、私の夫の名だけではなく、残りの者までも、この地上に残さないようにするのです。」 と言って不孝なやもめ女を演じました。これは、すべてダビデがわが子アブシャロムを呼び戻すための策であったのです。

 それで、ダビデ王は彼女に同情し、この女のために命令を出すことを約束しました。そして、これは、ダビデの心情に訴えて、追放したわが子アブシャロムを赦し、召還させるためにした演技であったのです。それで、このチャンスを逃さず、その女は王に強く迫って言いました。「このはしために、一言、王さまに申し上げさせてください。あなたはどうして、このような神の民に逆らうようなことを、計られたのですか。王は、先のようなことを語られて、ご自分を罪ある者とされています。王は追放された者を戻しておられません。 私たちは、必ず死ぬ者です。私たちは地面にこぼれて、もう集めることのできない水のようなものです。‥‥」(2サムエル14:12~14)。冒頭の聖句から、人生の大切ないくつかの真理と、ここに暗示されているキリストの福音について考えてみたいと思います。

【1】人間は必ず死ぬ者である。 
 彼女は「私たちは、必ず死ぬ者です。」と言いました。これは、何と厳粛なことばではないでしょうか。すべての人は、いつか必ず死ななければならない存在です。これには、いかなる差別もありません。老人だけでなく、今若い人もやがていつか死ぬ時が来ます。病気や病弱な人だけでなく、今健康に何の不安もない頑健な体を持った人も、やがては必ず死ぬ時が来ます。貧しい人だけでなく、大金持ちも例外なく死ぬ時が来るのです。また、身分の低い人だけでなく、一国の大統領や宰相も死ななければない時が必ず来るのです。だれでも、病院の医者から「あなたは癌です。」と告知されたら、非常に大きなショックを受けるでしょう。なぜでしょうか。死ぬのが怖いからです。最近は医学が急速に進歩して今は完治する癌も多くありますが、昔は、「癌」は死の宣告を意味しました。
 
 人間が一番忌み嫌う言葉は、「死」ではないでしょうか。死が怖いので、できるだけ死について考えないようにします。私は家のすぐ近くにガレージを借りていますが、左から1番、2番、3番とあって、その次が私の借りているガレージなのですが、4番ではなく、5番なのです。「4」は欠番になっています。日本人は「4」は「死」を連想させるので、忌み嫌います。ホテルも、病院も4号室がないのが一般的ではないかと思います。しかし、人がどんなに「死」について考えないようにしても、人間は動物と違って未来のこと、また死のことを考えざるを得ないのです。どんなに死を避けようとしても、すべての人はこれを避けることはできません。人間は、この世に生を受けて、誕生した瞬間から、一刻一刻と死に向かって歩んでいるのです。ですから、この死の問題の解決なしに人生にどんな意味があるでしょうか。

 どうか、あなたもご自分の問題として真剣にこの「死」の厳粛な事実についてお考え下さい。ニュースで、だれか有名人が若くして亡くなったことが報じられると、人は驚き、悲しむでしょう。でも、「死」を自分の問題として真剣に考えようとする人は稀にしかいません。隣りの家の人が何かの病気や事故で死んでも、「自分だけは死ぬことはない。」と頭の中で考えているのではないでしょうか。街を歩いている人を見ても、電車に乗っている人を見ても、みな、「自分は死とは関係ない。」と思って生きているように見えるのは、私だけでしょうか。人は、出産、入学、進学、就職、結婚、マイホームの建築、老後などのために備えをします。しかし、なぜ、人は、万人に必ず訪れる死のために備えをしようとしないのでしょうか。私にはそれが不思議でなりません。
 
 「もし、世界に核戦争が勃発したらどうしょう‥‥」と、世界の指導者たちはそのような事態を避けるために、懸命に努力をしています。なぜでしょうか。それは、「死」が恐ろしいからです。しかし、冷静になってお考えください。核戦争が起こっても、死者の数は、起こらなかった時よりも多くなるわけではありません。なぜなら、人間の死亡率は100%だからです。核戦争やテロが起こらなくても、人は必ず死ぬ時が来るのです。地球の温暖化は進み、地球環境は益々悪化の一途を辿り、私たちが住みにくい環境になりつつあります。これから、年々、温暖化が進んで行くと、地球の生態系も変わり、また、真夏の猛暑はさらに酷くなり、大型台風その他の甚大な被害を与える災害の増加などを人々は恐れています。それは、なぜでしょうか。明らかなことは、人はみな「死」を恐れているからです。

 では、人はなぜ死ぬようになったのでしょうか。人類は最初から死ぬべき者として創造されたのではありません。唯一の神(創造者)は、最初のアダムを創造されたとき、すべての良い環境が備えられたエデンの園に住まわせました。神である主は、人に命じて仰せられたのです。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」 (創世記2:16,17)と。ところが、人間は悪魔の誘惑に陥り、サタンの誘いのままに、妻のエバと共に禁断の木の実を食べ、神の掟を破り、死ぬべき者となってしまいました。それから、人類は今日に至るまで、神に背を向けて自分勝手な罪の道を歩み、死と永遠の滅びへの道をまっしぐらに突き進んでいるのです。

●「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです」(ローマ人への手紙5:12)。

●「罪から来る報酬は死です。‥‥」(ローマ人への手紙6:23)。

●「一生涯死の恐怖につながれて奴隷になっいる‥‥。」(ヘブル人への手紙2:15)。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」(ヘブル人への手紙9:27)。


 ですから、どんなに科学や医学が進歩しても、人間の「死」の問題を解決することは不可能なのです。医学によって、ある病気を一時的に治癒させることができたとしても、それは僅かに延命に役立つかもしれませんが、「死」の問題の解決にはならないのです。科学の力も、権力も、お金の力も、人類の「死」の問題を解決することはできません。人ができるだけ健康に留意し、そのために様々な努力をしたとしても、人は決して「死」から逃れることはできません。私たちが死を避けようとして逃げても、「死」が私たちを追いかけて来るのです。逃げても、逃げても、追いかけて来るのです。太陽が前方にある時、自分の影が後ろにできますが、その影からどんなに逃げようとしても、逃げることは不可能ですね。自分の「死」から逃げることも同じことなのです。

【2】こぼれた水が再び器に戻ることがないように、人は一度死んだら、再び地上に戻ることはない。
 「私たちは地面にこぼれて、もう集めることのできない水のようなものです」。
日本にも、「覆水盆にかえらず。」という古い諺がありますが、太公望の妻は、読書ばかりしている太公望に愛想を尽かして出ていったにも関わらず、彼が斉の宰相になった事を知って復縁を求めました。この時太公望は水を入れたお盆をひっくり返し、「元に戻せたら希望に応じる。」と言ったそうです。この中国の故事から、一度別れた夫婦は元には戻らないということがもともとの意味のようです。ここで、「神は死んだ者をよみがえらせてはくださいません。」というのは、永遠の復活を否定したことばではなく、人間は一度死んだら、もはや地上には戻っては来ないという意味です。天に向かって叫んでも、地に向かって慟哭しても、死んだ人は再び地上に戻ることはないのです。

【3】神は罪によってエデンの園から追放された人類に回復の道を備えられた。
 この知恵のあるテコアの婦人は、「どうか追放されている者を追放されたままにしておかないように、ご計画をお立てください。」と、ダビデに訴えたのですが、この要求は受け入れられ、アブシャロムは連れ戻されたのです。それと同じように、神様は、神に敵対して罪を犯し、霊的には死んだ者となり、肉体的にも死ぬべき者となり、死後には「第二の死」という永遠の裁き(火の池)を受けるべき者となってしまった哀れな人類を顧みてくださり、もう一度回復させてくださる救いの道を備えられました。それは、神のひとり子イエス・キリストをこの世に遣わし、罪の全くない聖なる御方を十字架につけて、私たちの罪の身代わりに罰してくださることによって、この御方イエス・キリストを信じる者をみな救ってくださり、永遠のいのちを与えてくださるという神の約束なのです。

 あなたのために、十字架上で死なれた御方は墓に葬られて三日目によみがえられ、今も生きておられるあなたの救い主です。どうか、神のこの絶大な救いへの愛の招きを断ることなく、御子イエス・キリストを信じて救われてください。主イエス様は、今日もあなたに救いの手を差し伸べておられるいつくしみ深いお方なのです。どうぞ、神の恵みを無になさいませんように、心からお勧めいたします。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。 」(ヘブル人への手紙2:14,15)。

●「キリストも一度(人類の)罪のために死なれました。正しい方が悪い人々(私たち)の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」(1ペテロ3:18)。
  
●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)。

 

管理人:「北国のこひつじ」

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★あなたの若い日に神を!

2007-09-15 | 「聖書と人生」


        

●「あなたの若い日に、あなたの創造者(神)を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』という年月が近づく前に。」(伝道者の書12:1)。

最近、考えさせられていることの一つは、現代の多くの若者たちに、「生きる意味が分からない。」「生きることに疲れた。・・・・」「明日への希望がない。」「この世から消えてしまいたい。」「死にたい。」などのことばが、ネット上でも氾濫していることであり、今の若者が直面している大きな問題は「生きる意味の不況」ではないでしょうか。 一部屋に一台テレビがあるような暮らし。 一家に何台も車があるような暮らし。インターネットや携帯電話で、世界の情報をリアルタイムで瞬時に得ることができる便利な社会。しかし、 それはこの地球上の一握りの人たちにのみ許された豊かさなのです。 そして、現代の文明と文化的な生活は、必ずしも彼らに幸福と満足を与えているわけではなく、それとは裏腹に彼らは生きることの空しさを感じているのです。

 今、私たちの社会を襲っている問題の本質とは何なのでしょうか。それは「生きる意味」が見えないということではないでしょうか。 今、日本の社会のいたるところで起こっているのは、「生きる意味」の雪崩れのような崩壊ではないでしょうか。なぜ自分が生きているのかが分からない。 生きることの豊かさ、何が幸せなのかが分からない。 その崩壊がまず目に見える形で現れているのが 若者の危機ではないでしょうか。 若者だから「夢」がある、若者だから「生きる活力」に満ちているといったイメージは 既に過去のものとなったとう人もいます。 現代の若者には覇気や意欲がなく、無気力になっています。いつも疲れているように見えます。「なぜ生きているのか、意味が分からない。」 そういった若者が日本中にあふれているのが現実なのです。

 若者だけでなく、小学生のような児童も、言葉で表せない空しさと孤独を感じて、心で叫んでいます。学校で勉強する意味も、生きることの意味も分からず、疲れているのです。ある本の著者は、小学校二年の女の子の次のような遺書のことを紹介しています。「ママ、パパへ。わたしは 生きていてもいみのない人げんです。わたしがいきていても みんながこまるだけです。 ママ、パパ。長いあいだおせわになりました。 なにもいわず、わたしをしなせてください。 ・・・・・・。」。 私が住んでいる街でも、近年女子児童がいじめが原因で自殺してしまいました。そして、親や学校の先生たちや友だちにも幾通もの遺書を書いて自殺したのですが、その遺書はとても痛々しいものです。その少女を大人が誰も助けることが出来なかったことを思うととても残念で悲しく思います。

 自殺の増加と低年齢化に、世の中の大人たちも戸惑っているようです。科学や医学などは、確かに急速に進歩しているのですが、 人類の闇はますます深まっていると言えるのではないでしょうか。 「強く生きなさい。」と励ます本が相次いでベストセラーになっているそうですが、それらの本は「生きていても何の意味もない。」と考えている若者に対して、一体、どんな説明が用意されているのでしょうか。「強く生きなさい。」「しっかり生きなさい。」と連呼しても、 若者たちの耳には空しくこだまするだけではないでしょうか。殺人、自殺、暴力、虐待などは、 「一体、生きる意味はどこにあるのか。」 「苦しくとも、生きねばならぬ理由は何か。」 と必死に求めても知り得ぬ、深い闇へのいらだちが 生み出す悲劇ではないかと言う学者もいます。

 人が生きて行くためには、多くの悩みがあり、苦しみがあり、幾多の逆境と試練を通らなければなりません。 これら諸問題の根底にある「人生の意味と目的」と「生命の尊厳」が明らかに示されない限り、どんなに対策を講じようとしても水面に描いた絵のように空しく感じられるのではないでしょうか。「人生に目的はあるのか。」「生きる意味は何なのか。」 だれも、その質問に答えることができないのです。教育の現場は荒れており、学校の先生でさえも、生きる意味を教えることができないで悩んでいます。これは、教育界における最大のテーマでもあるのです。学校で、生きる方法や術(すべ)を教えても、「人が生きる意味」を教えなければ、人生においてそれが何の意味があるというのでしょうか。

 人類は、この問題の答えを見出さない限り、ますますこの深い闇の中に入って行く以外にないのです。では、政治の力によって、この「難問」に対する答えを与えることができるでしょうか。その答えは「NO!」です。児童や青少年の健全な成長や、青少年犯罪の防止のために、国でいろいろな法律を作って、多くの子供たちを十把一絡げにして道徳や生きる術(すべ)を教えようとしても、一人一人が「生きる意味と目的」が分からなければ、真の意味で、政治の力で「美しい国」を造ろうとするすべての策は徒労に終わるでしょう。これは、日本だけの問題ではなく、世界のどこの国でも直面している問題なのです。また、これは、若者だけの問題ではなく、老若男女、すべての年代の人たちが考えなければならない深刻な問題なのです。

 「私は、何のために生まれて来たのか。」「生まれて来なければよかった。」「私がいるだけ、みんなに迷惑。」と思って日々、葛藤しながら生きている青少年がいっぱいいます。それだけ、いろんな悲しみや苦しみが世界にあふれています。現実は経済的に富める国の人も、貧しい国の人もそれぞれの苦しみをかかえて生きています。アメリカでは、他殺よりも自殺のほうが多く、殺人によって亡くなる人の1.7倍の人が自ら生命を絶っているそうです。世界保健機関によれば、2.000年には100万人が自殺しています。日本では、年間自殺者が3万人を越えています。現実にはその10倍とも言われる自殺未遂者がいるため、毎日1.000人からの日本人が自殺に追い込まれていることになるのです。交通事故の年間の死者数が6.000人台であることを考えると、これは異常な数字ではないでしょうか。

 潜在的に自殺願望を持った人も多くいますが、昨日まで幸せの絶頂にいたと思われていた人が突然の不幸で、今日自殺することだって珍しいことではないのです。人生に「意味と目的」を見出せず、挫折したり、不幸な境遇に遭うとその困難を乗り越えて生き続けることが出来なくなってしまうのです。自分だけはそういうことにはならないと言い切れるでしょうか。どんな逆境に遭遇しても、「生きるのはこのためだ!」という明確な目的を持っているでしょうか。あなたご自身も周りの人たちも、いよいよ追い込まれて、初めて生きる目的を探すのでは遅過ぎるのです。苦しみに耐え切れず自殺してしまう方が多いのです。「生きる目的」など、そこまで深刻に考えなくてもと思っておられる方も、肉体的にも精神的にもまだ元気な時に真剣に考えていただきたいのです。

●「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)。

●「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」(箴言1:7)。

●「神はこのように、人をご自身のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)。


 人生の真の意味を問うこれらの問題の解決は、聖書の中にあります。「生きる意味は何か。」の深刻な問題の解決は、目先の表面的なことでは不可能なのです。この世の中のあらゆる問題の解決のためには、人間の”原点”に帰らなければなりません。あなたが、もしワイシャツのボタンを掛け違えたならば、最初から掛けなおす必要があります。途中から、掛けなおしても問題は解決しません。聖書を読んで初めて、その人生の暗い闇の中に光明が差し込んで来るのを悟ることが出来ます。時計は時間を計るためにあり、椅子は人がそこに座って休むためにあり、家は人が住むために作られます。学校の教育で教える進化論は、あたかも科学的であり、事実であるかのように、大部分の人たちが考えていますが、全く非科学的であり、非理性的であることを覚えて下さい。人間は、偶然に出来た産物ではなく、創造者(God)によって造られた存在なのです。造られた存在であれば、当然、そこに創造者が与えた意味があるのです。

 「人生」とは、「人が生きる」と書きます。ですから、「人とは何か」「人間はどこから来たのか」というその人間の原点に立ち返らない限り、人生の意味も分からないことになります。人間は神によって造られ、生かされている存在です。しかし、人類の始祖アダムは神の掟を破ってしまったのです。でも、愛なる神は人類が今日まで神に反逆し、神に背を向けて自分勝手な道を歩んで滅びに向かっているのを哀れんでくださり、ご自分の御子イエス・キリストを救い主としてお遣わしくださいました。この御方が十字架で私たち罪人の身代わりに死んでくださったのです。この神の御子イエス・キリストを自分の救い主と信じる者は救われ、永遠のいのちを受けることができます。そして、いつくしみに満ちた神は疲れてきっている若者をも招いておられ、真の平安を与えてくださるのです。 

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11:28)

 
◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」 

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★親切なサマリヤ人

2007-09-08 | 「キリストの愛」


 ルカの福音書の中に、イエス様が自分は律法を守っていて正しい人間である考えていた一人の律法の専門家との対話の中で、「私の隣人とはだれのことですか。」との彼の質問に対して答えられた有名な「親切なサマリヤ人」の例え話がありますので、そこから少し書いてみたいと思います。
 
●「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣り人になったと思いますか。」(ルカの福音書10:30~36)。
 
イエス様が語られたこの例え話は、多くの教訓を私たちに教えていますが、特にこの話に登場する三種類の人たちを通して、それぞれ私たちに大切なことを語っていますので、私たちの人生について考えてみましょう。
(1)エルサレムからエリコへの道を下って行って、そこで強盗に会い、半死半生の目に遭った人、この人の中にこそ、私たち罪人の姿が描き出されているのです。
(2)半殺しにされて倒れている人を見ながら、そっぽを向いて通り過ぎてしまった祭司やレビ人の中に頼りにならないこの世の姿を見ることができます。
(3)この傷つき倒れている旅人の所へわざわざ近寄って来て、介抱し、自分のお金を払ってまで、その人を宿屋まで連れて行って面倒を見たサマリヤ人の中に、私たちを救ってくださるために天から来てくださったイエス・キリストの姿が描き出されています。
 
【1】強盗に襲われた旅人。
 一人の男(ユダヤ人)がエルサレムの都からエリコに下って行きました。そして、その「エリコへ下る道」で強盗に襲われたのです。私たちの人生においても、思いがけないこと、予期しないことが突発的に起こることが多いものです。自分の人生設計通りに生きることのできる人は皆無に近いと言っていいでしょう。ある方の話によると、エリコへ下る道は二つあったそうです。一つは遠回りですがあまり危険のない安全な道です。もう一方は近道であって早く着くのですが、曲がりくねった険しい道で、強盗に襲われることが多い道です。そして、彼は多分友人の忠告があったにもかかわらず、この曲がりくねった危険な道を選んで下って行ったのです。

 そして、彼は強盗に襲われて、打ちのめされ、半殺しにされてされてしまったのです。この男の姿の中に私たち罪深い人間の姿が示されています。まず、私たちの前には、いつも選ぶべき二つの道があります。一つは神様に従って歩いて行く正しい道です。もう一つは、自分勝手に歩いて行く罪(自我)の道です。そして、その道は「下って行く道」なのです。エリコは地中海より250m低い所にあった町です。聖書の中で、「下る」という言葉が出て来ると、多くの場合(すべてではありません)、あまりよくない意味があります。アダムがエデンの園で罪を犯して以来、人類の歴史は常に下っていると言っても過言ではありません。自分では、教養を身に付け、修養して向上していると思っていても、神に従わない道は常に下っているのです。

 そして、その道は曲がりくねった罪の道です。しかも、その道のあちらこちらに私たちに襲いかかる悪魔(サタン)が待ち構えているのです。自己中心のわがままな道は、最後には自分を滅ぼすことになるのです。この旅人は自分の持ち物を奪われて、着物を剥ぎ取られて、その上、殴られて半死半生の状態で道端に倒れています。私たち人間の姿がここにあります。もう自分ではどうすることもできないあわれな状態です。この傷ついて倒れている旅人は、放置しておけば間違いなく、死んでしまう絶望的な状態です。これは、あらゆる現代の人間の姿なのです。現代においても、世界の道端は霊的に略奪され、傷つき倒れて横たわっている人でいっぱいなのです。これがこの世の現実なのです。

●「足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。 」(イザヤ書1:6)

●「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ書7:24)。

●「あなたの傷は癒しにくく、あなたの打ち傷は痛んでいる。」(エレミヤ書30:12)。


 あのパウロのことばは、パウロだけでなく、世界中のすべての人の心からの叫びなのです(たとい、自分で気づいていなくても)。あの使徒パウロをして、「私は本当にみじめな人間です。」と言わしめるほどに罪の傷は癒しにくいのです。このエリコに下る道で強盗に襲われた旅人にあるものは、《孤独と不安と恐れ》であり、《絶望と悲しみ》であったのです。人のために何か良い行いをしようとする前に、自分自身が救われなければならないみじめな罪人であることを、徹底的に知らなければ、キリストの十字架の深い意味も知ることができません。だれも、そこまで深刻に考えなくてもと考えている方も多いと思いますが、これが人間の本当の姿なのです。

【2】祭司とレビ人。
 この二人は旅人が道端で倒れて苦しんでいる姿を見て、うめき声を聞きながら、向こう側をそっぽを向いて行ってしまいました。これは、愛のない冷たい人たちです。祭司は、エルサレムの神殿で神様に仕え、人々を助ける人であったのです。レビ人というのは祭司の手伝いをして、やはり人々を助ける役目の人であったのです。しかし、神殿で神様に仕えていた彼らが、いったん自分たちだけになってエリコへ下る道を急いでいた時に、苦しみ呻いて助けを求めていたその旅人を見ながら、見て見ぬふりをして、通り過ぎてしまうのです。この祭司とレビ人の中にいざという時には頼りにならないこの世のものの姿を見ることができます。この世の中には、まことの愛というものがいかに稀であり、少ないものであるかを示しています。

 これは、この世の宗教家だけに限ったことではなく、学校の先生、医者、政治家であるかもしれません。彼らは、あまりにも利己的で、またあまりにも多忙なために最小の援助さえ提供しようとしなかったのです。彼らは、「私とは関係のないことだ。このようなことにかかわっている時間などない。」と心の中で考えたかもしれません。ですから、祭司もレビ人も「この人を見ると、向こう側を通り過ぎて行った。」のです。この世は、本質的に自己中心的であり、これが人間の本当の姿なのです。この世の多くの宗教をよく調べるならば、利己的で愛のないものであることが分かります。大部分がお金や利権によって動いているのです。
 
 ”本当に利己的でない純粋な愛を見出すのは、ゴミ箱の中にダイヤモンドを発見するよりも困難なことだ!”と言った人がいますが、この世の中に真の愛を求めても決して満たされることはないということも事実なのです。しかし、この祭司やレビ人を私はさばくことができません。なぜなら、これは、自分自身の姿でもあると気づかされるからです。私は、今日まで幾度となく、困っている人、傷つき悩んでいる人、助けを必要としている人の側を通り過ぎてしまったことでしょうか。あなた自身はどうでしょうか。「自分には愛がある人間だ。」と言い切れる自身がおありでしょうか。私たちは、他人のことは「あの人は愛がない冷たい人だ。」と「簡単に口では言えますが、他人の中にあるものは、また自分の中にもあるということも事実なのです。 

【3】親切なサマリヤ人。
 最後に、その見捨てられた男のところにさまりや人がやって来ました。この人は、家畜に乗って来たのですが、彼のうめき声を聞いた時、心から同情して、その傷ついた男の人の所へ駆け寄ったのです。このサマリヤ人は、その哀れな旅人の前に跪いて、じっとその傷口を見ました。そして、自分が持っていたぶどう酒で傷口を消毒し、オリーブ油を注いで包帯をし、自分が乗って来た家畜にその男を乗せて、わざわざ宿屋まで連れて行って、自分のお金を取り出して、「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら私が帰りに払います。」とまで言いました。彼は、持っているすべてを与えて、この見知らぬ旅人に対して自分の命の危険を冒してまで愛と親切の限りを尽くしました。”人生は出会いで決まる”ということばがありますが、この旅人がこのサマリヤ人に出会ったことは本当に幸いなことでした。

 そして、この「親切なサマリヤ人」の姿こそ、実はイエス・キリストご自身の姿なのです。サマリヤ人がこの傷ついた旅人の所に来てくださったように、イエス・キリストは、私たちを罪と滅びから救うために、大変な犠牲を払って天から来てくださったのです。そして、その33年間のご生涯の最期に十字架の血潮というぶどう酒で私たちの罪の傷口を洗い、聖霊の油をもって私たちの罪の傷を覆ってくださった御方なのです。イエス・キリストは、私たちを責めることもなく、ただ黙って十字架でご自分の血潮を流して、私たちの罪を赦し、「アガペーの愛」によって包帯をしてくださったのです。このサマリヤ人の自分を忘れ、自分の危険を顧みることもしない打算のない愛はキリストの純粋な愛を示しています。

 このサマリヤ人が、そのお金も労力も、物も時間もすべてを犠牲にして旅人を助けたように、キリストは私たち全人類のために十字架で、ご自分の命までも犠牲になさったのです。傷の手当てをし、介抱する姿 ----- ここに、キリストの無限の愛と優しさと思いやりとが余すところなく、表されています。”包帯を巻いてあげられなければ、他人の傷口に触れてはならない。”とのことばを読んだことがあります。私は、他人の傷口に触れてかえって、結果的にその傷口を広げてしまうことのある愚かな人間です。しかし、イエス・キリストの愛は違います。イエス・キリストは、十字架の血潮に染まった愛の包帯で私たちの傷口を覆ってくださるのです。

●「愛は多くの罪を覆うからです。」(1ペテロ4:8)。

 この例え話の中でイエス様はわざとユダヤ人と敵対関係にあったサマリヤ人(ユダヤ人と異邦人の混血の民)を登場させました。このような敵対関係は、その当時、」もう400年以上も続いていたのです。そして、その憎しみの関係は、イエス様の時代にもまだ続いていたのです。ですから、このサマリヤ人がユダヤ人にした親切は信じられない出来事であったのです。このサマリヤ人は傷つき倒れているユダヤ人にユダヤ人を見て、「かわいそうに思い」ました。この「かわいそうに」ということばは、同情を表わすギリシャ語の中でも、一番強い表現で、”内臓が揺り動かされる”というような深い同情を意味することばなのです。そして、彼はその愛を実際の行動にによって表わしたのです。ただ、彼は外国人を愛したのではなく、400年に亙る憎しみの歴史を越えて、敵に対して真の隣人となったのです。

 私たち人類もまた、神に対して長い間敵対していた者たちであります。しかし、イエス・キリストは、そのすべてを乗り越えて、無条件で私たちを一方的に愛してくださいました。これは、まさに「人知をはるかに越えたキリストの愛」(エペソ3:19)です。この親切なサマリヤ人の姿の中にキリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」のすべてが表わされています。十字架はそのクライマックスです。私たちは、あの強盗のように人を傷つけたことはないでしょうか(言葉でも、精神的にも)。私たちは被害者意識を強く持ちやすいのですが、自分が加害者になっていることを忘れやすい者です。また、祭司やレビ人のように助けを必要としている人の側を故意に通り過ぎたことはないでしょうか。私たちは、自分が傷つき倒れているみじめな罪人であることを素直に認めているでしょうか。

 私たちは、主から遠く離れ過ぎていて、助けを求めることができない時、あのサマリヤ人のようにイエス様の方から近づいてくださるのです。心のうめき声を聞いてくださるのです。イエス・キリストがあなたを助けるために、天から下って来られました。私たちの声にならないようなかすかな呻き声をも聞いて、同情して近づいてくださるのです。どうか、キリストが差し出しておられる愛の御手を拒まないで下さい。そして、キリストは例え話の最後に、「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)と言われました。キリストを信じて救われた人は、今度はほんとうに隣人を愛する力が与えられるのです。真の愛は「私の隣人とは誰か。」と問わしめるような冷たいものではありません。

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