聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★大切なことを忘れていませんか

2006-04-29 | 「聖書と人生」




●「人は、たとい全世界を得ても、自分のいのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。」(マルコの福音書8:35,36)。

 私は若い頃、次のような話を聞いたことがあります。ある一人の貧しい母親が古井戸に出かけて洗濯をしておりました。ところが、彼女の耳もとにパチパチという音が聞こえてきました。ただならぬ気配を感じて振り返って見ると、いまや自分の家がメラメラと燃え上がっているではありませんか!

 母親は大慌てで、家に駆け込み、寝具、食器、炊事道具、その他の家財道具などをいち早く持ち出しました。そして安全な場所に避難したその時、突然恐怖と戦慄が彼女を襲い、棒立ちになってしまいました。そして、やがて顔面蒼白になり腰を抜かしたように座り込んでしまったのです。実は彼女は取り返しのつかないことをしてしまったのです。いくらかの品物を運び出しましたが、なんと自分の赤ん坊が炎の中に置き去りにされていることを忘れてしまっていたのです。

 あなたは、きっと彼女を愚かな母親だとお笑いになるかもしれません。しかし、もしあなたがあなた自身の「魂(たましい)」を置き去りにして、仕事や金儲けや遊興に夢中になっているとしたらどうでしょうか。現代人は、人生において最も大切なことを忘れ、見失っているのです。多忙な仕事と煩雑な家事、娯楽とレジャーなど人生の付随的な事柄のために追い廻され、空しく過去って行く日々を送ってはおられませんか。

 非常に目まぐるしく忙しく押し流されて行く日々を過ごす現代にあって、あなたの人生を決定的なものにする根本的なことをお忘れでないでしょうか。それは聖書が語るあなたの創造者(神)を忘れた生活であり、これはあなたの命にかかわる重大問題なのであります。真の神は万物の創造主なる全知全能の聖よい御方であり、人間をも造られご自身の愛によって人間を生かしておられる御方です。

、神を忘れ、失われた孤独な人生を送るようになったのです。あなたは、あなたの「神」をお忘れではありませんか。これは宗教の問題ではありません。あなたの魂に本当の平安と満足がないのは、あなたが神を忘れ失われた生活をしているからなのです。

 あがめるべき神を無視した自分勝手な生活をすることを聖書では「罪」と言っていますが、神は完全な正義と聖さとをお持ちの御方ですから、人間の罪に対する公平な審判を行われます。神のことばである聖書は「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)と厳粛に告げています。

 しかし、聖書が語る神は愛なる方ですからあなたが永遠の火の刑罰を受ける恐ろしい滅びに至ることを決して望んではおられません。愛に満ち溢れておられる神は、今から約2,000年前に、ご自身の愛する御子イエス・キリストを人類の救い主としてこの世に遣わしてくださいました。キリストは処女マリヤより生まれ、30数年の聖よい生涯を送られ、数々の奇蹟と力あるわざによって神の御子であることを証しされました。

 その3年半の公生涯の終わりに十字架にかかって私たちの身代わりに神の刑罰を受けて死んでくださいました。しかし、3日後にイエス様はよみがえられ、そののちその栄化されたお体をもって天に昇っていかれたのです。このイエス・キリストは今も天に生きておられるあなたと私の救い主なのであります。これは、聖書に記録されている歴史的な事実であります。

 これらの事実を認め、イエス・キリストを自分の救い主として個人的に信じ受け入れる者は誰でも罪赦され、神の救いを受けるのであります。しかし、この救いを拒み、なお、罪のうちにとどまるならば、あなたの未来には永遠の滅びが待っているだけなのです。どうか、この人間の永遠のいのちに関わる重大な問題を放置されるこなく、是非、真剣にお考えになってください。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

◆(E-mail): goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」
 
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★人生列車の終着駅

2006-04-24 | 「死後の二つの行き先」



 少年時代の私はSLが走る線路の近くに住んでいましたので、驀進して力走する姿とあの汽笛の音は60代半ばになった今も懐かしく私の耳に残っています。もくもくと黒煙を上げて峠を喘ぐようにして上って行く蒸気機関車(D51)の姿は、私たちの人生を彷彿とさせる何かを感じさせるものがありますね。 

 人生はよく旅にたとえられますが、私たちの人生を「列車の旅」にたとえて考えて見ましょう。列車にはいろいろな人が乗って来ます。観光旅行、仕事の出張、急用があっての急ぎ旅。最近は見なくなりましたが、昔は行商のおばさんたちが大きな荷物を背負って乗り込んで来たものです。喜びや悲しみを抱えている人々が乗り合わせている列車は、まさに人生の縮図とも言えるのではないでしょうか。

 私たちの「人生列車」にも色々な人々が乗り合わせて来ます。例えば、同級生や会社の同僚などです。隣に乗り合わせただけで、人生の長い旅を共にすることになります。互いに他人であった者たちが結婚して伴侶となるのもその一つです。転職やその他思いがけない出来事などで列車を乗り換える人もいるでしょう。

 しかし、「人生の終着駅」は一体どこなのでしょうか。「人生の終わりなど考えたくない。考えても仕方がないではないか!」とお考えの方もおられると思います。しかし、どなたにも人生の終着駅に着く時が必ず来るのです。「死」という「人生の終着駅」に着くのですが、それを考えると、人生は孤独な旅であることを深く考えさせられます。しかも、聖書によれば、人生の旅は「終着駅」で終わるのではありません。

 聖書には、「人間には、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている。」(ヘブル人への手紙9:27)と記されているのであります。「一度死ぬこと」は当たり前だと言って無視する人もいますが、「死後のさばきを受ける」ということを、あなたは笑って否定出来るでしょうか。私たちは、虫けらのように簡単に人殺しをしてしまうような世の中の悪人見ると、「あんなやつは裁かれて当然の報いを受けるべきだ。」と考えるのです。

 しかし、自分も自ら犯した罪のために死後に裁かれてその報いを受けるという話になると、誰もが急に否定し始めるのです。聖書は、「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」(ヘブル人への手紙4:13) と厳粛に警告しています。

 人生列車に「終着駅」があるのであれば、当然「始発駅」もあるはずです。あなたに「いのちと息と万物をお与えになった方」は聖書が語る創造主であられる真の神様です。この神様によってあなたはこの世に生を受け、あなたの人生はスタートしたのです。あなたはこの神様に対して申し開きをしなければならないのです。「義人はいない。一人もいない。‥‥‥すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。」(ローマ人への手紙3:10,23)という聖書のことばに対して、一体だれがそれを否定することができるでしょうか。国の法律を犯さなくても、心の中で人を憎んだり、妬んだり、嘘をついただけでも神の前には罪なのです。

 しかし、聖書が語る神は「愛の神様」ですから、私たちに救いの道を開いてくださいました。神はご自身の御子主イエス様をこの世に遣わされ、主イエス様は人類を「罪のさばき」から救うために、私たち一人一人の罪を身代わりに背負って十字架で死んでくださり、三日目に復活された救い主なのです。

 人生の終着駅の向こうには二つの行き先があります。罪の当然の報いである「神のさばきの火」(火の池)に入るか、罪が赦されて神様の備えられた「永遠の天国」に入るかです。どうか、あなたもこの大切な問題を真剣にお考えになって、主イエス様を信じて「永遠の天国」というすばらしい「終着駅」に行く列車に乗り換えられますようにお勧めいたします。天国は次のような涙や悲しみが全くない幸いな所です。


●「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 (ヨハネの黙示録21:4)。

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★たった一度の人生

2006-04-21 | 「聖書と人生」
  
          

 「ひとりしかいない自分、一度しかない人生を本当に生かしきらなけなければ、人間生まれてきた甲斐がない。」

 これは山本有三の小説「路傍の石」の一節です。人間は誰でもたった一つしか持っていないものならば、非常に大切に使います。決して粗末に扱ったりはしません。
  
 みなさん、私たちの人生はたった一度だけのものです。面白い本であれば繰り返して読むことができますし、楽しい旅行ならば、もう一度、計画することもできます。しかし、人生は、老年に達してからまた、死に直面する時に、もう一度やり直したいと思っても決してできないのです。
 
 あなたは、たった一度しかないあなたの人生を空しく費やしてはおられないでしょうか。また、人生の意味とか目的などについて何の解決もないまま、その日その日をただ本能のおもむくままに過ごすことはありませんか。 

 聖書は、「明日のことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」(箴言27:1)と私たちに告げています。あなたもぜひ人生の大切な命と死の問題について真剣にお考えになって下さい。

  「私はどこから来たのか?」
  「私は何のために生きているのか?」
  「私はどこへ行くのか?」

 
 これは人間が存在する限り必ずついてまわる疑問であります。聖書は、この疑問に明確に答えることができる唯一の書物です。 聖書の中心はイエス・キリストであり、この方があなたと全世界のすべての人々のために十字架で死なれたのです。二度と繰り返すことのできない人生、そして、死後の永遠のこともお考えになって、賢明な人生を選択なさってください。

 どうか、神の愛のメッセージをお聞きになるために、聖書を正しく教えている教会(集会)にお出かけになって下さい。また、聖書をお買い求めになられて、ご自分で聖書をお読みになられることをお勧めいたします。正しく教えている集会かをお知りになりたい方は、ご遠慮なく私宛にメールしてくだい。