聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★感動的な犠牲の死

2005-08-27 | 「神の愛について」
 
             

  大分昔の話ですが、外国のあるところに一つの開き橋がありました。船が通る時には橋が開き、汽車が通過する時は元のとおりに橋が閉じるようになっているのです。ある時のこと、船舶の往来がはげしく、時間が過ぎても橋を降ろすことができませんでした。汽車の警笛が遥か彼方に聞こえています。けれども、船はまだ半分ほど通過したに過ぎませんでした。躍起になった番人は大急ぎで橋を閉じようと大童(おおわらわ)になっている時も時、何ということでしょうか、この番人の一人の男の子が川に落ちてしまいました。親としてそのまま飛び込んで助けてやりたいのですが、しかし汽車に乗った幾百人もの人々の命には代えられません。
 
 彼は列車が通過するのを待って夢中になって橋を閉め、それから大急ぎで川に飛び込んで、わが子を抱き上げた時にはすでに遅く、もはや息は絶えてしまっていたのです。親としてわが子が溺れて死にかけているのを目の前にみながら、その子を助けることができませんでした。「せがれや、赦してくれ~!」と彼は死骸に取りついて絶叫し、ただ男泣きに泣きじゃくるばかりでした。しかるに、列車の乗客たちはこのような悲劇があったことは露知らず、雑談にふけったり、煙草をくゆらしながら、何事もなかったかのようにその開き橋のある場所を通過して行ったのです。

 もう一つの感動的な実話があります。かつて、ある裁判官が一人の重罪人を裁いたことがありました。犯罪人が審判台に立って裁判官を見ると、それは自分の双子の兄であったのです。裁判官も、自分の弟が犯人であることを知りました。犯人は心から赦されることを兄に懇願しました。ところが、裁判官は厳しく罪を裁き、すぐに彼を投獄するように命令したのであります。そして翌朝には、彼は死刑にされることになったのです。一方、その犯人は獄中で、翌日の死のことを考えて悶々とした眠れぬ一夜を明かしたのであります。ところが、夜中に急に裁判官が官服のままで、獄にやって来て、その犯人である弟に驚くべきことを言ったのです。

 「私は裁判官である以上、法律に違反することはできないので、お前を罪に定めた。今、私がここに来たのは、兄としてお前を救いに来たのだ。急いで、お前の服と私の官服とを取り替えて、ここから出て行きなさい。門にいる看守はお前を出してくれるだろう。お前は、遠方に行って、今後、心を入れ替えて新しい生活をしなさい。二度とこのような罪を犯してはいけないよ。さあ、早く行きなさい!」そして、その裁判官は翌朝、弟の身代わりになって死刑を執行されたのであります。二日の後、このことが全市に知れ渡り、人々の大きな感動を呼んだということです。

 私がこのような譬え話を書いた理由は、神様の愛とその御子イエス・キリストの愛がどんなに大きな犠牲の伴なったものであるかを、みなさんに少しでも知っていただきたかったからであります。最初の話は、たった一人の息子を犠牲にしてまで、多くの乗客を救った話ですが、それは、愛なる神様がそのひとり子をお与えになったほどの犠牲的な愛をもって、罪を犯して永遠の滅びに向かっていた全人類を救おうとされた事実を知ることができます。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」(ヨハネの第一の手紙4:9)。


 後者の二つ目の例話は裁判官である兄が重罪を犯して死刑に定められた弟の身代わりに処刑された話ですが、これは愛なる神に遣わされた御子イエス・キリストの十字架の愛について僅かにではありますが知ることができると思います。
どのような譬え話を用いても、その事実の一面は伝えることができても、そのすべてを説明することはできません。どうか、そのことをご了解いただいてお考えになってくださいますようにお願いいたします。

●「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への手紙5:6~8)。

●「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。 どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ガラテヤ人への手紙1:4、5)。

●「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」(ヨハネの第一の手紙3:16)。

●「人知を越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ人への手紙3:19)。




★キリストの自己紹介

2005-08-23 | 「キリストの偉大なる生涯」
     

   私たちは、いろいろな機会に「自己紹介をしてください。」と言われることがありますが、そのような場合、私たちは自分の名前、住んでいる所、出身地や生い立ち、年齢、職業や仕事の内容、自分の家族のこと、趣味のことなど、その場面や状況に応じて紹介する内容も異なって来ると思います。しかし、私たちはこれらの「自己紹介」の内容をよく吟味してみますと、正しい意味において本当の「自己紹介」とは言えないのではないかということに気づくのです。私たちは、「自分は何者であるか。」というその根源までをさかのぼって語ることが出来るでしょうか。「自分はどこから来て、何のために生きて、どこに向かっているのか。」を明確に語ることができるでしょうか。私たちは、時々自分のことは自分が一番知っていると思いやすい者ですが、事実は何も知らないのに等しいということに気づかされるのです。

 しかし、イエス・キリストの「自己紹介」は、私たちとは全く異なっています。イエス・キリストは、ご自身について確信を持ってはっきりと断言して語ることが出来ました。新約聖書のヨハネの福音書の中で、イエス・キリストはご自身について七回、「わたしは‥‥‥です。」と語られた箇所があります。これは、ヨハネの福音書独特の言い回しであります。イエス・キリストの「自己紹介」がどのようなものであったかについて、この福音書の中に書かれてある七つの箇所を、見てみますと、大変興味深く、彼がどれほど偉大な比類なき御方であるかがお分かりになると思います。そして、この御方を信頼して歩む人生の幸いを知らされるのです。

【1】いのちのパン。
●「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。 」(ヨハネの福音書6:35)。

 キリストは、この時「わたしがあなたがたにパンを与えます。」と言われたのではありません。「わたしがいのちのパンです。」と語られたのです。このことばを語られたのは、キリストが成人男子だけで五千人の飢えた群集に、奇蹟によってパンを十分に分け与えられたあとに語られました。このことによって、キリストがいかに偉大な御方であるかが示されました。ここで、イエス・キリストは、肉体的には物質的なパンが必要であるけれども、さらに必要な霊的な「いのちのパン」について語られたのです。このような力あることばを語ることが出来るのはイエス・キリスト以外に決していません。

【2】世の光。
●「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネの福音書8:12)。

 イエス・キリストは、ご自身について力強く「わたしは、世の光です。」と宣言されました。このようなことばは、決していかなる人間も語ることのできないことばであることは明らかです。私たちは、自分の心の中を正直に見る時に、光に照らされると困るような汚れた醜く暗い心を持った自分を発見するはずです。そのような人間がどうして「わたしは、世の光です。」などと語ることができるでしょうか。また、この世の中のどんな輝かしい光も、一時的なものであり、やがて消えて行く光に過ぎません。真夏の夜に打ち上げられる美しい花火でさえ、私たちにしばしの間、暑さを忘れさせ涼感を誘うものですが、夜空に一瞬に消えて行くものです。キリストこそ、永遠に輝き続けて永遠のいのちに至る不滅の光なのです。このまことの光であるキリストを信じて従う者は、決して闇の中を歩むことなく、いのちの光を持つのです。

【3】門。
●「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネの福音書10:9)。

 ここでも、イエス・キリストは、この福音書独特の言い方で「わたしは門です。」と言われました。パレスチナでは、羊の囲いは石などを積み上げた高い塀で囲った所で、夜になると羊飼いは羊をみなこの囲いに入れ、野獣などから守ります。この囲いには「門」があって、そこには門番が門の戸の開け閉めをします。そして、羊はこの中に入っている限り安全なのです。イエス・キリストは、ご自分を門に譬えて、この「門」以外に、そこから入って救われる道は決してないことをはっきりと宣言されたのであります。私たちは、キリストという門をただ外側から眺めているだけではなく、そこから入って救われなければなりません。そこでは、私たちの魂に安らぎと憩いが与えられ、また豊かな霊の牧草(聖書のみことば)によって養われるのです。

【4】良い牧者。
●「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネの福音書10:11)。

 今度は、イエス・キリストは「わたしは、良い牧者です。」と言われました。人間の場合は、通常は、「私は良い○○です。」などと言いませんね。たとえば、「私は良い教師です。」とか、「私は良い医者です。」などと言ったのを聞いたことがありません。そんなことを平気で言う人がいたら、余程の変人と見なされることは間違いないでしょう。このようなことばは、イエス・キリストだけにしか言えないことばであります。良い羊飼いは、あらゆる危険と災いから羊を守り、保護します。羊が命を得、それを豊に持つために牧草地へ導き、いこいの水のほとりに案内します。そして、本当の良い羊飼いは羊のために自分の命を捨てるほどに、自分の羊を愛するのです。キリストは、弱く迷いやすい羊である私たちのために十字架で身代わりに命を捨てて、永遠の滅びから私たちを救ってくださいました。

【5】よみがえり。いのち。
●「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネの福音書11:25)。

 今までは、「いのちのパン」、「世の光」、「門」、「良い牧者」などと、すべて比喩で語られたのですが、この「わたしは、よみがえりです。いのちです。」はそのものズバリで語られました。イエス・キリストは、間違いなく「よみがえり」であり、「いのち」そのものであります。どのような道徳家も宗教家も、キリストのように「わたしは、よみがえりです。いのちです。」と語ることは決してできません。イエス・キリストはすべてのいのちの根源なる御方であり、生きとし生けるものすべてのすべて、彼によって造られ、いのちを与えられ、生かされ、そして、今のこの瞬間にも、キリストによって私たちのいのちは支えられているのであります。ここに記されているラザロは、キリストを信じる者が永遠のいのちを与えられる「しるし」として、本当によみがえらされたのです。

【6】道。真理。いのち。
●「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 」(ヨハネの福音書14:6)。

 イエス・キリストは、ここで、ご自身が「道」であり、「真理」であり、「いのち」であることを語られました。しかし、特に強調されているのは、ご自身が「道」であるということでます。なぜなら、その後に「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはできませんん。」と続いているからです。どのような道であっても、道はすべてどこかへ行くためのものです。キリストが言われたこの道はどこに通じている道でしょうか。父のみもと、すなわち神に帰る道、天国に行く道であります。日本人は何事でも、曖昧に玉虫色で物事を解決しようとします。ですから、多くの人々は、救いに至る信仰についても「分け登る 麓の道は多けれど 同じ高嶺の 月を見るかな」の歌を引き合いに出して、どの道から登っても結局同じ高嶺の月を見るように、真理は一つであってもそこに到達するには、いろいろな道(宗教)があるのだと、いい加減ななことを言うのです。

【7】まことのぶどうの木。
●「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」(ヨハネの福音書15:1)。

 イエス・キリストは、ご自身を紹介する最後の七つ目のことばとして、「わたしはまことのぶどうの木である。」と語られました。この福音書で「まこと」ということばが使われる時は、ひな型に対する本体、未完成に対する完成、あるいは約束に対する成就という意味で使われています。ですから、ここでも「ぶどうの木」という比喩が示している実体(本体)はイエス・キリストご自身であることを示しています。ところで、「ぶどうの木」はぶどうの実を実らせるためにあります。そして、たくさんの熟した実が成ると一番喜ぶのは農夫です。イエス・キリストは、ご自身のことを「わたしはまことのぶどうの木である」と言われ、父なる神様は農夫であると言われたのです。私たち人間を「ぶどうの木の枝」であると言われました。これは、非常に分かりやすい譬えです。枝がぶどうの木につながっていなければ決してぶどうを実らせることはないのです。それと同様に私たち人間は、キリストを信じて救われ、永遠のいのちを受け、キリストにつながっているならば神様のために豊に実を結ぶ幸福な人生を歩むことが出来るのです。



★神の愛の告白

2005-08-20 | 「神の愛について」


●「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43:4)。

  旧約聖書イザヤ書43章に書かれているのは、神様ご自身が贖ったイスラエルの民に対して語っておられることばですが、これは、また神様と私たちとの関係でもあります。この4節のことばは、神様の私たちに対する「愛の告白」のことばであります。聖書は、旧約と新約合わせて全部で66巻、1.189章ですが、すべてが私たちに対する神様の愛の告白であり、神様からの長い長いラブ・レターであると言っても過言ではありません。みさなんも、これほで長いラブ・レターをもらったことも書いたこともないと思います。(私事で恐縮ですが、私が今までに一番長い手紙を書いたのは、自分がキリストを信じて間もなく、母親に宛てた手紙ですが、便箋24枚でした。神様のこんな大きな愛があるならまず苦労して自分を育ててくれた母親に伝えたいと思ったからです。)

 神の全人類に対する愛がどれほど大きなものであるかを考えてみたいと思います。

【1】まず第一に、神様はだれも彼も無条件に私たち一人一人に「あなたは高価で尊い」と言って愛してくださるのです。

 神様の愛は無条件の愛であります。現代の物質文明の社会では、人間の価値も物と同じように扱われてしまいます。有能で他人よりも実績を多く積んだ人は価値のある人と見なされるのです。裏返して見ると、貧しい人、地位の低い人、病弱であったり、身体に障害を持っている人、そして、年老いて働けない人は価値のない者としてゴミのように捨てられてしまうのです。また、この世の中の進歩について行けない人、学校の授業について行けないで落ちこぼれたような人は価値のない者とみなされてしまいます。しかし、聖書の神様はそのような能力などには関係なく、だれかれの区別なく、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」と言ってくださるのです。

 人間の愛は、「金持ちだから」とか、「顔が美しいから」とか、「仕事ができるから」など、自己中心的な条件付きの愛でありますが、神様は何の条件もつけずに、私たちを高価で尊い存在として、愛してくださり、受け入れてくださるのであります。なぜかと言いますと、神様は、すべての人間を一人一人、ご自身の愛の交わりの対象として、人格的な存在として造られたからです。「わたしの目には‥‥」とあります。たとい、他人が自分を認めてくれなくても、神の目には尊い価値ある存在として、受け入れてくださるのです。聖書の別な箇所には「すべての人は迷い出て、、みな、ともに無益な者となった。」(ローマ人への手紙3:12)と書かれてありますが、しかし、それでもなお神様は私たちを愛してくださり、無益な者を有益な者に変えてくださる愛の御方なのです。

【2】次に、神様は私たち一人一人を「わたしは、あなたを愛しています。」と言って個人的に愛してくださる方であります。

 神様は十把一からげにして「あまたがたを」と言われるのではなく、「わたしは、あなたを愛しています。」と言われます。「わたしは、あなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」(イザヤ43:1)とあります。神様は、創造の神、贖いの神で、親がわが子の名を呼ぶように、夫が妻の名を呼ぶように、私たちの名前を呼んでご自分の者として愛してくださる方であります。神様は親しみを込めて、個人的に私たちの名前を呼んで救い出し、ご自身の栄光のために用いてくださるのです。アブラハム、モーセ、サムエル、エリヤ、マリヤ、ザアカイ、サウロなど‥‥みな、神様から、個人的に名前を呼ばれました。

 この世の中の不幸な問題の殆どは、愛の欠如によるものです。そして、自分はだれかに個人的に愛されているという実感がないときに、人は孤独を感じるのです。親に愛されている子供も、夫に愛されている妻も実に幸せそうではありませんか。そのように、神様に個人的に愛されているという実感は、その人の心を幸福感で満たします。天地万物を創造され、宇宙を支配しておられる全能の神様が、私たち一人一人に関心を持っておられるだけでも驚きですが、そのような偉大な御方が私たちを個人的に愛しておられるということは、さらに驚くべきことではないでしょうか。

【3】次に、その神の愛は、抽象的なものではなく、現実に人類の歴史の中に表された愛です。
 それを証明する聖書のみことばは、聖書にたくさんありますが、もっとも代表的な聖句は次のみことばです。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

 「愛」ということばは、形がなく、抽象的なものですが、その形のないものの本質を表すのに表現が必要であります。神様の愛は、絵に描いたボタモチのようなものではなく、ご自身のひとり子イエス・キリストによって具体的に私たちに表された現実の愛であります。口先で「愛しています」と言っても、それが目に見える行いとなってあらわさなければ、そのことばは、空しいものではないでしょうか。しかし、神様はご自身から離れて永遠の滅びに向かっている人間を愛して、そのひとり子イエス・キリストを全人類の救い主として遣わされたのです。そして、キリストは、十字架で私たちの罪のために身代わりに死んでくださったのです。

 「そのひとり子をお与えになったほどに‥‥」とあります。贈りものは、今、本当に相手にとって何が必要であるかを考えて決めるのです。神様からのプレゼントは、神様のひとり子であります。これは、私たちに対する最高の贈りものであり、大きな犠牲を伴なったものなのです。愛の大きさは、何によって測ることができるでしょうか。それは、相手のために払われる犠牲の大きさによって測ることができます。キリストは、あなたや私のためにご自身のいのちを捨ててくださいました。いのちよりも価値のあるものはありません。

●「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネの福音書15:13)。

●「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」(ヨハネの第一の手紙3;16)。


 神様のこのような真実で命がけの愛の告白に対して、私たちは無関心でいてよいのでしょうか。神の愛はあなたに強く迫っています。真実な愛であれば、自分が相手に愛を告白したならば、当然、相手にその愛を信じて受け入れてほしいと願うのではないでしょうか。神の愛も同様であります。神様はあなたからの真実な応答を期待しておられることは間違いのない事実です。




★いつまでも続く希望

2005-08-15 | 「ご再臨と信者の真の希望」



  人間は何らかの希望を持って生きている存在であるということができます。どんな人も望みなくしては生きていけないのです。動物は本能によって生きていますが、人は違います。間違いなく、私たちが今日、こうして生きているのは、何らかの希望を持っているからではないでしょうか。この望がなくなると、人は自殺を考えるか、そうでなければ、その日その日をただ惰性で生きていくことになるのです。みなさんの中には「希望なんかなくても生きて生ける!」という人がいるかもしれませんが、大きな試練に直面した時、真の望みを持っている人とそうでない人と、はっきりと分かれるのです。

 ある医者は「患者の治療に一番必要なことは、まず、患者に希望を持たせることです。」と言いました。「希望」はどんな薬よりも特効薬だというのであります。希望に向かって生きる人生は、朝日のように輝いています。しかし、希望を失った人はまさに夕暮れのようではありませんか。どなたの人生にも、多くの試練があります。これは確実なことです。しかし、ある人は「希望はダルマさんのようなものです。100回失敗して転んでも、これがあれば必ず起き上がることができる。」と、興味深いことを言いました。人間の体に骨髄があるように、希望があればこそ、人間はしっかりと立つことができるのです。

 しかし、それほど、希望は大切なものですが、希望の持ち方には四つの種類があると言われています。
①『願望』・・・可能性があるかどうかは別として心の願いとしての望みです。
②『野望』・・・身のほどを超えたような野心的な望みであります。
③『欲望』・・・本能的な欲を満たすような意味での望みであります。
④『羨望』・・・羨ましさを込めて、そうなればいいなあ~と思う望みです。

 しかし、これらのものは、よく吟味してみると、どれも本物の望みではないと分かります。これらのものは、必ずいつかは消えてしまうはかない希望です。確かにこの世には、本物の「消えない希望」を持っている人と、消えてしまう希望を持っている人々がいます。日本語の「望」、すなわち「望み」という字は、もともと「遠くを望む」という意味があるように、単に、「金持ちになりたい」とか、「セレブになりたい」とか、「有名人になりたい」とかの願望ではなく、それ以上のもっと、遠くを見通した永遠的なものでなければならないはずです。

 それが、一時的な地上的な望みでしかないとしたら、たとえそれを手に入れることが出来たとしても、その後に「失望」と「落胆」が来るのは必須で、それは時間の問題ということになります。お金や財産も、地位や名誉も、美貌も若さと健康も、その他この世のどんなものも、必ず、失われる時が来ます。ですから、これらのものに頼るこの世の希望は、人間の可能性や人々の約束に基づくものですから、絶えず、不安が伴ない、しばしば失望に終わってしまうのであります。
ですから、人生の若い時に、これらのことに気づいて、決して消えることなない本物の希望を持つことの出来る人生設計を立てることの出来る人は幸いです。

●「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。 」(伝道者の書12:1)。

●「すべて神を忘れる者の道はこのようだ。神を敬わない者の望みは消えうせる。 その確信は、くもの糸、その信頼は、くもの巣だ。 彼が自分の家に寄りかかると、家はそれに耐えきれない。これにすがりつくと、それはもちこたえない。 」(ヨブ記8:13~15)。


 さて、いつまでも続く希望、確実な希望を持つために、一番大切なことは、何かと言いますと、その望みの根拠を何に置くかということでなないでしょうか。何の根拠もない願望や期待だけでは、単なる夢に終わってしまうのです。そして、真の神によって抱く希望こそ、決して失望に終わることのない確実な希望であります。聖書は実に、それを読む者に真の希望を与えるために書かれたものです。聖書の神は「望みの神」であり、「愛の神」であり、「キリストの復活の事実」が、信じる者に真の永続する希望の確信に満たしてくださるのです。
 
●「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。 」(ローマ人への手紙15:3)。
 
●「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者(私たち)のために死んでくださいました。 」(ローマ人への手紙5:5)。

●「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。 」(ペテロの第一の手紙1:3,4)。

●「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(コリント人への第一の手紙15:50~52)。

●「あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。 」(ペテロの第一の手紙1:21)。


 クリスチャンの信仰と希望は、キリストを墓の中からよみがえらせた神にかかっているのです。もし、私たちの希望が、自分の努力や修業や、不真実な人間の約束にかかっているのであれば、その希望に対して確信を持つことは不可能であります。しかし、神はどこまでも真実なお方であり、必ず約束を守られる方なのです。
 
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★何かが欠けている人生

2005-08-11 | 「人生の幸せと平安」




  残暑お見舞い申し上げます。私たちは、日々の多忙な生活の中で、日頃どなたでも自分の人生には、今何かが欠けているものがあると、痛感する時があるのではないでしょうか。もちろん、ある方々は仕事も充実し、家庭も円満で、特に病気でもなく、体も健康で満足していると感じているおられる方もおられると思います。しかし、それでも、ふっと「私の人生はこれでいいのだろうか・・・・・。」と空虚な気持ちになることがないでしょうか。新約聖書に出て来る一人の人物も、多分、そんな一人ではなかったかと思います。

●「彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。 」(ルカの福音書19:3~6)。
 上に記したのは、ルカの福音書19章の一部分ですが、ここに登場するザアカイさんは、日曜学校の子供たちでも知っている有名な人物です。私にとっては、ザアカイさんは聖書の中に出て来る人たちの中でも、特に親しみを覚える人物の一人であります。ザアカイさんはエリコという町に住んでいた取税人のかしらで金持ちでありました。当時はユダヤはローマの支配下にあって、取税人というのは、ローマ人の税金取立て請負人に使役され、その手先となって、税金取立てを職業としていた人たちであります。しかし、ユダヤの一般の人からは嫌われ、憎まれ、異邦人(ユダヤ人以外の外国人)のように見なされていたのです。子供の時には「チビのザーカ~イ!チビのザーカ~イ!」とからかわれ、大人になってからは、売国奴のように言われ、彼は孤独な寂しい人生を送っていた人ではないでしょうか。

 ザアカイさんは、多くの富を得て、贅沢な生活をしていたのですが、心の中に何か空しさを感じていました。それが、一体何であるのか分かりませんでしたが、ザアカイさんは、自分の人生に何かが欠けていることを感じていたのです。自分の心の中にポッカリと大きな穴が空いているような、そんな感じがしていたのです。どんなに財を貯めても、庭付きの大きな邸宅を持っても、立派な家具をそろえて何不自由ない生活をしていても少しも幸福感に浸ることができなかったのであります。そして、何をしてもその心の中の空しい気持ちは消えませんでした。ザアカイさんは、長い間お金さえあればきっと幸福になれると、そう堅く信じて生きて来たのです。

 しかし、彼の心の中は、いつも孤独で、満たされませんでした。お金というものは人を幸せにするものと考えて生きておられる方が多いと思いますが、決してそうではないことを教えられるのであります。「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。 財産がふえると、寄食者もふえる。持ち主にとって何の益になろう。彼はそれを目で見るだけだ。 働く者は、少し食べても多く食べても、ここちよく眠る。富む者は、満腹しても、安眠をとどめられる」(伝道者の書5:10~12)とありますように、人は財産が増すことによって、幸福になると錯覚しがちですが、かえって悩みや心配が増えるのが現実ではないでしょうか。貧しい人は失うものもないので、それだけ悩みも少ないわけです。

 さて、イエス様がエリコの町をお通りになられると知ったザアカイさんがいちじく桑の木に登ってまで、イエス様を見ようとしたのは、半分は好奇心からであったでしょうが、彼が心の渇きを満たす「何か」を求めていたこともまた事実であります。自分に何かが欠けていると気づいてそれを悟る人は幸いな人だと思います。欠けていると本当に分かった人はその「何か」を埋めるために、真剣に探し求める人だと思います。彼が失っていたのは、一つには、人との真実な交わりではなかったかと思います。

 人間というのは「対物」ではなく、「対人関係」の中に生かされている存在であります。ですから、どんなに沢山の物を所有していても、対人関係がうまく行かないと本当の幸福な生活はないのであります。しかし、ザアカイさんとの交わりを望む物好きな人はエリコの町には一人もいませんでした。それは、当然であったと思います。ローマ政府から委託されてユダヤの同胞から不正に税金を取り立てる、売国奴のようなザアカイさんなどと交際したいという人など誰もいなかったとしても不思議ではありません。

 しかし、イエス・キリストだけは違っていました。こんな罪深いザアカイさんにも暖かい愛の配慮をしてくださり、彼を罪の生活から救い出し、彼との交わりを求めておられたのであります。頑なな彼の心が開かれて、人間としての真実な生き方ができるようになるためにも、イエス様はザアカイさんに近づかれたのです。ザアカイさんの心の中は冷たく貝のように固く閉じていましたが、しかし、イエス様はザアカイさんを愛しておられ、彼に近づいてくださいました。ザアカイさんは、自分は知られずに木に登ってこっそりとイエス様を見ようとしたのです。しかし、こんなザアカイさんに主イエス様は、そしりを受けるのも厭わずに、交わりを求めて彼の家の客となられたのです。

 イエス様が木の上にいたザアカイさんに向かって、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」(19:5)と言われたとき、ザアカイさんは、急いで降りて来て、大喜びでイエス様を自分の家に迎えたのは、彼がいかに孤独であり、また、真実な何かを探し求めていたかを物語っています。そして、イエス様がザアカイさんに与えたものは、彼が失っていた根源的なものである”神との交わり”であったのであります。人間の心の空洞を埋めるもの、心の渇きを満たすものは、イエス・キリストご自身であり、それ以外にないのであります。「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」とのイエス様のおことばは、その時の思いつきなどではなく、以前から計画されていたことであることを示しています。愛なる神様は一人一人の人生に深い愛情をもってかかわってくださる方なのです。

「人の心の中には神が造った空洞がある。その空洞は神以外のものによっては埋めることができない。」という、パスカルの有名な言葉があります。私たちは、誰でも自分が神から離れ、迷っている失われた罪人であり、イエス様を通して真の神に立ち返るまで本当の満足と平安を得ることができない存在なのです。そして、そのような救いと真の幸福を与えるためにこそ、イエス様はみ父のみもとから人の姿を取って来られ、罪のない生涯の後、十字架にかかって死んでくださり、よみがえってくださった方なのです。

●「人の子(キリスト)は、失われた人を捜して救うために来られたのです。」(ルカの福音書19:9)。

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★魂の渇きを癒す”生ける水”

2005-08-08 | 「人生の幸せと平安」
  


  人生の出会いには、人の考えや計画を超えた不思議なものがあります。人を不幸に導く出会いもあれば、幸いに導く出会いもあります。よく、「人生は出会いで決まる。」と言いますが、悪い人に出会ったばかりに、その人の人生の歯車が狂ってしまい、取り返しのつかないほど不幸な人生を余儀なくされることもあります。しかし、新約聖書のヨハネの福音書4章に登場するサマリヤの婦人は彼女の人生をすばらしい幸福に導いてくださる救い主イエス様との出会いを経験したのです。

 さて、このサマリヤの婦人がどのような人生を歩んでいたかと言いますと、彼女はかつて5人の男性と結婚し、今また6人目の男性と同棲しているというような素性の持ち主でありました。彼女にとって5人の夫があったということは、どれほど結婚の願望が強かったかが分かります。そして、それは確かに幸せへの願望であり、「真実な愛」に対する渇きではなかったでしょうか。しかし、すべては失敗し、彼女の夢は崩れ去ってしまったのです。そして、彼女は今また惰性で、別の男性と同棲しているという不道徳な生活ぶりであります。このサマリヤの女性は5回の愛の告白をし、5回も裏切られたのでしょうか。そのような経験をしますと、もう誰も信じられなくなったとしても当然ではないでしょうか。

 彼女は、人間不信に陥っていた人であり、真実な愛を求めて渇いていた女性であります。私たち一人一人も、この女性のように「今度こそは‥‥」「この次は‥‥」と、魂の渇きを満たすものを次々と求めるのですが、いつも裏切られて来た者たちではないでしょうか。そして、彼女は心の中に満たされない空しさと渇きを覚えながら、人生の日陰を歩む日々を送っていたのであります。そのようなある日に、彼女の方から求めたのではない、イエス様との「不思議な出会い」がありました。イエス様が旅の疲れで、井戸の傍らで休んでおられた時に、人目を避けるようにしてその女性は井戸に水を汲みに来たのであります。その女性は空しい生活に疲れておりました。イエス様は別な意味でお疲れでありました。生活に疲れた女性と、崇高な目的の旅で疲れておられたイエス様が出会ったのです。 これは、本当に不思議な出会いです。

 さて、イエス様が「わたしに水を飲ませてください。」と彼女に願ってサマリヤの女性との会話が始まるのですが、イエス様は渇くことのない「生ける水」について語られました。そして、この「生ける水」こそ、彼女が今最も必要としているものでありました。イエス様は彼女が必要としているものをご存じでした。そして、イエス様は彼女に会って「生ける水」を与えるために、別なルートもあったのですが、わざわざこの道を通られて旅をされたのであります。イエス様が「生ける水」と言われたのは、人間の霊的な渇きを満たす「いのちの水」のことであります。すなわち、み霊による新しいいのち、「永遠のいのち」のことです。

●「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』 」(ヨハネの福音書13,14)。

 この井戸の水は、一時的に渇きをいやすだけですが、しかし、イエス様が与える水は、人の魂の霊的な渇きをいやし、「その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水」となるという不思議なことをイエス様は語られました。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」と言われたように、人類は心の渇きをいやすために、いろいろなものを作り出して来ました。しかし、この種類のものでは、また渇いてしまうのです。ちょうど、喉の渇きをいやそうとして、水を飲む人のようです。人間が作ったものや、この世のものに求めても決して満たされることはないのです。

 この世が与えるどのようなすばらしいものも、例えば、それが物質的なものではなく、精神的なものであっても、人間の奥底の霊的な渇きを満たすことはできないのであります。音楽や絵画、映画、スポーツ、教養や学問、その他、高尚な趣味、人の心を楽しませるあらゆる快楽も、一時的に渇きをいやす井戸の水にすぎません。また、人間の愛情(夫婦の愛、親子の愛)ですら、人間の心の奥底の空白を埋めることはできません。このサマリヤの婦人も、何度も何度も、不幸な結婚生活を繰り返しながら、自分が寄りかかることのできる相手を求め、真実な愛を求めて来たのですがことごとく失敗して来たのです。

 人間の愛というのは、いつも「金持ちだから‥‥」「顔が綺麗だから‥‥」「いい人だら‥‥」「自分を受け入れてくれるから‥‥」と、条件付で愛する自己中心的な愛であります。ですから、状況が変われば、もう愛せなくなってしまうような弱くて脆いものです。相手にどのような欠点があっても、事情や環境が変わっても、また、自分が不利な状況に置かれても、どこまでも誠実を尽くして愛し通すという強い愛は、実にまれにしかないと思います。そして、たとえ、それが生涯の間愛し貫いてくれる人がいたとしても、それは、永遠のものではありません。ですから、人間の愛も、やはり人間の根本的な渇きをいやすことはできないのです。人は永続性のあるものでなければ心の渇きをいやすことはできません。

 イエス・キリストが与える「いのちの水」は、こんこんと湧き出る泉のように、私たちの渇きを潤すだけでなく、私たちの周囲のすべての人を潤して行くことができる水なのです。そして、この尽きることのない喜びと満足を与えるいのちの水、すなわち、み霊による永遠のいのちは、信じる者は「だれでも」受けることができるのです。どのような罪深い人も、どれほど深い渇きを持った人も、十字架で死んでよみがえられた主イエス様に信頼するなら、この永遠のいのちに至る水を受けることが出来るのです。そして、これは「神の賜物」であり、だれでも無代価で受けることが出来る救いの恵みです。

 最初は、イエス様の方から「わたしに水を飲ませてください。」と願われたのですが、会話が進むうちに、彼女は心を開いて自分の方から、「その水を私にもください。」と願うようになりました。そして、やがてイエス様を救い主と認め、救い主のことを町の人々に伝えるように変えられました。彼女のように、あなたもこのすばらしい「生ける水」をお求めになりませんか。
 
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★聖書の奇蹟について

2005-08-04 | 「聖書について」

 

多くの方から、「聖書に記されている”奇蹟”は非科学的ではないですか?」との質問を受けることがあります。そして、その聖書の「奇蹟」の記事につまずいて、聖書を信じることができないとか、「聖書に奇蹟の記事がなければ、信じることができるのだけれどもね・・・」という方もおられます。私個人のことで恐縮ですが、私は若い頃、聖書の神とキリストを信じるのに、奇蹟の記事は何のつまづきにもならなかったと言っても過言でないと思います。ところで、「奇蹟とは何か」とうことですが、公辞林では、「常識では考えられない不思議な出来事」と書かれています。もう少し別な言い方をすれば、「奇蹟とは、既に知られているところの自然の法則に反しているような方法で起こる出来事」と定義付けることができるかと思います。聖書開巻冒頭の、最初の1節の「初めに、神が天と地を創造した。」という全知全能の神を信じることができるならば、聖書中の奇蹟を信じることは、それほど大きな障害とはならないのではないでしょうか。
 
 たとえば、宇宙のことを考えますと、地球は太陽の周りを一日一回自転しながら一年で一回転します。そして、この宇宙にはその他様々な自然法則が存在します。これらの法則は偶然に出来たのではなく、その背後にそれを設計し造った方(創造者)がおられるからであります。この立法者であられる神は、時計師が時計の針を思いのままに進ませたり、止めたり、遅らせたりすることができるように、神が創造者であり全能者であるならば、ご自身の意志に従ってご自身で定めた自然の法則に従う働きを一時的に進ませたり、止めたりすることも、また、全く新たな創造をなさることも自由自在なはずであります。この神にとっては普通の、しかし人間にとっては異常で不思議に見える神の行為が「奇蹟」と呼ばれているのです。通常の摂理においては、神はこの世界に自ら与えられた法則性を用いられますが、「奇蹟」においては、これらの法則を超え、また、それらの法則に反して自由に行動されるのです。

 聖書には、イエス・キリストが神と等しい御方であり神の御子であられることは、何度も繰り返し述べられています。その中の二、三のみことばを列挙します。

●「初めに、ことば(キリスト)があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。 すべてのものは、この方(キリスト)によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 」(ヨハネの福音書1:1~3)。

●「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子(キリスト)によって造られたのです。万物は、御子(キリスト)によって造られ、御子のために造られたのです。 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ人への手紙1:16~17)。

●「・・・・・神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。」(ヘブル人への手紙1:2,3)。
 
 新約聖書の福音書には、キリストが盲人の目を開けたり、手足の不自由な人を癒されたり、らい病人を癒されたり、一瞬にして水をぶどう酒に変えられたり、荒れ狂っている嵐に向かって「黙れ、静まれ。」と一喝して大凪にしたり、死人をよみがえらせたり、荒れている湖の上を歩かれたり、その他数々の奇蹟を行われたことが記されています。もし、キリストが聖書が語るとおり、神の御子であるならば、このようなことを行ったとしても少しも不合理な出来事ではないのです。もし、キリストが、神の御子であり、神と等しい方であると認めるならば、「キリストが湖の上を歩くことは、畳屋がタタミの上を歩くより簡単なことである。」と言った人がいましたがまさにそのとおりではないでしょうか。聖書はキリストは神の御子であると語っているのに、もし、キリストが奇蹟の一つも行えないようなお方であるなら、普通の人間と一体どこに違いがあるのでしょうか。

 さて、これらの奇蹟は、時計の針を進めたり、止めたりしてもそれが一時的なので、時計の法則を破ることがないように、神が定めた自然法則を破るものではありません。そして、聖書を調べるならば、神は無秩序にいつでも奇蹟を行われたのではなく、聖書にある奇蹟は大体四つの時期に分類されることが分かります。(1)神の民がエジプトから救い出され、カナンに定住した時期。(2)預言者エリヤとエリシャが神の御名のために働いた時期。(3)神の民がバビロンに捕囚となっていて、神が御自身の力が異教の偶像の神々よりも優れていることを示された時期。(4)約2000年前、イエス・キリストがこの地上に来られ、ご自身が神の御子であると証しされた時期。もちろん、その他の時期にも奇蹟はありましたが、ほとんどの奇蹟はこの四つの時期に行われています。そして、これらの時期はみなメシヤによる人類救済と関連した出来事であって、何の意味もなくなされたものではないのです。

 また、福音書に記されている奇蹟は、単に人々の好奇心を満たしたり、人々を惑わすために行われたものではなく、繰り返し述べますが、特にヨハネの福音書に書かれているように、イエスが真の救い主であり、神の御子であることを示す「しるし」(証拠)として行われたものであります。また、奇蹟は単に不思議な出来事であったというよりも、イエス・キリストのわざを通して、神のあわれみと愛と恵みなどの御性質が啓示されたものであるということが言えると思います。また、キリストの復活昇天後、使徒たちによって奇蹟が行われた時期がありましたが、これも神の御霊の力が教会(ギリシャ語でエクレシャ:「召し出された者の集まり」の意味で建築物や団体を示していません)に現存していることの証しとして一時的に行われたものです。

 ある人たちは、「では、何故、今日奇蹟が行われないのか?」と尋ねます。それは、もし神が常に自然法則を超えて働き、奇蹟を一種の日常茶飯事として行ったとしたら、この世界は大混乱に陥り、人々は深刻な事態に陥ることは明白であります。自然法則と秩序の全体系の基礎は危うくなり、人間(科学者)はその法則や秩序を学んだり研究する気も起こらなくなるでしょう。歴史的には、確かに奇蹟が行われました。しかしそれは、最も重要な事柄である救いの計画においてです。新約聖書に見られる奇蹟は、ヨハネが「しるし」と呼んでいるように、イエスが救い主であることを示す点に、重要な目的があったのです。しかし、今日、神の救いのご計画は成就しました。聖書の中心はイエス・キリストであり、キリストの生涯のクライマックスは十字架と復活のみわざであります。今の時代も、神(キリスト)は、同じ全能の力を持っておられ、奇蹟を行う力を持っておられますが、神はむやみやたらに、意味もなく奇蹟を行われる御方ではありません。

 たとえば、神は、三重苦のヘレン・ケラーを、奇蹟をもって癒すことも出来たと思います。しかし、神はご自身の深い摂理とみこころによって、奇蹟を用いて彼女を癒すことはなさいませんでした。そして、その大きな身体的障害に対して彼女が克服して行く姿は、自分にとっても、同様の苦しみにある人たちにとっても、大きな感動を与え、はるかにすばらしい偉大な、まさに奇跡的な結果をもたらしたことは周知の事実であります。このように、現代において、奇蹟は必ずしも最上の問題解決法ではないことに気づかれると思います。また、人が奇蹟によって重い病気が癒されたとしても、必ず、再び「死」に直面しなければなりません。その死の問題の解決なしに真の救いと幸福はないのであります。人生において、最も大切なことは、イエス・キリストの十字架と復活の福音を知り、彼を信じて永遠の滅びから救われることなのです。

 人々は、このような記事は現代の科学の時代に全く馬鹿げており、非科学的で信じられないというのです。しかし、神の「奇蹟」は、非科学的というよりも超科学的なことであります。科学というのは、時代と共に変遷し、修正されて行くものであります。50年前の科学で正しいされていたことも現代の科学では、間違いであると証明されることもあるでしょう。また、現在、正しいと思っている科学も20年後にはもう古いものとして捨てられるかもしれません。多くの人は、科学万能の時代が到来したかのような錯覚に陥っているのではないでしょうか。キリストが、神の御子であり、神と等しい全能者であるとお認めになられるならば、キリストが湖の上を歩くことは、何ら問題のないことであると理解できるのではないでしょうか。

 2000年の時間を越えて現代に生きる人たちにとっては、キリストの奇蹟は信じ難い事のようですが、キリストが創造主であり神であられることを信じるならば、人間の常識を超えた事を行ったとしても何の不思議もないと言えるのではないでしょうか。神のみこころによってなされた聖書の「奇蹟」を現代の科学によって証明する必要もないのです。これは、人間の理性と人知を超えた超科学的な事実であります。現代の科学で証明できないことはすべて否定するという論理は、科学を過信した矛盾した結論であります。あなたが、神の偉大な力と愛を信じる方となられますように祈ります。

●「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。 」(ヨハネの福音書20:30,31)。

●「イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。 」(ヨハネの福音書21:25)。
  

★私の友人:台 豊氏が開設しているHPの「聖書館」には、「奇蹟について」分かりやすく書かれていますのでご覧になってください。 

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