これは、ある外国の実際にあった話です。ジョン・コーツ船長は頑丈な体格をした荒々しい男で、人々に恐れられていました。しかし、ある航海の途中病気にかかり、自分の死が近いのを知ったのです。それとともに、死に対する不安と恐怖に襲われ、救われたいと望んで、まず船の一等士官を呼びました。「K君、私はじきに死ぬだろう。安心できるように祈ってくれないか。」と頼みました。ところが、彼は「船長、私は今まで一度も祈ったことがありません。」と答えたのです。
船長は続けて、「では、君の聖書を持って来て、適当なところを読んでくれないか。」と頼みました。ところが、「船長、私は聖書も持っていないのです。」との答えです。「しかたがない。第二士官を呼んでくれ。」やがて、第二士官が船長のベッドの傍らに立ちました。しかし、第二士官も次に呼ばれた第三士官も祈ることも出来ず、聖書を持っていなかったのです。哀れにも、まさに死に直面している船長のために、祈りのできる者か、聖書を持っている者をくまなく探したのです。
ようやく、コックボーイの一人が聖書を持って、いることが分かり、船長のもとに呼ばれました。「H君、そこに座って私のために聖書の中から適当な箇所を読んでくれないか。」 ところが、少年Hは、聖書のどこを読んだらいいか分からなかったのです。そして思い出したのは、母親がいつも子供の頃に読んでくれた旧約聖書のイザヤ書53章でありました。その箇所は、キリストが誕生される700年以上も前にキリストについて預言されて書かれたところであったのです。少年はさっそく読み出して、5節のところまで来たのです。そこには、次のように書いてありました。
●「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ書53:5)。
自分の救いのために熱心に聞き入っていた船長は、この聖句に至った時、突然叫んだ。「ちょっと、待ってくれ。今のところをもっとはっきり知りたい。もう一度、読んでくれないか。」それで、その少年によって、その聖句がもう一度繰り返して読まれました。それを聞いていた船長は、「ううん、そうか、そうか・・・・。」とうなずきました。その時、H少年は、勇んで言ったのです。「船長!私が家にいてこの聖句を読んだ時、母に言われて、『私たち』の代わりに、私の名をその中に入れて読んだことがあります!」
コックボーイのH少年は、「・・・・彼(キリスト)は、Hのそむきの罪のために刺し通され、Hの咎のために砕かれた。彼への懲らしめがHに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、Hはいやされた。」と自分の名前を入れて読みました。そのとき、船長には、身を乗り出すようにして、「H君。今、君が入れた名の代わりに、私の名のジョン・コーツ、ジョン・コーツを入れて読んでくれないか。」それで、H少年は、船長が言われるままに、次のように読み出しました。
「しかし、彼は、ジョン・コーツのそむきの罪のために刺し通され、ジョン・コーツの咎のために砕かれた。彼への懲らしめがジョン・コーツに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、ジョン・コーツはいやされた。」と。船長は言いました。「もうそれでよい。ありがとう。」 コックボーイの少年が去った後、船長の耳にこの聖句は鐘の音のように繰り返し繰り返し彼の心に響いたのでした。これは、ジョン・コーツが、今までに経験したことのない不思議な心の平安でした。
そして、ジョン・コーツは心は喜びで満たされ、キリストの十字架の死がまさしく自分のためであることを知り、それを受け入れて、みことばの約束の通り神の子となる特権を得たのです。そして、数日後、船長の霊はこの世を離れて、神のみもとに召されたのです。これは、何と感動的な話ではないでしょうか。人は、今、どんな健康な人も、いつかこの世を去らなければならないときが来ます。そして、その行き先は、聖書の語るところによれば、天国か地獄かのどちらかなのです。
●「しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネの福音書1:12) 。
◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」