聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★死の恐怖から救われた船長

2007-02-24 | 「人の死とその備え」

 これは、ある外国の実際にあった話です。ジョン・コーツ船長は頑丈な体格をした荒々しい男で、人々に恐れられていました。しかし、ある航海の途中病気にかかり、自分の死が近いのを知ったのです。それとともに、死に対する不安と恐怖に襲われ、救われたいと望んで、まず船の一等士官を呼びました。「K君、私はじきに死ぬだろう。安心できるように祈ってくれないか。」と頼みました。ところが、彼は「船長、私は今まで一度も祈ったことがありません。」と答えたのです。

 船長は続けて、「では、君の聖書を持って来て、適当なところを読んでくれないか。」と頼みました。ところが、「船長、私は聖書も持っていないのです。」との答えです。「しかたがない。第二士官を呼んでくれ。」やがて、第二士官が船長のベッドの傍らに立ちました。しかし、第二士官も次に呼ばれた第三士官も祈ることも出来ず、聖書を持っていなかったのです。哀れにも、まさに死に直面している船長のために、祈りのできる者か、聖書を持っている者をくまなく探したのです。

 ようやく、コックボーイの一人が聖書を持って、いることが分かり、船長のもとに呼ばれました。「H君、そこに座って私のために聖書の中から適当な箇所を読んでくれないか。」 ところが、少年Hは、聖書のどこを読んだらいいか分からなかったのです。そして思い出したのは、母親がいつも子供の頃に読んでくれた旧約聖書のイザヤ書53章でありました。その箇所は、キリストが誕生される700年以上も前にキリストについて預言されて書かれたところであったのです。少年はさっそく読み出して、5節のところまで来たのです。そこには、次のように書いてありました。

●「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ書53:5)。

 自分の救いのために熱心に聞き入っていた船長は、この聖句に至った時、突然叫んだ。「ちょっと、待ってくれ。今のところをもっとはっきり知りたい。もう一度、読んでくれないか。」それで、その少年によって、その聖句がもう一度繰り返して読まれました。それを聞いていた船長は、「ううん、そうか、そうか・・・・。」とうなずきました。その時、H少年は、勇んで言ったのです。「船長!私が家にいてこの聖句を読んだ時、母に言われて、『私たち』の代わりに、私の名をその中に入れて読んだことがあります!」

 コックボーイのH少年は、「・・・・彼(キリスト)は、Hのそむきの罪のために刺し通され、Hの咎のために砕かれた。彼への懲らしめがHに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、Hはいやされた。」と自分の名前を入れて読みました。そのとき、船長には、身を乗り出すようにして、「H君。今、君が入れた名の代わりに、私の名のジョン・コーツ、ジョン・コーツを入れて読んでくれないか。」それで、H少年は、船長が言われるままに、次のように読み出しました。

 「しかし、彼は、ジョン・コーツのそむきの罪のために刺し通され、ジョン・コーツの咎のために砕かれた。彼への懲らしめがジョン・コーツに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、ジョン・コーツはいやされた。」と。船長は言いました。「もうそれでよい。ありがとう。」 コックボーイの少年が去った後、船長の耳にこの聖句は鐘の音のように繰り返し繰り返し彼の心に響いたのでした。これは、ジョン・コーツが、今までに経験したことのない不思議な心の平安でした。

 そして、ジョン・コーツは心は喜びで満たされ、キリストの十字架の死がまさしく自分のためであることを知り、それを受け入れて、みことばの約束の通り神の子となる特権を得たのです。そして、数日後、船長の霊はこの世を離れて、神のみもとに召されたのです。これは、何と感動的な話ではないでしょうか。人は、今、どんな健康な人も、いつかこの世を去らなければならないときが来ます。そして、その行き先は、聖書の語るところによれば、天国か地獄かのどちらかなのです。

●「しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネの福音書1:12) 。

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」



★十字架のことば(福音)の力 

2007-02-17 | 「信仰と救いについて」
         
 

●「十字架のことば(福音)は、滅びに至る人々には、愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Ⅰコリント1:18)。

 あなたは、この聖書の一節をお読みになられてどのようにお感じになられるでしょうか。このみ言葉は、使徒であり伝道者であったパウロが、ギリシャのコリントという街の信者に書き送った手紙の中の一節です。コリント(アテネのすぐ近くにあった街)はギリシャの一大都市でありました。ギリシャは当時の世界における文化の中心地であり、そこに住む人々はこの世の哲学的な知識を重んじるあまり、キリストの十字架の福音のメッセージを浅薄この上もない愚かなものとして、軽蔑していたのです。この世の知恵によって、神の奥義であるキリストの十字架の福音を理解することはできないのです。しかし、パウロは、この十字架のことばにこそ、「神の力」があると大胆に力説しました。

 この一節に、「滅びに至る人々」と、「救いを受ける私たち」という二種類の人々が出て来ます。、「滅びに至る人々」とは、キリストの十字架の福音(良き訪れ)を拒んで、死後において永遠の滅び(地獄)に入る人々のことです。「救いを受ける私たち」とは、パウロを含めて、イエスがキリスト(メシヤ:救い主)であることを認め、そのイエスが全人類の罪の身代わりに十字架で死なれたことを信じたクリスチャンのことです。クリスチャンとは、キリストが自分の身代わりに十字架で死んでくださり、よみがえられたことを信じて永遠のいのちを得て、罪と永遠のさばきから救われた人たちです。真のクリスチャンたちは、救われた確信をもっており、確かな希望をもって天国に向かって旅をしている人たちです。

●「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(Ⅰコリント1:21~25)。

 今日も、当時と少しも変っていません。自ら「クリスチャン」であると自称しながら、キリストの十字架の福音を知らない人たちが多くいます。キリストを信じて罪が赦されたという確信も喜び持たない人たちもいます。また、キリストの人格や教訓や模範は説くけれども、キリストの「十字架の贖い(救い)」や「身代わりの死」を全く語らない教会もあるようであります。しかし、パウロは、そうではありませんでした。「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」と言っています。人々から愚かと思われていた、「十字架につけられたキリスト」による救いを宣べ伝えました。

 パウロは、この世の知恵を重んじたコリント人に向かって、「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」(Ⅰコリント2:2) と、大胆に語っています。現代においても、真のクリスチャンは人々が信じても信じなくても、受け入れても受け入れなくても、どんなに軽蔑され愚か者と呼ばれても「十字架につけられたキリスト」こそが神の力であり、そこにこそ神の救いがあるのです。甘言をもって人々を誘い、耳障りの良いことばを語っても、そのメッセージの根底に十字架がなければ、それは、純福音ではありません。

●「みことば(十字架の福音)を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。 」(Ⅱテモテへの手紙4:1~5)。

 この手紙は、パウロが殉教直前に若い伝道者テモテに宛てて書かれたものです。終わりの時代には、耳障りの良い話、すなわち、聖書を開いても罪も神のさばきも語らない、そして、十字架と復活のないキリストが語られるようになるので、時が良くても悪くても、「みことば(十字架の福音)を宣べ伝えなさい。」と教訓と警告を与えたのです。パウロは、もう間もなくこの世を去って主のみもとに行こうとしていた時に、「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」と、きっぱりと言い切ることが出来ました。

 刻々と終末が近づいている昨今、世界中に「われこそは、世界(人類)を救う救世主である!」と豪語する偽キリストたちが続々と現われています。しかし、そこには十字架がないので、偽者であることをすぐ見抜くことができます。イエス・キリストは、約2000年前、旧約聖書が預言されていたように救い主として来られ、そして、その生涯の最期に十字架に架かられ、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているか自分でわからないのです。」と、とりなしの祈りをされ、息を引き取られる前には、「完了した」(ヨハネ19:30)と宣告されました。

●「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力です。」(ローマ人への手紙1:16)。

●「この方(キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには私たちが救われる名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。」(使徒の働き:4:12)。

●「わたし(キリスト)は道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもと(天国)に来ることはありません。」(ヨハネ14:6)。


 今の時代の真のクリスチャンたちも、世に迎合することなく、世と妥協せず、十字架の福音を恥じることなく、まっすぐにキリストの十字架(と復活)の福音を語らなければならないことを聖書から教えられるのです。もし、あなたが、まだイエス・キリストをご自分の救い主と信じておられないならば、永遠のいのちをもっていないことになります。どうか、ご自分の今までの神に背を向けた罪の生活を悔い改め、キリストを信じて救われて下さいますように心からお勧めいたします。 
 
◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」


★迷い出た羊とキリストの愛

2007-02-08 | 「キリストの愛」
        
         

●「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカの福音書15:4~7)。


 これは、主イエス様が語られた譬え話ですが、ここには、迷い出た一匹の羊を血眼になって捜す羊飼いの姿が描かれています。これは、イエス・キリストの愛を分かりやすく表しているお話ですが、この羊飼いのように、イエス・キリストは私たちを懸命になって捜しておられるのです。この羊飼いの愛には、次の四つの特徴があることが分かります。

【1】かけがえのない愛です。
 これは、いなくなった一匹の羊を捜す《かけがえのない愛》です。この一匹を他の羊で代用することができないのです。この羊飼いは、「いなくなった一匹」の羊を愛しているのです。イエス・キリストは、私たち一人一人を個人的に愛しておられます。あなたや私の人格を愛する愛なのです。「物」であれば、一つ失った時に、他のもので代用することができますが、神の愛は、親がわが子を一人一人個人的に愛する愛のように、他の人で代用することができない《かけがえのない愛》なのです。

【2】打算のない愛です。
 この羊飼いは、《打算のない愛》です。すなわち、計算しない愛です。この羊飼いは99匹を野原に残して、迷い出た一匹の羊を捜しに出ました。一匹の羊を捜しに行っているうちに、野原に残した99匹の何匹かは狼などの野獣に襲われて食べられたしまうかもしれないのです。人間の愛の中には、母親がわが子を愛するような全く打算のない純粋な愛もあります。しかし、打算的で、自分の利益にならなければ、愛することを止めてしまうような安っぽいものも多くあります。最近は、もらう年金の額を計算して、熟年離婚する夫婦もあると聞いたことがありますが、本当に悲しい、打算的で利己的な愛ではないでしょうか。これは、もう愛と言えるものではありません。

【3】忍耐の愛です。
 これは、失った一匹の羊を見つけるまで捜す、《忍耐の愛》です。真の愛は途中で諦めることをしないのです。この羊飼いは、歩き疲れたから止(や)めるということをはしませんでした。捜すのが困難だからと止(や)めるということはしませんでした。捜すのに疲れて眠くなったからと言って、止(や)めようとはしませんでした。諦めてわが子が行方不明になった時に、親は決して諦めることをしないで何日も何日も血眼になって必死に捜し続けるというのが普通ではないでしょうか。いや、突然、隣国に拉致されて行方不明になったわが子の帰りを何十年も待ち続けている親もいるのです。それが「愛」というものなのではないでしょうか。

【4】優しい愛です。
 この羊飼いの愛は、傷ついた羊をいたわる《優しい愛》でありました。この羊飼いは、傷ついて弱っていた両肩に「羊をかついで」帰って来ました。この羊飼いには、傷ついた羊に対する思いやりといたわり、同情心があったのです。なぜなら、この羊飼いは、多分傷つき倒れていたであろう羊の首に縄をつけて、無理矢理曳いて来たのではありませんでした。弱り果てている羊をいたわり、同情して、優しく肩にかついで帰って来たのです。キリストの愛も、同様です。今日、大人も老人も主婦も子供も、世界中の多くの人々が傷つき倒れています。そのような人たちにキリストはやさしく接してくださいます。そして、迷っている人々を、神のみもとに連れ帰ってくださるために天から来てくださった神の御子なのです。

【5】喜び分かち合う愛です。
 この羊飼いは、見つけた羊をかついで大喜びで帰って来ました。そして、友だちや近所の人たちを呼び集めて、「いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。」と言ったのです。本当の喜びというのは、分かち合うものです。喜びは、分かち合うからこそ、喜びなのです。嬉しいことがあった時に、自分の部屋で一人だけで喜んでいても、あまり楽しくは感じないのではないでしょうか。イエス・キリストが失われた羊のような私たちを捜し求めて、見つけた時の喜びはそのような喜びなのです。そして、天においても大きな喜びがあります。

●「人の子(キリスト)は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカの福音書19:10)。

 このルカ19章1~10節には、神から迷い出て孤独になり、生きる意味を見失ってしまった一人の人間が、キリストに見出されて、愛なる神様のみもとに帰り、その懐(ふところ)に抱かれて平安を見出したすばらしい見本があります。それは、ザアカイという取税人のかしらです。彼は、子供の頃から背が小さくて、「や~い!チビのザアーカイ!」といじめを受けていて、コンプレックスを持っていました。人間は誰でも、多かれ少なかれ、コンプレックスを持っているものです。彼は大人になり、ローマ政府から委託されて税金を徴収する取税人のかしらになりました。そして、集めたお金をごまかして、着服していました。彼はお金を貯めることに人生の価値を見出したように感じるようになったのです。

 彼は、自分をいじめた奴らを見返してやろうと考えたのかもしれません。しかし、彼の空虚な心はお金によっては決して満たされることはありませんでした。彼はユダヤ人でしたが、ローマの手先となって税金を取り立てていたので、売国奴のように言われ、大人になっても、やっぱり孤独で、だれも友だちになってくれませんでした。彼の心は満たされず、孤独感から解放されることはありませんでした。でも。イエス様は彼の孤独な心の中を全部知っていました。また、同時に、彼が罪を犯していたこともご存じでした。その日、ザアカイはイエス様を自分の家に招き、悔い改めて、イエス様を救い主と信じて救われたのです。あなたも、このザアカイのように、キリストに出会って、神に帰ることが出来たら感謝ですね。

●「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(Ⅰペテロの手紙2:22~25)。

 イエス・キリストこそ、本当の私たちの羊飼いなのです。このお方は、神から迷い出てしまった私たちを救い出すためにこの世に来てくださり、私たち罪人のために十字架にまでかかって、身代わりに死んでくださったのです。命がけで、いや、ご自分のいのちを捨ててまで、私たちを愛してくださったすばらしい救い主です。このお方は、死後三日目によみがえられた救い主であり、今も天において生きておられる方なのです。

●「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。‥‥ たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。 」(詩篇23:1,2)。
 
 イエス・キリストを救い主と信じて、キリストを真の羊飼いとして生きる者の幸いがここに記されてあります。羊飼いのもとに帰って、安らぎと憩いを見出している羊のように、何の心配もなく、神の懐(ふところ)に憩うことが出来、また平安の中に導かれるのです。そして、死の陰の谷を歩くことがあっても、少しも平安を失うことがありません。神から迷い出た人間にとって、神のみもとに帰る以外に決して平安を得る道はないことを是非、お知りになられ、主イエス様を救い主として信じ、救われてください。聖書で、救いと言っているのは、神の永遠の裁きからの救いのことです。神は、すべての人に死後の永遠の滅びからの救いを備えて下さいました。

 
◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」 

             

★私を見ておられる神

2007-02-02 | 「人生と孤独」
  
   
 
●「主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、『サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と尋ねた。彼女は答えた。『私の女主人サライのところから逃げているところです。』そこで、主の使いは彼女に言った。『あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。』また、主の使いは彼女に言った。『あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。』さらに、主の使いは彼女に言った。『見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。』 」 (創世記16:7~12)。 
  
 聖書をお持ちの方は、創世記16章をお開き下さい。そこには、エジプト人の女奴隷ハガルの、読む人の涙を誘う話が書かれています。彼女は、アブラハムの妻サライのつかえめとして雇われたのですが、サライは不妊の女で子供がありませんでした。それで、ハガルは女主人に代わってアブラハムの子をはらむようになったのです。その後、彼女が高ぶってサライを見下げるようになったのですが、そのことによって、彼女はいじめられて、ついに、いたたまれずに、女主人のもとを避けて家から逃げ出したのです。アブラハムとサライの不信仰によって家庭不和が起こり、三人三様の不幸に苦しむことになったのです。いろいろな家庭の問題は神様に対する不信仰と不従順によって起こることが多いのです。

 ハガルは荒野をさ迷い、シュルへの道にある泉のほとりに来た時に、主の使いに会って、「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」との勧めを聞いて、再び、様々な苦しみが待っているサライのもとに帰って行くのです。もし、サライが「自分に代わってアブラハムの子をはらみなさい。」などと言わなければ、ハガルはいつまでも、つかえめとして平穏無事な生活を送ることができたでしょう。ですから、迷惑なのはハガルであり、彼女はサライの犠牲になったようなものです。もちろん、彼女自身にも高ぶりの罪があったのです。人生には、自分の失敗によって招く苦しみもあれば、他人の犠牲になって苦しむ苦しみもあります。 

 しかし、彼女は、そのような涙の谷において、神に出会ったのです。多くの場合、涙と悲しみの中で、人は神との出会いを経験するのです。そして、彼女は、自分に語りかけられた主の名を呼んで「あなたはエル・ロイです。」と言いました。「エル・ロイ」とは「私を見ておられる神」という意味です。ですから、「エル・ロイ」とは、辛く苦しい状況の中にある人々を顧みてくださる神を意味しています。彼女は女主人の冷酷な扱いと、荒野の孤独の中で、「自分を見ておられる神」に出会うことが出来たのです。私たちの人生は、いろいろな苦しみで満ちています。また、悲しみと叫びと涙に満ちているのが大部分の人の人生でなのです。それは、人間の罪と不信仰の結果でもあります。

 しかし、そのような暗い現実の中で、いつも私たちをご覧になっておられる神がおられることを知ることは何と幸いなことではないでしょうか。ハガルは、女主人のいじめを避けて、その苦しみから逃げようとしまして、家出をしたのです。しかし、「私を見ておられる神(エル・ロイ)」を知ってから、また女主人のもとに帰って行く決心をしました。私たちが、この世の中で生きて行くことは確かに大変なことです。人はだれでも現実の苦しみから逃げたいという思いがありますが、現実から逃避しても何も問題は解決しないのです。しかし、その現実の中で、私たちを見ておられる神を知る時に、再びその現実の中に戻って行く勇気と力が与えられます。

 目先の苦しみを避け、できる限り、安全で都合のよいような生き方を求めるのは、私たちの常であります。暗い所を避け、明るい方へと逃げたくなるのは、だれでもが持っている衝動ではないでしょうか。しかし、そのような消極的な生き方を求めるならば、ハガルのように、「私を見ておられる神」、すなわち、エル・ロイの神を告白し、その幸いを経験することができないのです。そうではなく、苦しい現実の中でも生きて行くことのできる神を知り、それを体験できることはもっと幸いなことなのです。

 人間というのは、いろいろな時に孤独感に襲われることがあります。結局、自分を分かってくれる人はだれもいないのではないかという、そのような思いはどなたでも持ったことがあると思います。子供も、夫も妻も、お年寄りの方も、だれでもそのような孤独感を持つことがあると思います。しかし、このような暗い現実の中で、神だけは絶対に私を見捨てることはない、という信仰を持つことができるのは何と幸いなことでしょうか。そして、聖書の神は、私たち一人一人を見ておられるだけでなく、私たちと共に苦しんでくださり、また、守り導いてくださる方なのです。

●「彼らが苦しむ時には、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」(イザヤ書63:9)。
 
 このみことばは、旧約聖書のイザヤ書の中にある慰めに満ちたことばで、愛なる神は、苦しむ私たちと共に苦しんでくださる方であることを教えられますが、また新約聖書のヨハネの福音書には、次のようなみことばがあります。

●「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。」(ヨハネの福音書21:4)。

 この時、弟子たちはガリラヤのテベリヤ湖畔で、漁をしたのですが、その夜は何も獲れず、非常にがっかりし、失望していました。しかし、よみがえられたイエス・キリストは、岸辺に立ってその弟子たちの様子を見ておられたのです。人生において、だれでも失望の朝を迎えることがあると思います。しかし、主イエス様は「夜が明けそめたとき、岸べに立って」見ておられる方なのです。イエス・キリストは、人々の罪のために十字架で死んでよみがえられ、今、私たちをご覧になってなっておられる「エル・ロイ」の神なのです。「弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。」と書かれていますが、私たちの霊の目が開かれ、今、現実に生きておられ、私たちをご覧になっておられるイエス・キリストを信じて、罪と孤独から解放された人生に入ることができますようにお祈りしています。

●「見よ。わたし(イエス・キリスト)は、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28:20)。 
 
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