聖書から人生を考えよう

私のプログへようこそ!!
お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★良い羊飼いであるイエス様

2007-01-26 | 「キリストの愛」

    

●「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます。」(ヨハネの福音書10:11)。 
 今年は全国的に暖冬が続いているようですが、皆様ご機嫌いかがお過ごしでしょうか。さて、ちょっと季節外れの記事になるかと思いますが、ご容赦ください。パレスチナ地方は、雨が少なく、緑も豊かではありません。このような地方で自分の羊に水を与え、牧草を与えて養うことは、とても厳しい仕事でした。旧約聖書の中でも、その地に住む人々が大きな干ばつに見舞われた出来事や、井戸を確保するためにこの地方の部族が争った出来事などが数多く記されています。また、この地方では一日の寒暖の差も大きく、砂嵐の季節があったり、一年の内の気候の変化も激しく、羊飼いはそのような中をあちこちに点在する僅かな青草と水飲み場を求めて、自分の羊を導くのです。 
 
 このような地方では、野の獣にしても餌(えさ)になる物はそれほど多くはなく、狼などの野獣が羊を襲いに来ることも決して珍しいことではありませんでした。羊飼いはこのような外敵から自分の羊を守り、自分が飼っている羊に水と青草を与えるために、命がけで働き、また羊はか弱く迷いやすい家畜ですから、羊飼いに導かれることなしには生きていけなかったのです。このように羊飼いと羊が一体となっている姿は、パレスチナの人々にはごく身近なものであり、主イエスさまは、しばしばこのような羊飼いと羊の譬えを用いて弟子や群衆に神のことを語り聞かせたのです。また、ユダヤの指導者たちと論争をする時にも、主イエスさまはこうした身近な譬えを用いられたのです。

主イエスさまは「わたしは良い牧者です。良い羊飼いは羊のために命を捨てます。」と言っておられます。この言葉はギリシャ語本文では「わたしこそが本当に良い羊飼いです。」と強いインパクトを持った言葉のようです。ヨハネによる福音書が成立したのは、主イエスさまが十字架にお架かりになってから60年以上の時を経た紀元90年代であると考えられています。この福音書の記者ヨハネは自分の信仰の証として主イエスさまを読者である私たちに紹介し、私たちを「良い羊飼いである主イエス」のみもとに招き、導こうとしていることがよく分かります。今日、私たちは主イエスさまが聖書のみ言葉によって、迷える羊のような私たち一人ひとりの名を呼んで下さり、私たちをみもとに招いておられることを覚えることができたら幸いです。
 
 私たちが羊飼いである主イエスさまに一人一人の名前を呼ばれていることを考えてみましょう。 羊飼い主イエスさまは羊飼いがその羊の一頭一頭に名を付けその性質も知っておられるように私たちの全てを知ってくださり、私たちの名を呼び、一つの群れとするために、私たちを導いてくださっておられるのです。私たちは、生まれてから今日まで、どれだけ自分の親や周囲の人々から、自分の名前を呼ばれたことがあるでしょうか。私たちがまだ乳飲み子で自分で自分が誰であるかを意識できないような時から、周りの人から優しく穏やかで柔らかな声で数え切れないほど幾度も名前を呼ばれて来たのはではないかと思います。

 それは例えて言えば、まだ形の定まらない大理石の原石にノミを加えているようなことであり、私たちが名前を呼ばれるたびに少しずつ自分が名前を持った尊い一人の人間であることを刻み込まれ、次第に今の自分が彫り上げられてきたと言えるのではないでしょうか。あるいはまた、身に危険が及びそうになった時や過ちを犯しそうになった時に、親は厳しく子どもの名前を呼んで、安全な場所へ連れ戻し、もう危険な所に行かないように、更にはもう過ちを繰り返さないように導こうとします。そのように子を知り子を思う親のように、羊の一頭一頭を知っている良い羊飼いである主イエスさまは、私たちの名を呼び私たちをかけがえのない羊として導こうとしておられるのです。
 
 しかし、その一方で、良い羊飼いが安全な正しい方へと羊を導こうとすれば、それまで羊を食い物にしていた強盗のような権力者たちは自分の偽善や貪欲が暴かれることを恐れて、良い羊飼いであるイエス・キリストを嫌い、イエス様を殺そうとさえし始めるのです。その様な時にも良い羊飼いである主イエスさまは先ず第一に、ご自分の羊のことを思い、愛する羊のためには命をも惜しまないことを、このみことばは語っているのです。このみこばをよく吟味してみると、主イエスさまが「良い羊飼い」について一般論を述べておられると同時に、「わたしは」を主語にしてご自分の羊のために「命を捨てます」ということを強調して語っていることに気付かされるのです。

 当時のユダヤ教の指導者たちがイスラエル民族としての救いにこだわり、その枠に入らない人々を排除していた中で、多くの異邦人(日本人もユダヤ人から見ると異邦人です)が救いを求めて主イエスさまのみもとに集まって来ることを主は知っておられました。主イエスさまはそのような異邦人を拒否したり排除することなく、神の救いの恵みはこの世に生を受けているすべての人に及んでいることを教え、主イエスさまはその羊を守る羊飼いのようにお働きになったのです。その結果、主イエスさまはイスラエル民族の一致と団結を乱す者として神殿の権力を持つ指導者によって弾圧され迫害を受け、結果的には十字架に掛けられて命を奪われることになるのです。

 主イエスさまは、例えて言えば、民族的な血統書付きの羊のみを集める羊飼いなのではなく、選民意識の強かったユダヤ人によってはじき出された雑種や混血の羊たちのことをも受け入れ、囲いの外にいる羊たちのことさえ心にかけてくださる優しい羊飼いとして記されています。良い羊飼いである主イエスさまは、この羊飼いを慕い求めて集まる羊のために、そして迷い出し飼い主を失った羊のためにも「自分の羊のために命を捨てます」とまで言ってくださいました。真の羊飼いであられる主イエスさまは、ご自身の命を捨てて私たちを救い出し、私たちに神のみもとでの永遠の安らぎと憩いが与えられることを示してくださいました。このような良き羊飼いである主イエスさまに私たちは自分のすべてを知られており、親しく名前を呼ばれ導かれるのです。
 
 私たちは、良い羊飼いであられる主イエスさまの御声を聞き分けることができるでしょうか。イエス様を信じて従おうとされるなら、そのみ声を聞き分けることが出来るのです。主イエス・キリストは、このみことばの通りに、十字架に掛けられ、永遠の滅びから私たちを救ってくださるために死んで下さいました。羊と羊飼い(牧者)とどちらが価値があるでしょうか。もちろん、それは言うまでもなく、羊飼いの方にはるかに価値があります。しかし、驚くべきことにその羊飼いが羊のためにいのちを捨てられたのです。主イエスさまの御声を聞いて従って行くことは、私たちがかけがえのない自分自身として生きていくことを意味しています。私たちは、主イエスさまによって養われ導かれている者として、羊飼い主イエスさまのすばらしい福音を囲いの外の多くの迷える羊たちにも届けるために働くことができる者となるのです。
 
 囲いの外にいる羊や主イエスさまの御声を聞かない羊は、良き羊飼いである主イエスさまの御声に導かれて生きる人々を見て初めて自分もその喜びに与りたいと思い、自分も主イエスさまの愛に触れたいと思うようになります。ですから、良き羊飼いである主イエス様に導かれるクリスチャンたちは、主イエスさまの御声を聴き、導かれ、生かされていくことがどんなに大きな喜びであるかを僅かでも証しできればと願っているのです。私たちは、すべての人が良き羊飼いである主イエスさまのもとに導かれることを願っています。クリスチャンは、そのためにこの世に遣わされている者たちなのです。私たちは、一人でも多くの人が感謝して主イエスさまの福音を信じてみ言葉に聞き従っていくことが出来るように祈っているのです。 

 また、主イエス様は「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」 (ヨハネの福音書10:17,18)と言われました。主イエス様は、人間の側から見ると、そのいのちを無理矢理に奪われたように見えますが、そうではなく、自ら進んでいのちを捨てられ、また十字架の死後、墓に葬られ、三日目に自らよみがえられた御方なのです。どうか、このようなすばらしい救い主を信じて救われ、希望に満ちた生涯に導かれる主イエス様に従う方となって下さい。

●「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主(御父なる神)は、私たちのすべての咎を彼(キリスト)に負わせた。」(イザヤ書53:6)。

●「わたし(イエス)の羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして、彼ら(クリスチャン)はわたしについて来ます。」(ヨハネの福音書10:27)。


◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」 

       

★三位一体の神について【2】

2007-01-22 | 「神の存在について」
    
 

 前回の記事に続いて、もう一回だけ、三位一体の神について聖書から考えてみたいと思います。これは人間の知性では完全に理解することが出来ない深い真理ですから、どうか、ご忍耐を持ってお読み下さい。聖書をお持ちの方は、どうぞ、聖書を開いてお確かめいただければ幸甚に存じます。全くの初心者の方は、他のカテゴリーにある分かりやすい記事から選んでお読み下さってもよろしいと思います。

●「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」(マタイの福音書3:16、17)。
 
 ここには、主イエス様がバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられた時のことが記されています。ここで、次の三つのことが明らかです。
①天から声を出された方は、御父なる神です。
②人間の姿をとっておられる御方は御子(イエス・キリスト)なる神です。
③鳩のように天から下られた御方は聖霊なる神です。

 ある異端の団体の人は、三位一体の真理に対して異常なまでの敵意を燃やして攻撃します。そして、彼らは、キリスト(御子)も聖霊も神ではないと言って、その神性を否定します。そして、「イエスがマリヤの胎内におられた時に、天におられた父なる神もいっしょにマリヤの胎内にいたのですか?」というおかしな質問をするのを聞いたことがあります。このような質問は、彼らが聖書が教える三位一体の神の真理を全く誤解していることを示しています。聖書の神は、御父と御子(イエス・キリスト)と聖霊という三つの位格(ペルソナ)をもつものであるけれども、一つの塊のようにいつもいっしょにいるということではありません。しかし、三つの位格があるけれども、一つであるのです。適切な例えかどうか分かりませんが、夫婦はそれぞれ別の人格を持っていますが、一体であることと似ています。

 また、新約聖書の中では、「御父、御子(イエス・キリスト)、聖霊」はそれぞれ「神」と呼ばれています。次のみことばをご覧下さい。

●「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。」(ローマ人への手紙1:7)。
ここでは、御父は「神」と言われています。

●「御子についてはこう言われています。『神(キリスト)よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの杖こそ、まっすぐな杖です。あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神(キリスト)よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたと共に立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。』」(ヘブル人への手紙1:8)。
 ここでは、明らかに御子(キリスト)について、「神よ。」と呼びかけておられます。

●「『アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。‥‥あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。』」(使徒の働き5:3,4)。
 ここでは、アナニヤとサッピラ(アナニヤの妻)は、聖霊を欺いて、罪を犯したのですが、それは「神を欺いた」罪であると断罪されています。すなわち、聖霊は神であることを示しています。

●「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」(エペソ3:16,17)。
 この使徒パウロの祈りの中にも三位一体の神が表されています。同じ章の19,20節にも、「キリストの愛」「神(御父)ご自身」「私たちのうちに働く力(聖霊)」の三位一体の神が表されています。

●「主イエス・キリストの恵み、神(御父)の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」(Ⅱコリント13:13)。
 これは、パウロの祈りですが、ここでパウロは、コリント集会(教会)の信者の上に、三位一体の神の祝福があるように祈っているのです。
        
      ===★三位一体の神と救いの関係★=== 

●「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」 (Ⅰペテロの手紙1:2)。

 ここでは、人間の救いのために三つの御方が働いておられるのを知ることができます。
①御父なる神の予知によって選ばれました。
②御子イエス・キリストの(十字架のみわざによる)御血の注ぎかけがありました。
③聖霊の聖めにあずかりました。

また、エペソ人への手紙1:1~14を開いてご覧になって下さい。
①父なる神のご計画(3~6節)。
②御子の救い(贖い)のみわざ(7~12節)。
③御霊(聖霊)の働き(13,14節)。
 
 このように、三位一体の神の真理は、私たちの罪の贖いに非常に深く直接的に関わっていることが分かります。もし、イエス・キリストが「神」以下の何かであったなら、イエス様はすべての人類の罪を贖うことはできないことになります。イエス・キリストは、人間の姿をとって現れた「神」なのです。イエス様が神であることの証明として、いくつもの例を上げることができますが、一例を上げますと、イエス様は新約聖書の中でいろいろな人(あるいは天使)によって礼拝を受けておられますが(マタイ9:8,14:33、ルカ24:52。使徒10:25,26、14:18。黙示録19:10、22:8,9。)、その礼拝を一度も拒んだことがありません。礼拝は神だけが受けるべきものであり、この事実は、イエスご自身が神であることを示すものです。

      ====★聖書の中の一つの原則★===

 聖書には、一つの原則があります。神のみわざにおける聖書での順序は、必ず次のようになっているということです。
①「父なる神」が何かの目的をお持ちになられる。
②「御子なる神(イエス・キリスト)」が父なる神の目的に従ってそれを実際に遂行される。
③「聖霊なる神」はその遂行を可能にする力であるということです。
この真理は、神のことばのすべてを通じて保たれています。
 
【1】創造のみわざにおいて。
①父なる神は創造の計画を立てられました。(エペソ1:9,10)。
②御子なる神はご自身によってすべてのものを創造され、保っておられます。(ヨハネ1:1~4。コロサイ1:16。ヘブル1:1~13)。
③聖霊なる神は創造の時の力です。(ヨブ26:13。詩篇104:30)

【2】贖いのみわざにおいて。
①父なる神はその愛のゆえに、人間を恵み給う御心を持たれました。(ヨハネ3:16。Ⅱコリント5:19)。
②御子なる神は、御父を愛する従順さのゆえに、贖いのみわざを完成されました。(ヘブル10:7~10)。
③そして、永遠の聖霊なる神によって、ご自身を傷なきものとして神にささげました。(ヘブル9:14)。

【3】復活のみわざにおいて。
①父なる神は、キリストを死人の中から引き上げられました。(使徒3:15)。
②御子イエス・キリストは、死人の中からよみがえられました。(ヨハネ10:18)。
③聖霊の力により、キリストはよみがえられました。(ローマ8:11。Ⅰペテロ3:18)。ここで、「霊において」とは、「み霊によって」の意味です。

 三位一体の神に関しては、聖書を調べるならば、まだまだ多くのところからその聖句を示すことができますが、今回はこれで終わりにします。どうか、聖書の中には一つの矛盾もありませんから、ご自身でさらにお調べなられて、イエス・キリストこそ真の救い主であることをお悟りになられますことをお勧めいたします。

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」

       

★三位一体の神について【1】  

2007-01-17 | 「神の存在について」



●「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)。

 聖書が語る神は、御父、御子(イエス・キリスト)、聖霊の三位一体の神です。「三位一体」という言葉は聖書には書かれていませんが、よく調べて見ると、これは明らかな真理であることが分かります。この真理は非常に重要であって、これを否定したり、無視したりして聖書を理解することは不可能です。また、ある異端はこれを否定しますが、この真理を否定すれば、キリストの十字架による救いも当然、理解できません。ヘブル語の名詞には、一個を表す「単数形」と二個を表す「二数形」と、多数を表す「複数形」とがあります。聖書の最初に「神」ということばが出て来る創世記1章1節では、複数形「エロヒム」が出て使われています。「神」ということばの二数形は「エロハイム」ですが、これは聖書では一度も出て来ないのです。

 「神」という単語の単数形はヘブル語で「エローア」ですが、最初にこのことばが出て来るのは、次の箇所です。「エシュルンは肥え太ったとき、足でけった。あなたはむさぼり食って、肥え太った。自分を造った神を捨て、自分の救いの岩を軽んじた。‥‥神でない悪霊どもに、彼らはいけにえをささげた。‥‥」(申命記32:15~17)。ここで、単数形の「エローア」ということばは、偶像の神々と区別するために用いられています。15節の「エシュルン」というのは、「正しい者」の意で、イスラエルの詩的な呼び名でなのです。「救いの岩」の「岩」は、力、確固、安全を表し、イスラエルの民の保護者なる神を象徴しています。

●「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 」(ローマ人への手紙1:20)。  

 神が創造された自然界をよく観察し、調べてみれば、確かに、その被造物(自然)の中に、当然、ご自身が三位一体の神であることを示す捺印を残しておられるのが分かります。すなわち、神はその自然の中に、ご自分の本質を表わす印(しるし)をつけておられるのです。確かに、自然界の一つ一つのものを見るときに、三位一体の神の印を帯びていることを知ることができます。つまり、自然界を見ることによって、それを造られた神様のご性質をある程度、理解することができます。すなわち、画家が自分の作品に自分の名前を書いて、「これは私の作品ですよ!」と示すように、神もその作品の一つ一つにご自分の印(しるし)をつけておられるのです。

 いくつかの例を上げてみたいと思います。どんな例えを用いても、この三位一体の神についての真理を完全に説明出来ませんが、神の被造物の中に「三つにして一つ」というものの例証は多く見ることができます。

【1】一人の人間は、一個の存在であるのに、「霊と魂と体」の三つからなっています。そして、三つですが、一つなのです。各自(からだ。霊。たましい。)は、全体を表現し、しかも全体は三つの中に表われています。
●「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」(Ⅰテサロニケ5:23)。

【2】宇宙は、「時間」と「空間」と「物質」から成り立っています。
●「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)。
この創世記1章1節の「初めに」は時間であり、「天」は空間であり、「地」は物質です。

【3】時間は、「過去」と「現在」と「未来」から成り立っています。時間も神の被造物ですが、私たちは、その時間の中で生かされています。そして、時間は、過去、現在、未来から成り立っているのです。

【4】空間は、「長さ」と「広さ」と「高さ(または深さ)」から成り立っています。

【5】また、物質は「エネルギー」と「運動」と「現象」から成り立っています。

【6】人間のたましいは、「感情」と「意志」と「知性(または理性)」から成り立っています。

【7】水は、(温度の変化によって)「液体」と「気体(蒸気)」と「固体(氷)」の三様の形を取ります。しかし、H2Oという水の性質に変わりはありません。

 これらは、ほんの数例に過ぎませんが、このように見て行くと、確かに、自然界には三位一体の神のご性質が表されており、その被造物に神の捺印が押されているということがお分かりいただけると思いますが、いかがでしょうか。もう一度、創世記一章に戻って考えてみましょう。
 
●「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。・・・・』と仰せられた。・・・・神はこのように人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:26、27)。

 創造主なる神は唯一であるのに、ここでなぜ、「われわれ」と複数形になっているのでしょうか。これは、御父、御子、聖霊の三位一体の神の本質を表していると言うことができると思います。 

●「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」(申命記6:4)。

 この箇所では、「神」は「エローヒム」という複数形になっています。単数は、「エローア」です。複数形でも、動詞は単数形を用いています。「神」は複数形の「エローヒム」ですが、その御方について「主はただひとりである。」となっています。これは、何か矛盾しているように見えますが、そうではなく、明らかに三位一体の神を表しているのです。旧約聖書には、「エローヒム」は、2.555回も出て来るそうです(私が数えて確かめたわけではありませんが・・・)。これは、三位一体の神をよく示しているということができると思います。最後に、新約聖書を少し開いてみましょう。

●「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国々の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。‥‥」(マタイの福音書28:19)。 

 ここには、主イエス・キリストがご自身を救い主と信じて救われた人々にバプテスマを授けるように弟子たちに命じられたことが書かれていますが、ここにも、三位一体の神が表されています。ここで、「御名」は英語の聖書を見ても分かるように、単数になっています。「父、子、聖霊」で三つですから、複数になっていいはずですが、単数になっているのです。これは、「三つであるけれども、一つの神」を表しているのです。この「三位一体」の真理を一度に全部を書くことはできませんので、今回はこれで終わります。どうか、あなたも聖書をよくお調べになられて、聖書が教える「三位一体の神」の真理を受け入れ、十字架であなたの身代わりに死なれた御子イエス・キリストを信じて、真の救いを経験されますように心からお祈りいたします。
 
◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」

 

★神に「ゆだねる」とは?

2007-01-09 | 「信仰と救いについて」



 最近、ある方から「”神(またはキリスト)にゆだねる”とは、どういうことでしょうか?」というご質問をいただいたのですが、同じような内容のご質問を別な時にも何度か受けたことがあります。それで、今年最初のブログの記事にそのことについて少し書いてみたいと思いました。私はこの質問をいただいた時に、ある場面を想像して見たのです。お母さんの腕の中にスヤスヤと気持ち良さそうに眠っている幼子(または赤ちゃん)の姿です。そして、そのお母さんは温かく優しい眼差しでわが子を見ています。みなさんもちょっと頭の中で、そのような場面を想像してみて下さい。そのようなことは想像しなくても、みなさんは何度もそのような場面をご覧になったことがあると思いますので、分かりやすいと思います。

 お母さんの懐(ふところ)の中にぐっすりと眠っている幼子は、とても幸せそうですね。そして、お母さんの顔も幸せそうに見えますね。いや、幸せそうに見えるだけでなく、実際に幸せなのです。お母さんにゆだねきったこの幼子は私たちに何か語っているように思われませんか?このことから、はっきり言えることは、その幼子は、お母さんの愛を信じきっています。ですから、安心してお母さんの腕の中に自分をゆだねて眠っていることが出来るのです。私たちが神様を信頼しきってゆだねることもこれと同じようなことではないかと思います。神様は肉眼では見えませんが、実在される御方であり、また人格をお持ちの御方です。そして、神様は私たち一人一人を個人的に愛しておられる優しい御方なのですね。

●「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。」(詩篇131:2)。
 このダビデの詩篇を読むと、私は彼が神様の愛を信じてゆだね、乳離れした子が母親の前にいるように、安心して神様の御前にいる姿を想像することができます。それは、何と平安で幸せな姿ではないでしょうか。神は愛であると同時に、真実な方でもあります。そして、また同時に全知全能の御方であります。あなたが、何かとても大切なものを誰かに託すとすれば、全く信用できない人にその大事なものを委ねることは決してなさらないでしょう。その人が信頼できる人であるかどうかをまず考えると思います。あなたの持っている何かではなく、あなたの人生、あなたの将来、いや、あなた自身をゆだねることを考えるならば、決していい加減なものにゆだねることはあり得ないと思います。

●「私たちは真実でなくても、彼(キリスト)は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」(Ⅱテモテへの手紙2:13)。

 イエス・キリストはこのように常に真実な御方であります。人を信頼しても、私たちは度々、裏切られることがあります。また、あることを約束しても守らない人もいます。人間は、自分も含めて誰でも弱さがあります。最初は約束を守るつもりでいても、結果的に守れなかったということもあります。また、最初は人を裏切るつもりなど全くなくても、結果的にその人を裏切ってしまい、大切な友人を失ってしまうということもあり得ます。それが人間の弱さであります。しかし、父なる神様もイエス・キリストも、本質的に真実な御方であり、そのようなご本質をお持ちの御方なのです。裏切ったり、約束を破ったりなさることは決してありません。

 もし、あなたがまだキリストを自分の救い主として受け入れ信じることを躊躇なさっておられるのならば、是非、あなたの罪のために身代わりに十字架に掛けられて死んでくださった御方(イエス・キリスト)を信じる決心をして、あなたの人生をいっさい神にゆだねてください。そうすれば、救いの確信と平安が与えられます。また、あなたの人生に重荷や思い煩いがあるのでしたら、それらをいっさい神様にゆだねて下さい。そうすれば、人知を超えた平安が神様からいただくことができるのです。もし、あなたに将来の人生設計や計画があるならば、それを主にゆだねてください。そうすれば、神様はあなたのために最善を成してくださるのです。

●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11:28)。

●「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(Ⅰペテロの手紙5:7)。

●「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)。

●「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」(箴言16:3)。

●「私のたましいを御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私を贖い出してくださいました。」(詩篇31:5)。


 この詩篇31:5のみことばは、イエス様が十字架上で息を引き取られる時の最後の祈りでありました。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカの福音書23:46)。父なる神様と御子イエス様との間には、完全な信頼関係があり、そこには微塵も疑いの入る余地もなかったのであります。そこには全き平安があったのです。イエス・キリストは、あなたのために十字架で身代わりに死んで下さり、よみがえられた方であります。キリストの地上の生涯は、人々の嘲笑と罵倒、苦難と迫害、そして十字架の耐え難い苦痛と渇きがありました。しかし、いついかなる時も完全に父なる神にゆだねて切っておられたのであります。下に記したみことばのとおりであります。

●「キリストは罪を犯したことがなく、その口には何の偽りも見出されませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方(父なる神)にお任せ(ゆだね)になりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。・・・・」(Ⅰペテロの手紙1:22~24)。

 「ゆだねる」ということは、また「自分を明け渡す」ということでもあります。自分の計画や意志や考えを捨て、神様に一切を明け渡すことです。中途半端な明け渡しは、返って疲れるだけになるだけかもしれません。例えば、疲れ果てているあなたの前に椅子があるとします。でも、その椅子に座れば、休むことができると頭では理解しても、実際に座らないと休息することができません。また、その椅子は自分の全体重を支えられるだろうかと心配して、その椅子に恐る恐るその椅子の前の半分を使って、中腰になって座ったとしても少しも休むことができません。その椅子に全身をゆだねきって、初めて真に休むことができるのです。

 それと同様に、どうか、あなたもあなたの救い主イエス・キリストに全幅の信頼をおいて、いっさいをゆだねてください。そうすれば確かな安らぎが来るのです。そして、信仰生活は、決して「自分の力で頑張る」ことではないのです。愛なる神と、イエス・キリストにすべてを明け渡し、ゆだねるのです。私は海上保安学校時代、18歳の時に初めて海で泳ぎを習ったのですが、自分の力で一生懸命泳ごうとしても益々沈んでしまうのです。そのとき、教官が「お前、そんなに力を入れなくてもいいから全身の力を抜いて見ろ!!」と言われ、そのとおりにやってみたら、確かに海水の上に仰向けになって寝るようにしたら、体が浮いたのです。その時の感動は今でもはっきり覚えています。神を信じることも同じことなのではないでしょうか。

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」