聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★四つの福音書について

2007-08-04 | 「聖書について」

  暑中お見舞い申し上げます。みなさん、お元気でお過ごしでしょうか。 
さて、最近聖書を読み始めたばかりの一青年から、次のような質問のメールをいただきました。「新約聖書の初めに、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書という四つの福音書がありますが、どうして、福音書が一つではなく四つあるのですか?それから、四つの福音書の内容で、互いに矛盾すると思われる記事もあるように思いますが、これをどのように理解したらいいのでしょうか。」というようなご質問の内容です。できるだけ難しいことは省いて、自分が理解している範囲内で、できるだけ簡潔にお答えしたいと思います。

 適切かどうか分かりませんが、一例を挙げますと、私たちが、家族や友人の一人を他人に紹介する場合、いろいろな紹介の仕方があると思います。例えば、その人の職業や職場における仕事の内容、その人の家柄や生い立ち、その人の人柄とか性格的な面、または何かの特別な能力や趣味など、いろいろな側面がありますから、紹介の仕方も人によって当然違って来ると思います。四つの福音書は、それぞれ、取税人、医者、漁師など職業の違う四人の記者によって、イエス・キリストのご生涯を記録したものですが、同じ出来事でも、類似している表現の箇所もたくさんありますが、全く同じ表現で書かれている箇所は、ほとんどありません。また、四つの福音書は、それぞれ違う視点からイエス・キリストのご生涯を紹介しているのです。

 また、「四つの福音書の内容で、互いに矛盾すると思われる記事もあるように思いますが、これをどのように理解したらいいのでしょうか。」とのご質問にお答えしたいと思います。これも、例えて申しますと、どこかである事件が起こった場合に、四人の新聞記者が現場に駆けつけ、取材した場合に、その四人の記者の記事が、一字一句全く同じ表現で、内容も全く同じということはまず考えられないことです。それぞれの記者は、その事件を記事にする場合、どこに強調点を置くかは、微妙に違って来ると思います。同様に、四福音書において矛盾と感じられる箇所も、けっして矛盾ではなく、それぞれの記者の強調や視点が違うということが言えるのではないかと思います。それでは、四福音書を、それぞれ比較対照して、それぞれの特徴などを見てみましょう。
 
【1】マタイの福音書について。
(1)記者は、取税人マタイです(9章9節)。当時、取税人という職業は、ローマ政府から、ユダヤ人から税を取り立てる仕事のために使役されていて、同胞のユダヤ人からは、売国奴のように言われて嫌われていたのです。マルコ2:14では、マタイは「レビ」と呼ばれています。彼は、主イエス様から、「マタイ」と名づけ直されたようです。取税人という侮蔑的名称が、「神の賜物」を意味するマタイという使徒的名称に変えられたことはすばらしいことです。
(2)この書の使命:「メシヤ、また王としてのキリスト」を表すことです。
(3)このマタイの福音書は、元来は特に「ユダヤ人」が用いるために書かれています。それで、この福音書には、しばしば、旧約聖書からの引用が多いのはそのためなのです。
(4)この書の特徴の一つは、「成就」という語が度々出て来ることです。旧約聖書の預言がキリストによって成就したことを示すために、旧約から引用されている聖句は、60箇所以上もあります。
聖書を初めて、手にして、「さあ、これから聖書を読むぞ!」と意気込んで、読み始めたものの、冒頭からイエス・キリストの系図なるものが、長々と書かれていて、手鼻をくじかれた気分で、うんざりしてしまう方も多いと思います。でも、これも、旧約聖書のメシヤについての預言の成就として書かれているもので、どうしても欠かせないものなのです。
(5)ですから、ある人たちが言っているように、四福音書に不一致や不調和というものはありません。それぞれが、特殊な目的のもとに書かれているのです。それぞれ異なった方面から主イエス・キリストを描写しているのです。繰り返しますが、マタイの福音書は、「王としてのキリスト」を描いているのです。

【2】マルコの福音書について。
(1)この福音書の記者は、使徒の一人ではなく、使徒の同労者の一人であったマルコによって書かれています。彼は、使徒12:12にあるように、マリヤ(新約聖書には数人のマリヤが出て来ますから混同しないでください)の息子であって、ある程度豊かな生活をしていたと思われます。彼は、幼名をヨハネと言い、のちにマルコと改名したのです。彼は、使徒ペテロに導かれて、回心した者と考えられています。彼は、ペテロの道ずれとなって、その語ったところを記録したのです。マルコは、恵まれた環境の中で、慈愛深い母のもとで温室の花のように育ったのですが、厳しい困難に会うと挫けてしまうところがあったようです。パウロの伝道旅行に随行したのですが、その困難に耐えることが出来ず、伝道の第一線から退いて、エルサレムの母の家に帰ってしまったのです(使徒13:13)。その間の消息は不明ですが、マルコは、もう一度、主の憐れみによって信仰が回復させられ、その尊い働きに用いられたのです。主は、一度失敗した者をも、さらに砕いて用いてくださるのです。もし、主が彼を再び、彼を立たせてくださらなければ、今日の「マルコの福音書」もなかったことになるのです。
(2)この書の使命:「神の僕(しもべ)としてのキリスト」を表すことです。
(3)この書は、元来ローマ人のために書かれたものと信じられています。ですから、旧約聖書からの引用が、きわめて少ないことに気づきます。ユダヤ人の言語が説明されています(3:17。5:41。7:11、34。14:36)。
(4)この書の鍵になることばは、「すぐに」「ただちに」(翻訳によって多少、表現が異なります)ということばが頻繁に出て来ます。1章だけでも、10回くらい出て来ます。それは、何故かと言いますと、僕(しもべ)は、休む暇もなく、主人の御こころを行い、その命令を忠実に実行することにあるからです。
(5)この書の特徴は、いろいろありますが、「系図」がないことです。僕(奴隷:slave)には、系図は必要ありません。マタイでは1章に、ルカでは、3章にキリストの系図が書かれています。また、誕生と幼少の頃の記録が全くありません。もちろん、これらは重要な事柄ですが、僕を述べるにに必要なものではありません。神の子イエス・キリストであり、「神のしもべ」であるお方は、1章の冒頭から休みなく働いておられる姿が出て来るのは、印象深いことです。

【3】ルカの福音書について。
(1)この福音書の記者は、ユダヤ人ではなく異邦人であり、ギリシャ人であったと思われます。ルカは教育のある人で、医者を職業としていました。彼がパウロの同労者として最初に記されてあるのは、使徒16:10です。ルカは、一人の医者として、人間を温かい目で見ていることを示す箇所が随所に出て来ます。この福音書の記者ルカは、「使徒の働き」と共に、最初は、たった一人の友人テオピロに宛てて、書いたのです。たった一人の人間のために、彼は多くの時間を割いて、綿密に調べてこれを書き上げたのです。
(2)この書の使命:「完全な人間としてのキリスト」を表すことです。ルカは、キリストの神性について語ると同時に、キリストが人間であることを力説しています。この福音書に示されている主のご性格は、きわめて人間的であり、「神の子」であると同時に、「人の子」であったのです。
(3)4章1~13節にあるように、悪魔の誘惑を受けられました。「罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)とある通りです。ですから、イエス様は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。どうか、この大切な真理を肝に銘じて記憶してください。
(4)ルカの福音には、イエス様が御父に祈られた姿が、他の福音書に比べて、頻繁に出て来ます。主が、そのご生涯において、すべての時間を神に対して、絶対的な信頼をおいて生きられたのです(3:21、5:16、6:12、9:18,29、11:29、22:41~44)。主イエス様は「祈りの人」であったのです。
「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ、切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」(22:44)。この時、すなわち、ゲッセマネの園における祈りの時、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけたのです。ここにも、人間としてのイエスが十分に示されています。 

【4】ヨハネの福音書について。
(1)この福音書の記者ヨハネは、漁師であったのです。多分、漁師の親方の子であったと思われます(彼の父には、雇い人がいました。マルコ1:20)。その母サロメは、財産をささげて主に仕えた婦人たちのうちの一人です。この事実と彼がエルサレムに自分の家を持っていたということから考えて、彼がかなり豊かな暮らしをしていたことが明らかです。ヨハネの性格は、気性が荒く、せっかちで、気が変わりやすい人であり、「雷の子」と呼ばれたのですが、主の恵みによって変えられ、思慮深い愛の使徒に変えられたのです。ライオンが羊のようになったのです。これは、主の恵みのみわざです。
(2)この書の使命;「神の御子であるキリスト」を表すことです。
このヨハネの福音書は、霊感によって書かれた書簡の中では、最後のもので、書かれた時は、主が昇天してから、50年は十分に経過していました。この書は、聖書の中では、最も奥行きを持ったものであると言っても過言ではないと思います。ヨハネは、主の使徒たちの中では一番長命だったのですが、彼は、福音書の他に、ヨハネの手紙Ⅰ、Ⅱ、Ⅲと、ヨハネの黙示録を書いていますが、主が彼の長命は、そのための主のご計画であったのではないかと思われます。
(3)この書の鍵のことばは、「信じる」ということばです。多分、私の記憶違いでなければ、100回前後、「信じる」ということばが出て来ます。
一体、何を信ずべきなのでしょうか。それは、人であるイエス・キリストの神性を信じることです。
(4)この福音書には多くの特色がありますが、この書には、キリストがなされた奇蹟(神の御子としてのしるし)の中から、7つだけ選ばれて記録されてあり、それぞれにみな霊的な意味があります。それらがキリストの神性を明らかに示していることは確かです。
(5)他の三つの福音書は、一般的には「共観福音書」と呼ばれていますが、このヨハネの福音書は、それらの福音書と比べて、内容が深く霊的で特別な福音書と言えるかもしれません。いずれにしても、この書が書かれた目的は、はっきりと書かれています。

●「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネの福音書21:30,31)。 

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。


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★聖書の預言と成就

2007-04-16 | 「聖書について」



  私は、聖書は誤りのない神のみことばであると堅く信じている者ですが、その聖書に記されている預言と、その成就について、代表的な二つの事柄をみなさんにご紹介したいと思います。一つは、ユダヤ人に関する預言、もう一つはイエス・キリストに関する預言です。もちろん、他に多くの預言があるのですが、取り合えずこの二つを考えてみたいと思います(聖書では、「預言」ということばは、神のことばを意味しており、必ずしも未来のことを予言することだけを意味していませんが、ここでは、未来に関する予言の意味で使わせていただきます)。

【1】ユダヤ人(イスラエル)に関する預言。 
◆ 離散と迫害 ◆
 紀元前15世紀頃に書かれた申命記28章には、ユダヤ人が神に背くならば、彼らはイスラエルの地から世界中に散らされ、行く先々で迫害に会うことが預言されています。そして、この警告通りユダヤ人がエルサレムでイエス・キリストを十字架につけてから約40年後のAD70年に、ローマ帝国によって滅ばされ、それ以来、ユダヤ人は国を失い、世界中に離散して行ったのです。それからの彼らの生活はどこにいても、迫害と虐殺の恐怖の連続でありました。最も酷かったのは、ナチス・ドイツによる大量虐殺です。この時にはユダヤ人600万人が殺され犠牲者となったのです。それだけでなく、ユダヤ人は約1900年以上の間、迫害を受け続け世界中を流浪することとなったのです。まさに、旧約聖書に預言されていたとおりのことが、ユダヤ人の上に成就したのです。

◆ 帰還と祖国の再建 ◆
 さらに、このユダヤ人については、もう一つのことが預言されていました。紀元前7世紀頃に書かれたエレミヤ書30章には、諸国民の中に散らされ、迫害されたユダヤ人は、今度は必ず、世界中から父祖の地に戻って来て国を再建することが預言されていたのです。紀元1世紀にユダヤ人が散らされて以来1900年間、これらの預言が成就する兆しは全くありませんでした。誰も、世界中に散らされてしまったユダヤ人が中東の地に戻って来て、国を再建することなど想像することもできなかったのは、当然なことだと思います。

 ただ、聖書を注意深く調べた人たちは「ユダヤ人は必ずパレスチナの地に帰還するに違いない。」と信じていました。しかし、多くの人々は、そのようなことを言う人たちの言葉を信じようとはしませんでした。ところが、1930年代になって、ユダヤ人がパレスチナの地への帰還を始め、戦後の1948年には、ユダヤ民族は彼らの先祖の地に独立国家イスラエルを建設し、実に1900年ぶりに復興したのです。通常は、国を失った民族は500年も経てば周囲の民族に吸収されてしまうと言われています。ところが、ユダヤ民族だけは1900年の間、他民族の間に埋没してしまうことなく、ユダヤ民族として生き続けたのです。そして、あらかじめ預言されていたようにイスラエルの国が復興し、聖書の預言通りに世界の歴史は動いてはいるのです。

【2】イエス・キリストに関する預言。
◆ 誕生とご生涯 ◆
 キリストの誕生に関しての旧約聖書の預言をいくつか列記してみますと、ダビデの子孫を通して来られること、ダビデの子孫を通して来られること、処女から生まれること、ベツレヘムという村でで生まれること、一時エジプトに移ること、ナザレという町に住むこと、高貴な人たちがキリストを礼拝すること、定められた時にキリストが来られることなどが預言されていました。また、そのご生涯に関しては、たとえ話によって教えられること、盲人の目を開けたり、その他多くの病気の癒しや奇蹟を行われること、そして、柔和で優しい方であること、支配者たちの憎悪を買い、拒絶されること、友(弟子)の一人によって裏切られること、頬を打たれること、つばきをかけられ、鞭で打たれること、などもイザヤ書(BC700年頃)や詩篇(BC1.000年頃)その他の書に預言されていました。

◆ 十字架の死と復活 ◆
 十字架につけられて死なれることに関してもはっきり書かれていました。悪人(罪人)と共に処刑されること、人々から嘲られること、衣服がくじ引きにされること、十字架上では苦いぶどう酒と酢を与えられること、そして、十字架上で「わが神、わが神。どうして、わたしをお見捨てになったのですか。」(詩篇22:1)ということばを口にされることばも預言されていました。キリストの苦しみの激しさと渇き、その苦しみを耐え忍んで口を開かなかったこと、さらに脇腹を刺されること、その骨が砕かれないこと、葬られる時には、金持ちの墓に葬られることなども預言されていました。墓からよみがえられることと、それが葬りから三日目であることも預言されていたのです。イエス・キリストのご生涯のすべてが、重要な出来事だけでなく、それに伴なう詳細に至ることまで、旧約聖書にはっきりと預言されていたのです。

 旧約聖書には、イエス・キリストの生涯について、約109の預言があります。そして、それらは非常に明確な預言なのです。お考えいただきたいのですが、例えば、ある人が25の預言をしたとしますと、それが偶然に成就する確率は、数学的に計算すると、3.350万分の1となります。ところが、実は主イエス・キリストに関する25の預言は、彼の受けた裏切りと十字架の死と葬りの間の24時間に成就されているのです。ですから、数学的には、この歴史的事実である聖書の預言が単に偶然に起こり得る確率は、3.350万分の1以下でしかないということになります。更に、主イエス・キリストの109の預言が成就していることを考えるならば、それらがすべて偶然に成就し得る確率は、分母が殆ど∞(無限大)に近くなり、確率は限りなく0%に近くなり、偶然に成就することはあり得ないという結論になります。

 これらの事実は一体、何を示しているのでしょうか。それは、「聖書」は明らかに神が人類に啓示された真理の書であり、人類の歴史の背後に神のご計画と導きがあることを明確に証言しているのです。そして、この聖書は、神が天地万物の創造主であること、また、神が目的をもって人間を創造されたこと、人類の始祖アダムが神に対して罪を犯した時以来、すべての人間は神の前に罪を犯し続けており、人間はみな生まれながらの罪人であり、死後に神のさばきを受けなければならないという厳粛な事実を記しています。当然のことですが、死は人間にとって最も重要な問題であるはずです。今、健康な人も、若い人も、お金持ちも、地位のある人も、すべての人は必ず死に直面する時が来ます。そのために備えることは人生において最も大切な問題であるのです。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。


 しかし、神がこの聖書を人類に与えた最大の目的は、神が全人類を愛しておられ、その救い主として、ご自身のひとり子イエス・キリストをお遣わしくださり、御子イエス・キリストは、33年間の罪のない聖よいご生涯を送られたのちに、死後の永遠のさばきから私たちを救うために、身代わりに死んでくださったのち、墓に葬られ、三日後によみがえってくださったことなのです。この御方を自分自身の個人的な救い主として信じ受け入れた人は、罪が完全に赦され、永遠のいのちを受けることができるのです。このような偉大な愛を人類に示すために、神はこのすばらしい聖書という贈り物をくださったのです。
 
●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」(Ⅰヨハネ4:9)。 

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」


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★聖書の権威について

2006-05-01 | 「聖書について」

 

 友人のクリスチャンから聞いた話ですが、最近新聞報道などで『ユダの福音書』に関する記事が話題になっていることを知らされ、改めて調べてみましたがそのような記事が確かに報道されています。しかし、真のクリスチャンはこのような記事の内容如何にかかわらず、聖書が神の唯一の啓示の書であり、永遠の真理であるという確信が揺らぐようなことはなく、惑わされるはずがありません。その新聞報道の概略は次のようなものであります。その報道によれば、エジプトの砂漠で見つかった約1700年前のパピルス文書を修復・翻訳したところ、この文書はキリスト教の黎明期に教会から異端とされた幻の書『ユダの福音書』の、現存する唯一の写本であることが判明したと発表したというものであります。

 そして驚くべきことに、このパピルス文書では、2000年にわたって裏切り者とされてきた、イエス・キリストの弟子「イスカリオテのユダ」が、実はキリストの真の教えを正しく理解した一番弟子として描かれているというのです。さらに、この書物には、ユダがイエスをローマの官憲に引き渡したのは、イエス自身の言いつけに従ってしたことだと書かれているというのです。私はこれらの報道の真偽について論じるつもりは毛頭ありませんが、これを神のことばである「聖書」につけ加えようとする試みは愚かであり、あるいはこの「ユダの福音書」なるものが神の霊感による書であるかのように言いふらす人がいるならば、全く話にならない馬鹿げたことであります。

 聖書は旧約39巻と新約27巻の66巻で、今から約2,000年前に既に完成(完結)されたものであります。この「聖書」66巻のみが、神の霊感によって記された「聖書」として存在しているのであります。聖書は、大きく分けると、「律法」と「詩歌」と「預言書」からなっていますが、不思議なことに、「律法」と「詩歌」と「預言」の書の中の三ケ所には、それぞれ次のような神の警告のことばがあります。これは、非常に厳粛なことであります。既に完結された聖書66巻のみが、神の唯一の啓示の書であります。サタンは常にこの聖書66巻に何かの新しい啓示(?)と呼ばれるものを付け加えようとし、それは聖書が完成された約2,000年前から今日までそれは続いているのであります。

●「私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。」(申命記4:2)。

●「神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。 」(箴言30:5,6)。

●「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。 」(ヨハネの黙示録22:18,19)。


 これらの聖書のみことばは、「聖書」こそ神が人類に与えられた唯一の啓示の書であるということを力強く語るものであり、これを決して忘れてはならないのであります。神は、聖書に付け加えたり、省いたりしてはならないことを命じているのであります。ですから、この聖書66巻に何か新しいもの(人間の教えや考え、思想、神からの啓示であるとの偽り教えなど)を付け加えることは、明らかに神に敵対する行為であり、恐ろしいことであります。下に記したみことばにありますように、神の霊感によって記されたのは「聖書」のみであります。

●「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(Ⅱテモテ3:16)
 
●「‥‥すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。 なぜなら、預言(聖書のことば)は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。 」(Ⅱペテロ1:20,21)。 


 それから、聖書の主題は何かと言えば、それはただ一つであり、それはイエス・キリストであります。モーセは、はるかに未来を望み見て、そこにメシヤ(救い主:キリスト)を見たのでした。ダビデもイザヤも同様です。その後、キリストが地上に来られて、十字架と復活のみわざを通して救いを実現し、天に帰られたのです。それから少しのちに、パウロも過去をかえりみて、このキリストこそ、むかし預言されたメシヤ(救い主)であることを見出したのです。

 イエス・キリストこそが聖書の大いなる中心主題であることを聖書全巻が一貫して、書き記しているのであります。すなわち、旧約聖書には、キリストについての多くの預言があり、新約聖書には、キリストが来られて、これらの預言が成就したことが記されたいるのであります。聖書には、あなたの直面している問題を根本的に解決する鍵が必ずあります。どうぞ、聖書に親しんで下さいますようにお勧めいたします。

              
  

★聖書の奇蹟について

2005-08-04 | 「聖書について」

 

多くの方から、「聖書に記されている”奇蹟”は非科学的ではないですか?」との質問を受けることがあります。そして、その聖書の「奇蹟」の記事につまずいて、聖書を信じることができないとか、「聖書に奇蹟の記事がなければ、信じることができるのだけれどもね・・・」という方もおられます。私個人のことで恐縮ですが、私は若い頃、聖書の神とキリストを信じるのに、奇蹟の記事は何のつまづきにもならなかったと言っても過言でないと思います。ところで、「奇蹟とは何か」とうことですが、公辞林では、「常識では考えられない不思議な出来事」と書かれています。もう少し別な言い方をすれば、「奇蹟とは、既に知られているところの自然の法則に反しているような方法で起こる出来事」と定義付けることができるかと思います。聖書開巻冒頭の、最初の1節の「初めに、神が天と地を創造した。」という全知全能の神を信じることができるならば、聖書中の奇蹟を信じることは、それほど大きな障害とはならないのではないでしょうか。
 
 たとえば、宇宙のことを考えますと、地球は太陽の周りを一日一回自転しながら一年で一回転します。そして、この宇宙にはその他様々な自然法則が存在します。これらの法則は偶然に出来たのではなく、その背後にそれを設計し造った方(創造者)がおられるからであります。この立法者であられる神は、時計師が時計の針を思いのままに進ませたり、止めたり、遅らせたりすることができるように、神が創造者であり全能者であるならば、ご自身の意志に従ってご自身で定めた自然の法則に従う働きを一時的に進ませたり、止めたりすることも、また、全く新たな創造をなさることも自由自在なはずであります。この神にとっては普通の、しかし人間にとっては異常で不思議に見える神の行為が「奇蹟」と呼ばれているのです。通常の摂理においては、神はこの世界に自ら与えられた法則性を用いられますが、「奇蹟」においては、これらの法則を超え、また、それらの法則に反して自由に行動されるのです。

 聖書には、イエス・キリストが神と等しい御方であり神の御子であられることは、何度も繰り返し述べられています。その中の二、三のみことばを列挙します。

●「初めに、ことば(キリスト)があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。 すべてのものは、この方(キリスト)によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 」(ヨハネの福音書1:1~3)。

●「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子(キリスト)によって造られたのです。万物は、御子(キリスト)によって造られ、御子のために造られたのです。 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ人への手紙1:16~17)。

●「・・・・・神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。」(ヘブル人への手紙1:2,3)。
 
 新約聖書の福音書には、キリストが盲人の目を開けたり、手足の不自由な人を癒されたり、らい病人を癒されたり、一瞬にして水をぶどう酒に変えられたり、荒れ狂っている嵐に向かって「黙れ、静まれ。」と一喝して大凪にしたり、死人をよみがえらせたり、荒れている湖の上を歩かれたり、その他数々の奇蹟を行われたことが記されています。もし、キリストが聖書が語るとおり、神の御子であるならば、このようなことを行ったとしても少しも不合理な出来事ではないのです。もし、キリストが、神の御子であり、神と等しい方であると認めるならば、「キリストが湖の上を歩くことは、畳屋がタタミの上を歩くより簡単なことである。」と言った人がいましたがまさにそのとおりではないでしょうか。聖書はキリストは神の御子であると語っているのに、もし、キリストが奇蹟の一つも行えないようなお方であるなら、普通の人間と一体どこに違いがあるのでしょうか。

 さて、これらの奇蹟は、時計の針を進めたり、止めたりしてもそれが一時的なので、時計の法則を破ることがないように、神が定めた自然法則を破るものではありません。そして、聖書を調べるならば、神は無秩序にいつでも奇蹟を行われたのではなく、聖書にある奇蹟は大体四つの時期に分類されることが分かります。(1)神の民がエジプトから救い出され、カナンに定住した時期。(2)預言者エリヤとエリシャが神の御名のために働いた時期。(3)神の民がバビロンに捕囚となっていて、神が御自身の力が異教の偶像の神々よりも優れていることを示された時期。(4)約2000年前、イエス・キリストがこの地上に来られ、ご自身が神の御子であると証しされた時期。もちろん、その他の時期にも奇蹟はありましたが、ほとんどの奇蹟はこの四つの時期に行われています。そして、これらの時期はみなメシヤによる人類救済と関連した出来事であって、何の意味もなくなされたものではないのです。

 また、福音書に記されている奇蹟は、単に人々の好奇心を満たしたり、人々を惑わすために行われたものではなく、繰り返し述べますが、特にヨハネの福音書に書かれているように、イエスが真の救い主であり、神の御子であることを示す「しるし」(証拠)として行われたものであります。また、奇蹟は単に不思議な出来事であったというよりも、イエス・キリストのわざを通して、神のあわれみと愛と恵みなどの御性質が啓示されたものであるということが言えると思います。また、キリストの復活昇天後、使徒たちによって奇蹟が行われた時期がありましたが、これも神の御霊の力が教会(ギリシャ語でエクレシャ:「召し出された者の集まり」の意味で建築物や団体を示していません)に現存していることの証しとして一時的に行われたものです。

 ある人たちは、「では、何故、今日奇蹟が行われないのか?」と尋ねます。それは、もし神が常に自然法則を超えて働き、奇蹟を一種の日常茶飯事として行ったとしたら、この世界は大混乱に陥り、人々は深刻な事態に陥ることは明白であります。自然法則と秩序の全体系の基礎は危うくなり、人間(科学者)はその法則や秩序を学んだり研究する気も起こらなくなるでしょう。歴史的には、確かに奇蹟が行われました。しかしそれは、最も重要な事柄である救いの計画においてです。新約聖書に見られる奇蹟は、ヨハネが「しるし」と呼んでいるように、イエスが救い主であることを示す点に、重要な目的があったのです。しかし、今日、神の救いのご計画は成就しました。聖書の中心はイエス・キリストであり、キリストの生涯のクライマックスは十字架と復活のみわざであります。今の時代も、神(キリスト)は、同じ全能の力を持っておられ、奇蹟を行う力を持っておられますが、神はむやみやたらに、意味もなく奇蹟を行われる御方ではありません。

 たとえば、神は、三重苦のヘレン・ケラーを、奇蹟をもって癒すことも出来たと思います。しかし、神はご自身の深い摂理とみこころによって、奇蹟を用いて彼女を癒すことはなさいませんでした。そして、その大きな身体的障害に対して彼女が克服して行く姿は、自分にとっても、同様の苦しみにある人たちにとっても、大きな感動を与え、はるかにすばらしい偉大な、まさに奇跡的な結果をもたらしたことは周知の事実であります。このように、現代において、奇蹟は必ずしも最上の問題解決法ではないことに気づかれると思います。また、人が奇蹟によって重い病気が癒されたとしても、必ず、再び「死」に直面しなければなりません。その死の問題の解決なしに真の救いと幸福はないのであります。人生において、最も大切なことは、イエス・キリストの十字架と復活の福音を知り、彼を信じて永遠の滅びから救われることなのです。

 人々は、このような記事は現代の科学の時代に全く馬鹿げており、非科学的で信じられないというのです。しかし、神の「奇蹟」は、非科学的というよりも超科学的なことであります。科学というのは、時代と共に変遷し、修正されて行くものであります。50年前の科学で正しいされていたことも現代の科学では、間違いであると証明されることもあるでしょう。また、現在、正しいと思っている科学も20年後にはもう古いものとして捨てられるかもしれません。多くの人は、科学万能の時代が到来したかのような錯覚に陥っているのではないでしょうか。キリストが、神の御子であり、神と等しい全能者であるとお認めになられるならば、キリストが湖の上を歩くことは、何ら問題のないことであると理解できるのではないでしょうか。

 2000年の時間を越えて現代に生きる人たちにとっては、キリストの奇蹟は信じ難い事のようですが、キリストが創造主であり神であられることを信じるならば、人間の常識を超えた事を行ったとしても何の不思議もないと言えるのではないでしょうか。神のみこころによってなされた聖書の「奇蹟」を現代の科学によって証明する必要もないのです。これは、人間の理性と人知を超えた超科学的な事実であります。現代の科学で証明できないことはすべて否定するという論理は、科学を過信した矛盾した結論であります。あなたが、神の偉大な力と愛を信じる方となられますように祈ります。

●「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。 」(ヨハネの福音書20:30,31)。

●「イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。 」(ヨハネの福音書21:25)。
  

★私の友人:台 豊氏が開設しているHPの「聖書館」には、「奇蹟について」分かりやすく書かれていますのでご覧になってください。 

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★聖書についての興味深い話

2005-05-12 | 「聖書について」



 聖書は大変不思議な本で、長い間、世界中の人々に読まれ、愛されて来た本ですが、一方では、聖書ほど人々の攻撃の的になった本も他に例がないと言えると思います。「聖書を攻撃する文書を集めるならば、図書館が出来るでしょう。」と言った人もいるくらいです。BC 300年頃のことですが、ローマの皇帝ディオクレシアヌスは、すべての聖書を焼くように命令を下し、聖書を心から信じているクリスチャンといっしょに聖書も焼き滅ぼそうとしました。そして、「これで聖書は完全に世から忘れ去られる!」と豪語しました。しかし、どうでしょうか。現在、ディオクレシアヌスの名前を知っている人はほとんどいませんが、「聖書」は全世界にあまねく行き渡り、聖書という本の名前を知らない人は、赤ん坊くらいのものではないでしょうか。

 ヨハネス・フスは、火のような伝道によって、何千人もの人をキリストに導いたボヘミヤの有名な人ですが、やがて、公然と福音を伝える道は閉ざされ、彼は火あぶりにされ、キリスト者の血は河のように流され、いたる所で聖書壊滅の手がのばされました。一冊の聖書も残すまいと、迫害者たちは、血眼になって聖書を捜しまわったそうです。

 その頃、聖書を最上の宝と信じている婦人がいました。彼女はパンを焼くために天火の周りで準備をしていました。その時、宗教裁判所から遣わされた人たちがその村に来て、聖書を持っている人をすべて捕らえていると伝えた人がいました。彼女はとっさに心を決め、聖書を大きなねり粉に包み、天火の中に入れました。それから、他のパンも入れました。その直後に、彼女の家も捜索され、地下室から屋根裏まで、くまなく調べられましたが、何も発見できませんでした。迫害者たちが家を去った時、ちょうどパンが焼きあがりました。パンも聖書も天火から出されましたが、聖書は全く無傷でした。

 また、実際にあったこんな興味深い話もあります。「そいつを窓から投げ捨てろ!」旅行の車中で、兵士たちは冗談を言って、大声を上げて笑いに興じていました。隅の方で若い兵士が一人でポケット版の聖書を読んでいました。「さあ、この信心深い坊やをからかってやろう」と言ったかと思うと、一人の兵士がさっとその聖書を取り上げ、窓の外へ投げ捨てました。若い兵士は腹を立てたでしょうか。いいえ、彼は「わたしは心優しく、へりくだっている‥‥」(マタイ11:29)と言われた救い主イエス様と共にいたので、彼は悲しく思いましたが、黙っていました。数日後、彼は自分の聖書の入った郵便小包を受け取りました。その中に興味深い手紙も一通入っていました。それは、聖書が投げ捨てられた区間で働いていた保線区員からのもので、彼はその聖書を見つけて拾い、それを読むことによって神の声を聞きました。彼はその時まで自分の罪のために恐れを抱いていましたが、その聖書によって、真の救い主に会ったというのです。若い兵士は、この聖書がどうして数日間、自分の手から離れなければならなかったかを知りました。聖書は神の言葉であり、それに逆らう者は完全に敗北するのです。

 フランス人の聖書販売人が、ある家族に一冊の聖書を賜物として手渡しました。ところが、その家の主人は受け取るやいなや、10枚ほど引き裂いて、その中の一枚でパイプに火をつけました。販売人は大変失望して去りました。数年後、彼は再びこの地方を訪れ、その家にも立ち寄ってみました。ちょうどその時、一人息子を失い、その息子の遺品が届いたところでした。その中に一冊の聖書も入っていました。販売人が手に取って見ると、驚いたことに、それは数年前に彼がこの家族に贈った聖書ではありませんか! まさに10数枚剥ぎ取られた聖書だったのです。戦死した息子は、その聖書の裏に次のように書いていました。「侮られ、嘲笑され、最後に信じられた この聖書は私の救いとなった。」と。

 聖書は神のことばであり、永遠の真理ですから、私たちが弁護する必要はありません。かえって、聖書は私たちに迫って来るのであります。ある人は、「聖書を焼き捨てようとしたけれども、怖くて焼けなかった‥‥」と話していました。聖書には、そのような不思議な神の力が働いているのです。また、聖書に反対する者を滅ぼす力さえあるのです。聖書は人間がいかに汚れた罪人であるかを語り、その良心の奥深くまで迫るのです。そして、その魂を悔い改めに導き、救い主イエス・キリストを信じるように導き、永遠のいのちを与えるのです。あなたも、是非、聖書をお買い求めになられて救われてくださいますように祈ります。

●「‥‥聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。 」(テモテへの第二の手紙3:15,16)。

●「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。 」(ヘブル人への手紙4:12,13)。

●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネの福音書3:36)。 
 

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★神のことばなる聖書

2005-04-25 | 「聖書について」

        

  南太平洋のある島での話です。ヤシの木陰で一人の土人(土着の住民)が熱心に聖書を読んでいました。そこへ、神を信じない西洋人が通りかかり、「私たちの国では、よほど時代遅れの者でなければ、そんな本は読みませんよ!」と言いました。すると、その土人は顔を上げて、”ニッ”と白い歯を見せながら、「しかし、私がこの本を読んでいればこそ、あなたは、無事にここにいられるのですよ。私どもは人喰い人種でしたが、聖書に触れてキリストを信じてから、以前の悪習慣を捨てて、全く生まれ変わった人間になったのです。もし、私が聖書を知らなかったなら、今頃、あなたは、私の腹の中にいることでしょう・・・。」すると、かの西洋人は「ブルッ」と身震いしたまま、二の句もつげず、そのまま足早に立ち去って行ったそうです。

 また、こんな話もあります。ある橋のたもとで、果物売りの老婦人が客のない時には、いつも聖書を読んでいました。「一体、何の本を読んでいるのですか。」と、一人の客が尋ねました。「ああ、これは聖書という本で、神様のみ言葉です。」と答えました。彼は「どうして、聖書が神のことばであると分かるのかね?だれがそのことを教えたのですか?」と聞きました。その老婦人は「神様ご自身ですよ。」と答えると、その客は「あなたは神様と話したことがあるのですか。」と尋ねました。

 その老婦人は聖書が神のみことばであることを証明しようとして、しばらく考えていましたが、「お客さん、あなたは、あれが太陽であるとことを証明できますか。」と太陽を指さして尋ねたのです。「そんなこと、簡単じゃないですか。最上の証明は、あれが、私に光と暖かさを与えてくれるということですよ。」との返事が返って来ました。そこで、老婦人はにっこり笑いながら、「お客さん、その通りですよ。聖書が神のみ言葉であるという最上の証明は、これを読むことによって、私の心に光と暖かさが与えられるのですよ。」と答えたのです。

 ドフトエフスキーは、シベリヤに流刑される途中、一人の夫人から聖書を手渡され、死の家と言われるようなシベリヤの流刑地で、聖書だけを数年間読みました。それが、後年、数々の不朽の大長編小説の名作を生むきっかけとなりました。また、ゲーテが長い一生のほとんどを費やして書いたという有名な詩劇「ファースト」は、聖書のヨブ記にその構成のヒントを得たと思われるところがあります。さらに、シェークスピアの作品のうちには、ところどころ、聖書に書かれていることばから取ったと思われる文章があると言われています。このように、もっとも偉大な文学者は、常に聖書に関係し、聖書を深く身につけた人たちでありました。(聖書は、決して文学作品ではありませんが、文学的にみても非常にすぐれているのです)。

 よく言われることですが、聖書を知らない者は、一般文学をも理解することができない者であるとは、まさにその通りであると思います。文学に限らず、聖書が音楽や美術などの芸術に与えた影響は多大なものがあり、限られたスペースでは書き尽くすことはできません。聖書は、読めば読むほど興味が増し、汲めども尽きぬ深い味わいがあります。一般の本ならば数回読めば底の深さも分かり、それ以上読む気にならないのですが、聖書は読むにつれてなお読みたくなる不思議な本であります。スポルジョンは、聖書を100回読んでのち、「100回目に聖書を読み終えたときに、私は最初に読んだ時よりも、ずっと、すばらしいものだと知りました。」と言ったそうです。

 さて、聖書は大きく分けて旧約聖書と新約聖書に分かれています。多くの人は、旧約聖書は旧教(カトリック)のことが書かれており、新約聖書には新教(プロテスタント)に関係することが書かれていると、はなはだしい思い違いをしています。これは、大変な誤解であります。このように書いている自分自身も、最初はそう思っていた一人であります。
しかし、旧約聖書と新約聖書はいずれも、「イエス・キリスト」が主人公であり、イエス・キリストの中心は十字架と復活であり、聖書の中心の主題は「イエス・キリストによる人類の救い」ということであります。

 旧約聖書には、イエス・キリストがやがて人類のの救い主としてこの世に来られてどのようなことをなさるかについて、イエス・キリストが来られる前に神様の約束されたことについての予告が記されています。新約聖書には、約束の救い主イエス・キリストが事実この世に来られて、十字架の尊いみわざを完全に成し遂げられて死後三日目に復活されたことが中心として書かれています。アウグスチヌスは「新約聖書は旧約聖書の中に隠されており、旧約聖書は新約聖書の中に表されている。」と言いましたが、事実その通りで、これはまさに至言であると思います。

 旧約聖書に書かれているイエス・キリストに関する預言があまりにも見事に新約聖書において的中しているので、旧約聖書の預言は後代になって付け加えられたのではないかと疑念を持った人々もいたようであります。しかし、今では旧約聖書の古い写本が次々と発見されており、それらはイエス・キリストが来られるはるか前に書かれたものであることが、考古学的に証明されています。それでも、なお疑い深い人は、イエス・キリストは意識的に旧約聖書の預言が的中するように預言通りに行動したのではないかと疑う人もいるようであります。しかし、そのようなことは、聖書を実際にお読みになれば不可能であることがすぐお分かりいただけると思います。例えば、「私は死んで三日目によみがえります。」と言って、あなたはその通りに実現できるでしょうか。

 昔、イタリヤの数学者で三次方程式の解法を発見したカルダーノは天才によくある変わり者で、自分の死ぬ日を予言しました。ところが、当日になっても、なかなか死なないので、自殺したということです。イエス・キリストも、他人とかかわりなく自分ひとりで行った出来事については、そのように「預言通りに行動したのではないか」と、こじつけで説明しようとする疑い深い人もいるかもしれません。しかし、他人、特にイエス・キリストに反対する人々の関係している預言はどのようにも説明のしようがありません。一例をあげると、12弟子の一人、イスカリオテのユダがイエスを裏切ったこと、十字架の場面でローマの兵卒たちがイエスの下着をくじ引きにして分け合うことなどは、そのようなことではどうしても説明できないのです。

 ただ、全知全能の神が旧約聖書で預言したそのとおりに成就したのであると考える以外に説明のしようがないのであります。もし、イエス・キリストについての350ほどの預言が偶然にことごとく的中したとすれば、それこそ、不思議過ぎてかえって考えられないことです。また、聖書の中には、この世の常識では考えられない「奇蹟」がたくさん出て来ます。ある人は、聖書の奇蹟の記事を除けば聖書を信じることが出来るのだが、という人があります。しかし、みなさん、真の神がおられてしかもその御子が人としてこの世に来られたのなら、奇蹟の一つも行えない方が不自然で、理解し難いことであると思います。聖書自らが語っているとおり、聖書は神のみことばであります。

●「この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」 (使徒の働き4:12)。

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★聖書の絶大な力

2005-04-23 | 「聖書について」



 人間の歴史は、今まさに最終段階に向かって恐ろしいスピードで突進している感じがあります。私たちはどうしたらいいのでしょうか。私たちに希望があるのでしょうか。この暗闇の世界に私たちが安心して歩める真理の道があるのでしょうか。もがいてもどうすることもできない絶望の人生から救い出してくれる、すばらしい人生の扉を開く鍵がどこかにあるのでしょうか。私たちがどこから来て、なぜここにいるのか、そしてどこへ行くのかを知ることのできる何か手掛かりがあるのでしょうか。結論を申し上げましょう。「あります!」それは「聖書」であると断言することができるのであります。

 「もし、あなたが無人島で暮らさなければならなくなって、ただ一冊の本を持って行くことを許されたたら、どんな本を選んで持って行きますか。」という質問をされたとしたら、あなたは何と答えるでしょうか。その質問に、ある人は「万葉集」と答えたそうですが、しかし、無人島でたとえそれがどんなにすばらしい歌集であるとしても、それを口ずさんで、毎日、毎日、押し寄せて来る恐ろしい寂しさを紛らわすことができるでしょうか。これは有名な話ですが、文豪ゲーテは「私が獄に繋がれて、ただ一冊の本を持ち込むことを許されたら、躊躇せずに聖書を選びます。」と言いました。

 デフォーの名作「ロビンソン・クルーソー」のモデルとなったアレキサンダー・セルカークという人は、航海の途中、あまりにも手のつけられない無法者のゆえに、荒くれだった水夫仲間からも見放されて、ある無人島に置き去りにされてしまいました。彼は、最初のうちは一人ぼっちの寂しさと絶望的な前途を想い、気も狂うばかりであったといいます。しかし、彼の母が何とかして息子に読んでほしいと願いながら、航海前に彼の荷物にしのばせて置いた一冊の本がありました。それは、言うまでもなく「聖書」であったのです。

 彼は、何もすることがないので、無人島で聖書を手にして読み始めました。聖書は何と大きな慰めと力を彼に与えたことでしょうか(私も、灯台職員として働いていた若い頃、北海道の松前小島の無人島で、無心になって聖書に読み耽ったのを思い出します。)。長い年月が流れたある日、彼はたまたま近くを通った船に救助さたのです。そして、そのときの彼は、以前とはうって変わった全くの別人のような人格になっていたということです。聖書の力は、彼自身を根底から変えるほどの絶大な力を持っている書物であります。まことに聖書は、今日に至るまで、数え切れないほどの人たちを変えて来ました。聖書の影響力は実に世界の歴史をも動かして来ました。聖書は驚くべき無限の力と人をとらえて離さない不思議な魅力を持っている本であります。

 聖書は日本では、毎年数百万部が売られており、世界においては、その数は数億冊に及ぶことでしょう。まさに聖書こそ、古今無二の超ロング・ベストセラーであります。そればかりか、聖書ほど多くの国のことばに訳されている本はありません。どんな本でも十数ケ国語に訳されていれば、その本は特別に有名な本と言えるでしょう。聖書は何と、1,500以上の言葉に訳されているのであります。現在の世界の国の数は、191ヶ国(?)ですから、聖書は一つの国でも地方や部族によって言葉が違っておればそのその言葉に訳されていることが分かります。聖書は、このように、あらゆる意味で他の本と比較して、桁外れにスケールの大きい本であると分かります。

 BIBLE(聖書)の語源であるギリシャ語のビブロスは「本」という意味です。英国の作家、ウォルター・スコットは、死ぬ間際に、子供に「本を持って来ておくれ。」と言うと、子供は「お父さん、どの本ですか。」と尋ねました。スコットは、「本と言えば、聖書に決まっているではないか。」と言ったという話があります。日本では、世界のうちでも、書物の出版数においては最も多い国の一つであると言われています。しかし、それらの書物のほとんどは、生きておられる真の神様の喜ばれないものであります。活版印刷術の発明のきっかけは、聖書を何とかして多くの人に読んでもらいたいという願いから、グーテンベルクが考案したのであります。

 さて、それでは、この聖書はどのようにして出来上がったのでしょうか。聖書は、BC1,500年頃から、実に1,600年の長きに亙って、40人ほどの人々によって書かれました。その著者には、王、大臣、官吏、学者、漁師、医師、詩人、羊飼など、いろいろな身分や職業の人たちがいます。これらの地位や環境の違った人たちが、風俗、習慣の異なった広大な地域と1,600年という気の遠くなるような隔たりの中で、お互いが何の連絡もなしに書いたのですが、その内容は完全な統一と調和と均整が保たれています。その理由は、その背後で、永遠から永遠にいます唯一の神がおられ、彼らの書くこと一つ一つを聖霊によって導いたからであります。すなわち、聖書は神が40人の記者を用いて書かれたことを示しているのであります。

 いつの時代にも、聖書が神のことばであることを否定する人がたくさんいます。聖書が神によって書かれたものであることを証明するため、ジョン・ウエスレーは次のように説明しています。「聖書は次の三者のうち、だれかが書いたに違いありません。なぜなら、それ以外には考えられないからです。」
(1) 善人か天使。
(2) 悪人か悪魔。 
(3) 創造主(神)。
 
まず、「聖書」は善人や天使の創作と考えることはできません。もしそうであったら、自分の書いたものに、「主なる神はこう言われる。」などと、ご丁寧にも3,000回にも亙って、ウソを書き連ねることはできないはずです。次に、「聖書」は悪人や悪魔の創作と考えることもできないことです。なぜなら、自分の魂が永遠の地獄に行くことを何度も繰り返し、はっきりと宣言するような本をわざわざ自分で書くことはあり得ないからです。それゆえ、残された唯一の結論は、「聖書」は神によって書かれた書物であるということであります。

●「‥‥‥聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(テモテの第二の手紙3:15,16)。

●「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。 」(ペテロの第二の手紙1:20,21)。

●「この天地は滅び去ります。しかし、わたし(イエス・キリスト)のことばは決して滅びることがありません。」(マタイの福音書24:35)。 

●「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント人への第二の手紙5:17)。


           

★聖書の預言と天気予報

2005-02-27 | 「聖書について」



  2005年2月22日夕刻、鹿児島県・種子島宇宙センターから打ち上げられた国産ロケットH2A7号機が、曇天を突いて宇宙に飛び出し、打ち上げに成功しました。悪夢のロケット爆破から1年3ヶ月の苦労がやっと実った瞬間でした。 気象庁でも、失 敗すれば気象観測に重大な支障をもたらすだけに、担当官たちの喜びも非常に大きかったことが推測できます。
 
 さて、日本人はよく日常の挨拶で、「今日はいい天気ですね!」とか、「暑い日が続きますね!」とか、「今朝はシバレますね~!」(北海道弁)などと言います。ちなみに、中国人は挨拶で「飯は食いましたか。」と尋ねることが多いと聞きました。また、日本人の手紙の書き出しは、まず「時候」の挨拶から始まるのが普通ではないでしょうか。初対面の人と、何から話を始めたらよいか分からないような時にも、天気の話から始めることが多いのが日本人です。

 また、日本では、マイクの感度のテストをする場合にも、たとえ雨天であっても、「本日は晴天なり。本日は晴天なり・・・・」を繰り返すのが一般的です。このように、日本人ほど、天気を気にする民族、天気を話題にする民族も珍しいのではないかと思います。テレビやラジオでは、一日中繰り返し、「天気予報」を流します。これは、日本人の民族性や気候風土と何か関連があるのかもしれません。

 かなり古い新聞に面白い記事が載っていたので、私のスクラップブックに挟んでおいたのですが、それによると、天気予報が日本で初めて登場したのが明治17年(1884年)6月1日であったそうです。その歴史的な第一回天気予報は、「全国一般、風ノ向キハ定マリナシ、天気ハ変ワリ易シ、但シ、雨天ガチ。」というものであったそうです。「風ノ向キハ定マリナシ」と言っているので、どの風向きでも心配はありません。また、「天気ハ変ワリ易シ」と断っているので、どんな天気になっても誰も苦情を言うこともできません。全天候型の天気予報なのです。

 このような天気予報であれば、あってもなくてもいいようなものですね!しかし、現在のように科学が格段に進歩して、気象衛星を使い、コンピューターを駆使して、行われている現在の天気予報でも、時々、その予報が外れる事があります。最近は、地球環境が温暖化し、急激に変化しているので、これは私の推測ですが、特に長期予報の場合は、益々、高い確率で天気予報を出すのが困難になって来ているのではないでしょうか。

●「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたら されたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(ペテロの第二の手紙1:20~21)

 さて、神のことばである聖書は、人間の意志によって書かれた書物ではなく、神の霊感によって記された書物であります。ですから、聖書はこの世界と人類の未来について多くのことを語っていますが、その預言(神のことば)が外れるということは絶対にないのです。聖書の預言は100%の確率で成就するのです。キリストの生涯について、旧約聖書には108位の事柄について預言されています。そして、現在までに成就すべきことは、確実に成就しているのです。

 また、イスラエルの民が離散する事や再び故国に帰って来ることなど、イスラエルの長い歴史についても、数々の多くの預言があります。例えば、旧約のダニエル書には、世界の四大帝国(バビロン・メディアとペルシャ・ギリシャ・ローマ)の興亡についての預言が記されていますが、すべてその通りに成就したのであります。その他、聖書に書かれた時点ではまだ起こっていない未来についての多くの記事(預言)がありますが、それらは確実に成就し、聖書は真実であることを証明しています。また、世界の終末についても、人間の死後のことについても、聖書は明確に断定的に語っています。また、「預言」とは神のことばのことであり、「未来の予言」の意味だけでなく、過去のことも現在のことも含んでいます。

 人間は時間に拘束され、それに従属しています。時間に対して、人間はどんなに抵抗しても無力です。ですから、人間は、未来のことを知ることはできません。人間は、時間の流れの中に生かされているので、常に「現在」というものを起点として、「未来」と「過去」というものを考えるわけです。しかし、神は時間の外におられる方であり、時間を超越して存在されるお方です。ですから、神にとってはすべてが現在であるが故に、人間の側から見て未来に属することも正確に予知できるわけであります。未来について正確に予知するのは、全知全能の神以外には決してできないことであり、また、「聖書」によってそれを人類に知らしめることができるお方なのです。

●「預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。 」(旧約聖書:申命記18:21~22)。

 神様は、人の口を通して未来に起こることをあらかじめ、人々に知らせることができる方です。そして、その預言者が真の預言者であって、神からのことばを語っているかどうかのテストは、その語ったことばがその通り実現するかどうかによって、判別することができるのであります。しかし、悪魔は預言を実現させたり、不思議なことをしたりして人々を偶像の神々に導こうとします。終末の時代には、サタンは何か不思議なことを行って、人々を惑わそうとすることが聖書に予告されてあるので、十分に注意しなければなりません。今も、多くの異端者や偽教師が現れているのは事実です。今の時代は、聖書が完結され、聖書の中に神のみこころがすべて啓示されているので、聖書と矛盾するようなことを語る「預言者」(?)が表れたら要注意です。イエス・キリストは次のように言われました。

●「人に惑わされないように気をつけなさい。 わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。 」(マタイ24:4)。 

 聖書は神のみことばであり、その中心は、イエス・キリストです。キリストはあなたの罪のために十字架上で身代わりに死んでくださり、三日目(日曜日の早朝)によみがえられました。どうか、あなたも、偽りの教えに騙されることのないように、神のみ前に自らの罪をお認めになられ、悔い改めて、神が遣わされた救い主イエス・キリストを信じて救われるようにお勧めいたします。

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★聖書の真実性について

2005-01-31 | 「聖書について」

 

  昔、ある英国人が、旧約聖書の出エジプト記2章3節に「瀝青」(アスファルト:石油からの蒸留残留物・古代には壁面のつぎ目に使用した・ギリシャ語で asphalton)ということばを見て、エジプトの地下に石油があることを確信し、掘削するためにエジプト政府の許可を求め、友人に出資を求めました。友人は、彼の無謀を止めようとしたのですが、彼は、「神のことばたる聖書に誤りがあるはずがない。私は聖書を確信している。モーセの母が『瀝青』を用いたからには、この附近に石油があるに違いない。」と言って友人の忠告を拒み、試掘し、石油層を掘り当てて莫大な富を得たという話があります。これは、フィクションではなく、実話なのです。
  
 しかし、あなたは彼よりも更に幸福な人になることができるのです。彼は「瀝青」ということばを聖書中に見い出して、エジプトに石油があることを確信したのですが、聖書には、もっともっと重大な価値のあることばがあることに気がつきませんでした。それは、「永遠のいのち」ということばです。死ぬべき人間にとって、「石油」と「永遠のいのち」とどちらが大切でしょうか。ちなみに、過去に繰り返された戦争の多くが石油を奪い合う争奪戦であり、現在、世界で起こっているいくつかの戦争は石油をめぐる争いであるとも言われています。

 イエス・キリストは次のように語られました。全世界の富よりも尊いものは、人のいのちです。そして、そのいのちは、この地上だけのいのちではなく、死後も天国で、神様との親密な交わりの中で永遠に生き続ける「永遠のいのち」こそ、もっとも価値のあるものなです。あなた自身が永遠のいのちを得るために、神様が聖書を全人類への贈り物として与えられたのですから、あなたも、どうか真剣に、この聖書を買い求めて、お読みになって下さい。聖書は、読めば読むほどにすばらしい書物であることが分かります。そして、永遠のいのちをご自分のものとなさってください。これは、イエス・キリストを救い主と信じる者に無代価で与えられるのです。

●「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。」 (マルコ8:36,37)。 
 
 聖書の中には、全人類の罪のために身代わりに死んでくださったイエス・キリストを信じる者に与えられる「永遠のいのち」について、多くの記述がありますが、その一部だけを紹介しましょう。どうぞ、ご自分で聖書をお読みになってお確かめになってください。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネ3:16)。

●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)。

●「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』 」(ヨハネ4:14)。

●「わたし(キリスト)は彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。 」(ヨハネ10:28)。

●「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。 」(ヨハネの第一の手紙5:13)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。 」(ローマ人への手紙6:23)。

●「‥‥『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。 」(テモテへの 第一の手紙1:15,16)。
  

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★「真理」を求めて

2005-01-03 | 「聖書について」

  新しい年の初めに、私たちの人生において最も大切な「真理とは何か」について考察してみましょう・・・・。

「群盲象を撫でる」あるいは、「群盲象を評す」という諺があります。多くの盲人が一人づつ象の一部を撫でてみるのですが、腹に触れた者は、「大きな太鼓のようだ」とか「大きな壁のようだ」と言い、耳に触れた者は、「大きなうちわのようだ」と言い、足に触れた者は、「太い柱のようだ」と言うのです。また、象の鼻に触った者は、「木のようだ」とか、「長い管のようだ」と言うのであります。

各自の手に触れた部分だけで,象の全体を判断してしまうのであります。通常、凡人とは大体そういうものではないでしょうか。物事の一部にとらわれて大局的な判断ができないことのたとえであります。また、物事の一部は分かっていても常に全体を知り、把握できないものであるという大切な教訓でもあります。一般的に、自分の知っていることだけで、全体をつかんだつもりになるのことが多いものであります。真実の一部をつかんで、真理のすべてを知ったように考えるのです。
 
それは、人間の歴史にも言えることではないでしょうか。今日、科学は飛躍的に進歩し、科学が人類に与えたものは数え切れないほどであります。そこで、人間の高慢によって、錯覚が生じるわけであります。人間には、自分の見たもの、触ったものだけで、これが真実のすべてであるかのように判断する過ちに陥るのです。「宗教」にも、真理のほんの一部を伝えるものがあるかもしれませんが、だからといってそれが真理のすべてではないということを知っていただきたいのです。
 
人間は、長い歴史の中で、常に真理を追求して来ました。ある人は、宗教によって、またある人は哲学によって、またある人は科学によって、またある人は文学によって、それぞれ真理を追求して来たのです。しかし、誰ひとりとして、「これこそ正しく真理である」と断言することのできた人は、いまだに一人もいないのです。「聖書」こそは、神が全人類に啓示された「真理の書」であり、私たちは、これによって、初めて「真理とは何か」を知ることができるのです。

真理の書である聖書は「神の実在」についても、明確に語ります。

●「‥‥不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。‥‥‥それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。 」(ローマ人への手紙1:18~25)。

また、パウロは「キリストの福音」についても、明確に証ししています。

●「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。 」(Ⅰテモテ2:4~6)。

昔も今も、いつの時代にも、神の真理が啓示されても、その真理を阻み、それに逆らう人はいるのであります。
ですから、伝道者パウロは、力強く次のように語っています。

●「こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、 恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。 」(Ⅱコリント4:2)。

●「私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。 」(ガラテヤ2:5)。

●「私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。 」(Ⅱコリント13:8)。


そして、聖書を深く学ぶ時に、イエス・キリストこそ、聖書全体のテーマであり、「真理」そのものであることを知らされるのであります。そして、真理を知ることによって、人は真の自由を得ることができるのです。

●「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』‥‥」(ヨハネの福音書14:6)。  

       

★「聖書」とはどんな本ですか?

2004-12-17 | 「聖書について」

        

 私が「聖書」を初めて手にしたのは、まだ20代前半の青年時代でしたが、聖書とはどんな本なのか、全く分かりませんでした。ただ、キリスト教の経典くらいにしか考えていなかったのです。一体、聖書とは、どのような本なのでしょうか、少しだけ紹介したいと思います。

 聖書は「神の図書館」であるとも言われています。それは、聖書は一冊の書物でありながら、66巻の別々の書物から出来ているからです。創世記に始まり、ヨハネの黙示録で終わっているこの書物(神のことば)は、大きく分けると二つに分けられます。前の部分(39巻)はイエス・キリストがこの世に来られた以前に書かれたもので、旧約聖書とよばれ、後の部分(27巻)はキリストがお生まれになってから後のもので、新約聖書と言われています。

 さて、聖書は一体だれが書いたのかということですが、聖書はBC(紀元前=キリスト前)1.500年頃から約1.600年の間(AD<紀元>100年頃まで)に亙って、少なくとも36人以上の人々によって書かれました。その著者には、一例を上げると、王(ダビデ)、学者(エズラ)、漁師(ヨハネ)、医者(ルカ)、羊飼(アモス)など、いろいろの身分、職業、学識の人々がおり、またその書かれた時代には、時に1千年もの隔たりがありますが、時が移り変わっても、その内容は完全に一致と調和を保っているのです。

 そして、これらの聖書の著者は、イタリーからバビロンにいたる広大な地域に散らばっていて、ほとんどの人が、お互いに会ったこともないのです。このように地位や環境がそれぞれ異なった著者により、風俗、習慣も違う広大な地域で、長年月にわたって記録されたものであるにもかかわらず、お互いの間に矛盾がないばかりか、驚くほどの調和と統一があるのです。しかも、その内容にはそれぞれ特色がありながら、一貫性があるのですから、まことに不思議と言わざるを得ません。一体、これは、どのように説明できるのでしょうか。

 それは、聖書自身が語っているように、各著者の心の背後には、すべての者を真理に導く神(創造者)の聖霊の偉大な働きがあったことを示しているのです。これらの人々は神の直接の支配の下に書いたので、その原語の一つ一つの言葉が神に導かれて記されているのです。次の聖句は明らかに聖書が神の霊感に導かれて書かれたものであることを証ししています。

●「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。 」(Ⅱペテロ1:21)。

●「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。 」(Ⅱテモテ3:16)。


 このように、聖書は神の言葉そのものなのです。聖書には、神のことばが含まれているというのではなく、聖書のあらゆる部分が神の霊感によって書かれているのです。聖書こそは、神が人類に与えられた唯一の啓示の書なのです。そして、その故に、神は聖書に付け加えたり、省いたりすることを固く禁じているのです。どうか、あなたも、神の言葉である聖書をお認めになられますように。
その聖書は、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いによる救いが主題となっているのです。

             

★人生の道しるべ。

2004-12-07 | 「聖書について」



あなたは、今まで道に迷った経験はありませんか?もし、私たちが街で道に迷った時、誰に道を尋ねるでしょうか。2、3歳の幼児に道を尋ねることはまずあり得ないと思います。交番に行って、お巡りさんに聞くか、信頼できそうな大人の人に尋ねるのが普通ではないかと思います。

  私たちの人生の旅路においても、時々「道」に迷うことがありますね。また、人生の大きな試練の中で岐路に立たされ、どの道を選ぶべきか悩み苦しむことがありませんか。ですから、人生の道案内と「道しるべ」となるものがどうしても必要なのですね。

  ある時、孔子に弟子が次のように尋ねたそうです。「先生、人間はなぜ生きているのでしょうか。また、人はなぜ死ぬのでしょうか。」と。孔子はそれに対して、「われ、生を知らず、いずくんぞ、死を知らんや。」と答えたと言われています。

  私は若いとき、数年間だけですが灯台で無線通信士として働いていたことがあります。「灯台」は昔も今も変わらず、暗夜の荒波の海を航海する船舶の乗組員にとっては、港から港へ安全に船を導く海上の「道しるべ」なのです。

  私は、あなたに人生の確かな「道しるべ」を示すことができます。それは、神の永遠の真理の書、「聖書」です。聖書は、いろいろなものに例えることができますが、人生の「道しるべ」であり、「羅針盤」であり、「無線方向探知機」であり、また「海図」でもあります。

 私たちの人生航海において、これらのものがあって初めて、安全な人生航海が出来るのです。これらのものが備わっていないために、大海原の荒波の人生航海で、暗礁に乗り上げて転覆したり、遭難したりして、人生航海の半ばで、海の藻屑となって海中深く消えてしまうことがあるのです。
聖書の中には次のようなみことばがありますので、是非、よくお読みになってください。

●「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」 (詩篇119:105)。

●「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイの福音書24:35)。

●「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」(ヨハネの福音書14:6)。

●「イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』」(ヨハネの福音書8:12)。

       



★聖書の不思議。

2004-12-01 | 「聖書について」

                    

今から200年以上前、フランスにボールテールという有名な無神論者がいました。彼は、生前、聖書を冒涜して次のようなことを口にして豪語していたそうです。「もう100年も経てば聖書は世の中に一冊も見られなくなってしまうだろう。ただ、博物館で見られるだけだろう。」

ところで、ボールテールの予言した100年はとうの昔に過ぎてしまいました。そして、なんと無神論者ボールテールは苦しみながら死んで行ったのです。しかし、今もなお聖書のことばは世界中に広められ、確かに「存在」しているのです。それのみか、ボールテールの家は現在、万国聖書会社の倉庫として用いられ、上から下まで聖書でいっぱいになっているのです。なんと、皮肉なことでしょうか?聖書は創造者なる神のことばですから、滅びることはないのです。

また、彼が死んでから25年も経たないうちに、聖書を全世界に送り出す聖書協会が設立され、ボールテールの不敬虔な書物を印刷した会社が、その時以来、聖書を印刷するのに使われているのです。100年以上経った今日では、ボールテールの著書は、大きな図書館でしか見るこができません。それに反して、聖書は現在、世界の超ロングベストセラーになっているのです。
聖書はまことに不思議な本ですが、創造者なる神の永遠の真理の書なので今日も神様が守っておられるのです。

聖書は、人々がキリストを信じて罪と死後の永遠のさばきから救われ、人々に永遠のいのちを与えるために書かれたものですが、そのために神は、約1600年間もかかって、約40人の記者を用いて書かしめた書物なのです(その40人は、職業や住んでいた場所や時代も違うのです)。

それなのに、聖書に不思議な一致と調和があるのは、それが神の霊感によって書かれたものであるからです。聖書自身が、次のように語っています。

●「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(Ⅱテモテ3:16)

●「‥‥すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。 なぜなら、預言(聖書のことば)は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。 」(Ⅱペテロ1:20,21)。 


●「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイの福音書24:35)。  

あなたも、聖書を紐解いて「永遠のいのち」という宝物をご自分のものとなさいませんか?永遠の希望に満ちたすばらしい幸福な人生が約束されています!! また、聖書を正しく伝えている集会(教会)に是非、足を運んでみてください。

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