新しい年の初めに、私たちの人生において最も大切な「真理とは何か」について考察してみましょう・・・・。
「群盲象を撫でる」あるいは、「群盲象を評す」という諺があります。多くの盲人が一人づつ象の一部を撫でてみるのですが、腹に触れた者は、「大きな太鼓のようだ」とか「大きな壁のようだ」と言い、耳に触れた者は、「大きなうちわのようだ」と言い、足に触れた者は、「太い柱のようだ」と言うのです。また、象の鼻に触った者は、「木のようだ」とか、「長い管のようだ」と言うのであります。
各自の手に触れた部分だけで,象の全体を判断してしまうのであります。通常、凡人とは大体そういうものではないでしょうか。物事の一部にとらわれて大局的な判断ができないことのたとえであります。また、物事の一部は分かっていても常に全体を知り、把握できないものであるという大切な教訓でもあります。一般的に、自分の知っていることだけで、全体をつかんだつもりになるのことが多いものであります。真実の一部をつかんで、真理のすべてを知ったように考えるのです。
それは、人間の歴史にも言えることではないでしょうか。今日、科学は飛躍的に進歩し、科学が人類に与えたものは数え切れないほどであります。そこで、人間の高慢によって、錯覚が生じるわけであります。人間には、自分の見たもの、触ったものだけで、これが真実のすべてであるかのように判断する過ちに陥るのです。「宗教」にも、真理のほんの一部を伝えるものがあるかもしれませんが、だからといってそれが真理のすべてではないということを知っていただきたいのです。
人間は、長い歴史の中で、常に真理を追求して来ました。ある人は、宗教によって、またある人は哲学によって、またある人は科学によって、またある人は文学によって、それぞれ真理を追求して来たのです。しかし、誰ひとりとして、「これこそ正しく真理である」と断言することのできた人は、いまだに一人もいないのです。「聖書」こそは、神が全人類に啓示された「真理の書」であり、私たちは、これによって、初めて「真理とは何か」を知ることができるのです。
真理の書である聖書は「神の実在」についても、明確に語ります。
●「‥‥不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。‥‥‥それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。 」(ローマ人への手紙1:18~25)。
また、パウロは「キリストの福音」についても、明確に証ししています。
●「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。 」(Ⅰテモテ2:4~6)。
昔も今も、いつの時代にも、神の真理が啓示されても、その真理を阻み、それに逆らう人はいるのであります。
ですから、伝道者パウロは、力強く次のように語っています。
●「こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、 恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。 」(Ⅱコリント4:2)。
●「私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。 」(ガラテヤ2:5)。
●「私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。 」(Ⅱコリント13:8)。
そして、聖書を深く学ぶ時に、イエス・キリストこそ、聖書全体のテーマであり、「真理」そのものであることを知らされるのであります。そして、真理を知ることによって、人は真の自由を得ることができるのです。
●「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』‥‥」(ヨハネの福音書14:6)。