みなさんは、中国の故事から来ている諺で「人間万事塞翁が馬(じんかんばんじさいおうがうま)」ということばをお聞きになったことがあると思います。
「人間(じんかん)」とは日本で言う人間(にんげん)の事ではなく、世間(せけん)という意味です。また、「塞翁」というのは、城塞に住んでいる「翁(おきな)=老人」という意味です。「城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍(わざわい)へ、また禍(わざわい)から福へと人生に変化をもたらした。まったく禍福というのは予測できないものである。」という事を教えている諺なのです。
人生の幸不幸や運命は、計り知れないものがあって、予測できないものである。」という意味ですが、本当にその通りだと思いませんか。
昔、中国の北方の城塞に住んでいる老人がいました。その老人は名馬を持っていたのですが、ある日、その馬が逃げ出してしまいました。近所の人が彼を慰めると、「これが幸福のもとにならないとは限らない。」という返事です。やがて、馬が戻って来たのです。しかも、すばらしいたくさんの名馬を連れて・・・。近所の人々がお祝いを言いに行くと、今度は「これが不幸のもとにならないとも限らない。」と答えたのです。その名馬が産んだのも立派な馬だったのですが、その馬に乗った老人の息子が落馬して足を骨折してしまったのです。
人々が慰めると、「これが幸福のもとにならないとも限らない。」という返事です。その後、戦争が起こって、多くの若者が兵士として駆りだされて戦死しました。しかし、その息子は足が不自由なために、戦争に行かずに済んだのです。その後のことは、よく分かりませんが、これが、「人間万事塞翁が馬」という諺のもとになった中国の昔話です。
「人間万事塞翁が馬」の「人間(じんかん)」とは、日本で言う人間(にんげん)の事ではなく、世間(せけん)という意味です。「塞翁」というのは、城塞に住んでいる「翁(おきな):老人」という意味です。要するにその意味するところは、「城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍へ、また禍から福へと転々と彼の人生に変化をもたらしたように、まったく禍福(不幸と幸福)というのは予測できないものである。」という意味なのです。
「やっと、目指す有名大学に入れたと喜んでいたら、病気になった。」とか、「素晴らしい結婚が出来たと思ったら新婚旅行で事故死した。」とか、「職場にも慣れて来て喜んでいたら、倒産してしまった。」とか、「マイホームを建て、ローンの返済も済んだと一安心していたら、地震による津波で、家が流失してしまった。」など、とかく、「幸福」というものは、掴んだと思ったら逃げ出して行くのです。多くの人々の一生は、この幸福を追いかける鬼ごっこと、たまたま捕まえた幸福を逃げ出さないように、閉じ込めようとする、空しい努力の中に費やされているのではないかと思われるのです。
間違いのもとは、「幸福」というものを外から捕まえて来ようとするところにあるのです。「逃げ出さない幸福」はその人の内に持つべきものなのです。人の外側、つまり、事情や境遇に具合の良いことが起こることを指して「幸福」というなら、そういう幸福は遅かれ早かれ逃げ出して行くのではないでしょうか。例えば、日本のある宗教では「宿命論」を説きます。「一切の出来事は、あらかじめ決定されていて、なるようにしかならず、人間の努力もこれを変更できない。」というのです。「めぐり合わせが悪かった。」とか、「悪い星のもとに生まれて来た。」というのですが、もしそうだとすれば、人間の運命を決めるにはあまりにも不明確と言わざるを得ません。
聖書の神が与えようとしている「幸福」は、環境や境遇に関係なく、常に心の内に持ち続けることのできる平安であります。聖書では、「神の摂理」ということを教えています。摂理とは、何かと言いますと、創造者であり、愛の御方である神がご自身の主権と意志によって、私たち一人一人の人生の一切を最善に導いておられるということです。人間的には不幸と思えることの中にも、愛の神の摂理が働いておられることを認めることができるのです。
すべてのことを益としてくださる愛の神を認める時に、確かに今までとは全く違ったものの見方ができるようになります。決して逃げ出さない、失われない幸福を神は与えてくださいます。それは、この地上だけでなく、永遠までも続く幸福であります。決して逃げ出すことのない、不動の平安と幸福があるのです。あなたも、是非、神様がイエス・キリストによって備えられたこのようなすばらしい救いと「幸福」を得てくださいますように、心からお勧めいたします。このような幸福は、この地上にある物質的で一時的なものではなく、永遠に神に祝福される幸いであり、死を超越したものなのです。
●「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8:28)。
●「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。 」(ピリピ人への手紙4 :12)。
●「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。 これは、信仰の結果である、た ましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロの手紙1:8,9)。