聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★人が生きる目的は何か?

2007-05-30 | 「聖書と人生」



 ある大学で、一人の学生が人生に悩み、自殺を図ったことがありました。幸いにも未遂に終わったのですが、そこで一人の教授がその学生に尋ねました。「君は、なぜ自殺を図ったりしたのか。」と。

しかし、その学生は恨めしそうにその教授に、「それでは、先生は、なぜ生きているのですか?」と聞き返したそうです。その教授は、返答に困り、答えることができませんでした。「人が生きる目的と意味は何か?」。これは、人生における重要な質問です。でも、学校の先生も、生徒や学生に質問されて答えることができないのです。

人が「今」を生きることができるのは、何らかの目的と希望を持っているからです。これがないと、人は自殺するか、惰性で生きるしかないのです。小説家のヘミングウェイも、「人生には何の意味もないのだ。」と言って自殺したのは有名な話です。 

 いつの時代のことか明確ではありませんが、かつて、ギリシャにおいて囚人に対する厳しい刑罰に、次のようなものがあったと聞きました。一つの大きな桶に水をいっぱい入れてあるのですが、その水を汲んでバケツに入れ数百メートルくらい離れた場所にあるもう一つの桶に水を運び入れます。

それが終わると、また最初の桶にその水を汲み移すのです。この同じ作業を何度も何度も、往復して繰り返すのです。このような作業を繰り返すと大抵の囚人は参ってしまうのだそうです。これと大変似たような話を最近読んで、「世界には似たような話があるものだなあ~!」と不思議に思った次第です。

 昔、ナチスの囚人に対する拷問にこういうものがあったとそうです。ある所に沢山の重い石が積み上げてあります。その石を囚人に命じて、他の場所まで移動させます。 囚人たちは汗みどろになり、全力を出し切って、その石を移動させ、やっとのことで命じられた場所に運び終えます。

しかし、やっと作業が終わったと思ったら、もとの場所へもう一度運ぶように命じられるのです。彼らはその重い石をまた汗みどろになって、その場所まで運ぶのです。すると今度は、もう一度、先ほどの場所に運ぶように命じられるのです。そして、囚人たちは、この二箇所の場所を何度も往復する重労働を延々と繰り返すのです。この作業を繰り返すうちに、終いには頭がおかしくなってしまう者が続出するのだそうです。

 このような行為に人はなぜ耐えられないのかというと、いくつかの理由を上げることができます。(1)まず第一に、この作業には、何の目的もないからです。(2)この作業には、何の意味も価値もないからです。(3)また、この作業にはいつまでも終わりがないからです。

人間は、何の目的もなく、意味もないことを延々と続けることに耐えることができません。このようなことを自分の自由意志に反してやらされると、精神的におかしくなったとしても不思議なことではありません。同じ重労働でも、その石を運ぶことによって、何かの建造物を建てるとか、堤防を作るとか、明確な目的があれば、苦しくても辛くても、その労働に何らかの喜びや充足感を持つことができると思いますが、目的のない仕事を続けるのは辛いことです。

 人間、苦しいことや辛いことがあっても、その試練や困難を乗り切って、生きて行くことができるのは、何らかの目的を持っているからではないでしょうか。 しかし、その目的も、実は多くの人にとって、目先の一時的なあるいは表面的なもの、気休めににしかならないものであることが多いのではないかと思います。「○○の一流大学に入るため勉強する」。「有名な企業に就職するために‥‥する」。「マイホームを建てるためにお金を貯める」。「有名なスポーツ選手になるために自らを鍛錬し、そのために励む」。「病気をしない健康な体を作るためにあらゆる努力をする」。このようなことを書けばきりがありませんが、これらはみな人生の根本的な目的とはなり得ないものです。

 もう何年も前の話ですが、英国のある新聞が「お金とは何か。」について、その定義を募集し、最優秀作品に当選したのは、「金とは幸福以外のあらゆるものを与えることのできる万能の供給者であり、天国以外のどこにでも行くことのできるパスポートである。」というものであったそうです。お金が人生を幸せにすると錯覚して、お金を儲けるために血眼になって働く人もいるかもしれません。しかし、それは、空しい希望に過ぎません。お金で幸福を得た人は、この世に一人もいないのです。かつて栄華を極めたイスラエルのソロモン王は「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、空しい。」(伝道者の書5:10)と言っています。  

 それでは、一時的な目先の目的ではなく、人間が人間として生きる根本的な目的は何なのでしょうか。それを正しく教えるのは、天地万物を創造された真の神様だけであると確信を持って言うことができます。時計は時間を知るためにあり、家は人が住むためにあり、車は人や物を運ぶためにあるように、作られたものには必ずそれを作った人の目的があるのです。

進化論者は、人はアメーバーから進化して来た「偶然の産物」であると言います。人間が偶然の産物ならば、そこにはその存在の意味とか、目的などを問うことはできません。また、彼らは当然、その目的を説明することができません。偶然に意味などないからです。しかし、人間を創造された真の神様(God)は、聖書によって、人を創造された目的を明確に語っているのです。


●「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)。

●「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ書43:7)。


人間は、神ご自身のかたち(内面的な性質、人格など)に似せて、神の栄光のために創造された(created)のですが、人類の始祖アダムは神の前に罪を犯し、神から離れ、神に背を向けて生きるようになり、全人類は神の警告通り、罪と苦しみと死の恐怖の中に生きるようになりました。しかし、神は正義なる御方ですが、旧約聖書の中で繰り返し繰り返し、この世界に救い主を遣わされることを預言されていたように、約2.000年前に神の御子イエス・キリストはこの世に赤子として誕生され、罪なき聖よいご生涯の終わりに私たちの罪のために身代わりとなって十字架で死んで、三日目によみがえってくださったのです。

 この尊い救い主、イエス・キリストを信じる者は、神のさばきから救われ、永遠のいのちが与えられ、生きる喜びと平安と幸福が与えられ、真の希望が与えられ、人生の本当の意味と目的を持って生きることができるのです。復活されたイエス・キリストを信じて、その人生が180度変えられた使徒パウロは、次のように語ることができました。死を超越した真の希望と人生の目的を知った人のことばです。パウロにとって、人生を生きることは、漠然とした曖昧模糊としたものではありませんでした。はっきりとした目標(目的)があったのです。また、死後の世界に対しても、明確な確信と希望を持って世を去ったのです。


●「‥‥キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人(クリスチャン)が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々(クリスチャン)が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(2コリント5:14,15)。

●「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ人への手紙1:21)。

●「‥‥あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、神の栄光を現わすためにしなさい。」(1コリント10:31)。
 
●「‥‥私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(2テモテへの手紙4:6~8)。

  
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★三つの悪いことがある

2007-05-24 | 「人間の罪の問題」
            
             

 ある人が、人々が悪いとは思っていないけれども、実は悪いことが三つあると言ったのを聞いたことがあります。その三つというのは、次のことです。
(1)信じたいことだけ信じて、信じたくないことは信じないという態度。
(2)聞きたいことだけ聞いて、聞きたくないことは聞かないという態度。
(3)見たいものだけ見て、見たくないものは見ないという態度。
殺人や強盗、詐欺‥‥などはみな悪いことであると誰でも知っています。でも、どうして上記の三つが悪いことなのでしょうか。ごいっしょに考えてみましょう。

【1】信じたいことだけ信じて、信じたくないことは信じないという態度。
 これが、一体なぜ悪いのかと思われる方も多いと思います。何を信じようが、信じまいが一向に構わないではないか。信じなくても、警察に捕まるわけでもないし、と大方の人々は考えるでしょう。例えば、お座敷列車に乗って、飲めや歌えのドンチャン騒ぎをしている人たちがいるとします。その時、車内放送で、「みなさん、この先の鉄橋が落ちました。このまま、前進すると川に転落してしまいますので危険です!」と言われても、多分、ほとんどの人は信じたくないでしょう。しかし、それがもし事実ならば、信じないでドンチャン騒ぎを続けることは馬鹿げていると思いませんか。聖書の中にその実例があります。あのノアの大洪水の時の記事です。

●「昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。」(1ペテロ3:20)。

●「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。‥‥人の子(主イエス・キリスト)が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」(マタイの福音書24:35~39)。

  
 ノアの時代の大洪水は、実際に起こった歴史上の事実です。創世記6章~9章にその事実が書かれています。地上の人々の生活が乱れ、悪と汚れが充満したので、神様は40日40夜の雨と大洪水で罪人を滅ぼそうと決意されました。神は、神を敬うノアとその家族に命じて、とてつもない大きな箱舟を造らせたのです。そして、神はすべての人に来るべき大洪水のこと、悔い改めて信じて箱舟に入れば一人残らず救われることを宣べ伝えさせたのです。しかし、雲一つない晴れ上がった空を見上げて、人々はノアを嘲笑し、だれ一人として信じようとする人はいませんでした。そんなことは信じたくなかったのです。

 やがて、その時が来て天の水門が開かれて、大雨が降り始め、‥‥人々は慌てて箱舟に押しかけて来たのです。しかし、箱舟の戸はピタリと閉まったままです。「俺たちが悪かった。ノア~!開けてくれ、頼む!」と、人々は箱舟の回りに次から次へと集まって来ました。しかし、扉は叩いても引っ張ってもびくともしません。神がその扉を閉じたのです。神が閉じた扉はだれも開けることができないのです。そして、ノアとその家族8人以外の、その当時の世界のすべての人は大洪水によって滅んでしまいました。彼らはそのようなことは信じたくありませんでした。そして信じませんでした。信じたくないことは信じないという態度を取った人はみな滅びたのです。そして、現代も、人々は神のメッセージに対して同じ態度を取っているのです。

●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネの福音書3:36)。

●「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます』」(マルコの福音書16:15,16)。


【2】聞きたいことだけ聞いて、聞きたくないことは聞かないという態度。

●「数日後、ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、『今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。』と言った。」(使徒の働き24:24~26)。

 昔、ローマ総督ペリクス(当時、カイザリヤに駐留していた)は、福音を宣べ伝えたために囚人となっていたパウロを引き出して、色々と話を聞きました。賄賂を出せば、牢から出してやるという取引をしたかったのです。ところが、キリストの伝道者であったパウロは、神の正義について、来るべき神の審判(最後の審判)のことについて大胆に話したのです。ところが、ペリクスは、妻ドルシラを彼女の最初の夫から横取りしたり、金銭欲に溺れるような不道徳な生活をしていたので、恐れを感じて、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。」と言って帰らせ、軟禁状態にしておいたのです。

 ペリクスは、その後、パウロの審理を2年間も放置しておいた無責任な人であったのです。彼は、聞きたいことだけは聞き、聞きたくないことは、「また、あとで機会があれば聞くことにしよう‥‥」と考えたのです。聞きたくないことを先延ばしにしたのです。そして、彼はついに救いのチャンスを失って永遠の滅びに入ってしまったのです。あなたは、どうでしょうか。あなたは耳が痛くなることや、良心の呵責を感じるようなことは、なるべく今は聞かないことにしようと思っておられないでしょうか。でも、そのような態度は、永遠に救いの機会を失ってしまうかもしれないのです。

【3】見たいことだけ見て、見たくないことは見ないという態度。

●「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハネの福音書3:19~21)。
 
 時々、家や道の横の大きな石を動かしたりした時、石の下に黒いワラジ虫がたくさんいるのを見たことがあると思います。すると、一匹残らず光を避けて、急いで暗やみの中に逃げ込むのです。それと同じように、光を見ようとしない人には、人生の夜明けは決して来ることがありません。一生涯(いや、死後もです!)暗やみの生活です。イエス・キリストは、「世の光」として来られた御方なのです。私たちは、神が遣わされた世の光なるキリストをまっすぐに見なければならないのです。また、私たちは自分の汚れと醜さも、まっすぐに見なければなりません。

●「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」 (マルコの福音書7:20~23)。
 
 ここに、イエス・キリストが語られた人間の罪の目録があります。私たちは、正直に自分自身を見るときに、自分の心の中にこのような罪があることを認めざるを得ません。このような自分のうちの醜い罪を見たくないかもしれませんが、しっかりと見なければならないのです。そうすれば、その罪からの救いのために十字架にかかって身代わりに死んでくださった神の御子(イエス・キリスト)を当然、信じるはずではないでしょうか。

●「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ。世の罪を取り除く神の小羊。』」(ヨハネの福音書1:29)。

●「‥‥やみがあなたがたを襲うことがないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」(ヨハネの福音書12:35,36)。
 

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★ザアカイの孤独な心

2007-05-16 | 「人生と孤独」
  
       
 あなたは、友人とおしゃべりしている時も、街の雑踏の中を歩いてにいる時も、仕事や勉強に追われている時も、ひとり自分の部屋にいる時も、何かしらふっと、「自分はひとりばっちだ‥‥」「たまらなく寂しい‥‥」「人は何のために生きているのだろう‥‥」という思いに満たされ、孤独感に陥ってしまうようなことがありませんか。そんなことは、どなたも経験することだと思います。家事や育児に追われている家庭の主婦の方も、未来に希望を持てないお年よりの方も、勉強で疲れている子どもたちも、職場でコツコツと働いている働き盛りの男性も、ビルの窓外の春の青空(いや、スモッグの灰色の空かも‥)を仰ぎながら、そんな思いに浸ることがおありではありませんか?  

●「それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。‥‥‥」(ルカの福音書19:1~)。

 ルカの福音書19章1~10節には、このような書き出しで始まる非常に興味深く、心に残る出来事が記されています。私は、聖書の中にいろいろな人物を見い出すのですが、非の打ち所のない立派な人物(たとえば、ヨセフとか、ダニエル)もすばらしいのは当然ですが、罪深い人や欠点弱点の多い人物に、何かしらとても親しみを覚え、言葉では表せない安心感のようなものを感じることがあります。ここに記されている「ザアカイ」という人物もその中の一人なのです。それから、イエス様の弟子のペテロもそうです。それが何故なのかは分かりませんが、自分自身がそのような欠点が多く、罪深い人間だからではないかと思っています。そして、そのような欠点や弱点の多く罪深い一人の人間がイエス様に出会って変えられて行く過程にとても興味があり、また神の大きな愛と慈しみに深い感動を覚えるのです。
 
 さて、かつて、ユダヤのエリコの街にザアカイという大変孤独な人が住んでいました。ザアカイの職業は取税人のかしらでしたが、彼は、子供の頃から背が小さくて、「や~い!チビのザア~カイ!」といじめを受けながら成長して大人になったのではないかと思います。「ザアカイ」という名前の意味は、「正しい」とか「聖よい」という意味があります。ザアカイが誕生した時に、その家の跡継ぎができたことで両親は大変喜んだことでしょう。そして、心の正しい人間になってもらいたいとの親の願いを込めて、日本語流に分かりやすく言えば、「ただし」または「きよし」と命名されました。さて、当時ユダヤの国は、ローマの属国であり、ローマの支配下にあったのですが、「取税人」というのはローマ政府から委託されて税金を徴収する仕事で、しかも、その取税人のかしらですから、税務署の署長さんのような立場であったかもしれません。

 ところが、当時の「取税人」というのは、当然集めるべきお金よりも多くをだまし取って、ごまかして、着服していたことが多かったと言われています。ザアカイも、他の取税人と同じようにお金をだまし取っていました。彼はローマ政府から委託され使役されて税金を徴収する取税人のかしらになりました。そして、集めたお金をごまかして、着服していました。ですから、日々良心の呵責を感じて過ごしていました。彼はお金を貯めることに人生の価値を見出したように感じるようになったのですが、彼の心は空虚で、どんなにお金を貯めても、立派な邸宅を建てても、それで心が満たされることはなかったのです。「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、空しい。」(伝道者の書5:10)とソロモンが言っている通りであったのです。

 それから、ザアカイは幼少時から劣等感を持って悩んでいました。人間は誰でも、多かれ少なかれ、コンプレックスを持っているものです。劣等感には、四つの種類があるとあるクリスチャンから聞いたことがあります。(1)肉体的劣等感。(2)性格的劣等感。(3)能力的劣等感。(4)社会的劣等感。‥‥の四つです。そして、ザアカイには、このどれもがあったのではないかと推測することができます。まず、彼は背が低かったことが書かれていますから、彼には「肉体的劣等感」があったのです。また、背が低かったザアカイは小さい時から友だちもなく孤独な少年時代を過ごし、性格的にも卑屈でひねくれた人間になり、「性格的な劣等感」を持っていた可能性もあります。また、彼は背が低いために普通の人ができることができないという「能力的劣等感」があったことも推測できます。そして、彼の職業のゆえに、同胞からは売国奴のように言われ、「社会的劣等感」があったであろうと思われます。

 さて、ザアカイがそのような心が満たされない孤独な日々を送っていた時に、イエス様がエリコの街をお通りになったのです。彼はイエス様がどんな方か見ようとして、家を飛び出し、群集がいる方向に向かって走って行きました。しかし、彼は背が低くて、群集のためにイエス様を見ることができなかったのです。それで、イエス様を見るために、前方に走って行き、いちじく桑の木に登りました。大の大人が、見栄も外聞も捨てて、木に登ってイエス様を見ようとした彼の純朴さに感動します。そして、イエス様は、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と。ザアカイは、今まで一度もイエス様にお会いしたことがありませんでしたが、自分のことを知っていて、ザアカイの名前をお呼びになられたことに非常に驚きましたが、木から急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えたのです。

 ここで、「ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとして」(4)と、「イエスは、ちょうどそこに来られて、」(5)に、「ちょうど」という言葉が二回でて来ます。このことから、人生のあらゆる出来事には、”偶然”ということがないことを教えられます。すべての出来事の背後には神の摂理と導きがあるのです。私がクリスチャンになった最初のきっかけは、ほんとうに些細な出来事であったのですが、あとで考えてみると、あれは間違いなく神の導きであったのだと確信することができました。神の導きとか摂理は、あとになって、初めて分かるということが度々あります。そして、この箇所の記事で、イエス様は、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは。あなたの家に泊まることにしてあるから。」(5)と、イエス様がおっしゃったのには、深い意味があります。「‥‥泊まることにするから」ではなく、「あなたの家に泊まることにしてあるから。」と言われたのです。これは、すべてをご存じのイエス様は、ザアカイの家に泊まることを最初から計画しておられたことを意味しています。

 そして、イエス様はその晩、ザアカイの家に招かれてお泊りになられ、親しくお交わりになられました。宇宙を創造された偉大な神の御子イエス・キリストが、罪深い一介の取税人の家にお泊りになられたことは何と驚くべきご謙遜ではないでしょうか?そして、ザアカイとねんごろにお交わりになられたイエス様の愛によって、ザアカイの頑固で冷たい心は、太陽の熱に解かされる氷のように砕かれ、自らの罪を悔い改めて、イエス様を救い主として受け入れ、その日の夜に回心したのです。神から迷い出て孤独になり、生きる意味を見失ってしまった一人の人間が、神の御子イエス・キリストに見出されて、愛なる神様のみもとに帰り、その懐(ふところ)に抱かれて平安を見出し、その孤独な人生からも解放されたたすばらしい見本がここにあります。

 彼は、お金もちになって、自分をいじめた奴らを見返してやろうと考えたのかもしれません。しかし、彼の空虚な心はお金によっては決して満たされることはありませんでした。彼はユダヤ人でしたが、ローマの手先となって税金を取り立てていたので、売国奴のように言われ、大人になっても、やっぱり孤独で、だれも友だちになってくれませんでした。彼の心は満たされず、孤独感から解放されることはありませんでした。でも、イエス様は彼の孤独な心の中をすべて知っておられました。また、同時に、彼が罪を犯していたこともご存じでした。その日、ザアカイはイエス様を自分の家に招き、悔い改めて、イエス様を救い主と信じて救われたのです。あなたも、このザアカイのように、キリストを信じてに神に帰えり、孤独な人生から解放されて下さい。イエス様は、あなたの救い主となってくださるばかりでなく、真の友となってくださる方なのです。

●「人の子(キリスト)は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカの福音書19:10)。 

●「わたし(キリスト)は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイの福音書9:13)。

●「わたし(キリスト)は、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」(ヨハネの福音書14:18)。 

●「見よ。わたし(キリスト)は、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28:20)。


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★母性愛と偉大な神の愛

2007-05-09 | 「神の愛について」


 
  江戸時代のことですが、ひとりの子供をめぐり、私が実の母親だと主張する二人の女が奉行所に訴えるのです。これに対して、裁判官は真偽を見極めるために、女たちに、子供の腕を両側から引っ張り、引き勝ったほうが、子供の親とすることにすると言いました。二人の女は、何としてもその子を手離したくないという一心で、両側から必死に腕を引っ張りますが、子供は痛みに耐えかねて、泣き出してしまいました。それを見た片方の女は泣きじゃくる子供の姿に耐え切れずに、とうとう子供の手を放してしまいます。子供を奪い取った女は、自分が勝ったと喜んだのですが、この裁判官は、手を放した女こそ真の母親であると裁定を下したのです。真実の親だからこそ、泣く子を哀れに思い、手を放したのだと、判断したのです。

 江戸町奉行大岡越前守忠相(ただすけ)の温情篤く、人情味に溢れる裁きはよく知られていますが、上に記したのは、その中の一つの感動的な話です。今でも、公正で人情味のある裁定や判決が下されるときに、使われる、俗に言う「大岡裁き」のひとつで有名な逸話となっているものです。
ところで、旧約聖書の中に、これと非常によく似ている実話が記録されてあります。イスラエルの初代の王ソロモンは、神に知恵を求めて、すばらしい知恵を与えられた王ですが、神様から特別な知恵が与えられていたソロモン王の知恵と思慮に満ちた裁判が記されています。これは、列王記第一の3章に記されている有名な実話であり、読む者に非常に大きな感動と教訓を与える話です。

 よこしまな生活をしていた二人の女性が同じ家に住んでいたのですが、あるとき、王のところに来て互いに訴えました。一人の女が「わが君。‥‥‥私はこの女といっしょに家にいるとき子どもを産みました。ところが、私が子どもを産んで三日たつと、この女も子どもを産みました。‥‥‥ところが、夜の間に、この女の産んだ子が死にました。この女が自分の子の上に伏したからです。この女は夜中に起きて、私が眠っている間に、私のそばから私の子を取って、自分のふところに抱いて寝かせ、自分の死んだ子を私のふところに寝かせたのです。朝、私が子どもに乳を飲ませようとして起きてみると、どうでしょう、子どもは死んでいるではありませんか。朝、その子をよく見てみると、その子は私が産んだ子ではないのです。」 と言いました。

 ところが、もう一人の女が訴えて言いました。「いいえ、生きているのが私の子で、死んでいるのはあなたの子です。」と。先の女はまた言いました。「いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子です。」と。このようにして、二人の女たちは互いに一歩も譲らず、王の前で言い争ったのです。そこで王は、彼女たちが互いにこれは自分の子だと言っている姿を見て、「剣をここに持って来なさい。」と、大変驚くようなことを命じたのです。剣が王の前に持って来られると、王は何と、次のように言い放ったのです。「生きている子どもを二つに断ち切り、半分をこちらに、半分をそちらに与えなさい。」 と。これは、一体、何という恐ろしい非情な命令ではありませんか。

 すると、生きている子の本当の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言いました。「わが君。どうか、その生きている子をあの女にあげてください。決してその子を殺さないでください。」しかし、一人の女は、「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください。」と言ったのです。そこでソロモン王は宣告を下して言いました。「生きている子どもを初めの女に与えなさい。決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親なのだ。」 と。イスラエル人はみな、王が下したさばきを聞いて驚嘆し、王のうちにある神の知恵を知って神を崇めたのでした。このように非常に難しい裁判を、ソロモン王は、知恵を用いて難なく裁いたのです。

 ソロモンは、母親の「母性愛」がいかなるものかを知っていたので、その母性愛という本能に訴えたのです。ソロモンがその子どもを剣で二つに断ち切るようにという恐ろしい命令を出して、彼女たちがどのような反応を示すかをじっと観察していたのです。そして、すぐに、どちらがその子どもの真実の母親であるかが明らかになったのです。その子どものほんとうの母親は、自分の子どもが苦しみを受け、いのちを断たれるのを見るよりも、自分が一生苦しむとしても赤ん坊を(手放して)失った方がいいと思ったこのです。しかし、もう一人の婦人は、盗んだ赤ん坊がほんとうの母親に返されるよりも、むしろ子どもが死んだ方がいいと思うほど、その婦人に妬みを覚え、また、その赤ん坊を愛していなかったことは明らかです。

 これは、ソロモン王の何と賢明で、明敏な裁きではないでしょうか。ことばだけで分からないことも、問題の核心に触れる危機がおそうとき、真実と虚偽が識別されることも教えられます。いずれにしても、ソロモン王にこのような知恵を与えたのは、愛に満ちた神であり、母親にこのような母性愛を与えたのも神なのです。この箇所を読んで、真の愛とはいかなるものかを覚えさせれます。神の前に虚偽は必ず明らかになる時が来ることも教えられます。このような難しい問題の訴えにも冷静に判断し、それを正しい方法で対処したソロモンの知恵にもすばらしいものがあり、深く考えさせられます。ここを読んで何の感動も覚えない人が果たしているでしょうか。

●「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(イザヤ書49:15)。

 これは、紀元前750年位に書かれたイザヤ書のことばですが、「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。」と、自分のお腹を痛めて産んだわが子に対する母親の愛がいかに大きなものであるかをはっきりと教えています。シェークスピアのことばに「女は弱し、されど母親は強し」ということばがありますが、確かに女性は結婚して子供を産み、母親になると、わが子を守るために非常に強くなるのです。「母の愛は、世界を敵に廻しても、わが子のためなら自分のいのちまで捨てる。」というそのような強さを感じます。わが子のためなら自分のいのちまでも差し出す覚悟があるのですね。

 しかし、この世で最も美しく気高いと思われていた母親の愛でさえも、最近は何かおかしくなって来ました。自分のお腹を痛めて産んだわが子を、虐待して殴り殺したり、高い橋から川に投げ捨てたり、食べ物を与えずに放置して死なせたり、昔は考えられなかったような悲しい報道が目立っています。「たとい、女たちが忘れても、このわたし(神)はあなたを忘れない。」との聖句は、そのような愛の冷えた時代が来ることを、神様は2,700年も前に予知していたかのようでもあります。しかし、このようなことは、最近に始まったことではなく、旧約聖書を読むと、自分たちの住む街が敵に包囲され、兵糧攻めに会って、極限の空腹の状態になったときに、母親が自分の子を煮て食べるというぞっとするような恐ろしい話が記録されています。Ⅱ列王記6:24~29参照。 
 
 しかし、母親が万が一、あなたのことを忘れることがあっても、神はあなたを忘れることはない、と聖書は語っています。先ほどの聖句の中で、「たとい、女たちが忘れても、このわたし(愛なる神様)はあなたを忘れない。」と言っています。昔も今も、女性が自分の産んだ子どもを忘れることがある可能性を示唆していますが、神は決してご自身がお造りになられた人間をお忘れになることはないのです。もし、一瞬でも神があなたのことを忘れて、心臓を動かすのを忘れたならどうでしょう。あなたは、今日生きていることはできません。太陽の熱と光をこの地上に降り注がせるのを止めたら、あなたは、今、生きていることはできないのです。あなたは、日々神に生かされている存在なのです。
 
●「天の父は、悪い人の上にも良い人にも、太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも、雨を降らせてくださるからです。」(マタイの福音書5:45)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

 
 神様の愛は、何と偉大でしょうか。私たち人間はみな神から離れ、自己中心の罪の中に生きています。人類の始祖アダムとエバが自分勝手な罪の道を歩み始めてから、数千年以上過ぎましたが、今日も人類は坂を転げるようにまっしぐらに滅びへの道を突き進んでいます。このまま突き進んで行くと、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」(ヘブル書9:27)とあるように、人類は間違いなく、永遠の地獄に向かっているのです。でも、愛なる神様は、私たちひとりひとりを救うために、ご自身の御子イエス・キリストを救い主としてこの世にお遣わしになられました。そして、33年間の罪のない聖よいご生涯の後に私たち罪人の身代わりとなって、十字架につけられ、死なれ、墓に葬られ、三日後に復活されました。この方を個人的な救い主として信じるなら、どなたでも永遠のいのちを得ることができるのです。  

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★ストレスからの解放

2007-05-03 | 「人生の幸せと平安」
           
                      
 今日、私たちは多くのストレスを感じながら生きています。どなたにもそのような経験があると思います。調べてみて分かったことですが、ストレスとは、元来ラテン語でアクセントを強調する、高めるという意味があったそうです。---------これが17世紀に物理学に取り入れられて、物体に加えられた外部からの圧力を「ストレス」と言うようになったのです。ストレスによって、物体は自分の弾力性によって緊張したり、歪んだり、変形したりします。この現象が生体にも起こることを生理学的に説明したのがハンス・セリエという人だそうです。

 彼は、動物に寒さや恐怖を与えると、延髄と大脳皮質の間にあって体の感覚と自律神経を維持する機能を持つ間脳から、脳下垂体に刺激が伝わり、そこから分泌された下垂体ホルモンが副腎を刺激して、ステロイドやアドレナリンの分泌を増加させることを証明しました。このアドレナリンは交感神経を興奮させる作用があるので、それによって血管が収縮して顔が青くなり、血圧が上がり、心臓の動悸が早くなり、筋肉が緊張してふるえが起こるのです。これがストレスによって起こる生体の緊張状態です。また、眠れなくなったり、いらいらしたり、落ち込んだりするというや精神状態も、ストレスによって起こるというのです。

 では、ストレスを引き起こす原因にはどのようなものがあるのでしょうか。大きく二つに分けられるようです。一つは、人間関係の消失や破綻です。たとえば、配偶者の死、離婚、家族でのトラブル、職場でのトラブルなどが上げられます。二つ目は、生活や環境の激変です。たとえば、単身赴任、転職、職場の配置転換、失業、倒産、リストラ、多額の負債‥‥などが上げられます。これらを別のことばで言えば、今まで信頼していたものや依存していたものを失ったり、疎外されたりした体験、あるいはこれまで身につけて来た知識や経験や力では対処できなくなった体験などが、ストレスの原因になるということのようです。

 その結果、これからはひとりで自分を守り、戦わなければならないという思いから来る不安、恐怖、緊張が、様々な病気を引き起したり、悪化させたりするのです。したがって、「ストレスからの解放」は、言い換えると、ストレスによって生じる不安や恐怖、緊張などからの解放であるということができます。そのために今日では、精神安定剤などの薬物療法、自律訓練法、運動・体操法などのいろいろな方法が用いられています。けれども、このような解決法は、すべて人の知恵や知識によって心身に働きかける方法ですから、限界があります。しかし、これらとはまったく異なる、ストレス解決の方法があります。それは、神様のちからによって、たましいと霊に作用するストレス解決法です。

●「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。」(詩篇55:22)。 

 これは、かつて、ダビデが書いた詩篇の中の一節です。彼は自分の敵だけでなく、信頼していた味方、しかも親友からもいのちを狙われたり、様々なストレスを受け、その結果恐れおののき、戦慄が身を包むという思いを味わいました。しかし、そのときダビデは自分の力で戦ったのではなく、生きて働いておられる神様に助けを求め、神様に身をゆだねました。そして、ダビデは自分の経験を通してこのように告白し、神にゆだねることを勧めているのです。彼は、神様を心から信じ、その主なる神様に全き信頼をおいたのです。彼は、自分の体験から、神様は真実な方であり、より頼む者を決して見捨てることなく、苦しみ、恐れ、悩みから救ってくださると確信していたのです。

 それでは、神様に信頼するとはどういうことでしょうか。私たちはある人に信頼するときには、その人の何に信頼するでしょうか。その人の社会的地位にでしょうか。財産にでしょうか。権力にでしょうか。それとも、知識にでしょうか。私たちがある人をに信頼するのは、そのようなものにではなく、その人の誠実さ、真実さなど、すなわち、その人の人格に信頼するのではないでしょうか。しかし、神様は私たちの目には見えず、触れることもできず、人間の五感では存在を確かめることのできない方です。ですから、人は目に見えない神様が人格を持っておられるかどうかということを考えようともしないのです。

 まして、そのような神様に信頼するなどというこということは、愚かしいことのように思われる方がいたとしても当然かもしれません。確かに神様は私たち一人一人には見えません。けれども、私たちは神様が、私たち一人一人に何をしてくださったかを知ることによって、神様の人格(personality)を知ることができます。神様が私たち一人一人に何をしてくださったかは、聖書にはっきりと書かれています。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。
 
 神様は、私たち一人一人を、罪による滅びから救い出して、永遠のいのちを与えるために、神の御子イエス・キリストをこの世の遣わしてくださいました。そして、御子イエス・キリストは十字架にかかられて罪人である私たちのために身代わりに死んでくださいました。これは、今から約2.000年前に、歴史上に実際に起こったことであり、旧約聖書にも預言されていたことです。神様は、目に見えるかたちではっきりとご自身の愛を私たち一人一人に表してくださいました。

●「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。」 (ヨハネの福音書20:19~20)。

 イエス様が捕らえられて十字架につけられたことは、弟子たちにとっては大変なストレスであったことは間違いありません。日曜日の夕方のことです。弟子たちは、信頼していた主イエス様を失い、その上、自分たちも捕らえられるのではないかという不安におびえ、戸を閉めて家の中に閉じこもっていたのです。そこに復活されたイエス様が現われてくださったのです。そして、「平安があなたがたにあるように。」と言われました。弟子たちは、このように復活のイエス様にお会いして初めてイエス様がどなたであるかが分かり、彼らの開かれた霊には、イエス様から平安が与えられ、それによって恐怖が取り除かれ、心から喜ぶことができたのです。

 このように、私たちが神様の人格に信頼することは、とりもなおさず神の御子イエス様の人格に信頼することなのです。そして、イエス様は私たちの恐れや不安、苦しみや悲しみを、ご自分も味わってくださるほどの愛の御方なのです。その一例がゲッセマネの園におけるイエス様の祈りにも見られます。

●「そのとき、イエスは彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。』 ・・・・・」(マタイの福音書26:38~)。

 神であるイエス様が、人となって私たち人間が味わうのと同じストレスを味わわれたのは、私たち人間の弱さを知るためであったのです。イエス様の人格とは、このような私たちに対するあふれるばかりの愛とあわれみに富むものです。このような愛と真実そのものの人格をお持ちのイエス様に私たちは信頼するのです。大きなストレスは、私たちに重荷となってのしかかって来ます。しかし、主イエス様は次のように私たちに呼びかけてくださいます。

●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11:28)。
 
 今日も、多くの方が人間関係の破綻や生活環境の激変などから生じる不安や緊張、恐れの重荷を負って悩み苦しんでいます。イエス様はそのような一人一人に対して、このように優しく呼びかけておられます。主イエス様に心から信頼して、助けを求め、重荷を主にゆだねるとき、愛とあわれみと真実に満ちたイエス様は、このみことばの約束通り、私たちを重荷やストレスからも解放してくださるのです。もちろん、クリスチャンと言えども、この地上にある限り、ストレスを全く感じない生活というのはあり得ないのです。でも、ことばでは表すことのできない「平安」が与えられるのです。真の意味では、苦しみ、涙と悲しみ、重荷とストレスから完全に解放されるのは、天国においてであると言えましょう。

●「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。 」(ピリピ人への手紙4:6,7)

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