聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★人体の驚異:血液の働き

2007-04-26 | 「神の存在について」



●「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。‥‥‥すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。」(レビ記17:11、14)。
 
 神のみことばである聖書は「肉のいのちは血の中にあるからである」と言っていますが、血液は確かにそのように呼ばれるだけの価値があります。人間の体をつくっている細胞は、酸素と栄養分を取り込んで、一種の燃焼を起してエネルギーを発生させ、みずからを更新したり、増殖したりして生命を維持しています。この代謝活動のもとである酸素と栄養分を、全身の細胞に送り届ける役目をしているのが「血液」です。この人間の血液のことを調べると、人体に流れている血液は、様々な機能を持っていることが分かります。その血液の働きのいくつかについて考えてみたいと思います。
 
【1】輸送機能。
 日本の国土には、道路が網の目のように走り、輸送用のトラックが毎日のように約1億3千万人もの人々に必要な物資を運んでいます。それと同じように、身体には18万キロメートルもの血管が走り、幾千兆ともしれない体中の細胞にくまなく、エネルギー源となる必要な栄養素と酸素を送り届け、不要な老廃物と炭酸ガス(二酸化炭素)とを回収し運び去るのです。その中で特に、酸素を運ぶために膨大な数の赤血球が働いています。赤血球は直径7~8ミクロンにすぎませんが、身体の赤血球をすべて一列に並べると、なんと地球をを4周以上も回るほどになるのです。
  
 赤血球の表面は薄い膜で包まれており、その中にヘモグロビン(血色素)という物質があります。つまり、新鮮な動脈血の赤い色は、鉄が酸化すると赤くなるのと基本的には同じもので、酸素が少なくなると、静脈血の黒っぽい色になります。代謝によって生じる二酸化炭素は、静脈血の血漿に溶けたりヘモグロビンに捕らえられたりして、肺に運ばれるのです。しかし、血液中の二酸化炭素は、からだの酸性とアルカリ性のバランスを保ったりする上で重要な働きをしていて、動脈血にも一定の量が溶け込んでいます。したがって、肺内の毛細血管から呼気の中に排出される二酸化炭素は、血中の二酸化炭素の一部に過ぎません。

 血液は体重の約8パーセント、例えば体重60キロの人は約4.8リットルの血液が含まれ、約一分間で全身をめぐっています。血液は一分間に約5リットル、24時間に7,200リットルの速度で、地球の周りの2倍よりももっと長い血管の中を流れていますが、その血液の流れは心臓のドキッ、ドキッという拍動によって行われているのですが、それにもかかわらず、毛細血管の中では、全くなめらかな一様な流れとなっています。それは、心臓がドキッと打つと血管が広がり、打ち終わると血管が縮むようになっているからなのです。 

【2】自衛(防衛)機能
 人間の身体を細菌の感染から守るために、血液はさまざまな兵隊や武器を持っていることをご存じでしょうか。その仕組みを知るとそれは実に驚異的です。その中の白血球は、一種の自衛隊(軍隊)の組織のような存在です。白血球は、血管の中だけでなく、細胞の間を自由に動き、敵を見つけ次第、これに接近し、取り囲み、包み込んでしまい、せん滅してしまうのです。そして、白血球は、免疫作用と大きく関わっていますが、これは非常に複雑な仕組みになっています。

 今体の中のある部分に外傷ができて、その傷が汚れている場合などに細菌軍(病原体)が侵入を開始したとします。するとすぐにその場所に白血球の防衛軍が駆けつけます。白血球は、いつもは一立方ミリに、5.000~9.000個ぐらいですが、細菌が侵入すると、急に10.000ぐらいに増員されるのです。そして、この白血球が細菌を自分の体の中に取り入れて殺して行くのですが、この白血球と細菌との大混戦の結果が膿(うみ)なのです。ある医学生から聞いた話ですが、「腫れ物」とはそこに白血球が集合した結果として生じる物なのだそうです。傷からの病原体の進入直後に、全身へと広がることを防ぐために、白血球が集合して包囲します。これを専門用語で"炎症反応"と呼ぶそうですが、炎症反応には4つくらいの特徴があるとのことです。◆発赤-赤くなる。◆疼痛-痛くなる。◆発熱-熱くなる。◆腫脹-腫れる。 

【3】補修機能。
 これは「血小板」の役目です。人間の血液の凝固と止血の仕組みは、血液の性質の中でも、もっとも神秘的であり、重要なものの一つであると言われています。怪我などによって、血管が破れると、そこから血液が流出しますが、血管の傷口に血小板が集まって、相互に結合してかたまりとなり、白色の血栓を形成して傷口をふさぎ、続いて血液の凝固が起こる仕組みになっているのです。それは、血液中のフイブリノーゲンというたんぱく質が長い線維に変わり、急速に網を張り、その網に赤血球が取り込まれて、赤色のかさぶたがつくられ、出血が止まるのです。また、血小板は、血管などを修復し、補修する働きがあります。

【4】体温調節機能など。
 部屋の温度を一定に保つには複雑な仕組みが必要になって来ます。しかし、人間の身体には、外気に関係なく、体温を一定に保つ機能が備わっているのです。体温が上昇すると、皮膚の中に入り込んだ血管が拡張します。この結果、温度の高い大量の血液が身体の内部から体表に移動します。こうして、体表で放射熱によって温度が失われ、体温が低下するのです。寒い時には、これとはまったく逆の現象が起こります。つまり、体表の血管が縮まってできるだけ多くの熱を体内にとどめるようにするのです。

 また、人間の心の状態と血液には微妙な関連があるということがある書物に書かれてあります。人が何かの悩みや大きな壁にぶち当たって落ちこんだり、心の不安や怒りが増大したりすると、造血機能を示すヘマトクリット値が下がったり、逆に、つとめて笑って心を快活に保つと、異常だった血沈が正常にもどったりするというのです。確かに私たちの命を支えているのは血液によるものです。血液の働きは実に神秘的であり、人間のからだの健康を維持することと微妙に関係しており、血液の不思議を知ることができます。

 被造物の中でも、最も身近なものは、自分自身の体です。人間の体は実に精巧に出来ていることを知らされますが、この血液の働きは、人が生きるために人体で行われているほんの一部の機能の例に過ぎません。他の多くの臓器、神経、脳の働き・・・・・などを調べて行くと、実に神秘的で驚くべきものがあります。私たちが、神(創造者:God)の存在とその英知を認めなければ、これをどのように説明できるでしょうか。進化論や唯物論では、決して説明できません。


●「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」(ローマ人への手紙1:20)。
 
 今回は、このように人体の血液は不思議な力を持ち、不思議な働きをするものであることを考えましたが、もっともっとすばらしいのは、イエス・キリストの血であることを聖書は語っています。人間の肉体のいのちを支えているものは血液なのですが、私たちが霊的な永遠のいのちを得るためには、イエス・キリストの尊い血が流される必要があったという事実なのです。聖書のみことば次のように語っています。どうか、あなたもこの永遠のいのちを得るために、イエス・キリストを信じて、永遠の滅びから救われて下さい。

●「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」 (Ⅰペテロの手紙1:18,19)。

●「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」(エペソ人への手紙1:7)。
 
●「なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」(コロサイ人への手紙1:19,20)。

 
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★聖書の預言と成就

2007-04-16 | 「聖書について」



  私は、聖書は誤りのない神のみことばであると堅く信じている者ですが、その聖書に記されている預言と、その成就について、代表的な二つの事柄をみなさんにご紹介したいと思います。一つは、ユダヤ人に関する預言、もう一つはイエス・キリストに関する預言です。もちろん、他に多くの預言があるのですが、取り合えずこの二つを考えてみたいと思います(聖書では、「預言」ということばは、神のことばを意味しており、必ずしも未来のことを予言することだけを意味していませんが、ここでは、未来に関する予言の意味で使わせていただきます)。

【1】ユダヤ人(イスラエル)に関する預言。 
◆ 離散と迫害 ◆
 紀元前15世紀頃に書かれた申命記28章には、ユダヤ人が神に背くならば、彼らはイスラエルの地から世界中に散らされ、行く先々で迫害に会うことが預言されています。そして、この警告通りユダヤ人がエルサレムでイエス・キリストを十字架につけてから約40年後のAD70年に、ローマ帝国によって滅ばされ、それ以来、ユダヤ人は国を失い、世界中に離散して行ったのです。それからの彼らの生活はどこにいても、迫害と虐殺の恐怖の連続でありました。最も酷かったのは、ナチス・ドイツによる大量虐殺です。この時にはユダヤ人600万人が殺され犠牲者となったのです。それだけでなく、ユダヤ人は約1900年以上の間、迫害を受け続け世界中を流浪することとなったのです。まさに、旧約聖書に預言されていたとおりのことが、ユダヤ人の上に成就したのです。

◆ 帰還と祖国の再建 ◆
 さらに、このユダヤ人については、もう一つのことが預言されていました。紀元前7世紀頃に書かれたエレミヤ書30章には、諸国民の中に散らされ、迫害されたユダヤ人は、今度は必ず、世界中から父祖の地に戻って来て国を再建することが預言されていたのです。紀元1世紀にユダヤ人が散らされて以来1900年間、これらの預言が成就する兆しは全くありませんでした。誰も、世界中に散らされてしまったユダヤ人が中東の地に戻って来て、国を再建することなど想像することもできなかったのは、当然なことだと思います。

 ただ、聖書を注意深く調べた人たちは「ユダヤ人は必ずパレスチナの地に帰還するに違いない。」と信じていました。しかし、多くの人々は、そのようなことを言う人たちの言葉を信じようとはしませんでした。ところが、1930年代になって、ユダヤ人がパレスチナの地への帰還を始め、戦後の1948年には、ユダヤ民族は彼らの先祖の地に独立国家イスラエルを建設し、実に1900年ぶりに復興したのです。通常は、国を失った民族は500年も経てば周囲の民族に吸収されてしまうと言われています。ところが、ユダヤ民族だけは1900年の間、他民族の間に埋没してしまうことなく、ユダヤ民族として生き続けたのです。そして、あらかじめ預言されていたようにイスラエルの国が復興し、聖書の預言通りに世界の歴史は動いてはいるのです。

【2】イエス・キリストに関する預言。
◆ 誕生とご生涯 ◆
 キリストの誕生に関しての旧約聖書の預言をいくつか列記してみますと、ダビデの子孫を通して来られること、ダビデの子孫を通して来られること、処女から生まれること、ベツレヘムという村でで生まれること、一時エジプトに移ること、ナザレという町に住むこと、高貴な人たちがキリストを礼拝すること、定められた時にキリストが来られることなどが預言されていました。また、そのご生涯に関しては、たとえ話によって教えられること、盲人の目を開けたり、その他多くの病気の癒しや奇蹟を行われること、そして、柔和で優しい方であること、支配者たちの憎悪を買い、拒絶されること、友(弟子)の一人によって裏切られること、頬を打たれること、つばきをかけられ、鞭で打たれること、などもイザヤ書(BC700年頃)や詩篇(BC1.000年頃)その他の書に預言されていました。

◆ 十字架の死と復活 ◆
 十字架につけられて死なれることに関してもはっきり書かれていました。悪人(罪人)と共に処刑されること、人々から嘲られること、衣服がくじ引きにされること、十字架上では苦いぶどう酒と酢を与えられること、そして、十字架上で「わが神、わが神。どうして、わたしをお見捨てになったのですか。」(詩篇22:1)ということばを口にされることばも預言されていました。キリストの苦しみの激しさと渇き、その苦しみを耐え忍んで口を開かなかったこと、さらに脇腹を刺されること、その骨が砕かれないこと、葬られる時には、金持ちの墓に葬られることなども預言されていました。墓からよみがえられることと、それが葬りから三日目であることも預言されていたのです。イエス・キリストのご生涯のすべてが、重要な出来事だけでなく、それに伴なう詳細に至ることまで、旧約聖書にはっきりと預言されていたのです。

 旧約聖書には、イエス・キリストの生涯について、約109の預言があります。そして、それらは非常に明確な預言なのです。お考えいただきたいのですが、例えば、ある人が25の預言をしたとしますと、それが偶然に成就する確率は、数学的に計算すると、3.350万分の1となります。ところが、実は主イエス・キリストに関する25の預言は、彼の受けた裏切りと十字架の死と葬りの間の24時間に成就されているのです。ですから、数学的には、この歴史的事実である聖書の預言が単に偶然に起こり得る確率は、3.350万分の1以下でしかないということになります。更に、主イエス・キリストの109の預言が成就していることを考えるならば、それらがすべて偶然に成就し得る確率は、分母が殆ど∞(無限大)に近くなり、確率は限りなく0%に近くなり、偶然に成就することはあり得ないという結論になります。

 これらの事実は一体、何を示しているのでしょうか。それは、「聖書」は明らかに神が人類に啓示された真理の書であり、人類の歴史の背後に神のご計画と導きがあることを明確に証言しているのです。そして、この聖書は、神が天地万物の創造主であること、また、神が目的をもって人間を創造されたこと、人類の始祖アダムが神に対して罪を犯した時以来、すべての人間は神の前に罪を犯し続けており、人間はみな生まれながらの罪人であり、死後に神のさばきを受けなければならないという厳粛な事実を記しています。当然のことですが、死は人間にとって最も重要な問題であるはずです。今、健康な人も、若い人も、お金持ちも、地位のある人も、すべての人は必ず死に直面する時が来ます。そのために備えることは人生において最も大切な問題であるのです。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。


 しかし、神がこの聖書を人類に与えた最大の目的は、神が全人類を愛しておられ、その救い主として、ご自身のひとり子イエス・キリストをお遣わしくださり、御子イエス・キリストは、33年間の罪のない聖よいご生涯を送られたのちに、死後の永遠のさばきから私たちを救うために、身代わりに死んでくださったのち、墓に葬られ、三日後によみがえってくださったことなのです。この御方を自分自身の個人的な救い主として信じ受け入れた人は、罪が完全に赦され、永遠のいのちを受けることができるのです。このような偉大な愛を人類に示すために、神はこのすばらしい聖書という贈り物をくださったのです。
 
●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」(Ⅰヨハネ4:9)。 

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★平安の中に死を迎える備え

2007-04-09 | 「人の死とその備え」




 大正時代にあったことですが、群馬の山間の貧しい村に、おみつさんという少女が住んでいました。おみつさんは、肺病を患い、床に伏していたのですが、悲しそうな顔をすることもなく、その顔はいつも明るく喜んでいるので、家族や近所の人たちは気持ちが悪くなって「キツネにつかれたのだ・・・!。」と言って離れの小屋に移し、キツネを追い出そうとしていぶしをかけました。しかし、おみつさんの喜びに満ちた顔は少しも変わりませんでした。そして、ついにおみつさんは平安に満ちた顔をして、死の時を迎え、息を引き取ったのでした。そして、おみつさんが死んだあと、敷いていたせんべい布団の中から一冊の「聖書」が出て来たのです。そして、家族も近所の人たちも、彼女の喜びと安らぎが「聖書」から来たことを知ったのです。

 私たち人間が、この世に生まれて来る出産の模様は、大体同じです。約280日間母親の胎内で成長を続けた胎児は陣痛と共に娩出され、産声を上げて、この世の仲間入りをします。仮死状態で生まれる場合やその他の例外を除いて、正常分娩の場合の赤ちゃんの生まれ方は大体同じです。------しかし、それに比べて人間の死に方は何と千差万別のことでしょうか・・・・。安らかに大往生を遂げる人もあれば、七転八到の苦しみの後に死を迎える方もおられます。また、交通事故のように急に、突然、何の心の準備もなく死に至る場合もあります。また、癌のように徐々に死に至る場合もあります。

 また、その人の死ぬ年齢によっても、本人にとっても家族にとってもかなりの差を生じるのではないでしょうか。90歳の老人が老衰のために死ぬのと、働き盛りの一家の大黒柱ともいうべき主人が癌で死ぬのとでは、家族に与える影響はかなり差があるように思います。また、幼い子供が病気や事故で死んだ場合の両親や家族の悲しみは計り知れないものがあります。その幼児の親は、悲しみが癒されるまでに何年もかかると言われています。また、昔に比べて最近は死に方も、益々複雑多様化しているように思われます。歩道を歩いていても、一瞬にして車に跳ねられたり、偶然通り魔に会って、瞬時にいのちを失う場合もあります。

 しかし、どのように死を迎えるかより、もっと大切な問題があります。それは、人間は死んですべてが終わりということではないのです。人間の霊魂は不滅であり、死後においても永遠に存在することを聖書は教えています。人間は自分自身の行動に対して責任を持っている高度な存在であることは、誰でも認めていることであると思います。しかし、同時に、その行動と存在の責任を70年か80年の短い人生において、すべて取ることは不可能なのです。これに対して、聖書は人間は単なる高度な霊的存在であるばかりではなく、永遠の存在でもあるがゆえに、その責任を永遠の世界において取らなければならないと明確に教えています。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

 しかし、神は正義のお方であり、聖なる神ですが、同時に愛と恵みに満ちた神でもあるのです。それで、神は罪深い人類の救いのために神ご自身のひとり子、イエス・キリストをこの世にお送りくださり、この御方が十字架にかかって、私たちの身代わりに死んでくださり、また三日目によみがえってくださいました。これは、人知をはるかに超えた偉大なる神の愛であり、驚くべき愛です。この尊い主イエス・キリストをすべての人が自分の個人的な救い主として信じて、永遠の滅びから救われるように神様は望んでおられるのです。 
  
●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「わたし(キリスト)は道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもと(天国)に来ることはありません。」(ヨハネ14:6)。

●「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」 (ヨハネの福音書14:27)。

●「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。‥‥しかり。彼らはその労苦から解き放たれて休むことができる。‥‥」(ヨハネの黙示録14:13)。  

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★キリストの復活の意味は何か

2007-04-02 | 「キリストの復活」



 みなさん。お元気でお過ごしでしょうか。早いもので、もう4月に入りましたね。本州では、もう桜が満開の所もあるようですが、北海道では、例年通りであれば、桜が咲くのは5月になります。さて、二回続いて、「キリストの復活」について書きましたが、もう一度だけこの幸いな事実について別な観点から考えてみたいと思います。今回は、「キリストの復活の意味は何か。」ということについて、聖書に基づいて簡潔に記してみたいと思います。

【1】キリストの復活は、聖書が神のみことばであることの証拠です。 
 キリストの十字架と、三日後に復活されることについては、キリスト誕生の幾世紀も前に予告されていた事実です。その予告通りになったことは、聖書が間違いなく、創造者なる神が啓示された真理の書であることを証明しています。下記の聖句の「聖書」というのは、旧約聖書のことを示しています。
●「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。」(Ⅰコリント15:3~6)。
 
【2】キリストの復活は、神の実在を疑う予知なく証明しています。
●「あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼(キリスト)に栄光をお与えになられた神をキリストによって信じる人々です。」(Ⅰペテロの手紙1:21)。
 死んだ人間が、どんなことがあっても自分自身を死人の中から生き返らせることはできません。また、いかなる人も三日間も死んだ状態にあった人を生き返らせることは不可能です。どうしても、人間より偉大な何者かがキリストをよみがえらせたと考える以外に説明ができません。もちろん、その何者かというのは、人間にいのちを与えることのできる神ご自身以外には考えられないことです。

【3】キリストの復活は、明らかにキリストの神性を示します。
●「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。 」(ローマ人への手紙1:3,4)。
 もし、この世界にいのちを自由にすることのできる方、すなわち死んで復活することのできる方がおられるならば、その方は正(まさ)しく神であるということができます。偶像の神々(god)ではなく、神(God:創造者)です。どのような偉大な宗教家も自らの復活について語った人はおりませんし、また、当然ながら復活について実証した人もおりません。しかし、ただ一人イエス・キリストだけは比類のない御方です。キリストは生前中に何度もご自分の十字架の死と復活について予告されました。そして、その通りにすべて成就したのです。

【4】キリストの復活は、キリストの無罪性を証明しています。 
●「罪の支払う報酬は死です。」(ローマ人への手紙6:23)。

 人間の「死」は、人類の始祖アダムの罪の結果入って来たものです。そして、全人類は必ず死ななければならない存在となりました。上記のみことばの通りです。キリストが死者の中から復活されたことは、明らかに、キリストに罪が無かったことを示しています。キリストは、罪の贖いのために十字架上でそのみわざを成し遂げられた方であり、今は神の右に着座されておられる方です。もし、キリストに少しでも罪があれば、決して復活されることはなかったはずです。
●「‥このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。」(ヘブル人への手紙7:26)。

【5】キリストの復活は、キリストが救い主であることの証拠です。 
●「神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方(キリスト)が死につながれていることなどあり得ないからです。」(使徒の働き2:24~32)。

 旧約聖書に預言されていたことが、イエス様において成就したことは、イエスがキリスト(メシア)であり、救い主であることの明らかな証拠です。
●「彼らは、イエスがよみがえらなければならないことをまだ理解していなかった。」(ヨハネの福音書20:9)。

【6】キリストの復活は、キリスト者が神の前に義とされることを保証します。
●「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ人への手紙4:24,25)。
 キリストは私たちの罪のために死なれました。そして、その死は、私たちの罪に対する完全で十分なさばきを受けてくださったがゆえに、神はキリストをよみがえらせてくださったのです。もし、キリストの復活がなかったならば、私たちの罪は赦されず、まだ罪の中にいることになります。そうであれば、罪が赦されているという保証は何もないことになります。
 そして、保証のないものを信じることは愚かなことです。キリストの復活こそ、間違いなく、信者が神の前に義(正しい者)とされ、救われたことを保証するものなのです。いろいろな宗教で、「死んだら極楽に行きます!」とか、いろいろなことを言っています。しかし、それを保証する人は誰もいないのです。また、それを保証する何ものもありません。キリストを信じれば確かな救いの確信が持てるのは、キリストの復活によって保証されているからです。ですから、クリスチャンにとっては、殉教することをも恐れることはないのです!

【7】キリストの復活は、信者(クリスチャン)の復活の保証です。
●「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(Ⅰコリント人への手紙15:20)。
●「神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。」(Ⅰコリント人への手紙6:14)。

 聖書は、キリスト信者は必ず復活し、永遠に生きるのであると明言しています。そして、キリストの復活がそれを保証しているのです。これは、確かな希望を信者にもたらします。死を恐れ、墓を見つめながら生きて行く人生の空しさは、口には出さなくとも、誰でも知っていることではないでしょうか。神様は、キリストの復活によって、彼を信じる者の復活を保証してくださり、希望に満ちた人生に私たちを招いておられるのです。

【8】キリストの復活は、キリストが悪魔に勝利した証拠です。
●「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル人への手紙2:14)。
●「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」(Ⅰコリント15:55)。

 悪魔が人類にもたらした最大のものは、人類の死です。死こそ、人類の最大の敵であると言っても過言ではありません。その最大の敵を滅ぼすためにキリストの十字架と復活があったのです。

【9】キリストの復活は、キリストの再臨を保証します。
●「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」(ピリピ人への手紙3:20,21)。
●「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(Ⅰテサロニケ4:16,17)。

 クリスチャンが救われても、まだ罪の世に住んでおり、罪の性質をもって、生きています。しかし、キリストの再臨があって、信者をご自身のもとに引き上げてくださる時が来れば、そのすべては過去のものとなります。ですから、クリスチャンは、キリストの再臨を唯一の祝福された希望として、待ち望んでいるのです。

【10】キリストの復活は、罪人のさばきが必ずあることを確証します。
●「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人(キリスト)により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」(使徒の働き17:31)。

 聖書は、そのさばきの日が神によって定められていることをはっきり告げています。これは厳粛なことです。ある人は「愛の神が人をさばくはずがない。」と嘲笑します。しかし、神は愛のお方であると同時に義なる方なのです。義なる神が人間の罪をそのまま放任することはありません。そして、キリストの復活がこれを確実なものとして確証しているのです。どうか、キリストの十字架と復活の福音を信じて、永遠のいのちを、是非、ご自分のものとされますようにお勧めいたします。

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