聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★ある方の質問へのお答え 

2007-06-25 | 「キリストの復活」

 みさなん。お元気でお過ごしでしょうか。最近、私のブログの記事を読まれたある方(Mさん)からメールをいただきました。初めにこの方を簡単にご紹介しますと、Mさんはクリスチャンの両親の元に生まれ育ち、幼いころから教会に通い、聖書に書かれていることはすべて事実だと信じていたそうです。ところが、Mさんは成長するに従い、いろいろと疑問が増えて来たそうです。そして、聖書に書かれていることがすべて事実であるとすれば、つじつまが合わないことが多過ぎると思うようになり、ついに信仰を捨ててしまったそうです。しかし、信仰を捨ててからもさらに疑問は増える一方であるというのです。今は教会とはまったくお付き合いがなく、両親とも絶縁状態だということです。それで、だれにも相談する方がおられないので、私のサイトを見て、ご相談くださったというのです。真面目なご質問なので、私も真面目に誠実にお答えしたいと思います。

 ====さて、最初に申し上げておきたいことは、すでに本人のご意志で、ご質問の内容をブログに公開してくださって答えてくださってもよろしいですということですので、ご了承下さい。編集の都合上、Mさんのご質問の要旨を簡略にまとめて書きますが、私の復活に関する記事を読まれての疑問(質問)を書かれたものです。その疑問点の要旨は、復活したイエスが姿を見せたのは、自分の弟子たちやマグダラのマリア、そして500人のクリスチャン(兄弟)など、イエスの「信者」だけではありませんか。なぜ復活したイエスはポンテオ・ピラトのもとに現れなかったのでしょうか。他に、イエスを裁いた大勢の人々、処刑に携わったローマの兵士など、そういう信者でない「否定派」の人々の前に現れなかったのは何故ですか。復活したイエスが会ったのは自分の信者だけで、否定派の人々前に現れていないのは矛盾していませんか。

 それに、イエスが昇天するまで40日も地上にいたのに、その間、イエスは一体何をしていたのでしょうか。そんなに長い間地上にいたなら、否定派の人々にも多くの目撃証言があるはずです。もしも、大勢の群集の前で死刑になった人が蘇って街を歩いていたら、誰もがびっくり仰天するはずです。ピラト本人も復活したイエスに会っていたか、少なくとも復活の噂は多くの人から耳にしていたはずです。イエスの復活の話は、「信者だけ」によって作られた話としか思えません。もし真実なら、信者でない否定派の人々の前にも現れているはずです。否定派の前に現れなかったのはおかしいと思いませんか。‥‥‥概要は、大体このようなご質問でした。====

 お答えする前に、まず、これはあくまでも信仰の問題であり、信じるか信じないかは、全く本人の自由であり、これはだれからもその自由を拘束されるものではないということをご承知下さい。私は、どなたとも論争したりするのを好みません。私は、聖書は100%神が啓示された神のことばであると信じる者として、聖書の真理の福音を確信してブログによって発信しています。私は自分が確信していないことを他人に伝えたり、発信するつもりはありません。もし、私が神の真理でないことを、神からのメッセージであるかのように伝えるなら、真理を曲げて伝えることになりますので、私は神に敵対する大嘘つきということになります。ですから、私はあなたに対しても、自分の意見ではなく、聖書に基づいてお答えしますので、ご理解下さい。

【1】まず、最初に知っていただきたいことは、聖書には実際にあった事実をすべて記している書物ではありません。神が記述する必要があると認めたことだけを記しています。
★聖書には次のような聖句があります。

●「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書き記すなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。」(ヨハネの福音書21:25)。 
 イエス様がこの地上で行ったことを全部書き記したなら、世界中の図書館を集めてもその記録した書物を入れることはできなかったと思います。ここでいう「世界」は何を意味しているか、私は分かりませんが、この聖書記者が言わんとすることは理解できるはずです。この記述は大袈裟に書いたものではなく、その通りであると私は信じています。ですから、聖書に書かれていないことは、起こらなかったという結論にはなりません。復活後、イエス・キリストは、主に弟子たちに会ったことを記録していますが、その他の人に会わなかったというように断言するのは間違いであると思います。

【2】イエス様の弟子たちや主に従っていた女たちは「肯定派」であり、ポンテオ・ピラトや、ローマの兵士たちを「否定派」という分け方は果たして正しいでしょうか。私はそのようなことは聖書に根拠がないと思います。

 イエスを裁いたローマ総督ピラトは、三度も「この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。」(ルカの福音書23:4、15、23)というようなことを言って、彼は何度もイエスを釈放しようと努めています。けれども、彼は自分の今の地位や立場を失うのを恐れ、自己保身のために、イエスを十字架につけるように要求したユダヤ人たちの圧倒的な声に敗北し、妥協して良心の呵責を感じながら、彼は「イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた」(ルカ23:25)のです。ピラトは、イエスの復活を否定していたわけではなく、肯定していたわけでもなく、ある意味で、ユダヤの宗教的なことなどに関してはどうでもよかった「無関心派」であったと言っていいでしょう。現代も大部分の人はそうではないかと思います。

 また、イエス様の12弟子たちやその他の弟子たちは、最初からイエスをキリスト(罪からの救い主)と信じていたわけではありませんでした。その中には、イエスを裏切ったイスカリオテのユダもいました。12弟子も、イエス様の計り知れないみ心とご計画によって選ばれたのですが、最初から信者(クリスチャン)であったわけではありません。イエス様が、弟子たちに、ご自身の十字架と復活について予告された時に、イエスの側近の一人であったペテロは、イエス様を引き寄せて、いさめ始め「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」(マタイ16:22)と語っているのです。もちろん、ペテロはその少し前に「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(マタイ16:16)と告白しています。
 
 しかし、彼は正しい意味で理解して告白したのではなく、ただ単に、ローマ帝国の支配からユダヤを解放するメシヤとして認めたに過ぎないのです。他のユダヤ人も、キリスト(救い主)については、殆どがその程度の理解しかありませんでした。ですから、キリストが、ご自身の十字架の死と復活について予告された時、ペテロはその直前の信仰告白とは裏腹に、非常に驚いたわけです。他の弟子たちも、同様でした。イエス様は、三度も予告されたのに、キリストの復活など信じている弟子は一人もいませんでした。イエスが逮捕された時は、弟子たちは、「みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。」(マルコ14:50)のです。もし、ほんとうに信じていたら、なぜ逃げる必要があるでしょうか。ですから、彼らは、最初はあなたが言うところの「信者」(肯定派?)ではありませんでした。

 また、実際に、イエス様の十字架の死後三日目の復活された時に、弟子たちが復活を信じていたなら、早朝に墓に急いで、イエスの復活を待っていたはずですが、弟子の中でだれひとり、信じている者はいなかったので、日曜日の朝、墓に急いだ者は皆無だったのです。複数の女たちが、日曜日の早朝、イエス様のご遺体に防腐のために油と香料を塗りに行ったのですが、墓からイエス様のご遺体が無くなっているのを知らせた時も、弟子たちは最初は、なかなか信じようとはしませんでした。あなたは、すでに聖書を何度も読まれたと思いますので、いちいちその箇所を示しませんが、お分かりのことと思います。ですから、このような弟子たちは信者(クリスチャン)であり、肯定派ということが正しいでしょうか?詳細について書くスペースがありませんが、弟子たちが真の意味で信者になったのは、キリストの復活があって、その後の聖霊降臨によって、真に信じる者と変えられたのです。

【3】あなたが言うところの最大のの「否定派?」は、実はユダヤ人の指導者たちであり、彼らがイエスを妬み、憎しみを抱き、十字架に付けたのです。

 そして、その先頭に立って、イエスに反対し、信者を迫害していたのは、有名なあのサウロ(のちのパウロ)であったことはあなたもご存じのことと思います。あなたは、「イエスが昇天するまで40日も地上にいた」と書いていますが、これは、ルカが書いた使徒の働き1章3節にはっきり記されていますね。あなたは、そのルカが書いた「使徒の働き」を信じてそれを引用されたのだと思いますが、その同じ「使徒の働き」の9章をご覧下さい。そこには、キリストに猛烈に反対し、クリスチャンを迫害していた最大の敵とも言えるパウロに、栄光の姿の復活のキリストが現れているのです。

 そして、パウロの人生はこの時から一変して、キリストの迫害者から、キリストを大胆にべ伝えるキリストの伝道者に変えられたのです。そして、新約聖書の手紙は、「ローマ人への手紙」から始まって、「ユダの手紙」まで全部で21ありますが、その中の少なくとも13は、パウロが書いたものです。ヘブル人への手紙の著者は明確でありませんが、おそらくパウロであろうと思われます。もし、そうだとしたら、14はパウロが書いたことになります。もし、復活がないとしたら、これをどのように説明できるでしょうか。ですから、あなたが言うところの「否定派」に、復活のキリストが現れなかったというのは、事実ではありません。私は、キリストの復活を示す証拠を一つ上げなさいと言われたら、躊躇せず「パウロ」の名前を上げると思います。

【4】「イエスが昇天するまで40日も地上にいたのに、その間、イエスは一体何をしていたのでしょうか。」というご質問ですが、聖書にはっきり書かれています。
 
●「イエスは苦しみを受けた後、40日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」(使徒の働き1:3)。

(1)弟子たちに、未来の神の国のことを語っていました。
(2)何度も弟子たちに現れて、数々の証拠をもって、ご自分が生きていることを弟子たちに示されました。なぜでしょうか。少なくても三回も、弟子たちに復活について予告したのに、全く覚えてさえいなかった鈍い弟子たちです。ですから、繰り返し繰り返し、現れてご自身が生きていることを彼らに示す必要があったのだと思います。一回か二回現れても、弟子たちの中に「いや、あれは幻に過ぎなかったのだ!」と言う人が現れるかもしれません。ですから、彼らに強い確信を持たせる必要があったのだと思いますが、いかがでしょうか?

 前途多難なその後の、使徒たちの歩みを考える時に、そのような強い確信はどうしても必要であったのではないでしょうか。弟子たちに、そのような確信を持たせ、訓練するためには、40日でも足りないくらいです。そして、その昇天の10日後に、あの聖霊降臨(ペンテコステ)があったのです。聖霊に強められた使徒たちは、人を恐れず、益々大胆にキリストの復活を宣べ伝えたのです。あなたが信じて引用された使徒の働きの中で、使徒たちが宣べ伝えたメッセージの中心のテーマは、「キリストの復活」です。もし、キリストの復活がなかったとしたら、どうしてそのように殉教するまでに、福音を証しできるでしょうか。弟子たちは、その後の働きと寿命は違いますが、みな殉教して行ったのです。

【5】「イエスの復活の話は、信者だけによって作られた話としか思えません。」と、あなたは言われます。

 しかし、イエス様が復活について語ったとき、弟子たちのうちだれ一人として、信じていなかった彼らが、どのようにして、そのような「作り話」を考え、そのウソだと分かっていることのために、命を捨てるまでに、熱心になれるでしょうか。もし、あなたがその立場だったら、その嘘と分かっていることのために、命をを賭けるほどに熱心に伝道できるでしょうか。復活を信じない方が、信じるよりも、はるかに多くの矛盾を抱え込むことにならないでしょうか。私個人のことを言えば、キリストの復活は、自分の信仰において、何の妨げにも躓きにもなりません。却って、キリストの復活がないと仮定したら、多くの矛盾点が出て来て空しくなるばかりです。書けばきりがありませんが、要するに、これは信仰の問題であり、否定したい人は、どんな理由でも持って来るのです。

【6】「なぜ復活したイエスはポンテオ・ピラトのもとに現れなかったのでしょうか。」とのご質問ですが、現れたか現れなかったか、私は分かりませんが、現れないとしても何の矛盾もありません。
 
 イエス・キリストは、復活されたあと「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」(マルコの福音書16:15)と、弟子たちに命じられたのです。全世界にキリストの十字架と復活の福音が宣べ伝えられることはが、キリストの求めておられることです。なぜ、ピラトに現れる必要があるでしょうか。ピラトに何度か現れたとしても、ローマ総督の彼が世界中に伝道に出かけたことをあなたは想像できますか。人間は、自分に関心のないことや都合の悪いことは、賄賂を使ってでも、その真理を曲げようとするのです。マタイ28章を読むとそのことが分かります。

 あなたは、「信仰を捨ててからもさらに疑問は増える一方である。」とおっしゃっておられます。神を信じるのを止めて、心が平安になったという人に、私は会ったことがありません。益々、不安と恐れとが増すばかりです。そして、人生に絶望的になってしまう方が多いのです。どうか、あなたの人生は、あなた自身がお決めになられるのですが、素直な気持ちで、聖書のみことばを受け入れ、イエス様を信じて、神に立ち返ってくださることを切に望みます。私は、この文章を纏めるのに多くの時間を費やしました。どうか、その時間が無駄にならないことを祈ります。神様は、あなたのことを忘れずに愛していますよ。私があなたにお会いしたのも、神様の導きかもしれません。どうぞ、主の恵みを無駄にしないでくださいますようにお祈りしています。
(尚、このお答えに納得がいかなければ、再度ご質問くださっても結構です。何度でもお答えいたします。今のところ、そのような再度のご質問はございませんが・・・・。)

●「もし、私たちがこの世にあって、キリストに単なる希望を置いているだけなら(復活を信じないなら)、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」(Ⅰコリント15:19)。  

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」

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★復活されたキリスト

2007-06-21 | 「キリストの復活」

                  

 主イエス・キリストの復活ほど、人生に真の希望を与えるものはないということを私は堅く確信しております。この世の中のすべてのものは、移ろいやすく、すべてが古くなり、やがて消滅して行くのです。人も物もみなやがて朽ちて行くのです。ところが、イエス・キリストは、十字架の上で死なれ葬られたのですが、その聖よいお身体(からだ)が朽ち果てるのを神は許されないで、ついにその墓から蘇(よみがえ)らされたのです。それは、まさしく、長い時代(旧約時代)を通して、神が預言して来られたことの成就であったのです。そしてまた、キリストご自身がその三年半の公生涯において自らの復活を預言されていたのですが、そのことが現実に起こったのです。

(1)旧約のキリスト復活に関する預言。

●「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」(詩篇16:10)。
 
 この聖書の箇所は、新約時代に、あの使徒ペテロがキリストの復活を預言するものとして引用しています。この預言が成就したことを、あの使徒ペテロは、ペンテコステ(五旬節)の日に力強く語ったのです(使徒の働き2:22~29をご参照ください)。

(2)イエス・キリストが、ご自身の復活を預言したことば。  

●「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」(マタイの福音書16:21)。  
 
●「彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。『人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。』すると、彼らは非常に悲しんだ。」(マタイの福音書17:22,23)。
●「さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。『さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。』 」(マタイの福音書20:17~19)。
 

 このように、主イエス様は、弟子たちに少なくとも三度、ご自身のよみがえられることを預言されたのですが、それがそのお言葉通り、実現したのです。普通の人は、そのようなことを適当に(また、でたらめに)預言したとしても、そのとおりに復活することなどできるはずがありません。しかし、イエス・キリストは、神の御子であり、救い主であることをご自身の復活によって、はっきりとお示しになられたのです。 

 ところで、聖書に死が人間の世界に入って来たのは罪の結果であると教えています。つまり、神への不信仰、すなわち罪が私たちの人生に死をもたらしたことを聖書は告げています。ところが今や、キリストが十字架の上にてその罪の力を打ち破られ、罪に勝利されたのです。つまり悪魔の力を打ち破られたのです。ですから、もはやキリストは死の中にとどまることができませんでした。皮の固い木の実でも一旦地の中に埋められると、その固い皮を破って芽が出て来るのです。それはなぜでしょうか。その固い皮の中に命が入っていたからです。その命が活動を始めた時、もうその殻の中にとどめておくことはできないのです。殻を破り、地の中から新しい命となって芽を出して来るのです。

 同じように、主イエス・キリストは、人類の罪のための贖いのみわざをなし終えた時、もはや死はキリストをその死の中にとどめておくことはできませんでした。神はその偉大な力によって、イエス・キリストをその死の中から復活させ、もろもろの名に勝る一番高い権威ある名を与え、神の唯一の御子であることを証しされたのです。ですから、キリストは、死んだ救い主ではなく、今も生きておられる神の御子なのです。一度は死なれましたが、死に打ち勝ったのです。もはや、キリストの前には、死は何の力もないのとなったのです。キリストの復活と再臨こそ、クリスチャンの唯一最大の希望なのです。

●「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(Ⅰコリント15:51~57)。
 
 さて、やがて死ぬべき人間にとって、最も必要なものは、癌が治る薬でもなく、自殺者を減らすことでもなく、貧困を無くすることでもありません。この世界から戦争を無くすることでもありません。なぜなら、人間が、例え、病気が治っても、核戦争が起こらなくても、交通事故がなくなっても、また、金持ちになっても、必ず、死ぬ時が来るのです。人間の死亡率は100%なのです。私たちは、決してなくならない永遠不滅なもの、真実なものを求めています。それは、やはりイエス・キリストを他にして、この世の中に見出すことは絶対に不可能なのです。死に打ち勝ったキリストであればこそ、私たちの醜い汚れた心を新しく造り変えることができるのです。

 また、死の恐怖におののいている方も、その不安と恐怖から解放され、真の平安と希望を持つことができるようになるのです。死後の世界の永遠について不安を御持ちの方、確信が持てない方がおられるでしょうか?イエス・キリストは、現在の生活だけでなく、永遠から永遠に至るまで、あなたの幸福の保証人となってくださるのです。どうか、まだイエス・キリストを救い主として信じておられない方は、今すぐにでもイエス・キリストをあなたの個人的な救い主と信じて、このすばらしい救いをご自分のものとなさってください。信じるなら、必ず、すばらしい主イエス・キリストと共にある幸いな生活、すなわち主のご再臨と自らの復活を待望できる幸いな生活を経験することができるのです。

●「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死(と復活)によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。 」(ヘブル人への手紙2:14,15)。

●「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。‥‥主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」(Ⅰテサロニケ4:14~18)。

 
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★キリストの復活の意味は何か

2007-04-02 | 「キリストの復活」



 みなさん。お元気でお過ごしでしょうか。早いもので、もう4月に入りましたね。本州では、もう桜が満開の所もあるようですが、北海道では、例年通りであれば、桜が咲くのは5月になります。さて、二回続いて、「キリストの復活」について書きましたが、もう一度だけこの幸いな事実について別な観点から考えてみたいと思います。今回は、「キリストの復活の意味は何か。」ということについて、聖書に基づいて簡潔に記してみたいと思います。

【1】キリストの復活は、聖書が神のみことばであることの証拠です。 
 キリストの十字架と、三日後に復活されることについては、キリスト誕生の幾世紀も前に予告されていた事実です。その予告通りになったことは、聖書が間違いなく、創造者なる神が啓示された真理の書であることを証明しています。下記の聖句の「聖書」というのは、旧約聖書のことを示しています。
●「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。」(Ⅰコリント15:3~6)。
 
【2】キリストの復活は、神の実在を疑う予知なく証明しています。
●「あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼(キリスト)に栄光をお与えになられた神をキリストによって信じる人々です。」(Ⅰペテロの手紙1:21)。
 死んだ人間が、どんなことがあっても自分自身を死人の中から生き返らせることはできません。また、いかなる人も三日間も死んだ状態にあった人を生き返らせることは不可能です。どうしても、人間より偉大な何者かがキリストをよみがえらせたと考える以外に説明ができません。もちろん、その何者かというのは、人間にいのちを与えることのできる神ご自身以外には考えられないことです。

【3】キリストの復活は、明らかにキリストの神性を示します。
●「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。 」(ローマ人への手紙1:3,4)。
 もし、この世界にいのちを自由にすることのできる方、すなわち死んで復活することのできる方がおられるならば、その方は正(まさ)しく神であるということができます。偶像の神々(god)ではなく、神(God:創造者)です。どのような偉大な宗教家も自らの復活について語った人はおりませんし、また、当然ながら復活について実証した人もおりません。しかし、ただ一人イエス・キリストだけは比類のない御方です。キリストは生前中に何度もご自分の十字架の死と復活について予告されました。そして、その通りにすべて成就したのです。

【4】キリストの復活は、キリストの無罪性を証明しています。 
●「罪の支払う報酬は死です。」(ローマ人への手紙6:23)。

 人間の「死」は、人類の始祖アダムの罪の結果入って来たものです。そして、全人類は必ず死ななければならない存在となりました。上記のみことばの通りです。キリストが死者の中から復活されたことは、明らかに、キリストに罪が無かったことを示しています。キリストは、罪の贖いのために十字架上でそのみわざを成し遂げられた方であり、今は神の右に着座されておられる方です。もし、キリストに少しでも罪があれば、決して復活されることはなかったはずです。
●「‥このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。」(ヘブル人への手紙7:26)。

【5】キリストの復活は、キリストが救い主であることの証拠です。 
●「神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方(キリスト)が死につながれていることなどあり得ないからです。」(使徒の働き2:24~32)。

 旧約聖書に預言されていたことが、イエス様において成就したことは、イエスがキリスト(メシア)であり、救い主であることの明らかな証拠です。
●「彼らは、イエスがよみがえらなければならないことをまだ理解していなかった。」(ヨハネの福音書20:9)。

【6】キリストの復活は、キリスト者が神の前に義とされることを保証します。
●「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ人への手紙4:24,25)。
 キリストは私たちの罪のために死なれました。そして、その死は、私たちの罪に対する完全で十分なさばきを受けてくださったがゆえに、神はキリストをよみがえらせてくださったのです。もし、キリストの復活がなかったならば、私たちの罪は赦されず、まだ罪の中にいることになります。そうであれば、罪が赦されているという保証は何もないことになります。
 そして、保証のないものを信じることは愚かなことです。キリストの復活こそ、間違いなく、信者が神の前に義(正しい者)とされ、救われたことを保証するものなのです。いろいろな宗教で、「死んだら極楽に行きます!」とか、いろいろなことを言っています。しかし、それを保証する人は誰もいないのです。また、それを保証する何ものもありません。キリストを信じれば確かな救いの確信が持てるのは、キリストの復活によって保証されているからです。ですから、クリスチャンにとっては、殉教することをも恐れることはないのです!

【7】キリストの復活は、信者(クリスチャン)の復活の保証です。
●「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(Ⅰコリント人への手紙15:20)。
●「神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。」(Ⅰコリント人への手紙6:14)。

 聖書は、キリスト信者は必ず復活し、永遠に生きるのであると明言しています。そして、キリストの復活がそれを保証しているのです。これは、確かな希望を信者にもたらします。死を恐れ、墓を見つめながら生きて行く人生の空しさは、口には出さなくとも、誰でも知っていることではないでしょうか。神様は、キリストの復活によって、彼を信じる者の復活を保証してくださり、希望に満ちた人生に私たちを招いておられるのです。

【8】キリストの復活は、キリストが悪魔に勝利した証拠です。
●「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル人への手紙2:14)。
●「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」(Ⅰコリント15:55)。

 悪魔が人類にもたらした最大のものは、人類の死です。死こそ、人類の最大の敵であると言っても過言ではありません。その最大の敵を滅ぼすためにキリストの十字架と復活があったのです。

【9】キリストの復活は、キリストの再臨を保証します。
●「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」(ピリピ人への手紙3:20,21)。
●「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(Ⅰテサロニケ4:16,17)。

 クリスチャンが救われても、まだ罪の世に住んでおり、罪の性質をもって、生きています。しかし、キリストの再臨があって、信者をご自身のもとに引き上げてくださる時が来れば、そのすべては過去のものとなります。ですから、クリスチャンは、キリストの再臨を唯一の祝福された希望として、待ち望んでいるのです。

【10】キリストの復活は、罪人のさばきが必ずあることを確証します。
●「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人(キリスト)により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」(使徒の働き17:31)。

 聖書は、そのさばきの日が神によって定められていることをはっきり告げています。これは厳粛なことです。ある人は「愛の神が人をさばくはずがない。」と嘲笑します。しかし、神は愛のお方であると同時に義なる方なのです。義なる神が人間の罪をそのまま放任することはありません。そして、キリストの復活がこれを確実なものとして確証しているのです。どうか、キリストの十字架と復活の福音を信じて、永遠のいのちを、是非、ご自分のものとされますようにお勧めいたします。

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」 
 
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★キリストの復活に対する反論に答える

2007-03-27 | 「キリストの復活」


 
 前回の記事で、「キリストの復活」が事実であったことを書かせていただきました。過去にも幾人かの方から、復活に対する疑問と反論を聞いたり、問い合わせがありましたが、これは、あくまでも信仰の問題であり、人間の理解を超えた超科学的なことであり、信じるか信じないかは、個人の自由であると言えましょう。しかし、聖書に書かれているキリストの復活を否定してしまえば、全聖書を否定するくらい重大な問題であり、キリストを信じるクリスチャンには、未来に対して何の希望もない哀れな存在ということになり、真のクリスチャンは、これを堅く信じているのです。これから、反論のいくつかを取り上げて、聖書に基づいてその検証をしてみたいと思います。
 
【1】キリストは墓に葬られた時に、仮死状態ではなかったのか。
 「イエス・キリストは、十字架で死んだように思われているが、仮死状態ではなかったのではありませんか?」と疑問を投げかける方がおられます。これは、ごもっともなご質問だと思います。しかし、聖書を詳細に読めばお分かりいただけると思いますが、主イエス様の死を確認したのは、味方ではなく、敵であるローマの兵士であったのです。

●「その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。」(ヨハネの福音書19:31~34)。

 ローマの兵士たちは、十字架上の他の二人の強盗の死を早めるために足のすねを折ったのですが、イエス様に対してはその必要はなかったのです。すでに息を引き取っていたからです。6時間もの長い間、十字架に釘付けにされ、脇腹を槍で刺され、血が流されたのに、三日目に墓にの中から起き出して、大きな石を転がし、這い出して来ることが果たしてできるでしょうか。理性的に考えるならば、どうしても、それは不可能であるとお気づきになると思いますが、いかがでしょうか。これは、明らかにあり得ないことです。

【2】キリストの弟子たちがイエス様の死体を持ち出したのではないか。
 イエス様が逮捕された時、「すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。」(マルコの福音書14:50)との記述がありますように、弟子たちはみな逃げ出してしまったのです。そんな臆病な弟子たちが、そのような大胆なことが果たしてできるでしょうか。どう考えても、あり得ないことです。仮に、ローマの兵士たちが墓の番をしながら居眠りをしている時に、運よく盗んで運び出すことが出来たと仮定したとしても、その後ろめたさを抱きながら、死や迫害を恐れずに、殉教するまでにキリストの復活を宣べ伝えることなど、決してあり得ないことではないでしょうか。

【3】ローマの兵士たちがイエス様の遺体を持ち出したのではないか。
 これも、実におかしなことではないでしょうか。全くあり得ない話です。自分たちに不利になることをわざわざでっちあげることは、到底考えられないことです。もし、そうだと仮定してみても、それなら、兵士たちは何のために墓の番をしていたのでしょうか。もちろん、ローマ兵が番兵をしていたのは、弟子たちが来てイエス様のご遺体を盗み出して、「キリストはよみがえった!」というウソの噂を流したりしたら困るからという理由からだったのです。自分たちのメンツをつぶして、自分たちが罰を受けるためにそんなことをするはずがありません。そのようなことは、あまりにも矛盾があり過ぎて、私には想像することもできません。

【4】キリストは実際に復活したのではなく、人々はキリストの幻を見たのではないか。
 キリストが復活して現れた(顕現)のを見たのは、一人や二人ではないのです。500人以上のクリスチャン(兄弟)たちが同時に、よみがえって現れたキリストを目撃しているのです(Ⅰコリント15章を参照して下さい)。もし、それが幻であったとすれば、あまりにも多すぎる目撃者だと思われないでしょうか。そして、キリストの墓が空っぽであった事実をどのように説明されるでしょうか。また、復活されたキリストに弟子たちは手で触れることもできましたし、会話もすることができ、また食べることもできたのです(ルカの福音24:36参照)。幻であれば、こんなことはできるはずがありません。

【5】弟子たちがウソをでっちあげたのではないか。
 これも、普通の人に考えつきそうなことですが、実際には、復活などなかったのに弟子たちが「キリストはよみがえった!」と言ってウソをでっち上げげたのではないかというそのような反論です。しかし、よくよく考えてみれば、自分たちの不名誉や迫害や死をこうむるような結果になるウソを、わざわざでっちあげることなど、絶対に考えられないことではないでしょうか。

 そして聖書の記録をよく調べればお分かりになると存じますが、弟子たちはイエス様のご在世当時、ご自身の復活のことを何度も(少なくとも三度以上)イエス様から聞かされていながら、そのことを覚えてさえいなかったのです。もし、本当に信じていたのなら、三日目(日曜日)の朝、誰よりも先に墓に急いだはずです。しかし、事実は、女たちからイエス様のご遺体がなくなっていることを聞かされても、弟子たちの中でだれひとり、主の復活を信じようとはしなっかたのです。ですから、明らかに、キリストの復活を信じてもいなかった弟子たちがウソをでっち上げることは、どう考えてもあり得ないことです。

 その他、イエス様は実は双生児の一人であって、一人は十字架につけられて死んだけれども、もう一人のイエス(?)が、「私が復活したキリストだ!」と言って現れたのだという実におかしな反論もあります。もし、そうだとしたら、双子のうちの一人は、33年間、誰にも気づかれないで、どこに隠れていたのでしょうか。しかも、その明らかなウソをでっち上げるためにです。よく、こんなことまで考えられるものだと関心してしまいますが、キリストの復活を認めたくない人は、何とかしてその事実を覆(くつがえ)そうと、いろいろな仮説を立てるようですが、あまりにも滑稽で、何の根拠もないこれらの質問に答える必要はないと思います。

 このように、いろいろな反論や仮説と疑問に対して、一つ一つ検証してみても、それらの反論のすべてに対して、聖書は「NO!」と言って否定しているのです。これらのキリストの復活の証拠は、あなたの死後の永遠のことまで決定するほど重大な事実(真理)なのです。なぜなら、聖書の中心の主題は、キリストによる人類の贖いのみわざであり、キリストの中心は十字架と復活であり、キリストの復活は、人類の救いに欠かすことの出来ない真理なのです。あなたも、この事実を真剣に受け止め、このようなキリストの尊い救いをなおざりになさいませんように心からお勧めいたします。

●「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義(正しい者)と認められるために、よもがえられました。」(ローマ人への手紙4:25)。

●「あなたがた(クリスチャン)は、死者の中からこのキリストをよみがえらせて、彼に栄光を与えられた神をキリストによって信じる人々です。」(Ⅰペテロ1:21)。


 死んだ人間が、どんなことがあっても、自分自身を死人の中からよみがえらせることは不可能です。また、いかなる人も三日間も死んだ状態であった人を生き返らせることはできません。どうしても、人間より偉大な何者かが、キリストをよみがえらせたと考える以外に説明がつかないのです。勿論、その何者かというのは、人間に命を与えることのできる神(創造者)以外にはあり得ないのです。

 どのような偉大な宗教家も自らの復活について語った人はおりませんし、また当然ながら、復活について実証した人物もいません。しかし、ただ、イエス・キリストだけは、例外です。キリストは、生前中に何度もご自分の十字架の死と復活について予告されたのです。そして、そのことば通りに、十字架で死なれ、三日目によみがえられたのです。

●「わたしは、自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。」(ヨハネの福音書10:17~18)。

●「そして言われた。『人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。』」(ルカの福音書9:22)。

●「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」(マタイの福音書16:21)。

●「『さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子(キリスト)は三日目によみがえります。』 」(マタイの福音書20:18)。


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★キリスト復活の証拠 

2007-03-15 | 「キリストの復活」

          

 ●「あなたがたは、なぜ生きている方(キリスト)を死人の中で捜すのですか。ここには、おられません。よみがえられたのです。・・・・・人の子(キリスト)は必ず罪人(異邦人)らの手に渡され、十字架につけられ、三日目によみがえられなければならないと言われたでしょう。」(ルカの福音書24:5~7)。

 約2000年の間、クリスチャンが宣べ伝えて来たメッセージの中心は、キリストの復活です。復活こそは、キリストの福音(良き訪れ)そのものなのです。キリストの「十字架と復活」のメッセ-ジは、車の両輪のようなものであって、切り離すことのできない一つの神のメッセージであり、復活のないメッセージは福音ではないと断言しても過言ではありません。新約聖書の中の「使徒の働き」の中で、「十字架」は15回出て来ますが、「復活」は45回も出て来ます。初代教会のキリストの弟子たちが宣べ伝えたメッセージの中心は「復活」であったのです。そして、今日も、クリスチャンが宣べ伝えているメッセージの中心は、キリストの「十字架と復活」なのです。
 
 キリストは今も生きておられるということを私は確信をもって語ることができます。なぜなら、聖書がそのように語っているからです。キリストを信じるならば、確かに苦しむ者には慰めと希望が与えられ、罪に苦しむ者には赦しと平安が与えられます。しかし、キリストの復活の話を聞く時に、必ずそれを「信じる人」と「信じない人・または疑う人」に分かれてしまうのです。キリストの復活の話を聞いて、それにどのような反応するかによって、その人の人生は大きく左右されます。それは、人生の分岐点に立たされている時でもあるのです。信じる人には、永遠の幸福と希望が約束されています。しかし、この福音を信じない人には永遠の苦しみと悲しみとが待っているのです。

 「復活」は、人間の理解を超えたことであって、どこまでも信仰の問題ですが、信じる助けとなるために、キリストの復活が事実であったことの「証拠」として考えられるものをいくつかあげてみたいと思います。聖書にある記述はすべて神の霊感によって記された真理ですから、何か科学的な証明が必要であるとうことではありませんが、あなたの心の中にある疑問に少しでも答えることができれば幸いです。

【1】四福音書に記されている事実。
 まず、第一に、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが記した「四つの福音書」にこの復活の事実が記録されています。キリストを個人的に見た人々がまだ生きているうちに四人の記者によってこの復活の事実が書かれたのです。そして、人々に受け入れられていました。もし、それが嘘であればすぐ暴露されてしまうはずです。
 
【2】生ける証人による証言。   
●「キリストは、聖書(旧約聖書の預言)の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。 」(コリント第一の手紙15:3~7)。
 この手紙は、AD54~56年頃、パウロによって記録されたものです。もし、復活が事実でないなら、AD30~55年頃まで、25年もの間、500人以上の人を騙し続けることができるでしょうか。絶対に不可能です。キリストは復活後、多くの人たちに実際に現われてくださいました。そして、弟子たちは、復活されたキリストと共に生活したのです「イエスは苦しみを受けた後、40日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠を持って、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」(使徒の働き1:3)と記されてあるとおりです。 
 
【3】殉教者による証言。
 キリストの復活の時から約2.000年間、クリスチャンたちは、石打ち、投獄、国外追放、財産没収などの迫害を受けばがら、信仰のために戦って来ました。そして、多くのクリスチャンは、その信仰のために殉教したのです。彼らが、キリストが復活されたことを確信をもって信じていたからです。だれのことばか忘れましたが、「人は自ら真理と信じる嘘のために死ぬことがあっても、自ら嘘であると知っていることのために死ぬことはできない。」という名言があります。クリスチャンたちは、キリストの復活の事実を確信していたからこそ、殉教者になるほどに、キリストに従い通すことが出来たのです。もし、キリストの復活が偽りであるとすれば、その嘘であるとわかっていることのために自分の命を捨てることができるでしょうか。

【4】キリストの遺体を納められた墓が空っぽであるという事実。
 釈迦の骨は、宮に納められ崇められています。余談ですが、一説には現在アジア全土にある仏舎利の合計は2トンにも達すると言われています。これがすべて本物であるならば釈迦の体重は、18トン位(インド象5頭分に相当)であったことになるそうです。もちろん、そんなに大きいはずはありませんから、かなりの量のニセモノも交じっていることは明らかです。仏舎利(ぶっしゃり)とは、入滅した釈迦が荼毘に付された際の遺骨及び棺、荼毘祭壇の灰塵を言います。また、イスラム教のモハメッドの墓もあります。偉大な宗教家の遺体は、必ず、大切に墓に納められ守られています。しかし、キリストの墓はあっても、空っぽなのです。間違いなく、キリストが復活した証拠の一つは、キリストの骨も遺体も現存しないという事実です。

【5】もし、キリストの復活が偽りであれば、キリストは世界で最も極悪な詐欺師であり、ペテン師であることになります。
 もし、キリストの復活が事実でないとすれば、今日までキリストを信じた何百万、何千万というクリスチャンを欺き、殉教させたことになるのです。もし、キリストがペテン師であり大嘘つきであるとすれば、キリストを信じた人が何故、良い人に変えられるのでしょうか。殺人犯や強盗でさえ、キリストを信じて真人間に変えられている事実をどのように説明できるでしょうか。あなたは、これをどのように説明できますか?

【6】約2.000年の間、主イエス・キリストの復活に対する証拠を覆(くつがえ)すことも打ち破ることも出来なかったという事実は何を示すのか。
 これを説明することができるのは、ただ一つキリストの復活が事実であったということです。それ以外に答えはないのです。

【7】それまでユダヤ人は土曜日を安息日として守って来ましたのに、何故、突然、キリスト者(クリスチャン)は日曜日を休日として、神様を礼拝するようになったのか。
 ユダヤ人は旧約時代から長い間、土曜日を安息日として休んでいました。しかし、キリストが復活した時から、主に忠実なクリスチャンたちは、キリストが復活した日曜日に、キリストの復活と十字架を記念し、主を礼拝するようになったのです。今日、世界中どこの国へ行っても、一週間の最初の日は日曜日であり、日曜日から一週間が始まるようになっています。これは、何故でしょうか。これは、キリストが日曜日の早朝によみがえった事実と、決して無関係ではないことは明らかです。

●「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。」(Ⅰコリント15:17~21)。 

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★キリストの復活とパウロの回心

2006-05-06 | 「キリストの復活」
 
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 今から約2,000年前のAD30年頃の日曜日未明に起こった出来事、すなわち、キリストが復活して墓から出て来られたという出来事は、人類の歴史をひっくり返してしまうくらいの大事件であったのです。それは、今まで失意のどん底にあった者に喜びと力を与え、確信と希望を与えるほどの歴史的にも大きな出来事でありました。キリストの復活によって、泣いていた女たちには慰めが与えられ、疑いと恐れの中にあった弟子たちには喜びと希望が与えられました。このキリストのよみがえりの良き訪れを伝える足は全世界に向かって進んで行ったのであります。

 このキリストの復活の福音は、多くの困難に直面しながらも世界の歴史の中で実を結んで行きました。今日まで信者たちは数知れず多くの迫害を受けましたが、キリストの復活を宣べ伝えるメッセージは西に東にぐんぐん伸びて行きました。今日、クリスチャンが宣べ伝えているメッセージの中心は、キリストの復活であります。復活こそ福音そのものであります。キリストの「十字架と復活」は車の両輪のようなものであり、切り離すことのできない一つの神のメッセージであって、復活のないメッセージは福音ではありません。「使徒の働き」の中でも、使徒たちが宣べ伝えたメッセージの中心は復活であります。キリストは今も生きておられる方であることを私は確信を持って語ることが出来ます。なぜなら、聖書がそのように語っているからであります。

 キリストの復活の事実を証明する方法は多くありますが、今回はパウロの生涯に焦点を合わせて考えてみましょう。まず、パウロは、以前はキリストをペテン師と信じて、クリスチャンたちに対して憎悪の心を抱き、彼らを絶滅してしまおうと次々に捕らえて投獄し、教会(集会)を荒らし回っていた青年でありました。このように、クリスチャンを激しく迫害していた青年がなぜ、突然、キリストを信じるようになったのか!それは、ルカが「使徒の働き」9章に記しているように、復活のキリストがパウロに現れ、彼は文字通り劇的な回心をしたからであります。

●「・・・・ ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。 彼は地に倒れて、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。』という声を聞いた。 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。 」(使徒の働き9:3~9)。

●「するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、 食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。 」(使徒の働き9:18~20)。


 パウロは、キリストの教えに納得してクリスチャンになったのでもなく、またキリストの立派な人格に感動してクリスチャンになったのでもありません(これは、彼がキリストの教えに納得しなかったとか、キリストの立派な人格に感動しなかったという意味ではありませんので誤解なさらないでください)。既に記しましたように、実に、パウロは栄光のうちに現れた復活のキリストに出会い、その復活の事実をを確かめることによってクリスチャンになった人であります。キリストの復活を証明する決定的な一つの事実は、キリスト者を迫害していたパウロがキリストの伝道者へと変えられたことであり、180度の方向転換をしたことであります。

 キリストを信じる者たちを迫害していたパウロが何故、突然、キリストを大胆に宣べ伝える人に変えられたのか。これは、絶対にキリストの復活を否定しては説明のできない事実であります。そして、新約聖書の中には、信者に宛てた21の書簡(手紙)がありますが、その中の13通(ローマ人への手紙~ピレモンへの手紙)は、実はパウロが書いた手紙なのであります。もちろん、その手紙の中では復活のキリストのことが度々語られているのであります。これは、キリストの復活を否定するならばどのように説明できるでしょうか。このことは、キリストの復活が明々白々であることを物語るものであります。

●「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ人への手紙4:25)。

 キリストは私たちの罪のために死なれました。そして、その死は私たちの罪に対する完全で十分なさばきを受けてくださったが故に、神はキリストをよみがえらせてくださったのです。もし、キリストの復活がなかったならば、私たちの罪は赦されず、まだ罪の中にいることになります。そうであれば、罪が赦されているという保証もないことになります。キリストの復活こそ、間違いなく、信者が神の前に義とされ救われたことを保証するものであります。

●「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。」(Ⅰコリント15:19、20)。

●「神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。 」(Ⅰコリント6:14)。

●「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 」(コリント15:51,52)。

  
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★人生で最も大切なこと

2005-03-31 | 「キリストの復活」

      

  イエス・キリストは私たちの罪のために身代わりに十字架で死なれ、三日目に復活されましたが、昇天される前に、弟子たちに次のように世界宣教を命じられました。ですから、忠実なクリスチャンたちは、この約2,000年の間、多くの反対と迫害と困難の中で、その主のご命令に従って「福音」を宣べ伝えて来たのであります。日本でも戦時中は、その福音を宣べ伝えたために、数年間投獄された先輩のクリスチャンたちもおります。もう大分前に天に召された知人のクリスチャンですが、原爆が広島に落ちた時、広島の地下牢の中に入れられていたために助かったという不思議な経験をされた方もおられます。今のような生ぬるい時代に生きている私たちは、先人の労苦に心から敬意を表したいものです。

●「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」(マルコ16:15,16)。

●「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 (マタイの福音書28:18~20)。


 では、その「福音」とは何でしょうか。神のことばである聖書は次のように明確に記しています。これは、使徒パウロがコリントの教会(集会)に宛てて書かれた手紙の一部です。

●「兄弟たち。私は今、あなたが福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書(旧約聖書の預言)の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。 」(コリント第一の手紙15:1~7)。
  
 紀元30年頃のあの日曜日未明に起こった事件、イエス・キリストが墓の中から復活したという出来事は、人類の歴史を全くひっくり返してしまいました。それは、今の今まで、失意のどん底にあった者に喜びを与え、力を与え、確信を与えたのです。このキリストの復活の喜びを告げる足は、全世界に向かって進んで行きました。そして、21世紀に生きる私たちにさえも、今伝えられているのです。

 しかし、キリストの復活はあまりにもあり得ない話で、当時のイエス様の弟子たちでさえ、イエス様から何度もご自身の復活について、直接聞いていたのに、最初は信じることが出来ませんでした。キリストに従う者たちや、彼を慕っていた人たちは、失意のどん底にありました。慕い従い、そして一生を託すお方としてのイエス様が、あの残忍なローマ法のもとに引っ張られて行き、無残にも極悪人の死刑台であった十字架刑で、死んでしまったのですから‥‥。悲しみと嘆き以外に何があるでしょうか。

 イエスの回りの女たちは、涙の中にも女らしい優しい愛情を込めて、キリストの死体を香で装おうと、あの日曜日の朝、墓に行ったのであります。しかし、墓は空(カラ)だったのです。そして、そこにいたみ使いが言いました。「驚いてはいけません。‥‥あの方はよみがえられました。ここにはおられません。」(マルコの福音書16:6)と。不思議な出来事です。でも、これは、事実でした。信じなければならない不思議な事実でした。その日、多くの弟子たちは墓から復活されたイエスにお目にかかったのです。幽霊ではありません。まさしく、両手、両足、そして脇腹に釘跡、槍で刺された傷跡のある主イエスを見たのであります。三日前、あの十字架で絶命され、墓に葬られたはずの主イエスが今、自分たちのテーブルで食事を共にしておられるではありませんか。彼らの心が歓喜に満たされたのは当然であります。
 
 このキリストの復活は、世界歴史の中で実を結んで行きました。幾度も、迫害に包まれたこともありました。しかし、それにもかかわらず、キリストが復活して生きておられることを伝える良き訪れ(福音)は、東に西にぐんぐん伸びて行きました。なぜなら、救い主イエス・キリストは確かに生きておられるからです。そして、罪に悩む者には赦しを、苦しむ者には慰めを与え、酔っ払いは真人間に変えられ、そして、多くの人々に真の希望と生きがいを与え続けているのであります。そして、クリスチャンの真の希望は、この地上にあるのではなく、この地上では旅人であり、寄留者に過ぎないのです。やがて、天から私たちを迎えに来てくださる主イエス・キリストを待望するところに真の喜びがあるのです。

●「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたを迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネの福音書14:3)。 

            

★なぜ泣いているのですか

2005-03-14 | 「キリストの復活」



  私たちは、この世で人生を生きている限り、多くの悲しみの涙を流すことがあります。別離の涙、肉親や親友と死別した時の涙、友人に裏切られ、あるいは傷つけれた時の涙、だれも自分を理解してくれないと感じて孤独な状況に追い込まれた時の涙もあるでしょう。重病の床で呻吟し、余命短いであろう自らの先行きを思って流す涙、苦しんでいる人の姿を見て流す同情の涙、職場を解雇され、あるいは事業に失敗し、人生に行き詰まって流す涙や悔し涙もあります。しかし、何が悲しいと言っても、肉親やわが子を失ったときほど、悲しいことはないと思います。

 新約聖書を読みますと、イエス・キリストというお方は、人の目から涙を取り去ってくださる慰めと力に満ちたお方であることを知ることができます。 
イエス様は、ある時、弟子たち一行を連れてユダヤのナインという町に行かれたのですが、 その町の門の近くで葬式の行列に出会いました。ちょうど、やもめであった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであったのです。町の人たちも大ぜいその母親につき添っていました。 そのとき、イエス様はその母親を見てかわいそうに思い、優しくも、しかし、力に満ちた声で「泣かなくてもよい。」と言われたのであります。 そして、イエス様は彼らに近寄って棺に手をかけられると、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われると、なんと、その死人が起き上がって、ものを言い始めたのです。その母親の喜びは容易に想像することができると思います。

 また、あるとき、12歳になる少女が亡くなって人々はみな、その娘のために泣き悲しんでいました。イエス様はその少女の家を訪れ、泣き悲しんでいる人たちに向かって、「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」(ルカの福音書8:54)と言 われました。人々は、その少女が死んだことを知っていたので、イエス様をあざ笑いました。 ところが、イエス様はその少女の手を取って、「子どもよ。起きなさい。」と 叫んで言われたのです。すると、その少女の霊が戻って、彼女はただちに起き上がったのです。 両親がひどく驚き、大変喜んだことは言うまでもないことです。

 また、ヨハネの福音書に書かれてあることですが、ベタニヤという町に、マルタとマリヤの二人の姉妹がおりましたが、その兄弟のラザロと共に仲良く暮らしておりました。ところが、弟のラザロが瀕死の重病にかかり、姉妹たちは、イエス様のところに使いを送って、「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」と、言わせたのです。ところが、イエス様は、なぜか、急いでラザロのところに言ったのではなく、死んで墓に葬られて四日も経ってから、そして、マリヤや親戚の人たちが泣いていたところに、やっと到着したのです。そのとき、「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35)と書かれていますが、間もなく、墓の所に行き、「その石を取りのけなさい。」と命じられ、彼らはイエス様の言われる通りにしました。そして、イエス様が大声で「ラザロよ。出て来なさい。」と叫ばれると、死んでいたラザロが、手と足を長い布で巻かれたままで出て来たのです。二人の姉妹たちは、どんなに慰められたことでしょうか。

 イエス・キリストご自身が十字架につけられて死なれ、葬られましたが、三日後の日曜日の早朝、何度も聖書の中に預言されてあるとおりによみがえられたことが、四つの福音書に生き生きと記録されてあります。これは、フイクションではなく、歴史的な事実なのです。新約聖書の中の次の個所は、ヨハネの福音書に記されているキリストのよみがえりに関する場面の一部です。

●「さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。『だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。』‥‥‥しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。 ‥‥‥彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが 立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。 イエスは彼女に言われた。『なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。』彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」 イエスは彼女に言われた。『マリヤ。』彼女は振り向いて、ヘブル語で、『ラボニ(すなわち、先生)。』とイエスに言った。」(ヨハネの福音書20:1~16)。

 イエス・キリストは、福音書の記述にあるとおり、3人の人をよみがえらせた方であり、また、ご自身も十字架の死後、三日目に復活された方です。あなたが、この御方を救い主と信じられるなら、死への恐怖と不安は去り、人生で辛い出来事に出会って、一時的に涙を流すことはあっても、真の希望を持つことができます。私がみなさんにお伝えしているのは、「キリスト教」ではなく、キリストの福音であり、キリストという御方がどんなにすばらしいお方であるかということです。

●「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30:5)。

●「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなた(主)が私とともにおられますから。」(詩篇23:4)。

●「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 (ヨハネの黙示録21:4)。
 
 この尊い救い主イエス・キリストを信じるなら、あなたは、死の恐怖や不安から解放され、死後の世界に真の希望を持つことができます。やがて天国では、イエス様はあなたの目から涙を拭い取ってくださる方なのです。






★復活を信じる者の幸い

2005-03-08 | 「キリストの復活」



  「信じる」ということばは、にんべん(人)に「言」と書きますが、今日、人間のことばはなかなか信じられないものになっています。現代はあまりにも空虚な言葉、不真実なことばが氾濫している時代です。人間は互いに信頼し合って生きるように造られたのに罪が人類に入って来た時から、互いに不信感と猜疑心をもちながら生活しなければならなくなったのです。学校の先生も人を疑うことを教えなければならない本当におかしな時代です。でも、神のことば聖書は100%信じられる書物です。

●「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。 」(ヨハネの福音書20:19、20)。

●「12弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。‥‥八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って『平安があなたがたにあるように。』と言われた。 それからトマスに言われた。『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。』 トマスは答えてイエスに言った。『私の主。私の神。』イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』 」(ヨハネの福音書20:24~29)。
         
 
 約2000年前の出来事です。主イエス・キリストがよみがえられた日曜日の夕方、主は弟子たちのいる所に現れて、ご自身の御手と脇腹を見せられた時、「弟子たちは、主を見て喜んだ 」と記されてあります。十字架で死んでしまったはずのキリストが復活されて、弟子たちの前に現れたということは、弟子たちにとって非常な喜びであったことは、容易に想像することができます。しかし、12弟子の中で、何故か、分かりませんが、トマスという弟子だけは主イエスが復活された日に他の弟子と共にいなかったのです。

 よみがえられたイエスにお会いした他の弟子たちは、トマスに対して、「私たちは主を見た」と告げたのですが、トマスは「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言って、首を横に振ったのであります。このことから、彼は「懐疑論者トマス」というレッテルを貼られてしまったのです。しかし、トマスだけではなく、事実は、最初は12弟子の中の誰一人として、主の復活を信じる者はなっかったのです。よみがえられたイエスが弟子たちの前に現れたときに初めて信じることが出来たのです。

 私も、最初は神の存在も、キリストの十字架と復活も、信じることができませんでした。しかし、繰り返し繰り返し読むうちに、聖書の記事をすべて神の真理の書として信じる以外にないことが分かったのです。だれでも、最初は聖書を読んだとき、キリストの処女降誕の記事やイエスがなさった数々の奇蹟の記事を読んですぐ信じることのできる人は皆無に近いのではないかと思います。

 トマスは心の奥底では、「信じたい」心があったのではないかと思います。でも、その証拠を実際に見なけれが信じられない気持ちもあったのです。このようなトマスの心の中を主イエスはご存じであったので、8日後にイエス様は再び弟子たちにご自身を表されました。そして、今度こそは、トマスも他の弟子といっしょにいたのです。イエスは、自分だけ信じられないで寂しい思いをしているトマスの心中を察して、わざわざ、彼のために足を運んでくださいました。イエス様の忍耐深い愛が感じられる感動的な場面であります。主イエス様は、信じることができないで悩み、孤独を噛みしめておられるあなたの心の中のことも、すべてご存じなのです。
 
 イエス様がトマスの弱く鈍い心を叱責された様子はありません。ただ、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言われました。トマスは、復活の主を見て、手を伸ばして確かめるまでもなく、「私の主。私の神。」と告白してキリストを礼拝しました。 そして、トマスは信じる者となったのです。「死人がよみがえる」などということは、簡単には信じられないことです。しかし、神様の恵みによって「信じる者」とされた時に「幸いな者」と変えられるのです。

 「信じない者にならないで信じる者になりなさい。」というイエス様のおことばは、トマスだけでなく、今日の私たち一人一人にも語っておられる幸いなおことばであります。人間は時と場合によっては、疑うことも必要です。盲目的に何でも信じることは危険であり、正しいことではありません。しかし、「信じる」ということは、人間が幸福な人生を生きて行くために基本的に大切なことであります。「信じる」ことは人生の力なのです。神から遣わされた御子イエス・キリストを救い主として受け入れ、信じることは、この地上だけではなく、死後の永遠の未来の幸福をも約束するものです。

 トマスは肉眼で、復活されたイエス様を見て信じました。しかし、「見ないで信じる者」は更に幸いであるとイエス様は言われたのです。この時から、今日までの2000年間、クリスチャンになった人たちは、みな、「見ないで信じた人たち」です。これは、神様の恵み以外の何ものでもありません。私も、その中の一人であります。未来に対して大いなる希望をもっています。家内も、今、血液の癌を告知されて5年目になりますが、死に対する不安はありません。

●「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。 」(ヨハネの福音書20:30、31)。