聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★十字架上の七つの言葉

2006-11-27 | 「キリストの愛」

 イエス・キリストが尊く偉大なご生涯の後に、十字架に掛けられて死なれたことは、どなたでもご存じのことと思います。しかし、その十字架上で、キリストは「七つのことば」を発していますが、その一つ一つは実に驚くべき神の救いと愛のみわざを示していることをご存じでしょうか。ちなみに、聖書の中で「七」という数字は完全数を表しています。では、イエス・キリストが十字架上で語られたその七つのことばについて、ごいっしょに考えてみましょう。

【1】御父へのとりなしの祈り(赦しのことば)。
●「父よ。彼らをお赦し下さい。父よ。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカの福音書23:34)。 
  
 イエス様が十字架上で語られた七つのことばは、「父よ。」で始まっていますが、十字架上の最後のことばも「父よ。」で終わっているのです。イエス・キリストは実に「神の御子」であられる御方であり、永遠の昔から御父と御子として少しの妨げもなく親しいお交わりの中にあられたのです。聖なる神に対して、「父よ。」と呼びかけることのできる御方はイエス・キリスト以外には一人も存在しないのです。この神の御子が私たち罪人(全人類)のために救い主として、人の姿をとって御父のみもとからこの地上に来てくださったのです。そして、その神の御子イエス・キリストがそのご生涯の最後に、十字架に掛けられたのです。

 イエスの御体を十字架につけたその釘が手首の肉に食い入り、骨を削り、木に突き刺さって血が流れました。そして、十字架のイエスは、裂ける手足の激痛に身もだえしつつ、血を吐くような苦しみの中で「父よ。彼らをお赦し下さい。・・・・・」と、とりなしの祈りをささげてくださいました。一体「彼ら」とは、だれなのでしょうか。イエスを釘づけにしたローマの兵士、イエスに死刑の判決を言い渡した総督ピラト、イエスを裏切ったイスカリオテのユダ、イエスを妬んでピラトに訴えたユダヤの律法学者たち、イエスを見捨てて散って行った弟子たちなど、みな含まれているでしょう。しかし、実はイエスが「彼ら」と言われたとき、今日生きているあなたや私を含めて全人類の罪の赦しのためにとりなしの祈りをなさったのです。そうです。あなたのためにもです。イエス・キリストはあなたの人生と決して無関係ではないことをお知りになって下さい。

【2】イエスの約束のことば。
●「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカの福音書23:43)。

 ゴルゴダの丘に三本の十字架が立てられました。当然、十字架は極悪人が磔(はりつけ)にされる極刑であります。両側には二人の強盗がつけられ、しかしその真中には全く罪の無かったイエス・キリストが十字架につけられていたのです。キリストの十字架は罪人(全人類)の身代わりのゆえです。しかし、二人の強盗は最初はどちらもイエスを罵倒し、嘲っていましたのですが、途中で強盗の一人に明らかな変化が起こりました。十字架上のイエスのあまりにも崇高なお姿を見て、彼はイエスを神の御子と認め、心から救い主と信じたのです。その悔い改めた強盗に対するイエスの約束のことばが、これです。どんなに罪深い人も、悔い改めてイエスをキリスト(救い主)と信じるならば、さばきから救われ、永遠のいのちを受けることができるのです。

【3】思いやりのことば。
●「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」(ヨハネの福音書19:26)。
●「そこに、あなたの母がいます。」(ヨハネの福音書19:27)。


 十字架刑は、世界で最も残酷な処刑の方法であると言われています。たった三つの傷口に体重をまかせ、しかもその傷口を絶えず広げることによって、血を絶え間なく、絞り取っていくのです。その苦痛がどれほどのものであったかは想像を絶するものがあります。このような苦しみの中では、通常は他人のことを考えたり、思いやるなどという余裕はないのが常であります。人間というのは、自分が辛いとき、苦しいときには、自分を悲劇の主人公のように思い、他人からの同情を自分の方に引こうとするのが普通ではないでしょうか。もちろん、苦しみに会えば会うほど、他人に同情できるような思いやりの心が生まれることも事実ですが‥‥。

 しかし、イエスという御方は実に偉大であり、不思議な方です。その十字架の苦しみの足もとにイエスの母マリヤが立っていたのです。イエスは、そのマリヤに目を注いで、そしてついに声をかけられました。「女の方よ。」と。マリヤはイエスが幼少の時からずっと愛を持って育み、わが子として見守って来ました。しかし、イエスと母マリヤの関係は特別な関係であり、神の御子が聖霊によってマリヤの胎に宿ったのであり、イエスの母であると同時にマリヤも含めて全人類の救い主として来られた御方です。ですから、この「女の方」という言い方には特別に深い意味が込められているのです。
 
 それと同時に、マリヤはイエスの母であることに間違いありません。イエスはご自分が十字架で死んだあとの母の老後のことを気にかけてずっと十字架まで従って来た愛弟子ヨハネに、母親を託することばを優しく語られたのです。人間的には、イエスは親孝行をしたいお気持ちもあったはずです。でも、今イエス様はご自分がやがて息を引き取ろうとしている間際にも母のことを案じて、このような思いやりのある暖かいことばをかけられたのです。普通の人には、苦しみの絶頂の中にあってこのような細やかな心配りは決してできないことです。

【4】神に見捨てられたことば。
●「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイの福音書27:46)。

 まず、このことばは旧約聖書の詩篇22編1節と同じことばなのですが、そこには、やがて来られるメシヤの十字架の場面が預言されています。聖書によると、イエスの御口からこのことばが発せられたのは「午後三時ごろ」でした。そして、それは「大声で」叫ばれたのです。十字架に掛けられたのは、朝の九時頃ですから、その時から六時間も経過して、血は流れ続け、喉は渇き、死の一歩手前まで来ている時に、全力を振り絞って、「大声」で叫ばれたのです。昼の十二時には、全地は暗くなって三時まで続きました。

 暗くなってから三時間の沈黙があって最初のことばがこれです。それも大声で叫ばなければならないほど重要なことばでした。「神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」(Ⅱコリント5:12)とありますように、罪無きイエスが私たちの代わりに神に捨てられたのです。この三時間の暗やみについて私は全部説明することはできません。しかし、イエスにとってそれがどんなに恐怖であったかは、想像するに難くないと思います。神に捨てられるということが、どれほど恐ろしいことかお考えになったことがあるでしょうか。それは、みな私たちの救いのためであったのです。

【5】死の苦しみのことば。
●「わたしは渇く。」(ヨハネの福音書19:28)。

 体から血が流れ出る時はとても喉が渇くということを聞きました。六時間の十字架の苦しみです。ずっと、傷口はえぐられ続けており、血は絶え間なく流れ出ていました。ですから、体液が極度に薄くなっていたことは確かであります。その渇きは限界に達したとき、イエスは「わたしは渇く。」と言われたのです。それを聖書の記者は、「聖書が成就するために」と注釈しています。「私が渇いたときには酢を飲ませました。」(詩篇69:21)の成就です。そして、そのとおりに、ローマの兵卒は「酸いぶどう酒」をイエスの口元に差出し、その渇きはさらに増したのではないでしょうか。

【6】救いの完成のことば。
●「完了した。」(ヨハネの福音書19:30)。

 口語訳聖書では、このことばは「すべてが終わった。」でしたが、それを読むと「すべてが終わってしまった。もう駄目だ!」というような意味に誤解されやすいですが、「完了した。」の方が意味が明確に分かるように思います。イエスは死を迎えられる瞬間に「完了した。」と言われました。この箇所の意味は、旧約聖書にも預言されていた人類救済の贖いのみわざがすべて「完了した」ということです。キリストが受肉され、赤子として誕生されたのも、多くの迫害や試練を通られたのも、三年半の公生涯も、すべてはこのみわざを完成するためであったのです。十字架の六時間の苦しみ、特に後半の三時間の闇の中の沈黙の時間もすべてはこのときのためであったのです。イエスの生涯の目的は、すべて十字架の死にあったのです。そして、このキリストが成就された救いのみわざは「完了した」のですから、人間が自らの救いのためにこれに加えるものは何もありません。

【7】父なる神にゆだねることば。 
●「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカの福音書23:46)。

 イエスの六時間にわたった十字架の苦しみの最後のことばも最初と同じ、「父よ。」であったのです。「わが神」ではなく、「父よ。」であったのです。イエスはなすべきすべてが完了して、ご自分の肉体の死が間もなくやって来ることをご存じでした。そのわずかの間、イエスは目を天に向けて御父を見ました。多分、この時には暗闇が晴れていき、闇間から光が射していたかもしれません。この時のイエスの心は安らぎが満ち、幼児の父親に対する呼びかけにも似た純粋なものではなかっただろうかと推測します。その時の御父は、「わが神。」と叫んだ時のものではなく、昔と変わらなぬ慈愛に満ちた御父の御顔であったでしょう。イエスは一切のことを御父にゆだねて、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と言って、間もなく息を引き取ったのです。あなたも、最後に息を引き取る瞬間に愛なる神にすべてをゆだねることが出来る人生を是非選択なさって下さい。イエス・キリストをあなたが救い主として信じる時にそれが可能なのです。

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★神の愛と罪の赦し

2006-11-18 | 「神の愛について」



 いつかどこかで聞いた話ですが、ある男がまだキリストの集会(教会)行き始めて間もない頃のことです。その男は聖書のお話を聞いているうちに次第に自分の罪深さが示されて、小さい頃、何度か万引きをしたことを思い出したのです。過去の罪を悔い改めなければと思い、思いつく限り一軒一軒店に立ち寄り、昔万引きしたことを告白し、代金を払って廻ったそうです。そして最後に警察に立ち寄り、すべてを告白して「私はどうしたら良いのでしょうか」と尋ねたそうです。ところが、お巡りさんは「もう時効となっているから、これからは何か社会の役に立つような生き方をしなさい」と言われたそうです。そして、彼は納得して家に帰りました。

 ところが、なぜか彼の心には平安がありませんでした。どうしてだろうかと考えました。彼は居ても立ってもいられない気持ちを抱えながら、自分の部屋で聖書を読み、神様にお祈りをしました。そして、主イエス様のみもとに歩み寄って赦しを乞いました。すると、主イエス様は不思議な平安で彼を包み、「あなたの罪はすべて赦されました。私があなたの罪を赦すために、十字架で身代わりとなったのだから、私を信じる者はもう罪が赦されているのですよ。」と優しく語りかけてくださったのです。彼はやっと悟りました。一つ一つの罪が問題なのではなく、自分が神様に背を向けて、自分勝手に生き、神様を悲しませて来たことが問題だったのだ。だから、こうして悔い改めてイエス様を信じて神様のもとに立ち返る時に、初めて心の平安と喜びが湧き上って来るのだと分かったのでした。

 多くの人は自分の罪がキリストを十字架に張り付けにしたなどということを全く知らずにいます。十字架上で血を流し、激痛と渇きに苦しんでいるキリストの話を聞いても自分とは全く関係ないものと思っているのです。ある人は薄気味悪いと言い、ある人はあんな死に方だけはしたくないと言います。しかし、キリストを十字架につけたのは、確かに私であり、あなたの罪なのであります。そして、十字架上で鮮血に染まったイエス・キリストを自分の罪のためであったと心から信じて神様のみもとに立ち返るとき、あなたのすべての罪が赦されるのであります。人間は、そのことを経験することなしに、本当の愛も平安も分からないのであります。

 私のブログに似たような話を別な箇所に書いた記憶がありますが、ある小さな女の子が泣きながら帰って来ました。学校でいじめられたのです。「お前の母ちゃんはお化けみたいだ!」と言われて、心がひどく傷つき、悲しくなりました。女の子のお母さんの顔は酷い火傷でただれていたからです。女の子は自分がいじめられるのはお母さんのせいだと思いました。お母さんがお化けみたいな顔をしているから、いけないんだ‥‥。「どうしてそんな顔なの!」と尋ねても、お母さんは決して答えようとはせず、ただ「ごめんね‥‥」と言うだけでした。ところが、ある日再びいじめられて帰って来た女の子は、もう我慢ができずに「どうしてお母さんはお化けみたいな顔なの。どうして他のお母さんたちとは違うの!」と、大声を出して泣き出してしまったのです。すると母親は初めて真実を語り出したのです。

 それは女の子がまだ幼少の頃のことでした。誤ってストーブのやかんをひっくり返してしまったのです。母親はあわてて女の子をかばい、上におおいかぶさりました。熱湯は容赦なく母親の顔にあびせかけられました。その痛みと苦しみ、そして女性として大切な顔が失われていくことは、一言では言えないほどの悲しみであったはずです。しかし、それによって女の子の命は救われたのです。女の子は初めて真実を聞き、体が震えるような衝撃を受けました。そして、涙がぽろぽろと頬を伝って流れ落ちたのです。それから後には、彼女は一切母親の悪口を言いませんでした。友達からからかわれても、もう平気で問題ではありませんでした。母親の火傷の跡に、自分に対する大きな愛を見たからでした。母の愛を知った時、女の子の中に大きな変化が起こり、心の中に平和が生まれたのです。

 「女は弱し、されど母親は強し」ということばがあります。母の愛は、世界を敵にまわしても、わが子のためなら自分のいのちまでも差し出す覚悟があるのです。母親の愛は神の愛に似ていると言えます。私たちは本気で十字架に張り付けになったイエス様のところに飛び込んでいかない限り、神の愛は分かりません。キリストの受けられた傷、十字架で流された血潮の一滴一滴が私に対する愛であったことを知るとき、私たちは初めて自分はイエス様によって救われたのだと知るのです。その瞬間、神の平安は確かにやって来るのです。私たちはキリストを個人的に救い主と信じる時に救われ、生まれ変わるのです。女の子が母親と本当に深い愛の関係を得たように、私たちは神様との愛の交わりが与えられて、神の子どもとして生まれ変わるのです。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」(Ⅰヨハネの手紙4:8)。

                     
●「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたし(神)はあなたを忘れない。 」 (イザヤ書49:15)。 

 この世で最も美しく、崇高であるはずの「母親の愛」も、最近はどうも狂って来ているようです。自分のお腹を痛めて産んだわが子を、愛人との生活に邪魔だからとか、言うことを聞かないからとか、そんな簡単な理由で、虐待して半殺しにして川に捨てたり、食べ物も与えずに放置して死なせたり、昔は考えられないような非常に悲しいニュースが連日のように報じられるような昨今であります。「たとい、女たちが忘れても、このわたし(神)はあなたを忘れない。」との聖句は、そのような愛の冷えた時代が来ることを、神様は2.700年も前に予知していたかのようなみことばにも思われます。母親があなたのことを忘れることがあっても、神はあなたを忘れることはないのです。どうぞ、ご自分の罪をお認めになられて人知をはるかに超えた神の偉大な愛をお知りになって下さい。 
 
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★明日のための心配は無用

2006-11-11 | 「人生の幸せと平安」



●「だから、あすの心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイの福音書6:34)。
  
 明日のことが心配で夜も眠れないというようなことは多くの人が経験することではないかと思います。しかし、いくら寝ずに心配したところでどうにもならないことも事実です。どうにもならないのに心配せずにいることができない。これは、私たち人間だれもが持っている弱さであり、また、神を信じることができなくなった人間の罪の結果でもあるのです。しかし、主イエス・キリストは「あすの心配は無用です。」と力強く言われたのです。その理由は、愛と全能に満ちておられる神があなたがたのことを心配してくださるからです。神を信じると言うことは実にこのように神の愛のご配慮の中に入れられることなのです。

 イエス・キリストを自らの救い主と信じる人は神の子どもとなり、父なる神は神の子どもとされた私たち(クリスチャン)のことを慈しみ深い父親として心配してくださるのであります。神の子どものなすべきことは、日常生活の諸々のことを心配して日を過ごすことではなく、御父なる神を全幅の信頼を持って信じ、安心して神の御心にすべてをゆだねて生きることなのです。そのとき、一日一日の労苦は決して重荷とはならず、かえって主にあって喜びと感謝へと変えられるのです。神を信じる者の人生には平安と満足と喜びと永続する希望があります。神を信じ、イエス・キリストを救い主として信じる人生はこのような日を過ごす者となることなのです。

●「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」マタイの福音書6:25~26)。
 
●「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。」(マタイの福音書6:27~30)。

●「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイの福音書6:31~33)。


 人間は絶えず、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」と言って明日のことを心配して生きている存在であります。「衣・食・住」のことを心配するのは人間の常のことであります。そのように心配しながら日々を送るのが弱い私たち人間の姿なのです。心配したからと言って何一つ解決するわけでもないのに、どうしても心配しないで生きて行くことが出来ないのです。ここに、人間の神に対する不信仰があります。しかし、「あすの心配は無用!」と言って日々を安心して生きるためには、一つの条件があります。それは何かと言いますと、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」ということなのです。
 
 「神の国とその義とをまず第一に求める」とは、どういうことでしょうか。それは、できるだけ分かりやすく言いますと、今までの神に背を向けた罪の生活を悔い改めて、イエス・キリストを通して神に立ち帰えり、神との交わりを回復することなのです。幼子は母親の腕に抱かれて安心しきって眠っていますね・・・。それと同様に、私たちは、神の愛の懐(ふところ)に立ち帰るならば、神にすべてをゆだねて日々安心して生活することができるのです。人間が神に立ち帰ることができるために、神はご自身の御子をこの世に救い主として遣わされ、罪人である私たちの身代わりとなって、十字架で死んでよみがえってくださったのです。

 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」と、主イエス様は教えて下さいました。あなたを日々生かしておられる神を第一にして、その神に立ち帰るときに、神は、それに加えてこれらのもの、すなわち「衣・食・住」などの生活必需品などをすべてお与えになられるということなのです。これが神が定めた優先順位なのです。しかし、多くの人々はその優先順位を逆にして、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」を第一に考えて生きているので心配と不安でいっぱいになるのです。あなたもどうか、神様の愛の勧めを受け入れ、あなたのために十字架にかかって身代わりに死んでくださった救い主イエス様を信じて、心からの平安な生活を得る方となって下さいますように。
 
●「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)。

●「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。 」(ペテロの第一の手紙5:7)。

●「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ書4:6,7)。

●「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」(詩篇4:8)。

 
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★やがてその日が来る!

2006-11-02 | 「人の死とその備え」

 ●「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。 」(マタイの福音書24:37~39)。
 
 みなさんは、今の世界がいつまでも平和で、この地球環境も住み心地が良く、幸福な日々を過ごすことができる時代が長く続くのを願っておられると思います。しかし、この地球は、ますます温暖化による環境破壊が進み、異常気象による災害は毎年のように甚大な被害をもたらしつつあります。それだけでなく、人間の心の腐敗と不道徳と汚れは目を覆うばかりで、人々の犯罪はますます悪化の一途を辿っています。その上、国際間の緊張状態は増すばかりで、世界の指導者たちは絶えず、戦争回避とテロ対策に頭を悩ませているのです。また、教育の現場もいじめによる子供の自殺が相次ぎ、どこから手をつけて良いか分からないほど病んでおります。一体、これからの世の中はどのようになるのでしょうか。

 世界の各地で、核実験が行われ、殺人兵器生産のための研究が行われ、そのために膨大なお金を費やしています。すでにこの地上には、この地球を数十回も焼き滅ぼしてしまうだけの核が保有されていると言われています。今や、人類は自らの力でこの世界に破滅をもたらそうとしているのです。多くの世界の指導者たちは、この恐るべき身の毛もよだつような可能性について語っているのです。しかし、この世には、将来この世界にどのようなことが起こるかを正確に預言している書物は神のみ言葉である「聖書」だけであり、その聖書の預言が成就する確率は100%です。実は、聖書の大部分は人類の将来について書いていると言っても過言ではありません(聖書が書かれた時点においての話です)。

 聖書によると、神(God)はこの広大な宇宙をお造りになられ、地球上のあらゆる植物や動物をお造りになられたのですが、そのような偉大な神が、私たち人間をもお造りになられたのです。最初に造られた人間アダムとエバ夫婦は、エデンの園で、神との交わりを楽しみ、何の不自由もない、幸福で平和な生活を営んでいたのです。そこには、憎しみや争いはありませんでした。苦しみも病気も涙もありませんでした。「エデン」とは、「歓喜」とか「喜び」という意味がありますが、人類に「罪」が入って来る前の「エデンの園」には、食物も十分にあり、平和な喜びが満ち溢れていたのです。神との間にも幸いな愛の交わりがあって、人間は来る日も来る日も、至福の楽しい時間を過ごしていたのです。

 しかし、そのような幸福は長くは続かなかったのです。やがて、人間は神の掟を破り、神に背を向けて、自分勝手な自己中心の罪の生活を始めたのです。その結果、この世界にはいろいろな苦しみが入って来ました。家庭内では夫婦の間にも亀裂が生じて、互いに責任転嫁をし、兄弟間では妬みによる殺人事件まで起こるようになりました。そして、最初にアダムが犯した罪は、時間の経過と共に人類の中に深く浸透していったのです。そして、今から数千年前、あのノアの時代には、この地上は非常に堕落し、不道徳が横行し、悪がますます増大していたのです。旧約聖書の最初の書である創世記(6章以降)では、その時代について次のように記録されてあります。

●「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。・・・・・・地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。」(創世記6:5~12)。

 何代もの歴史を経ると、人間はさらに悪を重ね、もっともっと悪くなって行ったのです。けれども、とうとう神の忍耐の緒が切れる時がやって来たのです。「わたしが創造した人類をこの地上から滅ぼす。」と、神は言われたのです。ノアの時代は、非常にすばらしい文化と文明が発達していました。しかし残念ながら、人々は神の掟(おきて)を破ったのです。それで、神はこれらの人々を、大洪水によって「滅ばす」と言われたのです。神は愛の御方ですが、罪をさばかれる正義の神であり、怒りの神であります。ノアの時代は、性的な不道徳が氾濫し、神が定めた結婚関係も軽視され、全地球上に暴虐が満ちていた時代、暴力の時代でした。現代の世相も同様であり、多くの点でノアの時代と類似しています。

 ところが、神にはできないことが一つありました。神を信じ、神の御前に聖よい生涯を送っていたたった一人の人を滅ぼすことが出来なかったのです。神がこの地球をご覧になられた時に、主のみ心にかなった生活をしていたノアとその家族がいたのであります。「ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」(創世記6:9)と記されています。ノアは神を信じていました。毎日お祈りをしました。彼は妻に対して誠実を尽くしました。彼は子供たちを正しく導きました。偽りを言わない真実な人であったのです。そして、どんなに迫害されても、たった一人でも神の前に立ち上がった人であったのです。

 神様は、このノアとその家族を救う方法を考えました。ノアに大きな箱舟を造ってその中にノアとその家族といろいろな動物を入れるように命じました。箱舟の大きさも造り方も教えましたが、ノアは神様に命じたとおりにしたのです。人々はノアを嘲笑し、ばかにしました。「洪水なんか来るはずがない!ノアのやっていることは馬鹿げている!」と人々は彼を笑い、嘲りました。しかし、ノアは黙々と箱舟を造り続けたのです。多分、砂漠か小高い山の中腹に彼は箱舟を造っていたと思われます。人々はノアが気が狂ってしまったと考えたに違いありません。しかし、ノアは信仰を神においてたった一人でも立ったのです。

 神は、「あと七日たつと、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から滅ぼす。」と言われました。それで、ノアは「やがて大洪水がやって来る。」と大声で叫び、人々に警告し、罪を悔い改めて神に立ち帰るように勧めましたが、人々は雲一つない空を見上げて、大笑いして、ノアの声に耳を傾ける人は一人もありませんでした(ノアの家族以外に)。しかし、いよいよ最期の日がやって来ました。すべての動物の一つがいずつが箱舟に入って行きました。ノアは多分、箱舟の入り口で、目に涙を浮かべて、「みなさん、罪を悔い改めて神に立ち帰ってください。」と繰り返し訴えたことでしょう。そして、最期にノアとその家族が箱舟に入ったのです。

●「・・・・それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。それから、大洪水が、四十日間、地の上にあった。水かさが増していき、箱舟を押し上げたので、それは、地から浮かび上がった。水はみなぎり、地の上に大いに増し、箱舟は水面を漂った。水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。 水は、その上さらに十五キュビト増し加わったので、山々はおおわれてしまった。」(創世記7:16~20)。

 これは、歴史上に実際に起こった出来事であり、また現代に生きる私たちに無関係な話ではないのです。今日もノアの時代と同じように罪と不道徳が蔓延しています。しかし、神は正しい方であると同時に愛の御方であります。神は約二千年前、私たち罪人を救うためにご自身の御子イエス・キリストを救い主として、世に遣わされ、罪のない御子を十字架にまで架けて身代わりに罰しなさったのです。たった一つの天国に行く道があります。それはキリストによる道です。キリストが自分の身代わりに十字架で死んでくださり、三日後に復活されたことを心から信じることです。現代にも、ノアの時代と同様「箱舟」があります。それは、イエス・キリストです。みなさん、どうか、一刻も早く今の時代の箱舟を示すイエス・キリストに逃れて神のさばきから救われてください。

●「確かに、今は恵みの時、救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)。

 あの大洪水の時、箱舟の入り口の戸を閉めたのは、ノアではなくて、主(神)ご自身であったことを覚えてください。今の新約の恵の時代もいつまでも続くのではなく、神が恵の時を終わらせる時が必ず来るのです。どうぞ、あなたも是非、真剣に、ご自分の問題としてお考えになって下さい。やがて、神が箱舟の戸をお閉めになる時が来るのです。そして、その日は迫っているかもしれないのです。新約聖書には、300回以上もキリストは再び来られる(再臨)ことが書かれています。信じる者を天に引き上げ、不信者をさばくためです。あなたが、救われる唯一の道は、あなたが罪を悔い改めてイエス・キリストを心の中に受け入れることです。周囲の人々がばかにしても、どうか堅く信仰に立って下さい。神はすべての人々が救われることを望んでおられるの愛の神なのです。

●「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」 (Ⅱペテロ3:3~7)。

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