聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★人を赦すことと神の愛

2005-01-11 | 「聖書と人生」

  人間にとって、最も難しいことの一つは「人を赦す」ことではないでしょうか。どなたにも、何度か人を心から赦すことができないで苦しまれた経験があるのではないかと思います。そして、人を赦さないことの心の葛藤と苦悩の方が、赦すよりもはるかに大きく、それが自らの精神的なストレスとなって疲れてしまうのです。そのことが頭では分かっていても、赦すことができないのが人間の弱さではないではないかと思います。

新約聖書の福音書の中で、イエスの弟子の一人であるペテロが、主のみもとに来て尋ねました。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」(マタイの福音書18:21)。ところが、その質問に対して、イエスは何と、「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」とお答えになられたのです。「七度を七十倍するまで」と言うのは、490回という意味ではなく、無限に赦すという意味なのです。ユダヤ人にとって「7」という数字は完全を意味する数字であり、そのまた70倍というのは、「無限」を意味するのです。

そして、イエスはそのことを具体的に示すために一つのたとえを語られたのです。
「‥‥王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。‥‥」(マタイ18:23~28)。

この例え話の中で「王」は愛なる神を表わし、「しもべたち」は人間を表わしています。
一万タラントとは、莫大な金額であり、当時のユダヤでは、労働者の賃金は一日一デナリであり、一タラントは六千デナリになります。つまり、一万タラントとは、約20万年分の賃金ということになります。こんな莫大な借金を返済することは誰にもできません。
要するにこれは、人間が父なる神に対し、償うことのできない罪を犯していることを示しているのです。

この借金のあるしもべが、王に返済の猶予を申し出ると、「王はかわいそうに思って」その借金を全部免除してやったのです。一万タラントを全部免除することなど、常識では、とても考えられないことであります。
しかし、実は、愛なる神はこれ以上の豊かなあわれみと恵みを私たち人間に示してくださったのです。すなわち、神はご自身の御子をこの世に遣わされ、罪の全くない御子が十字架に架かられて、私たちの罪の赦しのために身代わりに尊い血潮を流して死んでくださったのです。これは、人知をはるかに超えた神(キリスト)の愛であります。

ところで、この借金を赦されたしもべは、自分の同僚に貸していたたった百デナリのはした金(一万タラントと比較して)の借金の返済を迫ると、同僚は「もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。」と懇願したのですが、彼はそれを容赦せず同僚を投獄してしまったのです。これは何と愛のない、狭量で冷酷な行為ではないでしょうか!!しかし、実は、これは私たち一人一人の人間の愚かな姿なのです。

愛とあわれみに富む神はキリストの十字架によって、私たちの生涯のすべての罪の赦しのためにその道を開いてくださいました。イエス・キリストの十字架の愛と赦しを信じて、神によって自分の罪が豊に赦されたことを知り、その恵みを感謝することのできる者は、自分の友人や隣人の失敗や罪も心から赦すことができるようになるはずであります。あなたも、人を心から赦すことのできる優しい人になりたいとは思われませんか?

★「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ人への手紙4:32)。 

★「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ人への手紙3:13)。