聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★人間は単なる物質の塊?

2005-06-27 | 「人の死とその備え」
    
  すべての人は、やがてただ一人で、地上のいかなる友人からも、親しい家族からも離れて命から死への有限な時間から永遠への境界線を踏み越えなければならない時が来るのです。そして、人間の命は最後の呼吸、最後の鼓動ですべてが終わってしまうのでしょうか。ある人々は、人間は死んだらすべてが終わりで、「無」の世界であると考えます。決して、そうではありません。肉体の機能は停止し、死とともに冷たくなり硬直が始まりますが、しかし、魂は永遠の中に歩を進めるのです。

 ある日のこと、一人のキリストの伝道者に、人間に魂があることを決して信じないという一人の男の人が近づいて来て、「博物館に行ってみてください。そうすれば、人間を構成しているあらゆる物質が展示してありますから、人間を造り上げている16品目の中には、いくらかの水分、澱粉、石灰、糖類、りんなどがあります。しかし、『魂』と記された品目などありませんよ!」と、勝ち誇ったように言いました。そのキリストの伝道者は、その男に振り向いて、「私は忙しいのです。申し訳ありませんが、あなたとお話している時間がありません。」と言いました。

 「そらね!あなたがたクリスチャンはみんな同じなんです。科学的な事実に直面すると、あなたがたは、逃げるのです。あなたがたは答えることができないのです。」とその男は叫びました。伝道者は彼に答えました。「あなたは大変な誤解をしていらっしゃいます。私が理論的な多忙な人間だからこそ、何リットルかの水、幾グラムかの糖類、澱粉、石灰、燐などとお話する時間がないのです。もし、私の友人たちが、私がそのような無生物の混合物と話しているのをだれかが見たら、さぞかし、私が頭がおかしくなったのではないだろうかと考えるに違いありません。」と、その伝道者は答えました。その男はそれに対して、何も答えることができなかったそうです。

フランスの有名な哲学者アンリ・ベルグソン氏は、「人が死んだら、それでおしまいだと考えるただ一つのはっきりした証拠と言われているものは、死体を放置しておくと腐ってなくなってしまうということである。だから、もし、人間の肉体を離れての精神活動が少しでもあるということになれば、死後の世界がないという証拠はなくなってしまう。」ということを言っていますが、彼は正直に語っており、これは傾聴に値することばであります。しかし、人間はだれでも、自分が単なる肉の塊ではないということを認めているのです。

 人間には、疑う余地もなく、私たちが身体と呼ぶことができる驚くべき機械よりもすぐれたものがあります。すべての人間には「たましい」があるのです。それゆえ、人間は死後も永遠に存在し続けると伝えております。あの有名なゲーテのことばですが、 「霊魂は不滅である。何となれば、人々はこの考えを欠くことができないから・・・・」と言っています。人間が永遠を考えること自体、霊魂が永遠に存在することを証明しているというのであります。人間が「たましい」を持っているのではなく、人間はたましいそのものなのであります。私たちは、その人の顔や服装や外見を見て、「あの人が田中さんです。とても温厚な立派な方です。」とか言ったり、判断したりします。しかし、その人の内側の、心、精神、霊魂とかは目に見ることができないのです。

●「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息(霊)を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)。

●「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。 」(伝道者の書3:11)。

●「こうしてついに、銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉のかたわらで砕かれ、滑車が井戸のそばでこわされる(肉体の死を意味する)。 ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」(伝道者の書12:6,7)。


 人間は、死によって、肉体はもとのちりに帰り、霊は神のもとに帰るのであります。ここで、誤解しないでいただきたいことは、人間は死んだらみな天国に行くということではなく、人が死ぬと、私たちの霊はもはや自分の意志ではどうにもならないところ、つまり神の御手の中に帰って行き、正当なさばきを受けなければならないということであります。神が備えられた救いを受け入れた者と、救いを拒んだ不信者とは当然、その行き先が違うのであります。ですから、人が、食べることや着ることに心を配り、体の病気が治っても、その人のたましいが死後永遠の滅びの苦しみから救われなければ、その人生に何の意味がるのでしょう。また、どうして人生の幸福を味わうことができるでしょうか。

 イエス・キリストはある時、人々に向かって次のような譬え話をなさいました。ルカの福音書12章にある話です。ある金持ちの農夫の畑が豊作になり、彼は、心の中で「どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。」と考え、 そして言いました。「あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。 」そして、自分のたましいに向かって、「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」と言おうと考えたのであります。しかし神はその彼に対して次のように言われたのであります。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」

●「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。 」(マタイの福音書16:26)。

●「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。 」(Ⅰテサロニケ人への手紙5:23)。


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★涙の谷を過ぎる時も‥‥

2005-06-24 | 「ご再臨と信者の真の希望」

            
     
「雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。 なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。 彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。 なんと幸いなことでしょう。その力が、あなた(神)にあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。 彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。 」(詩篇84:3~7)。

  この詩篇84篇には、三回も「何と幸いなことでしょう。」(4,5,12)という感嘆詞が出て来ます。神を慕う者、神に信頼する者には神から来る幸いを約束されているのです。この詩篇の作者は、神殿の軒下に雀が住みつき、つばめが巣を作っている姿に、新鮮に驚き、感激しているのですね。雀は小さな生き物です。それなのに、人も近づくことのできない神の宮の奥の軒下に巣を作り、だれにも邪魔されずに雛まで育てているのです。それで、詩人は小さな弱い人間、しかも、罪深い卑しい人間ですから、悔い改めて信頼しさえすれば、神の懐の中に巣を作り、また、そこに中に憩うことができる幸いを見つけることが出来ると声高らかに歌うのです。

 また、(5~7)節には、神の力を拠り所として生きる信仰者の幸いな姿が書かれています。ここで「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。」とありますが「涙の谷」というのは、特定の地名ではなく、荒廃と嘆きのある場所を示しています。人生には、多くの涙の谷があります。人生は涙の谷を行く旅のようです。困難と災い、悲しみと嘆きが待ち伏せしているのです。そして、私たちは、だれもがそこを通らなければなりません。しかし、力を神に見出し、神とのいのちの交わりを心に持つ人は、そこを泉の湧くところとすることができるのです。

 「初めの雨」というのは、荒野の情景を一変させる秋の雨のことです。荒野のような苦難に満ちた人生であっても、そこに潤いを与えてくれるのです。梅雨の時期のジメジメした雨は人を憂鬱な気分にさせるのでが、真夏の暑い時にザ~ッと降る雨は、心まで潤される気分になりますね。そして、彼らは「力から力へと進み」次第に強くなるというのです。通常、私たちは行進したりするとき、力から弱きに進むのではないでしょうか。私たちが旅をするとき、元気よく出発しますが、やがて、道が険しくなり、疲れて来ます。そして、道の傍らに腰を降ろして休み、また立ち上がっては苦しそうにもの憂い旅を続けるのです。そして、最後に、疲労困憊した状態になり、倒れこんでしまうこともあります。しかし、神の恵みと力に頼るクリスチャンの人生の旅は、出発した時と同じように活気にあふれているというのです。

 神から逃げる人の人生は、どんどん下る人生です。あの預言者ヨナは、ヨッパの港に下り、船に下り、船底に下って眠り、海に投げ込まれ、大魚に飲み込まれて、海底にまで沈んだのです(旧約:ヨナ書)。また、「親切なサマリヤ人」の譬え話でも、旅人のユダヤ人は、エルサレムから「下る道で」強盗に襲われて災難に会いました。この旅人は、私たち人間の姿を暗示しているように思います。神を離れては、上って行く人生は決してないのです。そして、どこまで下ってしまうのでしょうか。イエス様が厳粛に語られた「金持ちとラザロの話」の金持ちのように、彼はハデスまで下って行って火炎の中で苦しんでいるのです。ですから、神を信頼するかどうかということは、この地上だけの問題ではありません。永遠の問題なのです。

 この地上の様子を見ると、環境汚染はますます進み、不道徳が蔓延し、青少年による凶悪な犯罪が日常茶飯事のように多発し、何もかも暗いニュースばかりで、どこにも解決の糸口が見つかりません。この世界はすべてに行き詰まっています。しかし、キリストを信じる私たちには希望があるのです。「力から力へと進み」「上に上る」人生であり、「涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所」として行く幸いな人生が約束されているのです。私たちは、ますます聖書を深く味わい、みことばの中に生きる人生を経験したいものです。そして、そこには、間違いなく「力から力へ進む」勝利満ちた生涯があるのです。

●「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(イザヤ書40:28)。

●「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。 」(Ⅱコリント4:16)。

●「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」(箴言4:18)。

●「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ人への手紙3:20)。

●「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。 」(Ⅰテサロニケ4:16,17)。


 このように、クリスチャンには真の希望があります。私たちは、下って行く人生ではなく、最終的には天にまで上るのです。今はこの地上にあって生きていますが、国籍は天にあります。そして、そこから主イエスが再び、私たちを迎えに来てくださるのを待ち望んでいる者たちなのです。私たちの日常は、天気が晴れの日ばかりではなく、雨の日も、曇りの日も雪の日もあります。しかし、その雲の上には太陽が輝いているのです。同様に、私たちの日々も時々憂鬱に感じたり、意気消沈したり、落胆したりする日もあります。しかし、「神の愛」という太陽は常に輝いているのです。



★不幸の原因は人間の罪

2005-06-21 | 「人間の罪の問題」

  「愛に満ちた慈悲深い神様がおられるのなら、どうして、人間の世の中にいろいろな不幸や災いがあるのか。」ということばをよく聞くことがあります。確かに、昔からこの世は憂き世だ、苦の娑婆だ、涙の谷だと言って、喜んで世渡りをしている者は誠に少ないのが現実です。
 
 病気で苦しむ者もあれば、貧困に喘ぎ苦しむ者もおり、あるいは事業で失敗する者もあり、死別の悲しみもあれば、あるいは家庭の不和に悩む人もあれば、突然の事故に遭遇して一瞬に家族が不幸に見舞われることもあり、また時には、裕福な暮らしをしていても心の中には様々な不安や心配事と悩みで満ちている人々も少なくありません。また、世界中に起こっている戦争やテロの報復合戦の悲劇は、一体なぜなのだ!と人は言うのです。

 「もし、愛の神が本当にいるのであれば、もっと、人間を幸福に暮らせるようにしてくださってもよさそうなものではないか!‥‥」との人々のことばは、もっともな考えであります。私も、若い頃、最初に聖書を手にした頃、同じようなことを考えたことがあります。しかし、そこには、ちゃんとした説明のできる理由があるのです。神様が人間を、わざわざ苦しめておられるのではないのです。実は、人間が神様に背を向けて、罪を犯し、神から離れ、災いをわが身に招いているのです。人間の不幸と悩みは、外から来るよりも実は心の中から来るのです。 

 昔、こんな話を聞いたことがあります。ある町外れの飲食店に、夜おそく、大きな鞄を提げた立派な紳士が入って来て、時もおそくなって町の旅館は閉まっているから一晩泊めてもらいたいとのこと、見れば、相当のお金もありそうな、よいお客がやって来たと奥座敷へ案内し、丁重に取り扱いました。そして、こんな金持ちを泊めてもしか泥棒でも入ってはと、いつになく戸締りも厳重にし、これで安心と床に就いたのはよいのですが、実はそのお客が泥棒で、家人が寝静まったのを見届けてむっくりと起き上がり、着物から金庫のお金から、すっかり大鞄の中に入れて、こっそり出て行ってしまったのです。夜が明けてみて家人はびっくり仰天、しかし、泥棒を家に閉じ込めておいていくら戸締りを厳重にしても何の意味もないのです。

 そのように、どんなに自分の境遇をよくし、持ち物を豊かにし、教養を身につけて外側のことばかり作り上げても、心の中に罪を宿していては、泥棒を内に閉じ込めているようなもので、聖書は災いの最初の原因は実は心の中にあると言っているのです。しかし、罪といえば、「私には、罪などない。警察の厄介になった覚えもないし、刑務所に入った記憶もない。」と言われる方もおられるでしょう。
 
 しかし、例えばの話ですが、コレラやペストや赤痢などの病気は伝染病で、そのまま放置しておいては、大変で法律上このような伝染病の人は、隔離病院(棟)に入れることになっていますが、それなら、隔離病院以外に病人はいないかと言えば、そんなことはありません。もっと念の入った病気がたくさんあります。自宅で苦しんでいる人もたくさんいるのです。

 それと同様に、窃盗、強盗、殺人、放火、誘拐、詐欺‥‥などの恐ろしい罪を犯した人は放っておいては、社会を乱すことになるので、刑務所に入れますが、しかし、ねたみ、恨み、偽り、高慢、放蕩、淫乱、好色、不品行、などのように根深い心の病気がたくさんあって、自分も苦しみ、また他人をも苦しめているのが、世界の実情です。罪と言っても、外側に現れたものは実は枝葉で、心の中にその根があるのです。主イエス様は次のように教えられました。

●「人から出るもの、これが、人を汚すのです。 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねた み、そしり、 高ぶり、愚かさであり、 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」 (マルコの福音書7:20~23)。

 ですから、心の中の罪の思いがすべての犯罪の種であり、卵なのです。一つの卵でも暖めれば雛が飛び出して来るように、人の心の中からもいろいろな罪が飛び出して来るのです。人には、外に現れた罪だけしか見えませんが、神様はその種をも卵をも罪として取り扱い、これを処置なさるのであります。聖よい神の前に、「私には罪など一つもない。」と言い得る人がいるでしょうか。
 
 人間は、みな、「罪」という爆弾を抱えて世渡りをしているようなものです。その爆弾がいつ爆発するか、自分でさえも分からないのです。自分は、絶対人殺しなどのような恐ろしい罪を犯すことなどあり得ないと考えておられる方が多いと思います。でも、ちょうど、そのような犯罪を犯す条件下に置かれるならば、だれでもその可能性を否定することができないのです。

●「義人はいない。ひとりもいない。 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。‥‥‥すべての人は罪を犯したので、神からの栄光を受けることができず‥‥」 (ローマ人への手紙3:10~12,23)。
 
 ある人に一人の女の子があって非常に可愛がっていました。そこで子どもの方でも父親の帰りが待ち遠しくて仕方がありませんでした。毎日靴音が聞こえると飛び出して行って父親を迎えるのです。 父親もそのことが何よりも楽しみでありました。ところが、ある日父の留守中に、この娘が父親が大切にしていた床の間の花瓶を割ってしまいました。それで、その日に限って父の帰るのが怖くて仕方がありませんでした。父親の靴音が聞こえると、障子の陰に隠れてしまいました。

 小さな罪でも、それがこのように親しい親子の交わりを妨げる結果となるのです。それと同じように、神は愛に満ちた慈悲深いお方ですが、人間の心に罪があり、その生涯が汚れているならば、聖よい神様との交わりはできなくなるのです。地球の130万倍近くもある太陽でも、目に一枚の銅貨を当てればもう見えなくなります。そのように、心の目を罪が覆うならば、神様が見えなくなってしまうのです。

●「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。 」(イザヤ書59:1)。

●「主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。 」(イザヤ書55:7)。

●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。 」(ヨハネの福音書3:36)。


 イエス・キリストは、あなたの罪のために十字架で身代わりに神の刑罰を受けて死んでくださった救い主です。どうぞ、ご自分の罪をお認めになられて、救い主を受け入れ、幸福と希望に満ちた人生をお送りください。

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★一人の「人間」として・・・

2005-06-17 | 「聖書と人生」

(ルピナス:「藤の花」とよく似ていて花が上向きなので「昇り藤」とも呼ばれる)

みなさんの中には、いろいろな悩みを持っておられる方、心配事や日々の思い煩いや、人生の重荷でいっぱいの方もおられることでしょう。そして、学生の方であれば、学生の悩みがあると思います。若い方であれば、将来の結婚についての様々な不安など、また、主婦の方であれば、家事や育児のこととか、隣近所の付き合いとかの人間関係の悩みもあると思います。また、サラリーマンであれば、仕事のことや会社の将来がどうなるのかを考えての不安、定年を迎えようとしている方であれば安定した老後を過ごすことができるのだろうかという不安や悩みもあることでしょう。また、当然、病床に呻吟して暗い日々を送っておられる方には、さらに悩みも不安も大きいことと思います。

 しかし、今日、みなさんに学生であるとか、家庭の主婦であるとか、会社員であるとかではなく、一人の人間として、根本的な「人生の問題」をお考えいただきたいのです。学生さんであっても、主婦の方であっても、サラリーマンであっても、あるいは、独身の方であろうと結婚していようと、私たちは一人の人間であることには変わりはないのです。そして、人間ならば、西洋人であろうが、東洋人であろうが、また肌の色や国籍にも関係なく、老若男女を問わず、貴賎貧富にも関係なく、一人の人間として「普遍的な共通している問題」があるはずであります。もし、ないと言えば、あなたはご自分を偽っていることになります。必ず死に直面しなければならない人間にとって、これらの悩みが全くないということは考えられません。

 子供のとき、私たちは「お母さん、どうして?」とか、「先生、何故なの?」とかいうことばをよく使いましたね。幼い時は、だれでも素直なのですね。でも、大人になると、「なぜ?」「どうして?」という言葉をだんだん使わなくなって来るのです。大人になると、「こんなこと聞くの恥ずかしいや!」と考えたり‥‥、だんだんプライドが出て来るからでしょうか。一人の人間として、人生の根本的な問題を真面目に考えようとしなくなることが多いのです。人生について真面目に考えず、その日、その日を仕事や家事に追われて、二度と繰り返すことのできない貴重な人生についての疑問を真剣に考えずに過ごされる方、その日その日を、面白おかしく無意味に過ごしている方もおられるかもしれません。

 「人間はどこから来て、何のために生きて、どこに向かって生きているのか?」とか、「人生の意味は何なのだろうか?」、「今、私は何のために勉強し、仕事をしているのだろうか?」、「人間はなぜ罪を犯すのか?」、「人間は、死後どうなるのだろうか?」、「永遠の未来はどうなるのか?」、「人間がアメーバーから進化して出来た偶然の産物であるというのは本当なのだろうか?」など、考えれば人生疑問だらけであります。ある方は、「そんなこと考えたって、どうせ答えは出ないのだから無駄じゃないの!」というかもしれません。そのように、いろいろ考える前に自ら答えを出して諦める人たちもいます。

 しかし、聖書は熱心に求めれば、必ず神に出会い、真理を見出すことが出来ると言っています。この聖書こそ、あなたを真理に導くものであり、「人生の道しるべ」であると私は確信しています。「いかにして?」(How)の前に、「なぜ?」(Why)の解決が必要である、とある人は言いましたが、そのことばは真実ではないかと思います。今の時代、「いかにしたら、お金を上手に儲けることができるか?」とか、「どうしたら、美しくなれるか?」とか、「どうしたら、幸せな結婚ができるか?」とか、「どうしたら、子供を上手に育てることができるか?」とかいう類の目先の問題の解決法などが書かれた書籍が本屋さんに行くと、山と積まれていますね。しかし、「人間は今なぜここにいるのか?」「人生の意味は何なのか?」「死に備えはできていますか?」などという本はほとんどありませんし、あっても誰も買おうとしないでしょう。

●「初めに、神が天と地を想像した。」(創世記1:1)
  
●「あなた(神)のみことば(聖書)は、私の足のともしび、私の道の光です。」 (詩篇119:105)。

●「みことば(聖書)の戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」(詩篇119:130)

●「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(Ⅱテモテ3:16)

●「この天地は滅び去ります。しかし、わたし(イエス・キリスト)のことばは決して滅びることがありません。」(マタイの福音書24:35)。 


●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 」(ヨハネの福音書3:16,17)。

●「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。 」(ペテロの第一の手紙5:7)。


 「私は樹を伐(き)るのに忙しくて、斧を見る暇がなかった。」という諺を聞いたことがあります。樹を伐ること、つまり、毎日の仕事をこなして行くことに心を奪われ過ぎて、伐っている斧、すなわち、自分を顧みる(または省みる)ことを忘れ、気がついた時には、刃は欠け、ボロボロになっているということがあるのかもしれません。「忙しい」という字は、リッシンベンの語源「心」と「亡くなる」が合わさって、「心を亡くする」と書きます。あまりにも多忙な生活は、その忙しさの故にに自分自身を見失わせることがあり得るのです。また、「忙しい」は、その書き方を変えると、「忘れる」という字になり、現代のあまりにも多忙な生活は、自分を忘れさせ、見失っている原因になっていることは確かであります。 今一度、立ち止まって、人生の本来の意味について考えて見ませんか。



★今こそ決断の時です!

2005-06-14 | 「人の死とその備え」

■□■□   ある青年が、初めて家を離れて、大学に入りました。彼の両親はクリスチャンだったので、その家庭生活は聖書の教えに基づいていました。大学生になった息子は、家から離れたこの機会に、この世のいろいろな快楽を経験したいと思いましたが、小さい時から聖書の話を聞かされていたので、罪を赦されないまま死んで神に会うことが怖かったのです。 青年は、その大学教授のひとりがクリスチャンだと知って、その教授に相談に行きました。「先生。ぼくは死ぬ前に神に会う準備をしたいのですが、どのくらいの時間があればよろしいでしょうか。」
 
 その学生の質問に教授は、「5分もあれば十分でしょう。」と答えました。青年はそれを聞いてちょっと驚きましたが、大いに安心して、お礼を言って帰ろうとしました。これからも思う存分に快楽や罪を楽しんで、自分の人生の終わりが来たときに神の赦しを得て救われようと考えたからです。しかし、教授が学生を呼び止めて言いました。「今度は、私が君に質問したいことがあのだが、答えてくれるかね。」「はい、何でしょうか。先生。」と学生は不思議そうに尋ねました。「君はいつまで生きると思いますか?」その学生は答えました。「さあ、それは誰にも分からないと思います。」

 そのあと教授は次のように言ったのであります。「それなら、今すぐ、神に会う備えをした方がいいですよ。あと5分生きられるという保証は何もないのですから。」このあと、この青年がどういう行動を取ったかについては、みなさんのご想像にお任せしたいと思います。しかし、今日、多くの人々がキリストの福音(良きおとずれ)を聞いても、この青年と同じように考えています。若い時には、好きなことをして、年を取ってから死ぬ直前に、神に呼び求めて救われたらそれで良いのではないかと考えるのです。しかし、一体だれが自分の死ぬ時を知っている人がいるでしょうか。

 このように考える人々の多くは、(新約聖書のルカの福音書23章の記事にあるのですが)主イエス様といっしょに十字架につけられた二人の強盗のうちの一人が、その生涯の最後に赦されて天国に行ったことを引き合いに出して弁明しようとします。そこで、この出来事をもう少しよく考えて見たいと思います。犯罪人の一人と数えられ苦しんでおられた救い主イエス様が、二人の強盗の間で十字架につけられたのであります。そして、それは真中の十字架にかけられたイエス・キリストは、その三人の中で一番悪い者とされたことを意味しております。

 初めのうち、強盗は二人ともイエス・キリストをののしっていました。けれども、主イエス様の苦しんでおられる姿を見、また主イエス様がご自身を十字架につけた者たちのために「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」(ルカ23:34)と祈られるのを聞いて、一人の強盗は、自分の罪を認め、今までの神に背を向けた罪の人生を悔い改めたのです。そして、その悔い改めた強盗の一人は、「イエス様。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」という、すばらしい信仰の告白をしました。これは実にすばらしい信仰告白です。血を流しつつ、苦しんでおられる主イエス様は、決して王様らしくはありませんでした。しかし、信仰の目をもって、その強盗はイエス様は確かに主であり、王でると認めたのであります。

 この強盗は永遠にこのようなすばらしい優れた御方、偉大な救い主と共にいたいと願ったのであります。そして、救い主イエス様は彼の祈りに答えてくださり、彼は救われたのです。けれども、もう一人の強盗がいました。彼もイエス様の脇にいて同じことを見、同じことばを聞きました。しかし、彼が救われたとは、聖書のどこにも書かれていません。イエス様といっしょに十字架につけられた二人の強盗の一人は救われて、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」との幸いな約束のことばをいただき、もう一人は滅びたのであります。

 聖書が十字架の二人の強盗の出来事を記録している理由は二つあります。そして、その一つの理由は、死の直前でも、悔い改めた一人の強盗が救われたのですから、どのような状況にある人でも最後まで絶望しないで神の恵みにすがるならば、救いを受けることができるということを教えているということです。臨終の最後の数分でも、救われるチャンスはまだ残されているということであります。そして、もう一つの理由は、もう一人の強盗が前の強盗と同じイエス様を見、また十字架上のとりなしの祈りを聞いたのに、救われることなく永遠に滅びたという厳粛な事実であります。ですから、神が与えておられる救いのチャンスをあとに引き伸ばしてはいけない、決断の時を遅くしてはならないということを教えているということです。

●「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。 悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。 」(イザヤ書55:6,7)。

●「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』という年月が近づく前に。」(伝道者の書12:1)。

●「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」(箴言27:1)。

●「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント人への手紙6:2)。


 神様は、憐れみ深い御方であり、悔い改めて神に立ち返るなら、救い主を受け入れる者はだれでも無条件で赦し、受け入れてくださるのです。求めても遅すぎることがあることを聖書は教えています。「遅すぎる決断は決断しないのに等しい。」というのは真理であります。神の恵みの時は永遠に続くのではありません。ルカ伝16章の「金持ちとラザロ」の話で、あの金持ちは死んでから求めましたが、すでに遅すぎたのです。ノアの大洪水の時も「主は彼(ノア)のうしろの戸を閉ざされた。」(創世記7:16)とありますが、戸が閉ざされたあと、人々が救いを求めてもすでに遅すぎたのです。

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★一体だれが造ったのですか?

2005-06-11 | 「神の存在について」

     

  万有引力の法則を説明したニュートンはある時太陽系の立派な模型を造ってもらいました。太陽を中心にして六つの惑星の速度の割合は実物と同じような比率で加減され、お互いの惑星間の距離も実物と同じ比率で造られていました。ただHandleを廻すことだけで、ちょうど実際の太陽系のように動きました。ある日、無神論者である友人A氏が部屋に入って来ました。彼は、驚きの目をもって模型の方へ行ってハンドルを廻しました。非常に感嘆した彼は言いました。「おぉ~、これはすばらしい!!一体だれがこれを造ったんですか?」とA氏は質問しました。それに対して、ニュートンはある意図があって「だれが造ったのでもありませんよ。その材料は自然に集まって来て、この模型が出来たのですよ。」と答えました。

 「君、私をからかわないでくれないか。私は馬鹿ではありませんよ。もちろん、だれかがそれを造ったはずです。造った人は天才です。是非、造った人を教えてください。」と、友人のA氏は言いました。それから、ニュートンは彼の肩に手を置いて、「これはあなたのよく知っている広大な『太陽系』のつまらない模型に過ぎません。このおもちゃのような物には、設計者も造り主もいないとは信じられないでしょう。しかし、この模型よりはるかにすばらしい太陽系が自然に出来たとあなたはいつも言っています。どうしてそんな非常識なことを考えるのですか。」と天地万物の創造主を信じていたニュートンは尋ねました。その話を聞いて、その時まで無神論者であった彼は、すぐ今までの考えを捨てて聖書に書かれている「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)ということばを堅く信じるようになったというエピソードが残っています。

 みなさんも、今までの先入観を捨てて宇宙の神秘的な事実を真正面から正直な心で考えましょう。地球のことを研究すると不思議な事ばかりです。まず、太陽からの距離はちょうど適当な距離になっています。今の二倍なら、水はすべて凍ってしまうし、その半分の距離なら、あまりにも暑くて動物も人間も生存不可能です。また、地球の自転の速度を10分の1に減らした場合、昼と夜の長さは10倍になり、やはり生きることができません。地球の表面積の陸と海の割合を逆にしたなら、雨はほとんど降らず、地は砂漠になってしまうのです。地球に23度の角度の傾きがなければ、春、夏、秋、冬の四季もなくなってしまい、赤道に近い所だけに野菜や果物が出来るのです。地球と月との間の距離を4分の1にすると、非常に激しい海の潮によって陸はなくなってしまいます。

 このように書くならきりがありませんが、私たち人間は広大な宇宙、地球のすばらしい景色、美しい花、五感を持っている不思議な人体などを見て、これらのものがすべて進化論者が言うように「偶然の産物」であると考えることができるでしょうか。これは、まことに非理性的、非科学的な考えです。適当な例えではないかもしれませんが、印刷所が何かの原因で爆発して、それによって、偶然にすばらしい百科事典が百冊もできるなどということがあるでしょうか。また、ピアノの鍵盤の上を猫が行ったり来たり往復しているうちに、すばらしい名曲が生まれるというようなことがあるでしょうか。しかし、この広大な宇宙や霊魂があり思考力を持った人間が偶然に出来るということを信じることはそれよりもはるかに困難なことです。創造者の存在の事実を認めるということは、人生のすべての問題に優先して真剣に考えるべきことです。

 人々は人間に命を与え、人間を生かしておられる神に背を向け神に反逆しているために現在の世の中は何もかも狂ってしまったと言えるのではないでしょうか。国家間の争い、人命を軽視する風潮、凶悪犯罪の急増、地球環境の悪化、目を覆うばかりの不道徳、人間は神中心に生きるべきであったのに、人間の自分勝手な自己中心の罪の結果、今のような堕落退廃した汚れた世の中になってしまったのです。みなさんも今までの人生を振り返ってみて下さい。なすべき正しいことを知りながら、何度もそれをしなかったことがありませんか。また、してはいけないとよく知りながら、それをしてしまったことはないでしょうか。聖書によると、そのことは罪なのです。人間には良心がありますから、当然それを知ることができるはずです。

 しかし、神様はこのような罪深い人間に救いの道を開いてくださいました。自分の努力によって自分を救うことはできませんが、約2,000年前、神はご自分のひとり子であるイエス・キリストを救い主としてこの世に遣わしてくださいました。キリストが十字架の上で死なれたのは、私たちが受けるべき刑罰の身代わりだったのです。それによって神はご自分の大いなる愛を人間に示してくださったのです。キリストは十字架で死なれましたが、預言通り、死後三日目の墓よりよみがえられました。神の前に、自分の罪を認め悔い改めて、キリストを個人的な救い主として信じ受け入れるならば、だれでも例外なく救いを受けることができるのです。

●「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)。

●「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」(ローマ人への手紙1:20)。


●「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。」(ガラテヤ人への手紙1:4)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。



 

★「愛」がなければ・・・・。

2005-06-08 | 「神の愛について」

明治の文豪と言われた徳富蘆花の歌に、「人は愛せずして生きるあたわず。愛されずして生きるあたわず。」というのがあります。また、ドイツの文学者ゲーテは、「天には星がなければならない。地には花がなければならない。人の心には愛がなければならない。」と言いました。真の愛のない人生は空しいものであります。人は誰からも愛されていないと考えた時、非常に孤独に感じるのです。特別な例外を除いて人は、全く愛を失って、「自分はひとりぼっちだ・・・」と考えたとき、生きる望みも気力もなくなり、死を考えることがあります。人は愛なしには生きられない存在だからであります。日本では、年間約3万人位の自殺者がいますが、先進国の中でも、これは際立って高い数字です。そして、そのうちの多くは誰からも愛されていないという孤独感によるものと言われています。

●「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義 とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与 え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 愛は決して絶えることがありません。 ・・・・・・ こういうわ けで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。 」(コリント第一の手紙13:1~8、13)。

 新約聖書の中で、このコリント第一の手紙13章は、一般に「愛の章句」として、最もよく知られている箇所の一つであります。この章は、「愛の賛歌」とも言われています。この所には、私たちの人生において、最も大切なものは「愛」であると教えられています。他に何があったとしても、愛のない人生には、「何の値打ちもありません。」(2)と教えられています。人生の値打ちは愛のあるなしによって決まるというのであります。また、愛がなければ「何の役にも立ちません。」(3)とも語られています。神と人に対して役立つ有意義な人生であるかどうかは、愛があるかないかによって決まるというのであります。

 いくらお金があっても、地位や名誉があっても、体が健康であっても、もし愛がなければ、その人の人生は空しいものであると聖書は教えています。人間関係の問題の大部分は、愛の欠如によるものであると言っても過言ではないと思います。人間の不幸も悲しみも、人肉親の間の確執も、国家間の戦争も、みんな人の心に真の愛がないことが原因であります。そして、人生の問題のほとんどは、愛があれば解決できる問題です。現代は、家庭でも、学校でも、職場でも、「愛」がどんどん失われつつある時代です。何か殺伐とした荒(すさ)んだ潤いのない世の中になって来ているのではないでしょうか。

 動物は与えられた本能によって生きているだけで満足しているので、愛のゆえに悩んで自殺したりすることはありませんが、人間にとってこれは深刻な問題であります。人間は愛する者、愛される者として造られた存在だからであります。人は対物ではなく、対人関係の中に生かされているのです。「物質」は人の心の渇きを満たしてはくれません。どんなに多くの富や財産に囲まれ、立派な邸宅に住んでいても、人の心の渇きは満たされないのです。フランスの詩人ユーゴーは「人生最大の幸福は、自分自身のいかんにかかわらず、愛されているという確信である。」と言いましたが、まさにそのとおりであります。

 しかし、問題は移ろいやすく不安定な人間の愛ではなく、神に愛されているという確信を持つことであります。私たちの周りには愛があるようで、実は本物の愛を見出すことは非常に困難です。世の中には、確かに母親の美しい愛もあれば、友人の愛、男女の愛など、愛があるように見えるのですが、しかし、それらはみな自己中心的な愛であります。明治~大正時代にかけての小説家有島武郎は、「愛の表現は惜しみなく与えるだろう。しかし、愛の本質は、奪うものである。」と書いています。彼は、内村鑑三の影響で一時は聖書に触れたことがあるのですが、神の愛もキリストの十字架の福音も知らずに死んだ人であります。人間の愛の本質は、自己中心的であります。表面的には美しく見えても、本質は自己中心的であり、条件付きでしか人を愛せない者たちであります。

 コリント第一の手紙13章には、神の本物の愛(アガペーの愛)の特質が書かれています。普通の人が考える愛と全く違うことがお分かりいただけると存じます。しかし、これが真実な愛であるとすれば、このような崇高な愛はだれひとり持ちあわせていないことが分かります。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます・・・・・」(4~7)の箇所を読めば、自分はいかに愛のないものであるかということに気づかされるのであります。この「愛」ということばの代わりに、「自分の名前」を入れて読んでみると、非常に違和感を覚え、不釣合いで、大抵の人は、このみことばに心が鋭くえぐられて、すぐに自分は愛のない人間であるということに気づくのであります。

 しかし、この「愛」という文字の所に置き換えてぴったりと合うお名前のお方が、世界でたった一人だけおられます。それは、まさしく「イエス・キリスト」であります。例えば、「キリストは寛容であり、キリストは親切です。また人をねたみません。キリストは自慢せず、高慢になりません・・・・」と入れ替えて読んでみても、全然違和感がないばかりか、ぴったりと当てはまるのです。このような崇高な愛を持っておられる御方は、イエス・キリスト以外にはだれ一人いないのであります。そして、本当の愛というのは、神様だけが持っておられるのであって、神はご自身の愛する御子イエス・キリストをこの世に遣わされて、目に見える形で、その愛を十分に表してくださいました。そして、その愛のクライマックスがキリストの十字架なのであります。

●「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 」(ヨハネの第一の手紙3:16)。

●「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。 」(ヨハネの第一の手紙4:9)。
 

 神を信じ、キリストを個人的な救い主と信じる時に、今まで経験したことのない愛の中に生きることができます。「愛」とは重荷とはなりません。たとえば、同じ5kgの重さでも背中におんぶしている赤ちゃんは重く感ぜず、背負う荷物は赤ちゃんより重く感じるのです。それはなぜかと言えば、「愛」の有無によるのです。母親は、一生の間にわが子のために毎日毎日どれだけの仕事をするでしょうか。しかし、その労働のためにたったの一円のお金も要求しようとはしません。それは愛のゆえであります。そして、神の愛によって人が変えられる時に、今まで重荷と感じていたこともそれほど重く感じなくなるから不思議であります。

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★「善悪」の天秤と天国

2005-06-04 | 「人間の罪の問題」



  私は若い時に、ある方と聖書と人生について、また、死後の問題や天国と地獄のことを話す機会があったのですが、この方は、ある考え方を持っていました。その方の意見はこうでした。大体の内容は次のようなものであったと思います。「私は、このように考えますがどうですか。人間には誰でも善悪があります。そして、一人の人間の生涯の間の善悪を天秤にかけて、『善』が『悪』よりも多ければ、死後天国に行き、『善』よりも『悪』の方が多ければ、残念ながら地獄に投げ込まれると考えています。」 今日でも、このような考えをお持ちの方が結構多いのではないかと思います。

 私はある小冊子で読んだこを思い出して、その方に次のように答えたのです。「例えば、Aさんという男の人が今日、赤十字社の事務所へ行って、5万円を寄付したと仮定しましょう。この団体は、洪水とか台風、疫病の流行している時などに人々を救護したり、その他いろいろな慈善を行っているのですから、この寄付行為を善と考えても差支えないですね!」その方は、「はい、あなたのおっしゃる通りです。」と返事をしました。それを聞いて、私は話を続けました。「しかし、受け取りを貰って事務所を出たAさんは、帰途、ちょうど空腹だったので、果物屋の前を通りかかった時、美味しそうなリンゴを見て、これは大好物だと思って、店員さんが見ていない時に、リンゴを手に取って素早くポケットに入れ、家に急いで帰ろうとしました。ところが、向こう側に立っていたお巡りさんがこれを見て、後をつけて来ました。ここまでの話は分かりましたね。これは、あくまでも仮定の話ですよ!」

 彼は「はい、分かりました。」と答えました。「‥‥それから、お巡りさんは、後ろからついて来て、『これ、これ、お前はここで何をしているのかね』と声をかけ、そのあと、次のような会話が続きました。『は、はい!リンゴを食べています。』『それは分かっているが、どこから来たのか』『あの~、あっちの果物屋から来ましたよ』『それも分かっている。でも、それは実は盗んだものではないのか』と聞かれたのです。Aさんは、慌てて『あの~、実はその通りなのです。私はこのリンゴを盗みました。どうか、お許しください。』と懇願しました。お巡りさんは、『他人の物を盗んでおいて、許してくださいとは何事だ!!』と厳しく答えました。‥‥」

 以下、次のように話は続きました。「‥‥Aさんは、それを聞くとすぐ、ポケットから先程の受け取りを出して、自分の立場を弁明しました。『お巡りさん、どうか、これを見てください。これは、私が先程5万円の善行を行った証拠ですよ。だから、今回の1個100円のリンゴを盗んだことくらい許してくれてもいいではありませんか。5万円から100円の悪を引いたとしても、4万9千9百円の善が残っているではありませんか。』とAさんは答えました。」というような話をしたのです。 私は「さて、もし、あなたがお巡りさんだったら、なるほど!と感じて許すでしょうか。」と彼に尋ねました。これを聞いた彼は、笑ったまま何も答えることができませんでした。

 また、次のようなことを仮定として考えてみてください。ある人が車を運転していて、通りがかった道の橋の下の川で子供が溺れているのを見ました。それで、彼はそれを見て、かわいそうに思い、急いで車を止めて、川に飛び込んで命がけでその子供を救助したのです。その後、彼は運転中に不注意のため、わき見運転中に事故を起こし、人を跳ねてしまいました。さて、この人は最初に一人の子供を救助する善行を行い、その後で不注意のために事故を起こし、通行人に大怪我をさせてしまったのですが、この人は最初の善行のゆえに、後に犯した罪がすべて許されるということがあるでしょうか。

 読者のみなさんは、私が言いたいことがお分かりだと思います。私たちは、人生の中で、誰でも善と悪を行ったことがあると思います。どんなに善が勝っているように見えても、たった一つの悪さえ消す力はないのです。従って、悪の一つ一つに神の刑罰があることは明白ではないでしょうか。その上、人間の善行は自分や他人の目から見た善行であって、まったく聖よい神の目には「汚れた衣」のようであり、善行などというものは実はないのです。聖書にも「善を行う人はいない。一人もいない。」と書いてあります。人は、常に自分より悪い人と比較して、「自分は、あの人よりは勝っている!」と、勝手に考えて自己満足しているのです。10円盗んでも、1億円盗んでも、泥棒であることには違いありません。1回嘘をついても、1万回嘘をついても「嘘つき」であることには、変わりはないのです。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。 

 私たちは、この神より受ける死後の刑罰から、どのようにしたら救われるのでしょうか?難行苦行や善行によってでしょうか?また、人間が作り出した宗教によってでしょうか。いや、決してそうではありません。神の前にはすべての人は有罪者です。有罪者の私たちは、神様の恵みと憐れみによらなけば、永遠の滅びに至る以外にないのです。愛と憐れみに満ちておられる真の神様は、哀れな私たちを救うために、御子イエス・キリストを遣わされました。これは、驚くべき神の愛であります。

●「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(コリント人への第二の手紙5:21)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。 

●「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 神は、キリスト・イエスを、その血に よる、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。」(ローマ人への手紙3:23~25)。


 このように、私たちは、神の御前にはみな罪人ですが、キリストが十字架上で、私たちの身代わりとなって神の刑罰を受けてくださったので、有罪者であってもキリストを信じる者は罪赦され、神の御前に義(正しい者)とされるのです。あなたも愛の神様の救いの御手を拒まないで、是非この尊い救いをお受けくださいますように。

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★偶像の空しさと真の神様

2005-06-01 | 「神の存在について」
   
八百万(やおよろず)の神と言いますが、日本では神様と言えば、随分いろいろなものを神様として拝んでいます。ある所に、毎朝必ず東の方角を向いて太陽に手を合わせて拝んでいるお爺さんがいました。ある晩、そのお爺さんが、提灯(ちょうちん)を手にして、一人の知人(実は、この知人は真の神様を信じていたのですが‥)の道案内をしました。しばらく歩いて、ようやく目的地に着いたときに、その知人はお爺さんには一言のお礼も述べず、いきなり、わざと提灯にひざまづいて「提灯さん、ありがとうございました。お陰で、この暗い夜道を無事に来ることが出来て本当に助かりました。」と、お礼を言いました。それを見て、人のよいお爺さんも、自分が馬鹿にされているような気持ちになり、ひどく立腹して、その知人に文句を言ったのだそうです。

 すると、その人はそのお爺さんに言いました。「お爺さん、あなたも実は同じようなことをしているのですよ。あなたは、毎朝太陽を拝んでいますが、太陽は言わば、神様が世界を明るくするために宇宙にぶら下げてくださった提灯(ちょうちん)のようなものなんですよ。太陽が神様ではないのです。だから、私たちは、太陽をお与えくださった造り主であられる神様にだけ感謝とお礼をささげなければならないのですよ。」・・・・・・・

 このお話でもお分かりと思いますが、太陽はすばらしくできていて人間に必要な熱や光を与え、また、植物の成長にもどうしても必要なものであり、私たちは大変な恩恵を受けているわけですが、太陽は神ではありません。ですから、太陽は拝んだりする対象ではないのですね。また、動物や、人間にかたどって作られた木や石や金銀、また、紙や板に書かれたり刻まれた文字を拝んだりすることは愚かなことです。また、生きた人間を神として拝むことも愚かなことですが、人間の手で作られた偶像や宮を拝むことも愚かなことです。真の神様は、人間の手で造られたものではなく、天地宇宙だけでなく、人間をも造られた偉大な御方であり、日々恵みの中に生かしてくださっておられるのです。

 今から約二千年ほど昔、偶像がいっぱいに満ちていたギリシャの首都アテネで、使徒パウロは心に憤りを感じて偶像の空しさと真の神について次のように語って、悔い改めて神に立ち返るように人々に迫ったのであります。

●「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。 また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。‥‥‥そのように私たちは‥‥神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。 神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」(使徒の働き17:24~29)。  

 預言者イザヤは、神の聖霊に導かれて、次のように偶像を造ることの愚かさについて語っています。これを説明すれば、低学年の小学生でも理解できます。それなのに、大学を出た大人でも、この単純な真理が分からない人が多いのです。サタンによって霊的な目が曇って見えなくなっているのですね。高等教育を受けて創造者である神の存在を否定する者が、人間の手で作った偶像に手を合わせて、「どうぞ、守ってください。救ってください。」と祈ったりすることに何の矛盾も感じないことは、本当に不思議なことと言わざるを得ません。
 
●「わたし(唯一の神)のほかに神があろうか。‥‥偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。 だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。‥‥鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。 木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。 彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。‥‥‥ それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。 その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。 その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う 。」(イザヤ書44:8~17)。

●「わたし(真の神)をだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。袋から金を惜しげなく出し、銀をてんびんで量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これにひざまずいて、すぐ拝む。 彼らはこれを肩にかついで運び、下に置いて立たせる。これはその場からもう動けない。これに叫んでも答えず、悩みから救ってもくれない。」(イザヤ書46:5~7)。 

●「私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。 彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。 口があっても語れず、目があっても見えない。 耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。 手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。 」(詩篇115:3~8)。

●「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人(となられた方)としてのキリスト・イエスです。 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。 」(テモテへの第一の手紙2:4~6)。