聖書から人生を考えよう

私のプログへようこそ!!
お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★人生と限られた時間

2005-12-31 | 「聖書と人生」
  
              
 
  「一年は365日である」と思っておられる方が多いと思いますが、正確には365日5時間48分45.578秒です。ですから、4年に1度の閏年が必要なのです。地球は1日に1回自転しながら、毎年365日5時間48分45.578秒の時間で精密に太陽の周りを一周するのです。一体、だれがこの千分の一の位まで正確に決めているのでしょうか。創造者なる神以外に考えられません。また、地球が太陽の周りを廻るその運動は千分の一秒の狂いしか生じないほど正確なのです。だからこそ、何百年も前から、日食や月食の日を予告(予知)できるのです。神が存在しないとしたら一体だれがこの自然法則を造ったのでしょうか。神は秩序正しくこの宇宙とすべてを動かしておられるお方であり、このお方に対して畏敬の念を持つことは正しいことであり、当然のことではないでしょうか。

 それでは一体、「時間」とは何なのでしょうか。時間は神が創造されたのです。聖書開巻第一ページの冒頭には「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)と記されてあります。この「初めに」というのが時間の初めなのであります。聖書には「山々が生まれる前から、あなた(神)が地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえ(永遠)からとこしえまであなたは神です。」(詩篇90:2)と書かれていますように、絶対者であられる神は「永遠」の御方であります。時間の中に生かされている人間は永遠というものを理解することができません。時間をどんなに長くしても、それはやはり時間であって永遠とはならないのであります。何千億年という長い時間を考えてもやはりそれは永遠ではありません。永遠は単なる長さではないのです。知性が与えられている人間でもこの「永遠」は理解できない真理なのです。そして、この時間を支配しておられるのは「永遠の神」なのです。

●「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」(伝道者の書3:1,2)。

●「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。 」(伝道者の書3:11)。


 人間は永遠を理解できませんが、しかし永遠を考えることはできるのであります。神は、「永遠への思い」を人にお与えになられ、そのように人をお造りになられたのです。動物は永遠を考えることはできませんが、人間はそれができるのです。そして、人間はいつかやがて死を迎え、死の向こうに「永遠の世界」があることを知っているのであります。「時間」は、私たちを死まで運ぶベルトコンベアーのようなものです。私たち一人一人がこの世に生まれた瞬間から、刻々と死に向かって確実に時間は流れているのです。

●「あなた(神)が人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。‥‥‥まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。‥‥‥それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」(詩篇90:5~12)。
 
 人間の一生に与えられた「時間」は限られており、決して長くはないのです。「時間」の大切さをどれだけの方が理解して生きているでしょうか。あまりにも多くの方が無駄なことのためにその時間を費やしているのではないでしょうか。「世の中には様々な統計がある。その中にはまやかしの統計も多い。しかし、この世の中に絶対に間違いのない統計が一つだけ存在する。それは、人間の死亡率が100%であるという統計である。」とある学者は言っていますが、これは含蓄のある真実な言葉であります。しかし、なぜ人々は死亡率100%なのにその「死」のために備えようとしないのか、不思議であります。人生の時間は限られており、それを知って死のために備えることは賢明な知恵のあることです。

 同じ時間でも、自然が豊かな田舎では何故かゆったりと時間が流れているように感じ、都会の喧騒の中では、ものごとがめまぐるしく動き、時間がものすごい早さで流れて行くように感じることがありませんか。そして、今の時代はあらゆることにおいてスピードが求められ、時間を節約するためにあらゆる文明の利器があふれています。「一体、人類はそんなに急いでどこに向かって行こうとしているのか」と考えることはありませんか。現代はスピードがすべてに優先され、かけがえのない人の命よりもスピードが優先される価値観が歪んだ時代であります。確かに便利な世の中にはなりましたが、そのスピードは人を幸福にするよりも、人類が滅亡に向かって突進しているかのように見えることがあります。明確な行き先が分からないままスピードだけがどんどん加速されて行くことに恐ろしさを感じることはないでしょうか。そして、狡猾な悪魔は「死」という現実から目を逸らさせようと絶えず人の心に働いていることは間違いのない事実なのです。

●「あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。」(ヤコブ書4:14)。

●「あなたの若い日に、あなたの創造者(神)を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また、『何の喜びもない。』という年月が来る前に。」(伝道者の書12:1)。

●「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」(箴言27:1)。 
 
 どうか、この大晦日の人生の節目に、今一度立ち止まってあなたの人生において何が一番大切な問題なのかをお考えになってみませんか。では、みなさん、良いお年をお迎え下さい。 この一年間、大変ありがとうございました。  

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★宿屋には部屋はなかった・・・

2005-12-27 | 「キリストの偉大なる生涯」
 
         

●「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(ルカの福音書2:1~7)。

  ここに、救い主が誕生された時のことが書かれています。イエス・キリストがお生まれになった当時のユダヤ人たちが首を長くしてその誕生を待っていたかというと必ずしもそうではなかったようです(一部の人を除いて)。反対に、当時の世の中の人たちは自分自身のことに忙し過ぎて、キリストがお生まれになるための部屋すら提供しようとはしませんでした。そのためにキリストは家畜小屋でお生まれになられたのであります。それだけでなく、もし神が御使いたちを送って羊飼いに知らせなかったならば、また、星を送って東方の博士たちを導かなかったとしたら、だれひとりキリストの誕生に気づかなかったかもしれないのです。

 そして、今の時代の人たちも全く同じであるということが言えます。世の中の人たちはみな多忙を極めていて、キリストが誕生された意味や目的について、関心を払う人はほんの僅かしかいないのです。だれもかれもみな、自分の生活のことで心がいっぱいで、イエス・キリストが私たちのための救い主として来てくださったのに全く無関心であります。仕事のために忙しい人、生活を楽しむために忙しい人、生活向上のため、子供の教育のため、慈善や社会奉仕のために忙しい人、何かの研究に忙しい人、また、お金を貯めるために忙しい人もいます。そして、誰も自分たちの心の中にキリストを迎えるための部屋を作ろうとしないのです。

 もちろん、多忙なことは必ずしも悪いことではありませんが、イエス・キリストに対して全く無関心になるほどにこの世の生活に没頭してしまっていることが問題なのであります。そして、宿屋以外の場所にもキリストを迎える場所がなかったのであります。王の宮殿にもキリストを迎える場所はありませんでした。ローマ皇帝にとって、ナザレから来た卑しい大工(ヨセフ)と彼の連れ合いであるお腹の大きなマリヤのために部屋を提供することは全く馬鹿げたことであったことでしょう。また、ユダヤの王ヘロデもキリストのために部屋の用意をするどころか、東方の博士たちにキリストの降誕を知らされると、幼子(イエス)を殺す陰謀をさえ現実に企んだのであります。また、この世の賢者たちや学者たちのうちにもイエス様を迎える部屋を用意する人はだれもありませんでした。

 しかし、権力者や地位のある人、知恵のあるや高貴な人はキリストが来られた時冷淡であったかもしれないが、私たちのような庶民は違うのではないかと思われる方もおられると思います。私たちは時々、庶民は裕福な人たちより情け深く、慈悲の心があると考えるかもしれません。ところが、実際は必ずしもそうではないのです。実際、上に記したみことばにあるように、「宿屋には彼らのいる場所がなかった・・・・」(7)のであります。キリストの時代の「宿屋」というのは、金持ちや高貴な人たちの宿泊する場所ではなかったのです。裕福な人たちは友人宅に迎えられます。宿屋は、他に行き場のない庶民のための宿泊施設であったのです。そして、イエス様のための場所がなかったのは、まさにその場所だったのです。

 多分、当時、宿屋は住民登録のためにそれぞれ自分の町に向かっていた旅人たちでごった返していたと思われます。そして、部屋は一つ残らずふさがっていました。そして、だれ一人として身ごもっていたマリヤとその夫ヨセフのために部屋を譲る人はありませんでした。長旅で疲れきっていた二人が泊まる部屋はなかったのです。------こうして、キリストは締め出されて、「家畜小屋」で生まれる運命となったのであります。彼らはみな庶民でありましたが、やはりみな自己中心であり、自分の生活のことしか考えない者たちであったのです。そして、救い主の誕生に無関心であったのです。そして、彼らも自分の心の中にキリストを迎え入れる部屋はありませんでした。

 そして、今日も同様に私たちのたましいのあらゆる部屋は、世の中のあらゆる様々な関心事でぎゅうぎゅう詰めになっているのではないでしょうか。持ち物、快楽、仕事、事業、お金、人々の賞賛や歓心を得ることなどであります。どうでしょうか。あなたは、キリストを汚い家畜小屋に追いやってしまっていないでしょうか。家畜小屋にお生まれになられ、飼葉桶に寝かせられた赤ん坊は、全人類の救い主として来られたお方であり、彼は、王の王、主の主であり、ほかならぬ栄光の神であり、全宇宙を創造された御方なのであります。家畜小屋はイエス様が誕生されるのに最もふさわしくないと思われる場所であります。しかし、神はそれをよしとされたのであります。世界中で最も偉大な御方であるイエス・キリストはこのようにご自身を低くされ、へりくだって来られたのであります。

●「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」(ヨハネの福音書1:10、11)。

●「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。 」(ヨハネの黙示録3:20)。

●「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。 」(ヨハネの福音書1:12、13)。


 イエス・キリストが来られた目的は、私たち罪人をその罪と罪のさばきから救ってくださるためであります。この御方は、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが人の子(キリスト)には枕するところがありません。」(ルカの福音書9:58)と言われたほど貧しくなられました。そして、非常に多忙な日々を送られ、病人や罪に苦しみ悩む者に救いの手を差し伸べられ、ご自身の愛を余すところなく示され、最後にすべての人の罪を背負って十字架で死なれたのであります。今日、あなたは、このようなすばらしい救い主を信じ、心の真中に迎え入れるなら幸いであります。

 


★神を信じるということ

2005-12-23 | 「信仰と救いについて」
   


●「‥‥それからトマスに言われた。『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。 』 トマスは答えてイエスに言った。『私の主。 私の神。』 イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』 」(ヨハネの福音書20:27~29)。

  イエス様は、よみがえられたのち、疑い深いトマスに対して、「‥‥信じない者にならないで信じる者になりなさい。」と優しくおっしゃって下さいました。人間はだれでも、疑う心があります。しかし、逆に言えば、人間には信じる能力があるからこそ、疑うこともできるのです。動物は何かを信じることはありませんが、また疑うこともしないのです。人間は、時と場合によっては疑うことも必要であります。聖書は、決して何でもおかまいなしに信じるようには教えていません。盲目的に何でも信じることは正しいことではありません。特に最近は世の中暗いニュースばかりで、詐欺的な行為で人を騙して金儲けの手段にしたり、善人の顔をしながら悪意と汚れた下心をもって子供に近づいて危害を加えたりする人も多いので、このような人に騙されないように細心の注意を払うことは必要なことであります。しかし、それにもかかわらず「信じる」ということは人間が生きることにおいて基本的に大切なことではないでしょうか。

 よく考えて見ますと、私たちは無意識のうちに本能的に実に多くのことを信じて生きていることに気づきます。例えば、必要な切手を貼って封書を投函すれば必ず相手に届くと信じます。書留にすれば確実に、そして速達にすれば通常より早く届くと信じて出すのです。また、キップを買って電車に乗れば目的地に着くと信じるのです。食堂で前払いで食券を買うと必ずその目的の食べ物を食べることが出来ると信じます。医者に行くのも医者を信じるからであります。あまり評判の良くない医者には行かないのです。土地や家などの不動産などの売買など、何かの契約を結ぶ場合においても、互いに相手を信頼して、契約書を取り交わすのです。しかし、これらのことはみな相手が人間ですから、事故もあれば間違いもあり、騙されて悲惨な結果になることもあり得るのです。

 しかし、それでも私たちは日々何かを信じて生きている存在なのです。人を信用するのも度合いがあります。通常、いつも約束を破る人はあまり信用されません。また、誠実に仕事をする人に対しては、「あの人に仕事を任せておけば安心だ。」と信用して任せます。頻繁に約束したことを破ったり、時間を守らなかったり、いい加減な仕事をする人を私たちはあまり信用しないのではないでしょうか。ですから、何を信じてもいいというのではありません。正しいことを信じなければならないのです。信じる価値のあるものを信じなければならないのです。しかし、私は神は100%信頼できる真実な御方であることを確信をもって断言することができます。

 「聖書」は、永遠に変わることのない神のことばであり、私たちが信じると信じないとを問わず、真に事実である多くのすばらしい事柄を記しています。人が信じても信じなくても聖書に記されている事実(真理)そのものは決して変わることはないのです。しかし、神と神のことばを信じるかどうかということは私たちの永遠の未来をも決定するほど大切なことなのです。聖書は、神が実在することについて記して、また人間は神によって造られ、神に似せて造られたことが記されてあります。また人間はアダムの罪以来、すべての人が罪を犯すようになったことが記されています。人は死後において神のさばきを受けるべき存在となったことが記されています。

 そして、愛なる神は人類の救い主としてご自身の御子イエス・キリストをこの世に遣わされ、旧約聖書の預言通り処女(マリヤ)の胎を通して誕生されたことが書いてあります。そして、罪の全くない聖よい生涯の後に、十字架で身代わりに死んで墓に葬られ、三日目に復活されたことが書いてあります。そして、昇天された主イエス・キリストはやがて再び来臨されることが書かれています。信じる者をご自身のみもとに携え挙げ、信じない者をさばくためなのです。これらのことを信じるように聖書は勧めているのです。

 ある人は「死ぬ直前に神(キリスト)信じればいいのではないか。」といいます。確かにそれでも天国に行くことはできます。天国に行くにはそれで十分であります。でも、こんな質問をする方の動機を考えて見ると、何か大きな思い違いをしているのではないかと思います。その間違いというのは、次の三つです。

◆(1)「クリスチャン生活は退屈でつまらないものである。」と考える間違い。
天国に入るまでのクリスチャン生活は暗くて退屈で、何の楽しみもないもので、良いことは何もないと思っておられる方がいます。だから、なるべくその期間を短くしようとして、それまで好き勝手な罪の生活を送ることを考えるのです。しかし、それは大変な誤解です。キリストを信じて受ける救いの恵みは、ただ死んでから天国へ行けるというだけのものではないのです。この世に生きて限りキリストと共に生きる人生であって、いつも愛され、守られ、導かれているので、こんなに喜びと平安に満ちあふれた幸いな人生は他にないのです。年を取ってからキリストを信じたある人は、「キリストを信じた今、私はたった一つ後悔していることがあります。それは、なぜ、もっと早くキリストを信じなかったのかということです。」と述懐しているのです。

◆(2)死の時はいつ来るかだれも分からないという事実を忘れています。
若い人は、みな自分は70~80歳位まで生きられると思い込んでいます。しかし、あなたの命を握っておられ、ご支配なさっておられるのは全能の神様です。「死の直前になってから神を信じよう。」という人生の計画を立てて、その通りになることが果たしてあるのでしょうか。もちろん、神様の憐れみはあると思いますが、私はそのような話を聞いたことがありません。信じるに必要な福音の知識と理解がありながら、何十年も信じないままでいることなどできないのです。また、もし、福音の知識なしにいるなら、死ぬ直前になって「早く教えてくれ~。何をどうやって、信じたらいいのか早く教えてくれ~。」と叫んでも多分間に合わないと思います。そして、加齢と共に人は益々頑固になり、信じることが難しくなるのです。

◆(3)信じることができるのは、神様の恵みであるということを忘れています。
ある人は、自分はいつでも信じたい時に信じられるとお考えかも知れませんが、救い主イエス・キリストを「信じる」ことは、神様の恵みであり、聖霊の助けがなければ、決して信じられないのです。人間の心は非常に頑なです。そして、年と共に益々人の心は頑なになるのです。

 それでは、いつ信じるべきでしょうか。できるだけ、早い方がいいのです。いや、今こそ信じるべき時なのです。明日、あなたが確実に生きているという保証はないからです。どうでしょうか。今日、今夜、いや、今すぐイエス様を受け入れる決心をなさいませんか?明日では遅過ぎるかもしれません。全く罪のないイエス・キリストが、あなたの罪の身代わりになって自ら進んで十字架に架かられて死んで下さいました。驚くべき神の愛ではないでしょうか。
どうか、真剣になってこの大切な聖書の福音についてお考えになって下さい。
 
●「神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカの福音書1:37)。

●「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)。

●「きょう、もしみ声を聞くならば、荒野で試みの日に御怒りを引き起した時のように、心を頑なにしてはならない。」(ヘブル人への手紙3:7~8)。

●「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ書45:22)。

●「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」(イザヤ書55:6)。
  

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★神様の賜物と信仰

2005-12-18 | 「信仰と救いについて」
      
          

 ある方から、「”キリストを信じるだけで人は救われるのです”とクリスチャンの方はよく言いますが、それが私にはどうも納得がいかないんですがね~‥‥」とのご質問をいただきましたので、今回そのことに関して少し聖書のみことばから考えてみたいと思います。最初に一つの例を上げますが、もしあなたの誕生日かあるいは何かの記念日に、あなたの親友からすばらしいプレゼントが贈られたとします。その時、あなたはどうなさるでしょうか。あなたが素直な方であれば、多分嬉しそうに笑みを浮かべて、「ありがとうございます!」と言ってそのプレゼントを喜んで受け取るのではないでしょうか。

 もし、あなたが「それはとても高価なものですから、今お金を払いますから、ちょっと、待ってください。」と言って財布を出してお金を払おうとしたら、相手の人には大変失礼になりますし、その方はとても不愉快な気分を味わうに違いないと思います。あなたにそのプレゼントをしてくれた贈り主はそれを素直に感謝して受け取ってくれたらそれが一番嬉しいのではないでしょうか。贈り物は、何の代価も払わないで、いただくからこそ、それは贈り物であり、プレゼントなのです。お金を払っていただくプレゼントなどあり得ないのであります。プレゼントを贈る人は、相手が何をあげたら喜んでくださるだろうかといろいろ思案し、それを受け取った人の喜ぶ顔を見て嬉しくなるのです。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

 「救い」の問題を考える時に、最初に知らなければならないことは、聖書が教える救いは、対人関係の悩みとか、苦しみ、貧しさ、病気の苦しみ、不安と孤独感などからの救いではなく、罪と死後の神の永遠の刑罰からの救いについて語っているのです。聖書の福音は、単なるご利益宗教とは違います。これが分からないと、救いも福音も分からないということになります。そして、「信仰」というのは、神様から送られたプレゼント(贈り物)あるいは「恵みによる救い」をいただくために「差し出す手」に例えることが出来ると思います。「手」を差し出さなければその高価な贈り物を受け取ることができないのです。

 愛なる神様は、全世界のすべての人に主イエス・キリストの十字架の贖いを通して「永遠のいのち」という賜物を与えようとして提供しておられるのです。それを感謝して受け取るかどうかは、その人自身の自由意志にゆだねられています。救いは、恵みと愛に満ちておられる神様から一方的に与えられる「永遠のいのち」という賜物なのです。私たちは、その「永遠のいのち」の賜物を「ありがとうございます!」と言って、信じて感謝して受け取るだけでいいのです。それが、聖書が語る単純な福音であり、新約時代の恵みなのであります。それでも、ある方はなおも「でも救われるためには何か慈善とか良い行いが必要ではないのでしょうか。」と言われます。しかし、聖書は下に列記したみことばのように、一貫してイエスを信じる者が恵みによって救われ、「永遠のいのち」が与えられることを教えています。

●「あなたがた(クリスチャン)は、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 」(エペソ人への手紙2:8,9)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネの福音書3:36)。

●「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。 」(ヨハネの福音書5:24)。

●「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネの福音書20:31)。

●「聖書は何と言っていますか。‥‥ 働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働き(行い)もない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方(神)を信じるなら、その信仰が義(正しい者)とみなされるのです。」(ローマ人への手紙4:3~5)。


 救いは行いによらないことを他の例をもって説明しましょう。入場料が10,000円の催し物があったとします。5,000円持っている人が2,000円持っている人に向かって「私はあなたより3,000円多く持っていますよ!」と威張ってみても、いざその会場に入ろうとした場合、どちらも入ることができないのです。その会場に入るためには、そのお金は何の役にも立たないのです。人間の行いも、それと同様に、どんぐりの背比べのようなものであります。聖よい神の前には、人間が自分では正しいと考える善行でさえ、みな汚れた着物のようであると語っており、正義の神の前にはその聖よい基準に達することはできません。ですから、どんなに良い行いを積重ねてもそれによって救われて天国に行くことはあり得ないのです。

 もう一つ、別な譬えを挙げたいと思います。もう大分古い話ですが、外国のある大きなホテルが火事になって、100人以上の方が被災し、亡くなった悲惨な事故がありました。近所の消防自動車が出動しましたが、当時そのホテルには散水装置が備えられていませんでしたので、火はあっと言う間に建物全体に広がりました。ある人は煙に巻かれて窒息し、ある人は窓から飛び降りて死亡しました。このような大惨事になった理由の一つは、消防自動車が出動したのですが、その梯子が短くて救助を待つ人たちの階上まで届かなかったからでした。永遠の滅びから救われる道は、主イエス・キリストの十字架の御死による以外に絶対にないのであります。もし、他に道があるなら神の御子イエス・キリストが身代わりに十字架にかかられる必要はなかったのです。人間のどんな努力も修業も、宗教の力も、あの短い梯子と同じで天国に至る救いまでは届かないのです。

●「・・・そして、ふたりを外に連れ出して『先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。』と言った。 ふたりは、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』と言った。」(使徒の働き16:30、31)。

 これは、昔、パウロとシラスという二人の伝道者がヨーロッパで最初に伝道したピリピという町で起こったできごとです。二人の伝道者がキリストの福音を宣べ伝えたために投獄され、その夜、神様の不思議なご介入があり大地震が起こって、その看守が震え慄いて、パウロとシラスの前に跪き「救われるためには、何をしなければなりませんか!」と叫びました。そうしたら、二人は声を合わせて「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と単純明解に答えたのであります。そして、間もなくこの看守の家族はみな救われ、全家族そろって神を信じたことを心から喜びました。救われることは、決して難しいことではありません。あなたの罪を悔い改めて、キリストを自分の救い主として個人的に信じることだけで救われるのであります。あなたも、遅くならないうちに是非、この尊い救いをご自分のものとないませんか。

         

★神が備えた「安全な住まい」

2005-12-13 | 「聖書と人生」
              


●「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネの福音書14:1~3)
  
 最近は、耐震強度偽装マンションや欠陥住宅問題など世間ではいろいろ話題になりクローズアップされていますが、よく考えて見ますと人間にとって「衣・食・住」の三つはどれもみな大切で、生きていくためには必要不可欠なものでありますが、特に「住まい」の問題は日常生活の拠り所であり、心身を休める場所であり、一番関心が高いのは当然のことであります。多くの方々にとって、「住宅やマンションは人生で一番高い買い物」であることは間違いないと思います。確かに多くの方は「安心して住める家」を買うために毎日汗を流して働いているのです。30年のローンの契約で数千万円で購入したマンションが、震度5程度の地震で簡単に倒壊の恐れがあるという耐震強度が偽装されたマンションであったというのであれば、一体これからどうしたいいのかと悩み、心身が疲れ果て、不安で夜も心が休まらないというのは当然であります。

 ところで、「住まい」にとって一番大切なのは、何かと言えば外観が美しいとか、安価であるとかではなくその建物の「安全性と耐久性」ではないでしょうか。地震や風雨などの天災をはじめ、暑さ寒さや外敵から家族を守ってくれる住まいには強くて長持ちして欲しいと願うのは当然のことであると思います。「安全性」の中には、もちろんシックハウスなど人間の健康を脅かすような有害な物質が含まれている建材が用いられるとか、他にも種々考えられますが、今はそのようなことをここで論ずることが私の本意ではありません。聖書から、「永遠に安全な住まい」についてみなさんと共に考えてみたいのです。

 冒頭に記しましたのは、新約聖書のヨハネの福音書の中で主イエス様が弟子たちを残して去って行こうとしていた時に語られたものです。主イエス様はやがて、敵に捕えられて十字架につけられることをご存じでありましたが、弟子たちを励ますために語られた箇所の一部であります。イエス様は、ここで「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」と、やがて迎えようとしている十字架の死と復活、昇天、再臨などのことを予告して語られました。よみがえられたイエス様は、数十日後に天に昇って行かれましたが、イエス・キリストは、ご自身を信じる者たちを迎えるためにもう一度天からご再臨される方であります。

 そして、イエス様はこの時「わたし(イエス)の父の家には、住まいがたくさんあります。」と語られたのです。この箇所の英訳は、「 In my Father's house are many mansions」です。この訳によると天国でイエス様が備えておられる「住まい」は、「mansions(マンション)」となっています。一般的に、日本人が「高層集合住宅」としてイメージする「マンション」と英語の”mansion”の意味はかなり違っているようです。もともと英語の”mansion”の本当の意味は「大邸宅」なのであります。また、英語に堪能で外国で暮らしたことのある友人に聞いたところによると、日本人が「マンション」と考えているような建物(高層集合住宅)は、英米では”Apartment house”と言っているようです。「わたし(イエス)の父の家(house)には、住まい(mansion:大邸宅)がたくさんある。」というのは、人間の常識では考えられないことですが、天国の永遠の都(住まい)は私たちの理解を遥かに超えているすばらしい場所であることは間違いありません。

 さて、この地上には厳密な意味においては、いかなる災害にも耐えられると太鼓判を押せるような安全で恒久的(永続的)な「住まい」などというものは、現実には存在しません。形あるものは、必ずいつか古くなり、破損し、倒壊してしまうのです。人間の手で造るものは常に不完全であり、いつかは破壊し消滅してしまうのであります。しかし、イエス・キリストが今、天国で備えておられる場所(住まい)は、全く欠陥のない完全なものであり、そこに住む者に永遠に憩いと安らぎを与えてくれる場所であります。どんな心配も無用であります。そして、天国に備えれた「住まい」がすばらしいのは何故かと言いますと、それはそこには私たち罪人を愛してくださって十字架にまで架かって身代わりに死んでくださり、復活昇天されたイエス・キリストが共におられるからなのです。

 どんなに美しく素晴らしい大豪邸に住んだとしても、そこに愛する家族がいないなら孤独で淋しいものです。また、大邸宅で贅沢に暮らすことが出来ても、争いが絶えないような家なら心に安らぎがなく、不幸であります。「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」とのイエス様の約束は何とすばらしい慰めに満ちたおことばではないでしょうか。天国で永遠の間イエス様のみそばで憩うことが出来るというのは、本当にすばらしいことですね。天国では、家のないいわゆるホームレスや孤児はいませんし、家が狭過ぎるという心配もありません。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。」とイエス様は言われたのです。また、家が破損したり倒壊したりする心配をする必要もないのです。

 それでは、一体だれがそのようなとことに行くことができるのでしょうか。冒頭の聖句の少し後の箇所に次のようなみことばがあります。「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもと(天国)に来ることはありません。‥‥』」 (ヨハネの福音書14:6)。みなさん、どうか、間違ってはなりません。この地上の人生が終わって最終的にすべての人がそこに行くのではないのです。イエス・キリストを信じる者だけがそこに入ることができるのです。なぜなら、イエス様は全人類の罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったからです。神が備えてくださったその尊い救いを拒むならば、永遠の滅び(地獄)しかないのです。

 イエス・キリストが語られた次の譬え話にも是非、目を留めてください。そして、安全で、賢明な人生設計を立てていただきたいのであります。「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れなかった」と言われる家を建てたのは、その家を岩の上に建てたからです。当然、そのような家は地震にも耐えるのです。岩は、まさしくキリストであります。人生の最大の試練の時が来ても、人間の死に直面し神のさばきの日が来ても安全なのは、その「人生」という建物の土台と柱(あるいは鉄筋)を強固にすることであります。すなわち、キリストを信じて従い、キリストにゆだねる人生であります。外観だけを見てものごとを判断しないことが肝要であります。どうか、あなたも主イエス・キリストを信じて神が備えておられる永遠に続く安全な住まいに住むことの出来る方となられますように。

●「『‥‥だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。』 」(マタイの福音書7:24~27) 

 しかし、私たちの救いのために来て下さったイエス様は、神の御子ですから宮殿のような所に誕生されても当然の方ですが、家畜小屋から始められたこの地上のご生涯は実に貧しく質素なものでありました。

●「すると、イエスは彼に言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子(イエス)には枕する所もありません。』」(ルカの福音書9:58)。 
 
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★罪なき者まづ石を擲て 

2005-12-07 | 「キリストの愛」
 
     

●「‥‥すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、イエスに言った。『先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。』 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』‥‥」(ヨハネの福音書8:3~7) 

 聖書をお持ちの方は是非、新約聖書のこの箇所を開いてご覧ください。この所には、人間の罪深さ、醜さが浮き彫りにされていると同時に、それと対比されて主イエス様の愛と恵み、そして神の御子としての知恵と威厳が十分に表されています。何よりも主イエス様が罪人の救い主となられるためにこの世に来られた比類のない愛の御方であることがはっきりと示されています。また、人は自分の罪や欠点を悟るのには鈍感で疎いものですが、他人の罪は素早く発見し、また厳しく断罪するものであることをも教えれるのです。

 イエス様はある朝、エルサレムの宮の庭で人々に教えておられました。ところが、律法学者とパリサイ人が姦淫の現場で捕らえられた一人の婦人を宮で教えておられたイエス様のところへ引っ立てて来て、「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」と彼女を訴えたのであります。律法によれば、姦淫の罪を犯した場合は男女とも罰せられるべきであったのですが(申22:22)、律法学者たちは、弱い立場にある女性だけを連れて来たのは奇妙な話です。しかし、彼らの心の中には何かの魂胆と悪意があったことは確かなことです。その魂胆というのは、6節にありますように、イエス様を試して、イエス様の答えの中から何か告発する理由を得るためであったのです。最初から主イエス様を陥れる目的で、彼らが仕組んでおいた所にはまった婦人を餌にして、彼女を引っ立てて来たのが真相ではないかと思います。

 しかし、イエス・キリストは律法学者たちの質問に動じることもなく冷静沈着に神の御子としての権威と知恵をもってお答えになられました。もしも、イエス様がモーセの律法の命じる通り石打ちの刑を執行するように命じれば、ローマの主権を犯す越権行為(反逆罪)になるわけです。なぜなら、当時ローマの管轄下にあるユダヤ人が同胞を勝手に死刑にする権限は与えられていなかったからです。そして、もしもイエス様が「赦してやりなさい」と言えば、イエスはモーセの律法に背く者という理由で告発しようとしていたのです。いずれにしても、彼らは主イエス様を罠にはめて陥れようとしていたことは明確な事実です。しかし、この彼らの訴えに対して主イエス様はご自身の知恵をもって見事にお答えになられたのです。

 イエス・キリストは、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(文語訳:「なんぢらの中、罪なき者まづ石を擲て」)とお答えになられたのです。このような答えは、律法学者たちも全く予想もしていなかったことであろうと思います。今や、イエス様を告発する理由を得ようとしていた学者たちが告発される側に立たされたのです。これは、だれも予想しなかった展開です。一瞬のうちに立場が逆転してしまいました。ここにイエス・キリストの驚くべき知恵があります。イエス様の所へいかなる難問を持って来たとしても、主イエス様は、それに対して動揺したり、お答えに窮するというような場面は、聖書のどこにも見当たりません。

 律法学者やパリサイ人たちは、自らを義として他人をさばく者たちであります。彼らは、律法によって人を罰することばかり考えて、この女性に対しても一片の憐れみの心も示そうとしなかったのです。彼らは、聖書を読みながら、そのみことばをもって自らをさばくことをせず、人をさばくことだけを考えていたのです。人間というものは(自分も含めて)、人をさばくことにおいては、自分が一度も罪を犯したことがないかのように厳しくさばくものです。しかし、自らの本当の弱さ、罪深さ、心の醜さを知るときに、だれ一人として他人をさばくことなどできなくなるのではないでしょうか。実際、人を表面的にしか見ることのできない不完全な人間が人を裁くなどということは絶対にできないことです。人を裁くことは、あくまでも神ご自身のものであり、神ご自身の主権によることなのです。

 しかし、イエス・キリストの「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」とのことばは、彼女を訴える律法学者たちの心を突き刺す両刃の剣のようなことばであったと思います。イエス様は神の御子ですから、その語ることばには、両刃の剣のように鋭く人の心を刺す権威があったのです。他人の罪を責めることには鋭敏であっても、自分の罪を知ることには鈍感であった律法学者たちにも、この主のおことばには鋭く心が刺し貫かれたに違いありません。彼らは、だれ一人自分には罪がなく完全な者であると主張できる者はありませんでした。ところで、あなたは罪のない者として彼女に石を投げつけることができるでしょうか?

 また、宮の中には、イエス様の話を聞きに来た群衆がおりましたが、彼らはみな傍観者であり、この気の毒な女性に同情したり、憐れみの心を持ったりする人はだれひとりいませんでした。民衆はみな「私には関係ないことだ。」と考えていたのです。だれひとり、罪に関して自分自身の問題として考えようとはしませんでした。しかし、イエス様の威厳に満ちたこのことばによって、自らの罪が示され、だれひとり傍観者でいることはできないことを知ったのです。「彼らはそれを聞くと、年長者から始めて、ひとりひとり出て行き‥‥」(9)とあります。主イエス様の鋭いことばの光に打たれた時、彼らの良心が責められて、老人を初め、若者に至るまで一人一人みなその場から去ってしまったのです。

 さて、この姦淫の罪を犯した女性は、ユダヤの律法学者たちに訴えられた女性でした。この女性は自分が罪人であることが分かっていました。彼女は罪人としてイエス様のところへ引かれて来たのです。そしてこの汚らわしい悪習慣から何とかして解放されたいとの思いがあったのではないでしょうか。人はだれでも、自らを罪人の立場に置く時、はじめて神の愛に触れることが出来るのです。そのとき、キリストの愛と救いがはっきりと見えて来るのです。そして、彼女は主イエス様の愛に触れることができたのです。彼女が顔を上げた時には、そこにはただイエス様おひとりだけがおられることに気づきました。そして、その主イエス様こそ、彼女にとって最も必要としていたお方であったのです。

 イエス様は、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われましたが、罪のない御方はイエス・キリストだけであります。罪を示され、良心を刺された罪人たちはみな出て行き、イエス様だけがひとり残されました。比類なく聖く正しい御方はイエス様だけであります。ですから、イエス・キリストだけが彼女に石を投げる資格と権威がある御方なのであります。しかし、イエス様は彼女に石を投げるために来られたのではなく、彼女を救うために来られた御方なのです。主イエス様だけが彼女の理解者であり、彼女に心から同情できる愛の御方であり、彼女を救うことのできる救い主として来られた御方であったのです。

 唯一彼女に石を投げる資格のある罪なき御方イエス・キリストが、何と彼女のために身代わりに十字架にかかって死んでくださったのです。彼女だけではなく、世界中のすべての罪人の身代わりとなって死んでくださったのです。この箇所には、罪人の友として、罪人を救うために世に来られたイエス・キリストの福音が余すところなく表されています。神は、ご自身の身をかがめるようにして罪人のところまで来られ、罪人の立場に立ってくださったのであります。神の御子イエス様は、薄暗く汚い家畜小屋の中で誕生せられ、貧しく聖よいご生涯を送られた後、十字架に架けられて死なれ、三日後に復活されたのであります。どうぞ、あなたもご自分の罪をお認めになられて、イエス・キリストの福音を信じて救われてください。
 
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