聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★ザアカイの孤独な心

2007-05-16 | 「人生と孤独」
  
       
 あなたは、友人とおしゃべりしている時も、街の雑踏の中を歩いてにいる時も、仕事や勉強に追われている時も、ひとり自分の部屋にいる時も、何かしらふっと、「自分はひとりばっちだ‥‥」「たまらなく寂しい‥‥」「人は何のために生きているのだろう‥‥」という思いに満たされ、孤独感に陥ってしまうようなことがありませんか。そんなことは、どなたも経験することだと思います。家事や育児に追われている家庭の主婦の方も、未来に希望を持てないお年よりの方も、勉強で疲れている子どもたちも、職場でコツコツと働いている働き盛りの男性も、ビルの窓外の春の青空(いや、スモッグの灰色の空かも‥)を仰ぎながら、そんな思いに浸ることがおありではありませんか?  

●「それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。‥‥‥」(ルカの福音書19:1~)。

 ルカの福音書19章1~10節には、このような書き出しで始まる非常に興味深く、心に残る出来事が記されています。私は、聖書の中にいろいろな人物を見い出すのですが、非の打ち所のない立派な人物(たとえば、ヨセフとか、ダニエル)もすばらしいのは当然ですが、罪深い人や欠点弱点の多い人物に、何かしらとても親しみを覚え、言葉では表せない安心感のようなものを感じることがあります。ここに記されている「ザアカイ」という人物もその中の一人なのです。それから、イエス様の弟子のペテロもそうです。それが何故なのかは分かりませんが、自分自身がそのような欠点が多く、罪深い人間だからではないかと思っています。そして、そのような欠点や弱点の多く罪深い一人の人間がイエス様に出会って変えられて行く過程にとても興味があり、また神の大きな愛と慈しみに深い感動を覚えるのです。
 
 さて、かつて、ユダヤのエリコの街にザアカイという大変孤独な人が住んでいました。ザアカイの職業は取税人のかしらでしたが、彼は、子供の頃から背が小さくて、「や~い!チビのザア~カイ!」といじめを受けながら成長して大人になったのではないかと思います。「ザアカイ」という名前の意味は、「正しい」とか「聖よい」という意味があります。ザアカイが誕生した時に、その家の跡継ぎができたことで両親は大変喜んだことでしょう。そして、心の正しい人間になってもらいたいとの親の願いを込めて、日本語流に分かりやすく言えば、「ただし」または「きよし」と命名されました。さて、当時ユダヤの国は、ローマの属国であり、ローマの支配下にあったのですが、「取税人」というのはローマ政府から委託されて税金を徴収する仕事で、しかも、その取税人のかしらですから、税務署の署長さんのような立場であったかもしれません。

 ところが、当時の「取税人」というのは、当然集めるべきお金よりも多くをだまし取って、ごまかして、着服していたことが多かったと言われています。ザアカイも、他の取税人と同じようにお金をだまし取っていました。彼はローマ政府から委託され使役されて税金を徴収する取税人のかしらになりました。そして、集めたお金をごまかして、着服していました。ですから、日々良心の呵責を感じて過ごしていました。彼はお金を貯めることに人生の価値を見出したように感じるようになったのですが、彼の心は空虚で、どんなにお金を貯めても、立派な邸宅を建てても、それで心が満たされることはなかったのです。「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、空しい。」(伝道者の書5:10)とソロモンが言っている通りであったのです。

 それから、ザアカイは幼少時から劣等感を持って悩んでいました。人間は誰でも、多かれ少なかれ、コンプレックスを持っているものです。劣等感には、四つの種類があるとあるクリスチャンから聞いたことがあります。(1)肉体的劣等感。(2)性格的劣等感。(3)能力的劣等感。(4)社会的劣等感。‥‥の四つです。そして、ザアカイには、このどれもがあったのではないかと推測することができます。まず、彼は背が低かったことが書かれていますから、彼には「肉体的劣等感」があったのです。また、背が低かったザアカイは小さい時から友だちもなく孤独な少年時代を過ごし、性格的にも卑屈でひねくれた人間になり、「性格的な劣等感」を持っていた可能性もあります。また、彼は背が低いために普通の人ができることができないという「能力的劣等感」があったことも推測できます。そして、彼の職業のゆえに、同胞からは売国奴のように言われ、「社会的劣等感」があったであろうと思われます。

 さて、ザアカイがそのような心が満たされない孤独な日々を送っていた時に、イエス様がエリコの街をお通りになったのです。彼はイエス様がどんな方か見ようとして、家を飛び出し、群集がいる方向に向かって走って行きました。しかし、彼は背が低くて、群集のためにイエス様を見ることができなかったのです。それで、イエス様を見るために、前方に走って行き、いちじく桑の木に登りました。大の大人が、見栄も外聞も捨てて、木に登ってイエス様を見ようとした彼の純朴さに感動します。そして、イエス様は、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と。ザアカイは、今まで一度もイエス様にお会いしたことがありませんでしたが、自分のことを知っていて、ザアカイの名前をお呼びになられたことに非常に驚きましたが、木から急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えたのです。

 ここで、「ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとして」(4)と、「イエスは、ちょうどそこに来られて、」(5)に、「ちょうど」という言葉が二回でて来ます。このことから、人生のあらゆる出来事には、”偶然”ということがないことを教えられます。すべての出来事の背後には神の摂理と導きがあるのです。私がクリスチャンになった最初のきっかけは、ほんとうに些細な出来事であったのですが、あとで考えてみると、あれは間違いなく神の導きであったのだと確信することができました。神の導きとか摂理は、あとになって、初めて分かるということが度々あります。そして、この箇所の記事で、イエス様は、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは。あなたの家に泊まることにしてあるから。」(5)と、イエス様がおっしゃったのには、深い意味があります。「‥‥泊まることにするから」ではなく、「あなたの家に泊まることにしてあるから。」と言われたのです。これは、すべてをご存じのイエス様は、ザアカイの家に泊まることを最初から計画しておられたことを意味しています。

 そして、イエス様はその晩、ザアカイの家に招かれてお泊りになられ、親しくお交わりになられました。宇宙を創造された偉大な神の御子イエス・キリストが、罪深い一介の取税人の家にお泊りになられたことは何と驚くべきご謙遜ではないでしょうか?そして、ザアカイとねんごろにお交わりになられたイエス様の愛によって、ザアカイの頑固で冷たい心は、太陽の熱に解かされる氷のように砕かれ、自らの罪を悔い改めて、イエス様を救い主として受け入れ、その日の夜に回心したのです。神から迷い出て孤独になり、生きる意味を見失ってしまった一人の人間が、神の御子イエス・キリストに見出されて、愛なる神様のみもとに帰り、その懐(ふところ)に抱かれて平安を見出し、その孤独な人生からも解放されたたすばらしい見本がここにあります。

 彼は、お金もちになって、自分をいじめた奴らを見返してやろうと考えたのかもしれません。しかし、彼の空虚な心はお金によっては決して満たされることはありませんでした。彼はユダヤ人でしたが、ローマの手先となって税金を取り立てていたので、売国奴のように言われ、大人になっても、やっぱり孤独で、だれも友だちになってくれませんでした。彼の心は満たされず、孤独感から解放されることはありませんでした。でも、イエス様は彼の孤独な心の中をすべて知っておられました。また、同時に、彼が罪を犯していたこともご存じでした。その日、ザアカイはイエス様を自分の家に招き、悔い改めて、イエス様を救い主と信じて救われたのです。あなたも、このザアカイのように、キリストを信じてに神に帰えり、孤独な人生から解放されて下さい。イエス様は、あなたの救い主となってくださるばかりでなく、真の友となってくださる方なのです。

●「人の子(キリスト)は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカの福音書19:10)。 

●「わたし(キリスト)は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイの福音書9:13)。

●「わたし(キリスト)は、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」(ヨハネの福音書14:18)。 

●「見よ。わたし(キリスト)は、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28:20)。


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★私を見ておられる神

2007-02-02 | 「人生と孤独」
  
   
 
●「主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、『サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と尋ねた。彼女は答えた。『私の女主人サライのところから逃げているところです。』そこで、主の使いは彼女に言った。『あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。』また、主の使いは彼女に言った。『あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。』さらに、主の使いは彼女に言った。『見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。』 」 (創世記16:7~12)。 
  
 聖書をお持ちの方は、創世記16章をお開き下さい。そこには、エジプト人の女奴隷ハガルの、読む人の涙を誘う話が書かれています。彼女は、アブラハムの妻サライのつかえめとして雇われたのですが、サライは不妊の女で子供がありませんでした。それで、ハガルは女主人に代わってアブラハムの子をはらむようになったのです。その後、彼女が高ぶってサライを見下げるようになったのですが、そのことによって、彼女はいじめられて、ついに、いたたまれずに、女主人のもとを避けて家から逃げ出したのです。アブラハムとサライの不信仰によって家庭不和が起こり、三人三様の不幸に苦しむことになったのです。いろいろな家庭の問題は神様に対する不信仰と不従順によって起こることが多いのです。

 ハガルは荒野をさ迷い、シュルへの道にある泉のほとりに来た時に、主の使いに会って、「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」との勧めを聞いて、再び、様々な苦しみが待っているサライのもとに帰って行くのです。もし、サライが「自分に代わってアブラハムの子をはらみなさい。」などと言わなければ、ハガルはいつまでも、つかえめとして平穏無事な生活を送ることができたでしょう。ですから、迷惑なのはハガルであり、彼女はサライの犠牲になったようなものです。もちろん、彼女自身にも高ぶりの罪があったのです。人生には、自分の失敗によって招く苦しみもあれば、他人の犠牲になって苦しむ苦しみもあります。 

 しかし、彼女は、そのような涙の谷において、神に出会ったのです。多くの場合、涙と悲しみの中で、人は神との出会いを経験するのです。そして、彼女は、自分に語りかけられた主の名を呼んで「あなたはエル・ロイです。」と言いました。「エル・ロイ」とは「私を見ておられる神」という意味です。ですから、「エル・ロイ」とは、辛く苦しい状況の中にある人々を顧みてくださる神を意味しています。彼女は女主人の冷酷な扱いと、荒野の孤独の中で、「自分を見ておられる神」に出会うことが出来たのです。私たちの人生は、いろいろな苦しみで満ちています。また、悲しみと叫びと涙に満ちているのが大部分の人の人生でなのです。それは、人間の罪と不信仰の結果でもあります。

 しかし、そのような暗い現実の中で、いつも私たちをご覧になっておられる神がおられることを知ることは何と幸いなことではないでしょうか。ハガルは、女主人のいじめを避けて、その苦しみから逃げようとしまして、家出をしたのです。しかし、「私を見ておられる神(エル・ロイ)」を知ってから、また女主人のもとに帰って行く決心をしました。私たちが、この世の中で生きて行くことは確かに大変なことです。人はだれでも現実の苦しみから逃げたいという思いがありますが、現実から逃避しても何も問題は解決しないのです。しかし、その現実の中で、私たちを見ておられる神を知る時に、再びその現実の中に戻って行く勇気と力が与えられます。

 目先の苦しみを避け、できる限り、安全で都合のよいような生き方を求めるのは、私たちの常であります。暗い所を避け、明るい方へと逃げたくなるのは、だれでもが持っている衝動ではないでしょうか。しかし、そのような消極的な生き方を求めるならば、ハガルのように、「私を見ておられる神」、すなわち、エル・ロイの神を告白し、その幸いを経験することができないのです。そうではなく、苦しい現実の中でも生きて行くことのできる神を知り、それを体験できることはもっと幸いなことなのです。

 人間というのは、いろいろな時に孤独感に襲われることがあります。結局、自分を分かってくれる人はだれもいないのではないかという、そのような思いはどなたでも持ったことがあると思います。子供も、夫も妻も、お年寄りの方も、だれでもそのような孤独感を持つことがあると思います。しかし、このような暗い現実の中で、神だけは絶対に私を見捨てることはない、という信仰を持つことができるのは何と幸いなことでしょうか。そして、聖書の神は、私たち一人一人を見ておられるだけでなく、私たちと共に苦しんでくださり、また、守り導いてくださる方なのです。

●「彼らが苦しむ時には、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」(イザヤ書63:9)。
 
 このみことばは、旧約聖書のイザヤ書の中にある慰めに満ちたことばで、愛なる神は、苦しむ私たちと共に苦しんでくださる方であることを教えられますが、また新約聖書のヨハネの福音書には、次のようなみことばがあります。

●「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。」(ヨハネの福音書21:4)。

 この時、弟子たちはガリラヤのテベリヤ湖畔で、漁をしたのですが、その夜は何も獲れず、非常にがっかりし、失望していました。しかし、よみがえられたイエス・キリストは、岸辺に立ってその弟子たちの様子を見ておられたのです。人生において、だれでも失望の朝を迎えることがあると思います。しかし、主イエス様は「夜が明けそめたとき、岸べに立って」見ておられる方なのです。イエス・キリストは、人々の罪のために十字架で死んでよみがえられ、今、私たちをご覧になってなっておられる「エル・ロイ」の神なのです。「弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。」と書かれていますが、私たちの霊の目が開かれ、今、現実に生きておられ、私たちをご覧になっておられるイエス・キリストを信じて、罪と孤独から解放された人生に入ることができますようにお祈りしています。

●「見よ。わたし(イエス・キリスト)は、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28:20)。 
 
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★晩秋と人生の儚さ

2006-10-26 | 「人生と孤独」



 ●「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。 」(Ⅰペテロ1:24,25)。

 北国では日毎に秋が深まり、朝夕はめっきりと冷え込む季節となりました。しかし、黄色、橙色、深紅の紅色、緋色など、色とりどりの鮮やかな美しい紅葉の葉も、やがて 寒い木枯らしに吹き散らされて晩秋から初冬へ駆け足に 移って行くのです。 冬枯れの時が、間もなく訪れようとしている晩秋の物憂いこの季節は、どなたも何か人生の孤独とか、空虚で儚い寂しさを感じるのではないでしょうか。また、ご年配の方であれば、ご自分の人生をこの晩秋から初冬にかけての季節に重ね合わせてお考えになることもあると思いますが、いかがでしょうか。

 冒頭に記しました聖句のように、人生は一時はどんなに繁栄しているように見えても、それは、みな草の花のようであるというのです。「草はしおれ、花は散る。」のです。人間の一生も必ず散る時が来るのです。春や夏に咲く花々も美しく咲きますが、しばらくすると、枯れて散ってしまいます。秋の美しい紅葉の葉の一枚一枚が初冬の木枯らしに吹き飛ばされてしまうように、人の生涯もどんなに栄えても散ってしまうときが来るのです。人生の晩年も冬枯れの木々の葉っぱのように感じることはありませんか?かつて、モーセは人生の儚さを想い、次のように詩(うた)っています。

●「あなた(神)が人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます・・・・・・・・私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」(詩篇90:5~6) 。

 一体、人間はなぜ孤独を感じるのでしょうか。孤独、空しさが何処から来ているのかということを深く掘り下げて考えていく時、私たち人間は実は、肉体や精紳、心を持っているのみではなく、霊的な側面を持っている者であることを教えられるのであります。神様は人を造られた時、霊と魂を持つ者として造られました。しかし、殆どの人々は、体や心を満たすことばかりに人生を費やしていて、魂を枯渇させるといることに気づかないでいるのです。ですから、どんなに表面的には有意義で繁栄している生活をしていても、心の奥底にある孤独感と空虚感が消えることはないのです。あなたの魂の奥底で真に求めているお方は、実は神様(創造者)であることを、どうかお知りになっていただきたいと思います。

 神様のみがあなたの内側の深い渇きと心の空洞を満たす事が出来るお方なのであります。もともと神様は私たち人間が神様との個人的な交わりを持つ存在としてお造りになられたのです。神様に背を向けた人生を私たちが送ろうとするとき、取り去ることのできない、神様以外には決して埋めることのできない空洞があるのをあなたは発見します。アウグスチヌスが、何世紀も前に語った次のような有名なことばがあります。「神様、あなたはあなたご自身のために私たちをお造りになりました。私たちの心は、あなた御自身に自らの安らぎを見出すまでは、真の平安を得ることはありません。」とのことばは真実です。
 
 自分の心の内側の思いや動機を深く探るならば、今まで自分が考えていたほどには、良い人間ではなく、醜く汚れた思いが満ちていることを知らされて愕然とするのを否むことができません。しかし、聖書が語っている偉大な真理は、神様は私たちを新しく造り変えたいと願っておられるということです。主イエス様は私たちの外側の行動を変えるというだけではなく、内側の心の奥深いところの思いをも変えることがお出来になるお方なのです。主イエス様は、人は「心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」(マタイ12:34,35)と言われました。私たち人間は神の前にはすべての人が罪人であることを聖書は明確に語っています。

 このような罪に満ちた人生から抜け出すには、まず、あなたの人生をキリストに明け渡すことです。あなたの心と思いの中に、キリストに入ってくださる様にお願いすることです。そして、毎日キリストと共に歩むことを学び、キリストによって人生が満たされることを経験することなのです。あなたはバケツに長い間溜まって、もう臭くなってしまっている水を見た事があると思います。どの様にしてバケツをきれいに出来るのでしょうか。それは、その汚く臭くなってしまっている水を捨ててしまい、そのバケツをきれいに洗うことによってです。そして、新しい新鮮な水を入れるのです。

●「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 」(Ⅱコリント5:17)。

 これこそ、キリストが私たちのためにして下さることなのです。私たちは、キリストに自分の人生を委ね、聖書のみ言葉によって心を満たすことが何よりも優先しなければならないことであり、大切なことなのです。私たちは、神から離れ、神に背を向け、神に反逆した自己中心的な生活をして来ました。しかし、愛に満ちた神は、このような罪深い者たちのために、ご自身のたったひとりの御子イエス・キリストを救い主として、この世に遣わしてくださいました。罪のない聖よい33年間の地上の生活を送られたイエス様は、その生涯の最後に十字架に架かって、身代わりに死んでくださり、また三日目に復活されて、今も生きていられるあなたの救い主です。

●「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 」(Ⅱコリント4:16~18)。

 あの大使徒パウロは、人生の晩年を迎え、加齢と共に体が衰えても、決して意気消沈したり、勇気を失うことはありませんでした。絶望したり、希望を失うこともありませんでした。益々、キリストの再臨という輝かしい希望で胸を膨らませたのです。あなたも、キリストを信じるなら、パウロと同じようになれるのです。若い時はみな希望と夢があり、力もあります。しかし、年を重ねる毎に体は衰え、元気がなくなり、未来に対して明るい希望をもつことができなくなります。しかし、クリスチャンは違います。益々、天の故郷を思い、希望に輝くのです。お若い方も、是非、今のうちに死を迎える備えをなさってください。

●「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。 」(伝道者の書12:1)。

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★悲しむ者は幸いである

2006-06-10 | 「人生と孤独」
   
    

●「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイの福音書5:4)。

 聖書には、時々人間の思いとは全く反対の逆説的なことばが出てくるので、多くの人が戸惑いを覚えることがあります。しかし、そこにこそ、人生の真理の深い意味が隠されているのです。この聖句もその一つではないかと思います。多くの悲しみは不幸であり、それを避けたいと思うのは、ごく自然のことです。「悲しむ者は幸いです。」とは、不思議なことばではないでしょうか。人は、富や地位、名誉、健康、愛する家族や友人などを失うときに悲しみの感情を覚えるのです。また、信じていた親友に裏切られたり、人間関係がこじれてしまったときにも、悲しみの感情が込み上げてきます。

 人間はすべてが順調に行き、自分の思い通りにことが運んでいる時は得意になって、益々自分の力を過信して高慢になって行くものであります。しかし、思いがけないことが起こって壁に突き当たって行き詰ると、はじめて自らの弱さを認め、他者の助けの必要を強く感じるのです。悲しみの中にある人は失望しており、孤独です。そして、慰めを求めています。そして、その求める心が真の慰め主なる神に触れるのです。悲しい時に、人から慰めを受けても、それは、一時的なものであり、表面的なものものです。しかし、神からの慰めこそ、真に心の底から与えられる慰めなのです。

●「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」(コリント人への第二の手紙1:3,4)。

 聖書の神は、「気落ちした者(へりくだった者)を慰めてくださる神」(Ⅱコリント7:6)であります。また、「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」(Ⅱコリント7:10)とありますように、悲しみを受けとめる心にも二種類あることが分かります。ただ、悲しいと嘆くだけで終わるのではなく、悲しみの淵に立って、静かに今までの自分の人生を顧みる砕けたたましいのみが神のみこころに触れるのです。この時こそ、自己中心的な罪の生活を悔い改めるべき、神が与えたチャンスなのです。

 聖書の中には、悲しんでいる者がイエス様に出会って、神の慰めを受ける場面がよくあります。ナインの町のやもめは、一人息子が死んで葬儀が終わり、出棺の途中でイエス様と弟子たちの一行に出会い、イエス様はひとり息子に先立たれた彼女を見て、深く同情され、「泣かなくともよい。」(ルカ7:13)と言われました。そして、続いて「青年よ。あなたに言う。起きなさい。」(ルカ7:14)と言いますと、何とその青年は生き返って棺から出て来たのであります。彼女が大きな慰めを受けたことは当然です。イエス・キリストこそ、力ある慰め主なのです。

 また、イエス様が早朝に宮に入られ、集まって来た民衆に教えておられた時のこと、そこに律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの婦人を連れて来て、「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」(ヨハネ8:5)と問い詰めました。彼らはイエス様を告発する理由を得ようとしてイエス様を試したのです。そして、彼らが問い続けてやめなかったので、イエス様は彼らにきっぱりと言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」 と。

 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエス様だけがひとり残されたのです。そして、その婦人に、「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」と。イエス様は、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と言明されたのです。自らの罪の重さと恥ずかしさで悲しんでいた彼女はイエス様によって慰めを受けたのです。当然のことですが、イエス様は、 彼女のためにも十字架で血を流して死なれたのです。

●「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。」(伝道者の書7:2,3)。

 現代においては、多くの人々は、快楽や笑いを求め、どうしたら愉快に過ごすことが出来るかを求めて生きています。しかし、聖書は「悲しみは笑いにまさる。」と言っています。なぜでしょうか?それは、悲しみは私たちの心より不純物を取り除く効果があるからであります。賢明な人は、喪中の家を訪ねて人生の「死」についてじっくり考えるのですが、愚かな人は、今、どうしたら楽しく過ごすことができるかだけを考えます。だから、聖書は「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。」と言っているのです。葬儀においては、人間は必ず「死」の時を迎えなければならないという厳粛な事実を教えられるのです。

 私たちの人生の最も悲しい時が、最も有益な時となることもあるのであります。星は長く暗い冬の夜にこそ最も輝きます。ダイヤモンドは、熱と巨大な岩石の圧力によって生じると言われています。貴重な宝石は、みな高熱と高圧の産物であります。見事な色彩の陶器は高温の炎の中で焼き上げられてこそ、生まれるのです。また、高価な香水は圧搾によってもたらされと聞いたことがあります。この同じ書の同じ章には、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。」(伝道7:14)とあります。逆境は、人間が反省するために、生涯のあちこちに散りばめられて配剤されているのです。

 人生には、多くの悲しみと苦しみがありますが、イエス様ご自身について、聖書の中で、「悲しみの人で病を知っていた。」(イザヤ書53:3)と預言されています。イエス様は人間の痛みと悲しみを知っておられる方です。私たちが悲しみに沈む時、悲しみの人であられるイエス・キリストは近くにおられます。そして、その時こそイエス様の恵み深い愛に触れることが出来るのです。悲しみを経験しない人は、神の慰めも経験できません。また、イエス様は人類に同情されるお方というだけでなく、私たちに真の希望と光を与えて下さるのであります。あなたが悲しみと孤独の中にあるとき、あなたは決してひとりではないことをお知りになって下さい。神があなたに慰めを与えようとしておられるのです。

●「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、・・・・・・・その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」(イザヤ書63:9)。

●「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。 」(詩篇119:71)。

●「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 (ヨハネの黙示録21:4)。  


          

★孤独な人生からの解放

2005-07-14 | 「人生と孤独」
 
 トルストイは、「人間が最後に必要とするのは自分の死体を埋める穴一つだ。」と人生を皮肉って言いました。しかし、これでは、私たちの人生はあまりにも孤独で淋し過ぎるとは思われませんか。私たちの魂はみな、もっと別な何かを求めて叫んでいるのではないでしょうか。私たちに本当に必要なのは、死体を埋める穴ではなく、心の「空洞」と「孤独」を埋める何かではないでしょうか。何年か前に自殺したハリウッドの有名な女優は、美貌の上に金持ちであり、この世が与えるすべての楽しみを味わい、人もうらやむ華やかな生活をしていましたがその遺書には、「私は耐え切れないほど淋しいのです‥‥」とあったそうです。人は、外見的にどれほど恵まれた環境にあっても、本心は「孤独」なのです。

  そして、毎日職場に拘束され、時間に追われてあくせくと働く現代のサラリーマンも、家事に追われる家庭の主婦も、受験勉強に疲れている学生さんも、あるいは、間もなく定年を迎えようとされている方も、老後をどのように過ごそうかと考えあぐねて悩み、人生の最後の時が刻々と近づいているお年寄りの心の中の奥を覗けば、言い知れぬ不安と孤独感でいっぱいなのではないかと思います。一見すごく幸せそうに見える夫婦や家庭にも、お互いの価値観の違いなどで意思の疎通がうまく行かず、いつの間にか、すれ違いが起こり、気づいた時には深い溝が出来ていて、隙間風が吹いているということもあるのではないかと思います。人間の心はみな、心の奥底のどこかで深い孤独感を味わい、渇いて求めているのではないでしょうか。

  聖書によれば、「孤独感」というのは霊の父である真の神様から、分離している魂の叫びではないかと思うのです。ですから、その孤独は、私たちの魂が神に帰るまで、この世の何ものによっても満たすことができないものなのです。あの有名なパスカルは、「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は神以外のものによっては埋めることが出来ないのだ。」と言いました。聖書の中に登場する人物の誰を見ても、神から離れた人間の心には、孤独の陰があることが分かります。今から三千年も昔のイスラエルのソロモン王は、この世の名声も地位もお金も快楽も、この世が与えることのできるあらゆるものを手にしましたが、その心の空洞を埋めることはできませんでした。彼は、「空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦してもそれが人に何の益になろう。」(伝道1:2,3)と告白しているのです。

  しかし、新約聖書には、心の空洞のすべてを満たしてくださる方が紹介されています。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」(ヨハネ14:18)と言われたイエス・キリストであります。キリストは、神の御子でありながら、家畜小屋で誕生され、人の子としてひっそりと暮らされた30年の生涯の後、3年半の公生涯を送られました。そして、群集に近づかれたイエス・キリストは、心やさしく、温和で、忍耐深く、人々に対する愛に満ちておられました。病める者を癒され、罪人の罪を赦し、心の病んでいる者を慰め、貧しい者に希望を与え、苦しんでいる者を救うために食するひまもなく、枕する所もないほど質素で多忙な日々を送られたのです。

  そして、その生涯の最後に、イエス・キリストは、あなたを孤独の深い淵に落とし入れた原因である罪を背負って、十字架で神のさばきを身代わりに受けて死んでくださり、しかも、三日目によみがえって、あなたが神に立ち帰る道を開いてくださいました。どうか、あなたもご自分の罪をお認めになられ、悔い改めて、キリストを信じ受け入れてくださることをお勧めいたします。そうすれば、世の何ものによっても満たされないあなたの心も、神の愛で満たされるのです。そして、キリストを信じる者には、罪の赦しと永遠のいのちが与えられます。そして、永遠の慰めに満ちた天国に向かって、希望に満ちた人生の旅を歩むことが出来るのです。

  これが、聖書が語る救いであり、福音(良きおとずれ)であります。キリストを受け入れたならば、たとい、外見上は一人ぼっちであっても、キリストはあなたとともにいてくださり、もう孤独ではありません。それは、この上ない幸福であり、すばらしい平安に満ちた生活です。使徒パウロが、殉教直前に獄中で書いた手紙の中で、彼は人間的には大変孤独でしたが、次のように書いています。彼は死の直前の獄中にあっても、決してひとりぼっちではありませんでした。主が共におられるという確信に満ちていました。

●「私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。どうか、彼らがそのためにさばかれることのありませんように。 しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私はししの口から助け出されました。 主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、御栄えがとこしえにありますように。アーメン。 」(テモテへの第二の手紙4:16~17)。 

●「わたし(神)の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43:4)。

●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11:28)。

●「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。 」(イザヤ書63:9)。


●「‥‥見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28:20)。  

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★人生の孤独な時に神が‥

2005-05-02 | 「人生と孤独」



●「ヤコブはベエル・シェバを立って、カランへと旅立った。 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。 そのうちに、彼 は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。 」(創世記28:10~12)。

 ここに一人のヤコブという孤独な男のことが書かれています。彼は、今、両親の家を離れて、家のない孤独な放浪者であり、ホームレスです。このヤコブという人は、狡猾で悪賢い方法で兄のエサウをだましてその相続権を手に入れたような罪深い男であります。ヤコブは、兄エサウに憎まれ殺されそうになったので、母リベカが彼を逃がしたのであります。そして、自分の妻をめとるために母の故郷へ一人旅をしていたのですが、その日はもう太陽が沈みかけたので、その寂しい荒野に伏して夜を明かすことにしたのであります。

 その夜は、そこに野宿することに決めたヤコブはただ一人、石を枕にして、荒野に伏して横になりましたが、なかなか寝付かれなかったに違いありません。後ろを思えば恐怖があり、行き先には不安があり、その孤独な姿は、罪人である私たち一人一人の姿でもあります。疲れきった体と心。流浪の旅の寂しさ。天涯孤独のルズの旅。まさに、これは、現代の私たち人間の姿そのものではないでしょうか。世の中の繁栄と、文明の進歩について行くことができず、情報化社会に翻弄され、社会の歯車の一つとしてはめ込まれてしまって疲弊しきっている自分の体と心。この人生の流浪の旅で、多くの人々が癒しがたい孤独感を味わっているのではないでしょうか。

 しかし、このような我がままで罪深い男にも、神の愛の眼差しが注がれていたのであります。そして、現代の私たちのような何の価値もないと感じているような孤独な者たちにも神の愛の眼差しが注がれていることをあなたはご存じでしょうか。あなたは、「自分を理解してくれる者はだれもいない。私は一人ぼっちだ!」と、将来を悲観したりすることはありませんでしょうか。しかし、聖書が示す愛の神はあなたの理解者であり、あなたのすぐ近くにおられる御方なのです。聖書の神は愛の神であり、どこにでもおられる遍在の神でもあり、また全能の御方であります。

 ヤコブが孤独と寂しさの中にあり、無力と困窮のどん底にあったときに、神はご自身を彼に啓示してくださったのであります。ヤコブが神を求めたのではなく、神がヤコブを求めておられるのです。もし、神がご自身を現してくださるのでなければ、人はどうして神を知り得るでしょうか。あのエデンの園で、アダムが罪を犯して木の間に身を隠していた時、神はアダムを捜し求めて、彼に呼びかけて、「あなたは、どこにいるのか。」と尋ねられたのであります。これは、決して神が人(アダム)を見失ったのではなく、人を捜し求めることばであります。愛の神様は、いつも、人生の道に迷っている孤独な人たちを捜し求めておられるのであります。

 新約聖書のルカの福音書15章には、イエス様が語られた例え話ですが、100匹の羊を飼っていた羊飼いがたった1匹の迷い出た羊を血眼になって捜し求め、ついに発見して肩にかついで連れて帰る感動的な話が書かれています。また、家出をした放蕩息子に対する父親の愛の話もあります。父親は、来る日も来る日も断腸の思いで、息子の帰りを待っていたのですが、お腹を空かして乞食のようになって、ボロボロになって、帰って来た息子を父親は走りよって抱き寄せ、何度も何度も口づけして抱擁する感動的なシーンもあります。人は多くの場合、孤独の中で、あるいは逆境と苦難の最悪の状況の中で神に出会うのであります。

 ヤコブは、その夜、石を枕に寝ていた時、夢を見ました。彼のそばには高い梯子が立てられ、その頂は天に達していたのであります。救いとは、苦しい現実から逃れて空想の世界に行くようなものではありません。人間はだれでも苦しい現実から逃避したいという思いがありますが、聖書が語る「救い」とは私たちの今の現実の中に天に達する梯子が立てられることであります。神は空想の神ではなく、天地を創造され、私たちを日々生かしておられる力強い生ける神であります。この神との出会いを経験する時に、人生は180度の転換(好転)をするのであります。

 さて、ヤコブが見た夢の中の梯子は、実はイエス・キリストを示しているのであります。この梯子は天と地、神と人を結ぶものであります。イエス・キリストは受肉によって、神を人にもたらし、その十字架と復活によって人を神に導かれたのであります。ヤコブがこのような不思議な夢を見たのは、それは単なる夢ではなく、神と人との間に道が開かれる時代が必ず来ることの予表(予告)として起こったのであります。そして、それは新約時代において、イエス・キリストによって成就したのです。

●「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 」(ヨハネの福音書14:6)。

●「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(テモテへの第一の手紙2:5)
 

 今、天の門はすべての人に開かれています。神が人のところに下られ、人が神のところに上って行けるように天の門(入り口)があり、人が神と出会う道が開かれているのであります。ですから、ヤコブの時と同じように、今も、天へ行く梯子(すなわち道)が私たち罪人の足下に立っているのです。それが、今の新約時代の恵みなのです。神と人を結ぶ道はキリストであります。神の救いはあなたの前にすでに備えられており、その現実の中で見出すことができるのです。聖書はすばらしい書物です。是非、お読みになってくださいますようにお勧めします。  

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★あなたは、孤独ですか。

2004-11-16 | 「人生と孤独」



木枯らしが吹く寒い季節になりましたね。人は誰でも「孤独」を感じる時がありますね。友達と楽しく笑っておしゃべりをして、家に帰って部屋にひとりいるときに、ふっと寂しく感じることが誰でもあると思います。 また、多くの人々が行き交う賑やかな街の雑踏の中でも、「自分はひとりぼっちだ・・・・。孤独だ。」と思う時がありませんか?

また、長い間連れ添った伴侶が病死したり、親しい友人と死別したとき、家族や親友が遠い所に行ってしまった時の別離の悲しみ、職場の人間関係がうまく行かなくて疎外感を味わっているときなど、人は誰でも、孤独感に陥る時があるのではないでしょうか?
 
人間は「自分が誰からも愛されていない。」と思うときに一番孤独を感じるものです。しかし、聖書にはこのような慰めに満ちたことばがあります。あなたは、世界中のだれからも愛されていないと思うときも、天地を創造された神様はあなたを愛しておられるのです。

●「わたし(神)の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。
 
●「見よ。わたし(イエス)は、世の終わりまで、いつも、あなたとともにいます。」(マタイの福音書28:20)。

●「あたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」(ヨハネの福音書14:18)。

人は自分はだれかから真実に愛されていると実感できるときに満足感があり、決して「孤独」だとは感じないのです。実は、あなたの罪(すべての人間は神に背を向けて自分勝手な自己中心の生き方をしていること)のために、十字架上にまで架かって身代わりに死んでくださったほどにあなたを愛してくださったお方がおられます。それは神の御子イエス・キリストです。

どうかイエス様の愛を、どうかお知りになって下さい。あなたの寂しく空しい心が神の愛で満たされることは間違いがありません。どうか、あなたもキリストを信じて神に立ち返ってくださるように心からお勧め致します。

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