聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★最初のボタンのかけ違い

2004-12-31 | 「神の存在について」

 あっという間に、一年が過ぎ去り、今日はもう大晦日です。
それにしても、「この世の中何か、益々おかしくなって来たのでは‥‥」と考えておられる方は決して少なくないように思われます。今年は、夏の異常な猛暑(酷暑)、台風や地震の災害だけでなく、人間の心も冷え切っており、異常とも思える凶悪な犯罪は多発し、しかも、犯罪は低年齢化、益々、道徳的にも退廃と悪化の一途を辿っているように思われてなりません。

創造者であるまことの神を無視するという「最初のボタンのかけ違い」というミスを犯してしまった人類(始祖はアダム)は、矛盾、悪と不正、退廃と不道徳に対して無感覚になってしまい、悪に対して鈍感になり、麻痺してしまっている状態となっているのです。どこまでも、かけ間違ったボタンを次々とかけ続けながら、その間違いに気づいていないというのが現実の世界なのであります。悲しいことに、一国の指導者、為政者でさえそのことに気づいていないのです。

私たちは、朝、寝ぼけて服やシャツのボタンのかけ違いをしてしまうということがないでしょうか。そのかけ違いを直すために、二つ目、三つ目のボタンを直しても駄目なのです。最初の一番目のボタンからかけ直す必要があります。それと同じことが、今の世界に(いや、あなた自身にも)必要なのです。すなわち、「神の存在を認める」ことから始める必要があるのです。

「来年こそは、幸せで平和な一年でありますように!」と、誰もが願っているでしょうが、決して楽観はできない状況であり、安易に考えてはなりません。凶悪犯罪の増加だけでなく、地球の温暖化から来ると思われる異常気象と災害の多発でさえも、人間の欲望を満たそうとする自己中心の神を認めない罪と無関係ではないのです。最初のボタンから、かけ直さなければ、何一つ問題は解決しないのです。家庭における子供のしつけ、教育現場における混乱など、何もかもが今は行き詰っている状態ですが、これも最初のボタンのかけ違いから直さなければ、どうにもならないのです。

「最初のボタンのかけ違い」というのは、人間が「神の存在」を認めず、どこまでも、神に背を向け、自分勝手な罪の道を歩んでいるということであります。その神を無視した態度を悔い改めることこそ、第一のボタンからかけ直すことであります。

●「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)。

●「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」
(詩篇19:1)。

●「天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てられた方、これを形のないものに創造せず、人の住みかに、これを形造られた方、まことに、この主がこう仰せられる。『わたしが主である。ほかにはいない。 』」(イザヤ書45:18)。

●「主(創造者)を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。 」(箴言1:7)。

●「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。‥‥‥ そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。 神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」(使徒の働き17:18~30)。

イエス・キリストは、あなたが偶像から真の神様に立ち返る道を開くために、約二千年前に、すでに十字架と復活のみわざによって、それを成し遂げられたのです。どうか、みなさん、神が存在することは明白な事実でありますから、正しい人生の選択をなさってください。

 

★どうしても必要なこと

2004-12-28 | 「聖書と人生」

                 

  ●「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカの福音書10:41,42)。 

 年の瀬も迫り、何かとあわただしい「師走」の多忙な時節ですが、師走は「師」が走るほど忙しい月ということなのでしょうか?「師」が誰のことを指しているのかは諸説があってよく分かりませんが、最近は年の瀬だけではなく、一年中忙しく働き続けて疲れ切っておられる方も多く見られるように思われますが、みなさんはいかがでしょうか。

さて、冒頭に書きましたのは、新約聖書の中の一節で、お弟子さんたちと旅をしておられた主イエス様の一行が、姉のマルタと妹のマリヤの家にお立ち寄りになられ、二人の姉妹は大喜びでイエス様をお迎えしました。マリヤは、主の足もとに座って、イエス様のお話を喜んで聞いておりました。そして、姉のマルタは、お客様をおもてなしするために、台所で甲斐甲斐しく働いている様子を想像することができます。

ところが、マルタは、イエス様を接待することで忙しく、頭がパニック状態になっていたのでしょうか。お出しするご馳走のことで心がいっぱいになっていたのでしょう。彼女は心が乱れ、落ち着かず、イエス様のみもとに来て文句を言ってしまいました。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」 と。

そして、そのとき、イエス様がマルタに語ったのが、冒頭に記した有名なことばなのであります。約二千年の間、多くの人々が、聖書のこのみことばによって、自分の人生で一体何が一番大切なのかを吟味させられ、考えさせられて来られたことは疑う余地がないと思います。あなたは、このみことばをお読みになって、何か感じることはありませんか?

このとき、マリヤはイエスが語っておられた大切なお話を聞いておりました。多分、まことの神様のことや、人間の心の罪の問題、死後のこと、たましいの救いの問題などについて語っておられたに違いありません。イエス様は、やがて、世界中のすべての人々の罪のために身代わりに十字架に架けれて、死のうとしておられたのですが、当然そのことも語られたであろうと思います。

イエス様は、マルタに対して、「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」と言われました。これは、実に深い含蓄のあることばです。

人生には、仕事や家庭のこと、育児の心配、家族の健康のこと、生活やお金のこと、隣人との人間関係の悩みなど、いろいろと心配なことは尽きることがありませんね。しかし、マルヤがイエス様の足もとで、すばらしい良きおとずれを聞いていたように、今の時代にも、人間にとって、普遍的な問題が書かれている聖書から、キリストの福音を聞くことは一番大切なことなのです。

使徒パウロも次のように語られました。どうか、一番大切なものを第一にされて、キリストの福音を聞き、たましいの救いを得て平安な心で日々を過ごす方となられますように‥‥。

●「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」(Ⅰコリント15:3,4)。
 
        

★タイタニック号の悲劇

2004-12-25 | 「死後の二つの行き先」

    1912年4月12日、それまでに建造されたものの中で最も壮麗で、安全を誇った豪華客船「タイタニック号」がアメリカ向け処女航海の大西洋上で氷山に衝突して沈没して多くの犠牲者を出したことは、知らない人はいないほど有名な海難事故であります。

タイタニック号が沈没した時、英国リバプール市にあるホワイト・スター汽船会社事務所の前に起こった光景は、筆舌に尽くしがたいものであったと言われています。この不運な汽船に乗り込んだ人たちの家族や友人の群れが道路いっぱいにあふれ、交通はすっかり遮断されました。そして、事務所正面入り口の両側に、大きな掲示板が掛けられ、その一つには、大きな字で「生存者」、もう一つの方には「行方不明者」の名前が書き出されたのです。

ひっきりなしに、乗船者の名前を書いた紙片を持った係員が事務所から出て来て、入り口に立ち、大勢の人を見ながら、紙片を高く上げると、群衆はまるで水を打ったように静かになり、「生存者」の方か、「行方不明者」の方か、どちらかの掲示板に紙片がはり出されるか、みな息を殺すようにして見守ったと言われています。

これらの群集は、この豪華客船に乗っていた人の運命は、ただ、二つのグループに分けられていたことを知っていたのです。つまり、「生」か「死」のグループのどちらかであります。
そして、世界中のすべての人々は、神の前にただ、二つののグループのどちらかに属することになるのです。これは、聖書が語るまことに厳粛な事実であり、聖書は、次のように記しています。

●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者(信じない者)は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネの福音書3:36)。

また、このタイタニック号の海難事故について、一人の記者が次のように語っています。「愕然とさせられることは、その船が沈んだということではなく、15時間前に無線によって警報を受けていたにも拘わらず、その船は沈み、しかもその直前まで、船は全速力を出し、楽隊は楽器を鳴らし、船客は踊りに耽り、明らかに、だれ一人として前方に氷山のあることに注意していなかったことです。」と。

また、聖書は「人々が、『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。」(Ⅰテサロニケ5:3)と警告しています。多くの人々は現状維持の態度を取り続けているために、滅びが目前に迫っていると聖書が警告しているにも拘わらず、それを無視しているのであります。救われるためには、キリストを自らの個人的な救い主と信じて受け入れ、今までの罪の人生を悔い改めて、方向転換をしなければなりません。

 これは、ある本に書かれてあったことですが、タイタニック号を建造した造船技師は有名な無神論者でしたが、その船底に「神などはいない!」と刻みつけたと言われています。これが、事実かどうか確かめるすべがありませんが、もし、そうなら、恐ろしいことです。このような不真面目な者に対して、神の審判が下るのは当然であります。神は決して侮られるような方ではありません。

●「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ人への手紙6:7)。
●「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。」 (詩篇14:1)。


 キリストの十字架と復活の福音を信じる者は救われて永遠のいのちを受け、福音の恵みを拒む者は永遠の滅びに入るのです。次のみことばは、キリストご自身が、はっきりと語られた厳粛なことばです。どうか、あなたの永遠の未来、死後のために備えをなさってください。

●「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。 」(マタイの福音書7:13,14)。

        

★無神論に希望はあるか

2004-12-23 | 「神の存在について」

      死の床から娘は弱々しい声で尋ねました。「お父さん。私はお父さんの言っていたことを信じていいの?それとも、お母さんが聖書から教えてくれたことを信じたらいいの?」。娘のこの質問は、父にとって、大きな試みとなり、そして長い時間、彼は悩んだのです。

 無紳論者である父にとって、もし死に直面している娘に慰めのことばをかけるとすればが、今がチャンスです。そして、ついに彼は口を開いて言いました。父はなんと答えたでしょうか。なんと、「お母さんの言ったとおりに信じなさい。」と答えたのでした。
 
 死の床にある者に対して聖書の神を信じる者は、確信をもって、慰めと希望を与えることができます。しかし、無神論者には、死に直面している者に対して何の慰めも与えることができないばかりか、自らも死に対して何の備えもなく、死に対して不安と恐怖をもちながら生きているのです。

「神の存在」について、パウロは聖書の中で次のように明確に述べています。

●「なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」
                 (ローマ人への手紙1:19,20)。


 「レ・ミゼラブル」の著者ユーゴーが、ある夜、友人と散歩をしていました。友人がため息をつきながら言いました。「ユーゴー君、この大空を見たまえ。きらめく星々を!幾万光年ともしれぬ大空に、無数の星を敷きつめておられるのだ。神は何と偉大ではないか!」ユーゴーはすかさず、答えました。「その星を見る目を人間に与えてくださった神は、さらに偉大なるかな!」。実に味のある会話だと思われませんか。肉体の一部分、しかも、小さい目が、何万光年ともしれない遠距離の星々を見ることができるとは!!

  イエス・キリストは、人類の罪のために身代わりとなられて死んでくださり、三日目によみがえられた方です。ですから、キリストを信じる者には復活の希望があるのです。死を目前にしても、なお、平安を持っていることができます。

●「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』 ‥‥」(ヨハネの福音書11:25、26)。

●「あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。」(Ⅰペテロ1:21)。 

 
 あなたも、人生のあらゆる問題の根源に関わるこの神の存在について、どうか真剣にお考えになってください。神が実在することは、証明する必要がない事実であり、あなたが神に生かされている存在であることは自明の理であります。

       

★自分の罪に気づくこと

2004-12-21 | 「人間の罪の問題」


  「ぼくは、夕ご飯の時、おかずをこぼした。父から、『よそ見しているからだ!』と、叱られた。弟も、『そうだよ、よそ見しているからだよ!』と言った。しばらくして、父もおかずをこぼした。家の中が、シーンとなった‥‥‥」。これは、小学生の男の子の作文ですが、その情景が目に浮かぶようで、思わず、笑ってしまいました。わが家でも、子供が小さい時、それと似たようなことがあったような気がします。子供が悪いことをした時叱るのですが、私自身も同じ失敗をして平気な顔をしているのですね・・・・・。

  人間というのは、他人の欠点や失敗はすぐ気づくのですが、他人には寛容になれず、他人をさばきやすいものであります。しかし、自分の罪や欠点には、なかなか、気づかないという弱さがだれにでもであるのではないでしょうか。

  イエス様も、「さばいてはいけません。さばかれないためです。 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。 ‥‥まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7:1~5)と言われました。

  フランスの思想家パスカルは、「人間の偉大さは、自己のみじめさを認めるところにある」と言いましたが、中国の王陽明という学者は「山中の賊は平らぐるに易し。されど、心中の賊(自分の罪のこと)は平らぐるに難し。」と言って、自分の心の中の罪を征伐するのはいかに困難であるかを語っています。人間は真面目に生きようとすればするほど、自分の心の中に醜い汚れと罪があることを知らされるのではないでしょうか。

  聖書の中で、使徒パウロも、自分の心の中の罪に苦しみ、次のように告白しているのです。

●「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。 ‥‥私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」(ローマ7:15~19)。

  ヒルティというスイスの思想家は、こんなことを言っています。「私は、病気で幸福な人をたくさん見て来ました。また、貧しくて幸福な人をたくさん見て来ました。しかし、心が罪で腐っていて、幸福な人に一回も会ったことがありません。」と。

  また発明王エジソンに、ある人が次のようなことを尋ねました。「あなたの発明中の中で、何が一番大きな発見でしたか?」。すると、意外な答えが返って来たのです。「私が罪人であることを知ったことです。そして、このような罪人を神様が愛していてくださるということを知ったのは更に偉大な発見でした。」と。本当に偉大な人というのは、言うことも違うものですね!!

  鏡の前に立つと、自分の顔の汚れも、しわも、ホクロも何でもそのまま写してしまいます。それと同様に、聖書は私たちの心の中の醜さや汚れや罪をはっきり映し出す鏡のようなものです。だれでも、真摯な心で聖書を読みますと、聖なる神の前には、すべての人は罪人であることを明確に自覚させられるのです。そして、その罪と、罪の結果の死後のさばきからの救いの道も神様はすでに備えてくださっているのです。下記のみことばは、使徒パウロの説得力のあることばです。

●「‥『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(Ⅰテモテ1:15)。

●「この方(キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには私たちが救われる名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。」(使徒の働き:4:12)。

 キリストは、あなたの罪からの救いのために十字架に架かられたあなたの救い主なのです。どうか、この人生の大切な事実をよくよくお考えになられて、救い主イエス・キリストを信じて救われてください。あなたの人生においてもっとも大切な罪の解決は、十字架につけられたいえす・キリストにあるのです。 

          

  

★心の汚れと罪

2004-12-19 | 「人間の罪の問題」

           

  今年も、もう師走ですね‥‥。北海道の12月は、もう一面の銀世界です。
シクラメンの鉢を、そっと雪の上に置いて写真を撮って見ました。鮮やかなピンク色のシクラメンの花と真っ白い雪を見ながら、それらとは対照的に人間の心の中(自分も含めて)は何と汚れと醜さが満ちていることだろうかと考えさせられました。
 
 ある小学生が作った「詩」の中に「‥‥どんな消しゴムもいらないけれど、心の汚れを消す消しゴムが欲しい‥‥」という一節を読んだのを記憶しています。私は、この小学生は何と素直な心を持った子供だろうかと思いました。この小学生のように、自分の心の汚れと罪に気づく人は幸いな方です。

 ところで、聖書の中で神の御子主イエス・キリストは人間の心の汚れと罪について、次のようにはっきりと語られました。イエス・キリストは、人の心の中のこともすべて見通しておられ、常に真実をズバリ語られる御方なのです。この御方に偽りはありません。あなたも、どうか、ご自身の心の中を聖書のみことばに照らしてまっすぐにご覧になってください。 

●「人から出るもの、これが、人を汚すのです。 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。 」(マルコの福音書7:20~23)。

 私たち人間は、だれでも周囲を見回して、「自分はそんなに悪くない、悪い人は世の中にいっぱいいるではないか。」と考え、自分を善人の一人であると思いたい気持ちがあるのではないかと思います。しかし、真っ正直に自分の心の中を探り、見ようとするならばだれでも自分の心の罪に気づくのではないでしょうか。人を赦し、愛したいと思いながら妬んだり、憎んだりしてしまう。正直でありたいと願いながら、嘘をついてしまう。謙遜でありたいと思いつつも、高ぶった態度になってしまう。清くありたいと願いながら、汚れた思いを持ってしまう。みんな、そういう経験はあると思います。

 使徒パウロも、自らの心の汚れと罪深さを自覚して、「私はほんとうにみじめな人間です。だれが、この死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ書7:24)と告白しています。これは、パウロだけでなく、私たち一人一人の心からの叫びではないでしょうか。

 実に聖書は、新約聖書のローマ人への手紙3章の中で、次のように告げています。これは、人が語ることばではありません。完全に聖よく正義と愛に満ちた神のみことばなのです。どうか、ご自身の心を探ってよくよくお考えください。このように書いている私自身も若い頃に、自分の心の汚れと罪を深く自覚させられた時があったのです。 

●「義人はいない。ひとりもいない。 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。 彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、 彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。彼らの足は血を流すのに速く、 彼らの道には破壊と悲惨がある。 また、彼らは平和の道を知らない。‥‥‥ すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず‥‥」(ローマ書3:10~23)。

 私は、最初聖書を手にして読んだ時、自らの心の中を見たときに、まさにこの通りで、否定することはできませんでした。また、世界に目を向けても、「彼らの足は血を流すのに速く、 彼らの道には破壊と悲惨がある。 また、彼らは平和の道を知らない。」とある通りで、戦争と殺戮、テロと流血が繰り返されているのが現実で、この聖句のとおりであり、このみことばをだれも否定できません。人とは何と罪深いものでしょうか。

 しかし、みなさん、絶望することはありません。聖なる神様はまた同時に愛なる神様であり、このような罪人となってしまった私たちにすでに救いの道を備えておられるのです。それが、今から約2,000年前に成就された神の御子イエス・キリストの十字架の身代わりの死であります。

●「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。 」(イザヤ書1:18)。

●「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(Ⅰヨハネ1:7)。


 キリストを救い主と信じる者はだれでも、キリストの十字架の贖いによって、すべてのが罪赦されて、幸福な生涯を送ることができ、死んでからも、天国に行くことができるのです。         

   


★「聖書」とはどんな本ですか?

2004-12-17 | 「聖書について」

        

 私が「聖書」を初めて手にしたのは、まだ20代前半の青年時代でしたが、聖書とはどんな本なのか、全く分かりませんでした。ただ、キリスト教の経典くらいにしか考えていなかったのです。一体、聖書とは、どのような本なのでしょうか、少しだけ紹介したいと思います。

 聖書は「神の図書館」であるとも言われています。それは、聖書は一冊の書物でありながら、66巻の別々の書物から出来ているからです。創世記に始まり、ヨハネの黙示録で終わっているこの書物(神のことば)は、大きく分けると二つに分けられます。前の部分(39巻)はイエス・キリストがこの世に来られた以前に書かれたもので、旧約聖書とよばれ、後の部分(27巻)はキリストがお生まれになってから後のもので、新約聖書と言われています。

 さて、聖書は一体だれが書いたのかということですが、聖書はBC(紀元前=キリスト前)1.500年頃から約1.600年の間(AD<紀元>100年頃まで)に亙って、少なくとも36人以上の人々によって書かれました。その著者には、一例を上げると、王(ダビデ)、学者(エズラ)、漁師(ヨハネ)、医者(ルカ)、羊飼(アモス)など、いろいろの身分、職業、学識の人々がおり、またその書かれた時代には、時に1千年もの隔たりがありますが、時が移り変わっても、その内容は完全に一致と調和を保っているのです。

 そして、これらの聖書の著者は、イタリーからバビロンにいたる広大な地域に散らばっていて、ほとんどの人が、お互いに会ったこともないのです。このように地位や環境がそれぞれ異なった著者により、風俗、習慣も違う広大な地域で、長年月にわたって記録されたものであるにもかかわらず、お互いの間に矛盾がないばかりか、驚くほどの調和と統一があるのです。しかも、その内容にはそれぞれ特色がありながら、一貫性があるのですから、まことに不思議と言わざるを得ません。一体、これは、どのように説明できるのでしょうか。

 それは、聖書自身が語っているように、各著者の心の背後には、すべての者を真理に導く神(創造者)の聖霊の偉大な働きがあったことを示しているのです。これらの人々は神の直接の支配の下に書いたので、その原語の一つ一つの言葉が神に導かれて記されているのです。次の聖句は明らかに聖書が神の霊感に導かれて書かれたものであることを証ししています。

●「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。 」(Ⅱペテロ1:21)。

●「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。 」(Ⅱテモテ3:16)。


 このように、聖書は神の言葉そのものなのです。聖書には、神のことばが含まれているというのではなく、聖書のあらゆる部分が神の霊感によって書かれているのです。聖書こそは、神が人類に与えられた唯一の啓示の書なのです。そして、その故に、神は聖書に付け加えたり、省いたりすることを固く禁じているのです。どうか、あなたも、神の言葉である聖書をお認めになられますように。
その聖書は、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いによる救いが主題となっているのです。

             

★人生のはかなさ。

2004-12-16 | 「聖書と人生」



 今年も、いろいろな出来事があった年でしたが、もう、師走の半ばとなりましたね。「歳月人を待たず」との諺通り、月日の流れは早いですね。
ある本にこんな一言が書かれてあったのを最近読みました。
「60歳代は一年ごと、70歳代は一ケ月ごと、80歳代になると一日ごとに体力が衰えていく。気持ちはまだ若いつもりなのに‥‥。」 これは、老いて行く速さを実感した高齢者のことばです。

 私も、すでに60代前半になりましたが、自分では気持ちが若いつもりでも、悲しいことですが、確かに体力は年毎に確実に衰えて行くのを実感せざるを得ません。「光陰矢の如し」と言いますが、月日が流れるのは矢のように早いものです。そして、年を重ねるごとに、一年が過ぎ去るのが早く感じるようになるのは、私だけではないと思います。 

 加齢とともに、もの忘れもだんだん進んで行くように感じます。最近、とくに困るのは、普段よく知っている人なのに、その人の名前を思い出せないことが度々あるのです。また、買い物に出かけて、いざレジでお金を支払う時になってから、初めて財布を忘れて来たことに気づいたりすることもあるのですから、困ったものです。まだ、ボケが始まるにしては少し早すぎますね。

 若い時は、体力的に疲れても、一晩休むと翌日はもう疲れも取れてしまったものですが、 今は、ひどく疲れると、何日経っても疲れが取れないことがあるのです。だれでも、「年はとりたくないな~」と思うのが自然だと思いますが、でも、こればかりはどうにもなりません。人間の一生というのは、まことにはかなく、空しいものです。

 人間の生涯の空しさについて、今から約三千年も昔に書かれた詩篇の中に次のようなことばがあります。これはあのイスラエルの指導者モーセの祈りのことばなのです。荒野の40年の旅路で、儚く死んで行った沢山のイスラエルの同胞を彼は見て来たに違いありません。人生というのは、本当に儚いものではないでしょうか。

●「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。‥‥ それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。 」(詩篇90:10~12)。

 「私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください」とは、自分に残された生涯がどれだけであるかは誰にも知ることはできないので、神がすべてを支配している主権者であることを知って、自らの罪を悔い改めて、神に会う備えをして日々を生きることなのです。

 新約聖書の中でも、使徒ペテロは旧約の預言者イザヤのことばを引用して、人生の空しさを語り、その空しく希望のない人生から救われるのは、「キリストの福音」しかないことを強調しました。私たちを自己中心の罪の人生から救うために、キリストは十字架で死んでよみがえってくださったのです。それは、残された生涯を神のために生きるためであり、永遠に至る真の希望を持たせるためなのです。

●「『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。 」(ペテロの第一の手紙1:24,25)

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「あなたの若い日に、あなたの創造者(造り主:GOD)を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』という年月が近づく前に。」(伝道者の書12:1)。

     
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★人間は偶然の産物?

2004-12-14 | 「神の存在について」



  あらゆるものの中で、人間ほど、見慣れたものはありませんが、人間ほど、不思議で複雑なものはありません。どのような図書館も、解剖学、生物学、化学、心理学、その他人間の多くの面について、これまで書かれたすべての書物を保管するのには小さ過ぎます。

しかも、人間の精密で、複雑な構造の不思議さは、研究し尽くされることはありません。まさしく、人間の体の構造や精神の不思議さを真面目に考えた人で、かくも、すばらしく設計されているものが、設計者を持つに違いないと結論しなかった人がいるでしょうか?私たちが人間の体や精神の驚くべき複雑さを考えてみるならば、それが盲目的な偶然の産物であるなどとはどうしても信じることはできません。
 
偶然によって、「秩序」は生まれることはあり得ないのです。たとえば、ピアノの鍵盤の上を行ったり、戻ったりしてしている猫がすばらしい名曲を演奏することがあるでしょうか。決してあり得ないことです。また、印刷所が何かの理由で爆発したと仮定しますと、その結果、偶然にすばらしい百科事典が何百冊もできるなどということが果たしてあり得るでしょうか。そのようなことは決してありません!!

それと同様に私たちの精密で複雑な人間の存在の根本的原因が、進化論者が言うように「偶然の産物」であると信じることは、私にはとてもできないことです。設計者であり、創造者である神が存在すると信じることの方が自然であり、理性的でないでしょうか。

また、私たち一人一人が、今ここに生きているということは、私たちの意志や願いや親の意志や願望によって勝手に生きているのではありません。生きているということは、私たちの理屈や意志や感情を超越した神秘的な事実であります。私たち一人一人は神によって生かされている存在なのであります。

「人はなぜ生きなければならないのか?」と、あなたは考えられるでしょうか。いいえ、あなたは実に、愛なる神に、日々「生かされている」存在なのです。その証拠に、あなたの意志と関係なく、あなたの心臓は拍動し、あなたの意志と関係なく、あなたは無意識のうちに呼吸をして生きているではありませんか。

●「初めに、神は天と地を創造した。」(創世記1:1)。

これは、旧約聖書を開くと、一番最初に書かれているみことばです。また、新約聖書には、次のようなみことばもあります。

●「家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。」(ヘブル人への手紙3:4)。

●「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」(ローマ人への手紙1:20)。


●「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人(となられた)としてのキリスト・イエスです。」(テモテへの第一の手紙2:5)。

どうぞ、あなたも神の存在を素直にお認めになられて、神と交わりのある幸福な生涯を送る方となられますように・・・・。神と私たち罪人との間の仲立ちとなって、十字架で身代わりに死んでくださったお方が、神の御子イエス・キリストなのです。このイエス・キリストを信じる者は”永遠のいのち”が与えられ、死んでも天国にはいることができるのです。
   
          


★必ず来るもの・人間の死。

2004-12-13 | 「死後の二つの行き先」

           

 今日は、誰もがあまり考えたくない問題に、あえて触れてみたいと思います。人生において、すべての人に確実に来るものは何でしょうか。それは、非常に現実的な問題であり、「死」の問題です。それは、どなたも考えたくないことであり、できるだけそのことを話題にしたり、考えるのを避けようとするのが常ではないかと思います。

 多くの人は、「死後のことは分からない」と言いながらも、だれでも「死にたくない」と願うのです。「生への執着は生ける者の本能である」と言えばもっともらしく聞こえますが、その不可解な死に怯えながら、逃げ回っているのが人間の本当の姿でないでしょうか。病院に「4号室」がないのも「死」に通じてると考えるからです。 

 私は近くにガレージを借りていますが、そこには「⑤」という番号がついています。
①②③と続いて、④がなく、私のガレージが⑤番になっています。ホテルの部屋なども「4」のつく部屋がないところが多いと思います。日本人は「4」の数字を忌み嫌うのです。とにかく、「死」は恐ろしく、その「死」ということばすら避けたいとの思いがあるわけですね。

 この切なる願いにも拘わらず、死はすべての人に迫っています。金持ちも貧乏人も、有名人も無名な人も、今健康な人も病人も、それらのことに関係なく、「死」はすべての人に平等に襲って来るのです。そして、死後に何があるか分からないので、尚更、不気味であります。「自分は若いから、まだ大丈夫だ‥‥」と、お考えの方もおられると思いますが、必ずしも、年配者が先に逝くとは限らないのですね。また、健康な人が病弱な人より先に逝くとは限りません。私の母は昔から病弱でしたが、元気だった父が亡くなってから15年経った今(89歳)も生きています。

 先日、私が住んでいる市の31歳の青年がバイクに乗って走っていたのですが、交差点で一時停止を怠って乗用車と衝突、即死しました。私の息子と同じ年の前途有為の青年でした。会ったことはありませんが、電話で話したことがあったので、新聞で事故死のニュースを見て驚いた次第です。

 「人間というのは、みな細い糸にぶら下がって生きているようなものだ」と、言った人がいますが、その糸がいつ切れるかはだれもわからないのです。人は、若く健康な人も死ぬ時はあっけなく死んでしまいます。ですから、死の問題の解決なくして、人生の真の問題の解決はなく、人生には本当の意味で希望がないことになります。最新の医療でさえ、ただの延命の手段の一つであるなら、根本的な解決にはなりません。

 人間は、いくら考えても、死後のことを知ることはできませんが、神のみことばである聖書は、人間の死後について、次のように厳粛に告げています。

●「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

●「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。 海はその 中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第 二の死である。 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。 」(ヨハネ黙示録20:11~15)。


 ここで、話を閉じてしまうと、みなさんにただ恐怖感を与えるだけで終わってしまうことになります。しかし、みなさん、聖書は私たちに真の希望を与える書物であり、聖書には、この正義の神の恐ろしい「最後の審判」から救われる道が書かれています。それが「福音」(God's Word)( good news )(gospel) であり、「良きおとずれ」なのです。神の御子イエス・キリストが十字架で、人類の罪の身代わりに死なれ、三日目に復活されたのは、そのためなのです。次のような幸いな聖書のことばがあります。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「あなたがたは、恵みのゆえに信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ書2:8)


 神が遣わされた救い主イエス・キリストを自分の個人的な救い主として信じ受け入れる時に、だれでも罪赦されて、永遠のいのちを受けることができるのです。そして、死後にも天国に入ることが出来ます。是非、あなたも、この神様からのすばらしい賜物をご自分のものとなさってくださいますように。人の死後は天国と火の池(lake of fire)の二つの世界があり、それは永遠に続くのです。決して、人は死んで無になるのではありません。

           


★幸せを求めて・・・。

2004-12-10 | 「人生の幸せと平安」

         

  私たちはみな、だれでも幸せを求めて生きています。人生は幸せを求めて旅をしているようなものではないでしょうか。しかし、幸せを求めてみな努力していますが、本当の幸せを得る人は千人に一人もいないと言っても過言ではないでしょう。

 人々は、お金、財産、地位、名声、快楽などを求めています。しかし、物質的な目に見えるものに幸せの土台をおけば、それを失いはしないかと不安を覚えながら生活しなければなりません。現代は、幸せな生活のためと言いながら、物の豊かさだけを追いかけて来た結果、かえってそれとは裏腹に、凶悪犯罪、自殺、ノイローゼ、家庭崩壊などの悲劇が毎日起こっています。

 人間の幸せは、物の豊かさよりも、むしろ心の豊かさにあるのです。人を赦さない心、高慢な心、妬みに満ちた心などをそのままにして、本当の幸せはありません。どんな境遇にあっても、何が起こっても決して失われない幸せは、神のことばである「聖書」の中に示されています。神なしの生活に真の心の平安はないのです。パスカルは「人の心には神がつくった空洞がある」と語りましたが、この空洞は神だけが満たすことができるのです。聖書の示す神は、全宇宙を創造した唯一のまことの神です。

 私たちは、神との幸いな交わりがあって初めて真の満足を経験することができます。神のもとには、平安と喜びと希望があります。この世が与える幸福は一時的ですが、神が与える幸いは永遠に続く満足です。あなたを生かし、愛しておられる真の神を認め、神のもとに立ち返るところに真の幸いがあります。

 聖書は、すべての人は罪を犯したこと、その罪のゆえに人の心には、真の平安がないことを告げています。しかし、神の御子イエス・キリストがすべての人の身代わりに十字架で死なれ、三日目によみがえられました。御子を信じる者はだれでも罪が赦され、本当の平安を持つことができます。愛なる神様の中にある平安こそ、かけがえのない幸せです。

●「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのない人は。」(詩篇32:1,2) 
 
●「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」(詩篇73:8)。 

●「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」 (ヨハネ
の福音書14:27)。
 

             


★愛がなければ‥。

2004-12-09 | 「聖書と人生」
  
               

 みなさん、お元気でお過ごしでしょうか。あわただしい日々が続く師走の季節ですが、今日はみなさんと共に「愛」のテーマで考えてみましょう。

明治文豪のひとり、徳富蘆花が残した言葉に「人は愛せずして生きるあたわず、人は愛されずして生きるあたわず」というのがあります。確かに特別な例外を除いて人はまったく愛を失った時に、生きる望みを失い、死を考えるのです。動物は与えられた本能に従って、生きるだけで満足していますから、愛のゆえに悩んで、自殺したりすることはありませんが、人間にとってこれは深刻な問題です。

人間は何ものをも愛することなしに生きては行けない存在なのです。人の一生から「愛」というものを取り除いてしまったら、ただ意味のない空白が残るだけではないでしょうか。しかし、現実には、世界中の多くの人々がみな真実な愛に渇き、愛を求めて生きていますが、それを得ることが出来ずに、ただ空虚と悲哀の感情が残るばかりです。

親と子の間で、夫と妻の間で、また社会の中で信頼と愛の絆が失われ行く今の時代の中で、多くの人々は失望し、深い孤独を味わっているという現実があります。誰からも愛されず、まただれをも愛することが出来ないとき、人間は本当に孤独であります。

ある詩人は、「孤独は山にはなく、街の中にある」と言いました。街には人があふれています。人は人との人間関係の中で、他人に愛を求めるのです。しかし、愛に対する期待が裏切られた時、人間は絶望し、やっぱり自分はひとりぼっちなんだと考えます。しかし、私たちは他人に愛を求める前に、「私には愛があるだろうか?」と、問うてみるべきではないでしょうか。

人間とは、とかく他人の欠点、弱点はすぐ見つけることができますが、自分の欠点や罪を見出すのには疎いのではないでしょうか。聖書は、人間は自己中心であり、みな罪人であると語っています。「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」とは聖書の教えですが、罪人である人間には、これは不可能なことなのです。

しかし、真の神様は、このような自己中心で人を愛したり赦したりすることのできない弱い罪人である私たちを愛してくださっていることを聖書は教えているのです。聖書には、次のような幸いなみことばがあります。

●「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43:4)。 

●「‥‥愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。‥‥神はそのひとり子(キリスト)を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子(キリスト)を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネの手紙4:7~10)

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

 
イエス・キリストは、私たち罪人のために十字架で死んでくださり、死後も天国に入ることのできる道を開いてくださいました。これが、聖書の中心の主題であるイエス・キリストの福音なのです。

        

★人生の道しるべ。

2004-12-07 | 「聖書について」



あなたは、今まで道に迷った経験はありませんか?もし、私たちが街で道に迷った時、誰に道を尋ねるでしょうか。2、3歳の幼児に道を尋ねることはまずあり得ないと思います。交番に行って、お巡りさんに聞くか、信頼できそうな大人の人に尋ねるのが普通ではないかと思います。

  私たちの人生の旅路においても、時々「道」に迷うことがありますね。また、人生の大きな試練の中で岐路に立たされ、どの道を選ぶべきか悩み苦しむことがありませんか。ですから、人生の道案内と「道しるべ」となるものがどうしても必要なのですね。

  ある時、孔子に弟子が次のように尋ねたそうです。「先生、人間はなぜ生きているのでしょうか。また、人はなぜ死ぬのでしょうか。」と。孔子はそれに対して、「われ、生を知らず、いずくんぞ、死を知らんや。」と答えたと言われています。

  私は若いとき、数年間だけですが灯台で無線通信士として働いていたことがあります。「灯台」は昔も今も変わらず、暗夜の荒波の海を航海する船舶の乗組員にとっては、港から港へ安全に船を導く海上の「道しるべ」なのです。

  私は、あなたに人生の確かな「道しるべ」を示すことができます。それは、神の永遠の真理の書、「聖書」です。聖書は、いろいろなものに例えることができますが、人生の「道しるべ」であり、「羅針盤」であり、「無線方向探知機」であり、また「海図」でもあります。

 私たちの人生航海において、これらのものがあって初めて、安全な人生航海が出来るのです。これらのものが備わっていないために、大海原の荒波の人生航海で、暗礁に乗り上げて転覆したり、遭難したりして、人生航海の半ばで、海の藻屑となって海中深く消えてしまうことがあるのです。
聖書の中には次のようなみことばがありますので、是非、よくお読みになってください。

●「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」 (詩篇119:105)。

●「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイの福音書24:35)。

●「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」(ヨハネの福音書14:6)。

●「イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』」(ヨハネの福音書8:12)。

       



★キリストの十字架の愛

2004-12-04 | 「キリストの愛」

           

    イエス・キリストは、今から約2.000年以上前に、ユダヤのベツレヘムの馬小屋で誕生され、飼い葉桶に寝かせられました。ナザレの田舎大工の子として成長され、30歳の時から三年半の公生涯において、多くの悩み苦しめる者に救いの手を差し伸べられ、盲人、手足の萎えた人、中風の人、らい病人など、数多くの病人を癒され、そればかりではなく、死人をさえ蘇えらされ、荒れ狂う湖を一喝して静められ、5千人の飢えた群衆に奇蹟によってパンを分け与え、その他数々の愛と力に満ちたみわざとを示されました。

また、何よりも驚くべきことは、この御方には、何一つ罪がなかったことであります。イエス・キリストの側近の一人であったペテロは、「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りもありませんでした。」(Ⅰペテロ2:22)と証言しています。そして、キリストは、その生涯の最後に十字架に架けられて処刑され、息を引き取られたのです。十字架刑は、当時のローマの極悪な犯罪人を死刑にする実に恐ろしい処刑の方法であったのです。しかし、キリストはそのような血を吐くような苦しみの中から、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」と祈られたのです。キリストは、ご自身には何も罪がなかった聖よいお方でしたが、私たち全人類の罪のために身代わりに死んでくださったのです。これは、何と崇高で偉大なキリストの愛ではありませんか!!

江戸時代前期の人で、佐倉惣五郎という農民がおりましたが、父のあとを継いで名主の役を務め、村人たちからも厚く信頼されていました。佐倉藩主堀田正信が重い年貢米を課したので、佐倉藩200余村の農民の苦しみを座視できず、江戸に出て将軍徳川家光に法を犯して直訴しました。そのため、妻子と共に十字架にはりつけにされ、処刑されました。農民のために生命を奉げたその一生は「佐倉義民伝」などに語り伝えられました。

ところが、その佐倉惣五郎は、十字架にはりつけにされた時に、あまりの苦しみに耐えられず、「俺は、お前の代の六代も七代までも、呪ってやるぞ~!」と絶叫して死んだと伝えられています。佐倉惣五郎の話は、私たちに感動を与えますが、イエス・キリストの死とは全く違うものです。

イエス・キリストは、私たち罪人のために神が遣わされた神の御子であり、唯一の救い主であります。このお方は十字架の死後、墓に葬られ、三日目(日曜日の早朝)に復活されました。今も生きておられる全人類の救い主であり、あなたの救い主でもあります。あなたもこの尊い救い主イエス・キリストを心から信じて救われますように。どうか、イエス・キリストの偉大な身代わりの死を無駄にしないで下さるように切に祈ります。

●「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私わちに愛が分かったのです。」(ヨハネの第一の手紙3:16)。

●「この方(キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには私たちが救われる名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。」(使徒の働き:4:12)。
 

          
 

★人生の悲しいとき、辛いとき。

2004-12-03 | 「人生の試練と逆境」



私たちの人生には、多くの悲しいこと、辛いこと、予期しないような試練に直面することが度々ありますね。そのような時に、私たちは、意気消沈し、失望落胆してしまうことが多いのではないでしょうか。私たちは何度、涙を流したときがあったことでしょう。そして、「もう、私は駄目だ。これ以上この苦しみに耐えられない。死んでしまいたい。」などと考えたことはありませんか。

しかし、聖書には、私たちに対する慰めに満ちたことばがあふれており、人生のどん底から立ち上がらせてくださるのです。聖書は私たちに生きるための真の希望と勇気、励ましを与えてくださる書物でもあります。絶望の淵から救ってくださり、もう一度、生きる力を与えてくださるのです。これは、私自身も経験して来たことであり、決して偽りではありません。今、人生の大きな壁に直面しておられる方も、どうか、聖書の神を見上げて、生きる希望をご自分のものとなさって下さい。

●「彼らが苦しむとき、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」(イザヤ63:9)。

●「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)。

●「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30:5)。

●「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイの福音書5:4)

●「わたし(キリスト)は、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻ってくるのです。」(ヨハネの福音書14:18)。


英語で、FOOTPRINTS(足跡)という詩がありますが、多くの方がこの詩を読んで大きな慰めを受けていますので、ご紹介したいと思います。英文では、主人公が「私(I)」であったり、「彼(he)」であったり、また、いろいろと表現が違う個所があり、実のところ、私にはどれが最初の作者のものかよく分かりません‥‥。

★ 足跡(Footprints)★


ある晩、私は夢をみていた。
夢の中で私は、神と並んで浜辺を歩いていた。

そして空の向こうには、私のこれまでの人生が閃光のように、映し出さ
れては消えていった。
どのシーンでも、砂の上には二組の足跡が残されていた。
一組は私自身のもの、もう一組は主(神)のものだった。

人生の最後のシーンが映し出されて目の前から消えていくと、私は振り
返り、砂上の足跡を眺めた。
そして、私の人生の道程には、一組の足跡しか残っていない場所がいく
つもあることに気づいた。
しかもそれは、私の人生の中で、最も辛く、悲しいときであったのだ。
 
私の心は、疑いと悩みで乱れ、神にそのことを尋ねてみた。

「神よ、私があなたに従って生きると決めたとき、あなたはずっと私と
共に歩いてくださるとおっしゃられました。しかし、私の人生のもっと
も困難なときには、いつも一組の足跡しか残っていないではありません
か。私が一番にあなたを必要としたときに、なぜあなたは私を見捨てら
れたのですか。」

神はやさしく答えられた。

「わが子よ。 愛するわが子よ。 わたしはあなたを愛しており、 あなた
を決して、ひとりにはしなかったのだよ。あなたの試練や苦しみのとき
に、一組の足跡しか残されていなかったのは、その時はわたしがあなた
を背負って歩いていたのだよ。」

   (訳:筆者)            Author Unknown (作者不詳)

★この詩の作者は、マーガレット・F・パワーズさんと言われていますが、他にも自分が作者ですとおっしゃる方が四人ほどおられるそうです。それで、一応、「作者不詳」ということにしました。