聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★老後への人生設計

2007-07-25 | 「聖書と人生」

      

●「まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。‥‥私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るので。 ‥‥それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうし て私たちに知恵の心を得させてください。」(詩篇90:4~12)。 
  
 旧約聖書のこの詩篇90篇は、モーセの神に対する祈りのことばですが、ここには、永遠の神の前には、人間の一生とは何と儚いものであるかということが記されています。永遠の神の前には、、千年でさえも一瞬のうちに過ぎ去ります。また人生を花に譬えていますが、花はどんなに美しく咲いても、必ず枯れてしまいます。そして、枯れる時には、あっという間に枯れてしまうので、人生も草花のようであるというのです。しかし、人間と花の違いは、花は散って終わるけれでも、人間は死で終わるのではないということです。必ず、神の前に出なければならないときが来ることを教えています。

 人間は、今どんなに若く健康な人も、必ず年を重ねて、老後を迎えます。私は、幼少の頃の数々の思い出も、少年時代のことや青年時代に過ごした日々を昨日の出来事のように思い出すことが出来ます。でも、あっと言う間に、もう60代半ばを少し過ぎた年齢になってしまいました。モーセは、「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。」と言っていますが、この詩篇は、約三千年前に記されたのですが、医学が進歩した今日と当時と比較しても、人間の平均寿命は、それほど変わっていないことが分かります。ですから、「私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。」と、モーセは祈っています。

 自分の生涯の日を正しく数えることは誰にもできません。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」(伝道者の書3:2)とあります。また、「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」(箴言27:1)というみことばもあります。それゆえ、「正しく数える」とは、神が人生のすべてを支配しておられ、一人一人の人間の命を握っておられるという事実を知って、神の前に自分の罪を悔い改めて、神の救いを受けて、日々、神に感謝し、信頼して生きて行く謙虚な人生のことを言っているのです。人間は神を知って、初めて「自分の人生の日を正しく数える」ことができると言えるのです。

●「年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。」(詩篇71:9)。

●「神よ。あなたは、私の若いころから、私を教えてくださいました。私は今もなお、あなたの奇しいわざを告げ知らせています。年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。 」(詩篇71:17,18)。


 これは年老いた信仰者の祈りです。老化現象とよく言いますが、これはかなりの個人差があり、一般的には決定的なものはないようです。一応、年齢的に見ると、ある調査では、自らの老いを自覚するのは60~69歳の方で38%、80歳以上で54%、85歳以上になっても自分は中年だと思っている人が37%もいると言いますから驚きます。「老醜」ということばを聞くことがあいますが、あまり好きなことばではありません。これは、必ずしも身体的な衰えの醜さを指すのではなく、心の中にある醜さを指す場合が多いようです。残された生涯も長くないという自覚から、物へ執着が強く表われて来るものと思われます。
 
●「わたしに聞け、‥‥。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。 」(イザヤ書46:3~4)。  

 この記事は、直接には神がイスラエルの民に、偶像の神々ではなく真の神に最後まで信頼するように勧めているところですが、現代の私たちにも語っていることばです。人は、いろいろと老後の心配をしますが、ほんとうに神を信頼する人生を歩んでいるなら、老後の心配はいらないのです。人が老い、死に向かって行く時、お金は頼りになりません。真に信仰に立つ人は、老いの淋しさはあっても、物に頼ることをしないで、ただ、ひたすら神に頼り、神のために生きる人生の幸いを知っているので、益々、輝きを示して行くことができるのです。老後の孤独と不安から私たちを解放して、喜びと希望を与えてくれるのは、神様だけです。

●「彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。」(詩篇92:14)。

 神に信頼する人生の幸いがここにあります。たとえ、体は衰えても、その内側は霊的ないのちの喜びにあふれて、みずみずしく、生き生きしてしているというのです。神のために豊かに実を結ぶ、祝福された幸いな人生です。今、若い方も必ず、人は老いるときが来ます。そして、人は、若い時の生き方、心の持ち方が中脳にセットされていて、老人になった時に、それが繰り返し出て来るのだそうです。つまり、若い時の生き方が善良であれば、年老いても、好かれる老人になり、反対に意地悪で、強情、自己中心な老人は、若い時にも、やはりわがままな人生を送った人であり、若い時の生き方は、老後に必ず出て来るというのです。

 今回のテーマから脱線しますが、世界の長寿国について、ある本に大変興味深い事が書かれていました。ロシア連峰のコーカサス地区、エクアドルのアンデス山中、ネパールのヒマラヤ山中に、120~130歳の年齢の人が多いそうですが、これらの長寿の人々には、三つの目立った特長があるのだそうです。「摂取カロリーが低いこと。肉体労働に従事していること。しかも、老人は一族の長と考えられていて、人々から尊敬されていること。」だそうです。お年寄りが無価値と考えられている所では、彼らは老衰が早く、気難しい態度になり、病気にもなりやすいと言うのです。日本でも、百歳以上の長寿者の家庭は、例外なくお年寄りが大切にされていると言われています。何か、考えさせられることですね。

●「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(2テモテ4:6~8)。

 これは、青年時代にキリストを信じて、その後、生涯の間キリストの福音を大胆に宣べ伝え、信仰を全うして人の殉教直前のパウロのことばです。死を迎えようとする人の臨終のことばですが、死に対する微塵の不安も恐れもない彼の心中が記されています。彼は、信仰のために多くの迫害や試練も通りましたが、充実感に満ちて老後を迎えたことが分かります。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」(伝道者の書12:1)とありますが、若い日に、神を信じることができたら、一番幸いです。もちろん、テモテのように幼い時から聖書に親しむ機会が与えられた人は、更に幸いです。しかし、ヨハネの福音書3章に登場するニコデモのように、老人になってから、キリストを信じて救われる人もいます。

 最悪なのは、年を取っても、まだイエス・キリストを信じて救われていない方です。なぜなら、死が直前に迫っているからです。そして、聖書によれば、死後には決して救われるチャンスはないのです。どうか、一刻も早く、キリストの福音を信じて、救われ、神に仕える生涯を歩み、そして死後にも永遠に希望のある天国に入る方となって下さい。先日、北海道のHで聖書から「永遠のいのち」について語っていましたが、98歳のお婆さんが出席されていて、真剣に聖書に耳を傾けていたのを見て驚きました。あなたにも、まだ、救われるチャンスは残されています。「余生」とは、”余った人生”と書きますが、神が与えたいのちに、余った人生などはないのです。神に立ち返って、有意義で希望に満ちた生涯を全うしましょう。

●「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(2コリント6:2)。

●「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 」(2コリント4:16~18)。


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★神がいるなら、どうして!?

2007-07-17 | 「人生の試練と逆境」

 この世の中には、何か不幸な出来事に遭遇したり、大惨事や災害で犠牲者が出たりすると、必ずと言っていいくらい、「神がいるなら、どうしてこんなことが起こるのか!」と言う人がいます。また、戦争やテロや繰り返される国家間の争いや殺戮によって、どれだけ多くの人々が傷ついたり死んで行っていることでしょう。最近は、特に目を覆いたくなるような悲しい事件が多発しているのを見ると、「神がいるならどうしてこんな事態を許されるのか。一体どうしてこんな非情なことが起こるのか。」とお考えになる方がいても不思議でないかもしれません。私も、若い頃、人生についていろいろと考えましたので、この世の中に、こんなに矛盾があり、悩みと悲惨なことが満ちているのに、と反発を覚える方のお気持ちが分からないわけではありません。
 
 しかし、どうか冷静になってお考えになってみてください。「神がいるならば‥‥。」ということばの背後には、「この世の中には正義の神がいるはずである。」また、「その神は愛の神であるはずである。」との思いが、人間の心の奥底のどこかにあるからこそ、そのようなことばが出てくるのではないでしょうか。もし、全く神など存在するはずがないと信じきっているのであれば、完全に無視すればいいわけですが、不幸なことが起こった時だけ、何故か「神」を持ち出して来て、「神がいるなら、どうしてこんなことを許されるのか!」と言うことばを発するのです。ところが、平和で平穏な日々を送っているときには、神のことなど気にもかけず、口にもせず、もちろん、その平穏な日々を神に感謝することもしないのです。

 あなたは日常の生活の中で、自分の心臓が動いていることを感謝したことがあるでしょうか。また、水や空気があり、食べ物が与えられていることを当然と思っていないでしょうか。綺麗な花が咲いているのも、必要な時に天から雨が降り、植物を成長させてくださるのを感謝したことがるでしょうか。自分の体に目や鼻や耳があり、手や足があり、それらの器官が多様な働きをしていることを当然と思っていないでしょうか。いや、あたが今日生かされていること自体、当たり前のように思っていないでしょうか。この地球上の様々な自然界の営みや、美しい山や川を見て、また、広大な星空を仰いで感動することがありませんか。静かに沈んでいく美しい夕陽を見て感動することはありませんか。でも、あなたはその時、それらを創造された神に感謝したことがあるでしょうか。

 ある本によると、太陽は毎秒、石油数百万トン相当のエネルギーを放射しているそうです。そして、一年間に日本に降り注ぐ太陽のエネルギーで、日本人1億2千万人が1千年間も生きられるのだそうです。この地球全体に注がれる熱量がどれくらい膨大な量であるかは、想像もできないほどです。しかし、太陽の熱や光が豊かに惜しみなく注がれていても、それを何かで遮れば光や熱は届かなくなります。それと同じように、神の愛に対して人が心を閉ざすならば、神の愛は人の心に届きません。神のご本質は愛であると聖書は教えています。もし神の愛を感じないとすれば、それは人間の不信仰によって、無限に注がれている神の愛を遮っているからなのです。神から全人類へのラブ・レターとも言うべき聖書は、人間に対する愛が満ち満ちています。

●「天の父(神)は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイの福音書5:45)。

●「神は、すべての人に、いのちと息と万物をお与えになった方だからです。‥‥確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」(使徒の働き17:25~28)。


 人間の様々な不幸や悲劇や災難の個々の一つ一つの事例について、その原因とか理由などを説明することは、私にはできませんが、人類に苦しみや不幸が入って来た根本的な原因は、人間が神(創造者)に対して背を向け、神から離反しているためであると聖書は語っています。神が人類の始祖であるアダムとその妻エバを創造された時に、神はふたりをエデンの園に住まわせました。「エデン」とは、「歓喜」とか「楽しみ」という意味であり、そこにはどんな不幸も悲しみも涙もなかったのです。神と人との平和な交わりがあり、自由と平和と愛と喜びが満ちたすばらしい世界であったのです。もちろん、人と人の間に争いも憎しみもありませんでした。神は人が住むために必要なものをすべて備えてくださり、人が生きるために完全に整った環境があったのです。

 しかし、やがてこの平和な愛に満ちた世界に罪が入って来ました。最初に、アダムとエバが禁断の木の実を食べ神に罪を犯したのです。創世記3章にその罪が世界に入って来た経緯が書いてあります。その罪の結果は、すぐに表われました。まず、夫婦の間に亀裂が生じ、互いに自分が犯した罪について責任転嫁している姿があります。この3章に、初めて”苦しみ”ということばが出て来ます。人が罪を犯す前のエデンの園には、”苦しみ”はなかったのです。罪の結果、女は苦しんで子を産み、男は苦しんで額に汗して食を得なければならなくなったのです。4章に入ると、今度は兄弟間の間に妬みと争いが生じ、ついに兄のカインが弟アベルを殺すという殺人事件まで起こってしまったのです。家庭内の殺人事件は、最近に始まったことではなく、この時から既にあったことなのです。

 人類の罪の歴史は、その時から延々と今日まで続いているのです。そのために今の世界にも、様々な不幸なできごとが起こっています。これは神の責任ではありません。人間の責任なのです。子供が自分を愛情をもって育ててくれた両親に感謝もせず、親を無視し、反抗するならば、それは親不幸というものです。それと同様に、神が大きな愛を注いで人間を生かしてくださっているのに、その神を無視して自己中心の生活をして生きるならば、神に対する罪なのです。何か不幸なことや災いや悲しいことが起こるとすぐ神の責任にすることは大きな間違いなのです。神の恵みがなければ、あなたは、ただの一秒も生きることができません。それなのに、それを当たり前のように考えて生きることが罪であると聖書は教えています。神に対する不信仰は、親不孝よりもはるかに悪いことなのです。

●「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。 」(ローマ人への手紙1:20~23)。

●「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。 また、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」 (ローマ人への手紙3:12~18)。


 神の存在は、被造物によって明らかに認められることです。その神を無視し、神の代用品としてさまざまなものを拝む(偶像礼拝、)という愚かなことを人間は繰り返して来ました。約2.000年前に書かれた新約聖書は、このように人間の罪を断罪しています。今日も、このみことばのとおりのことが起こっています。私たちには、何の弁解の余地もありません。しかし、それでも、神は罪を憎んでも人を憎むことをせず、神に背を向けている人たちを愛してくださっているのです。そして、神から離れて生きるならば、苦しみと不幸しかないことを分からせようとされているのです。人間は、不幸のどん底に落ちないと本心に立ち帰ることがないということが多いのです。神は、ご自身の愛のゆえに、人が苦しみの中を通ることを許されることもあるのです。

●「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これも、あれも神のなさること。」(伝道者の書7:14)。

●「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。 」(詩篇119:71)。


 一般的には、苦しみは不幸と考えるのが普通ではないでしょうか。でも、この詩篇の記者は、苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでしたと言っています。”苦しみ”の一面は、実は神の愛と恵みの発露でもあるのです。ルカの福音書15章の放蕩息子は父親から離れて、放蕩三昧の生活をして、飢えと苦しみと孤独のどん底の中で、自分の罪を認め、悔い改めて父親のもとに帰って来ました。父親は、息子が離れて行くのを止めさせることも出来たのですが、敢えてそうはしませんでした。その息子の自由意志に任せたのです。しかし、その息子がいない間、父親は断腸の思いで息子の帰りを待っていました。それが、父親のわが子に対する愛なのです。自ら自分の間違いに気づいて帰って来るのを、父親は一日千秋の思いで待ち続けたのです。神の私たちに対する愛も同様なのです。

●「神は悩んでいる者をその悩みの中で助け出し、そのしいたげの中で、彼らの耳を開かれる。」(ヨブ記36:15)。

 このみことばをよく注意して読んで下さい。「神は悩んでいる者をその悩みから助け出される。」とは書いてありません。神は、人を「悩みの中で」救い出されるのです。悩みや苦しみがないと、人はなかなか自分の人生の意味や目的などを真剣に考えようとしないのではないでしょうか。「これを信じれば、病気が治ります。」とか、安易に約束する宗教がたくさんありますが、聖書の神は苦しみや悩みの現実の中で、人生を深く考えさせ、神に立ち返らせてくださる真実の愛を持って愛してくださる方なのです。

 ヨハネの福音書9章の記事ですが、イエス様が道中で、生まれつきの盲人をご覧になられました。それを見た弟子たちは、イエス様に「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」と尋ねました。その時、イエス様は「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のみわざがこの人に現われるためです。」と、驚くべきお答えをなさいました。そして、その盲人の肉眼はイエス様の奇蹟よって開かれ、また彼の霊の目も開かれました。ゆえに、この世界の人類の不幸の根源は、人類の始祖によって罪が入って来たのですが、人間の個々の不幸が、必ずしもその人々の個々の罪によるものであると考えてはなりません。「あの人にあんな不幸があるのは、彼が罪を犯したからだ。」などと軽々しく言ってはならないのです。 

 また、ルカの福音書13章で、イエス様は次のように言われました。「‥‥シロアムの塔が倒れ落ちて、死んだあの18人は、他のだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」と警告なさいました。この災難は、エルサレム近郊のシロアムの池のあたりにあった塔が、工事中の偶発的事故か、または何か別の原因で倒壊したために多数の人が災難に会い、亡くなったという痛ましい出来事です。今日も、多くの不慮の事故や突然の災難で、多くの人命が失われることがありますが、だからと言って、その災難に遭遇した人が、他の人よりも多くの罪を犯したということではありません。すべての人は悔い改めなければ、神の裁きを受けるのです。

 神様の愛は、すべての人に注がれています。そして、神の究極的なご計画は、人間の神に対する不信仰の結果である罪と死(永遠の滅び)から、人類を救うことにあります。そのために、神はご自分の御子イエス・キリストをこの世に遣わされ、人間の罪の身代わりに十字架につけてくださり、三日目に復活させてくださったのです。何という驚くべき神のご愛ではありませんか。愛の神に背を向け、罪の生活を続けて「神などいない。この世界のどこに愛があるのだ!」言っている人は、土に深い穴を掘って、その中に入り、その穴の上にふたをして、「太陽の光など何も見えないではないか!」と言って不平を言っている人に似ていると思いませんか。あなたは、どうでしょうか。

●「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって、私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」(1ヨハネ4:10)。
  
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★人間は神のロボットではない

2007-07-09 | 「聖書と人生」



●「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)。

●「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたち彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)。

 
 神は、人間を土地のちりから造られたと聖書は明確に教えています。ある方はこれを神話のように言いますが、霊感によって記された聖書の記事のすべては、永遠不変の神の真理であり、私はこれをそのみことばの通りに信じています。そして、神は、ちりを取り、ご自身に似せて形造り、息(霊)を吹き込まれると人間は生きものとなったのです。ここに人間の尊厳性と共に脆弱性(もろさ)が見事に描き出されています。「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれをくださった神に帰る。」(伝道者の書12:7)とあるように、人がちりから出てちりに帰ることは聖書に書かれていますが、さらに人間の体で必要とする成分が土の中に含まれていることも、非常に興味深いことではないでしょうか。

神の「息」とは神の「霊」のことであり、人間は動物とは違い、霊的な存在として造られたのです。神の霊が与えられたことによって人は生きるものとなったのです。人が「生きる」ということは、ただ単に動物のように生存することではありません。そして、この神が与えられた霊こそが、神を敬い、神を慕い、神と交わり、神を礼拝し賛美する思いを人間の心の中に与えているのです。また、「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」(伝道者の書3:11)と聖書は言っていますが、これこそが人間にだけ与えられた神の賜物なのです。動物は、本能によっていろいろなことをしますが、人間のように未来のことや永遠のことを考えることはありません。

それでは、どうして神は人間にこの霊を与えられたのでしょうか。それは、神と人間が何の妨げもなく親密な交わりを持つためであり、これは神が人間を愛の対象(または、パートナー)として創造されたことを示しています。そして、神は決して強制的に神を敬うような人間を造られたのではありませんでした。ロボットは、人間が自分の思う通りにコントロールでき、あやつることができるのですが、神は人を創造された時に、決してロボットのようには造られなかったのです。もちろん、神はそのようなロボットのような人間を造ることは出来たと思います。もし、そうすれば、今日だれ一人として神に逆らい、神に背を向け、自分勝手な罪の生活をすることはなかったでしょう。しかし、神の英知に満ちたご計画は人間の考えに比べてはるかに勝っているのです。

では、神はどうしてそのように人間をロボットのようにお造りにならなかったのでしょうか。これは、少しお考えになればすぐに分かることではないかと思います。あなたも、私も人間はだれ一人として自分はロボットのようにはなりたくないと考えると思います。もしそうであるならば、そこには何の心の交流もつながりもなく、ただ言いなりに動く機械的な服従があるだけではないでしょうか。そうであるならば、そこには、愛情も、意志の疎通も、愛の交流も存在しないことになります。ところが、ロボットでなく人間であれば、たとえまだ物事がよく分からない幼児であったとしても、親の言うことを理解して、何かごく簡単な行動をしただけでも、親にとっては、どんなに嬉しいことでしょう。そこには、必ず、喜びがあります。

たとえ、それが大人から見たら取るに足らないことであっても、とにかくその小さな心で自分の意志で理解して、自分から行動して親の要求に応えたのです。そこにこそ、本当の心のつながりと愛の交流が生まれるのではないでしょうか。このように考えてみますと、人間でさえそうであれば、まして神が人間を造られた時、ロボットのように造られなかった理由を知ることができると思います。機械的な服従ではなく、神のみ言葉に対して、自分がどう判断して従うかを神は人間に要求され、またそれをご覧になっておられるのです。ですから、神は人に自由に選択できる「自由意志」を与えられたのです。人間は神のロボットではなく、自由意志が与えられているということは、本当にすばらしいことなのです。是非、人間に与えられたこのすばらしい特権についてお考えになってください。

ですから、人は自分の心で、霊で、はっきり真の神様のみこころを判断して、神を認め従うべきなのです。ところが、残念なことに人間はこの神を認めることも、信じることもできないくらい遠く離れてしまったのです。その上、神ならぬ神々(偶像)を作り出して、それを拝むに至っては、正義なる真の神様がその不従順な人間を、激しい裁きをもって報いられたとしても当然のことではないでしょうか。例えてみますと、もし、人間にコントロールされるロボットが隣家の玄関のガラスを割ったとします。でも、その自由意志のないロボットには、その責任を問われることはありません。しかし、自由意志を持った人間がキャッチボールをしていて、隣家の窓のガラスを割った場合は、当然責任が問われ、その償いをしなければなりません。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

●「神は善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」(伝道者の書12:14)。
 

しかし、神は正義であられると同時に愛の神であるのです。神にとって、どうしてご自分の造られた人間が滅びることを願っておられるはずはありません。一日も早く、一人でも多く救われることを望んでおられるのです。そのために、神はご自身のひとり子イエス・キリストをこの世に全人類の救い主として遣わしてくださいました。イエス・キリストは神に人を近づけるために、天から来られたただ一人の救い主です。キリストは心から人々と愛と憐れみを示され、悩める者や病める人々に救いの御手を差し伸べられ、また、盲人の目を開けたり、死人をよみがえらせたり、その他多くの数えきれないほどの奇蹟を行って、ご自身が神の御子であり、救い主であることをはっきりと証明されたのです。また、恵みに満ちたことばと共に、権威と力に満ちたことばも、数多く語られました。

イエス・キリストのなさった多くの恵み深いみわざを見て、砂糖に蟻が群がるごとくに、人々はキリストのあとに従ったのです。しかし、彼らの求めていたものは、罪と死後の裁きからの救いではなく、この世的な救い(一時的なこの世の幸福)であったのです。そして、イエス・キリストは、その生涯の最期の33歳の時に、十字架に架かって、全人類の罪の身代わりとなって死んでくださり、墓に葬られたのですが、死後三日目に復活されて墓から出て来られたのです。これは、人類の歴史上、最も驚くべき奇蹟であり、これを通して、キリストが神の御子であり、神と等しい方であることをはっきりと示しています。この御子イエス・キリストを信じる者はすべての罪が赦され、永遠のいのちを受けることができるのです。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

キリストの大きな愛があなたに強く迫っています。今日も、キリストはあなたの心に語り続けています。キリストは、ある時、ユダヤ人に向かって「ああ、‥‥わたしは、めんどりがひなを集めるように、あなたがたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、それを好まなかった。」(ルカ23:37)と言われましたが、これは現代の私たち一人一人にも語っておられる警告のことばです。神の審判がいかに厳粛で厳しいものであることを知っているからこそ、真剣に私たち神から離れている者たちを神の怒りから救おうとして招いておられるのです。どうぞ、あなたもその心の耳を開いて、キリストの招きに応じてください。

●「わたし(キリスト)は道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもと(天国)に来ることはありません。」(ヨハネ14:6)。

●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11:28)。

●「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたし(キリスト)のところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ14:6)。
 

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★真理の側に立つ決断を!

2007-07-02 | 「聖書と人生」




 ●「ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そして、ついにその声が買った。ピラトは彼らの要求どおりにすることを宣告した。」(ルカの福音書23:23,24)。
  
 人はだれでも、毎日いろいろな場面で物事を判断し、選択したり決断したりしながら生きています。しかし、人間は一生のうち右か左か、重大な決定を迫られる岐路に立つことがあります。イエス・キリストを十字架刑に処すと判決したローマの総督、ポンテオ・ピラトの場合もその重大な立場に立たされました。当時イスラエルはローマの支配下にあり、ローマ政府の派遣した総督によって統治されていました。イエス・キリストは、この地上で完全無欠の聖よい正しい生活をしていました。ですから、当時のユダヤの腐敗した宗教家たちにとっては、キリストはけむたい存在であり、彼にに対する妬みもあったのです。彼らはキリストの正義と聖よさの前には決して立ち向かうことが出来ないのを知っていましたから、策略をもって、キリストを落とし入れようと企んだのです。

 ピラトは原告のユダヤの祭司長や長老たちが口々に不利な証言を申し立てているのに、一言も弁明しようとせず、じっと立って表情一つ変えずに、狂いたけっている群集とは全く対照的な柔和な姿の被告(イエス)見て、不思議に思い、非常に驚いたことが聖書に記されています。そして、ピラトは直感的に、この人は善人であると分かったのでしょうか。ピラトは、イエスを何度調べても罪(ローマの法律における罪)を認めることはできませんでした。ピラトはイエス様の無罪を認めながらも、自分の任地であるユダヤの有力者たちの機嫌を損ねては、自分に不利になると思い、自己保身のために妥協案を出したのです。それは、「キリストと当時の評判の囚人バラバとどちらを赦してほしいか。」というものでした。それは祭りのたびに群集が願い出る囚人一人を総督が赦免する慣例になっていたからです。

 ピラトは、これならさすがの群集もイエスの釈放を要求するに違いないと考えました。バラバとは、その当時名前を聞いただけでも恐ろしがるほどの凶悪な罪人であったからです。しかし、ピラトの予想に反して、群集はバラバの釈放を求め、イエスを十字架に付けるように要求したのです。人々は全く罪のない聖よく正しいイエス・キリストではなく、罪人の中でも極悪な犯罪人を釈放するように望んだのです。イエスが罪のないお方であり、当然、十字架の刑などに処すべき方ではないと分かっていながら群集は、なおもピラトに対し、イエスを十字架につけることを要求し続けたのでした。そして、イエスを有罪者として扱い、祭りの特赦でイエスを釈放しようと考えたピラトの計画は完全に失敗しました。

 ピラトは、とうとう自分の意志に反して、イエスを釈放したいとの思いがありながら、自分の地位や名誉や立場を守るために、また、人を恐れてイエスを死刑にする宣告を下してしまいました。ピラトは、自分の利益と一致するなら喜んでこの世的な正義を行おうとしましたが、大きな犠牲や損失が伴なうなら止めるという態度を取ったのです。そして、彼がいつも自分自身に問う質問は、「私の義務は何か。正義は何か。」ではなく、「私の利害関係は何か。」であったのです。ピラトはこの事件後、間もなくあれほど執着していた地位から追放されて、やがて自殺をして果てたと伝えられています。これは、私たちに対する大きな教訓ではないでしょうか。彼の魂は永遠に救われる機会を失ってしまいました。

 しかし、一見矛盾するように見えるこの出来事の背後に真の神様の愛に満ちた救いのご計画が織込まれていたのです。つまり、イエス・キリストは、バラバの身代わりになっただけでなく、歴史上のすべて人類のの罪を負って、十字架で身代わりに死んでくださったのです。あなたは、「私はバラバのような極悪な者ではない。バラバよりは善人だ!」と考えてはいないでしょうか。聖書は「すべての人は罪を犯したので。神からの栄誉を受けることが出来ない。」(ローマ人への手紙3:23)と厳粛に告げています。神は天からこの地を見おろして「彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐れ果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」(詩篇14:3)と言っておられるのです。
 
 話は少しさかのぼりますが、ピラトは群集の激しい憎しみにたじろぎ、なすすべを失っていた時、彼の妻から使いがやって来て「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しい目に会いましたから。」(マタイの福音書27:19)と警告しました。ピラトの心はこの言葉によって、ますます当惑しました。彼は職務上、公正な裁判をすべきでしたのに、内心臆病な彼は、群集を敵に廻すことにも躊躇して、とうとう「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」(マタイの福音書27:22)と叫んだのでした。ピラトはなおも、「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」と叫んだのですが、もはや群集の声には勝てませんでした。彼は、良心の声を無視して、悪を赦して、真理を罰することに妥協してしまったのです。

●「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」(マタイの福音書27:22)

 さて、このピラトの口から発せられた「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」ということばは、すべての時代のすべての人々に投げかけられた厳粛な問いなのです。ピラトが民衆に尋ねたこの質問は、私たち一人一人に対する大切な質問でもあるのです。あなたも、私も一人も逃れることのできない重大な質問です。これは、私たちの永遠を決定する重大問題なのです。この質問に対する答え如何によって、私たちの運命が決定されると言っても過言ではないほど厳粛で、重要な質問なのです。ピラトにも良心があったのです。しかし、彼は良心に従ったのではなく、民衆の声に従ってしまいました。ピラトは最終的に、もう永遠に取り返しのつかない決断を下してしまったのです。あなたは、イエス・キリストにどのような態度を取られるでしょうか。
 
 真理を真理として受け入れることこそ、純粋な本物の信仰なのです。たとえ、自分にとって、不都合なことも不利なことも、真理はどこまでも真理です。真理とは、ものごとの真の姿を表すものです。だれも、真理を変えることはできません。また、それを覆い隠すこともできません。イエス・キリストを信じたら「出世できるだろうか。」とか、「結婚できるだろうか。」とか、「金儲けができるだろうか。」などと、打算が入って来ると、純粋な正しい信仰をもつことができないと思います。あなたの心の中で、良心の声とサタンの声が戦っています。どちらの声にあなたは従うでしょうか。あなたの罪のために十字架にかかって身代わりに死んでくださったイエス・キリストを信じて永遠の滅びから救われて下さい。どうか、あなたの目先のことではなく、永遠を考えて正しい決断をなさってくださいますように。
 
●「わたし(キリスト)は道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもと(天国)に来ることはありません。」(ヨハネ14:6)。

●「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(1コリント2:4,5)。

 
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