聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★一年を回顧して神に感謝

2006-12-28 | 「人生の幸せと平安」
      
         

●「わがたましいよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103:2)。

あっという間に、一年が過ぎ去ろうとしています。 今年もまた、どこでも恒例になっている「忘年会」が各地で行われていることでしょう。「この一年間の嫌なことを全部忘れてしまいましょう‥‥!!」ということなのでしょうか。お酒を浴びるように飲み、二次会、三次会もやるので巷は酔っ払いで溢れています。毎年、この時期になると年中行事のように普通に行われていますが、何かおかしいとは思われませんか?お酒を飲んで忘れなければならないほど、嫌なことばかりが多い一年だったのでしょうか。しかし、聖書は「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」と勧めており、年を忘れる「忘年会」ではなく、「神に感謝する」ことを教えているのです。神の恵みを一つ一つ感謝することは幸いなことであると思います。

●「そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、『ここまで主が私たちを助けてくださった。』と言った。」(Ⅰサムエル7:12)。

 旧約聖書のこの箇所は、預言者サムエルの指導の下において、敵であったペリシテ人に対するイスラエルの大勝利が記されているところであります。ここで、「エベン・エゼル」ということばに注目していただきたいのですが、”エベン”は「石」の意であり、”エゼル”は、「助ける」ことを意味しています。この時代、イスラエルの民は、神の臨在の象徴とも言える「契約の箱」を失って、20年の長い間敵の圧制に苦しめられ、敗北の生活を味わっていたのです。そのとき、民は心を一つにして、自分たちの罪を悔い改め、主を慕い求めて熱心に祈ったのです。

 イスラエルの民の切なる飢え渇きと悔い改めによって、イスラエルに大勝利がもたらされました。そして、その勝利の記念として、「記念の石」を建て、そこを「エベン・エゼル」と名づけたのです。この勝利は、決定的な勝利であったのです。そして、この勝利は神の小羊をささげた後に来た勝利であります。これには、大きな霊的な意味があるように思われます。神の小羊、イエス・キリストの十字架の贖いこそ、私たちの人生を決定的な勝利へと導くものであります。そして、「ここまで、主が私たちを助けてくださった。」と言って、サムエルは神様にすべての栄光を帰したのであります。私たちも、そのように主に栄光を帰し、感謝できたら幸いです。

 人生の節目節目で、神様に感謝をささげることの出来る人生は幸いではないでしょうか。私たちを感謝の生活に導くものは、イエス・キリストの十字架と復活以外に決してないと言っても過言ではありません。なぜなら、旧約聖書で何度も預言されてあるとおりに、主イエス・キリストは私たちの罪のために身代わりとなって十字架で死んでくださり、しかも、三日目に復活されたからです。今年も、もう間もなく年の瀬を迎えようとしています。いろいろなことがあった一年でした。しかし、この一年を振り返るときに、イエス・キリストを信じる者にとっては、すべてが感謝であると言い切ることができるのです。

 そして、間もなく新しい年を迎えようとしています。この世界は、グローバルな視点から見ると、地球環境の悪化と異常気象による災害の多発、不道徳の蔓延と犯罪の増加など、何もかもが悪い方向に加速して行っているように見えます。しかし、キリストを信じる者にとっては、常にどのようなことがあっても感謝と希望の心を持って生きることが出来るのです。実は、このエベン・エゼルはかつては敗北した場所なのです。そして、その同じ場所で今度は大勝利を得たのです。罪を捨てて、真剣に神を求めるとき、敗北の場所が、永久の勝利の場所となるのです。罪のゆえに、かつては敗北を味わった場所であっても、あなたの救い主イエス・キリストを信じる時に、その同じ場所が勝利の場所となるのです。

 この聖書の箇所は、旧約時代のできごとであり、新約時代にそのまま当てはめることはできません。戦争に勝利したからと言って喜ぶ時代ではありません。クリスチャンは、決して「戦争」を美化したり肯定したりすることはできません。しかし、霊的な意味においては教訓を与えられる箇所でもあります。罪のゆえに何の楽しみも平安もなかった寂しい孤独な家庭が、イエス・キリストを信じて勝利と喜びと希望にあふれた家庭となることがあり得るのです。周囲は何も変らなくても、自分自身が罪を悔い改めて、キリストを神じるときに、自分自身が変わるので、その同じ場所が祝福の場所となるのです。そして、日々「ここまで主が私たちを助けてくださった。」と言って感謝することのできるのです。

●「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に十分あります。」(マタイ6:34)。

 これは、主イエス様が語られたことばですが、文語訳では「一日の苦労は一日にて足れリ。」となっています。神様は私たちが一日を周期として生きるように造られました。その一日一日を精一杯生きれば良いのです。ですから、一日の労苦が終わると、太陽が沈んで夜となり、心身をともに休めて、また、次の日、太陽が昇り一日が始まるのです。ですから、神に信頼するならば、明日のための心配はしなくていいのです。もし、私たちが明日のことや何年も先のことを心配していたら、その心配事で押し潰されてしまいます。

 私たちは、来るべき年の入り口に立っています。来年はどのような年になるのか、だれも分かりません。しかし、私たちは何も心配する必要はないのです。私たちは、このように考えることができます。一年は365日から成っています。そして、毎年365通の主イエス様からいただく手紙があります。そして、一日に一通づつ開封するのです。その開封された手紙には、その日の予定やその日の労苦だけが書いてあります。明日の手紙は、また明日になってから開封するのです。そして、昨日の手紙のことはもう考えなくてよいのです。昨日と同じ重荷はもう二度と負うことがありません。

 「今日は今日自身の荷物を支える小さな橋です。もし、明日の荷物を上積みするなら、橋はつぶれてしまいます。」と言った人がいます。これは、人間のことばですから、適切な例えかどうかは分かりませんが、私たちを「なるほど!」と納得させるものがあります。もし、私たちが明日のことや将来のことをいつも心配して生きるなら、今日生きる力を失ってしまいます。明日の労苦のためには、また明日神様が力を下さるのです。ですから、明日のことや来年のことは主にゆだねて心配しなくてもいいのであります。しかし、一つだけ条件があります。それは、神を第一に考え、神との正しい関係を保つことです。それが、キリストを救い主として受け入れることなのです。

 また、このように言った人もいます。「神様は、一人一人に365個の高価な贈り物を用意して、ちょうど種蒔きが種を蒔くように、毎日、天からその贈り物を撒き散らそうとしているようなものである。」と。毎日、十分な労苦がありますが、また、贈り物もあるのです。そして、その人に最も必要な贈り物を神様は毎日用意して天から与えてくださるのです。ある人には「慰め」、ある人には「力」、ある人には「健康」、また、ある人には「病気の中にあってもそれに耐える力」、ある人には「希望」、ある人には「赦し」、ある人には「励まし」などを与えてくださいます。

 明日に向かって進むことは、未知の世界の中へ導かれることでもあります。しかし、主が共におられることを覚えるなら平安があります。一歩一歩、信仰によって前進することです。神様は、私たちが一歩進むごとに道を開き、また、新たな道を示してくださるのです。旧約時代のあのアブラハムも、自分があのモリヤの山に来るまで、神が犠牲として備えられた雄羊を見ることはありませんでした(創世記22章)。神様は、必ず必要なときに必要なものを備え給う御方なのです。ですから、この一年を回顧して神に感謝をささげ、間もなく迎えようとしている新しい一年も、一切主にゆだねて信仰によって歩むことが出来たら幸いです。

●「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」(エペソ人への手紙5:20)。

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★厳粛な最後の審判

2006-12-19 | 「死後の二つの行き先」

●「また私(ヨハネ)は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。」(ヨハネの黙示録20:11)。

  私たちが住んでいる現代の社会は、道徳的ジャングルの中に陥りつつあります。破壊された家庭、病んでいる教育現場、性病、子供と大人の自殺者の急増、損なわれた女性らしさ、堕胎、邪魔者のように扱われる子供たち、これらのものがボロボロの着物のように世界中の道端にばらまかれているのです。また、その他、地球規模で、諸々の問題が山積しており、この世界中の人々が、巨大迷路に入って出口を捜しあぐねているような状態ではないでしょうか。どなたも、口では否定していても、いつか終末が来ることを知っているのです。世界の終末はいつ来るのでしょうか。しかし、確かに終わりの日は近づいています。そして、やがて最終的には「最後の審判」の日が来るのです。

 聖書は、創造以来の人類の歴史書であると言っても過言ではありません。そして、人間が住んでいるところ、どこにでも罪というものがあるのです。この地球上に生き、そして死んだ無数の男女には多くの違いがあります。皮膚の色や文明の違い、彼らは異なった土地で、また異なった時代に生きました。彼らは、それぞれ異なった環境の中で生きました。しかし、聖書が告げている厳粛で明確な事実は、すべての者が一つの大きな集合点に向かって進んでいるということであります。たくさんの支流が集まって一つの河口に流れるように、彼らは流れて行き、彼らはすべて「大きな白い御座」に来なければならないのです。

 「大きな白い御座」というのは、ヨハネの黙示録の中の最後の光景です。使徒ヨハネは、それを「大きな」白い御座と呼びました。「最も大きな」とも、「いっそう大きな」とも記していません。換言すると、それは、今まであったいかなる「座」とも比較されていません。いや、比較できないのです。この御座だけが「大きい」のです。その前にあっては、他のいかなる座も、色あせて、あとかたもなくなってしまいます。地上の王たちの玉座の中に、いまだかってそれと等しいものが見られたことはありませんでした。とても恐ろしい光景をもった、その大きな白い御座は、いつか、あなたがたの造り主(創造者である神)、また、あなたがたのさばき主に会わなければならない場所なのです。

 この御座は、大きいだけでなく、「白い」御座であります。他のどのような座とも比較できない「白い」御座なのです。それは、聖さと曇りなき正義の御座であります。だれもその裁判官を欺くことはできません。また、この地上にあるような賄賂は、その御座に通用することは決してありません。そして、すべての人の魂の運命を定める最終判決が、神の絶対的な正義によって下されるところであります。そして、すべての人は公正な裁きを受けるのです。

 それは、白くて大きいのですが、その上、それは「御座」であります。その御座に座しておられる御方こそ、王の王、主の主であられるイエス・キリストであります。彼は最高権威者であります。彼が一度下したさばきはもう覆されることはなく、その刑罰から逃れることは絶対に出来ないのです。これは「御座」なのです。この御座の上に更に大きな御座は決してありません。何と恐ろしい厳粛さが、その光景を取り巻いていることでしょうか。何と厳粛に満ちた威光が「大きな白い御座」に座しておられる方に満ちていることでしょうか。

 そして、その御座の前に立つ人々はどのような人々でしょうか。「死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。」とヨハネは記録しています。この世の人たちが大きな者とみなした人たちも、また小さい者とみなされた人々も、その御座の前の呼び出されました。その罪が小さいと見えた者も、またその罪が大きく、よく目立った人も、みなその聖なる御座の前に立たなければなりませんでした。貴賎貧富にも関係なく、国籍も関係なく、皮膚の色も関係なく、すべての人類がその御座の前に立っているのをヨハネは見たのです。そして、その御座に座っておられる御方の神の裁きを受けなければならないのです。

 そして、その最後の審判はどのように行われるのでしょうか。「数々の書物が開かれたが‥‥死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。」と記されています。その日には、善悪を記録してある神の覚え書きが開かれます。神はすべての人の生涯の最も小さなことも、人の前からは隠されていた心の中で犯した罪の秘密まで、忠実に記録されているこれらの書物が開かれた上で、注意深く審査されるのです。永遠の神の前にあっては、時間の不足はありませんから、そのさばきが急がれることはありません。この地上の裁判では、限られた時間の中で不完全な人間が裁判官ですから度々、間違った判決や冤罪などもありますが、「最後の審判」においては決してそのようなことはないのです。

 しかし、最後にもう一つの別の書物が開かれます。それは、「いのちの書」であります。その書は、イエス・キリストを自分の救い主として個人的に受け入れ、信じた者たち、すなわちクリスチャンたちの名前がすべて記されてある名簿のようなものでしょうか。この「大きな白い御座」の前に立たされて、聖なる御方のさばきを受けるのは、この世の不信者であり、キリストの救いを拒んだ人々であります。キリストを信じた者がその御座の前に立たされて、さばきを受けることは決してありません。なぜなら、神の御子が、この世に来られその生涯の終わりに、自分の身代わりとなって神にさばかれてくださったことを信じた者は、すべての罪が赦され、永遠のいのちをすでに受けており、その救いを失うことはあり得ないからです。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「この方(キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには私たちが救われる名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。」(使徒の働き:4:12)。

●「わたし(キリスト)は道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもと(天国)に来ることはありません。」(ヨハネ14:6)。

●「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネの福音書5:24)。

 
 どうか、あなたも神が備えてくださったこのすばらしい救いをお受けになって下さい。キリストを信じた者の最終的な行き先は、恐ろしい「火の池」ではなく、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」慰めに満ちた天国なのです。 

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★死亡率100パーセント

2006-12-12 | 「人の死とその備え」
  
     

●「あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」(アモス書4:12)。
 
   師走は何かとあわただしい時節ですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。ところで、もしあなたが「死亡率は100パーセントです!」ということばを耳にされたら、あなたは、「一体それは何の病気ですか?」とお尋ねになられるのではないかと思います。「何かの癌の病気だろうか?」とか、その他、「ウイルス感染による何かの病気かもしれない。」などと、いろいろ思いを巡らすことでしょう。参考のために申し上げますと、因みに、ある統計によれば死亡の原因として日本で多いのは平成17年では、癌が30.1%、心臓病16.0%、脳卒中12.3%、肺炎9.9%。この4つで7割だそうです。でも、10代は事故死が多く、20代は自殺が多いという結果が出ています。

 それでは、一体「死亡率100パーセント」というのは、何が原因なのだろうか?と思われることでしょう。単刀直入に申し上げましょう。それは、「人間の死亡率は100%」ということです。癌にならなくても、交通事故に遭わなくても、戦争やテロで死ななくても、人間は最後にはみな100%死ぬのです。いかに医学が進歩したとしても、日本人の平均寿命が伸びたとしても、人はみな最後には死ぬのです。そして、「自分は今は若いから安心だ!」とか、「自分は健康だから安心さ!」などと言うことはできないのです。若い方も、ある日突然、何かの事故に遭遇しないとは断言できません。健康には自信があると思っている方も、安心はできません。ある日、突然急病で倒れ、救急車で病院に運ばれたら、もう心臓が停止して息を引き取ってしまっていたということも決して珍しくないのです。

 世界中で、平均すると1年に6千万人が亡くなっています。1日に換算すると、世界中で、16万5千人位の方が亡くなっている計算になります。もちろん、その中には生まれて間もない赤ちゃんや幼児もいれば老人もいます。豪邸に住んでいるお金持ちの人もいれば貧乏人やホームレスの人もいます。身分の高い人や権力者もいれば、その反対に身分の低い人もいます。また、頑健な体を持った健常者もいれば、身体障害者もいます。人種も様々です。「死」はすべての人に平等に、必ず来るのです。人間はだれでも、できるだけ自分の「死」について考えないように努めようとしますが、これは、どうしても避けることのできない現実です。

 ですから、「私は絶対大丈夫!」と言い切れる人はだれもいないのです。「死」の問題はすべての人に無関係ではありません。どのようなことでも他人の問題として考えているうちは、人はそんなに真剣にならないものです。しかし、自分自身の問題として捉えるときに、初めて真剣に考えるようになるのではないでしょうか。「死」はあなた自身の最も重要な問題です。新約聖書の中で、主イエス・キリストは権威のあるおことばで、次のようなお話をなさいました。これは、例え話ではなく、事実であります。イエス様は多くの例え話をなさいましたが、その中で名前が出て来たことは一度もありません。しかし、この話には「ラザロ」という名前が出て来ますので、実話であることが分かります。

●「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 ‥‥」(ルカの福音書16:19~28)。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

 人は死んだら何もなくなって無の世界で、「死んだらもうおしまいだよ。」と思っておられる方も多いですが、神の言葉である聖書によれば、決して肉体の死ですべてが終わりではなく、人間はみな神の前には罪人ですから、死後には神の永遠のさばきがあることを教えています。しかし、神は愛なる御方ですから、人類が救われる道を備えて下さいました。その救いの道というのは、神がご自分の御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになられ、赤子としてユダヤ寒村ベツレヘムの馬小屋で誕生せられ、33歳の時に、私たちの罪を背負って十字架に掛けられ、身代わりに死んで、三日後に復活されたことであります。どうか、この大いなる神の愛をお知りになって下さい。キリストを救い主と信じることこそ、「死」に備えることなのです。そして、このイエス・キリストの御名による以外には救われる道はないことも聖書は断言しているのです。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。
 
●「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への手紙5:6~8)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「この方(キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには私たちが救われる名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。」(使徒の働き:4:12)。


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★あなたも疲れていませんか?

2006-12-04 | 「人生の幸せと平安」



●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイの福音書11:28,29)。

  現代の日本は、文明の利器があふれ、物や食物も豊富にあり、世の中は非常に便利になって一見幸せそうに見みえますが、果たしてあの戦後の貧しかった時代よりも幸福になったと言えるのでしょうか。私の目にはあまりにも物質的で文化的な生活のゆえに、ストレスが溜まり、かえっていつも何かに追われているような印象すら受けるのですが、これは私だけでしょうか。現代人はあまりにも多忙な生活のために、みな疲れきってているようです。60数年前の戦争中や、もっともっと貧しく大変な時代はあったわけですが、それらの時代に比べても、今の時代の方が確かに生活は豊かになりました。それなのに、なぜか今はみな神経を磨り減らして疲れているのが現実であります。自分で自分の生命(いのち)を絶つ自殺者の数も大変に多く、すでに日本人男性の死因の上位を占めていると言われています。

 みなさんはいかがでしょうか。そんな深刻な状態ではないとしても、この世の中の動きが益々スピードアップして、社会の中の歯車の一つに組み込まれてしまって、そこから抜け出すことも出来ず、何か精神的にも肉体的にも慢性的な疲労感を覚えておられるという方が多いのではないでしょうか。そういう思いで、冒頭に記した「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」という聖書のみことばを読むと主イエス様のおっしゃったお言葉が心に染みるように入って来るのではないでしょうか。朝起きた時から、「あ~あ、今日はゆっくり休みたいなあ~!」。「もう何もしないで、のんびり一日を過ごしたい‥‥」と思うことはありませんか?
 
 しかし、「休む」ということは、一体どういうことでしょうか。ただ何もしないでのんびりしていたら、それでいいということでしょうか。私たちも本当のところ、どうでしょうか。本当にやることもなく、何もしないでいいと言われて幾日も幾日も休んでいるとしたら、いや、ず~っと休んでいていいと言われたら、どうなるでしょうか。確かに人間には身体的な休養・休息が必要であるのは当然のことです。「何もしないこと」もとても大事です。しかしそれはせいぜいある期間のことで、本当にず~っと何もしないでいたら、きっと別の不安に襲われて来るのではないかと思います。繰り返しますが、体の疲れも辛いものですし、それに対する休養は必要です。

 しかし本当に人が「疲れ」を覚えるのは、別のところに理由があるのです。例えば、目先のことを例に上げても、身体的にはきついけれども、自分が何に向って努力したり、取り組んでいるのかがはっきりと分かっている時と、身体的には楽だけれど、何が目的(目標)なのか自分でも分かっていない時とでは、どちらが疲れるでしょうか。それは明らかに後者であります。この「休ませる」と訳されたことばのもともとの意味は「元気づける」とか「立ち上がらせる」という意味があると言われています。あの宗教改革者のルターは、そのドイツ語訳聖書で、この個所を「エアクヴィケン」(立ち上げらせる)と訳しているそうです。

 「何もしないで、ゆっくり休める」ということが、私たちを休ませるのではないのです。何も重荷がないことが楽なのではないのです。むしろ肉体的に辛く、重荷があっても、自分の人生の目的がはっきりと分かっているときにこそ、私たちにはその疲れや重荷を軽減させることもできるし、生きる力も与えられるのです。確かにイエス様のご生涯を聖書から読みましても、立派な豪邸の寝室でゆっくり休まれたことで元気を取り戻したというような場面はまったくありませんでした。イエス様の周りには、いつも多くの心や体に病いやわずらいや痛みを負った人々が集まっていました。イエス様は、寝食を忘れるほどに忙しく、神から迷い出て疲れ果てている彼らのために神の僕のようにして働かれたのです。

 そうすると、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」という冒頭の言葉から受ける印象は、まったく違ったものになってきます。「わたしが負った重荷をあなたがたも負いなさい。重いけれど、逃げないで、中途半端にしないで、しっかりと担った時にこそ、困難ではあっても、本当の力があなたに与えられるのです。それこそ本当の安らぎなのですよ。」と、こういうことになるのではないでしょうか。もちろん、イエス様は、私たちの重荷を日々負ってくださる方であることは事実です。

 まず、私たちがそれぞれ日々神に生かされているという事実をはっきりと悟り、自分が今生かされている人生の意味と目的を明確に理解するならば、赤ちゃんが母親の愛の腕の中に憩うように、神の愛の懐(ふところ)に憩うことができるのです。神に立ち返ってこそ、私たちには、真に生きる力と平安が与えられるのです。人間は、私たちを生かしておられる神に信頼することもなく、はっきりとした価値観や人生の目的や意味も分からずに生きているところに根本的な問題と「疲れ」の原因があるのです。イエス・キイストはそのように疲れ果てている私たちのために天から下って来られ、人の姿をとられ、その生涯の最後に私たちの身代わりとなって十字架で死んで、よみがえってくださったのです。

●「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネの福音書14:27)。

●「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主(神)よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」(詩篇4:8)。

●「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ書4:6,7)。 


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