聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★神がいるなら、どうして!?

2007-07-17 | 「人生の試練と逆境」

 この世の中には、何か不幸な出来事に遭遇したり、大惨事や災害で犠牲者が出たりすると、必ずと言っていいくらい、「神がいるなら、どうしてこんなことが起こるのか!」と言う人がいます。また、戦争やテロや繰り返される国家間の争いや殺戮によって、どれだけ多くの人々が傷ついたり死んで行っていることでしょう。最近は、特に目を覆いたくなるような悲しい事件が多発しているのを見ると、「神がいるならどうしてこんな事態を許されるのか。一体どうしてこんな非情なことが起こるのか。」とお考えになる方がいても不思議でないかもしれません。私も、若い頃、人生についていろいろと考えましたので、この世の中に、こんなに矛盾があり、悩みと悲惨なことが満ちているのに、と反発を覚える方のお気持ちが分からないわけではありません。
 
 しかし、どうか冷静になってお考えになってみてください。「神がいるならば‥‥。」ということばの背後には、「この世の中には正義の神がいるはずである。」また、「その神は愛の神であるはずである。」との思いが、人間の心の奥底のどこかにあるからこそ、そのようなことばが出てくるのではないでしょうか。もし、全く神など存在するはずがないと信じきっているのであれば、完全に無視すればいいわけですが、不幸なことが起こった時だけ、何故か「神」を持ち出して来て、「神がいるなら、どうしてこんなことを許されるのか!」と言うことばを発するのです。ところが、平和で平穏な日々を送っているときには、神のことなど気にもかけず、口にもせず、もちろん、その平穏な日々を神に感謝することもしないのです。

 あなたは日常の生活の中で、自分の心臓が動いていることを感謝したことがあるでしょうか。また、水や空気があり、食べ物が与えられていることを当然と思っていないでしょうか。綺麗な花が咲いているのも、必要な時に天から雨が降り、植物を成長させてくださるのを感謝したことがるでしょうか。自分の体に目や鼻や耳があり、手や足があり、それらの器官が多様な働きをしていることを当然と思っていないでしょうか。いや、あたが今日生かされていること自体、当たり前のように思っていないでしょうか。この地球上の様々な自然界の営みや、美しい山や川を見て、また、広大な星空を仰いで感動することがありませんか。静かに沈んでいく美しい夕陽を見て感動することはありませんか。でも、あなたはその時、それらを創造された神に感謝したことがあるでしょうか。

 ある本によると、太陽は毎秒、石油数百万トン相当のエネルギーを放射しているそうです。そして、一年間に日本に降り注ぐ太陽のエネルギーで、日本人1億2千万人が1千年間も生きられるのだそうです。この地球全体に注がれる熱量がどれくらい膨大な量であるかは、想像もできないほどです。しかし、太陽の熱や光が豊かに惜しみなく注がれていても、それを何かで遮れば光や熱は届かなくなります。それと同じように、神の愛に対して人が心を閉ざすならば、神の愛は人の心に届きません。神のご本質は愛であると聖書は教えています。もし神の愛を感じないとすれば、それは人間の不信仰によって、無限に注がれている神の愛を遮っているからなのです。神から全人類へのラブ・レターとも言うべき聖書は、人間に対する愛が満ち満ちています。

●「天の父(神)は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイの福音書5:45)。

●「神は、すべての人に、いのちと息と万物をお与えになった方だからです。‥‥確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」(使徒の働き17:25~28)。


 人間の様々な不幸や悲劇や災難の個々の一つ一つの事例について、その原因とか理由などを説明することは、私にはできませんが、人類に苦しみや不幸が入って来た根本的な原因は、人間が神(創造者)に対して背を向け、神から離反しているためであると聖書は語っています。神が人類の始祖であるアダムとその妻エバを創造された時に、神はふたりをエデンの園に住まわせました。「エデン」とは、「歓喜」とか「楽しみ」という意味であり、そこにはどんな不幸も悲しみも涙もなかったのです。神と人との平和な交わりがあり、自由と平和と愛と喜びが満ちたすばらしい世界であったのです。もちろん、人と人の間に争いも憎しみもありませんでした。神は人が住むために必要なものをすべて備えてくださり、人が生きるために完全に整った環境があったのです。

 しかし、やがてこの平和な愛に満ちた世界に罪が入って来ました。最初に、アダムとエバが禁断の木の実を食べ神に罪を犯したのです。創世記3章にその罪が世界に入って来た経緯が書いてあります。その罪の結果は、すぐに表われました。まず、夫婦の間に亀裂が生じ、互いに自分が犯した罪について責任転嫁している姿があります。この3章に、初めて”苦しみ”ということばが出て来ます。人が罪を犯す前のエデンの園には、”苦しみ”はなかったのです。罪の結果、女は苦しんで子を産み、男は苦しんで額に汗して食を得なければならなくなったのです。4章に入ると、今度は兄弟間の間に妬みと争いが生じ、ついに兄のカインが弟アベルを殺すという殺人事件まで起こってしまったのです。家庭内の殺人事件は、最近に始まったことではなく、この時から既にあったことなのです。

 人類の罪の歴史は、その時から延々と今日まで続いているのです。そのために今の世界にも、様々な不幸なできごとが起こっています。これは神の責任ではありません。人間の責任なのです。子供が自分を愛情をもって育ててくれた両親に感謝もせず、親を無視し、反抗するならば、それは親不幸というものです。それと同様に、神が大きな愛を注いで人間を生かしてくださっているのに、その神を無視して自己中心の生活をして生きるならば、神に対する罪なのです。何か不幸なことや災いや悲しいことが起こるとすぐ神の責任にすることは大きな間違いなのです。神の恵みがなければ、あなたは、ただの一秒も生きることができません。それなのに、それを当たり前のように考えて生きることが罪であると聖書は教えています。神に対する不信仰は、親不孝よりもはるかに悪いことなのです。

●「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。 」(ローマ人への手紙1:20~23)。

●「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。 また、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」 (ローマ人への手紙3:12~18)。


 神の存在は、被造物によって明らかに認められることです。その神を無視し、神の代用品としてさまざまなものを拝む(偶像礼拝、)という愚かなことを人間は繰り返して来ました。約2.000年前に書かれた新約聖書は、このように人間の罪を断罪しています。今日も、このみことばのとおりのことが起こっています。私たちには、何の弁解の余地もありません。しかし、それでも、神は罪を憎んでも人を憎むことをせず、神に背を向けている人たちを愛してくださっているのです。そして、神から離れて生きるならば、苦しみと不幸しかないことを分からせようとされているのです。人間は、不幸のどん底に落ちないと本心に立ち帰ることがないということが多いのです。神は、ご自身の愛のゆえに、人が苦しみの中を通ることを許されることもあるのです。

●「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これも、あれも神のなさること。」(伝道者の書7:14)。

●「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。 」(詩篇119:71)。


 一般的には、苦しみは不幸と考えるのが普通ではないでしょうか。でも、この詩篇の記者は、苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでしたと言っています。”苦しみ”の一面は、実は神の愛と恵みの発露でもあるのです。ルカの福音書15章の放蕩息子は父親から離れて、放蕩三昧の生活をして、飢えと苦しみと孤独のどん底の中で、自分の罪を認め、悔い改めて父親のもとに帰って来ました。父親は、息子が離れて行くのを止めさせることも出来たのですが、敢えてそうはしませんでした。その息子の自由意志に任せたのです。しかし、その息子がいない間、父親は断腸の思いで息子の帰りを待っていました。それが、父親のわが子に対する愛なのです。自ら自分の間違いに気づいて帰って来るのを、父親は一日千秋の思いで待ち続けたのです。神の私たちに対する愛も同様なのです。

●「神は悩んでいる者をその悩みの中で助け出し、そのしいたげの中で、彼らの耳を開かれる。」(ヨブ記36:15)。

 このみことばをよく注意して読んで下さい。「神は悩んでいる者をその悩みから助け出される。」とは書いてありません。神は、人を「悩みの中で」救い出されるのです。悩みや苦しみがないと、人はなかなか自分の人生の意味や目的などを真剣に考えようとしないのではないでしょうか。「これを信じれば、病気が治ります。」とか、安易に約束する宗教がたくさんありますが、聖書の神は苦しみや悩みの現実の中で、人生を深く考えさせ、神に立ち返らせてくださる真実の愛を持って愛してくださる方なのです。

 ヨハネの福音書9章の記事ですが、イエス様が道中で、生まれつきの盲人をご覧になられました。それを見た弟子たちは、イエス様に「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」と尋ねました。その時、イエス様は「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のみわざがこの人に現われるためです。」と、驚くべきお答えをなさいました。そして、その盲人の肉眼はイエス様の奇蹟よって開かれ、また彼の霊の目も開かれました。ゆえに、この世界の人類の不幸の根源は、人類の始祖によって罪が入って来たのですが、人間の個々の不幸が、必ずしもその人々の個々の罪によるものであると考えてはなりません。「あの人にあんな不幸があるのは、彼が罪を犯したからだ。」などと軽々しく言ってはならないのです。 

 また、ルカの福音書13章で、イエス様は次のように言われました。「‥‥シロアムの塔が倒れ落ちて、死んだあの18人は、他のだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」と警告なさいました。この災難は、エルサレム近郊のシロアムの池のあたりにあった塔が、工事中の偶発的事故か、または何か別の原因で倒壊したために多数の人が災難に会い、亡くなったという痛ましい出来事です。今日も、多くの不慮の事故や突然の災難で、多くの人命が失われることがありますが、だからと言って、その災難に遭遇した人が、他の人よりも多くの罪を犯したということではありません。すべての人は悔い改めなければ、神の裁きを受けるのです。

 神様の愛は、すべての人に注がれています。そして、神の究極的なご計画は、人間の神に対する不信仰の結果である罪と死(永遠の滅び)から、人類を救うことにあります。そのために、神はご自分の御子イエス・キリストをこの世に遣わされ、人間の罪の身代わりに十字架につけてくださり、三日目に復活させてくださったのです。何という驚くべき神のご愛ではありませんか。愛の神に背を向け、罪の生活を続けて「神などいない。この世界のどこに愛があるのだ!」言っている人は、土に深い穴を掘って、その中に入り、その穴の上にふたをして、「太陽の光など何も見えないではないか!」と言って不平を言っている人に似ていると思いませんか。あなたは、どうでしょうか。

●「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって、私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」(1ヨハネ4:10)。
  
◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」 

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★「痛み」の意味を知る

2005-11-23 | 「人生の試練と逆境」
   
        

 私たちは、何かの病気や疾患や怪我などで痛みを覚えるときに、その辛さに「どうして早く痛みが治まらないのか‥‥」と思う時があります。また、「体に痛みがなければ、どんなに楽だろうか。痛みを感じることがなければいいのに‥‥」と思うこともあるでしょう。しかし、考えて見ますと人間にとって痛みはどうしても必要なものであることが分かります。「痛み」は、私たちの体の防御装置であり、生命を維持して行くために必要不可欠のものであると理解することができます。
   
 ある医者は「医療は痛みに始まり、痛みに終わる。」と言いましたが、これは含蓄のあることばではないでしょうか。なるほど、医者の仕事の中の多くは「痛みを見分けること」から始まると言っても過言ではないと思います。「頭が痛い。喉が痛い。胸が痛い。胃が痛い。お腹が痛い。腰が痛い。関節が痛い。目が痛い。耳が痛い。歯が痛い。足が痛い。背中が痛い。」など、いろいろな痛みを持って、人々は病院にやって来ます。病気の初期の段階においては、医者はその人の痛みの訴えを聞きながら、何が問題なのかを探って行くのです。痛みは、私たちの体の中に何かの異常があることを知らせてくれる警報装置の役目を果たしているのです。

 「先天性無痛覚症」という非常にまれな病気があることをある本で読んだことがあります。生まれつき「痛み」の感覚がない病気です。痛みがないために怪我をしても気がつかないのです。凍傷や火傷になっても痛みがないので、分からないことも多いのだそうです。傷はそのまま放置されるので、そこから菌が入って深刻な感染症を引き起こします。また、制御作用としての痛みがないために力を入れすぎて自分の骨を折ったり、筋肉や関節に傷をつけたりしてしまうのです。自分の歯を抜いたり、自分の眼球まで取り出してしまう子供たちの例もあるそうですから驚きです。性格的な特徴は、共通して短気で怒りっぽく、自己中心的、かつ冷淡であるという性質を持っているということだそうです。

 このように、痛みというのは、私たちの健康を維持する上で不可欠であるばかりでなく、人格形成においてもきわめて重要であることをこの疾患は物語っています。「痛み」を知らない者は他人の痛みも知ることができないので、思いやりが欠けた人間になるわけです。いつでも、苦しみは苦しく、痛みは痛いのです。しかし、人間は苦しむことによって人間らしくなり、痛みを経験して人間らしくなるのです。痛みはいつも人間を成長させるとは限りません。しかし、痛みを経験することなしに人間は成長しないということは確かなことではないでしょうか。人生のいろいろな挫折や悲哀、失敗を繰り返して他人の痛みが分かる人間に変えられて行くのです。 

 ある癌に罹った医者がいました。余命はあと二、三年と診断されたのです。そして、その医者は癌と診断されてから変わってしまったのです。彼は、悩める患者を医師が治療するのではなく、悩める患者と同じ悩みを持つ医者がともに痛みを担いつつ、治療する医者に変わって行ったそうです。常に患者の側に立って、患者の側から見る(診る)医者に変貌したのです。彼は、どうして医者でありながら、患者の側から物事を見ることが出来たのでしょうか。それは、明らかに彼自身が患者になり、その痛みを共有するようになったからであるということです。

●「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」(イザヤ書63:9)。

 さて、下に記したイザヤ書のことばは、人類の救い主となられた神の御子が人の姿をとってこの地上に誕生される七百年以上も前に、預言者イザヤによって預言された旧約聖書のことばであります。ここで「彼」というのは、メシヤとして来られるイエス様のことを示しているのです。救い主イエス様は、私たちの病を知り、その痛みを担われた方であります。主イエス様は痛み苦しむ者の痛みをお知りになられ、共に苦しんでくださった方です。主イエス様は人々の涙も痛みも知っておられます。このような御方が私たち罪人のために身代わりに十字架にかかられて尊い血を流して死んでくださったのです。
  
●「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。 」(イザヤ53:3~7)。

●「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。』 」(マタイの福音書8:16、17)。


 キリストを信じて贖われ、罪から救われた者たちが行こうとしている天国では、もはや痛みや苦しみというものがないのです。どのような種類の痛みもありません。肉体的な痛みも心の精神的な痛みも、もはや永久に過去のものとなるのです。クリスチャンにとって、痛みと苦しみというのは、この地上にいる時だけのものです。しかし、キリストの救いを拒む者の行く所は、「永遠の苦しみ」が続くところです。「彼らは、永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」(ヨハネの黙示録19:10)とあります。どうか、私たちの痛みを共に担い、最後には十字架で死んでくださったイエス様の愛を拒むことなく、信じて救われてくださいますように心からお祈りします。


●「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみ(痛み)もない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 (ヨハネの黙示録21:4)。  



★人生の七転び八起き

2005-07-27 | 「人生の試練と逆境」
          

  人生には、いろいろなつまずきや挫折があります。受験の失敗、失業、倒産、離婚、病気の苦しみ人間関係のつまずきなどです。そして、多くの人が決定的な打撃を受けて立ち上がれなくなるのを見ることが多々あります。私たちの周囲にそのような人はたくさんいるのではないでしょうか。昔から日本にある諺に「七転び八起き」というのがあります。これは、人間の頑張りに訴えて、奮起を促しているという面があります。「七回転んでも、頑張ってもう一回起きるんだよ!」ということを言っているわけです。人生の試練に直面しても、挫けないで頑張りなさいということを教えているのだと思います。

●「正しい者は七たび倒れても、また起き上がるからだ。悪者はつまずいて滅びる。」(箴言24:16)。

 しかし、この箴言のみことばの「七たび」というのは、「七」という回数を言うのではなく、ヘブル語の「七」は完全数を意味しますから、「七たび倒れる」といのは、完全な「ノックダウン(knockdown)」の状態であります。完全に打ちのめされても、どんなに頑張っても、奮起しようとしても、もう二度と起き上がれない状態を意味しているのであります。それにも拘わらず、聖書は「また起き上がる」と言っていますが、これは、どのような意味なのでしょうか。この「正しい者が起き上がる。」というのは、日本の格言とは根本的に違うものなのです。

 つまり、ここでいう「正しい者」というのは、正しい神を認め、信仰に生きる人のことであり、新約時代に当てはめれば、キリストの十字架の贖いの恵みによって、罪赦され、義(正しい)と認められた人のことです。このように神に正しい者と認められた人は、神に全幅の信頼ををもってより頼む人のことであります。キリストの中に罪の赦しを見出す人は、罪に汚れた過去から立ち直ることができます。また、キリストの中に完全な愛を見出す人は、千万人の敵の中でも、立ち上がることのできる人なのです。

 日本の格言七の「七転び八起き」は、人間の頑張りと努力に訴えて奮起させようとするものですが、しかし、人間のがんばりには、限界があります。人間は、誰でも色々な苦しみや悲しみに押し潰されそうになり、立ち上がれない状態になることがあります。人間には、非常に強い面もありますが、どんなに努力しても辛抱しても、そこには自ずから限界というものがあります。しかし、神を信じより頼む人は、エネルギー(Energie)の根源が自分の頑張りや忍耐力にあるのではなく、無限の力を持つ全能の神につながっている人です。

 そのような人は、人間の努力やガンバリでは二度と立ち上がれないほど、完全に打ちのめされても、神の力によってまた立ち上がることができるのです。全能者である神に、どこまでも信頼する人は幸いな人であり、もう立ち上がれないという状況になることはないのであります。新約時代にの、有名な使徒パウロの生涯において、その実例を見ることができます。パウロの信仰生涯においては、何度も、何度も、四方八方から苦しめられることがありましたが、窮することはありませんでした。途方に暮れてしまうような試練がありましたが、しかし、行き詰ることはなかったのです。

●「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。 」(コリント人への第二の手紙4:8,9)。

●「‥‥私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています。 マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。 しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、‥‥私たちを慰めてくださいました。」(コリント人への第二の手紙4~6)。


 パウロは、このみことばにもありますように、精神的にも何度も何度も打ちのめされそうになったことがありましたが、神が彼を慰め、立たしめ、奮起させてくださったのであります。パウロは、倒されるようなことがあっても、滅びることはありませんでした。また、彼の宣ベ伝えているキリストの福音も滅びることがありませんでした。

●「私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。 」(コリント人への第二の手紙11:23~27)。

 パウロのこのような告白を読みますと、迫害や飢えやその他数々の試練に遭い、パウロがいかにひどい苦難と過酷な逆境を経験したかを知ることができます。まさに、それは壮絶なクリスチャンの生涯でありました。しかし、そのような状況にあっても、パウロは絶望することなく、主は、そこから彼を救い出し、再起させてくださったのです。その生涯の間、パウロを支えてくださったのは真実なる神なのです。

●「わたし(キリスト)は彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。 」(ヨハネの福音書10:28,29)。

 このようにパウロを強くしたのは、神を信じる信仰のみであります。確かに「倒されても決して滅びることがない」人生であったのであります。キリスト信者が倒されても倒されても、また、起き上がることができるのは、キリストを信じて永遠のいのちを受け、死んでも復活するという永遠の希望を持っているからであります。このような「決して滅びることがない」という約束は、キリストを信じる者に強い確信を与えるのです。彼は、信仰によってこの世の単なる幸福やご利益を求めていたのではなく、真の確信と永遠につながる希望があったのです。

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★人生の逆風に会うとき

2005-05-09 | 「人生の試練と逆境」

      (松前小島灯台)
  自分がまだ若い20代前半の頃ですが、海上保安学校(京都府舞鶴市)の灯台科を卒業したあと、数年間、北海道の南端にある松前灯台で通信士として働いていたことがありました。二ケ月に一度くらいの割合で、松前から30km位離れた所にある松前小島(冬は無人島)に、二人づつ15日間の交替勤務をしたことがありました。渡海交代は、函館から来る巡視船に乗って行うのですが、小島には大きな巡視船が着岸するような岸壁がありませんので、巡視船は沖に停泊して、15日間分の食糧などを漁師の小さな艀(はしけ)に巡視船から移し積んで小島の岸壁まで運ぶのです。しかし、暴風で海が荒れている時などは、この作業は命がけでありました。物凄い大きな波ですから、小舟は木の葉のように波の山に押し上げられるように上り、次には谷底にど~んと落ちるのですから、生きた心地がしないほどの恐怖感を味わいました。

 私たちの人生は、順風満帆、物事が何もかも順調にスムーズに進む日ばかりではありません。日々の天候ですら、いつも雲一つない快晴の日ばかりではなく、曇りの日もあれば雨や雪の日もあり、嵐の日もあります。人生には、楽しいこと、心踊るような嬉しいことばかりが続けばいいと思うことがあると思いますが、予期しないことが多く起こるのが人の一生ではないかと思います。若い時に、将来のためにいろいろ夢を抱き、バラ色の人生設計を立てるのですが、人生設計の90%以上は思い通りにならないというのが現実ではないでしょうか。失恋、わが子の病気、会社の倒産、離婚の危機、家族との死別の悲しみ、隣人とのトラブル、新築のマイホームが突然火災で焼失、あるいは台風なで倒壊流失、最愛の伴侶が突然病魔に‥‥etc。数え上げればきりがありません。

 さて、新約聖書の福音書の中には、次のような記事がありますので、書き記してみました。今、人生の逆風に遭遇しておられる方のために、何かの励ましか慰めを与えることができれば幸いです。

●「さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、『さあ、向こう岸へ渡ろう。』と言われた。 そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。 すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。『先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。』イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。 イエスは彼らに言われた。『どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。』 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。『風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。』 ‥‥」(マルコの福音書4:35~41)。

 今から、約二千年前のことです。イエス様の弟子たちの一行が、ガリラヤ湖で激しい嵐に遭遇したのです。その中には、ペテロをはじめ、ベテランの漁師たちが四人もいましたが、自然の猛威の前には、人間の知識や経験は何の役に立ちませんでした。舟は大波をかぶり沈みそうになりました。その時イエス様は舟のとも(後ろ)の方で疲れて眠っておられたのです。「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」と、弟子たちは悲鳴を上げ、助けを求めました。すると、イエス様は起き上がって、「黙れ、静まれ。」と命じられますと、大なぎになったのです。波が静かになり、鏡のようになった湖面を見て、弟子たちは非常に驚き、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」と叫んだのは当然です。

 激しい暴風で、舟が木の葉のように揺れて弟子たちが慌てふためいていた時、イエス様だけは、何事もなかったかのように、舟のともの方で枕をして寝ておられたという箇所を読むと、私はいつも、心に平安を与えられます。人間にとって大問題と思うことも、イエス様にとっては、小さな問題に過ぎないのですね。あなたの「人生という舟」にイエス様を迎え入れたら、こわいものはありません。暴風は海上だけに吹くものではありません。あなたの人生にも、突然、人生の逆風が吹き荒れることがあるかもしれません。その時あなたは、どこに助けを求めるでしょうか。神様は次のように言われます。

●「苦難の日にはわたし(神)を呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。」(詩篇50:15)。

●「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。 主があらしを静めると、波はないだ。 波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。 」(詩篇107:)。

 弟子たちは荒れ狂う嵐に命じて「黙れ、静まれ。」と一喝して、大なぎにしたイエス様を見て、驚嘆し、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」と言いましたが、イエス様とは一体どのようなお方なのでしょうか。主イエス様は、神の御子であり、聖書では次のように紹介されているほど、偉大な御方なのです。

●「すべてのものは、この方(イエス・キリスト)によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネの福音書1:3)。

●「‥‥万物は、御子(イエス・キリスト)によって造られ、御子のために造られたのです。 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。 」(コロサイ人への手紙1:16,17)。


 神様は、あなたの人生に真の平安と喜びを与えてくださる御方です。しかし、私たちはそのお方を忘れ、神様に背を向けた罪の中に人生を送っていることを聖書は教えています。人間は死後に神様のさばきを受けなければなりません。しかし、既述しましたように、イエス・キリストは、自然界をもご自身の思うままに支配することのできる力ある御方ですが、愛と恵みに満ちあふれたご生涯ののち、その罪とさばきからあなたを救うため十字架で死なれ、復活された救い主なのです。そして、人生の嵐を静め「平安」という港(天国)に導いてくださる方なのです。 あなたもこのようなすばらしい御方を、もっとお知りになりたいとは思われませんか?


               

★病床にある友へ

2005-02-12 | 「人生の試練と逆境」



南国では、もう梅の便りが聞かれる季節なのでしょうが、北国では氷点下の厳しい真冬日の寒さが続いています。このような寒い季節に、病床に伏して呻吟(しんぎん)する日々を送っておられる方にとっては、病気の癒されることは当然ですが、なおさら春の暖かい季節が待ち遠しいことと思います。私の家内も、現在、重い病気があり闘病中なのです。

「病床は人間最大の学校である。」ということばを聞いたことがありますが、辛い病床の背後に神様の摂理のあることは確かだと思いますけれども、病床が人生を学ぶ学校であると考えることはそれほど簡単なことではないと思います。しかし、その苦しい困難のあとに必ず更に幸いな何か得るものがあると信じて、どうか、未来に希望をもって前向きに今の試練を乗り切ってくださいますようにお願いいたします。 

「寒さに震えた者ほど、太陽の暖かさを知る。人生の悩みをくぐった者ほど、生命の尊さを知る。」とは、ホイットマン(アメリカの詩人)のことばです。病床に伏している時は、人生のすべてが暗く思われ、悲観的になりやすいものですね。しかし、朝の来ない夜はなく、春の来ない冬もありません。また、止まない雨もありませんし、出口のないトンネルもないのです。暗いトンネルの中を車で普通に走ることができるのは、必ず出口があると信じているからではないでしょうか。

人間は、だれでも健康な時には何でも自分の力でやって行けるような自信に満たされているものですが、一旦病気になると、別人のように無気力になるということがあります。そして、それが人間の正直な姿ではないでしょうか。人間は、決してそれほど強いものではありません。そして、病床は人が孤独になるところでもあります。人は何かを失った時に、その失ったものの価値が分かることが多いものです。健康を失って病気になったとき、その健康の有難さや価値が分かるということもありますね。

人間みな、お金、財産、地位、健康など、何かの目的をもって生きているわけですが、人生の目的を、もし「健康」と考えた場合、病床にあるあなたは今は不幸であることになります。そして、悲しいことですが、その目的と定めたことの反対の結果が出ることが多いのが人生ではないでしょうか。そして、その反対の結果が出たときには、惨めで絶望的になり、あるいは無気力になり、またその逆に周囲に当り散らしたりしやすい弱さを露呈してしまいます。

しかし、人間の絶望と逆境と孤独の中でこそ、人生の真実を見出すことが多いというのもまた事実ではないでしょうか。あなたの病床のすぐ側に神様が立っておられるのです。あなたは、決してひとりではありません。どうか、そのことを忘れないでいただきたいのです。If winter comes can spring be far behind?とありますね。「冬来たりなば、春遠からじ」と同じような意味でしょうか。今、あなたに必要なのは、忍耐です。そして、真の希望があれば、忍耐も出来るのですね。

実のところ、「不幸」は複雑なものですが、「幸福」は単純さの中にあります。あなたは、今、その病床で、母親の腕の中に抱かれた幼児のように、神の懐(ふところ)に身をゆだねることができるのです。そこに真の平安と幸福があります。聖書には、次のような幸いなみことばが多くあります。

●「主は病の床で彼を支えられる。病むときにどうか彼を全くいやしてくださるように。」(詩篇41:3)。

●「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30:5)。

●「彼(キリスト)はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。‥‥まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。‥‥彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。‥‥」(イザヤ書53:3~5)。


 このイザヤ書53章のみことばは、キリストについての十字架を中心とした旧約聖書の預言であります。そして、その約700年後、このみことば通りにすべてが成就しました。キリストがこの地上に来られたのは、人々の病気を癒すためではありませんが、ご自身が神の御子であり、神から遣わされた救い主であることを示すために病気に苦しむ多くの人々を癒され、ご自身の愛と恵みと力を示されました。そして、やがて33歳の時に十字架で私たちの身代わりに死んでくださり、三日目によみがえられたのです。

●「イエスは、すべての町や村を巡って‥‥御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。また、群集を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかいそうに思われた。」(マタイの福音書9:35,36)。  

●「私たちの大祭司(キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル人への手紙4:15)。
 

 そして、イエス・キリストを救い主として信じ受け入れた者は、死後には永遠の慰めに満ちた天国が用意されているのです。そこには、もう病気の苦しみはありません。人の死によって涙を流すこともありません。悲しみや痛みもありません。いかなる苦痛も味わうことはないのです。この地上の苦しみや悲しみは、もう永遠に過去のものとなるのです。

●「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21:4)。  

 

★厳しい試練の冬

2005-01-07 | 「人生の試練と逆境」

  みなさんの中に、今、辛い悲しい試練に遭遇して、失望と落胆のうちに沈んでおられる方がおられるでしょうか。でも、そのような方に少しでも励ましと慰めを与えることができればと心から願って書いてみました。 

熱帯地方は一年中暖かく、植物を育てるには理想的な地域だと考えていましたが、実際はそうではないことが最近分かりました。ほとんどの温帯性の木は、熱帯ではそれほどよく成長しないのだそうです。同じことが、スイセン、チューリップ、ヒヤシンスといった春咲きの球根植物にも言えるのです。これらの植物は、熱帯だと最初のシーズンはうまく育つように見えますが、葉や花が散ってしまうと、一種の冬眠状態に入り、それっきり再び目覚めることはほとんどないのだそうです。
 
もし、ナシやモモの木を冬の間、暖かい室温にずっと保っておいたとしますと、致命的な害をこうむってしまうのだそうです。このことは、温帯植物にとって「寒さ」が重要な意味を持っていることをはっきり示しています。温帯植物は明らかに寒さを必要としているのです。落葉樹や球根類は、秋に葉を落としたあと休眠に入りますが、再び成長を始めるには、必ずその前にある程度の寒さにあわなければならないのです。

私たちの人生においても「厳しい試練の冬」を経験することがあります。
試練の寒さもいろいろです。難病に苦しみつつ病床に伏しておられる方もあれば、癌を宣告されて途方にくれておられる方、他人から酷い中傷を受けて傷ついておられる方もおられるでしょう。
私の知人(まだ、30代半ばの女性ですが)で、最近二度の離婚を繰り返して、今、二人の子供さんと三人でこれから生きて行こうとされておられる方がいます。ご本人にとっては、とても辛く悲しい寂しい経験だと思います。これから先のことを考えると、私も同情の涙を禁じ得ません。

 しかし、聖書の中には、かつて五人の男性と結婚し、その後、6人目の男性と同棲している女性の話が出て来ます。砂を噛むような空しい日々を送り、人目を避けるようにして生活していたその女性は、ある日、水を汲みに行った井戸の側で休んでおられたイエス様と出会うのです。しかし、イエス様は、彼女を一人の女性として暖かく受け入れ、接してくださいました。そして、イエス様はその女性にやさしく言われました。

●「この水(この世の楽しみ)を飲む者はだれでも、また渇きます。 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネの福音書4:13,14)。 

 彼女は、イエス様を信じて永遠のいのちを受け、幸福で、積極的な女性となりました。そして、イエス様と出会ってから、彼女の人生は180度変わってしまったのです。イエス様による救いの喜びを周囲のみんなに証しする人に変えられたのです。人生の試練の冬は、神に立ち返る絶好の機会として、神様が備えられた恵みではないでしょうか。新約聖書の中に次のようなみことばがあります。

●「 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。 」(ヘブル人への手紙12:11)。

●「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(コリント人への第二の手紙10:13)。

●「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。 ‥‥‥苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。 」(詩篇119:67,71)。
  
●「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30:5)。 
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★人生の悲しいとき、辛いとき。

2004-12-03 | 「人生の試練と逆境」



私たちの人生には、多くの悲しいこと、辛いこと、予期しないような試練に直面することが度々ありますね。そのような時に、私たちは、意気消沈し、失望落胆してしまうことが多いのではないでしょうか。私たちは何度、涙を流したときがあったことでしょう。そして、「もう、私は駄目だ。これ以上この苦しみに耐えられない。死んでしまいたい。」などと考えたことはありませんか。

しかし、聖書には、私たちに対する慰めに満ちたことばがあふれており、人生のどん底から立ち上がらせてくださるのです。聖書は私たちに生きるための真の希望と勇気、励ましを与えてくださる書物でもあります。絶望の淵から救ってくださり、もう一度、生きる力を与えてくださるのです。これは、私自身も経験して来たことであり、決して偽りではありません。今、人生の大きな壁に直面しておられる方も、どうか、聖書の神を見上げて、生きる希望をご自分のものとなさって下さい。

●「彼らが苦しむとき、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」(イザヤ63:9)。

●「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)。

●「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30:5)。

●「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイの福音書5:4)

●「わたし(キリスト)は、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻ってくるのです。」(ヨハネの福音書14:18)。


英語で、FOOTPRINTS(足跡)という詩がありますが、多くの方がこの詩を読んで大きな慰めを受けていますので、ご紹介したいと思います。英文では、主人公が「私(I)」であったり、「彼(he)」であったり、また、いろいろと表現が違う個所があり、実のところ、私にはどれが最初の作者のものかよく分かりません‥‥。

★ 足跡(Footprints)★


ある晩、私は夢をみていた。
夢の中で私は、神と並んで浜辺を歩いていた。

そして空の向こうには、私のこれまでの人生が閃光のように、映し出さ
れては消えていった。
どのシーンでも、砂の上には二組の足跡が残されていた。
一組は私自身のもの、もう一組は主(神)のものだった。

人生の最後のシーンが映し出されて目の前から消えていくと、私は振り
返り、砂上の足跡を眺めた。
そして、私の人生の道程には、一組の足跡しか残っていない場所がいく
つもあることに気づいた。
しかもそれは、私の人生の中で、最も辛く、悲しいときであったのだ。
 
私の心は、疑いと悩みで乱れ、神にそのことを尋ねてみた。

「神よ、私があなたに従って生きると決めたとき、あなたはずっと私と
共に歩いてくださるとおっしゃられました。しかし、私の人生のもっと
も困難なときには、いつも一組の足跡しか残っていないではありません
か。私が一番にあなたを必要としたときに、なぜあなたは私を見捨てら
れたのですか。」

神はやさしく答えられた。

「わが子よ。 愛するわが子よ。 わたしはあなたを愛しており、 あなた
を決して、ひとりにはしなかったのだよ。あなたの試練や苦しみのとき
に、一組の足跡しか残されていなかったのは、その時はわたしがあなた
を背負って歩いていたのだよ。」

   (訳:筆者)            Author Unknown (作者不詳)

★この詩の作者は、マーガレット・F・パワーズさんと言われていますが、他にも自分が作者ですとおっしゃる方が四人ほどおられるそうです。それで、一応、「作者不詳」ということにしました。

     

★人生の逆境の中でこそ。

2004-11-29 | 「人生の試練と逆境」

               

   北国は日毎に秋が深まり、初冬を迎える季節となりました。ところで、森の中で木の切り株を見ますと、同心円のように、幾重にも筋が入っていますね。これを年輪というのは、みなさんもご存じと思います。人間も年をとることを、年輪を加えるなどと形容します。これは木の年輪から来ているのです。
 
ところで、山の木の切り株などの年輪の中心は、真ん中になく、北側にみな片寄っているのです。それは、なぜかと言えば、日光と南風を十分受けて育つ南側は、年輪の目が幅広くなります。それだけ肉付きがよく成長しているわけです。反対に北側は、寒さから身を守るために、厚い皮をつけて戦います。したがって、年輪の目が幅狭く、中心がそちらに片寄るのです。

ところが伐採され、用材として製材されるとき、陽の光を受けて育った南側の部分は板になります。北風を受けて育った部分は柱になるのです。柱は家で最も重荷がかかり大切な部分となります。材木でも、逆境で苦労して鍛えられてこそ、柱として大切に用いられるのです。

人生には浮き沈みがあり、順境も逆境もあります。人は、だれも逆境や試練の道を通ることを望みません。しかし、人生は長い目で見れば、むしろ順境より、逆境の苦しみの時の方が、私たちを益していることが多いのではないでしょうか。
ソロモン王は、その人生の晩年に、聖書の中に次のようなことばを記しました。

●「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。 」(伝道者の書7:14)。
 
人生の逆境は、その逆境の中で今までの自分の歩みを反省させ、人生を深く考えさせるためのチャンスであり、愛なる神からの贈り物であることをお知りになってください。その事実を知る時に、あなたの人生に対する見方が今までとは全く違ったものとなるのです。

●「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)

●「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることの出来ないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)。


この詩篇119篇の作者と同じように、あなたも「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」と言い得る日が来ることを信じて、今の試練を乗り越え、逆境を意味のあるものとして生かしてください。

もし、あなたが真摯な心で聖書を開くなら、どのような絶望的な人生を送っている人でも、真の希望を見出すことができます。そして、今、あなたに与えられているの試練は、これからの人生に決して無駄になることはないのです。いや、あなたの人生を永遠の視点からご覧になられる愛なる神様の配剤なのです。