聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★天国とはどんな所ですか?

2007-08-23 | 「ご再臨と信者の真の希望」
         
        

 ある方から「クリスチャンが行く天国とはどんな所ですか?」と聞かれたことがありますが、聖書にはどのように書いてあるのか、見てみましょう。ヨハネの黙示録21章と22章に天国の様子が書かれてありますから、その箇所を開いてご覧になってください。ヨハネは神様から示された黙示を、そのまま記録しています。そして天国については、あまり詳細には書かれていませんが、それには意味があるように思います。ヨハネは、「天国にあるもの」より、「天国にはないもの」について多く書いているように思います。なぜなら、天国のすばらしさをどのような美しい形容詞を用いて描写したとしても、私たちの限界のある能力では、次元の違う世界のことを完全には理解できないからではないかと思います。そのようなことを念頭において、お読みになってください。ヨハネは、七つの「ないもの」を記して、新天新地の一部を描写しています。

●「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』」(ヨハネの黙示録21:1~4)。 

【1】天国には「海」がない。
 ここには、「もはや海もない。」(黙示録21:1)と記されていますね。この地球上に海を造られたのは、神様です。そして、人類はその海から、私たちが生きるために必要な魚や種々の海産物など多くの海からの恵みを受けて来ました。また、海がなければ、雨が降ることがありませんから、地上の様々な植物も育たなかったわけです。しかし、海はまた一度牙を剥くと、非常に恐ろしいところでもあるのです。今日までの人類の歴史の中で、どれだけ多くの船舶の海難事故などで多くの人々のいのちを飲み込んで来たことでしょうか。海は、ある意味では、あらしなどによる危険や恐怖の象徴であったとも考えられます。黙示録には、「海から一匹の獣(反キリスト)が上って来た」(13:1)とあるので、悪の根源のように考えられていたのかもしれません。また、海は少しも休むこと知らない不安定なものを示しています。

【2】天国には「死」がない。
 人類の始祖アダムとエバは、神様が備えられたあの「エデンの園」はすばらしい所でした。そして、彼らが神に反逆して罪を犯す前には、この地球上には人間を不幸にして来た「死」はなかったのです。人間が罪を犯した結果、そこは、まさに「失楽園」となり、それから、幾千年間もの間、人類は死の恐怖の奴隷となってしまい、絶えず死の恐れと不安に慄きながら生きて来ました。しかし、主イエス・キリストの十字架と復活のみわざによって、死は滅ばされ、新天新地においては、もはや死はなくなってしまったのです。天国においては、永遠に「死」はありません。

【3】天国には「悲しみ」がない。
 「悲しみ」も、やはりアダムとエバの罪の結果、人類に入って来たものですが、キリストの十字架と復活のみわざによって、神様は完全に取り除いてくださいました。アダムの罪以来、いつの時代にも、人類は多くの悲しみと悲惨を経験して来ました。しかし、キリストは「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」と言われています。人間の悲しみを理解され、あのゲッセマネの園では「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」と言われたお方ですが、そのキリストが十字架でその罪の結果の「悲しみ」をも負ってくださいました。そして、天国では、神様ご自身が私たちの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるというのです。何と慰めに満ちた光景ではありませんか。
 
【4】天国には「叫び」がない。 
 叫び(crying)は、泣き叫ぶことです。人間の罪がある所には死があり、死がある所には、悲しみがあり、悲しみがある所には、叫びがあります。今日の私たちの周囲のあちこちから、人々の泣き叫ぶ声が聞こえて来ます。不幸があった家からも遺族の泣き叫ぶ声が聞こえて来ます。ある国々では、今日も戦場と化した街々から、父や母を失った子供たちの泣き叫ぶ声が聞こえて来ます。でも、新天新地では、もう叫び声は聞こえて来ることはけっしてないのです。

【5】天国には「苦しみ」がない。
 「苦しみ」ということばが、聖書に最初に出て来るのは、創世記3章です。エデンの園で人間が罪を犯す前には、「苦しみ」は全くありませんでした。「エデン」は歓喜の意味があります。そこは、楽しみと喜びで溢れていました。しかし、アダムとエバが神に反抗して罪を犯した直後に、女には、「みごもりの苦しみ」と「出産の苦しみ」が入って来ました。また男には、「苦しんで」食を得なければならなくなったのです。聖書には、人類のありとあらゆる苦しみが記されています。しかし、イエス・キリストの十字架と復活の勝利によって、すべての不幸の根源は取り除かれ、新天新地には、もはや「苦しみ」もありません。それは、もう過去のものとなってしまったのです。

【6】天国には「のろわれるもの」がない。 
「もはや、のろわれるものは何もない。」(黙示録22:3)。 
 最初のエデンの園には、もちろん、「のろわれるもの」は何もありませんでした。人類に「のろわれるもの」が入って来たのは、やはり人間の罪の結果なのです。神は罪を犯したアダムに対して次のように言われたのです。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。」(創世記3:17)。しかし、イエス・キリストは、人類に対するのろいを取り除くために、罪人の身代わりになって、十字架に掛けられて、のろわれた者となってくださったのです。

【7】天国には「夜」がない。
「もはや夜はない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」(黙示録22:5)。 
 現在の天と地は、神様が最初に創造された秩序であり、地球の自転により、昼と夜があり、昼は働いて夜は休むことが出来るようにしてくださったのです。これは神様の愛の配慮によるものであったのです。しかし、夜は闇であり、暗いのです。現在、人類の文明の発達によって大都会は不夜城のようになっていますが、これは、正常なものではありません。私たちは、明日の朝になれば、地上を明るくしてくれる太陽が東の空から昇って来ると信じているので、夜も安心して床に入り、眠ることが出来ます。永遠に朝が来ないと仮定すれば、だれも安心して夜床(ベッド)に寝ることができません。だれでも、夜は怖いのです。しかし、天国には永遠に夜がないというのです。そして、「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである」(黙示録21:23)とあります。

 私は、ある意味で消極的な面から天国(新天新地)について書いたたのですが、天国で何よりもすばらしい幸いなことは、そこに御父なる神と、私たちのために十字架にかかって身代わりに死んで復活してくださった主イエス・キリストが共におられることなのです。冒頭のみことばでも、「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられる。」とあります。また、イエス様と共に十字架につけられた二人の強盗のうち、悔い改めた一人に対して、イエス様は「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)と約束されました。また、主イエス様は、刻々と近づいていた十字架刑の直前において、弟子たちを励まして、次のように言われたのです。 

●「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所(天国)を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネの福音書14:1~3)。 

 とにかく、天国のすばらしさは、だれもそれを人間のことばで表現することはできないのではないかと思います。パウロは、第三の天(神が臨在される所:天国)について次のように語っています。パウロが大きな試練の中にあって落胆していた時に、神様は彼を激励するために第三の天(天国)を見させてくださったのです。この時のことを、それから14年後に、諸事情があってやっと口を開いて語るほど、その天国のすばらしさを人間のことばでは表現できなかったのではないでしょうか。それは、あまりにもすばらしかったからです。その経験はパウロにとって生涯忘れることができなかったものとなったことは間違いありません。

●「私はキリストにあるひとりの人(パウロ自身)を知っています。この人は十四年前に―肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。私はこの人が、―それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。― パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。」(2コリント12:2~4)。 

●「私達は、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(2ペテロ3:13)。 

●「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。 」(ピリピ人への手紙3:21)。
 

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」

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★いつまでも続く希望

2005-08-15 | 「ご再臨と信者の真の希望」



  人間は何らかの希望を持って生きている存在であるということができます。どんな人も望みなくしては生きていけないのです。動物は本能によって生きていますが、人は違います。間違いなく、私たちが今日、こうして生きているのは、何らかの希望を持っているからではないでしょうか。この望がなくなると、人は自殺を考えるか、そうでなければ、その日その日をただ惰性で生きていくことになるのです。みなさんの中には「希望なんかなくても生きて生ける!」という人がいるかもしれませんが、大きな試練に直面した時、真の望みを持っている人とそうでない人と、はっきりと分かれるのです。

 ある医者は「患者の治療に一番必要なことは、まず、患者に希望を持たせることです。」と言いました。「希望」はどんな薬よりも特効薬だというのであります。希望に向かって生きる人生は、朝日のように輝いています。しかし、希望を失った人はまさに夕暮れのようではありませんか。どなたの人生にも、多くの試練があります。これは確実なことです。しかし、ある人は「希望はダルマさんのようなものです。100回失敗して転んでも、これがあれば必ず起き上がることができる。」と、興味深いことを言いました。人間の体に骨髄があるように、希望があればこそ、人間はしっかりと立つことができるのです。

 しかし、それほど、希望は大切なものですが、希望の持ち方には四つの種類があると言われています。
①『願望』・・・可能性があるかどうかは別として心の願いとしての望みです。
②『野望』・・・身のほどを超えたような野心的な望みであります。
③『欲望』・・・本能的な欲を満たすような意味での望みであります。
④『羨望』・・・羨ましさを込めて、そうなればいいなあ~と思う望みです。

 しかし、これらのものは、よく吟味してみると、どれも本物の望みではないと分かります。これらのものは、必ずいつかは消えてしまうはかない希望です。確かにこの世には、本物の「消えない希望」を持っている人と、消えてしまう希望を持っている人々がいます。日本語の「望」、すなわち「望み」という字は、もともと「遠くを望む」という意味があるように、単に、「金持ちになりたい」とか、「セレブになりたい」とか、「有名人になりたい」とかの願望ではなく、それ以上のもっと、遠くを見通した永遠的なものでなければならないはずです。

 それが、一時的な地上的な望みでしかないとしたら、たとえそれを手に入れることが出来たとしても、その後に「失望」と「落胆」が来るのは必須で、それは時間の問題ということになります。お金や財産も、地位や名誉も、美貌も若さと健康も、その他この世のどんなものも、必ず、失われる時が来ます。ですから、これらのものに頼るこの世の希望は、人間の可能性や人々の約束に基づくものですから、絶えず、不安が伴ない、しばしば失望に終わってしまうのであります。
ですから、人生の若い時に、これらのことに気づいて、決して消えることなない本物の希望を持つことの出来る人生設計を立てることの出来る人は幸いです。

●「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。 」(伝道者の書12:1)。

●「すべて神を忘れる者の道はこのようだ。神を敬わない者の望みは消えうせる。 その確信は、くもの糸、その信頼は、くもの巣だ。 彼が自分の家に寄りかかると、家はそれに耐えきれない。これにすがりつくと、それはもちこたえない。 」(ヨブ記8:13~15)。


 さて、いつまでも続く希望、確実な希望を持つために、一番大切なことは、何かと言いますと、その望みの根拠を何に置くかということでなないでしょうか。何の根拠もない願望や期待だけでは、単なる夢に終わってしまうのです。そして、真の神によって抱く希望こそ、決して失望に終わることのない確実な希望であります。聖書は実に、それを読む者に真の希望を与えるために書かれたものです。聖書の神は「望みの神」であり、「愛の神」であり、「キリストの復活の事実」が、信じる者に真の永続する希望の確信に満たしてくださるのです。
 
●「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。 」(ローマ人への手紙15:3)。
 
●「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者(私たち)のために死んでくださいました。 」(ローマ人への手紙5:5)。

●「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。 」(ペテロの第一の手紙1:3,4)。

●「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(コリント人への第一の手紙15:50~52)。

●「あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。 」(ペテロの第一の手紙1:21)。


 クリスチャンの信仰と希望は、キリストを墓の中からよみがえらせた神にかかっているのです。もし、私たちの希望が、自分の努力や修業や、不真実な人間の約束にかかっているのであれば、その希望に対して確信を持つことは不可能であります。しかし、神はどこまでも真実なお方であり、必ず約束を守られる方なのです。
 
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★涙の谷を過ぎる時も‥‥

2005-06-24 | 「ご再臨と信者の真の希望」

            
     
「雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。 なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。 彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。 なんと幸いなことでしょう。その力が、あなた(神)にあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。 彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。 」(詩篇84:3~7)。

  この詩篇84篇には、三回も「何と幸いなことでしょう。」(4,5,12)という感嘆詞が出て来ます。神を慕う者、神に信頼する者には神から来る幸いを約束されているのです。この詩篇の作者は、神殿の軒下に雀が住みつき、つばめが巣を作っている姿に、新鮮に驚き、感激しているのですね。雀は小さな生き物です。それなのに、人も近づくことのできない神の宮の奥の軒下に巣を作り、だれにも邪魔されずに雛まで育てているのです。それで、詩人は小さな弱い人間、しかも、罪深い卑しい人間ですから、悔い改めて信頼しさえすれば、神の懐の中に巣を作り、また、そこに中に憩うことができる幸いを見つけることが出来ると声高らかに歌うのです。

 また、(5~7)節には、神の力を拠り所として生きる信仰者の幸いな姿が書かれています。ここで「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。」とありますが「涙の谷」というのは、特定の地名ではなく、荒廃と嘆きのある場所を示しています。人生には、多くの涙の谷があります。人生は涙の谷を行く旅のようです。困難と災い、悲しみと嘆きが待ち伏せしているのです。そして、私たちは、だれもがそこを通らなければなりません。しかし、力を神に見出し、神とのいのちの交わりを心に持つ人は、そこを泉の湧くところとすることができるのです。

 「初めの雨」というのは、荒野の情景を一変させる秋の雨のことです。荒野のような苦難に満ちた人生であっても、そこに潤いを与えてくれるのです。梅雨の時期のジメジメした雨は人を憂鬱な気分にさせるのでが、真夏の暑い時にザ~ッと降る雨は、心まで潤される気分になりますね。そして、彼らは「力から力へと進み」次第に強くなるというのです。通常、私たちは行進したりするとき、力から弱きに進むのではないでしょうか。私たちが旅をするとき、元気よく出発しますが、やがて、道が険しくなり、疲れて来ます。そして、道の傍らに腰を降ろして休み、また立ち上がっては苦しそうにもの憂い旅を続けるのです。そして、最後に、疲労困憊した状態になり、倒れこんでしまうこともあります。しかし、神の恵みと力に頼るクリスチャンの人生の旅は、出発した時と同じように活気にあふれているというのです。

 神から逃げる人の人生は、どんどん下る人生です。あの預言者ヨナは、ヨッパの港に下り、船に下り、船底に下って眠り、海に投げ込まれ、大魚に飲み込まれて、海底にまで沈んだのです(旧約:ヨナ書)。また、「親切なサマリヤ人」の譬え話でも、旅人のユダヤ人は、エルサレムから「下る道で」強盗に襲われて災難に会いました。この旅人は、私たち人間の姿を暗示しているように思います。神を離れては、上って行く人生は決してないのです。そして、どこまで下ってしまうのでしょうか。イエス様が厳粛に語られた「金持ちとラザロの話」の金持ちのように、彼はハデスまで下って行って火炎の中で苦しんでいるのです。ですから、神を信頼するかどうかということは、この地上だけの問題ではありません。永遠の問題なのです。

 この地上の様子を見ると、環境汚染はますます進み、不道徳が蔓延し、青少年による凶悪な犯罪が日常茶飯事のように多発し、何もかも暗いニュースばかりで、どこにも解決の糸口が見つかりません。この世界はすべてに行き詰まっています。しかし、キリストを信じる私たちには希望があるのです。「力から力へと進み」「上に上る」人生であり、「涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所」として行く幸いな人生が約束されているのです。私たちは、ますます聖書を深く味わい、みことばの中に生きる人生を経験したいものです。そして、そこには、間違いなく「力から力へ進む」勝利満ちた生涯があるのです。

●「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(イザヤ書40:28)。

●「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。 」(Ⅱコリント4:16)。

●「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」(箴言4:18)。

●「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ人への手紙3:20)。

●「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。 」(Ⅰテサロニケ4:16,17)。


 このように、クリスチャンには真の希望があります。私たちは、下って行く人生ではなく、最終的には天にまで上るのです。今はこの地上にあって生きていますが、国籍は天にあります。そして、そこから主イエスが再び、私たちを迎えに来てくださるのを待ち望んでいる者たちなのです。私たちの日常は、天気が晴れの日ばかりではなく、雨の日も、曇りの日も雪の日もあります。しかし、その雲の上には太陽が輝いているのです。同様に、私たちの日々も時々憂鬱に感じたり、意気消沈したり、落胆したりする日もあります。しかし、「神の愛」という太陽は常に輝いているのです。



★クリスチャンの望みは何か

2005-05-14 | 「ご再臨と信者の真の希望」

     

  多くの人たちは、この世のいつかは消え去ってしまう空しいものに希望をおいていないでしょうか。ある人にとって、それはお金であったり、地位や名誉であったり、マイホームであったり、健康であったりします。「健康」を目標にして生きている人を例にあげれば、その人は健康が損なわれたり、病気になったりしたら、もう希望がなくなるわけです。富や名誉、家、その他どのようなものでも目に見えるものは、必ず、失われる時が来るのです。ところで、「クリスチャンの希望は、一体、何ですか?」と質問されることが度々あります。そのことに関して、自分の考えではなく、聖書のみことばを引用して、簡単にお答えしたいと思います。イエス様は、ご自身の十字架を目前にして、弟子たちに次のような励ましの言葉を語られました。

●「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネの福音書14:1~3)。  

 私たち人間は、だれでも弱い者で、何かあるとすぐに心を騒がせてしまう弱い者たちです。十字架の死が目前に迫って来て、主イエス様が弟子たちを残して去って行こうとされていました。今まで三年半の間主に従って来た弟子たちは、これから先どうなるのだろうと、不安な心でいっぱいで、心が騒いでいたのでしょう。そのような弱い者たちに対して、主イエス・キリストは実に強く確かな約束と励ましを与えていらっしゃいます。「神を信じ、またわたしを信じなさい。」と力強く語られました。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」とも語られました。それに続いて、「 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」と、約束されたのです。イエス・キリストを救い主と信じる者(クリスチャン)のために、主の十字架の死と復活の後、主イエス様は天国で永遠の住まいを備えておられ、その用意が完了したら、イエス・キリストは再びクリスチャンを迎えに天から来てくださるのというです。

 天国とは、主イエス様が私たちのために用意してくださっている所であり、そこにはいつも主が共におられる幸いな所なのです。天国がどんなに美しく光輝く場所であり、快適な環境が整った所であったとしても、そこに主がともにおられないなら人間はそのような環境に飽きる時が来るかもしれませんね。天国は、私たちの罪のために身代わりとなって十字架で死んでくださるほど愛してくださり、また、死後三日目に復活された方が共におられる幸いな所なのです。適当な例えでないかもしれませんが、もし、どんなに立派な邸宅であっても、そこに自分を愛してくれる両親がいなければ子供は決して幸福ではありません。たとえ、貧しい生活でも、愛する母親がいるなら子供は幸せです。私たちの魂は、場所や環境の快適さによって満足するのではありません。私たちの魂を満足させてくださるのは、主イエス様ご自身です。主イエス様がおられるからこそ、そこは天国なのです。

 主は、天に帰られた後、クリスチャンを迎えるためにまた来てくださるのです。それは、主がもう一度来られる「主のご再臨」の時であります。また、ある人にとっては、私たちのこの世の人生が終わる死の時であるかもしれません。いずれにしても、主は私たちを天国に迎えてくださるために、もう一度来てくださいます。ですから、私たちは心を騒がせる必要はないのです。主のご再臨の希望については、パウロは次のように記しています。

●「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。 『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』 」(コリント第一の手紙15:51~54)

●「眠った人々(信仰をもって死んだ聖徒たち)のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずす。 ‥‥‥‥‥主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。 」(テサロイニケ人への第一の手紙4:13~)。

●「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
最後の敵である死も滅ぼされます。 」(コリント人への第一の手紙15:19~26)。

●「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。 」(ピリピ人への手紙3:20,21)。 
 

 主イエス様は、冒頭のみことばを語られたあとで、次のように言われたのです。。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもと(天国)に来ることはありません。」(ヨハネの福音書14:6)。是非、あなたも、キリストを信じて、イエス様が約束された天国に向かって、希望に満ちた旅を始められませんか。