聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★親切なサマリヤ人

2007-09-08 | 「キリストの愛」


 ルカの福音書の中に、イエス様が自分は律法を守っていて正しい人間である考えていた一人の律法の専門家との対話の中で、「私の隣人とはだれのことですか。」との彼の質問に対して答えられた有名な「親切なサマリヤ人」の例え話がありますので、そこから少し書いてみたいと思います。
 
●「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣り人になったと思いますか。」(ルカの福音書10:30~36)。
 
イエス様が語られたこの例え話は、多くの教訓を私たちに教えていますが、特にこの話に登場する三種類の人たちを通して、それぞれ私たちに大切なことを語っていますので、私たちの人生について考えてみましょう。
(1)エルサレムからエリコへの道を下って行って、そこで強盗に会い、半死半生の目に遭った人、この人の中にこそ、私たち罪人の姿が描き出されているのです。
(2)半殺しにされて倒れている人を見ながら、そっぽを向いて通り過ぎてしまった祭司やレビ人の中に頼りにならないこの世の姿を見ることができます。
(3)この傷つき倒れている旅人の所へわざわざ近寄って来て、介抱し、自分のお金を払ってまで、その人を宿屋まで連れて行って面倒を見たサマリヤ人の中に、私たちを救ってくださるために天から来てくださったイエス・キリストの姿が描き出されています。
 
【1】強盗に襲われた旅人。
 一人の男(ユダヤ人)がエルサレムの都からエリコに下って行きました。そして、その「エリコへ下る道」で強盗に襲われたのです。私たちの人生においても、思いがけないこと、予期しないことが突発的に起こることが多いものです。自分の人生設計通りに生きることのできる人は皆無に近いと言っていいでしょう。ある方の話によると、エリコへ下る道は二つあったそうです。一つは遠回りですがあまり危険のない安全な道です。もう一方は近道であって早く着くのですが、曲がりくねった険しい道で、強盗に襲われることが多い道です。そして、彼は多分友人の忠告があったにもかかわらず、この曲がりくねった危険な道を選んで下って行ったのです。

 そして、彼は強盗に襲われて、打ちのめされ、半殺しにされてされてしまったのです。この男の姿の中に私たち罪深い人間の姿が示されています。まず、私たちの前には、いつも選ぶべき二つの道があります。一つは神様に従って歩いて行く正しい道です。もう一つは、自分勝手に歩いて行く罪(自我)の道です。そして、その道は「下って行く道」なのです。エリコは地中海より250m低い所にあった町です。聖書の中で、「下る」という言葉が出て来ると、多くの場合(すべてではありません)、あまりよくない意味があります。アダムがエデンの園で罪を犯して以来、人類の歴史は常に下っていると言っても過言ではありません。自分では、教養を身に付け、修養して向上していると思っていても、神に従わない道は常に下っているのです。

 そして、その道は曲がりくねった罪の道です。しかも、その道のあちらこちらに私たちに襲いかかる悪魔(サタン)が待ち構えているのです。自己中心のわがままな道は、最後には自分を滅ぼすことになるのです。この旅人は自分の持ち物を奪われて、着物を剥ぎ取られて、その上、殴られて半死半生の状態で道端に倒れています。私たち人間の姿がここにあります。もう自分ではどうすることもできないあわれな状態です。この傷ついて倒れている旅人は、放置しておけば間違いなく、死んでしまう絶望的な状態です。これは、あらゆる現代の人間の姿なのです。現代においても、世界の道端は霊的に略奪され、傷つき倒れて横たわっている人でいっぱいなのです。これがこの世の現実なのです。

●「足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。 」(イザヤ書1:6)

●「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ書7:24)。

●「あなたの傷は癒しにくく、あなたの打ち傷は痛んでいる。」(エレミヤ書30:12)。


 あのパウロのことばは、パウロだけでなく、世界中のすべての人の心からの叫びなのです(たとい、自分で気づいていなくても)。あの使徒パウロをして、「私は本当にみじめな人間です。」と言わしめるほどに罪の傷は癒しにくいのです。このエリコに下る道で強盗に襲われた旅人にあるものは、《孤独と不安と恐れ》であり、《絶望と悲しみ》であったのです。人のために何か良い行いをしようとする前に、自分自身が救われなければならないみじめな罪人であることを、徹底的に知らなければ、キリストの十字架の深い意味も知ることができません。だれも、そこまで深刻に考えなくてもと考えている方も多いと思いますが、これが人間の本当の姿なのです。

【2】祭司とレビ人。
 この二人は旅人が道端で倒れて苦しんでいる姿を見て、うめき声を聞きながら、向こう側をそっぽを向いて行ってしまいました。これは、愛のない冷たい人たちです。祭司は、エルサレムの神殿で神様に仕え、人々を助ける人であったのです。レビ人というのは祭司の手伝いをして、やはり人々を助ける役目の人であったのです。しかし、神殿で神様に仕えていた彼らが、いったん自分たちだけになってエリコへ下る道を急いでいた時に、苦しみ呻いて助けを求めていたその旅人を見ながら、見て見ぬふりをして、通り過ぎてしまうのです。この祭司とレビ人の中にいざという時には頼りにならないこの世のものの姿を見ることができます。この世の中には、まことの愛というものがいかに稀であり、少ないものであるかを示しています。

 これは、この世の宗教家だけに限ったことではなく、学校の先生、医者、政治家であるかもしれません。彼らは、あまりにも利己的で、またあまりにも多忙なために最小の援助さえ提供しようとしなかったのです。彼らは、「私とは関係のないことだ。このようなことにかかわっている時間などない。」と心の中で考えたかもしれません。ですから、祭司もレビ人も「この人を見ると、向こう側を通り過ぎて行った。」のです。この世は、本質的に自己中心的であり、これが人間の本当の姿なのです。この世の多くの宗教をよく調べるならば、利己的で愛のないものであることが分かります。大部分がお金や利権によって動いているのです。
 
 ”本当に利己的でない純粋な愛を見出すのは、ゴミ箱の中にダイヤモンドを発見するよりも困難なことだ!”と言った人がいますが、この世の中に真の愛を求めても決して満たされることはないということも事実なのです。しかし、この祭司やレビ人を私はさばくことができません。なぜなら、これは、自分自身の姿でもあると気づかされるからです。私は、今日まで幾度となく、困っている人、傷つき悩んでいる人、助けを必要としている人の側を通り過ぎてしまったことでしょうか。あなた自身はどうでしょうか。「自分には愛がある人間だ。」と言い切れる自身がおありでしょうか。私たちは、他人のことは「あの人は愛がない冷たい人だ。」と「簡単に口では言えますが、他人の中にあるものは、また自分の中にもあるということも事実なのです。 

【3】親切なサマリヤ人。
 最後に、その見捨てられた男のところにさまりや人がやって来ました。この人は、家畜に乗って来たのですが、彼のうめき声を聞いた時、心から同情して、その傷ついた男の人の所へ駆け寄ったのです。このサマリヤ人は、その哀れな旅人の前に跪いて、じっとその傷口を見ました。そして、自分が持っていたぶどう酒で傷口を消毒し、オリーブ油を注いで包帯をし、自分が乗って来た家畜にその男を乗せて、わざわざ宿屋まで連れて行って、自分のお金を取り出して、「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら私が帰りに払います。」とまで言いました。彼は、持っているすべてを与えて、この見知らぬ旅人に対して自分の命の危険を冒してまで愛と親切の限りを尽くしました。”人生は出会いで決まる”ということばがありますが、この旅人がこのサマリヤ人に出会ったことは本当に幸いなことでした。

 そして、この「親切なサマリヤ人」の姿こそ、実はイエス・キリストご自身の姿なのです。サマリヤ人がこの傷ついた旅人の所に来てくださったように、イエス・キリストは、私たちを罪と滅びから救うために、大変な犠牲を払って天から来てくださったのです。そして、その33年間のご生涯の最期に十字架の血潮というぶどう酒で私たちの罪の傷口を洗い、聖霊の油をもって私たちの罪の傷を覆ってくださった御方なのです。イエス・キリストは、私たちを責めることもなく、ただ黙って十字架でご自分の血潮を流して、私たちの罪を赦し、「アガペーの愛」によって包帯をしてくださったのです。このサマリヤ人の自分を忘れ、自分の危険を顧みることもしない打算のない愛はキリストの純粋な愛を示しています。

 このサマリヤ人が、そのお金も労力も、物も時間もすべてを犠牲にして旅人を助けたように、キリストは私たち全人類のために十字架で、ご自分の命までも犠牲になさったのです。傷の手当てをし、介抱する姿 ----- ここに、キリストの無限の愛と優しさと思いやりとが余すところなく、表されています。”包帯を巻いてあげられなければ、他人の傷口に触れてはならない。”とのことばを読んだことがあります。私は、他人の傷口に触れてかえって、結果的にその傷口を広げてしまうことのある愚かな人間です。しかし、イエス・キリストの愛は違います。イエス・キリストは、十字架の血潮に染まった愛の包帯で私たちの傷口を覆ってくださるのです。

●「愛は多くの罪を覆うからです。」(1ペテロ4:8)。

 この例え話の中でイエス様はわざとユダヤ人と敵対関係にあったサマリヤ人(ユダヤ人と異邦人の混血の民)を登場させました。このような敵対関係は、その当時、」もう400年以上も続いていたのです。そして、その憎しみの関係は、イエス様の時代にもまだ続いていたのです。ですから、このサマリヤ人がユダヤ人にした親切は信じられない出来事であったのです。このサマリヤ人は傷つき倒れているユダヤ人にユダヤ人を見て、「かわいそうに思い」ました。この「かわいそうに」ということばは、同情を表わすギリシャ語の中でも、一番強い表現で、”内臓が揺り動かされる”というような深い同情を意味することばなのです。そして、彼はその愛を実際の行動にによって表わしたのです。ただ、彼は外国人を愛したのではなく、400年に亙る憎しみの歴史を越えて、敵に対して真の隣人となったのです。

 私たち人類もまた、神に対して長い間敵対していた者たちであります。しかし、イエス・キリストは、そのすべてを乗り越えて、無条件で私たちを一方的に愛してくださいました。これは、まさに「人知をはるかに越えたキリストの愛」(エペソ3:19)です。この親切なサマリヤ人の姿の中にキリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」のすべてが表わされています。十字架はそのクライマックスです。私たちは、あの強盗のように人を傷つけたことはないでしょうか(言葉でも、精神的にも)。私たちは被害者意識を強く持ちやすいのですが、自分が加害者になっていることを忘れやすい者です。また、祭司やレビ人のように助けを必要としている人の側を故意に通り過ぎたことはないでしょうか。私たちは、自分が傷つき倒れているみじめな罪人であることを素直に認めているでしょうか。

 私たちは、主から遠く離れ過ぎていて、助けを求めることができない時、あのサマリヤ人のようにイエス様の方から近づいてくださるのです。心のうめき声を聞いてくださるのです。イエス・キリストがあなたを助けるために、天から下って来られました。私たちの声にならないようなかすかな呻き声をも聞いて、同情して近づいてくださるのです。どうか、キリストが差し出しておられる愛の御手を拒まないで下さい。そして、キリストは例え話の最後に、「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)と言われました。キリストを信じて救われた人は、今度はほんとうに隣人を愛する力が与えられるのです。真の愛は「私の隣人とは誰か。」と問わしめるような冷たいものではありません。

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」

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