聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★ストレスからの解放

2007-05-03 | 「人生の幸せと平安」
           
                      
 今日、私たちは多くのストレスを感じながら生きています。どなたにもそのような経験があると思います。調べてみて分かったことですが、ストレスとは、元来ラテン語でアクセントを強調する、高めるという意味があったそうです。---------これが17世紀に物理学に取り入れられて、物体に加えられた外部からの圧力を「ストレス」と言うようになったのです。ストレスによって、物体は自分の弾力性によって緊張したり、歪んだり、変形したりします。この現象が生体にも起こることを生理学的に説明したのがハンス・セリエという人だそうです。

 彼は、動物に寒さや恐怖を与えると、延髄と大脳皮質の間にあって体の感覚と自律神経を維持する機能を持つ間脳から、脳下垂体に刺激が伝わり、そこから分泌された下垂体ホルモンが副腎を刺激して、ステロイドやアドレナリンの分泌を増加させることを証明しました。このアドレナリンは交感神経を興奮させる作用があるので、それによって血管が収縮して顔が青くなり、血圧が上がり、心臓の動悸が早くなり、筋肉が緊張してふるえが起こるのです。これがストレスによって起こる生体の緊張状態です。また、眠れなくなったり、いらいらしたり、落ち込んだりするというや精神状態も、ストレスによって起こるというのです。

 では、ストレスを引き起こす原因にはどのようなものがあるのでしょうか。大きく二つに分けられるようです。一つは、人間関係の消失や破綻です。たとえば、配偶者の死、離婚、家族でのトラブル、職場でのトラブルなどが上げられます。二つ目は、生活や環境の激変です。たとえば、単身赴任、転職、職場の配置転換、失業、倒産、リストラ、多額の負債‥‥などが上げられます。これらを別のことばで言えば、今まで信頼していたものや依存していたものを失ったり、疎外されたりした体験、あるいはこれまで身につけて来た知識や経験や力では対処できなくなった体験などが、ストレスの原因になるということのようです。

 その結果、これからはひとりで自分を守り、戦わなければならないという思いから来る不安、恐怖、緊張が、様々な病気を引き起したり、悪化させたりするのです。したがって、「ストレスからの解放」は、言い換えると、ストレスによって生じる不安や恐怖、緊張などからの解放であるということができます。そのために今日では、精神安定剤などの薬物療法、自律訓練法、運動・体操法などのいろいろな方法が用いられています。けれども、このような解決法は、すべて人の知恵や知識によって心身に働きかける方法ですから、限界があります。しかし、これらとはまったく異なる、ストレス解決の方法があります。それは、神様のちからによって、たましいと霊に作用するストレス解決法です。

●「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。」(詩篇55:22)。 

 これは、かつて、ダビデが書いた詩篇の中の一節です。彼は自分の敵だけでなく、信頼していた味方、しかも親友からもいのちを狙われたり、様々なストレスを受け、その結果恐れおののき、戦慄が身を包むという思いを味わいました。しかし、そのときダビデは自分の力で戦ったのではなく、生きて働いておられる神様に助けを求め、神様に身をゆだねました。そして、ダビデは自分の経験を通してこのように告白し、神にゆだねることを勧めているのです。彼は、神様を心から信じ、その主なる神様に全き信頼をおいたのです。彼は、自分の体験から、神様は真実な方であり、より頼む者を決して見捨てることなく、苦しみ、恐れ、悩みから救ってくださると確信していたのです。

 それでは、神様に信頼するとはどういうことでしょうか。私たちはある人に信頼するときには、その人の何に信頼するでしょうか。その人の社会的地位にでしょうか。財産にでしょうか。権力にでしょうか。それとも、知識にでしょうか。私たちがある人をに信頼するのは、そのようなものにではなく、その人の誠実さ、真実さなど、すなわち、その人の人格に信頼するのではないでしょうか。しかし、神様は私たちの目には見えず、触れることもできず、人間の五感では存在を確かめることのできない方です。ですから、人は目に見えない神様が人格を持っておられるかどうかということを考えようともしないのです。

 まして、そのような神様に信頼するなどというこということは、愚かしいことのように思われる方がいたとしても当然かもしれません。確かに神様は私たち一人一人には見えません。けれども、私たちは神様が、私たち一人一人に何をしてくださったかを知ることによって、神様の人格(personality)を知ることができます。神様が私たち一人一人に何をしてくださったかは、聖書にはっきりと書かれています。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。
 
 神様は、私たち一人一人を、罪による滅びから救い出して、永遠のいのちを与えるために、神の御子イエス・キリストをこの世の遣わしてくださいました。そして、御子イエス・キリストは十字架にかかられて罪人である私たちのために身代わりに死んでくださいました。これは、今から約2.000年前に、歴史上に実際に起こったことであり、旧約聖書にも預言されていたことです。神様は、目に見えるかたちではっきりとご自身の愛を私たち一人一人に表してくださいました。

●「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。」 (ヨハネの福音書20:19~20)。

 イエス様が捕らえられて十字架につけられたことは、弟子たちにとっては大変なストレスであったことは間違いありません。日曜日の夕方のことです。弟子たちは、信頼していた主イエス様を失い、その上、自分たちも捕らえられるのではないかという不安におびえ、戸を閉めて家の中に閉じこもっていたのです。そこに復活されたイエス様が現われてくださったのです。そして、「平安があなたがたにあるように。」と言われました。弟子たちは、このように復活のイエス様にお会いして初めてイエス様がどなたであるかが分かり、彼らの開かれた霊には、イエス様から平安が与えられ、それによって恐怖が取り除かれ、心から喜ぶことができたのです。

 このように、私たちが神様の人格に信頼することは、とりもなおさず神の御子イエス様の人格に信頼することなのです。そして、イエス様は私たちの恐れや不安、苦しみや悲しみを、ご自分も味わってくださるほどの愛の御方なのです。その一例がゲッセマネの園におけるイエス様の祈りにも見られます。

●「そのとき、イエスは彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。』 ・・・・・」(マタイの福音書26:38~)。

 神であるイエス様が、人となって私たち人間が味わうのと同じストレスを味わわれたのは、私たち人間の弱さを知るためであったのです。イエス様の人格とは、このような私たちに対するあふれるばかりの愛とあわれみに富むものです。このような愛と真実そのものの人格をお持ちのイエス様に私たちは信頼するのです。大きなストレスは、私たちに重荷となってのしかかって来ます。しかし、主イエス様は次のように私たちに呼びかけてくださいます。

●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11:28)。
 
 今日も、多くの方が人間関係の破綻や生活環境の激変などから生じる不安や緊張、恐れの重荷を負って悩み苦しんでいます。イエス様はそのような一人一人に対して、このように優しく呼びかけておられます。主イエス様に心から信頼して、助けを求め、重荷を主にゆだねるとき、愛とあわれみと真実に満ちたイエス様は、このみことばの約束通り、私たちを重荷やストレスからも解放してくださるのです。もちろん、クリスチャンと言えども、この地上にある限り、ストレスを全く感じない生活というのはあり得ないのです。でも、ことばでは表すことのできない「平安」が与えられるのです。真の意味では、苦しみ、涙と悲しみ、重荷とストレスから完全に解放されるのは、天国においてであると言えましょう。

●「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。 」(ピリピ人への手紙4:6,7)

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★一年を回顧して神に感謝

2006-12-28 | 「人生の幸せと平安」
      
         

●「わがたましいよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103:2)。

あっという間に、一年が過ぎ去ろうとしています。 今年もまた、どこでも恒例になっている「忘年会」が各地で行われていることでしょう。「この一年間の嫌なことを全部忘れてしまいましょう‥‥!!」ということなのでしょうか。お酒を浴びるように飲み、二次会、三次会もやるので巷は酔っ払いで溢れています。毎年、この時期になると年中行事のように普通に行われていますが、何かおかしいとは思われませんか?お酒を飲んで忘れなければならないほど、嫌なことばかりが多い一年だったのでしょうか。しかし、聖書は「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」と勧めており、年を忘れる「忘年会」ではなく、「神に感謝する」ことを教えているのです。神の恵みを一つ一つ感謝することは幸いなことであると思います。

●「そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、『ここまで主が私たちを助けてくださった。』と言った。」(Ⅰサムエル7:12)。

 旧約聖書のこの箇所は、預言者サムエルの指導の下において、敵であったペリシテ人に対するイスラエルの大勝利が記されているところであります。ここで、「エベン・エゼル」ということばに注目していただきたいのですが、”エベン”は「石」の意であり、”エゼル”は、「助ける」ことを意味しています。この時代、イスラエルの民は、神の臨在の象徴とも言える「契約の箱」を失って、20年の長い間敵の圧制に苦しめられ、敗北の生活を味わっていたのです。そのとき、民は心を一つにして、自分たちの罪を悔い改め、主を慕い求めて熱心に祈ったのです。

 イスラエルの民の切なる飢え渇きと悔い改めによって、イスラエルに大勝利がもたらされました。そして、その勝利の記念として、「記念の石」を建て、そこを「エベン・エゼル」と名づけたのです。この勝利は、決定的な勝利であったのです。そして、この勝利は神の小羊をささげた後に来た勝利であります。これには、大きな霊的な意味があるように思われます。神の小羊、イエス・キリストの十字架の贖いこそ、私たちの人生を決定的な勝利へと導くものであります。そして、「ここまで、主が私たちを助けてくださった。」と言って、サムエルは神様にすべての栄光を帰したのであります。私たちも、そのように主に栄光を帰し、感謝できたら幸いです。

 人生の節目節目で、神様に感謝をささげることの出来る人生は幸いではないでしょうか。私たちを感謝の生活に導くものは、イエス・キリストの十字架と復活以外に決してないと言っても過言ではありません。なぜなら、旧約聖書で何度も預言されてあるとおりに、主イエス・キリストは私たちの罪のために身代わりとなって十字架で死んでくださり、しかも、三日目に復活されたからです。今年も、もう間もなく年の瀬を迎えようとしています。いろいろなことがあった一年でした。しかし、この一年を振り返るときに、イエス・キリストを信じる者にとっては、すべてが感謝であると言い切ることができるのです。

 そして、間もなく新しい年を迎えようとしています。この世界は、グローバルな視点から見ると、地球環境の悪化と異常気象による災害の多発、不道徳の蔓延と犯罪の増加など、何もかもが悪い方向に加速して行っているように見えます。しかし、キリストを信じる者にとっては、常にどのようなことがあっても感謝と希望の心を持って生きることが出来るのです。実は、このエベン・エゼルはかつては敗北した場所なのです。そして、その同じ場所で今度は大勝利を得たのです。罪を捨てて、真剣に神を求めるとき、敗北の場所が、永久の勝利の場所となるのです。罪のゆえに、かつては敗北を味わった場所であっても、あなたの救い主イエス・キリストを信じる時に、その同じ場所が勝利の場所となるのです。

 この聖書の箇所は、旧約時代のできごとであり、新約時代にそのまま当てはめることはできません。戦争に勝利したからと言って喜ぶ時代ではありません。クリスチャンは、決して「戦争」を美化したり肯定したりすることはできません。しかし、霊的な意味においては教訓を与えられる箇所でもあります。罪のゆえに何の楽しみも平安もなかった寂しい孤独な家庭が、イエス・キリストを信じて勝利と喜びと希望にあふれた家庭となることがあり得るのです。周囲は何も変らなくても、自分自身が罪を悔い改めて、キリストを神じるときに、自分自身が変わるので、その同じ場所が祝福の場所となるのです。そして、日々「ここまで主が私たちを助けてくださった。」と言って感謝することのできるのです。

●「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に十分あります。」(マタイ6:34)。

 これは、主イエス様が語られたことばですが、文語訳では「一日の苦労は一日にて足れリ。」となっています。神様は私たちが一日を周期として生きるように造られました。その一日一日を精一杯生きれば良いのです。ですから、一日の労苦が終わると、太陽が沈んで夜となり、心身をともに休めて、また、次の日、太陽が昇り一日が始まるのです。ですから、神に信頼するならば、明日のための心配はしなくていいのです。もし、私たちが明日のことや何年も先のことを心配していたら、その心配事で押し潰されてしまいます。

 私たちは、来るべき年の入り口に立っています。来年はどのような年になるのか、だれも分かりません。しかし、私たちは何も心配する必要はないのです。私たちは、このように考えることができます。一年は365日から成っています。そして、毎年365通の主イエス様からいただく手紙があります。そして、一日に一通づつ開封するのです。その開封された手紙には、その日の予定やその日の労苦だけが書いてあります。明日の手紙は、また明日になってから開封するのです。そして、昨日の手紙のことはもう考えなくてよいのです。昨日と同じ重荷はもう二度と負うことがありません。

 「今日は今日自身の荷物を支える小さな橋です。もし、明日の荷物を上積みするなら、橋はつぶれてしまいます。」と言った人がいます。これは、人間のことばですから、適切な例えかどうかは分かりませんが、私たちを「なるほど!」と納得させるものがあります。もし、私たちが明日のことや将来のことをいつも心配して生きるなら、今日生きる力を失ってしまいます。明日の労苦のためには、また明日神様が力を下さるのです。ですから、明日のことや来年のことは主にゆだねて心配しなくてもいいのであります。しかし、一つだけ条件があります。それは、神を第一に考え、神との正しい関係を保つことです。それが、キリストを救い主として受け入れることなのです。

 また、このように言った人もいます。「神様は、一人一人に365個の高価な贈り物を用意して、ちょうど種蒔きが種を蒔くように、毎日、天からその贈り物を撒き散らそうとしているようなものである。」と。毎日、十分な労苦がありますが、また、贈り物もあるのです。そして、その人に最も必要な贈り物を神様は毎日用意して天から与えてくださるのです。ある人には「慰め」、ある人には「力」、ある人には「健康」、また、ある人には「病気の中にあってもそれに耐える力」、ある人には「希望」、ある人には「赦し」、ある人には「励まし」などを与えてくださいます。

 明日に向かって進むことは、未知の世界の中へ導かれることでもあります。しかし、主が共におられることを覚えるなら平安があります。一歩一歩、信仰によって前進することです。神様は、私たちが一歩進むごとに道を開き、また、新たな道を示してくださるのです。旧約時代のあのアブラハムも、自分があのモリヤの山に来るまで、神が犠牲として備えられた雄羊を見ることはありませんでした(創世記22章)。神様は、必ず必要なときに必要なものを備え給う御方なのです。ですから、この一年を回顧して神に感謝をささげ、間もなく迎えようとしている新しい一年も、一切主にゆだねて信仰によって歩むことが出来たら幸いです。

●「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」(エペソ人への手紙5:20)。

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★あなたも疲れていませんか?

2006-12-04 | 「人生の幸せと平安」



●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイの福音書11:28,29)。

  現代の日本は、文明の利器があふれ、物や食物も豊富にあり、世の中は非常に便利になって一見幸せそうに見みえますが、果たしてあの戦後の貧しかった時代よりも幸福になったと言えるのでしょうか。私の目にはあまりにも物質的で文化的な生活のゆえに、ストレスが溜まり、かえっていつも何かに追われているような印象すら受けるのですが、これは私だけでしょうか。現代人はあまりにも多忙な生活のために、みな疲れきってているようです。60数年前の戦争中や、もっともっと貧しく大変な時代はあったわけですが、それらの時代に比べても、今の時代の方が確かに生活は豊かになりました。それなのに、なぜか今はみな神経を磨り減らして疲れているのが現実であります。自分で自分の生命(いのち)を絶つ自殺者の数も大変に多く、すでに日本人男性の死因の上位を占めていると言われています。

 みなさんはいかがでしょうか。そんな深刻な状態ではないとしても、この世の中の動きが益々スピードアップして、社会の中の歯車の一つに組み込まれてしまって、そこから抜け出すことも出来ず、何か精神的にも肉体的にも慢性的な疲労感を覚えておられるという方が多いのではないでしょうか。そういう思いで、冒頭に記した「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」という聖書のみことばを読むと主イエス様のおっしゃったお言葉が心に染みるように入って来るのではないでしょうか。朝起きた時から、「あ~あ、今日はゆっくり休みたいなあ~!」。「もう何もしないで、のんびり一日を過ごしたい‥‥」と思うことはありませんか?
 
 しかし、「休む」ということは、一体どういうことでしょうか。ただ何もしないでのんびりしていたら、それでいいということでしょうか。私たちも本当のところ、どうでしょうか。本当にやることもなく、何もしないでいいと言われて幾日も幾日も休んでいるとしたら、いや、ず~っと休んでいていいと言われたら、どうなるでしょうか。確かに人間には身体的な休養・休息が必要であるのは当然のことです。「何もしないこと」もとても大事です。しかしそれはせいぜいある期間のことで、本当にず~っと何もしないでいたら、きっと別の不安に襲われて来るのではないかと思います。繰り返しますが、体の疲れも辛いものですし、それに対する休養は必要です。

 しかし本当に人が「疲れ」を覚えるのは、別のところに理由があるのです。例えば、目先のことを例に上げても、身体的にはきついけれども、自分が何に向って努力したり、取り組んでいるのかがはっきりと分かっている時と、身体的には楽だけれど、何が目的(目標)なのか自分でも分かっていない時とでは、どちらが疲れるでしょうか。それは明らかに後者であります。この「休ませる」と訳されたことばのもともとの意味は「元気づける」とか「立ち上がらせる」という意味があると言われています。あの宗教改革者のルターは、そのドイツ語訳聖書で、この個所を「エアクヴィケン」(立ち上げらせる)と訳しているそうです。

 「何もしないで、ゆっくり休める」ということが、私たちを休ませるのではないのです。何も重荷がないことが楽なのではないのです。むしろ肉体的に辛く、重荷があっても、自分の人生の目的がはっきりと分かっているときにこそ、私たちにはその疲れや重荷を軽減させることもできるし、生きる力も与えられるのです。確かにイエス様のご生涯を聖書から読みましても、立派な豪邸の寝室でゆっくり休まれたことで元気を取り戻したというような場面はまったくありませんでした。イエス様の周りには、いつも多くの心や体に病いやわずらいや痛みを負った人々が集まっていました。イエス様は、寝食を忘れるほどに忙しく、神から迷い出て疲れ果てている彼らのために神の僕のようにして働かれたのです。

 そうすると、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」という冒頭の言葉から受ける印象は、まったく違ったものになってきます。「わたしが負った重荷をあなたがたも負いなさい。重いけれど、逃げないで、中途半端にしないで、しっかりと担った時にこそ、困難ではあっても、本当の力があなたに与えられるのです。それこそ本当の安らぎなのですよ。」と、こういうことになるのではないでしょうか。もちろん、イエス様は、私たちの重荷を日々負ってくださる方であることは事実です。

 まず、私たちがそれぞれ日々神に生かされているという事実をはっきりと悟り、自分が今生かされている人生の意味と目的を明確に理解するならば、赤ちゃんが母親の愛の腕の中に憩うように、神の愛の懐(ふところ)に憩うことができるのです。神に立ち返ってこそ、私たちには、真に生きる力と平安が与えられるのです。人間は、私たちを生かしておられる神に信頼することもなく、はっきりとした価値観や人生の目的や意味も分からずに生きているところに根本的な問題と「疲れ」の原因があるのです。イエス・キイストはそのように疲れ果てている私たちのために天から下って来られ、人の姿をとられ、その生涯の最後に私たちの身代わりとなって十字架で死んで、よみがえってくださったのです。

●「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネの福音書14:27)。

●「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主(神)よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」(詩篇4:8)。

●「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ書4:6,7)。 


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★明日のための心配は無用

2006-11-11 | 「人生の幸せと平安」



●「だから、あすの心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイの福音書6:34)。
  
 明日のことが心配で夜も眠れないというようなことは多くの人が経験することではないかと思います。しかし、いくら寝ずに心配したところでどうにもならないことも事実です。どうにもならないのに心配せずにいることができない。これは、私たち人間だれもが持っている弱さであり、また、神を信じることができなくなった人間の罪の結果でもあるのです。しかし、主イエス・キリストは「あすの心配は無用です。」と力強く言われたのです。その理由は、愛と全能に満ちておられる神があなたがたのことを心配してくださるからです。神を信じると言うことは実にこのように神の愛のご配慮の中に入れられることなのです。

 イエス・キリストを自らの救い主と信じる人は神の子どもとなり、父なる神は神の子どもとされた私たち(クリスチャン)のことを慈しみ深い父親として心配してくださるのであります。神の子どものなすべきことは、日常生活の諸々のことを心配して日を過ごすことではなく、御父なる神を全幅の信頼を持って信じ、安心して神の御心にすべてをゆだねて生きることなのです。そのとき、一日一日の労苦は決して重荷とはならず、かえって主にあって喜びと感謝へと変えられるのです。神を信じる者の人生には平安と満足と喜びと永続する希望があります。神を信じ、イエス・キリストを救い主として信じる人生はこのような日を過ごす者となることなのです。

●「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」マタイの福音書6:25~26)。
 
●「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。」(マタイの福音書6:27~30)。

●「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイの福音書6:31~33)。


 人間は絶えず、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」と言って明日のことを心配して生きている存在であります。「衣・食・住」のことを心配するのは人間の常のことであります。そのように心配しながら日々を送るのが弱い私たち人間の姿なのです。心配したからと言って何一つ解決するわけでもないのに、どうしても心配しないで生きて行くことが出来ないのです。ここに、人間の神に対する不信仰があります。しかし、「あすの心配は無用!」と言って日々を安心して生きるためには、一つの条件があります。それは何かと言いますと、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」ということなのです。
 
 「神の国とその義とをまず第一に求める」とは、どういうことでしょうか。それは、できるだけ分かりやすく言いますと、今までの神に背を向けた罪の生活を悔い改めて、イエス・キリストを通して神に立ち帰えり、神との交わりを回復することなのです。幼子は母親の腕に抱かれて安心しきって眠っていますね・・・。それと同様に、私たちは、神の愛の懐(ふところ)に立ち帰るならば、神にすべてをゆだねて日々安心して生活することができるのです。人間が神に立ち帰ることができるために、神はご自身の御子をこの世に救い主として遣わされ、罪人である私たちの身代わりとなって、十字架で死んでよみがえってくださったのです。

 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」と、主イエス様は教えて下さいました。あなたを日々生かしておられる神を第一にして、その神に立ち帰るときに、神は、それに加えてこれらのもの、すなわち「衣・食・住」などの生活必需品などをすべてお与えになられるということなのです。これが神が定めた優先順位なのです。しかし、多くの人々はその優先順位を逆にして、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」を第一に考えて生きているので心配と不安でいっぱいになるのです。あなたもどうか、神様の愛の勧めを受け入れ、あなたのために十字架にかかって身代わりに死んでくださった救い主イエス様を信じて、心からの平安な生活を得る方となって下さいますように。
 
●「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)。

●「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。 」(ペテロの第一の手紙5:7)。

●「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ書4:6,7)。

●「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」(詩篇4:8)。

 
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★人生の本当の力は何か!

2006-10-18 | 「人生の幸せと平安」



 人間は、だれでも生きるための力(force、power、might、enegy)を求めています。どうしても、生きて行くためには力が必要なのです。ですから、「力」と名のつく言葉を並べて見るときりがありません。そして、人はそういう「力」と名のつくものを好むのであります。そして、「力」は日常生活のあらゆる場面や分野にわたって使われています。権力、体力、能力、学力、視力、聴力、握力、筋力、脚力、財力、精神力、理解力、集中力、判断力、指導力、免疫力、治癒力、技術力、迫力、活力、威力、火力、出力、資金力、電力、水力、労働力など、数えればきりがありません。政治や国家間でも、経済力、戦力、兵力、核兵器の力、政治的圧力、支配力、統率力‥‥etc。これらはほんの一部だけを無秩序に並べただけであります。

 これらは、物理的な面においても、日常生活においても、対人関係においても、教育の現場でも、医学の世界で、政治の世界でも、あらゆる分野で用いられているものの中から、僅かなものを記しただけです。そして、最近は、辞書にないような新しい言葉も使われるようになっています。最近は、老人力などという言葉も耳にします。それでは、神のみことばである聖書には、「力」について何を語っているのでしょうか。聖書の言葉を示しても、最初から納得される方はまずないのではないかと存じます。人間の考えと比較すると、あまりにもその相違が歴然としているからであります。

●「十字架のことば(キリストの十字架の福音)は、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。 」(Ⅰコリント人への手紙1:18)。

●「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。 」(ローマ人への手紙1:16)。

●「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」(Ⅰコリント人への手紙1:21~24)。

●「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。 」(Ⅰコリント人への手紙2:4,5)。


 新約聖書の中で、パウロが語っているこれらの真理をみなさんは理解できるでしょうか。初めて読まれる方は、何のことかさっぱり分からないという方も多いのではないかと思います。聖書が語るところによれば、人類の始祖アダムがエデンの園で罪を犯した時以来、人間はみな(もちろん、私も含めて)罪を犯すようになり、すべての人は罪人であると断罪しています。そして、その罪の結果、今日のような混乱した無秩序な世界になってしまったのであります。頻発する殺人、いじめを苦にした子供の自殺など、悲しい事件も連日報道されています。また、多発する凶悪な犯罪、不道徳で淫乱な読み物やTV放送、また、インターネットの世界もしかりであります。

 聖書は「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることが出来ず・・・。」(ローマ3:23)と語っていますが、人間は本来神の栄光を現す者として造られたのですが、罪を犯すことによって、神の栄光を受けるにふさわしくない者になったのであります。もし、神の人類に対する介入がなければ、人類は永遠の滅亡を刈り取り、永遠の地獄(火の池)の中で苦しまなければならない者となったのであります。しかし、愛なる神は、このようなあわれな罪人となってしまった人間を救うために救いの道を備えてくださったのであります。それこそが、神ご自身が遣わされた御子イエス・キリストの十字架の福音なのであります。これこそが、神が現された「神の力」なのであります。

 神の御子は、処女マリヤの胎に聖霊によって宿られ、あのユダヤの寒村ベツレヘムの馬小屋で誕生され、やがて30歳からの3年半の公生涯には、多くの愛と力を伴なった奇蹟を行われ、ご自身が神の御子であることを示された後、33歳の時に、全人類の罪のために身代わりとなって十字架で死なれた御方なのであります。ここに神の真実の愛が示されたのであります。だれでも、このキリストをご自分の個人的な救い主と信じるなら、罪と永遠の死後のさばきから救われるのであります。これ以外に、だれも救われる道はないと聖書は断言しています。神が用意してくださったこの十字架と復活こそ、まさに「神の力」なのであります。上記した三つの聖句は、みなこの十字架の福音こそ「神の力」であると言っているのであります。

 人生のすべての本当の力の根源は、この「キリストの十字架の福音」であり、これこそが「神の力」なのであります。この神の提供している福音を無視して、いかに人類が努力しても、世界の有能な指導者が知恵を出し合って協議しても、山積する諸問題は解決することは決してありません。また、医学がいかに進歩しても、それによって世界から病気を亡くすることはできないし、死の問題を解決することもできないのであります。地球の温暖化は益々進み、地球環境は悪化の一途を辿り、異常気象による地球規模の災害は益々拡大し、エゴイズムの塊となっってしまった人間は、世界中の賢者が集まって知恵を出し合っても、諸問題を解決することはできないのであります。

 しかし、キリストのい福音を信じて神に立ち返るなら、あなたの人生には希望があり、死後も永遠の天国に入ることができるのであります。そして、この地上の生涯においても、神から与えられる恵みと力によって生きることができるのです。パウロは、次のような確信に満ちたことばを語っています。どうぞ、これらのことばに耳を傾けてください。神に奉仕することも、神の恵みによる力によって行うことができるのであります。実に、生きる力は神の前に自らの罪と弱さを認め、神の力であるキリストの福音を信じ、すべてを神に信頼して生きる者に与えられるのであります。一つの国家の力においても、核兵器などを保有することによって力を誇示するようなことは神の前には愚かなことであることは言うまでもありません。

●「私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。」(エペソ人への手紙3:7~9)。

●「『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。 」(Ⅱコリント人への手紙12:9,10)。

●「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。 」(ピリピ人への手紙4:12,13)。

●「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ書40:28~31)。


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★心の空洞を満たすもの

2006-08-31 | 「人生の幸せと平安」
        


●「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』」(創世記3:9)。
  
 終戦直後は、日本中が飢餓の時代でした。誰も彼も日本人みんなが、来る日も来る日も空腹を満たすことだけを求めてさ迷い歩いたのです。そして、経済成長の時代には、物質的な豊かさを求めて一生懸命に働きました。物質的に繁栄し、豊かになることが幸福とバラ色の未来を約束するものであると信じたからです。そして今、日本人は物質的に恵まれ、食べたいものを食べ、したいことは何でもできるような飽食の時代を経験しているのです(しかし、今日世界の各地で一日に何万人もの子供たちが飢餓のために死んでいることもまた事実です)。

 しかし、日本人の多くは物質によってお腹を満たすことだけが人生の幸せではない、「心の満たし」こそが必要であることに気づき初めているのです。ある人は、今の時代を「心の時代」と呼んでいます。心の時代に入った日本人は、音楽や絵画などの芸術やスポーツ、旅行などによって満たされた人生を送ろうと思って、いろいろ試しています。そして、お年寄りたちは、自分たちが若かった頃、貧しさのためにできなかったことを楽しもうとしていろいろなことを試し、挑戦していることが分かります。若者たちもまた、常に新しい趣味や娯楽やレジャーを求めてあちこちと歩きまわっているのです。

 しかし、食べ物や着物によって埋めることのできなかった心の空洞は、果たして、芸術やスポーツや旅行などによって埋めることができるのでしょうか。あなたは、心の中に何ものによっても埋めることのできない、ぽっかりと空いた空洞を感じることはないでしょうか。「人生の意味が分からない。死にたい。」と悲痛な叫びを上げている若者が日本中にあふれているのです。若者だけでなく、定年を迎えた高齢者も毎日のように自殺しています。何と、日本の一年間の自殺者は3万人以上にも達しているのです。隠れた自殺志願者は、その10倍もいるのではないかと推測されています。人々の心は非常に病んでおり、いろいろな歪みが生じているのです。

 孤独感や寂しさを紛らわすために、主婦が台所の片隅でお酒を隠れて飲むところから名づけられた「キッチンドリンカー」が増えていると言われています。 最近では核家族化が進んでいるため、母親が1人で育児や家事に追われることも少なくないのです。また、育児に関して相談できる人もなく、マニュアル本しか頼ることが出来ずに、育児ノイローゼになる若い母親も急増しています。それと共に、子育てが終わって目標が無くなったための喪失感、家庭内の事情によるストレスなど、これらのことが原因でお酒で空虚な気持ちを解決しようと飲み始めるパターンで20歳代後半から50歳代の主婦に多いと言われています。この日本は今、一体どこに向かって進んでいるのでしょうか・・・・。

 あの有名なパスカルは、「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は創造者である神以外のものよっては埋めることができない。」と言いました。真の神(創造者)との交わりによってしか埋めることのできない私たちの心の空洞を埋めて下さるために、神の御子イエス・キリストは天から人となって下って来てくださいました。そして、神と私たちの交わりの障害となっていた人間の罪を取り除くために、罪人の身代わりとなって、十字架の上で神のさばきを受けてくださったのであります。神が遣わされた救い主であられるご自身の御子イエス・キリストだけが、あなたの心を喜びと平安と希望で満たすことのできる御方なのです。

 神は創世の初めに、人(アダムとエバ)を造られ、「エデン(歓喜)の園」を設け、人が住むために必要なあらゆる環境を整えられ、そこに彼らを住まわせられたのですが、彼らはサタンの誘惑に負けて、神のご命令、すなわち「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16,17)との禁令を破ってしまったのです。そして、アダムとその妻エバは主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠したのです。そして、冒頭の聖書のみことばは、その時に神が人に語りかけられたことばなのです。

 「あなたは、どこにいるのか。」との神の語りかけは、神が盲目になって人間を見失われたのではありません。人間が神との交わりから脱落したので、愛なる神は人との交わりの回復を切に求められて、人に呼びかけて言われたおことばであります。聖書は、実に、人がもう一度神との交わりを回復するためにあらゆる面から記されているものであって、この長い長い聖書66巻のすべては神の人類に対する偉大な愛の手紙であり、人類救済のために神がどのようなご計画を立てられ、また、それを実現されたかを語っているのです。

 人類の歴史は、アダムの罪以来、神に対する反逆と罪の歴史であると断言しても過言ではありません。しかし、神はその神から離れてさ迷い、神に帰る道を捜し求めている人間を、今日までずっと捜し求め続けておられるのです。今日も、神はあなたの心に、「あなたは、どこにいるのか。」と語り続けておられるのです。そのために、神はご自身のひとり子イエス・キリストを人間の罪の身代わりに十字架につけて罰しなさったのです。この救い主イエス・キリストは、死後三日目によみがえられ、今も生きておられる御方なのです。どうか、神の愛を受け入れ、主イエス・キリストを信じてあなたの心が平安と喜びと希望で満たされたものとなりますように。

●「人の子(キリスト)は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカの福音書19:10)。

●「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることができません。」(ヨハネの福音書14:6)。

●「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 (ヨハネの福音書7:37,3
8)。

●「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネの福音書6:35)。


 あなたに必要なのは、「私は何をするか?」ではなく、「私はどこにいるのか?」を真剣に考えることではないでしょうか。神から遠く離れた危険なところにおられますか?それとも、救い主イエス・キリストを信じて、神様の近くにおられますか?神様の近くにいることこそ、心の空洞が喜びと平安に満たされた幸いな生活なのです。 旧約聖書の小預言書アモス書の中に次(下記)のような警告のことばがあります。パン(食糧)の飢饉よりも、もっと恐ろしいのは、「心の飢餓」すなわち、「主のことばを聞くことの飢饉」ではないでしょうか。今こそ、心を静めて聖書のみことばに耳を傾ける時ではないでしょうか。どうぞ、神のみことばで心が満たされますように。 

●「見よ。その日が来る。――神である主の御告げ。――その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」(アモス書8:11)。

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★重荷となる神と背負う神

2006-08-12 | 「人生の幸せと平安」
       
     
 
 ●「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼らは重荷を解くこともできず、彼ら自身もとりことなって行 く。・・・・・・・・胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。 わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。袋から金を惜しげなく出し、銀をてんびんで量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これにひざまずいて、すぐ拝む。彼らはこれを肩にかついで運び、下に置いて立たせる。これはその場からもう動けない。これに叫んでも答えず、悩みから救ってもくれない。 」(イザヤ書46:1~7)。
 
 この箇所には、「真の神」と「偶像」との違いがはっきりと書かれています。ベルとかネボというのは、ともにバビロンの偶像であり、これらは征服者の前に伏し屈み、これらの偶像は分捕り品の中に加えられて運び去られるというのです。征服者に負い、運び去られるバビロンの偶像の無価値なことを言っているのであります。これらの偶像は、民の重荷を負ってくれるのではなく、むしろ、民の重荷となってしまうというのです。真の神様は、「負う神。かついでくださる神。」であり、偶像というのは、「負われる神。かつがなければならない神。」であります。日本の多くの偶像の神々は、祭りのときに神輿(みこし)で担がれていますが、これは、何か日本の神々の無力さを象徴しているのです。 

 人間が作った多くの宗教は、人間の重荷を負ってくれるのではなく、逆に人間の重荷となるものが多いのです。多くの日本人は、ある信仰宗教に入ったために、心が安らぐどころか、その反対にそれによって苦しみ、大きな苦しみと負担を抱え込むことになるのです。ここで、「・・・胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。」と書かれているように、真の神様は母親の胎内にいるときから、白髪の老人になるまで、背負ってくださる神であるというのです。神は、私たちの人生の全生涯において、ご自身のみ力で責任をもって支えてくださる方なのです。何と偉大な愛に満ちた神ではないでしょうか。

●「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」(イザヤ書63:9)。

 イスラエルの民は、彼らの不従順のゆえにたびたび神の試みを受け、苦難と試練を通ったのですが、神は彼らと共に苦しみ、イスラエルの民の歴史の中で、ご自身の愛とあわれみを表してくださたのです。「昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」とあります。不従順なご自身の民に対して、神はこのようにわが子を背負い抱く母親のように真実の愛を示してくださいました。人間には、生きている限り必ず、苦しみがあり、悩みがあります。しかし、愛なる真の神は、その苦しむ人間の側に立って、いっしょに苦しんでくださる御方なのです。そして、私たちの生涯の間、私たちを背負ってくださるというのです。

●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11:28)。

 ここに、人生の重荷のゆえに苦しみ、疲れ切っている人たちを招いておられる神の御子イエス・キリストのおことばがあります。「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し。」との徳川家康の遺訓がありますが、波乱万丈に満ちた生涯を送った徳川家康の心中が察せられる重みのあることばではないでしょうか。現代の私たちも同じように、人生は苦しみと悩みに満ち、重荷を負いながら、遠い道を歩み続けているのです。孤独で寂しい道であります。そして、その行き着くところは「死」であることを考えると、人は不安と恐れに満たされます。その重荷は益々重く感じられるのではありませんか。しかし、イエス・キリストは、私たちの重荷も私たち自身もいっしょに負ってくださる方なのです。

 私たちの人生において最も大きな重荷は自らの「罪」と「死の不安」であります。しかし、主はこの耐え難い重荷を負って解決してくださる方なのです。神の人類救済の方法はただ一つ、ご自身の御子イエス・キリストの十字架の贖罪のみわざによるものであります。これ以外に救いの道はないと、聖書は明確に語っているのです。キリストは、全人類、すなわち私たち人間一人一人の数え切れないほど多くの罪をご自身が十字架上で身代わりに負って死んでくださったのであります。どうか、信仰によって、真っ赤な血潮に染まったイエス様の十字架を見上げて下さい。イエス様はあなたの身代わりとなられたのであります。これは、神話でもなければ、フィクションでもありません。歴史上の事実なのです。

●「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(Ⅰペテロ2:22~25)。

●「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ書53:6)。
 
●「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカの福音書15:4~7)。


 イエス様が語られたこの例え話において、この羊飼いは迷ってしまい、疲れ果てている羊を肩にかついで帰って来たのです。私はこの箇所を読むたびに、この羊飼いの愛と優しさに触れて感動を覚えるのです。この迷い疲れ果て、傷ついた羊の首に縄をつけてグイグイと引っ張ったり、杖で追い立てて来たのではありませんでした。優しく腕(かいな)に抱き、肩に担いで連れ戻したのであります。当時のユダヤの律法学者たちについて、イエス様は「彼らは重い荷をくくって、人の肩に乗せ、自分はそれに指一本触ろうとはしません。」(マタイ23:4)と言われましたが、今日の多くに宗教家は同じように疲れている人たちを勧誘し、彼らにさらに重い荷を背負わせるのです。しかし、イエス・キリストは、そのような人たちとはまったく違う愛に満ちた御方です。どうか、あなたも偶像ではなく、本当の真の神様の愛の中に安らぐ人生に導かれますように切に祈ります。

今、人生の重荷を負って孤独だと感じておられる方、このブログのカテゴリー「人生の試練と逆境」の中の「人生の悲しいとき、辛いとき」の記事(2004年12月3日)中、足跡(あしあと:footprints)という詩がありますから、ココをクリックしてみてください。
 
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★あなたは孤独ですか?

2005-10-30 | 「人生の幸せと平安」




  あなたがとても辛く苦しい時、また何か大きな過ちを犯してしまって周囲の人たちから冷たい視線を浴びている時に、あなたを励ましたり、慰めたりしてくれる友人がいるでしょうか。また、あなたが明日の生活の不安と心労のために疲れ切って、疲労困憊している時なに、あなたのことを心配し、温かいことばをかけて慰め、現実に助けてくれる友人がいるでしょうか。

  あなたは、「自分のことなんか、誰も関心を持ってくれる人もいないし、心配してくれる友人なんて誰もいないに決まっているよ!」と嘆いたり、孤独感に陥ったりしたことがありませんか。他人には言わなくても、心の奥底ではみんなそんな寂しい思いをしたことがあるのではないかと思います。

  でも、「あなたが、今どのような状況にあったとしても、本当にあなたのことを愛していてくださる方がおられるのですよ!」と言ったら、あなたは驚かれるでしょう。でも、これは紛れもない事実なのです。聖書の中で、真の神様はあなたに対して、次のように個人的に語りかけておられます。もちろん、あなただけでなく、全世界のすべての人々に向かって個人的に呼びかけておられるのです。


●「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書34・4)。 

  人間の罪のゆえに、永遠の死と滅びの危険に晒されているあなたを命がけで愛しておられる方、いいえ、あなたのために実際に身代わりに死んでくださった方がおられるのです。「そ、そんな馬鹿な!!」とあなたは思われますか? でも、これは歴史的な事実なのです。そのお方こそ、神の御子イエス・キリストなのです。聖書の中で、一番有名で大切なことばは次のみことばです。このみことばには、聖書全巻を凝縮して要約したような神の愛が表されているのです。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(あなた)を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3・16)。

  聖書が語る神は、全宇宙を創造された偉大なお方であり、あなたを造られ、あなたを日々、恵みのうちに生かしておられるお方ですが、人間は一人残らず、みな神に対して罪を犯してしまいました。しかし、愛なる神は、ご自身のひとり子をこの世にお遣わしになられ、神の御子イエス・キリストはすべての人の罪のために身代わりに十字架で死なれ、死後三日目に墓からよみがえられました。

  御子を信じる者はだれでも罪が赦され、本当の平安を持つことができます。あなたを生かし、愛しておられる真の神を認め、神のもとに立ち返るところに真の幸福があるのです。愛なる神様との交わりの中にこそ、本当の安らぎがあるのです。その時、あなたは、決して自分はひとりぼっちではないことを知るでしょう。

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★何かが欠けている人生

2005-08-11 | 「人生の幸せと平安」




  残暑お見舞い申し上げます。私たちは、日々の多忙な生活の中で、日頃どなたでも自分の人生には、今何かが欠けているものがあると、痛感する時があるのではないでしょうか。もちろん、ある方々は仕事も充実し、家庭も円満で、特に病気でもなく、体も健康で満足していると感じているおられる方もおられると思います。しかし、それでも、ふっと「私の人生はこれでいいのだろうか・・・・・。」と空虚な気持ちになることがないでしょうか。新約聖書に出て来る一人の人物も、多分、そんな一人ではなかったかと思います。

●「彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。 」(ルカの福音書19:3~6)。
 上に記したのは、ルカの福音書19章の一部分ですが、ここに登場するザアカイさんは、日曜学校の子供たちでも知っている有名な人物です。私にとっては、ザアカイさんは聖書の中に出て来る人たちの中でも、特に親しみを覚える人物の一人であります。ザアカイさんはエリコという町に住んでいた取税人のかしらで金持ちでありました。当時はユダヤはローマの支配下にあって、取税人というのは、ローマ人の税金取立て請負人に使役され、その手先となって、税金取立てを職業としていた人たちであります。しかし、ユダヤの一般の人からは嫌われ、憎まれ、異邦人(ユダヤ人以外の外国人)のように見なされていたのです。子供の時には「チビのザーカ~イ!チビのザーカ~イ!」とからかわれ、大人になってからは、売国奴のように言われ、彼は孤独な寂しい人生を送っていた人ではないでしょうか。

 ザアカイさんは、多くの富を得て、贅沢な生活をしていたのですが、心の中に何か空しさを感じていました。それが、一体何であるのか分かりませんでしたが、ザアカイさんは、自分の人生に何かが欠けていることを感じていたのです。自分の心の中にポッカリと大きな穴が空いているような、そんな感じがしていたのです。どんなに財を貯めても、庭付きの大きな邸宅を持っても、立派な家具をそろえて何不自由ない生活をしていても少しも幸福感に浸ることができなかったのであります。そして、何をしてもその心の中の空しい気持ちは消えませんでした。ザアカイさんは、長い間お金さえあればきっと幸福になれると、そう堅く信じて生きて来たのです。

 しかし、彼の心の中は、いつも孤独で、満たされませんでした。お金というものは人を幸せにするものと考えて生きておられる方が多いと思いますが、決してそうではないことを教えられるのであります。「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。 財産がふえると、寄食者もふえる。持ち主にとって何の益になろう。彼はそれを目で見るだけだ。 働く者は、少し食べても多く食べても、ここちよく眠る。富む者は、満腹しても、安眠をとどめられる」(伝道者の書5:10~12)とありますように、人は財産が増すことによって、幸福になると錯覚しがちですが、かえって悩みや心配が増えるのが現実ではないでしょうか。貧しい人は失うものもないので、それだけ悩みも少ないわけです。

 さて、イエス様がエリコの町をお通りになられると知ったザアカイさんがいちじく桑の木に登ってまで、イエス様を見ようとしたのは、半分は好奇心からであったでしょうが、彼が心の渇きを満たす「何か」を求めていたこともまた事実であります。自分に何かが欠けていると気づいてそれを悟る人は幸いな人だと思います。欠けていると本当に分かった人はその「何か」を埋めるために、真剣に探し求める人だと思います。彼が失っていたのは、一つには、人との真実な交わりではなかったかと思います。

 人間というのは「対物」ではなく、「対人関係」の中に生かされている存在であります。ですから、どんなに沢山の物を所有していても、対人関係がうまく行かないと本当の幸福な生活はないのであります。しかし、ザアカイさんとの交わりを望む物好きな人はエリコの町には一人もいませんでした。それは、当然であったと思います。ローマ政府から委託されてユダヤの同胞から不正に税金を取り立てる、売国奴のようなザアカイさんなどと交際したいという人など誰もいなかったとしても不思議ではありません。

 しかし、イエス・キリストだけは違っていました。こんな罪深いザアカイさんにも暖かい愛の配慮をしてくださり、彼を罪の生活から救い出し、彼との交わりを求めておられたのであります。頑なな彼の心が開かれて、人間としての真実な生き方ができるようになるためにも、イエス様はザアカイさんに近づかれたのです。ザアカイさんの心の中は冷たく貝のように固く閉じていましたが、しかし、イエス様はザアカイさんを愛しておられ、彼に近づいてくださいました。ザアカイさんは、自分は知られずに木に登ってこっそりとイエス様を見ようとしたのです。しかし、こんなザアカイさんに主イエス様は、そしりを受けるのも厭わずに、交わりを求めて彼の家の客となられたのです。

 イエス様が木の上にいたザアカイさんに向かって、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」(19:5)と言われたとき、ザアカイさんは、急いで降りて来て、大喜びでイエス様を自分の家に迎えたのは、彼がいかに孤独であり、また、真実な何かを探し求めていたかを物語っています。そして、イエス様がザアカイさんに与えたものは、彼が失っていた根源的なものである”神との交わり”であったのであります。人間の心の空洞を埋めるもの、心の渇きを満たすものは、イエス・キリストご自身であり、それ以外にないのであります。「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」とのイエス様のおことばは、その時の思いつきなどではなく、以前から計画されていたことであることを示しています。愛なる神様は一人一人の人生に深い愛情をもってかかわってくださる方なのです。

「人の心の中には神が造った空洞がある。その空洞は神以外のものによっては埋めることができない。」という、パスカルの有名な言葉があります。私たちは、誰でも自分が神から離れ、迷っている失われた罪人であり、イエス様を通して真の神に立ち返るまで本当の満足と平安を得ることができない存在なのです。そして、そのような救いと真の幸福を与えるためにこそ、イエス様はみ父のみもとから人の姿を取って来られ、罪のない生涯の後、十字架にかかって死んでくださり、よみがえってくださった方なのです。

●「人の子(キリスト)は、失われた人を捜して救うために来られたのです。」(ルカの福音書19:9)。

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★魂の渇きを癒す”生ける水”

2005-08-08 | 「人生の幸せと平安」
  


  人生の出会いには、人の考えや計画を超えた不思議なものがあります。人を不幸に導く出会いもあれば、幸いに導く出会いもあります。よく、「人生は出会いで決まる。」と言いますが、悪い人に出会ったばかりに、その人の人生の歯車が狂ってしまい、取り返しのつかないほど不幸な人生を余儀なくされることもあります。しかし、新約聖書のヨハネの福音書4章に登場するサマリヤの婦人は彼女の人生をすばらしい幸福に導いてくださる救い主イエス様との出会いを経験したのです。

 さて、このサマリヤの婦人がどのような人生を歩んでいたかと言いますと、彼女はかつて5人の男性と結婚し、今また6人目の男性と同棲しているというような素性の持ち主でありました。彼女にとって5人の夫があったということは、どれほど結婚の願望が強かったかが分かります。そして、それは確かに幸せへの願望であり、「真実な愛」に対する渇きではなかったでしょうか。しかし、すべては失敗し、彼女の夢は崩れ去ってしまったのです。そして、彼女は今また惰性で、別の男性と同棲しているという不道徳な生活ぶりであります。このサマリヤの女性は5回の愛の告白をし、5回も裏切られたのでしょうか。そのような経験をしますと、もう誰も信じられなくなったとしても当然ではないでしょうか。

 彼女は、人間不信に陥っていた人であり、真実な愛を求めて渇いていた女性であります。私たち一人一人も、この女性のように「今度こそは‥‥」「この次は‥‥」と、魂の渇きを満たすものを次々と求めるのですが、いつも裏切られて来た者たちではないでしょうか。そして、彼女は心の中に満たされない空しさと渇きを覚えながら、人生の日陰を歩む日々を送っていたのであります。そのようなある日に、彼女の方から求めたのではない、イエス様との「不思議な出会い」がありました。イエス様が旅の疲れで、井戸の傍らで休んでおられた時に、人目を避けるようにしてその女性は井戸に水を汲みに来たのであります。その女性は空しい生活に疲れておりました。イエス様は別な意味でお疲れでありました。生活に疲れた女性と、崇高な目的の旅で疲れておられたイエス様が出会ったのです。 これは、本当に不思議な出会いです。

 さて、イエス様が「わたしに水を飲ませてください。」と彼女に願ってサマリヤの女性との会話が始まるのですが、イエス様は渇くことのない「生ける水」について語られました。そして、この「生ける水」こそ、彼女が今最も必要としているものでありました。イエス様は彼女が必要としているものをご存じでした。そして、イエス様は彼女に会って「生ける水」を与えるために、別なルートもあったのですが、わざわざこの道を通られて旅をされたのであります。イエス様が「生ける水」と言われたのは、人間の霊的な渇きを満たす「いのちの水」のことであります。すなわち、み霊による新しいいのち、「永遠のいのち」のことです。

●「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』 」(ヨハネの福音書13,14)。

 この井戸の水は、一時的に渇きをいやすだけですが、しかし、イエス様が与える水は、人の魂の霊的な渇きをいやし、「その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水」となるという不思議なことをイエス様は語られました。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」と言われたように、人類は心の渇きをいやすために、いろいろなものを作り出して来ました。しかし、この種類のものでは、また渇いてしまうのです。ちょうど、喉の渇きをいやそうとして、水を飲む人のようです。人間が作ったものや、この世のものに求めても決して満たされることはないのです。

 この世が与えるどのようなすばらしいものも、例えば、それが物質的なものではなく、精神的なものであっても、人間の奥底の霊的な渇きを満たすことはできないのであります。音楽や絵画、映画、スポーツ、教養や学問、その他、高尚な趣味、人の心を楽しませるあらゆる快楽も、一時的に渇きをいやす井戸の水にすぎません。また、人間の愛情(夫婦の愛、親子の愛)ですら、人間の心の奥底の空白を埋めることはできません。このサマリヤの婦人も、何度も何度も、不幸な結婚生活を繰り返しながら、自分が寄りかかることのできる相手を求め、真実な愛を求めて来たのですがことごとく失敗して来たのです。

 人間の愛というのは、いつも「金持ちだから‥‥」「顔が綺麗だから‥‥」「いい人だら‥‥」「自分を受け入れてくれるから‥‥」と、条件付で愛する自己中心的な愛であります。ですから、状況が変われば、もう愛せなくなってしまうような弱くて脆いものです。相手にどのような欠点があっても、事情や環境が変わっても、また、自分が不利な状況に置かれても、どこまでも誠実を尽くして愛し通すという強い愛は、実にまれにしかないと思います。そして、たとえ、それが生涯の間愛し貫いてくれる人がいたとしても、それは、永遠のものではありません。ですから、人間の愛も、やはり人間の根本的な渇きをいやすことはできないのです。人は永続性のあるものでなければ心の渇きをいやすことはできません。

 イエス・キリストが与える「いのちの水」は、こんこんと湧き出る泉のように、私たちの渇きを潤すだけでなく、私たちの周囲のすべての人を潤して行くことができる水なのです。そして、この尽きることのない喜びと満足を与えるいのちの水、すなわち、み霊による永遠のいのちは、信じる者は「だれでも」受けることができるのです。どのような罪深い人も、どれほど深い渇きを持った人も、十字架で死んでよみがえられた主イエス様に信頼するなら、この永遠のいのちに至る水を受けることが出来るのです。そして、これは「神の賜物」であり、だれでも無代価で受けることが出来る救いの恵みです。

 最初は、イエス様の方から「わたしに水を飲ませてください。」と願われたのですが、会話が進むうちに、彼女は心を開いて自分の方から、「その水を私にもください。」と願うようになりました。そして、やがてイエス様を救い主と認め、救い主のことを町の人々に伝えるように変えられました。彼女のように、あなたもこのすばらしい「生ける水」をお求めになりませんか。
 
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★人生の真の幸福とは何か

2005-07-16 | 「人生の幸せと平安」

  「青い鳥」という有名な児童劇があります。1909年にベルギーの詩人メーテルリンクが発表した作品です。貧しい木こりの子、チルチルとミチルが同じ夢を見たのです。仙女(せんにょ)の病気の娘のために二人は「青い鳥」を探して旅に出るのであります。 仙女が貸してくれた不思議な帽子の力で、思い出の国、夜の国、死者の国、死の国、未来の国などへ行き、様々の不思議に出会いました。-----しかし、「青い鳥」はとうとう見つけることができませんでした。朝、目覚めてみると、目指す青い鳥は自分たちの家の鳥籠にいたという物語です。
  
 この青い鳥は幸福のシンボルとして書かれているように思われます。人間は、幸福を求めて遠くへ遠くへと遍歴の旅をするのですが、幸福は実は自分のすぐ近くに身近にあるというこの作品のテーマだというのです。-------人間は、この世に生まれ落ちた時から、幸福を求める旅に出るような者であります。みんな、だれもかれも幸福になりたいのです。そして、幸福を求めて旅をするのです。しかし、探している幸福はどこにも見つからないということなのです。
 
●「弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。‥‥‥」(ルカの福音書15:11~16)。

 イエス様が語られたこの例え話に出て来る弟息子も、やはり幸福を探し求めて旅に出るのです。お父さんが生きているうちにお父さんから、財産の分け前をもらって遠い国に旅に出ました。そして、何年も経たないうちに彼はどん底に落ちてしまいます。一文無しになってしまって、彼は食べるにも事欠くほどに落ちぶれてしまったのです。豚の世話をしながら豚の食べる餌をも食べたくなるほどひもじくなったとき、彼は、彼は父の幸福の旅を求める旅がいかに空しいものであったかを痛いほど知らされるのです。そして、彼は父の家を思い出して悔い改めて帰って行く話です。彼は、遠くへ行けば行くほど、そこに幸せがあると考えましたが、間違っていたことがわかったのです。息子の帰りを待っていた父は彼のような放蕩息子を抱いて何度も何度も口づけして迎え入れました。

 では、人は何に幸せを求めるのでしょうか。①物とお金。②名誉と権力。③快楽。人間の愛。これらのものには、二つのものが決定的に欠けています。一つは、これらのものには永続性がないということ、二つ目は心の底まで満足させる質(クォリティ)がないということであります。魂のふるさとである永遠の中に真の幸いを見出さなければならないのであります。戦国時代の英雄、豊臣秀吉が臨終の床で詠った歌に「つゆと起き つゆと消えぬるわが身かな なにわのことは夢のまた夢」というのがあります。また、死の床である博士号をとった人が詠った句があります。「秋風や 博士も墓の かざりかな」という歌です。人が求めてこれが幸福だと思って掴んだものもいかに空しいかを考えさせられます。

 しかし、神の御子キリストの十字架を通して神に立ち返った人の心に与えられる平安と幸福は、決して空しいものではありません。永続的な確信を与えるものであり、心の底から満足を与える内面的な平安であります。真の幸せは、①環境に左右されないもの。②境遇に支配されないもの。③年齢に関係ないもの。④永続する確信を本人に与えるものです。死の前には人間はみな無力なものであり、絶対的な望みというものを持っていないのです。しかし、真のクリスチャンは、死を超越した望みというものを持っています。
使徒パウロは次のように語っています。

●「‥‥私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。 」(ピリピ人への手紙4:11、12)。

●「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。 」(テモテへの第二の手紙4:6~8)。
   <パウロの殉教直前の手紙の一部です>。 

 「幸福は安全の背後にある。」と言った人がいます。事実、その通りであります。安全が確認されていなければその時点でどんなに幸福だと思っていても、本物の幸福ではありません。自分の死後に対する解決なしに地上のどんな恵まれた生活も幸福とは言えないのではないでしょうか。人が神の前に罪赦されることは、最大の神の祝福であり、イエス・キリストを真に信じるもののみがこの祝福を受けることが出来るのです。

●「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。 」(詩篇32:1、2)。

●「しかし、私にとっては神の近くにいることが幸せなのです。」(詩篇73:28)。


   

★現代人の心の病い

2005-07-04 | 「人生の幸せと平安」

 ある男の人が医者のところへ行って、「最近、何か気が滅入ってしまうことがあるんです!どこが悪いか診てもらいたいんですが‥‥。」というような話をして先生に診察をお願いしました。医者はくまなく彼を診察したあと、「どこにも悪いところは全く見つかりませんでしたよ。」と、その男に伝えました。「あなたは公園へ行って子供たちが遊ぶ姿に見惚れ、自分を忘れる必要がありますね。そうすればよくなると思いますよ。」ところが、「だめです。そんなことは何度もやってみましたが、役に立ちません。」と男は答えました。

 「そうですか。では、映画でも見に行って、スリルのあるわくわくするような場面でも見て、楽しんで来たらどうですか?」と医者は勧めました。「先生、それもだめです。映画も数年観ていますが、あんなものの中には、私は満足を見出すことができません。」と、その病人は言いました。そのとき、あることを思い出したように、医者の顔は急に輝きました。というのは、彼はその男の人に対する最後の治療法を思いついたからです。「あなたにとって良いと思われることを私は知っています。」と、その医者は言ったのです。

 「私は、昨日、町へ来ているサーカスの大行進を見ましたが、その中の一人の道化師がいましてね、いや、もう私は抱腹絶倒というか、死ぬほど笑いましたよ。私はあんな面白い滑稽な男は今までに見たことがありません!あなたもあのサーカスへ行って、あの道化師を見たらどうですか。あの男は、きっと、君のすべての悩みを忘れさせてくれると思いますよ!」 しかし、その男は首をうなだれるようにして答えるのでした・・・・・。「先生、あなたはお分かりにならないでしょうが、実は、私がその道化師なのです・・・・・・。」 それに対して、「・・・・・・・・・・・」その医者は驚き、何も答えることができなかったのです。

 みなさん、これこそ、現代の数多くの人たちの偽らぬ姿ではないでしょうか。彼らは、顔では笑っていますが、心の中では、ひそかに悩んでいるのです。街角や信号待ちをしながらメールを打っている女子高生や公園のベンチでひとり考え事をしているご老人の姿も孤独に見える時があります。デパートで家族そろって買い物をしている人たちを見ると、一見幸福そうにみえますが、やはりその人たちの中にも目には見えない心の悩みがあるかもしれません。
 
 また、急ぎ足で出勤して行く人々の背にも、私は何か孤独な人間の姿が見えて来るのですね。人を笑わせる仕事をしている人たちの心の中を覗くと、他人(ひと)には言えない悩みがあるでしょう。そして、その面白いテレビ番組を見て、声を出して笑っている人たちも、一時の寂しさを忘れさてくれるかもしれませんが、自分の部屋では孤独を噛み締めているのかもしれません。

 道に迷って泣いている子供を見たことがあるでしょうか?でも、その子供にお菓子をあげても、泣き止みませんね。お父さんか、お母さんの顔を見ると、ニコッとした笑顔が戻って来て、ホッとすることがありますね。それと同様に、人間は愛なる真の神様から離れては、国がどんなに経済的に繁栄し、物が豊かになっても人の心は神に帰るまで満足がないのです。

 人間は、対物ではなく、対人関係の中に生きており、「人間」は「人の間」すなわち人間関係がうまく行かないと幸福であるとは言えません。そして、神との正しい交わりがなければ、人とも関係もうまく行かないのです。また、同様に人間は霊的な存在として造られているので、真の神様との交わりなしに本当の幸福であるとは言えないのです。この世のお金や名声、快楽などは迷っている子供に与える”玩具”のようなものではないでしょうか。

●「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。 笑うときにも心は痛み、終わりには喜びが悲しみとなる。 」(箴言14:12,13)。
 
 正しいように見える道であっても、究極的には、それは死と滅びに至る道であります。それは、人間が神から離れ、自己中心の罪の中を歩んでおり、その心が曲がっているからであります。自らの死のことを考えると、「笑い」は、人間の心を一瞬だけ忘れさせるだけであります。神に立ち帰るまで、本当の平安は得られません。どうか、神に立ち帰る勇気を持ってください。

 ルカの福音書15章のイエス様がなさった譬え話に、有名な「放蕩息子」の話がありますが、この息子は私たち神から離れた人間を示し、父親は神を示しています。この譬え話は、本当は「父親(神)の愛」の話なのです。息子が悔い改めて帰って来たとき、父親はどうしたでしょうか。ここに、神があなたの帰るのを待ち望んでおられる神の愛が余すところなく示されています。キリストの十字架で流された赤い血潮によって、すでに、罪人が神に帰る道は備えられています。それは、今から約2000年前の出来事です。
 
●「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」(ルカの福音書15:20)。

●「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。 悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」(イザヤ書55:7)。

●「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。 」(ヨハネの福音書14:27)。



 

★お金は人を幸福にするか

2005-04-20 | 「人生の幸せと平安」


          
  最近は、「人生お金がすべてであり、お金があれば何でも手に入れることが出来る」と考える風潮が人々の心を蝕んでいるように思われてなりません。お金で人の心や愛さえも買うことが出来ると豪語する人もいて、世の中が荒んで行くのを悲しく感じます。お金によって人生の幸せを得ることができるというのは、一つの妄想に過ぎません。人はみな幸福を求めていますが、お金や物が人を幸福にするのではありません。人間、この世の中で生きて行くためにある程度のお金や物は必要ではありますが、お金や物は得た時にすでに失う可能性も同時に持っているのです。例えば、一人の人間が悲しみのどん底にある時や、苦悩のギリギリのところまで追い詰められた時に、お金や物は決して解決の決め手にはならないのです。

 何年か前の話ですが、英国のある新聞が、「金とは何か」についての定義を募集したことがありました。そして、その中から最優秀作品に賞金を出したのです。その当選作品の、お金に関する定義は次のようなものであったそうです。「金とは、幸福以外のあらゆるものを与えることのできる万能の供給者であり、天国以外のどこにでも行くことのできるパスポートである。」というものです。「なるほど!!」と頷かせる名言ではないでしょうか。お金さえあれば幸福になれると思っておられる方も多くおられますが、お金は正しく用いれば役に立ちますが、大金持ちになって、かえって不幸を招いたり、人生の悲惨な結末を迎えたという人々も多いのであります。トルストイは、「 ああ、金、金!この金のためにどれほど多くの悲しいことがこの世に起こることであろうか!」と言いましたが、これは名言です。

 さて、聖書では、「お金」についてどのように語っているでしょうか。金銀財宝と、巨万の富を手に入れて、栄華を極めることの出来たかつてのイスラエルのソロモン王は、晩年になって自らの経験から語った伝道者の書の中で、次のように告白しているのです。

●「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。 財産がふえると、寄食者もふえる。持ち主にとって何の益になろう。彼は それを目で見るだけだ。 働く者は、少し食べても多く食べても、ここちよく眠る。富む者は、満腹しても、安眠をとどめられる。」(伝道者の書5:10)。 

 また、新約聖書の使徒パウロは、若い伝道者のテモテに宛てた手紙の中で、お金に執着することの誘惑に注意するように勧告して、次のように語っているのです。

●「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。 金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。 」(テモテの第一の手紙6:7~10)。

 サミュエル・スマイルズという人は、「諸悪の根源は金そのものではなく、金に対する愛である。」と言いましたが、聖書も同様のことを言っています。聖書も「お金」そのものが悪の根源であるとは言ってはいないのです。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根(諸悪の根源)」であると言っているのであります。金銭を愛するとは、お金に執着しることであり、お金を偶像化し、お金がすべてであるとういうような妄想をもって人生を生きることであります。「金持ちになりたがる」人は、よくよく注意して聖書のことばに耳を傾けるべきではないでしょうか。

 イエス・キリストの弟子の一人で、会計係であったイスカリオテのユダは、主であるイエスを裏切ったことで有名になりましたが、「彼は、盗人であって、金入れを預かっていたがその中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。」(ヨハネの福音書12:6)と記録されています。そして、彼は、お金に目が眩み、当時の奴隷一人の値段であった銀貨30枚で、神の御子であり、救い主であられるイエスを裏切って、敵の手に渡したしてしまったのであります。彼は、お金に心が奪われ、「金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」と書かれているとおりの人物になってしまい、ユダは後に、後悔して、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言って、首をつって死んでしまいました。ユダは、「まっさかさまに落ち、からだは真二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった。」(使徒の働き1:18)と書かれているように悲惨な人生の結末を迎えたのです。

 しかし、聖書の中には、金持ちがたくさん登場して来ますが、金持ちがみな救われないということではありません。ルカの福音書16章に記されている金持ちは、毎日贅沢に遊び暮らし、神様を信じないままの人生を送って、回心することもなく生涯を終わり、死後、火炎の中で悶え苦しんでいます。しかし、19章に出て来る金持ち、すなわち取税人のかしらであったザアカイは、不正な蓄財をなして富を得たのですが、ある日、エリコの街でイエス様に出会い、その日の夜に悔い改めてイエス様を信じたのです。そして、イエス様は、彼に言われました。「きょう、救いがこの家に来ました。・・・・人の子(キリスト)は、失われている人を捜して救うために来たのです。」(ルカの福音書19:9,10)。また、医者ルカが書いた「ルカの福音書」と「使徒の働き」は、直接には、ローマ政府の高官であったテオピロという人物に宛てて書かれたのです。しかし、彼も金持ちでしたが、ルカの熱心な伝道によって、救われた人なのです。
 
 最後に、パウロの次の警告のことばを肝に銘じて、記憶しておきましょう。世の終末が近づくに従って、益々お金の亡者になる人が増えて来ることが預言されているのです。目に見えるもの、やがて失われ消え去るものではなく、永遠に続く無くならないものに目を注ぎ、天国に宝を貯える者となりましょう。神の懐に帰るまで、真の平安と幸福は得られないのです。

●「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。 そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、 裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、 ‥‥ 」(テモテの第二の手紙3:1~2)。

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★感謝と喜びに満ちた生涯

2005-04-15 | 「人生の幸せと平安」

             

  中国の古い物語に、「晴雨物語」というのがあります。この物語に、二人の兄弟が出て来ます。兄は唐傘(からかさ)を作る商売をしており、弟は草履(ぞうり)を作るのが商売でした。さて、そのお祖母(ばあ)さんは雨が降ると「弟の草履が売れない」と言って非常に悲しみます。また、天気が晴れた日になると「兄の傘が売れない」と言ってまた悲しむのです。ところが、そのお祖父(じい)さんは、反対に雨が降ると兄の傘が売れると言って大喜びします。また、お天気になると弟の草履が売れると言ってまた喜ぶのです。
   
 そのお祖母(ばあ)さんは、毎日毎日悲しんでばかりいて一生を送り、そのお祖父(じい)さんは、毎日毎日喜んで感謝の生活を送ったという話であります。この話は一つの例え話に過ぎませんが、人間の一生というものは、その見所、つまりどういう視点で人生を見るかが非常に大切であるということを考えさせられます。悲しんで送るのも一生、喜びと感謝に満たされて送るのも一生であります。世の中で何が幸せかと言っても喜びと感謝の心を抱くほど幸いなことはありません。みなさんも、いつも愚痴や不平ばかり言っている人と、感謝して喜んでいる人がいた場合、どちらの人と一緒に生活したいと思われますか。もちろん、後者だと思います。また、あなたの職場に、毎日ぶつぶつ不平ばかり言っている不機嫌な人がいた場合、楽しく仕事ができるでしょうか。当然、いつも、喜んでいる人と一緒に働いた方が楽しいはずではないでしょうか。

●「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。」(テサロニケ人への第一の手紙5:16~18)。 

 新約聖書の中のこのみことばは、クリスチャンの間で最も親しまれ、愛唱されている聖句の一つであります。これは、イエス・キリストを救い主と信じている者たちの信仰生活の基本的な態度であるということができると思います。いついかなる時も、感謝することのできる生活を神様は備えてくださったのであります。そのような生活ができたらどんなに幸いでしょうか。しかし、実際の私たちの生活では、神の存在と愛を認めない人生を送っていますから、生来の自己中心の罪の性質の故に、愚痴や不平や不満が次々と出て来やすいものです。

 「喜びと感謝」にあふれた生活は、人間の努力や修業によってはできるものではありません。心の内側からあふれ出て来るものであります。イエス・キリストの十字架によって示された神の愛を知り、その愛によって心が満たされるときに、私たちは喜びと感謝が内側からあふれ出て来るのであります。このような人の生活には、サタンが食い込む隙間がないのであります。創造主である神に対して感謝と喜びの心を持つ人は、この世で一番安全地帯にいる人なのです。

●「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、‥‥‥彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。 」(ローマ人への手紙1:20~21)。 

 この聖句にありますように、人間は創造主(神)を認めないという罪のために、私たちを日々生かしてくださっておられる神様に対して、感謝の心をもつことの出来ない者となってしまったのです。これが、罪人となってしまった人間の一番大きな特徴であります。そして、これは、終わりの時代になると、更にエスカレートすることが聖書に予告されているのです。

●「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。 そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、‥‥ 」(テモテの第二の手紙3:1,2)。 

 しかし、ご自分の罪を認め、悔い改め、十字架で身代わりに死んで三日目に復活されたイエス・キリストを信じた者には、ことばでは表すことのできない心底からの喜びと感謝の心で満たされるのです。これは、信じて経験した者でなければ分からないことかもしれません。そして、状況や境遇に関係なく、持つことができる「感謝の心」なのです。それは、ペテロが書いた手紙の次のような聖句を見ても明らかです。

●「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。 」(ペテロの第一の手紙1:8,9)。 

 あるハンセン病の患者が、「私は、ハンセン病になったおかげで、救い主イエス・キリストを知り、永遠のいのちをいただき、今は喜びと感謝でいっぱいの生活を送っています。昔はハンセン病は『天刑病』でした。しかし、今は『天恵病』です。」と言って喜んでいた人がいたという話を聞いたことがあります。この人は、神の恵みを本当によく教えられた人でした。そして、感謝と喜びにあふれて生活することができたのです。

 次のように語ったクリスチャンがいました。 「感謝は人の心に咲く花のようなものです。この感謝の花は高ぶりの石がゴロゴロしている人の心には咲きません。へりくだる人のは、神から絶えず恵みを与えられ、心は耕されて、感謝の花がいっぱい咲き乱れるのです。」花は、疲れた人の心を癒し、安らぎを与えてくれますね。「感謝と喜び」の花も同様ではないでしょうか。

●「ことばに表せないほどの神の賜物のゆえに、神に感謝します。」(コリント人への第二の手紙9:15)。

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★人生の矛盾と孤独の中で

2005-04-05 | 「人生の幸せと平安」

                     

  「悠々なる哉天襄、遼々なる哉古今、五尺の小躯を以て比大をはからむとす、ホレーショの哲学ついに何等のオーソリチーを値するものぞ、万有の真相は唯一言にしてつくす、曰く”不可解”我この恨を懐て煩悶終に死を決す。既に厳頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし、始めて知る、大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを。」。今から100年前位前の一高の学生であった藤村 操(みさお)は、宇宙と哲学を研究して結論を得ず、「巌頭の感」の一文を残して、日光の華厳の滝に身を投じて、自ら命を絶ったのである。彼は、万有の真相は不可解なるがゆえに、不可解なるがままに生きて生を貪ることは、無意味として、若い命を絶ったのであるが、なぜ、更に生き延びて、研究を続けなかったのかと惜しまれた。しかし、その遺した文章は実に名文であるとして、惜しまれたのである。この時の藤村 操は若干16歳の前途有望な青年であったのです。

 時代が移り変わっても、今日も同じ人生の真理を求めてさ迷っている多くの青年の魂があるのではないかと思われてならないのである。人生は一度しかないのだ。しかも、生まれ落ちた瞬間から誰もが否定し難い力でもって、死へ一歩一歩吸い込まれて行くのである。生きる営みの涯(はて)にこのような死しかないのだとしたら、すべての労苦は空しく感じることはないのか。この耐え難き矛盾、この心を解決してくれるものはないのか‥‥と。

 次のように煩悶している若者もいるに違いありません。自分は、いつも裏切られて来た。未来を謳う大学の虚像に、永遠を誓った愛のことばに、政治に、革命に、イデオロギーに、そうして自分自身にさえも。自分はいつも孤独であった。親も、兄弟も、教師も、先輩も、親友も、ひとり夢中で登ったあの山の尾根の草むらにも、自分の心を知ってくれるものは一人もいなかった。自分はいつも錯覚のうちに生きて来た。自分は人を愛しているつもりでいたが、自分の空っぽな心を満たし、慰められたいためのただの演技に過ぎなかったのだ‥‥と。

 自分のうちから絶えず何か大切なものが、音を立てて崩れて行く‥‥。希望が、信頼が、心の交わりが、愛が、そうしてそれらをひたむきに信じ、大切にしていた自分の心の純粋さが‥‥‥。ああ、動かぬものが欲しい。変わることのない永遠にして絶対の真実が。あの果てしなく澄み切った青空のように。求めて、求めて、求めて、‥‥‥それでも、得られなかった人生の真実、平安、永遠に崩れることのない確かな希望はないのか。

 華やかな文明と繁栄の谷間に思い煩う幾多のたましいがある。高層ビルが建ち並び、ジェット機が飛び交い、IT機器による情報網が張り巡らされるような時代にあって、しかし、そのような科学の発達とは裏腹に、人の心は砂漠のように渇ききっている。情報化社会の中で、他人の言葉で語り、借りものの思想で考え、流行に従って右向け右をする。そんな平均的人間にはなりたくないと思いながらも、時代の波に翻弄されている自分。生きる旅路に疲れ果て、あてどなくさ迷うその姿は、今日の君かもしれないし、明日のあなたかもしれない。

 三千年前の当時の世界最強の王国イスラエルのソロモン王は、富と財産、地位と名誉、学問と教養、この世のあらゆる快楽を手に入れ、何と、700人の妻を持つほどの快楽を極めたのであるが本当の幸福と満足を手に入れることはできなかったのである。彼は、老年になって書いた伝道者の書で、次のように語っているのである。創造者(神)を無視した人生のいかに空しいかを知ることが出来る。

●「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。 日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」(伝道者の書1:2,3)。

●「実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。 その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい。 」(伝道者の書2:22)。

●「母の胎から出て来たときのように、また裸でもとの所に帰る。彼は、自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて行くことができない。 これも痛ましいことだ。出て来たときと全く同じようにして去って行く。風のために労苦して何の益があるだろう。 しかも、人は一生、やみの中で食事をする。多くの苦痛、病気、そして怒り。」
(伝道者の書5:15~17)。

●「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。」(伝道者の書12:1)。

●「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。 」(伝道者の書12:13,14)。
 

 さて、新約聖書では、イエス・キリストは次のように語っています。私たちの心の空洞を真に満たすことの出来る方はイエス・キリスト以外にはいないのである。

●「だれでも渇いているなら、わたし(キリスト)のもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネの福音書7:37,38)。 

 イエス・キリストを救い主として信じたパウロは次のように語っています。信じる前と後では、人生の価値観が全く逆転してしまったのです。そして、人生の明確な目的を知ることの喜びを体験する者となったのです。

●「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」(ピリピ人への手紙3:8)。 

●「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ人への手紙1:21)。