聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★少年時代のイエス様

2006-07-31 | 「キリストの偉大なる生涯」

      

●「イエスが一行の中にいるいるものと思って、一日の道のりを行った。それから、親族や知人の中を捜し回ったが、見つからなかったので、イエスを捜しながら、エルサレムまで引き返した。そしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。」(ルカの福音書2:44~46)。 
  
 イエス様の少年時代はどのような生活をされていたのでしょうか。そのようことを想像したことはありませんか?ルカの福音書2章には、当時12歳になっておられた少年時代のイエス様を知ることができる数少ない記事の一部分であります(ユダヤ人の男子は12歳になると「律法の子」になるのです)。ここに記されている出来事の背景にはユダヤの過越祭のことがあります。ユダヤの三大祭りの一つであるこの祭りでは、ユダヤ人がほとんどみなイスラエルの都エルサレムに上って来て、神殿にお参りをするという慣習があったのです。ユダヤの人にとって、大事な出来事を記念するお祭りですから、一家そろって、いや親戚縁者みな一団となってエルサレムに上ってそこで数日を過ごすのです。 

 祭りが終わっての帰り道も当然、団体で旅をしたわけであります。ところが、祭りが終わってみな帰路についたのに、少年イエス様だけは何故かエルサレムにとどまっておられました。でも、イエス様の両親はそのことに気づいていなかったのです。一日分の道のりを行ったところまで来て、両親はようやくイエス様が一行の中にいないことに気づいたのです。一日経ってから気づくなんて暢気すぎないだろうか、遅そすぎないだろうかというような疑問を持たれる方も多いと思います。でも、よほど大人数の、顔見知りばかりの団体ですから、「どこか親戚の人たちの中か、同年代の子供たちに混じってお話をしながら歩いているのでしょう・・・」と考えて確認しなかったとしても責められるようなことではありません。

 さて、わが子がいないと気づいたとき、両親は多分気が動転して心を取り乱していたに違いありません。親戚や知人の中を探し回ったけれども、見つかりませんでした。それで、当然のことですが、必死になって探しながら三日もかかってエルサレムまで引き返したのであります。そして、エルサレムに着いて、ようやくイエス様を見つけることができました。ところが、なんとそこには、置き去りにされて困り果てている少年の姿ではなく、神殿の中で教師や学者たちの真中にすわって、話を聞いたり質問したりしている賢く知恵に溢れた12歳の少年イエス様の姿があったのであります。大人の学者たちを相手に堂々と問答しているイエス様の姿を見て、とても両親は驚いたに違いありません。
 
 イエス様のご両親は、ほっとすると同時に「どうしてこんなことに!」との思いが湧き起こったとしてもそれは自然の感情ではなかったかと思います。思わず母マリヤは、「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」(ルカ2:48)と言いました。それに対してイエス様は何とお答えになられたでしょうか。イエス様は、両親に対して、「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」と、毅然として言われました。それはイエス様を捜すという行為が的外れなことなんですよと言わんばかりであったのです。両親はこのイエス様のおことばにとても驚いただけではなく、そのおことばの意味がよく理解できませんでした。
 
 このとき母マリアが言った「父上も」というのはこの世の父、すなわちヨセフを指していますが、少年イエスが「自分の父」と呼んだのは「御父なる神」の御父のことであります。このことは、母マリヤにとってもすごくショックだったと想像します。いやがうえにもマリアは天使の言葉や、神殿で出会ったシメオン老人の預言を思い出さずにはいられなかったことでしょう。わが子とはいえ、イエス様は普通の子供とは違う使命を背負っていることを考えざるを得なかったことでしょう。この時のイエス様のお答えは、ご自分が神の御子であり、どのような使命を持っておられたかをはっきりご存じであったことを示しています。日本語の新改訳では、「わたしの父の家(神殿)」となっているが、英語の新欽定訳によれば、「わたしの父の仕事(my Father's business?)」となっています。

 イエス様は、12歳の時にすでに、ご自身がどのような生涯を歩み、御父から授けられた尊いご使命がいかなるものであるかをご存じだったことを知ることが出来るのであります。この時にイエス様の心中を察することが出来ず、また彼が語られたお言葉の意味がはっきりと理解できなかったのです。いずれにしても、両親とイエス様はエルサレムで再会し、無事ナザレに帰ることが出来たのです。そして、母マリアはイエス様が言われたお言葉をみな、心に留めておいたのであります。読者のみなさんも、少年イエスが背負った運命が何のためのもので、その意味は何なのか、はっきりわかる時が来るまで、このお言葉を心に留めながら、引き続き聖書に親しみ、是非読み続けていただきたいのです。

●「しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。 」(ルカの福音書2:50~52)。

 さて、「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」 というこのみ言葉は、イエス様が真に人であられ、両親のヨセフとマリヤに仕えられ、普通の人間として成長して行かれたことを示しております(当然、罪を犯すこと以外においてですが・・・)。①知的面における発達→「ますます知恵が進み」。②身体的な面における発達→「背丈も大きくなり」。③霊的面での発達→「神に愛された」。④社会面における発達→「人に愛された」。このように、主イエス様はすべての面において完璧に成長して行かれたことを知ることができるのであります。ここに、少年時代のイエス様の成長の記録と偉大さを見ることができます。
 
 そして、天地万物の創造主なる御方であるにもかかわらず、主は身分の卑しいユダヤ人の家庭に生まれ、大工の息子としてナザレで過ごされたのです。そして、その貧しい家庭において御父にも両親にも従順な子どもとして成長されたのであります。この時から30歳(公生涯の初め)に至るまでの18年間の歳月のことについては、聖書は何故か沈黙し、何も語っていません。これらの年月は、主イエス・キリストの公生涯のための準備期間として必要なものであったのでしょう。イエス・キリストの公生涯における試練と迫害、そして十字架の死に至るまでのことを熟考しますと、やはりこの期間は訓練のために必要なものであったのだと考えることができます。
 
 また、イエス様の両親はわが子が道に迷ったと思って、あちこち捜しながら、エルサレムに引き返したのでありますが、神の御子が「道」(人生の道においても)に迷うことは決してありません。かえって、イエス様の両親も含めて、私たち人間が神から離れて道に迷っているのです。そのような迷っている者たちを捜し出して神の御許に導いてくださるためにキリストはこの世に救い主として来てくださり、十字架にかかって身代わりに死んでくださったのです。イエス様ご自身こそ、「私が道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)と言われた御方であります。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たからです。」(ルカ19:10)と書かれてある通りなのです。
 
●「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。 」(ピリピ人への手紙2:6~11)。 

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★人間の弱さと神の恵み

2006-07-24 | 「聖書と人生」



●「私には、自分のしていることが分かりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。‥‥‥私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ人への手紙7:24)。
 
 人間は、だれでも良心を持っていますから、「一人の人間として正義感をもって正しく生きて人生を終わりたい。」という願いが心の底のどこかに必ずあるはずです。しかし、理想と現実との間には大きなギャップがあり、心の中に少しの汚れも偽善もなく、清く正しく生きるなどということはとても難しいということに気づくのです。孔子は、「義を聞きてうつる能わざる(正しいことを聞いて自分を正しくできない)、不善を改むる能わぎる、これわが憂なり」と言い、王陽明(学者)は、「山中の賊は平らぐるに易く、心中の賊(罪や汚れ)は、平らげ難し。」と言ったことはみなさんもご存じだと思います。どんなに正しい立派な教えがあっても、人間にはそれを実践することができないというのです。

 理性では、人間はどうあるべきか、またどのような倫理観を持って生きるべきかということは分かっているのです。しかし、それを実行する力がない自らの弱さに気づくのです。人は、罪の力に対して無力であり、一人の人間が真面目に生きようとすればするほど、もうそれだけで容易ではないことに気づきます。冒頭の聖句は、パウロが回心してクリスチャンになってから告白していることばなのです。クリスチャンになると、それ以前に考えていたよりはるかに人間は罪深く汚れた罪人であることを意識するようになります。ある意味で、このパウロのことばはすべての人間の”心からの叫び”ではないかと思います。人間には善をしたい、正しいことをしたい、日々美しい心で生きたいという願いがあっても、それを行う力がないのです。

 パウロは、信仰をもってから、最初は「私は使徒たちの中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。」(Ⅰコリント15:9)と言いました。また、さらに時間が過ぎた頃には、「すべての聖徒の中で一番小さな私・・・・。」(エペソ3:8)と言いました。また、その後、老境に入って殉教直前になってから、「‥『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(Ⅰテモテ1:15)と書いています。「私はその罪人のかしらです。」というのは、世界中のすべての人は罪人だけれども、私はその中で最も罪深い罪人です、ということであります。人間は、聖書の神に出会うとともに、自分が人生を長く経験すればするほど、益々自らが罪深い存在であることを自覚するようになるのです。

 どんな人に対しても、思いやりのある優しい自分でありたい。自分をいかに悪く言いふらすような人でも、心から赦してあげたい。嘘のない誠実な人生を歩みたい。どんなときも他人に対して暖かい広い心をもった謙遜な人でありたい。自分を嫌い、あるいは憎んでいる人でも、分け隔てなく接して、他人の失敗を寛容な心で受け入れてあげたい。国籍や人種、職業、貴賎貧富などに関係なく、一人の人格を持った人間としてすべての隣人を愛する者でありたい。不道徳な汚れた思いを持たず、自分の心をいつも清く保ちたい。どのような誘惑に対しても強い正義感で退け、倫理観を持つ人間でありたい。人間であれば、このような理想はだれでも持っているはずです。しかし、現実にはそれと反対のことをするのが人間の弱さではないでしょうか。

●「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることが出来るのです。」(ヘブル人への手紙2:18)。

●「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 」(ヘブル人への手紙4:15、16)。


 渇きや空腹や疲れを経験したことがなければ、そのような人たちのことを理解するころができません。また、貧しさを経験したことがなければ、貧乏人の気持ちが分かりません。また、鞭で打たれた経験がなければ、そのような人の痛みや苦しさが分かりません。でもキリストは、人間の弱さを経験したことのない全知全能の神のままでななく、ご自身も肉体を持ったこの世に下って来られ人間となってくださり、空腹や渇きを経験され、肉体的な疲れも人間としての苦しみや悲しみも経験され、悪魔(サタン)の誘惑に勝つのがどんなに困難であるかをも経験してくださったのです。だから、人間の弱さも苦悩も理解できる方なのです。
 
 また、イエス・キリストは、人間の弱さをご存じのお方であり、キリストは「争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。彼(キリスト)はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともない。」(マタイ12:19,20)と書かれていますように、傷んだ葦、くすぶる灯心のような弱い人間に対して、常に優しく柔和に接してくださった方なのであります。人々から忌み嫌われ、隔離されて住んでいたらい病人がイエス様に救いを求めた時にも、やさしく手を触れ、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われると、そのらい病人はすぐに治り、きよめられたのであります。幼い子どもにも、心身に障害を持った人にも、弱い病人にも、同じようにやさしく接してくださいました。

 人間は、精神的にも肉体的にも、種々の周囲の悪い環境や試練に対しても無力な存在なのです。また、その他いろいろな面において弱い者たちではないでしょうか。外面的に(肉体的にも、精神的にも)どんなに強そうに見える人間であっても、実際は弱い存在であります。「どんなに大きな困難に直面しても、それを乗り越え生き抜こうとする逞(たくま)しさと、針の先ほどのささいなことが原因で絶望的になってしまう脆(もろ)さとが一個の人間の中に同居しているのである。」という意味のことを言った人がいますが、これは真実に近いことばではないでしょうか。小さな試練(いや、本人にとっては大きなことかもしれません)で、簡単に死の道を選んでしまう人もいるのです。

 肉体的なことに関しても同様です。若くして頑健な体を持っている人は、自分は強い人間であると思うかもしれません。しかし、使徒パウロは、聖書の中で、人間の体を「土の器」(Ⅱコリント4:7)と表現しています。***** もちろん、実際に神が人を創造されたとき、「土地のちりで人を形造り、その鼻に息(霊)を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)と記されています。***** 事実、そのときパウロには肉体のとげ(何かの病気か欠陥)があり、彼の体は迫害のために鞭打たれ、体中に傷痕がいくつもあったのです。そして、肉体的には、もう体はボロボロになっていたことでしょう。加齢と共に、益々彼はその肉体的な弱さを感じていました。しかし、そのようなパウロが次のように書いているのです。

●「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 」(Ⅱコリント4:16~18)。

●「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。 」(Ⅱコリント12:9,10)。

●「・・・・・私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。 」(ピリピ人への手紙4:11~13)。
 

 パウロは、「私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。」と語って、自らの弱さを何度も語ったのですが、キリストを信じる者は天国に入れられるだけでなく、この地上でも、多くの試練や困難に打ち勝ち、誘惑にも勝利し、肉体的な弱さや病気の苦しみの中にあっても、希望をもって喜んで生きることができたのです。これは、すべて神の力とキリストの恵みによることであります。自分がどんなに弱く無力であると思っている人も、神に信頼する時に強くなることができるのです。いいえ、自分の弱さを自覚すればするほど、益々神に信頼することを学ぶことによって、強くされるのです。あなたも、首をうなだれ、下を向いて悲しそうな顔をして人生を生きる必要はないのです。もっと、力強く、前向きに生きる人生が備えられているのです。

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★信じるだけで救われる

2006-07-15 | 「信仰と救いについて」
    
    
           
●「あなた方は、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、あらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ人への手紙2章8~10)。
 
 神のことばである聖書が教える真理は、人間は、何かの良い行いや慈善や修業をしたり、難行苦行をしたりしなくても、戒律や規則を守らなくても、念仏を唱えたり、多額の献金を差し出さなくても、何かの組織や団体に入らなくても、信じる者が救われるのです。多くの新興宗教は、お金を何らかの形で要求したりすることがありますから、要注意です。聖書は信じるだけで人は救われると教えているのです。もちろん、クリスチャンは良い行いをしなくてもいいとか、そういうことを言っているのではありません。クリスチャンは、救われるために何かの良い行いをするのではありません。救われた喜びをもって、感謝の心から良い行いをするようになるのです。これは、すべて神様の恵みなのです。「善人が死んだら天国に行く」というのは、少なくとも聖書の教えではありません。

 では、一体何を信じるならば、人は救われるのでしょうか? それは、すべてのものを創造された唯一の本当の神様が存在されること、そして、その神が、ご自身のひとり子であられるイエス・キリストを遣わされたこと、さらにキリストが、あなたと世界中のすべての人々を救うために十字架の上で身代わりに死んでくださったこと、そして、キリストは死後三日目によみがえってくださったことを信じるのです。これらのことを、ただ信じるだけで、あなたは救われるのです。聖書は確かにそのように教えています。聖書は神の啓示の書であり、全幅の信頼をもって信じるべき書物であると私は堅く信じております。

 それでは、一体何から人は救われるのでしょうか。それは、この世の罪の生活と死後のさばきである地獄(永遠の火の池)からの救いなのです。多くの方は、救いと言いますと、病気が治ること、心が安らぐこと、良い職場で働き、また人間関係もうまくいき、仕事が順調に進み、家庭の諸々の問題が解決すること、受験に合格し、よい職場に就職でき、経済的に裕福になることなどを考えられると思います。しかし、これらは、本当の救いではないことは明らかです。これらのものが与えられたとしても、人生の最後には、すべての人に平等に必ず死が来るのです。キリストを信じることは、そのようなこの世のご利益宗教とは全く異なるものです。

 すべての人に死の日は、確実に迫っているのです。そして、申し上げにくいことですが、間違いなく、あなたも必ず死ななければならないのです。そして、死後、神の前で、あなたが生きている間に犯した罪(悪い考え・自己中心・うそ・ねたみ・高ぶり・そねみ・暴力・姦淫・偶像礼拝)などが明らかにされ、その刑罰として、永遠の苦しみを受けることになります。この地獄から救われることが本当の救いなのです。ただ、地獄に行かないだけでなく、天国にまで入れてくださるというあり難い救いなのです。そして、この救いを受けるなら、死に対する恐れから完全に解放され、何があっても変わらない本当の喜びと、希望を持つことができるようになります。では、なぜ、ただ信じるだけで救われるのでしょうか。

 それは、神がご自身の御子を通して、その救いのみわざを完成してくださったからです。神は聖よく正しい方ですから、罪人であるあなたをさばかなればなりません。しかし、神は愛であり、あなたを愛しておられ、あなたを裁きから救おうとされました。そこで神は、ひとり子のイエス・キリストを遣わされ、この方が、十字架にかかって、あなたの身代わりに、罪の裁きを受けて死んでくださいました。このことによって、あなたの罪の裁きは終わりました。神がすべてをしてくださったので、あなたは救われるためには何もする必要はないのです。この救いを受けるのに必要なことは、ただ心でキリストを信じることだけなのです。

 「本当に、信じるだけで救われるのですか?」と聞かれる方が多いのですが、神の霊に導かれて書かれた聖書がそのように語っているのですから、その通りなのです。これは、あくまでも信仰の問題であり、理屈ではありません。「あなたは、そう断言するけれど、その証拠は一体どこにあるのか?」と反論されたり、疑問を投げかけて来られる方もおられます。でも、これは、繰り返しますが信仰の問題です。そして信じることも信じないことも自由であります。私は、このブログで、自分が正しいと信じることを発信していますが、これを読まれる方に無理に信じて下さいとは言っていないのです。人が何を信じるか、それはその人の自由であります。しかし、その人が何を信じたか・・・・その結果はやがて必ず明らかになる時が来るのです。

 イエス・キリストが十字架の上で、息を引き取られる前に、「完了した。」(ヨハネの福音書19:30)と宣言されました。神が私たちに求められるすべてをキリストが完成してくださったので、私たちはそれに加えて何かをしなければならないということは何もないのです。よく救われるためには何々をしなければならないとか、たとえば善行を励むとか修養、努力をしなければならないのではないかと言われますが、決してそうではありません。もしそうであれば弱い人間は救われることができません。神はすべての人にただ信じること(キリストが私たちのために十字架上ですべてを成し遂げてくださったことを信じる)によって救ってくださるのです。

 イエス・キリストは、十字架上で悔い改めて、イエス様を救い主と信じた強盗に対して、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたし(イエス)とともにパラダイスにいます。」と約束されたのです。もちろん、この強盗犯は、ローマの法律を破る重大な犯罪を犯した死刑囚でしたから、十字架で処刑されました。しかし、イエス・キリストの十字架の身代わりの死によって、彼は確かにパラダイスに行ったのです。イエス・キリストは、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と、ローマ兵や周囲を取り巻いていた見物人のためにも、愛と赦しの執り成しの祈りをなさった方です。このような愛に満ちたお方のお言葉をどうして疑うことができるでしょうか。

 では、救われてクリスチャンになるには何をすればよいのでしょうか。クリスチャンになるには次の二つのことが必要です。まず、一つは自分の罪を聖よい神様の前に告白してその罪を悔い改めることです。もう一つは神の御子イエス・キリストが自分自身の罪の身代わりとなって十字架に死んで罪の赦しを与え、復活していのちを保証してくださった救い主であることを信じることです。約2000年前に十字架に架かられて死んで三日目によみがえられたという歴史的真理を自分の個人的な救い主であると信じ受け入れることによって救われるのです。すなわち悔い改めと信仰によってクリスチャンになることができるのです。

●「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロの手紙1:8,9)。

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★「地球は青かった‥!」

2006-07-11 | 「神の存在について」


 
 1961年4月12日、人類初の有人宇宙船が打ち上げられました。旧ソ連の「ボストーク1号」に乗って、ユーリ・ガガーリン飛行士は、人類ではじめて大気圏を飛び出したのです。300キロメートルの高さから地球をながめて「地球は青かった。……この世のものとは思われないほどの美しさだった。」という言葉を残しました。打上げから1時間49分後にガガーリンは地球にもどってきました。しかし、当時の旧ソ連の技術では着陸がむずかしかったので、ガガーリンは高度7000メートルで宇宙船を脱出し、パラシュートを使用しての帰還でした。しかし、今日、どうでしょうか。私たちが住む、この美しい惑星は、いま危機に瀕しています。緑の破壊や海洋汚染、 オゾン層の破壊、CO2による温度上昇などなど人類の果てしない欲望とエゴの前に地球はその美しい姿を失いつつあります。  
 
 ところで、あなたは夏の夜空を仰ぎなら「宇宙旅行ができたらすばらしいなあ~・・・」と考えたことがありませんか?でも、人工衛星には訓練された宇宙飛行士など限られた人しか乗ることができませんし、そのためには莫大なお金がかかります。また、宇宙は無重力ですから体がフワフワと浮き上がって、逆さになったりするので、コップの水を飲むのにも舞い上がってしまって、うまく飲めないので、チュウーブに入ったものか固まったものしか飲むことができません。また宇宙は真空で、空気の圧力がありませんから、一着が二億円もするような重くて窮屈な宇宙服を着なければ生きて行くことができません。だれでも一度は宇宙旅行にあこがれるとことがあると思いますが、実に不便で不自由な旅行であることは確かです。

 ところが、みなさん驚かないで下さい。実はあなたは今、既にもっとすばらしい、快適な宇宙旅行を実際にしているのです!! 「えっ!あなたは何を言っているのですか?」と、あなたは怪訝(けげん)な顔をされるかもしれませんね。この広大な宇宙を、あなたは「地球」というすばらしい宇宙船地球号に乗って、なんと毎秒30キロメートルという物凄いスピードで、太陽の周りを宇宙旅行しているのです。この地球号からは、夜になると、宇宙にあるたくさんの星をながめることができます。また、ちょうどよい強さの引力があるので、地上に立って歩くこともできますし、暑苦しい宇宙服など着なくても快適に過ごすことができます。地上の空気は音を伝えるので、自由に話をしたり、音楽や小鳥のさえずりの声などを聞くこともできます。

地球は太陽のまわりを回る惑星の1つであります。直径は約1万3000キロメートル、赤道のまわりは約4万キロメートルあります。地球はよく「水の惑星」と呼ばれ、太陽系の中でも地球にだけ液体の水が存在します。その水である海は地球の表面の7割を占め、このおかげで生物が住みやすい環境ができているのです。今までの調査でわかっているかぎりでは、太陽系9つの惑星と61以上の衛星のなかでも、生物が存在しているのは地球だけなのです。私たちは、このすばらしい環境が整えられた地球号で宇宙旅行しているのです。

 月の世界では、日中は110℃という焼けつくような暑さになり、夜になると氷点下120℃という凍る寒さになりますが、地球には空気がありますから昼と夜で温度の差が少ないので、生きて行くためには、ちょうど良い温度になっています。人間が科学の先端の技術を用いて作った人工衛星は、6,7人で満員になりますが、地球はなんと60数億人以上の人々の他に、多くの動物も乗せることができるばかりではなく、青い海や山脈、河川、また、人が生きるために必要なたくさんの食べ物、果樹や野菜、私たちの目を楽しませてくれる季節が変わるごとに咲き誇る美しい花々など、すばらしいものが満ちあふれています。

 人工衛星が偶然に出来ることはないように、その人工衛星よりもはるかにすばらしくできている地球が、偶然にひとりでに出来るわけがありません。実は、地球は創造者なる神がお造りになられたすばらしい「神工衛星」と言ってもいいかもしれません。この神が創造された「宇宙船地球号」に乗って、私たちは毎日快適な生活をしているのですが、そのことに気づかないで生きている方が大部分ではないでしょうか。そして、この地球には、すばらしい環境と美しい自然界が満ちているではありませんか。この地球は決して偶然の産物でないことは、真面目に考えれば誰にでも分かることです。次の聖書のことばにあるように、この地球は神が人の住む場所として環境を整えて与えられたのです。
 
●「天は、主(神)の天である。しかし、地(球)は、人の子らに与えられた。」(詩篇115:16)。 

●「天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てられた方、これを形のないものに創造せず、人の住みかに、これを形造られた方、まことに、この主がこう仰せられる。『わたしが主である。ほかにはいない。』‥‥」(イザヤ書45:18)。

●「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」(詩篇19:1)。

●「あなた(神)の指のわざである天を見、あなたの整えられた月や星を見ますのに、人とは何者なのでしょう。‥‥」(詩篇8:3,4)

●「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ロ-マ人への手紙1:20)。

●「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。‥‥‥神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」(使徒の働き17:24,25)。


 また、ロボットがひとりでに進化して出来ることがないように、そのロボットよりも100兆倍以上も精密に出来ている私たち人間の体や心が、ひとりでに進化して出来るわけがないのです。あなたも私も母親のお腹の中で、わずか10ケ月の間に、微小な受精した卵子から体のすべての器官が出来上がり、生まれて成長して来たのです。偶然に進化して出来上がったのではありません。人間の祖先は、決してアメーバーやトカゲやワニや猿のようなものではないのです。神はすべての動物や生物を種類によって造られ、人間は最初から、神が愛し給う「人間」として造られたのであって、偶然の産物ではないのです。
  
●「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)。

 聖書が示す天地万物を創造された神は、私たち人間をも創造され、体と命と霊をお与えになられ、日々太陽の熱や光、そして地から生産される食物を与えて生かしてくださっておられる愛に満ちたお方です。しかし、最初に神が造られた人間の始祖アダムとエバが罪を犯して神に反逆してから、その子孫は今日に至るまで、みな神に背を向けて自分勝手な自己中心の罪の生活を送っているのです。そして、今日の世界を見ると、確かに科学が進歩し、文明が発達し、世の中は便利になりましたが、人間は神を忘れ、「自分さえ良ければそれでいいのだ‥!」と、地球の陸も海も空も益々汚染し続けているのです。地球の温暖化により、世界中の気象に異変と異常が起こり、それがファクターとなっている災害も増加していることは事実です。

 愛の神様は、親が自分の子供たちが仲良くすることを望むように、人類が互いに愛し合うことを望んでおられますが、罪に満ちているこの地球上の人類は、互いに憎しみ合い、テロや殺戮(さつりく)をくり返しており、国家間の戦争の危機が常に存在します。今日、世界には地球を50回以上も焼いて破滅させるだけの核があると言われています。しかし、みなさん、希望を持ってください。聖書は人間に希望を与えるために書かれたものです。それは、今から約2,000年前に、神の御子イエス・キリストが地上に来られ、私たちに救いの道を開いてくださったのであります。キリストは、人間の罪のために、身代わりに十字架に架かられ、三日目によみがえられたお方なのです。どうか、あなたも救い主イエス・キリストを信じ受け入れ、救われて天国に入る方となって下さい。
 
●「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。」(ガラテヤ人への手紙1:4)。

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★人間の愛と神の愛

2006-07-06 | 「神の愛について」



  大正時代の著名な作家、有島武郎が語った「愛の表現は惜しみなく与えるだろう。しかし、愛の本体は惜しみなく奪うものだ。」という有名なことばがありますが、意味深長で「真実の愛とは一体何か・・・・?」について考えさせられるのではないでしょうか。ここに人間の愛の本質と限界を覚えさせられるのです。

 人間関係を難しくしている問題のほとんどが愛の欠如によるものであり、愛と憎しみの葛藤が人間を不幸にしている一番大きな原因であると言っても過言ではありません。私たちはだれでも心の中に人に愛されたいという思いがありますから、自分を愛してくれる人がいると、そちらの方に惹きつけられて行きます。しかし、私たちの周りには真実な愛があるように見えてもないのが現実ではないでしょうか。例えば、男女間の愛はうわべは純粋なように見えても、非常に利己的で肉欲的であり、相手の犠牲を要求することが多いのであります。そして、人は、相手に愛を期待するときに、それに応えてくれないと孤独感を味わうのです。人間の愛は常に相手に何かを期待し、求める愛なのです。

 「最高のそしてもっとも深い愛とは母性愛である。」と言った人がいますが、確かに、母親のわが子に対する愛は献身的、犠牲的でこの世の中で一番美しいもののように見えます。しかし、その母親の愛でさえ、自分の子供にのみ注がれるもので、普遍的なものではありません。また、最近は、そのもっとも美しいはずの母親の愛でさえ疑わしくなって来ました。近頃の母親はその実の子をゴミのように捨てたり、殺したり、恐ろしいニュースが毎日のように報道されています。殺伐とした嘆かわしい時代と言わざるを得ません。すなわち、母親でさえも本当の愛を示すことが出来なくなって来ているのです。また、互いに愛し合って二人が再婚したけれども、自分の夫の子供を愛することが出来ないと悩んでおられる方もおられます。

 ギリシャ語で、愛を表すことばが四つあるのをご存じでしょうか。
①『エロス』‥‥男女間の性愛を表すことばで、このエロスということばは、新約聖書には一度も出て来ないのです。
②『ストルゲ』‥‥特に家族間の愛を示したものです。これは、父子、兄弟などの愛を表しているようです。しかし、ストルゲも新約聖書に一度も出てきません。
③『フィレオー』‥‥友情や夫婦間の愛情を表すことばで、新約聖書には4回ほど出てきます。
④『アガペー』‥‥新約聖書には120回ほど使われ、これが動詞になったものは130回も使われています。この愛は、神が人を愛する愛を表すときに使われていますが、自分に敵対する者をも愛する無条件の愛なのです。 

 聖書は神の愛を「アガペー」と言っています。アガペーとは自己犠牲的愛、自分を注ぎ出す愛です。相手に何も見返りを求めない一方的な愛、無条件な愛です。それに対して、人間の愛は自己中心的で、条件つきの愛です。「あの人は誠実な人だから愛する。」「金持ちだから愛する。」「自分に親切にしてくれるから愛する。」というように、条件付で他人を愛するのです。この人間の愛と対極にあるものが「神の愛」(アガペー)であります。何も見返りを求めない純粋な愛なのです。自己犠牲はそういう損得勘定と関係なしに、損得を超えて奉げる愛であります。イエス・キリストが人類の罪のために身代わりに十字架に架けられ、死んでくださったのは、自己犠牲の愛です。どんなに罪深い人の罪をも赦す十字架の愛こそ、神の愛であり、アガペーの愛です。

 この世の中に「完全な愛」などというものが存在しないのです。生まれながらの人間はこのような純粋なアガペーの愛を持っていません。私たちはだれもそのような愛を知りませんし、まただれもそのような愛を持ち合わせていないのです。ところが、聖書には「神は愛です。」(Ⅰヨハネの手紙4:16)と書かれてあります。そして、その愛は「完全な愛」(4:18)であるというのです。神の御子であられるイエス・キリストは、その神の完全な愛を表すためにこの世に来てくださったのです。ですから、私たちがイエス・キリストを信じ、このお方を知る時に、完全な愛とはいかなるものかを知るのであります。愛の試金石は犠牲であります。十字架は愛のクライマックスです。キリストの十字架の下(もと)に来て、人は初めて「愛」の真の意味を知ることが出来るのです。

●「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」(ヨハネの第一の手紙3:16)。

●「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れには刑罰が伴なっているからです。‥‥私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(ヨハネの手紙4:18,19)。

 
 現代は断絶の時代と言われていますが、人と人の間の信頼と愛が失われて行くのは本当に悲しいことであります。親と子、夫と妻、先生と生徒(学生)‥‥これらの最も親密であるべき人間関係にも亀裂が生じてきて、人々はお互いに信じることができず、傷つけ合って生きているのであります。そして、社会のいたるところに分裂や争いや憎しみが満ち、不信感が人々の間に広がっています。しかし、確信を持って言えることは神の真実の「愛」(アガペー)こそは、人生のあらゆる問題を解決する鍵(かぎ)であるということです。人と人を結び合わせるもの------それは神の愛です。お金や利害関係や組織による結合は一時的なものであり、必ず破綻が来ます。

 しかし、人と人とが本物の神の愛によって一つに結び合わされるとき、それは非常に強いものです。愛の絆ほど強いものはありません。「愛は死のように強く、‥‥大水もその愛を消すことはできません。洪水も押し流すことができません。」(雅歌8:6,7)と聖書にあります。どんな困難に直面しても神の愛はそれを克服することができ、また忍耐する力も与えられます。そして、真実の愛は自分だけではなく、他人をも生かすのです。憎しみは人を滅びに至らせますが、愛は人を生かす力があります。愛は人を赦し、人を受け入れ、人を理解しようとします。断絶した人間関係を回復させるものは「神の愛」であり、人々の心に平和と安らぎを与えるものです。

 聖書は、この世の中は終末に向かうに従って、益々人々の愛が冷えることが予告されています。現在、多くの人々は愛の欠如のゆえに非常な心痛と疲れを覚えなら人生を送っているのではないでしょうか。愛のあるところに渇きはありません。この地上で、もし人が互いに愛し合うことができるならば、人間の心の渇きはどんなにか満たされることでしょう。また、その心の疲れはどれほど癒されるでしょうか。あなたも、この愛に生きる人生を送るために、是非、聖書をお読みになってください。そして、キリストの十字架に表された神の愛がいかに絶大なものであるかを知ってください。神の愛を受け入れるときに、あなたも神と人とを愛する人生を送ることができるようになるのです。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への手紙5:6~8)。 

●「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたし(神)はあなたを忘れない。 」 (イザヤ書49:15)。 

●「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。 」(ヨハネの手紙4:7~11)。


 愛の本質は与えることであると聖書は語っています。人間にとって不幸なことは、人から愛されなくなることよりも、人を真実に愛せなくなることです。多くの人は本当の愛なんてないのだ、そんなものは机上の空論に過ぎないのだと考えています。しかし、それで、納得し満足しているかというとそうではないのです。神はイエス・キリストによって、人間の世界に本当の愛を示してくださいました。神の御子であられたキリストは、33年間この地上で人間として生活されました。彼の生涯はご自身を無にして与え尽くすものであったのです。そして、十字架の上でその愛は完全に示されました。神はキリストの愛を今もあなたに与えようとしておられます。あなたがその愛を受け取るために差し出す手が信仰なのです。

◆(E-mail): goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」


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