聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★心の空洞を満たすもの

2006-08-31 | 「人生の幸せと平安」
        


●「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』」(創世記3:9)。
  
 終戦直後は、日本中が飢餓の時代でした。誰も彼も日本人みんなが、来る日も来る日も空腹を満たすことだけを求めてさ迷い歩いたのです。そして、経済成長の時代には、物質的な豊かさを求めて一生懸命に働きました。物質的に繁栄し、豊かになることが幸福とバラ色の未来を約束するものであると信じたからです。そして今、日本人は物質的に恵まれ、食べたいものを食べ、したいことは何でもできるような飽食の時代を経験しているのです(しかし、今日世界の各地で一日に何万人もの子供たちが飢餓のために死んでいることもまた事実です)。

 しかし、日本人の多くは物質によってお腹を満たすことだけが人生の幸せではない、「心の満たし」こそが必要であることに気づき初めているのです。ある人は、今の時代を「心の時代」と呼んでいます。心の時代に入った日本人は、音楽や絵画などの芸術やスポーツ、旅行などによって満たされた人生を送ろうと思って、いろいろ試しています。そして、お年寄りたちは、自分たちが若かった頃、貧しさのためにできなかったことを楽しもうとしていろいろなことを試し、挑戦していることが分かります。若者たちもまた、常に新しい趣味や娯楽やレジャーを求めてあちこちと歩きまわっているのです。

 しかし、食べ物や着物によって埋めることのできなかった心の空洞は、果たして、芸術やスポーツや旅行などによって埋めることができるのでしょうか。あなたは、心の中に何ものによっても埋めることのできない、ぽっかりと空いた空洞を感じることはないでしょうか。「人生の意味が分からない。死にたい。」と悲痛な叫びを上げている若者が日本中にあふれているのです。若者だけでなく、定年を迎えた高齢者も毎日のように自殺しています。何と、日本の一年間の自殺者は3万人以上にも達しているのです。隠れた自殺志願者は、その10倍もいるのではないかと推測されています。人々の心は非常に病んでおり、いろいろな歪みが生じているのです。

 孤独感や寂しさを紛らわすために、主婦が台所の片隅でお酒を隠れて飲むところから名づけられた「キッチンドリンカー」が増えていると言われています。 最近では核家族化が進んでいるため、母親が1人で育児や家事に追われることも少なくないのです。また、育児に関して相談できる人もなく、マニュアル本しか頼ることが出来ずに、育児ノイローゼになる若い母親も急増しています。それと共に、子育てが終わって目標が無くなったための喪失感、家庭内の事情によるストレスなど、これらのことが原因でお酒で空虚な気持ちを解決しようと飲み始めるパターンで20歳代後半から50歳代の主婦に多いと言われています。この日本は今、一体どこに向かって進んでいるのでしょうか・・・・。

 あの有名なパスカルは、「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は創造者である神以外のものよっては埋めることができない。」と言いました。真の神(創造者)との交わりによってしか埋めることのできない私たちの心の空洞を埋めて下さるために、神の御子イエス・キリストは天から人となって下って来てくださいました。そして、神と私たちの交わりの障害となっていた人間の罪を取り除くために、罪人の身代わりとなって、十字架の上で神のさばきを受けてくださったのであります。神が遣わされた救い主であられるご自身の御子イエス・キリストだけが、あなたの心を喜びと平安と希望で満たすことのできる御方なのです。

 神は創世の初めに、人(アダムとエバ)を造られ、「エデン(歓喜)の園」を設け、人が住むために必要なあらゆる環境を整えられ、そこに彼らを住まわせられたのですが、彼らはサタンの誘惑に負けて、神のご命令、すなわち「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16,17)との禁令を破ってしまったのです。そして、アダムとその妻エバは主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠したのです。そして、冒頭の聖書のみことばは、その時に神が人に語りかけられたことばなのです。

 「あなたは、どこにいるのか。」との神の語りかけは、神が盲目になって人間を見失われたのではありません。人間が神との交わりから脱落したので、愛なる神は人との交わりの回復を切に求められて、人に呼びかけて言われたおことばであります。聖書は、実に、人がもう一度神との交わりを回復するためにあらゆる面から記されているものであって、この長い長い聖書66巻のすべては神の人類に対する偉大な愛の手紙であり、人類救済のために神がどのようなご計画を立てられ、また、それを実現されたかを語っているのです。

 人類の歴史は、アダムの罪以来、神に対する反逆と罪の歴史であると断言しても過言ではありません。しかし、神はその神から離れてさ迷い、神に帰る道を捜し求めている人間を、今日までずっと捜し求め続けておられるのです。今日も、神はあなたの心に、「あなたは、どこにいるのか。」と語り続けておられるのです。そのために、神はご自身のひとり子イエス・キリストを人間の罪の身代わりに十字架につけて罰しなさったのです。この救い主イエス・キリストは、死後三日目によみがえられ、今も生きておられる御方なのです。どうか、神の愛を受け入れ、主イエス・キリストを信じてあなたの心が平安と喜びと希望で満たされたものとなりますように。

●「人の子(キリスト)は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカの福音書19:10)。

●「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることができません。」(ヨハネの福音書14:6)。

●「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 (ヨハネの福音書7:37,3
8)。

●「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネの福音書6:35)。


 あなたに必要なのは、「私は何をするか?」ではなく、「私はどこにいるのか?」を真剣に考えることではないでしょうか。神から遠く離れた危険なところにおられますか?それとも、救い主イエス・キリストを信じて、神様の近くにおられますか?神様の近くにいることこそ、心の空洞が喜びと平安に満たされた幸いな生活なのです。 旧約聖書の小預言書アモス書の中に次(下記)のような警告のことばがあります。パン(食糧)の飢饉よりも、もっと恐ろしいのは、「心の飢餓」すなわち、「主のことばを聞くことの飢饉」ではないでしょうか。今こそ、心を静めて聖書のみことばに耳を傾ける時ではないでしょうか。どうぞ、神のみことばで心が満たされますように。 

●「見よ。その日が来る。――神である主の御告げ。――その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」(アモス書8:11)。

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★奴隷オネシモの救い

2006-08-24 | 「神の愛について」

     

●「もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。」(ピレモンへの手紙18)。

 新約聖書の中に、パウロが書いたとても短い手紙があります。それは、「ピレモンへの手紙」です。この手紙は、パウロが福音のためにローマで獄中にあった時に、コロサイ集会の信者であったピレモンに宛てて書かれたものです。その背景を少し考えますと、ピレモンの奴隷であったオネシモは、主人(ピレモン)の物を盗んで逃亡し、ローマにまで行ったのです。

彼は、恐らく大都会の雑踏に紛れ込めば容易に捕まらないだろうと考えたのではないでしょうか。そうするうちに、どういう事情か分かりませんが、オネシモは獄中のパウロに出会い、キリストの福音(良き訪れ)を聞いて、回心したのです。 
 
 そして、オネシモはクリスチャンになってからしばらくの間、パウロに仕えていたようです。彼が救われてからすぐにパウロに仕えるようになったことは彼の回心(悔い改め)が本物であったことをよく表しています。当時の習慣によれば、奴隷はあくまでも主人の所有物であったので、パウロは機会を見て、彼を主人であるピレモンのもとに帰そうと考えていたのではないかと思われます。

しかし、主人の物を盗んで逃亡した奴隷は殺されるのが常であったのです。そこで、パウロはピレモンに、オネシモを今までのように奴隷としてではなく、主にある兄弟として赦して受け入れてくれるように頼んでいるのです。そのために書かれたのが、この「ピレモンへの手紙」です。一介の奴隷に過ぎない者のために心を砕き、愛の労苦を惜しまないパウロの姿の中に”キリストの愛”を彷彿とさせるものがあります。

 オネシモが与えた損害は自分が代わって負担すると申し出ることで、主人と奴隷が和解することをパウロは願ったのです。この手紙は、パウロが書いた手紙の中で最も個人的なものであり、オネシモという一人の奴隷のためにピレモンに懇願するという愛に満ちた執り成しの手紙なのです。この手紙を通して、当時の奴隷制度の一面と、それに対するキリスト者の態度をも知ることができます。

パウロは奴隷制度それ自体には反対していませんが(勿論、聖書は奴隷制度を肯定しているのでもありません)、主人も奴隷も主にある兄弟として交わることにより、実質的には奴隷制度が改善されることを願っているのです。

●「むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。」(ピレモンへの手紙9)。
 
 パウロは、使徒としての権威をもってピレモンに命じることも出来たのですが「愛によって、あなたにお願いしたいと思います。」と言って、謙遜に懇願しているのが分かります。パウロは、10節で「獄中で生んだわが子オネシモ」と言っていますが、これは、もちろん霊的な意味での比喩として言われていることは明らかです。

 オネシモは獄中にいたパウロと出会い、パウロに導かれて回心し、救われたのであります。それで、パウロはオネシモのことを「獄中で生んだわが子オネシモ」と言っているのです。ここに、パウロのオネシモに対する主にある親愛の情が示されています。

●「彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。」(ピレモンへの手紙11)。

 「オネシモ」とは、「役に立つ者」という意味です。事実、彼は以前は役に立たない者でしたが、今はキリストを信じて救われ、神のために役に立つ者とされました。私たち人間も、神の前には役に立つ者として創造されたのですが「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。」(ローマ人への手紙3:12)とある通り、神から離れ、役に立たない者となってしまいました。

 私たちは全く無益な者であり、神の前には何の役にも立たない罪人でありますが、キリストを信じて救われる時に、初めて役に立つ者(有益な者)となることができるのであります。したがって、クリスチャンは、今、神のあわれみによって、役に立つ者とされたのです。

●「彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。」(ピレモンへの手紙15)。

 この聖句は、オネシモが逃亡した背後には、神の摂理があったことを示唆しています。人の目から見ると、自分で勝手に主人であるピレモンから逃亡したように見えますが、神の側から見ると、また別な見方があるのです。そのように、一切の出来事の背後に愛なる神の許しと摂理があることを認める時に、人生の見方が全く変わってしまうということがあるのです。

 パウロは、すべての出来事の背後に神の摂理があることを認めて信仰によって生きた人です。「人が失望(disappointment)する時は、神の計画(appointment)の時である。」ということばがありますが、事実、その通りなのです。

 この世では、クリスチャンであっても人はみな社会的身分があったり、職業も違い、人種や肌の色も違います。また、社会的な差別があったりします。しかし、それは、この世だけのことです。天国では、もうそのような区別も差別もありません。永遠に主に在って兄弟なのです。ルカ伝15章に有名な放蕩息子の例え話がありますが、あの弟息子も父親から逃亡し、しばらくの間父親から離れていました。

しかし、その背後にもやはり神様の許しと摂理があったのです。それは、父親が弟息子を永久に取り戻すためであったのであります。私たちもまた、同様に、長い間神様から逃亡し、神様に背を向け、罪の生活を続けていましたが、その背後にも同様に、神の暖かい摂理のあったことを認めることができます。

●「もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。」(ピレモンへの手紙18)。

 私たちは、パウロの、奴隷オネシモに対する愛の中に、イエス・キリストの私たちに対する愛を見ることができるのです。パウロは、オネシモが主人ピレモンに損害を与えた責任を自分が代わりに負い、弁償しようというのです。このようなキリスト者としての美しい愛は、キリストの十字架の身代わりの死に原型があります。ルカの福音書の23章のキリストの十字架の場面を思い起さずにいることはできません。

イエス・キリストは、私たち一人一人のために、十字架の上で次のように執り成してくださったのです。何という驚くべき愛ではないでしょうか。私たちが、このような神の絶大な愛を拒む理由はありません。どうか、みなさんも、キリストの愛を受け入れて永遠の滅びから救われて下さい。神はあなたが神に立ち返るのを待っておられるのです。

●「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」(ルカの福音書23:34)。

◆(E-mail): goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」 
 


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★果たして偶然でしょうか?

2006-08-17 | 「神の存在について」
     

        

 アメリカ合衆国初代大統領であったGeorge Washington (ジョージ・ワシントン)(1732~1799)には、隠された多くの逸話があります。その一つに次のような話があります。それは、ジョージが5歳になった1737年の春のことでありました。ジョージのお父さんは、きれいに均(なら)した畑にキャベツの種を蒔きました。そして、彼のお父さんは、ある考えがあってのことですが、「GEOGE・WASHINGTON」という文字の形に種を蒔いたのです。そんなことは知らないジョージは、しばらく経ったある日その畑を通りました。そして、彼は、その畑に青々とした大きな文字が目についたのです。「おやっ!字が書いてある・・・・!ああっ!Gだ、次はEだ、Oだ、・・・・あれっ!GEOGE・WASHINGTON じゃないか。これは、一体、どうしたんだろう!」。
  
 口も利けないほど驚いたジョージは、大急ぎでお父さんのところへ走って行きました。「お父さん、お父さん、ちょっと、ちょっと!・・・・・。」「どうしたんだ、ジョージ。一体、何が起こったというのだ。」と、お父さんは聞きました。「お父さん、ちょっと畑に来てください。畑が大変なんです!」。ジョージはお父さんの手を引いて無理やりに畑へ連れて行きました。その黒い土のおもてには、美しい青い文字がくっきりと見えていました。ジョージは、不思議そうに言いました。「お父さん、これですよ!これが不思議ではありませんか?」と畑を指差して言いました。「どうして、キャベツの芽がぼくの名前に生えたの?。お父さんは、これまでにこんな不思議なことを見たことがありますか?」。
 
 ジョージのお父さんは答えました。「うぅーん。・・・・・なるほど!不思議と言えば不思議だが、しかし、別に不思議なことでもないんだよ!」。ジョージは驚いて聞きました。「えっ!どうして、これが不思議でないのですか?」。お父さんは、できるだけ平静を装って答えました。「ジョージ、お前はどう思うかね・・・。だれかがこのような文字になるようにキャベツの種を蒔いたと思うかね。それとも、ひとりでに、偶然にこのように生えたと思うかね・・・・?」。ジョージは、しばらく腕組みして考えてから答えました。「そりゃ~、だれかがこのようにしたのだと思います。おとうさん、だって、メチャクチャに種を蒔いたらメチャクチャに生えるに決まっているではありませんか!」。

 ジョージのお父さんは静かに答えたのでした。「そうだね、ジョージ。だれかがそうなるように種を蒔いたのだね。いや、おとうさんが、「GEOGE・WASHINGTON」という字が浮き出るように種を蒔いたのだよ。それと同じように、この宇宙も地球もいろいろな生物も、人間も、みんなひとりでに偶然に出来たのではなくて、天のお父様である神様(God)がお造りになられたのだよ・・・!」と、このようにわが子に神様のご存在について教えたと言われています。このようにして、小さい時から真の神様のことを知らされたワシントンは、大人になって、やがてアメリカの初代の大統領に選ばれても、神様のことを決して忘れることはなかったと言われています。小さい時に創造者である神様の存在について知ることは本当にすばらしいことです。その後の人生を大きく左右することは間違いありません。

 探検隊が太平洋の真中に今まで地図で見たことのない島を発見したとしましょう。上陸して歩き回っているうちに大きな都市があるのを発見します。しかし、そこには人は一人もいません。でも、立派な家もあり、団地もあります。舗装道路も自動車もあり、家の中を覗くと、水道、テレビ、冷蔵庫などの電気製品まで完備されてあります。しかし、いくら捜しても人が見つかりません。さあ、そのような街を見て、隊員たちは何と言うでしょうか?。「この都市はすべて偶然に出来たのだ!」というでしょうか。それとも、「この街の市民は一体、どこへ行ったのだろう!」と言うでしょうか。もちろん、後者に決まっています。隊員たちは決して、この街が偶然(自然)に出来たと考えることはありません。さて、この近代都市と私たちが住んでいる地球とどちらがすぐれているでしょうか。人間や生物の生命を保つためにすべての環境が整っているこの地球や、太陽系がひとりでに偶然に出来るはずがないと考えることは理性的な当然のことではないでしょうか。

 ある男の人が、クリスチャンに向かって、「神はいない!」と断言しました。それに対して、そのクリスチャンは皮肉たっぷりに、「私は今日、神を見ました。あなたが神です。なぜなら、神がいないことを知っているなら、あなたは実に神です。」と。人間は必ず、時間と空間との制限を受けているので、「神はいない。」などと言うことは決してできないはずであるというのです。無神論者が神のいないことを証明するためには、宇宙の果てまですべてのもの調べ尽くして、結論を出さなければならないのです。無神論者が、「神はいない。」と証明する根拠となる事実は何一つないのです。フランスの無神論者ヴォルテールは、大嵐になって、船は木の葉のように揺れ、雷が落ちたとき、「おぉ~、神よ。助けたまえ!」と言いました。彼の奥さんは、「あなた、今、何と言いましたか?」と尋ねると、「こんな時は何とでも言わなければなるまい。」と答えたとのこと。彼には、神がいないという確信がなかったのです。無神論者は、人生に明確な確信を持つことができないのです。

 それから、 これは大分若い頃何かの本で読んだ話で、うろ覚えなのですが、一人のクリスチャンの少女が重病で瀕死の状態にありました。もう口もきけないほど弱っており、耳もよく聴こえなくなっていました。ある日、その彼女の病床へ無神論者の友人(男性)が見舞いに来たのです。そして、彼は彼女は神を信じているのに神は何も助けてくれないではないかという意味を込めて、一枚の白い紙に、「God is nowhere!」(神はどこにもいない)と書いて彼女に見せました。そうしたら、その少女は黙ってその紙を受け取り、「nowhere」の”w”と”h”の間を少し離して、「God is now here!」(神は今、ここにいます!)と書き直しました。それを見たその友人は非常に驚き、何も返事をすることができませんでした。そして、彼女は間もなく、平安のうちに天のイエス様のみもとに召されたのでした。あなたも神の存在と共に、神が備えられたキリストの十字架による救いをお知りになられ、希望のある人生をお送り下さい。

●「家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。」(ヘブル人への手紙3:4)。

●「愚かな者は心の中で、『神はいない』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしいことを行っている。善を行う者はいない。」(詩篇14:1)。

●「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ人への手紙1:20)。

●「天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てられた方、これを形のないものに創造せず、人の住みかに、これを形造られた方、まことに、この主がこう仰せられる。『わたしが主である。ほかにはいない。』・・・」(イザヤ書45:18)。

●「主(神)は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって、天を張られた。」(エレミヤ書51:17)。

●「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」(詩篇8:3,4)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。
 

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★重荷となる神と背負う神

2006-08-12 | 「人生の幸せと平安」
       
     
 
 ●「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼らは重荷を解くこともできず、彼ら自身もとりことなって行 く。・・・・・・・・胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。 わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。袋から金を惜しげなく出し、銀をてんびんで量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これにひざまずいて、すぐ拝む。彼らはこれを肩にかついで運び、下に置いて立たせる。これはその場からもう動けない。これに叫んでも答えず、悩みから救ってもくれない。 」(イザヤ書46:1~7)。
 
 この箇所には、「真の神」と「偶像」との違いがはっきりと書かれています。ベルとかネボというのは、ともにバビロンの偶像であり、これらは征服者の前に伏し屈み、これらの偶像は分捕り品の中に加えられて運び去られるというのです。征服者に負い、運び去られるバビロンの偶像の無価値なことを言っているのであります。これらの偶像は、民の重荷を負ってくれるのではなく、むしろ、民の重荷となってしまうというのです。真の神様は、「負う神。かついでくださる神。」であり、偶像というのは、「負われる神。かつがなければならない神。」であります。日本の多くの偶像の神々は、祭りのときに神輿(みこし)で担がれていますが、これは、何か日本の神々の無力さを象徴しているのです。 

 人間が作った多くの宗教は、人間の重荷を負ってくれるのではなく、逆に人間の重荷となるものが多いのです。多くの日本人は、ある信仰宗教に入ったために、心が安らぐどころか、その反対にそれによって苦しみ、大きな苦しみと負担を抱え込むことになるのです。ここで、「・・・胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。」と書かれているように、真の神様は母親の胎内にいるときから、白髪の老人になるまで、背負ってくださる神であるというのです。神は、私たちの人生の全生涯において、ご自身のみ力で責任をもって支えてくださる方なのです。何と偉大な愛に満ちた神ではないでしょうか。

●「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」(イザヤ書63:9)。

 イスラエルの民は、彼らの不従順のゆえにたびたび神の試みを受け、苦難と試練を通ったのですが、神は彼らと共に苦しみ、イスラエルの民の歴史の中で、ご自身の愛とあわれみを表してくださたのです。「昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」とあります。不従順なご自身の民に対して、神はこのようにわが子を背負い抱く母親のように真実の愛を示してくださいました。人間には、生きている限り必ず、苦しみがあり、悩みがあります。しかし、愛なる真の神は、その苦しむ人間の側に立って、いっしょに苦しんでくださる御方なのです。そして、私たちの生涯の間、私たちを背負ってくださるというのです。

●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11:28)。

 ここに、人生の重荷のゆえに苦しみ、疲れ切っている人たちを招いておられる神の御子イエス・キリストのおことばがあります。「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し。」との徳川家康の遺訓がありますが、波乱万丈に満ちた生涯を送った徳川家康の心中が察せられる重みのあることばではないでしょうか。現代の私たちも同じように、人生は苦しみと悩みに満ち、重荷を負いながら、遠い道を歩み続けているのです。孤独で寂しい道であります。そして、その行き着くところは「死」であることを考えると、人は不安と恐れに満たされます。その重荷は益々重く感じられるのではありませんか。しかし、イエス・キリストは、私たちの重荷も私たち自身もいっしょに負ってくださる方なのです。

 私たちの人生において最も大きな重荷は自らの「罪」と「死の不安」であります。しかし、主はこの耐え難い重荷を負って解決してくださる方なのです。神の人類救済の方法はただ一つ、ご自身の御子イエス・キリストの十字架の贖罪のみわざによるものであります。これ以外に救いの道はないと、聖書は明確に語っているのです。キリストは、全人類、すなわち私たち人間一人一人の数え切れないほど多くの罪をご自身が十字架上で身代わりに負って死んでくださったのであります。どうか、信仰によって、真っ赤な血潮に染まったイエス様の十字架を見上げて下さい。イエス様はあなたの身代わりとなられたのであります。これは、神話でもなければ、フィクションでもありません。歴史上の事実なのです。

●「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(Ⅰペテロ2:22~25)。

●「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ書53:6)。
 
●「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカの福音書15:4~7)。


 イエス様が語られたこの例え話において、この羊飼いは迷ってしまい、疲れ果てている羊を肩にかついで帰って来たのです。私はこの箇所を読むたびに、この羊飼いの愛と優しさに触れて感動を覚えるのです。この迷い疲れ果て、傷ついた羊の首に縄をつけてグイグイと引っ張ったり、杖で追い立てて来たのではありませんでした。優しく腕(かいな)に抱き、肩に担いで連れ戻したのであります。当時のユダヤの律法学者たちについて、イエス様は「彼らは重い荷をくくって、人の肩に乗せ、自分はそれに指一本触ろうとはしません。」(マタイ23:4)と言われましたが、今日の多くに宗教家は同じように疲れている人たちを勧誘し、彼らにさらに重い荷を背負わせるのです。しかし、イエス・キリストは、そのような人たちとはまったく違う愛に満ちた御方です。どうか、あなたも偶像ではなく、本当の真の神様の愛の中に安らぐ人生に導かれますように切に祈ります。

今、人生の重荷を負って孤独だと感じておられる方、このブログのカテゴリー「人生の試練と逆境」の中の「人生の悲しいとき、辛いとき」の記事(2004年12月3日)中、足跡(あしあと:footprints)という詩がありますから、ココをクリックしてみてください。
 
◆(E-mail): goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」 

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★不思議な死の大行進

2006-08-05 | 「死後の二つの行き先」
 
    

●「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、それを見出す者はまれです。」(マタイの福音書7:13、14)。

 大分前に何かに書いてあった話を思い出したのですが、アフリカ南部のカラハリ砂漠に、スプリング・バックというカモシカが住んでいるそうです。普通は5、6頭~2、30頭の小さな群れをつくっていますが、ある日、突然、一ヶ所に集まり始めやがて数万頭の大群になることがあるというのです。すると、リーダー格の大きな鹿が先頭に立って、ゆっくり歩き始めるのです。ぎっしりと体を寄せ合ったカモシカたちはそのあとに従って徐々に前に進み始めます。そして、途中にある草を食べながら進むのです。おなかのすいたカモシカたちはわれ先に前の方にもぐり込み草にありつこうとしますが、決して群れを離れようとはしません。臆病なシカたちは天敵の襲撃を恐れて、群れの中にもぐり込みながら、他のシカよりも前に出ようとするのです。

 だんだんせり合いが激しくなり、仲間を押しのけながら進みます。そうやってスピードがついてしまうともう止まることができません。前のシカが走れば、後のシカが遅れまいと追いかける。すると前のシカはさらに速く走ろうとする、といったぐあいに加速度がつき、ついに何万頭という群れが全速力で走り出すのです。リーダー格のシカは、初めは新しい場所へ仲間を連れて行くつもりだったのでしょうが、やがて目的をすっかり忘れて、ただ走ることしか考えずに、ひたすら前へ前へと突っ走ります。砂けむりをあげて疾走するカモシカの群れは、砂漠を横切ってついに海岸に出ます。が、先頭のシカたちは後から押されるものすごい力で止まることができず、どっと海中になだれ落ちていき、やがて海岸はあわれなスプリング・バックの死体でうずまるのです。

 一体、なぜこのようなことが起こるのでしょうか。多分、仲間が増えて来たので、もっと草の多い海岸地方へ移動しようと進むうちに、生来の臆病な性質と、われ先に食を得ようとする利己心が、このような哀れな結果を招くことになるのではないでしょうか。でも、よく考えて見ますと、私たち人間もまったく同じような行進を続けているではないでしょうか! 疾走しているカモシカに「なぜ走っているのか?」「どこに向かって走っているのか?」と尋ねたとしますと彼らは、「さあね。みんなが走るから、自分も走っているんだ。みんなに追い抜かれないように走っているだけなんだ!」と答えることでしょう。彼らはどこに向かって走っているのかなどとは考えようともしないで、ただ他のシカよりもよい草を得よう、他に追い抜かれないようにしようと、必死になって走っていたのです。抜きつ抜かれしながら、ただ走り続けているのです。

 ところで、冒頭のみことばにも書きましたが、神のことばである聖書は、私たちも人間もみな恐ろしい滅びの道を突き進んでいると教えているのです。人類がまっしぐらに滅亡への道を突進していると言ってもにわかには信じられない方も多いと思いますが、聖書は何度も繰り返してそのことに警鐘を鳴らしているのです。私たちは、将来のことを考えて、勉強、就職、結婚、そして社会的地位の獲得や、財産の獲得とお金儲け、名誉などを追い求めて、当面の目標を立てて一生懸命に努力をしています。友達や周りの人たちみんながやっているから、自分もやらなければ・・・・と、追い立てられるように前に進もうと励みます。しかし、たとえその願いがかなったとしても、そのその終局が滅びであるとするなら何という悲しいことではないでしょうか。

 聖書によると、初めに神はご自身のかたちに人間を創造されました。そして、人間には神を喜ばせ、神の栄光のために生きるという目的があったのであります。ところが、人間はその創造主である神から離れ、神に背を向けて自分勝手な自己中心の罪の道を歩むようになってしまいました。最初に神が与えた目的を見失い、神から離れてしまったのです。聖書では、神から与えられた人生の正しい目的から離れた生活を「罪」と呼んでいます。神に背を向けて自己中心な生き方をしている人はみな罪人なのであります。どなたでも正直にご自分の心の中をさぐってみれば、その心の中は高慢、妬み、偽わり、他人を中傷すること、醜い不道徳な心、利己心などでいっぱいであることに気づくはずです。

 最近は、毎日の新聞報道でも暗いニュースが多く、肉親や友人の間でさえ平気で人殺しが行われ、人のいのちが軽視され、殺人などの報道は日常茶飯事になっています。また、周囲の世界に目をやると、戦争や殺戮、恐ろしいテロなどが各地で起こっていて、その悲惨さは目を覆うばかりであります。しかし、聖書によれば、この人間の罪は必ずさばかれる時が来るのです。神のみことばである聖書には、次のように書かれていますので、立ち止まってご自分の人生に当てはめてお考えになってください。

●「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)。

●「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」(ヘブル書4:13)。


 しかし、愛なる神は、まっしぐらに滅びへの道を突き進んでいる人類を深くあわれまれて、救いの道を備えてくださったのであります。それは、神のひとり子イエス・キリストによる救いです。神の御子イエス様は、今から約2.000年前に、み父のみもとから人間の姿をとってこの地上に来られたのです。そのご生涯はまったく聖よく、一点の罪もありませんでしたが、私たちの罪を背負って、身代わりに十字架上で神の刑罰を受けて死んでくださったのです。十字架上で死なれた主イエスは、墓に葬られましたが、聖書の預言どおりに三日目に死からよみがえり、真の救い主であり、命の君であることを立証されたのであります。キリストの十字架は、人間の側からみれば、当時のユダヤの指導者たちの妬みによるものですが、実は愛なる神が人類を救うために立てられた永遠のご計画であったのです。

●「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。 どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ガラテヤ人への手紙1:4、5)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。


 この地球上に住んでいる大部分の人たちは、あのカモシカの群れの死の大行進のように、神に背を向けた自己中心の罪の生活を続け、永遠の滅亡に向かって物凄いスピードで、走り続けているのです。滅亡への道を選ぶか、永遠のいのちへの道を選ぶかはあなたの心次第なのです。あなたは、どうかこの事実に一刻も早くお気づきになられて救い主イエス・キリストを信じて救われてください。神は、ご自身の愛のゆえに、この瞬間にも警鐘を乱打しておられるのです。

◆(E-mail): goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」


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