聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★醜い心の中の罪

2005-05-28 | 「人間の罪の問題」

       

   若い頃、こんな話を聞いたことがあります。青森県のある町に顔が半分非常にゆがんだ婦人がいました。その方は、以前はミス青森銀行になったほどの美人であったそうです。ところが、このミス青銀に一人の女友達がいたのですが、日頃から美人の彼女に対してひそかに強い嫉妬心を抱いていました。ある日、二人が一緒にいたとき、その友達は何かを話しかけるふりをして、ミス青銀に近づき、あっという間にその美しい顔に塩酸をかけてしまったのです。突然の叫びを聞きつけて人々は助けに走りましたが、すべてはあとの祭りでした。「ああ~、なんと惨いことを!!」
 
 彼女の顔は、一瞬にして醜く焼けただれてしまいました。彼女は非常に悩み苦しみましたが、後になってその苦しみによって教会に導かれ、イエス・キリストを救い主として信じることによって、新しい喜びと力を与えられたことを聞きましたが、そのような罪を働いた彼女の友達はなんと大きな罪を犯してしまったことでしょうか。しかし、これと同じように、自分の感情を押さえきれずについに本性を表して、大きな罪を犯してしまうというような事件は、最近は日常茶飯事のごとく、起こっているのが実情ではないでしょうか。今は、昔よりもっと恐ろしい罪が平気で行われ、何かのきっかけですぐキレテしまう人が多くなっています。毎日の新聞報道で、読みたくないような事件があまりにも多過ぎます。

 ある県知事は次のようなことを言ったことがありました。「誰もが(法律的な)犯罪人ではない。しかし、誰もが殺人罪を犯し得る思いや、願いや欲望を持っている。」と。これらは、すべてあなたの良心が細大漏らさず記録しています。自分自身のことを考えてみても、もし、殺人犯と同じような状況に置かれた場合、絶対に自分はそのような大罪は犯すことなどあり得ないとは言い切れないのではないかと思います。ただ、今まで、私の場合、たまたまそのような状況や境遇に置かれたことがなかったというだけのことかもしれません。「すべての人は、一度死ぬことと、死んだ後罪のために神様のさばきを受けることが定まっている。」(ヘブル9:27)と記されていますので、良心の声を無視することは大変危険なことであります。また、必ず罪に伴う心の不安や良心の呵責も生じて来ます。

一つの例ですが、ある旅館で、一人の客のお金が盗まれたことがありました。旅館の主人は旅館の信用にかかわりますから大変困りました。その夜、 何を思ったのか、大変賢い女中頭は全部の女中に新 しいシー ツを一枚ずつ渡しました。そして翌朝、そのシーツを見ると、他のものはみなきれいであったのに、一枚だけが何故か特別にシワになっていたのです。女中頭は早速そのシーツに寝た女中を呼んで調べてみたところ、その女中が犯人であることを白状したのでした。どうして、そのようなことが分かったのでしょうか。彼女はお金を盗んだため不安と心配で眠ることが出来ず、一晩中、寝返りばかりうっていたため、誰よりもシーツが乱れたのでした。こうして、その行動から彼女の罪は明らかになったのです。人間には、例外なく神が与えた良心があり、罪を犯すと良心の呵責があるのです。そして、隠されていることで、神の前には明らかにならないものはないのであります。


 昔、イスラエルのダビデ王は、大変恥ずかしい不道徳な罪を犯したことがありましたが、そのときに、彼の良心は非常に苦しみ、告白している事実を聖書は記録しています。ダビデは自分の犯した罪を隠し抜いて、忘却のかなたへ押しやったつもりでいたかもしれませんが、彼の良心はそれを許しませんでした。ダビデは大罪に覆い隠して王の威厳を保っておりました。でも、彼の良心は呻き苦しんでいたのであります。払いのけても払いのけても、神の御手の重圧は昼夜を問わず、彼を苦しめたのです。ダビデはその時のことを次のように告白しています。「悪人は追う人もないのに逃げる。」(箴言28:1)とありますが、「主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。」(箴言15:3)とあります。その証拠に、法的犯罪を犯した人は、通常は捕まるまでに数キロは体重が減っているということを聞いたことがあります。

●「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」(詩篇32:3~5)。

 しかし、みなさんの中には、「私は善人だし、そんな悪人でもなく、大罪を犯したこともないので天国に行けるだろう‥‥」と思っている方もおられるでしょう。そのようなあなたは、ご自分の汚れた心に気づいておられないのです。例えで話しましょう。コップの底に泥が一センチほど溜まっていても、コップを動かさなければ、上部の水は澄んだままです。しかし、一回でもその水をかき回してみてください。それまで沈殿していた泥が一遍に上がってきて、コップの水全体が泥水になってしまいます。あなた(私もですが)の心もそれと同じです。日常何も問題ないときは、ある程度いい人で紳士的であり得るかもしれません。ところが、ちょっとした意見の相違とか、体の疲れ、仕事の失敗や誘惑などにあうと、それまでの心の底に沈殿していた怒り、つぶやき、不安、妬み、汚れた思いなどが一遍に泥のように上がってきて、あなたの生活全体を汚してしまうのです。

●「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ人への手紙7:24)。

●「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、 高ぶり、愚かさであり、 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。 」(マルコの福音書7:20~23)。
 

 しかし、神様はこのような罪人に対して救いの道を開いてくださり、ご自身の御子イエス・キリストをお遣わしになられ、私たちの身代わりとして十字架につけてくださったのです。何という驚くべき愛でしょうか。

●「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 」(ローマ人への手紙3:23,24)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

 
             
 

★敵をも赦す愛がある!

2005-05-25 | 「キリストの愛」
 
           (家の近くの庭で撮ったチューリップの写真です)
  人間にとって、一番難しいことの一つは人を赦すことですが、先頃大変美しい話を読みました。それは、かなり古い話ですが、トルコ人によるアルメニヤのクリスチャンの迫害があった時のことです。一人のアルメニヤの少女とそのその兄とが、血に飢えかわいた一人のトルコ兵に追跡され、遂に兵士は二人を田舎の小道に追いつめ、残酷にも、その少女の目の前で彼女の兄を殺してしまったのです。彼女はやっとのことで、逃げ伸びましたが、後に看護婦(師)となって働くようになりました。

さて、ある日のこと、彼女の働いていた病院に、一人の負傷した兵士が担ぎ込まれて来ました。彼女は、間もなくその兵士こそ、かつて自分の兄を殺した者であることに気づきました。しかし、その兵士の状態は、注意深い看護がなければ生命に影響する程のものだったのです。彼女はその兄を殺したトルコ兵を、それこそ骨身を惜しまず日夜看護にあたったのでした。その看護のお陰で、その兵士は快復に向かいつつありました。

そしてある時、彼はその看護婦(師)こそかつて自分が殺した人の妹であることを知ったのであります。兵士は彼女に「何故あなたはあなたの兄を殺した私のためにこのように親切にしてくれるのですか?」すると、彼女は答えました。「私は私の敵を赦すことのできるクリスチャンの信仰を持っているからです。」と。彼女は、愛と真心からの行為をもって、その敵である兵士に打ち勝ったのです。何と心打つ感動的な話でしょうか。憎しみや悪意に満ちた今の時代にあって、それらのものに代わって、赦しの心がこの社会に満たされたら、どんなにこの世の中が良くなることでしょうか。しかし、この人を赦す心は、自分だけの力や努力では決して真似のできないものであります。

 この「赦す」という心を神様に与えられるまでは、生まれながらの人間にとって、これほど、難しいことはないのです。イエス・キリストは「‥‥わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。 」(マタイの福音書5:)と弟子たち に教えられました。しかし、イエス・キリストはご自身でそのように教えられたばかりでなく、自らそれを実践され、模範を残されたのであります。これは、人知をはるかに超えたキリストの愛であります。

 キリストは、この地上で33年半を過ごされましたが、一人の人をも憎むことはありませんでした。どんな酷い扱いを受けても、決して人を呪ったりすることはありませんでした。キリストは最後まで、忍耐をし続けられたのです。人々の憎しみと反抗は、キリストを十字架にはりつけにすることにより頂点に達しました。しかし、その時キリストはどうされたでしょうか。 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」(ルカの福音書23:34)と、天に目を向け、父なる神に静かに執り成しの祈りをされたのです。キリストは、人間の側からはとうてい理解できないくらい、人間を最後まで愛し通されたお方なのです。

 キリストは、人間の心に持つ罪を憎んでもその人を憎むことはなさいませんでした。心から愛されたのです。ご自身を殺そうとしている人たちの為にすら祈り、そして命までも捧げげられたのです。この赦しの心こそ、今日の社会と私たち一人一人に一番必要なことであります。しかし、人を赦す前に、あなた自身の罪が、神様に赦される必要があります。なぜなら、すべての人は例外なく、聖よい神の前に罪を犯して永遠の滅び(地獄)に向かっているからです。もちろん、聖書でいう罪というのは、法律的な犯罪だけでなく、心の中の憎しみ、ねたみ、高ぶり、そしり、‥‥なども含んでいます。

 キリストを信じて、罪がすべて赦された者は、神の真の愛が分かって、人をも赦さなければならないことが分かります。そして、そのように、実践する力をも神様が与えてくださるのです。初代教会の最初の殉教者は、ステパノという人ですが、彼は、多くの群集に囲まれ、石打ちの刑に処せられました。そして、その時のことが聖書に記録されています。彼は、自分に石を投じる者のために、少しも憎しみを持たずに、彼らを愛し、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と、祈ってから息を引き取ったのです。

●「‥‥人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。 こうして彼らがステパ ノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。『主イエスよ。私の霊をお受けください。』 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。『主よ。この罪を彼らに 負わせないでください。』こう言って、眠りについた。 」(使徒の働き7:57~60)。

●「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ人への手紙4:32)。


 この真の愛のお方イエス・キリストの十字架の赦しを経験した多くの人々は、キリストの愛後と赦しの心に触れて、キリストの福音を証しするために自らの命も惜しまずに従う人に変えられたのであります。憎しみは破壊をもたらします。しかし、真の愛と人を赦す心は、常に建設的です。あなたも、キリストのすばらしい愛を知りたいとは思われませんか?

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★体の不思議(器官:舌)

2005-05-23 | 「神の存在について」



  人間の体の器官の一つ一つについて、考えてみますと、誠に不思議と言わざるを得ません。例えば、今日は、「舌」について考えてみましょう。舌の役目は私たちの「門番」であり、「スポークスマン」でもあります。門番というのは、この小さな器官の取調べを受けずにはひとかけの食物も、一滴の液体も体の中に入り込めないからです。舌は口を通るすべてのものの味をみます。舌の表面にある約3,000の味蕾が、まだ誰も発見することの出来ない秘密の方法で、食物や飲物を味わうのです。このジュースは甘い、この漬物は少し塩が効き過ぎている、この薬はいつ飲んでも苦い、この夏みかんは酸っぱい、というように瞬時に判断するのです。「味覚は舌だけではありません」とある研究者は言っています。俗にのどちんこ、軟口蓋といわれる部分にも、舌の表面にあるのと同じ味の感覚器「味蕾」があり、甘味等を感じるのだそうです。
 
 そして、もしも少しでも変なものだと思うと、体の中にそれを入れないようにします。誰でも嫌なものを食べて、吐き気をもよおした経験があると思います。舌の「門番」が怪しいものを発見し、すぐにそいつを追い出せと連絡します。その結果、吐き気が起こり、体に害を与えるものを吐き出してしまうのです。しかし、「門番」というのは、ただ、通行人を調べるだけではありません。門の近くの交番を整理してスムーズに通行できるようにするのです。同じように舌は交通整理もします。今試しに舌を動かさずに物を食べてみてください。第一によくものを噛めないということに気づきます。食物を次から次へと歯の間に送り込んで、万遍なく噛み砕かせるのが舌の役目です。

 また、舌を動かさないと、物を飲み込むこともほとんどできません。舌の働きは実に巧妙で、歯で噛んだものをうまく移動させ咽頭へ送り、飲み込ませる役割があります。正月の新聞には、どこかのお年寄りが餅を喉につまらせて亡くなったという記事が毎年のようい載っています。これもお年寄りが飲み込みが悪いためです。特に入れ歯のお年寄りが多いそうです。舌がなければ、食べ物の味が分からなくなって、食事が味気なくなってしまうだろうと考えるでしょうが、実際には、食べ物を飲み込めない、すなわち食べられなくなってしまうのです。また、食べ物の中に少しでも異物が混じっていると、例えば、ご飯の中に砂一粒が入っていても、舌の先の微妙な動きで、口から出すことも可能です。

 さて、その次に「スポークスマン」というのは、言うまでもなく舌が話すためにどうしても必要なものだからです。舌くらい自由に動かすことの出来る器官は他にありません。私は英語の発音で、今でも「L」と「R」の区別が明確に出来ませんし、「S」と「th」の発音もうまく区別できません。しかし、それでも、舌は十分に称賛するに価する働きをしていることは疑う余地がありません。ヘレン・ケラーがサリバン女史の口の中に指をつっこんで、ある音を出す時に先生の舌がどんな位置でどんな形になっているかを確かめながら、発音を学んでいったありさまを読む時、大きな感動すら覚えますが、私たちの舌が無意識に必要な位置で必要な形をとるということを心から感謝せずにいることはできません。

 このように、体の器官の中のたった一つを考えてみても、実に不思議であり、私はこれを造られた創造者(神様)がいらっしゃることを少しも疑うことができません。進化論者は、目、耳、鼻、手、足、指、内臓の各器官、血液、神経などの一つ一つについて、また、この地球上のすべての生き物、広大な宇宙についても、すべて「偶然の産物」であると断言できるのでしょうか?進化論者の説明はあまりにも矛盾が多く、科学的というよりも非科学的と言わざるを得ません。知性的な動きをするものの背後には、それを設計し創造された知性を持たれたお方(神)を認めることは当然であり、これは理性的なことであります。

 今回は「舌」について書きましたので、それに関する聖書のことばをいくつか記したいと思います。聖書には、次のような警告があります。

●「あなたのに悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。 悪を離れ、善を行なえ。平和を求め、それを追い求めよ。 」(詩篇34:13,14)。

●「私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私がで罪を犯さないために。私の口に口輪をはめておこう。 」(詩篇39:1)。

●「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはそので欺く。・・・彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、・・・彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。 」
       (ローマ人への手紙3:13,14)。

●「同様に、も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。 は火であり、不義の世界です。は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。 どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。 しかし、を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。 」(ヤコブの手紙3:5~8)。

●「私たちは、をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じをもって、神にかたどって造られた人をのろいます。」(ヤコブの手紙3:9)。

●「穏やかなはいのちの木。偽りのはたましいの破滅。」(箴言15:4)
 

 人間の舌は、ひとつは神様を賛美するために造られたのですが、これを私たちは正しく用いているでしょうか?「二枚舌」ということばがありますが、舌は一枚で十分で二枚もあれば、邪魔で仕方がありませんね(笑)。平気で嘘を言う変節の多い政治家のように舌を二枚も持っていないので、お互いに大切にしたいものであります。自分の舌を、いつわりや、ねたみや、陰口や、そしりなどのために使うことのないようにしたいものです。しかし、舌を正しく用いることは、神の救いと恵みがなければ、だれにも出来ないことであります。ところで、私たちのために十字架で死んでくださったイエス・キリストの舌はどのようなものであったのでしょうか。

●「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(ペテロ第一の手紙2:22,23)。



★悲しい身代わりの死

2005-05-21 | 「キリストの愛」



  随分昔の話ですが、上野(かうずけ:群馬県全域)と常陸(ひたち:茨城県北東部)の国の国境の峠に磯野しろべえとかいう名前の非常に極悪な山賊が住んでいました。彼は、毎日毎晩、出かけて行って、旅人を捕まえ、脅して、金銀はもちろん、その衣類まで巻き上げてしまうという酷い悪人であったのです。ところが、その人にはお菊さんという一人娘があったのですが、とても心のやさしい美しい人でした。奥さんが病気で亡くなったので、お菊さんと二人で暮らしていたのです。お菊さんは、山賊のお父さんには似合わないほど、心のやさしい美しい心の持ち主であったそうです。
 
 それで、いつもそのお菊さんはお父さんのことで心を痛めていたのでした。そして毎晩のようにお父さんの前に手をついて、「おとうさん、お願いです。あなたがお酒を飲みたいならいくらでもいくらでも私が働いてお金をあげますから、山賊だけはやめてください。」頼んだのです。しかし、何度も何度も頼んだけれども、お父さんは、山賊をやめようとしませんでした。・・・・・・・そして、やはり、ある日のこと、磯野四郎平は、峠の方に出かけて行きました。ところが、その日に限って一日中獲物を探しても何も収穫がなかったのです。

 その日の夕方まで待ったけれども何も商売にならないので、気が苛立ち、イライラしていました。しかし、ふと、夕暮れになって向こうの方を見ると、ある一人の女の人が顔を隠しながら足早に通り過ぎようとしました。それで、すぐに、彼はその女の人を追いかけて、「待て~!!」と言ったのですが、逃げて待たなかったので、朝から何の獲物もなかったのでその女の人をいきなり、一刀のもとに切り殺してしまったのです。そして、彼はその懐中から一つの財布を取り出して、急ぎ足で自分の家に帰ったのです。しかし、自分の家に帰ったのですが、家には、その日に限って灯りがついていなかったので、不審に思いつつも家に入り、一人で酒を飲んでいました。

 そして、なんとなく気になって途中で酒を飲むのを止めて、彼は先ほどの財布のことを思い出して、懐(ふところ)から取り出して見て、彼は「あ~っ!」と叫んで驚きました。それは、死んだ妻が持っていた財布で、中を開けてみると何も入っていなかったのです。そして、財布の中には、お金の代わりに一枚の紙切れが入っていて、それには「お父さん、山賊だけはやめてください。」と書かれてあったのでした。なんと、彼はこの時に至って自分の娘を殺してしまったことに気づいたのでした。酒の酔いもすっかり醒めてしまったのは当然のことで、彼は驚愕にただ体を震わせ、泣き崩れてしまいました。

 この出来事によって、彼は後に、回心したと伝えられています。お父さんを愛していたそのお菊さんは、自分の命を賭けてまでお父さんを救おうとしたのです。お菊さんの死は、あまり悲しく涙を誘いますが、しかし、本物の愛ゆえの感動的な「身代わりの死」であったのですね・・・・。私は、この話を聞いて、神の御子イエス・キリストの「身代わりの死」のことを考えずにいることはできません。今から約2.000年前、イエス・キリストは、あなたの罪の身代わりになって、十字架に掛かって死なれたのです。これは、本当の話です。

●「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々(私たち罪人)の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」(ペテロの第一の手紙3:18)。
 
●「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への手紙5:6~8)。

●「『どくろ』と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。『あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。』兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、『ユダヤ人の王なら、自分を救え。』 と言った。‥‥‥ そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。 太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。 イエスは大声で叫んで、言われた。『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた。この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、『ほんとうに、この人は正しい方であった。』と言った。 」(ルカの福音書23:33~47)。
 

 イエス・キリストは、十字架上で血を吐くような苦しみと渇きと、人々の嘲りと無関心の中で、周りで傍観していた人々だけでなく、今日生きておられるあなたの罪のためにも、父なる神様に向かって「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と執り成しの祈りをなさってくださった方です。これは、人間には出来ることではありません。どうぞ、神様がお遣わしになられた救い主イエス様の愛をお信じになられて救われてください。

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★世界で一番恐ろしい動物?

2005-05-19 | 「人間の罪の問題」

 

  もし、あなたが「世界で一番恐ろしい動物は何ですか?」と問われたらどのように答えられるでしょうか。「百獣の王ライオンだろうか?いや、トラか熊かな?大蛇か人食いザメか‥‥?」と、いろいろ頭の中で、あれこれ思いをめぐらすに違いないと思います。次のような話を聞いたことがあります。ニューヨークの「ブロンクス動物園」に行くと、「世界で一番恐ろしい(危険な)動物」(The Most Dangerous Animal in The World )という看板を掲げた檻があるそうです。「何の動物だろう?」と思い、おそるおそる近づいて見ると、その檻の中には、動物はいませんでした。なんと、その中には、「鏡」が置いてあったのです! 檻の中を覗いたら自分の姿が映るようになっていたのです。つまり、この動物園の園長さんは、本当に怖い恐ろしい動物は、「あなたですよ。人間ですよ!!」と教えたかったのでしょうか。半分は、ジョークが入っていると思いますが、これは笑って済ますことのできない人間の「真実の姿」ではないでしょうか。
    
 確かに、最近の世の中は、人間にこんな恐ろしいことが出来るのだろうかと思うようなことが次々と続いて起こっています。母親がわが子を虐待して殺したり、道を歩いていて突然刃物で斬りつけられるような通り魔事件、少年がビルの上から幼児を投げ落として簡単に殺してしまったり、男が少女を首に輪をつけて何ケ月も自宅に監禁する、・・・・etc というような出来事が日常茶飯事のごとく起こっています。また、世界各地で続発する無差別テロなど、目に余る恐ろしいことが起こっています。

 しかし、これは最近の出来事に限らず、世界の歴史を振り返ると、国の内外を問わず、戦争の歴史を見ても分かります。第二次大戦でヒトラー率いるナチス軍が当時、迫害の対象としていたユダヤ人をアウシュウィッツ等の「絶滅収容所」に収容、処刑用ガス室において、実に600万人にも及ぶ大量虐殺を行ったという事実です。このようなことは、とても人間が出来ることとは考えられません。最近においても、イラクなでは無抵抗な多くの弱い婦女子が虫けらのように戦争の被害を受け殺されました。現在も、世界の各地で、一度に人をたくさん殺すための最新兵器の研究がなされているのです。このようなことは、残虐極まりないと言わざるを得ません。

 さて、私が紹介している聖書は「人間の心」の真の姿をありのまま示す「鏡」のようなものですが、その聖書は次のように語っています。人間の罪というのは、周囲を見回さなくても、あなた自身の心の中を見れば分かることであります。自分だけは違う、そんなことはないと言えないのであります。

●「人から出るもの、これが、人を汚すのです。 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコの福音書7:20~23)。

●「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。 」(エレミヤ書17:9,10)。

●「義人はいない。ひとりもいない。 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。‥‥‥彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。‥‥‥彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、・・・彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。‥‥‥彼らの足は血を流すのに速く、 彼らの道には破壊と悲惨がある。 また、彼らは平和の道を知らない。‥‥‥彼らの目の前には、神に対する恐れがない。‥‥‥すべての人は、罪を犯した‥‥」 (ローマ人への手紙3:10~23)

●「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。 彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。 」(ローマ人への手紙1:29~32)。
 

 聖書の中には、このような罪の目録が書かれている箇所が他にもいくつも出て来るのです。また、「聖書」は、文字通りに聖よいことが書いてある書と思い込んでいる方もおられると思いますが、実際にはそうではなく人間の歴史上に起こったあらゆる罪が、赤裸々に書かれています。殺人、姦淫、不品行、淫乱、酩酊、誘拐、戦争の数々、そして、みなさんは驚かれるかもしれませんが、戦争で飢餓の苦しみの中にあった時に、貴婦人がわが子を鍋で煮て食べるという恐ろしいことまで書かれています。

 これらの事実は聖書の記述のほんの一部に過ぎませんが、やはり人間は「世界で一番恐ろしい動物」であると言っても過言ではありません。動物の世界ならしっぽを巻けばそれ以上危害を加える事はありません。むやみやたらと、人を殺すと言うような事はないでしょう。しかし、人間は顔で笑って、心で人を憎み、平気で人を殺す事を考えて、それを実行に移すのです。どのような動物であっても、大量殺戮するための原爆や核兵器を作るようなことはないのです。

 神が造られたエデンの園は、最初は愛と平和、聖さ、光といのちに満ちた憩いの場所であったのです。現在のような罪に満ちた暗い世界ではありませんでした。人間は単なる動物の一種ではなく、神によって特別に創造された存在であり、神の姿(内面的に)に似せて造られた霊的存在であったのですが、アダムがエデンの園で神に反逆して罪を犯した時から、全人類に罪と死が入って来たのであります。

●「そういうわけで、ちょうどひとりの人(アダム)によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。 」(ローマ人への手紙5:12)。 

 しかし、神は罪を憎んでも人を憎まず、このような罪を犯して永遠の滅亡に向かっていた人間に対してご自身の愛を表してくださり、救いの道を開いてくださったのであります。神はご自身の尊い御子イエス・キリストを救い主としてこの世に遣わしてくださいました。次のみことばは、聖書の中でも、一番よく知られている聖句で、「聖書の富士山」とも言われています。どうか、あなたも愛なる神の救いの手を拒まないで永遠のいのちをご自分のものとなさってください。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。 

          

★人生の建築と土台

2005-05-16 | 「聖書と人生」
        ★=====(ピサの斜塔)====★

  イタリヤ北部を旅行する人たちの多くはあの有名なピサの斜塔を見に行きます。ピサの斜塔は、1173年に建設が開始されましたが、着工当初から地盤沈下により斜塔は傾き始め、3階部分まで達したところで一時中断されています。後に傾いた部分をまっすぐに修正しながら建築が再開されたので3階部分から上は少し湾曲しており、着工から200年近く経過した1370年にようやく完成しました。土台にひび割れができ、その結果、垂直方向から3.5メートルほど、傾いています。この塔の傾きを利用してガリレオは「落体の実験」を行ったと言われています。
 
 高さは北側は55,22メートル、南側55,52メートルとその差は70センチ。この傾きは1年に1ミリずつ傾き続けてきたので全世界が「いつ倒れてしまうのか」と心配していました。現代の科学者たちは、この塔を崩壊から救うためには、不安定な塔の土台の修理を急がなければならないと考え、長い間の工事期間、斜塔にはワイヤーがいくつも貼り付けられ、斜塔の根元にコンクリートなどを流し込みようやくこの傾きは止まったと言われていますが、やっとこのワイヤーも取り除かれ今のすっきりした斜塔があるのですが、果たして今後、この斜塔は一体どうなるのでしょうか?

 さて、建築物を建てる時に、一番大切なのは「土台」であることは言うまでもありません。今日、何千万という人々の人生は、ちょうどピサの斜塔のようです。その人たちは、社会的にも有益な職業に携わっており、人生という建物を一生懸命築いています。しかし、その土台はどうでしょうか。たえず崩壊の危険のある、ひび割れの入った土台なのではないでしょうか。「人生」の建築中に、不平、妬み、貪欲、高慢、悪口といった危険な割れ目(心の罪)に出会うとき、人は悩み、心配し、また挫折と孤独を味わうときもあります。この世には、人間の作った多くの哲学、宗教、イデオロギーがありますが、これらは単なる砂の土台に過ぎません。それらの上に建てられた人生は、完全に押しつぶされて、影も形も残さないようになる運命にあります。

 適当でない土台の上に建てたことによって生じる人生問題は、過去何千年も人間が経験して来たものです。そして、それは厳粛で決定的な結果をもたらすものであります。およそ、二千年ほど前に、イエス・キリストはこの人生建築の問題にふれて、次のように直言されました。

●「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイの福音書7:24~27)。

 このイエス・キリストのことばに対する応答は、人間が一生のうちで行う決心のうちでも最も重大なものです。なぜなら、イエスのことばが終わりの日にその人をさばくからです。賢い人も愚かな人もイエスのことばを聞きました。賢い人とはその求めに応じてキリストを信じて従った人たちでした。イエスは、哲学や宗教、迷信のようなものを土台であるとは言っておられません。イエスのことば、また聖書全体はイエス・キリストご自身を、堅固な変わることのない揺り動くことのない岩として示しています。その上に、絶対的な確信をもって家を建てる人は、賢い人です。

 「だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。 」(1コリント3:11)と聖書にあります。この土台は唯一です。なぜなら、イエス・キリストは生きておられ、永遠なる神のただひとりの御子で、すべてのものの創造主であり、また、それを保っておられるお方であるからです。そして、神の御子は聖よく正しいご生涯の終わりに私たちの罪のために死なれ、三日目に墓の中からよみがえられ、確かに人類の救い主であられることを証明されました。

 賢い人は、岩の上に家を建てるのです。そのような人は、人生の浮き沈みにあっても、喜びの日にも悲しみの日にも、健康な時にも病の時にも、富める時にも貧しい時にも、死の日を迎えても墓のかなたの人生の夜明けにおいても、揺れ動くことのない確信を持つことができます。それは、その人が今も生きておられる神の御子という土台の上に絶えず、信頼をおいているからです。あなたは、人生の苦難、死の恐怖、世の終末などの激しい嵐や洪水がやって来たときに、簡単に押し流されてしまう空しい砂(この世の富や、哲学、宗教など)の上に土台を置いて人生の建築をする愚かな人の仲間とならないようにお勧めします。

 建築物の場合は土台も建物も生命のない物質です。しかし、神の御子にゆだねることは、実際的な経験です。イエス・キリストに自分の人生をゆだねている人は、滅びることなく、永遠のいのちを持っていますから、キリストのうちに安心していることが出来るのです。あなたの人生のうちで最も重大なことは、今、キリストを信じ、従う決心をすることです。次のような興味深い話があります。

 スコットランドのあるクリスチャンの老婦人が死にかかっていました。ある日、ひとりの友達が来て、「あなたは、死の中へ落ち込みかけていますよ。」と言いました。すると、その老婦人は答えました。「私は若い時に、自分の人生を岩なるキリストにおゆだねして毎日を過ごして来ました。そして、今、私は死ぬところですが、落ち込んでいるのではありませんよ。なぜって、考えてみてもごらんなさい。岩を通り抜けて落ち込むことなどあり得ないからです。イエス・キリストは、私が死の影の谷を歩む時にも私とともにいてくださいます。私が落ち込むことはあり得ないのです。永遠の岩の上にしっかり寄りかかっていますからね」。

●「主が家を建てるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。」(詩篇127:1)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほでに世を愛された。それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3:16)。 

●「この方(キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには私たちが救われる名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。」(使徒の働き:4:12)。


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★クリスチャンの望みは何か

2005-05-14 | 「ご再臨と信者の真の希望」

     

  多くの人たちは、この世のいつかは消え去ってしまう空しいものに希望をおいていないでしょうか。ある人にとって、それはお金であったり、地位や名誉であったり、マイホームであったり、健康であったりします。「健康」を目標にして生きている人を例にあげれば、その人は健康が損なわれたり、病気になったりしたら、もう希望がなくなるわけです。富や名誉、家、その他どのようなものでも目に見えるものは、必ず、失われる時が来るのです。ところで、「クリスチャンの希望は、一体、何ですか?」と質問されることが度々あります。そのことに関して、自分の考えではなく、聖書のみことばを引用して、簡単にお答えしたいと思います。イエス様は、ご自身の十字架を目前にして、弟子たちに次のような励ましの言葉を語られました。

●「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネの福音書14:1~3)。  

 私たち人間は、だれでも弱い者で、何かあるとすぐに心を騒がせてしまう弱い者たちです。十字架の死が目前に迫って来て、主イエス様が弟子たちを残して去って行こうとされていました。今まで三年半の間主に従って来た弟子たちは、これから先どうなるのだろうと、不安な心でいっぱいで、心が騒いでいたのでしょう。そのような弱い者たちに対して、主イエス・キリストは実に強く確かな約束と励ましを与えていらっしゃいます。「神を信じ、またわたしを信じなさい。」と力強く語られました。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」とも語られました。それに続いて、「 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」と、約束されたのです。イエス・キリストを救い主と信じる者(クリスチャン)のために、主の十字架の死と復活の後、主イエス様は天国で永遠の住まいを備えておられ、その用意が完了したら、イエス・キリストは再びクリスチャンを迎えに天から来てくださるのというです。

 天国とは、主イエス様が私たちのために用意してくださっている所であり、そこにはいつも主が共におられる幸いな所なのです。天国がどんなに美しく光輝く場所であり、快適な環境が整った所であったとしても、そこに主がともにおられないなら人間はそのような環境に飽きる時が来るかもしれませんね。天国は、私たちの罪のために身代わりとなって十字架で死んでくださるほど愛してくださり、また、死後三日目に復活された方が共におられる幸いな所なのです。適当な例えでないかもしれませんが、もし、どんなに立派な邸宅であっても、そこに自分を愛してくれる両親がいなければ子供は決して幸福ではありません。たとえ、貧しい生活でも、愛する母親がいるなら子供は幸せです。私たちの魂は、場所や環境の快適さによって満足するのではありません。私たちの魂を満足させてくださるのは、主イエス様ご自身です。主イエス様がおられるからこそ、そこは天国なのです。

 主は、天に帰られた後、クリスチャンを迎えるためにまた来てくださるのです。それは、主がもう一度来られる「主のご再臨」の時であります。また、ある人にとっては、私たちのこの世の人生が終わる死の時であるかもしれません。いずれにしても、主は私たちを天国に迎えてくださるために、もう一度来てくださいます。ですから、私たちは心を騒がせる必要はないのです。主のご再臨の希望については、パウロは次のように記しています。

●「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。 『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』 」(コリント第一の手紙15:51~54)

●「眠った人々(信仰をもって死んだ聖徒たち)のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずす。 ‥‥‥‥‥主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。 」(テサロイニケ人への第一の手紙4:13~)。

●「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
最後の敵である死も滅ぼされます。 」(コリント人への第一の手紙15:19~26)。

●「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。 」(ピリピ人への手紙3:20,21)。 
 

 主イエス様は、冒頭のみことばを語られたあとで、次のように言われたのです。。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもと(天国)に来ることはありません。」(ヨハネの福音書14:6)。是非、あなたも、キリストを信じて、イエス様が約束された天国に向かって、希望に満ちた旅を始められませんか。



★聖書についての興味深い話

2005-05-12 | 「聖書について」



 聖書は大変不思議な本で、長い間、世界中の人々に読まれ、愛されて来た本ですが、一方では、聖書ほど人々の攻撃の的になった本も他に例がないと言えると思います。「聖書を攻撃する文書を集めるならば、図書館が出来るでしょう。」と言った人もいるくらいです。BC 300年頃のことですが、ローマの皇帝ディオクレシアヌスは、すべての聖書を焼くように命令を下し、聖書を心から信じているクリスチャンといっしょに聖書も焼き滅ぼそうとしました。そして、「これで聖書は完全に世から忘れ去られる!」と豪語しました。しかし、どうでしょうか。現在、ディオクレシアヌスの名前を知っている人はほとんどいませんが、「聖書」は全世界にあまねく行き渡り、聖書という本の名前を知らない人は、赤ん坊くらいのものではないでしょうか。

 ヨハネス・フスは、火のような伝道によって、何千人もの人をキリストに導いたボヘミヤの有名な人ですが、やがて、公然と福音を伝える道は閉ざされ、彼は火あぶりにされ、キリスト者の血は河のように流され、いたる所で聖書壊滅の手がのばされました。一冊の聖書も残すまいと、迫害者たちは、血眼になって聖書を捜しまわったそうです。

 その頃、聖書を最上の宝と信じている婦人がいました。彼女はパンを焼くために天火の周りで準備をしていました。その時、宗教裁判所から遣わされた人たちがその村に来て、聖書を持っている人をすべて捕らえていると伝えた人がいました。彼女はとっさに心を決め、聖書を大きなねり粉に包み、天火の中に入れました。それから、他のパンも入れました。その直後に、彼女の家も捜索され、地下室から屋根裏まで、くまなく調べられましたが、何も発見できませんでした。迫害者たちが家を去った時、ちょうどパンが焼きあがりました。パンも聖書も天火から出されましたが、聖書は全く無傷でした。

 また、実際にあったこんな興味深い話もあります。「そいつを窓から投げ捨てろ!」旅行の車中で、兵士たちは冗談を言って、大声を上げて笑いに興じていました。隅の方で若い兵士が一人でポケット版の聖書を読んでいました。「さあ、この信心深い坊やをからかってやろう」と言ったかと思うと、一人の兵士がさっとその聖書を取り上げ、窓の外へ投げ捨てました。若い兵士は腹を立てたでしょうか。いいえ、彼は「わたしは心優しく、へりくだっている‥‥」(マタイ11:29)と言われた救い主イエス様と共にいたので、彼は悲しく思いましたが、黙っていました。数日後、彼は自分の聖書の入った郵便小包を受け取りました。その中に興味深い手紙も一通入っていました。それは、聖書が投げ捨てられた区間で働いていた保線区員からのもので、彼はその聖書を見つけて拾い、それを読むことによって神の声を聞きました。彼はその時まで自分の罪のために恐れを抱いていましたが、その聖書によって、真の救い主に会ったというのです。若い兵士は、この聖書がどうして数日間、自分の手から離れなければならなかったかを知りました。聖書は神の言葉であり、それに逆らう者は完全に敗北するのです。

 フランス人の聖書販売人が、ある家族に一冊の聖書を賜物として手渡しました。ところが、その家の主人は受け取るやいなや、10枚ほど引き裂いて、その中の一枚でパイプに火をつけました。販売人は大変失望して去りました。数年後、彼は再びこの地方を訪れ、その家にも立ち寄ってみました。ちょうどその時、一人息子を失い、その息子の遺品が届いたところでした。その中に一冊の聖書も入っていました。販売人が手に取って見ると、驚いたことに、それは数年前に彼がこの家族に贈った聖書ではありませんか! まさに10数枚剥ぎ取られた聖書だったのです。戦死した息子は、その聖書の裏に次のように書いていました。「侮られ、嘲笑され、最後に信じられた この聖書は私の救いとなった。」と。

 聖書は神のことばであり、永遠の真理ですから、私たちが弁護する必要はありません。かえって、聖書は私たちに迫って来るのであります。ある人は、「聖書を焼き捨てようとしたけれども、怖くて焼けなかった‥‥」と話していました。聖書には、そのような不思議な神の力が働いているのです。また、聖書に反対する者を滅ぼす力さえあるのです。聖書は人間がいかに汚れた罪人であるかを語り、その良心の奥深くまで迫るのです。そして、その魂を悔い改めに導き、救い主イエス・キリストを信じるように導き、永遠のいのちを与えるのです。あなたも、是非、聖書をお買い求めになられて救われてくださいますように祈ります。

●「‥‥聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。 」(テモテへの第二の手紙3:15,16)。

●「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。 」(ヘブル人への手紙4:12,13)。

●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネの福音書3:36)。 
 

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★人生の逆風に会うとき

2005-05-09 | 「人生の試練と逆境」

      (松前小島灯台)
  自分がまだ若い20代前半の頃ですが、海上保安学校(京都府舞鶴市)の灯台科を卒業したあと、数年間、北海道の南端にある松前灯台で通信士として働いていたことがありました。二ケ月に一度くらいの割合で、松前から30km位離れた所にある松前小島(冬は無人島)に、二人づつ15日間の交替勤務をしたことがありました。渡海交代は、函館から来る巡視船に乗って行うのですが、小島には大きな巡視船が着岸するような岸壁がありませんので、巡視船は沖に停泊して、15日間分の食糧などを漁師の小さな艀(はしけ)に巡視船から移し積んで小島の岸壁まで運ぶのです。しかし、暴風で海が荒れている時などは、この作業は命がけでありました。物凄い大きな波ですから、小舟は木の葉のように波の山に押し上げられるように上り、次には谷底にど~んと落ちるのですから、生きた心地がしないほどの恐怖感を味わいました。

 私たちの人生は、順風満帆、物事が何もかも順調にスムーズに進む日ばかりではありません。日々の天候ですら、いつも雲一つない快晴の日ばかりではなく、曇りの日もあれば雨や雪の日もあり、嵐の日もあります。人生には、楽しいこと、心踊るような嬉しいことばかりが続けばいいと思うことがあると思いますが、予期しないことが多く起こるのが人の一生ではないかと思います。若い時に、将来のためにいろいろ夢を抱き、バラ色の人生設計を立てるのですが、人生設計の90%以上は思い通りにならないというのが現実ではないでしょうか。失恋、わが子の病気、会社の倒産、離婚の危機、家族との死別の悲しみ、隣人とのトラブル、新築のマイホームが突然火災で焼失、あるいは台風なで倒壊流失、最愛の伴侶が突然病魔に‥‥etc。数え上げればきりがありません。

 さて、新約聖書の福音書の中には、次のような記事がありますので、書き記してみました。今、人生の逆風に遭遇しておられる方のために、何かの励ましか慰めを与えることができれば幸いです。

●「さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、『さあ、向こう岸へ渡ろう。』と言われた。 そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。 すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。『先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。』イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。 イエスは彼らに言われた。『どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。』 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。『風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。』 ‥‥」(マルコの福音書4:35~41)。

 今から、約二千年前のことです。イエス様の弟子たちの一行が、ガリラヤ湖で激しい嵐に遭遇したのです。その中には、ペテロをはじめ、ベテランの漁師たちが四人もいましたが、自然の猛威の前には、人間の知識や経験は何の役に立ちませんでした。舟は大波をかぶり沈みそうになりました。その時イエス様は舟のとも(後ろ)の方で疲れて眠っておられたのです。「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」と、弟子たちは悲鳴を上げ、助けを求めました。すると、イエス様は起き上がって、「黙れ、静まれ。」と命じられますと、大なぎになったのです。波が静かになり、鏡のようになった湖面を見て、弟子たちは非常に驚き、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」と叫んだのは当然です。

 激しい暴風で、舟が木の葉のように揺れて弟子たちが慌てふためいていた時、イエス様だけは、何事もなかったかのように、舟のともの方で枕をして寝ておられたという箇所を読むと、私はいつも、心に平安を与えられます。人間にとって大問題と思うことも、イエス様にとっては、小さな問題に過ぎないのですね。あなたの「人生という舟」にイエス様を迎え入れたら、こわいものはありません。暴風は海上だけに吹くものではありません。あなたの人生にも、突然、人生の逆風が吹き荒れることがあるかもしれません。その時あなたは、どこに助けを求めるでしょうか。神様は次のように言われます。

●「苦難の日にはわたし(神)を呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。」(詩篇50:15)。

●「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。 主があらしを静めると、波はないだ。 波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。 」(詩篇107:)。

 弟子たちは荒れ狂う嵐に命じて「黙れ、静まれ。」と一喝して、大なぎにしたイエス様を見て、驚嘆し、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」と言いましたが、イエス様とは一体どのようなお方なのでしょうか。主イエス様は、神の御子であり、聖書では次のように紹介されているほど、偉大な御方なのです。

●「すべてのものは、この方(イエス・キリスト)によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネの福音書1:3)。

●「‥‥万物は、御子(イエス・キリスト)によって造られ、御子のために造られたのです。 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。 」(コロサイ人への手紙1:16,17)。


 神様は、あなたの人生に真の平安と喜びを与えてくださる御方です。しかし、私たちはそのお方を忘れ、神様に背を向けた罪の中に人生を送っていることを聖書は教えています。人間は死後に神様のさばきを受けなければなりません。しかし、既述しましたように、イエス・キリストは、自然界をもご自身の思うままに支配することのできる力ある御方ですが、愛と恵みに満ちあふれたご生涯ののち、その罪とさばきからあなたを救うため十字架で死なれ、復活された救い主なのです。そして、人生の嵐を静め「平安」という港(天国)に導いてくださる方なのです。 あなたもこのようなすばらしい御方を、もっとお知りになりたいとは思われませんか?


               

★死に勝利する人生

2005-05-06 | 「人の死とその備え」

          

  最近は、道を歩いている時も、通勤電車に乗っている時も、車を運転している時も、登下校時の小学生であっても、どこにいても、何をしていても、「ここなら安全‥‥」という場所がなくなりつつあるように思われます。児童が学校で勉強している時にも、突然、暴漢が学校に侵入して襲われて殺傷されるという事件もあれば、一家で家族が団欒しながら、楽しい夕食を共にしている時でさえ、車が突っ込んで来て、一瞬にして命が奪われるということもあります。人災もあれば、天災もあり、いつ何が起こるか誰も予測することもできないような時代に生きているのです。今朝も、深夜に自宅で寝ていた老婦人が車に轢き逃げされて即死するという痛ましい事故のニュースが報じられていました。想像もできないような事故(事件)です。

 人生と死についてある人が語った次のような言葉を読みましたが、誠に的を射た言葉ではないかと思います=====「私たちの人生は、今にも切れそうな細い糸にぶら下がっているようなものである。人生という旅路の一歩一歩には、墓が不気味に大きな口を開けて私たちを待っているのである。死はすべての人の敵である。帝王であっても、恐るべき刈り手の大鎌に屈しなければならない。科学者や医者はこの怪物を宮殿の扉から遠ざけようと勇敢に戦う。しかし、屍の衣をまとった恐怖の暴君は、こっそり護衛の中を通り抜け、王の寝室に忍び込み偉大な君主をも彼の黒いマントに包み込んでしまうのである。」

 確かに、すべての人は死から逃れることができません。死は、すべての人の最後の敵であり、しかも、すべての人を捕らえてしまいます。どんな権力者も、賢者であっても、死を逃れたり、死に打ち勝つことができないのです。たとえどれほど普段から健康管理に気をつけ、また体を鍛えている人であっても、必ず人間は死んで行くのです。やがて私たちはこの世を去り、家には食卓の空席と、着ていた服がハンガーに掛けられたまま寂しく残るのです。

 ある時、一人の看護師さんが次のように言ったそうです。「私は病室でどうすることもできない無力感に襲われるときがあります。死の近づいた患者さんがお医者さんの白衣を掴んで、『先生、助けてください!お願いです!私、怖いのです!』と泣きながらすがりつく姿を何度も見たのです。でも、私たちは、何もしてあげることができませんでした。私は‥‥あのような死に方をしたくありません。実は、私も死が怖いのです。」看護師さんだけでなく、医者もやはり死の前には無力であり、死に行く患者をどうすることもできないのが現実ではありませんか。医者は延命のために僅かに役に立つかもしれませんが、いかに医学が進歩しても「死」を解決する力はありません。白衣をパジャマに着替えてベッドに横たわり、死に慄いている医者は幾人もいるのです。

 では、人はなぜ死を恐れるのでしょうか。それは、死によってすべてが終わってしまうのではなく、死後に罪の罰を受けなければならないということを無意識のうちに知っているからです。聖書に、「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)と警告されています。神様から離れてしまった私たちは、人生の真の目的を見失いました。ちょうど、母親を見失った迷子の子供のように、人間の心は不安と恐れの心を抱きつつ、ただ、世の流れに流される者となったのです。世間が私たちの善悪を決めるのではありません。私たちの善悪を判断する基準は天地を創造された神様であります。今まで、神を無視し、神様に背中を向けて生きて来たことが罪なのです。やがて、死の魔の手が私たちに振り下ろされる時、神に会う備えをしていない者にとって、決して平安と希望はないのです。

 それでは、どうしたら、死に勝利できるのでしょうか。どうしたら、さばかれることなく天国に行くことができるのでしょうか。それは、イエス・キリストを自分の救い主として、単純に信じ受け入れることです。なぜなら、キリストは、神の御子であり、この地上に人間の姿をとってお生まれくださった救い主だからです。このお方は、ご自分が神の御子であられることの証拠を数々示して、最後に、私たちが犯した数々の罪のために身代わりとなって十字架で罪の罰を受けてくださり、私たちの罪を清算されたのです。そして死後、三日目に固く閉ざされた墓と死の壁をぶち破って復活してくださったのです。神様は、御子イエス様を私たちの代わりに罰し、彼を信じる者を天国に行けるようにしてくださったのです。

 御子イエス・キリストを信じて救われることは、決して難しいことではありません。救いは神様からの恵みであり、賜物なのです。あなたは、人からプレゼントをもらう時、ただ、感謝して、あなたの手を差し出してそのプレゼントを「ありがとう!」と言って受け取るだけでいいわけです。神様の救いを受けることもそれと同じことなのです。神様は、あなたが救われるために、善行とか、立派な行いとか、難行苦行したりなど、難しいことを要求しているわけではないのです。自分の罪を認め、心から悔い改めて感謝して、イエス・キリストを信じるだけで良いのです。今、すぐでもあなたはその救いを受けることができます。それは、あなたの心次第なのです。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ人への手紙4:25)。

●「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないた めです。 」(エペソ人への手紙2:8,9)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。


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★人生の孤独な時に神が‥

2005-05-02 | 「人生と孤独」



●「ヤコブはベエル・シェバを立って、カランへと旅立った。 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。 そのうちに、彼 は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。 」(創世記28:10~12)。

 ここに一人のヤコブという孤独な男のことが書かれています。彼は、今、両親の家を離れて、家のない孤独な放浪者であり、ホームレスです。このヤコブという人は、狡猾で悪賢い方法で兄のエサウをだましてその相続権を手に入れたような罪深い男であります。ヤコブは、兄エサウに憎まれ殺されそうになったので、母リベカが彼を逃がしたのであります。そして、自分の妻をめとるために母の故郷へ一人旅をしていたのですが、その日はもう太陽が沈みかけたので、その寂しい荒野に伏して夜を明かすことにしたのであります。

 その夜は、そこに野宿することに決めたヤコブはただ一人、石を枕にして、荒野に伏して横になりましたが、なかなか寝付かれなかったに違いありません。後ろを思えば恐怖があり、行き先には不安があり、その孤独な姿は、罪人である私たち一人一人の姿でもあります。疲れきった体と心。流浪の旅の寂しさ。天涯孤独のルズの旅。まさに、これは、現代の私たち人間の姿そのものではないでしょうか。世の中の繁栄と、文明の進歩について行くことができず、情報化社会に翻弄され、社会の歯車の一つとしてはめ込まれてしまって疲弊しきっている自分の体と心。この人生の流浪の旅で、多くの人々が癒しがたい孤独感を味わっているのではないでしょうか。

 しかし、このような我がままで罪深い男にも、神の愛の眼差しが注がれていたのであります。そして、現代の私たちのような何の価値もないと感じているような孤独な者たちにも神の愛の眼差しが注がれていることをあなたはご存じでしょうか。あなたは、「自分を理解してくれる者はだれもいない。私は一人ぼっちだ!」と、将来を悲観したりすることはありませんでしょうか。しかし、聖書が示す愛の神はあなたの理解者であり、あなたのすぐ近くにおられる御方なのです。聖書の神は愛の神であり、どこにでもおられる遍在の神でもあり、また全能の御方であります。

 ヤコブが孤独と寂しさの中にあり、無力と困窮のどん底にあったときに、神はご自身を彼に啓示してくださったのであります。ヤコブが神を求めたのではなく、神がヤコブを求めておられるのです。もし、神がご自身を現してくださるのでなければ、人はどうして神を知り得るでしょうか。あのエデンの園で、アダムが罪を犯して木の間に身を隠していた時、神はアダムを捜し求めて、彼に呼びかけて、「あなたは、どこにいるのか。」と尋ねられたのであります。これは、決して神が人(アダム)を見失ったのではなく、人を捜し求めることばであります。愛の神様は、いつも、人生の道に迷っている孤独な人たちを捜し求めておられるのであります。

 新約聖書のルカの福音書15章には、イエス様が語られた例え話ですが、100匹の羊を飼っていた羊飼いがたった1匹の迷い出た羊を血眼になって捜し求め、ついに発見して肩にかついで連れて帰る感動的な話が書かれています。また、家出をした放蕩息子に対する父親の愛の話もあります。父親は、来る日も来る日も断腸の思いで、息子の帰りを待っていたのですが、お腹を空かして乞食のようになって、ボロボロになって、帰って来た息子を父親は走りよって抱き寄せ、何度も何度も口づけして抱擁する感動的なシーンもあります。人は多くの場合、孤独の中で、あるいは逆境と苦難の最悪の状況の中で神に出会うのであります。

 ヤコブは、その夜、石を枕に寝ていた時、夢を見ました。彼のそばには高い梯子が立てられ、その頂は天に達していたのであります。救いとは、苦しい現実から逃れて空想の世界に行くようなものではありません。人間はだれでも苦しい現実から逃避したいという思いがありますが、聖書が語る「救い」とは私たちの今の現実の中に天に達する梯子が立てられることであります。神は空想の神ではなく、天地を創造され、私たちを日々生かしておられる力強い生ける神であります。この神との出会いを経験する時に、人生は180度の転換(好転)をするのであります。

 さて、ヤコブが見た夢の中の梯子は、実はイエス・キリストを示しているのであります。この梯子は天と地、神と人を結ぶものであります。イエス・キリストは受肉によって、神を人にもたらし、その十字架と復活によって人を神に導かれたのであります。ヤコブがこのような不思議な夢を見たのは、それは単なる夢ではなく、神と人との間に道が開かれる時代が必ず来ることの予表(予告)として起こったのであります。そして、それは新約時代において、イエス・キリストによって成就したのです。

●「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 」(ヨハネの福音書14:6)。

●「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(テモテへの第一の手紙2:5)
 

 今、天の門はすべての人に開かれています。神が人のところに下られ、人が神のところに上って行けるように天の門(入り口)があり、人が神と出会う道が開かれているのであります。ですから、ヤコブの時と同じように、今も、天へ行く梯子(すなわち道)が私たち罪人の足下に立っているのです。それが、今の新約時代の恵みなのです。神と人を結ぶ道はキリストであります。神の救いはあなたの前にすでに備えられており、その現実の中で見出すことができるのです。聖書はすばらしい書物です。是非、お読みになってくださいますようにお勧めします。  

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