聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★キリストの偉大な力

2006-05-30 | 「キリストの偉大なる生涯」



  新約聖書の初めには、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書がありますが、福音書はイエス様の生涯のことがそれぞぞれ四つの観点から記されています。さて、四番目の「ヨハネの福音書」の記事の中には、イエス様が行われた七つの奇蹟(しるし)が記されてあります。他の三つの福音書には、イエス様が行われた奇蹟がたくさん記されてありますが、ヨハネの福音書には多くの奇蹟の中から、七つだけが選ばれて記されているのです。聖書の中の数字にはそれぞれ意味があり、「七」は完全数であります。因みに、「六」は「七」に一つ足りない不完全なもの、すなわち「人間」を示している数字です。それでは、ヨハネの福音書の七つの奇蹟から、イエス・キリストの偉大な力の一端を見てみましょう。

【1】水をぶどう酒に変える奇蹟。⇒「質」の問題。
 ガリラヤのカナで婚礼があった時の話です。そこに、イエス様とその弟子たちも招かれました。婚礼の途中でぶどう酒がなくなってしまったのですが、その時、母マリヤがイエス様に向かって「ぶどう酒がありません」と告げたのであります。私たちの人生においても、その途中でいろいろなものがなくなり、困惑することがあります。そのとき、まず、イエス様に告げることは幸いです。イエス様は、手伝いの者たちに六つの水がめに水を満たすように命じ、イエス様の言われた通りにして、宴会の世話役の所に持って行くと、その水がぶどう酒に変わっていたのです。これは、本当に不思議な出来事でした。そして、この福音書の記者は「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。 」(ヨハネの福音書2:11)と記しています。「しるし」というのは、イエスが神の御子であり、世の救い主であることのしるしという意味です。

【2】王室の役人の息子の病気が癒される奇蹟。⇒「距離」の問題。
 この第二のしるしも、カナで行われた奇蹟です。イエス様は再びガリラヤのカナに行かれたのですが、このカナから約30km位離れた所にあるカペナウムの町に、病気になった息子を持った王室の役人が住んでいたのです。この役人は、死にかけている息子のために、イエス様の所へ行って、下って来て息子が死なないうちに癒してくださるようにと願ったのであります。しかし、イエス様はカペナウムへは下って行かないで、彼に「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」(ヨハネ4:50)と告げました。その役人はイエス様が言われたことばを信じて帰って行きました。そして、彼は帰途の途中で、彼のしもべから、息子が直ったことを聞いたのです。そして、家族全部がイエス様を信じたのです。王室の役人はイエス様がカペナウムに下って来られるように願いましたが、イエス様にとっては、30kmの「距離」は何の妨げにも問題にもなりませんでした。

【3】38年間病気で寝ていた人の癒しの奇蹟。⇒「時間」の問題。 
 ユダヤ人の祭りがあった時のことです。イエス様は、エルサレムに上られました。エルサレムには、羊の門の近くにベテスダという池があって、五つの回廊がついていたのですが、その中に大勢の病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていました。この池には、主の使いが時々降りて来て水を動かすのですが、水が動かされたあとで、最初に入った病人だけが癒されたというのです。そして、「そこに、38年もの間、病気にかかっている人がいた」(ヨハネ5:5)のですが、彼を水に入れてくれる人は誰もありませんでした。イエス様は彼をご覧になり、深く同情され、「よくなりたいか」(ヨハネ5:6)と言われ、その男に、「床を取り上げて歩きなさい。」(ヨハネ5:8)と言われました。すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出したのです。38年という時間はイエス様にとってその病いを癒すのに何の妨げにもなりませんでした。

【4】五千人の飢えた群集にパンを与えた奇蹟。⇒「量」の問題。
 イエス様はガリラヤ湖の近くの山に登られたのですが、主が病人たちになさっていた奇蹟を見た多くの群集がイエス様につき従っていました。そして、時間も経って群集は空腹になり、飢えていました。その時に、大麦のパン五つと小さい魚二匹を持っていた一人の少年がそれをイエス様に差し出しました。そして、イエス様はその少年の弁当であったかもしれないたった五つのパンと魚二匹を受け取って、それをイエス様の手の中でどんどん増やして、男だけでも五千人いた群集は、次々と配られたパンと魚を十分食べて満腹したのです。そして「大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので12のかごがいっぱいになった」(ヨハネ6:13)のであります。私たちの人生においても、「量」が少ないことを問題にすることがよくありますが、イエス様はそのような問題は簡単に解決することが出来るのであります。

【5】湖の水の上を歩かれた奇蹟。⇒「自然界」の問題。
 日も暮れ始めて、イエス様の弟子たちはガリラヤ湖を舟で対岸に向かって渡っていました。すでに暗くなっていましたが、湖は吹きまくる強風に荒れており、舟は木の葉のように揺れていました。「こうして、舟が4、5キロメートルほどこぎ出した頃、彼らはイエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て」(ヨハネ6:19)弟子たちは非常に驚いたのであります。しかし、イエス様は平然として彼らに言われました。「わたしだ。恐れることはない。」と。決してあり得ないような事実を目の当たりに見て、弟子たちは、ただ驚愕する以外にありませんでした。現代にそのようなことを目にすればやはり誰でも驚き恐れるのは当然であります。しかし、イエス・キリストは万物を創造された神の御子であり、今もその偉大な力で万物を保持しておられる方ですから、このように自然界を支配して水の上を歩くことは、畳屋が畳の上を歩くよりも簡単なことであります。

【6】生まれつきの盲人開眼の奇蹟。⇒「先天的不幸」の問題。
 ある日、イエス様は道の途中で、生まれつきの盲人をご覧になられました。弟子たちは彼について質問して言いました。「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」。それに対してイエス様は次のように答えられました。「この人が罪を犯したのでもなく、その両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9:3)。そして、イエス様は間もなく地面につばきをして、そのつばきで泥を作られ、その泥を盲人の目に塗って、「シロアムの池で洗いなさい。」と言われました。「そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって帰って行った。」(ヨハネ9:7)。これは、何と驚くべきみわざでしょうか。生まれつき障害を持っている人や先天的不幸を持っている人にとっても、これは大きな慰めであります。聖書は私たち人間は生まれつきの霊的盲人(罪人)であると教えています。私たち罪人に対するキリストの福音を暗示している出来事であります。

【7】死人ラザロがよみがえる奇蹟。⇒最も大切な「命と死」の問題。
 これは、最後の第七番目の奇蹟(しるし)です。ベタニヤに住んでいたマルタとマリヤの兄弟ラザロが重病になり死にかけていたのですが、姉妹たちは、イエス様の所へ使いを送って「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」(ヨハネ11:3)と言わせて助けを求めたのです。しかし、イエス様は「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためためです。」(ヨハネ11:4)と言われ、何故かラザロの所に急行することなく、意図的にわざと時を遅らせ、何と死後四日も経って、もう墓に葬られ、死体が腐って臭くなってから現場に到着したのです。そして、「ラザロよ。出て来なさい。」(ヨハネ11:43)と大声で叫ばれると、何とラザロが生き返って墓から出て来たのであります。死にかけている病人を癒すよりも、死後四日も経て、腐敗臭漂う死人を生き返らせる方がはるかに主イエス様の偉大な力が現されたことは明らかです。ラザロの死と復活は、イエス・キリストの死と復活の真理を証しする決定的な「しるし」でもあったのです。

 これらの七つの力ある奇蹟は、イエスが神の御子であり、真の救い主であることを明らかに示す「しるし」であります。そして、イエス・キリストは、人生のあらゆる問題に真の解決を与えることの出来る力ある御方であることをも示しています。そして、ご自身がこれらの力を持たれた御方であることを示されて後、やがて人類の罪のために十字架に架かられ、また、三日目に復活されたのであります。

●「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。 」(ヨハネの福音書20:30,31)。

●「イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。 」(ヨハネの福音書21:25)。

 
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★救いは神の恵みである

2006-05-24 | 「信仰と救いについて」


 
最近、聖書を読んでおられる方で真剣に救いを求めていると思われるある青年からこんなメールをいただきました。「私は救われて天国に行きたいのですが、良い行いをたくさんして善行を重ねると天国に行くことが出来るのですか?」というような内容のものです。今回はその青年と同じような疑問をお持ちの方もおられるかもしれませんので、この真面目なご質問にお答えいたします。私は、聖書に基づいてこのブログを書いていますので、このご質問に対しても聖書に基づいてお答えしたいと思います。

 多くの日本人は、もし天国と地獄があるなら(実際にあるのですが)、修業を積んで善行をたくさんした立派な人が天国に行き、悪行を行い、殺人、強盗、詐欺、誘拐などの極悪な犯罪を行った人が地獄に行くのだろうと漠然と考えているようですが、真実はそうではないのであります。聖書を読んでいる方の中にもそのような誤解をなさっておらっれる方が多いのも事実ですが、神のみことばである聖書は決してそのようには教えていないのです。人の考えと神のみ心とご計画は明らかに違うことが分かります。

 私が若い頃、道を歩いていたら、自転車に乗った二人の外国人(白人)に呼び止められ、一枚の紙切れを渡され、たどたどしい日本語で何か話してくれたことがありました。あとでその紙切れをよく見ると、それには絵が描いてあり、その絵というのは、一人の男性が小船に乗り、二本の櫂(かい:Oar)で船を漕いで前に進もうとしている絵でありました。そして、その二本の櫂の一本には、「信仰」と書いてあり、もう一本の櫂には「行い」と書いてありました。つまり、その絵は、天国に行くには、信仰と行いの両方が必要だという意味だったのです。これは、明らかに間違った異端の教えであり、聖書の教えではありません。

●「あなたがた(クリスチャン)は、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 」(エペソ人への手紙2:8,9)。

 このみことばは、使徒パウロがエペソに住んでいたクリスチャンたちに宛てた手紙の一部ですが、明確に書かれていることは、次のことです。
人が救われるのは、まず神の「恵み」によるものであること。
人が救われるのは、キリストを信じる「信仰」によるということ。
人が救われるのは、神からの「賜物」であるということ。
人が救われるのは、決して人の行いによるものではないということ。

 まず、最初に恵みとは何かということを理解する必要があります。「恵み」というのは、それを受ける価値のない者に示される神の愛です。神が、ご自身に反逆している罪深い人間を愛されるなら、それは恵みであります。目上に対する愛は尊敬であり、同等の者に対する愛は情愛であり、そして、目下の者に対する愛が恵みであると考えると、「恵み」を理解するのに役立つと思います。私たち人間は聖よい神様の前にはみな汚れた罪人であり、当然の裁きを受けるべきなのですが、神はご自身の限りない愛を持って私たちを愛してくださっているのです。「恵み」とは、この世の最も悪い者をも救うために天の最も良いもの(神の御子)を与えてくださったことです。

 聖書を読めば分かりますが、恵みは人の善行とか行いには全く関係がないことをはっきりと教えています。もし、人が善行によって救われるのならば、救いは恵みではなく、(善行に対する)報酬ということになります。神は、人間に対して何の負い目もありませんし、罪人(すべての人)を救う責任も義務もありません。神が人に与える「救い」は、神が人間に対して果たすべき義務や責任ではなく、まったくの好意の贈りもの(神の賜物)なのであります。そして、「信仰」というのはその神からの贈り物を受け取るために差し出す手に例えることが出来ると思います。

●「働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。 」(ローマ人への手紙4:4,5)

●「もし恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。」(ローマ人への手紙11:6)。


 ですから、恵みと律法を混同してはならないのです。人は律法を守ることによって、または善行によって救われるのではありません。律法は人間的に善人であり正しいと思われている人をも罪ありとします。また、恵みは最も悪い人をも救うことができるのです。殺人を犯した犯罪者であっても、罪を悔い改めて、キリストを信じる信仰によって救われることが出来ます。しかし、この世の人々の目には善人に見える人であっても、神に対して悔い改めてキリストを受け入れないならば永遠の滅びに入るのであります。

 イエス様が全人類の罪の身代わりになって十字架に架かられたときに、その両側に二人の強盗が十字架に付けられました。そしてそのとき、二人の強盗は十字架上のイエス様を罵っていました。ところが、一人の強盗は、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカの福音書23:34)とご自身を十字架に付けた者たちのために祈られたり、十字架上のイエス様の崇高なお姿を見ているうちにがイエス様が救い主であることを悟り、悔い改めてイエス様を救い主と信じて、その信仰を告白したのであります。その時、イエス様は彼に次のように言われました。

●「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカの福音書23:43)。

 ですから、もし人が救われるとすれば、神の恵みによるのであります。しかし神が聖であられますから、罪を見過ごすことはできません。罪を罰せられるのです。聖書の福音は、神がご自分の聖さを保持しつつ恵みによって罪人を救うことがどのようにして出来るかを、私たちに教えます。神の御子イエス・キリストは人間の罪に対する神の怒りと審判とを身代わりにお受けになられました。この御業によって、神は主イエス様を信じる者の罪を赦してくださることができるのです。繰り返しますが、救いはキリストを信じることによってのみ与えられる神の恵みのみ業であり、賜物であります。

●「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ人への手紙3:22~24)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。


 どうか、あなたもご自分の善行や修業、または世の宗教などに頼らずに、神が人類に与えたれた唯一の救い主イエス・キリストを信じて救われてください。

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◆(E-mail): goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」  

★人生の目的と意味は何か

2006-05-19 | 「聖書と人生」

       
  ●「だれが知ろうか。影のように過ごすむなしいつかのまの人生で、何が人のために善であるかを。だれが人に告げることができようか。・・・・・・ 」(伝道者の書6:12)。

 旧約聖書の伝道者の書の中で、筆者は「影のように過ごすむなしいつかのまの人」と言っています。確かに私たちの人生は儚く短いものであります。二度と繰り返すことのできない一度の人生で、私たちがいかに生きるかということは、私たちが真面目に考えなければならないテーマであります。この伝道者の書は、人生の目的は何か、生きる意味は果たしてどこにあるのかを探求した書物であります。

 「影のように過ごすむなしいつかのまの人生で、何が人のために善であるのか」、すなわち「一体、人間にとって何が幸福なのか!」------この問いのもとに哲学が生まれ、芸術が生まれ、宗教が生まれたのであります。この問いこそ古今東西のすべての人間が切に知りたいと願って探求し続けて来た人生最大のテーマであります。ですから、人生の若い時に、この伝道者の書を読み、その教訓を学ぶことは大変有意義なことであります。

●「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」(伝道者の書1:2:3)。

 この伝道者の書は、イスラエルの王ソロモンによって書かれたものであります。ソロモンは、歴史上もっとも有名で有力な王であり、当時(今から約3.000年前)の全世界に知恵と富と文才で知られていた王であり、東西を通じての大賢者と言われている人であります。ソロモンは富と栄誉を持ち、想像を絶する権力を持って、贅沢の限りを尽くして、世界一の幸福者と呼ばれるにふさわしい人物であったのです。しかし、彼が常に繰り返したのは、「空の空」ということばであったのであります。

 ソロモンの晩年の作であるこの書は、ソロモンは決して幸福な人ではなかったという事実を私たちに示しております。この伝道者の書の中には、37回も「空しい」という語が用いられています。旧約聖書に「空しい」を意味する語が、72回出て来るのですが、そのうちの約半分は、この「伝道者の書」に出て来るのです。ですから、栄華を極めたソロモン、そしてこの伝道者の著者であるソロモンがいかに空しい人生を送った人であるかが分かると思います。

 この伝道者の書が私たちに伝えようとしているメッセージの中心が何かと言えば、それは神から離れては人生は空しいものであって、退屈と失望と孤独に満ちているものであるということであります。また、この書は著者ソロモンが幸福と満足を得るために、試みた人生の長い「実験の記録」であるということが出来ます。神(創造者)を持たない生活がいかに空しいものか、その実験(体験)を詳細に記録したものであります。神様は、ソロモンに権力も富も能力も与えました。そして、人生を探求する知恵と多くの機会を与えられたのであります。

 そして、数多くの探求と経験の後に、ソロモンは、「神から離れては、この地上の人生には確実な幸福を見出すのは困難であり、空しいものである。」と結論を下したのであります。この「空」とか「空しい」という言葉は、元来は”息”という意味があって、すぐに消えてしまう空しいもの、移ろいやすいものを指しているのです。「日の下」という言葉は、29回も出て来ますが、これはこの地上の人生を表す言葉です。ですから、この地上の人生にのみ限定して観察するならば、どんなに労苦しても「何一つ益になるものはない。」と言い切っているのであります。

 ソロモンは普通の人が決して経験できないようなことを経験したのです。例えば、彼は700人の妻と300人の妾を持ちました。そして、多くの金銀財宝の冨を得ました。巨大な権力と名声を得ることができました。ありとあらゆる快楽を味わいました。彼は多くの知識を得、哲学を学び、事業を拡張し、建築を研究し、13年も費やして自分のための宮殿も建てました。そして、その実験の結果、何の満足も得ることが出来ず、「神なしの人生は何をやっても空しい。だから、若い時に神に立ち返りなさい。」と人々に勧めているのであります。

 このように、ソロモンは「自分の目の欲するものは何でも拒まず、心の赴くままにあらゆる楽しみを試み」、いろいろな事業もやったけれども、その結果は「すべてが空しく、風を追うようなものである。」ことが分かったのです。このようにソロモンの実験の結果は、すべてが空しく、この地上の人生で何一つ、益になるものはないということであったのであります。ソロモンの実験の結果は次のようなものです。

●「その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた空しい。」(伝道者の書2:22~23)。

●「あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』という年月が近づく前に。・・・・・・・結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道者の書12:1~14)。

 この書の12章には、この書の結論が書かれています。ソロモンが人生の探求の結果得たものは、神を恐れ敬うこと、これこそが人間の本分であり、すべてであるということであります。私たちの人生に真の満足と意味を与えるのは、神のみであるということであります。ソロモンは自分で経験してみて、神を信じる人生が一番幸いであると語っているのであります。そして、この書は若者への呼びかけで終わっています。「あなたの若い日に」とありますように、人生の土台は早いうちに敷く方が良いのです。

 この伝道者の書が与えられたのは、私たちが、人生において多くの無駄な努力をしなくてもよいように、ソロモンが自ら経験した結果を通して若い人に一つの警告として与えられているのであります。人生の大部分を費やして、無駄な実験を繰り返す必要はないということであります。そして、この書は、一個人の人生の経験を通して知り得た教訓の記録ですが、全人類に当てはまる普遍的な真理なのです。この書は、人間が罪のゆえに、神から離れ、空しくなってしまったことが書かれており、神の帰るように勧めていますが、その神に帰る道については記されてありません。それは、新約聖書に記されています。

 ある書物にこんなことが書いてありました。「空しい」という字をもし数字で表すならば「0」ですが、1×0=0。100.000×0=0。1000億×0=0。100兆×0=0。どんなに大きな数字でも0を掛ければみんな0になってしまうのです。この「0」という数字は巨大な数字をも飲み込んでしまう恐ろしい数字であります。莫大な資産やお金を蓄え、大きな地位や名誉を得、また社会的に多くの貢献をしても、もし、神を信じない人生であればすべては「空」であり、「0」になってしまうのであります。

●「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネの福音書14:6)。

 伝道者の書には、神に帰る道が示されていませんが、新約にはその道が明確に示されているのです。イエス・キリストこそ、その唯一の道であります。キリスト以外には決して道はありません。イエス・キリスは、私たちを神のない空しい人生から救い出すために、この世界に救い主となって来てくださいました。そして、十字架で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったのです。この御方を信じる者は、罪が赦され、神との交わりを回復して、本当の喜びに満ち溢れたた人生を歩むことが出来ます。

            

★平和の道を知らない人間

2006-05-14 | 「人間の罪の問題」

       

 人間は誰でも、争いのない平和な家庭と平和な社会を求め、また戦争のない平和な世界を願っています。しかし、平和を願う人間の心とは裏腹に、人類の歴史にはいつも争いと戦争があり、人々は戦争やテロの不安と恐怖に怯え、世界は戦争による地球環境破壊と混乱によって、益々取り返しのつかない暗い方向に向かっているように思われます。
 
 理性を与えられている人間が、どうして戦争を回避することができないのでしょうか。戦争によって得るものは何もないと知りながら、人類はなぜ、その歴史から教訓を学ぶことが出来ないのでしょうか。ほんとうに人間は平和を求めながら、平和の道を知らない、平和を実現し得ない存在であることを知らされるのであります。新約聖書のローマ人への手紙3章に記されている次のことばは真実であると実感させられます。
 
●「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神に対する恐れがない。」 (ローマ人への手紙3:10~18)。

 聖書のみことばが語るごとく、人類は平和の道を知らないのです。平和を願う心はあっても、平和の道、すなわち平和を得る方法を知らないのです。 また、「彼らの足は血を流すのに速く」とありますが、人類が互いに憎しみ合い、殺し合うことによってどれだけ多くの人々の血が流されているでしょうか。そして、戦争によって得るものは何もなく、「破壊と悲惨」があるだけであります。戦争によって多くの人の命が奪われ、資源を失い、地球環境は汚染され、破壊と悲惨は目を覆うばかりです。

 では、人類はなぜ平和の道を知らないのでしょうか。それは、「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」からです。天地万物を創造された真の神様は、聖よく正しいお方であり、また「平和の神」であります。人類が平和の神に背を向けて、自分勝手な罪の道を歩みはじめたその時から、人間の心はいつも不安と恐れと不信と疑いに満たされ、その心から「平和」が消え去ってしまったのです。神との断絶によって神との平和な関係が失われ、人と人との間にも平和な交わりがなくなってしまったのです。 

 戦争と殺戮が繰り返され、益々悪化する犯罪の報道などによって、人間の罪の性質のいい知れない深刻さを痛感させられますが、神との断絶こそ、憎しみと争いの根本的な原因です。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」(ヤコブの手紙4:1,2)と聖書は明確に告げています。

 しかし、この平和を実現し得ない人類に本当の「平和」をもたらしてくださったお方が平和の神であり、その神に遣わされた救い主が「平和の君」なる主イエス・キリストであります。神と神に反逆する人類との和解のために、人類の罪の身代わりとなって、あの十字架でご自身の血を流して死んでくださったのです。キリストを自分の救い主として信じ受け入れるならば、誰でも罪が赦され心の中に本当の平和を持つことが出来るのです。

●「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(Ⅱコリント人への手紙5:19~21)。

 あなたも神に背を向けた生活を止めて、キリストを信じて神との平和を得る者とされ、悲惨な争いと憎しみに満ちたこの世にあって、キリストの平和の福音(良き訪れ)を大胆に宣べ伝えることによって、真の意味で「平和を作り出す」方となられませんか。それこそが、真の平安と希望に満ちた人生なのです。

◆(E-mail): goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」
 

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★聖書の光が心を照らす

2006-05-09 | 「聖書と人生」

       
    
●「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」(詩篇119:130)。 
  
  北国に住む者にとっては、厳しく長い冬の後の春の陽気と明るく暖かい光を浴びるのは、本当に心地良いものです。また、早朝のまだ部屋が薄暗い時でも、入り口のドアを開けると、朝日がサ~っと差し込んで来て部屋を明るくしたり、カーティンをいっぱいに開けて窓から朝日を迎え入れるのはとても清々しい気持ちになります。そして、戸を開けるためには、最近ははデパートなどでは便利な自動ドアーもありますが、通常は自分でドアの取っ手を廻して開けなければなりませんね。そうです。自分の意思で戸を開けるのです。そうすると、光が差し込んで来るのです。

さて、冒頭の聖句ですが「みことば」は神のみことば、すなわち「聖書」のことです。あなたの人生でも、神のみことばである聖書を手にして、自分の手で(自分の意思で)聖書を開き、神のことばとして心に迎え入れるならば、神の光があなたの暗い心に差し込んで来るのです。自分も青年時代にそのような経験をしました。そして、その時から自分の人生が新しくなったのです。聖書は実に不思議な本であります。本屋さんに行けば、ありとあらゆる本が棚に並んでいますが、聖書だけは特別です。これは、人が書いた本ではありますが、神のことばなのです。なぜなら、聖霊に導かれて書かれた本だからです。

聖書を開き、人生の真理を尋ねる人は、老若男女を問わず、神がそのひとの心を照らしてくださるので、人生の正しい生き方への洞察が与えられるのであります。聖書を真剣に調べるならば、あなたの暗く希望のない人生に光が差し込んで来ます。これは、嘘偽りなく真実のことなのです。「わきまえのない者」というのは、神を信じない不信仰な生活のために人生の諸々のことにおいて正しい判断が出来なくなっている人のことであります。しかし、聖書は光の根源である神のみことばですから、神に背を向けて霊的に盲目になっている人間の霊眼を開いてくださるのです。

聖書のみことばの戸が開かれて、自分の心に光が差し込むと、次のようなことを神様は悟らせてくださいます。①創造者(神)が存在されること。②自分が神の前に汚れた罪人であり救いが必要な者であること。③罪をもったまま死んだなら、死後の裁きがあること。④愛なる神はご自分の御子を人類の救い主としてこの世に遣わされ、十字架に架けて私たちの身代わりに罰しなさったこと。⑤イエス・キリストを救い主として個人的に受け入れるように語りかけてくださること・・・・etc。

旧約聖書に「あなた(神)のみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)とありますように、確かに神のことば聖書は私たちの人生を照らす光なのであります。また、この聖書は、イエス様ご自身が「その聖書が、わたしについて証言(あかし)しているのです。」(ヨハネの福音書5:39)と語っていますが、旧約39巻、新約27巻からなる聖書は、神からの啓示として人間に与えられたもので、誤りがなく、神のことばとしての権威を持っています。その中心主題は、イエス・キリストの十字架による救いなのです。

●「すべてのものは、この方(キリスト)によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方(キリスト)にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光(キリスト)はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネの福音書1:4,5)。

●「わたし(イエス・キリスト)は、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネの福音書8:12)。

●「悪いことをする者は光(キリスト)を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光(キリスト)のほうに来ない。しかし、真理を行う者は、光(キリスト)のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハネの福音書3:20,21)。

●「わたし(キリスト)は光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」(ヨハネの福音書12:46)。

キリストの十字架と復活から、2.000年経った今も、このイエス・キリストの福音が宣べ伝えられているのは、人々の霊的な目を開いて「暗やみから光」(使徒26:18)の中に導くためなのです。どうか、あなたも、あなたの罪のために身代わりに十字架に架かられたイエス・キリストを信じて救われ、光のうちを歩む人生に導かれますよう祈るものです。ですから、私たちクリスチャンは繰り返し繰り返し、キリストの十字架と復活の福音を宣べ伝えているのです。

●「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。 『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。 」(Ⅱコリント4:5,6)。

◆(E-mail): goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」


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★キリストの復活とパウロの回心

2006-05-06 | 「キリストの復活」
 
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 今から約2,000年前のAD30年頃の日曜日未明に起こった出来事、すなわち、キリストが復活して墓から出て来られたという出来事は、人類の歴史をひっくり返してしまうくらいの大事件であったのです。それは、今まで失意のどん底にあった者に喜びと力を与え、確信と希望を与えるほどの歴史的にも大きな出来事でありました。キリストの復活によって、泣いていた女たちには慰めが与えられ、疑いと恐れの中にあった弟子たちには喜びと希望が与えられました。このキリストのよみがえりの良き訪れを伝える足は全世界に向かって進んで行ったのであります。

 このキリストの復活の福音は、多くの困難に直面しながらも世界の歴史の中で実を結んで行きました。今日まで信者たちは数知れず多くの迫害を受けましたが、キリストの復活を宣べ伝えるメッセージは西に東にぐんぐん伸びて行きました。今日、クリスチャンが宣べ伝えているメッセージの中心は、キリストの復活であります。復活こそ福音そのものであります。キリストの「十字架と復活」は車の両輪のようなものであり、切り離すことのできない一つの神のメッセージであって、復活のないメッセージは福音ではありません。「使徒の働き」の中でも、使徒たちが宣べ伝えたメッセージの中心は復活であります。キリストは今も生きておられる方であることを私は確信を持って語ることが出来ます。なぜなら、聖書がそのように語っているからであります。

 キリストの復活の事実を証明する方法は多くありますが、今回はパウロの生涯に焦点を合わせて考えてみましょう。まず、パウロは、以前はキリストをペテン師と信じて、クリスチャンたちに対して憎悪の心を抱き、彼らを絶滅してしまおうと次々に捕らえて投獄し、教会(集会)を荒らし回っていた青年でありました。このように、クリスチャンを激しく迫害していた青年がなぜ、突然、キリストを信じるようになったのか!それは、ルカが「使徒の働き」9章に記しているように、復活のキリストがパウロに現れ、彼は文字通り劇的な回心をしたからであります。

●「・・・・ ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。 彼は地に倒れて、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。』という声を聞いた。 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。 」(使徒の働き9:3~9)。

●「するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、 食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。 」(使徒の働き9:18~20)。


 パウロは、キリストの教えに納得してクリスチャンになったのでもなく、またキリストの立派な人格に感動してクリスチャンになったのでもありません(これは、彼がキリストの教えに納得しなかったとか、キリストの立派な人格に感動しなかったという意味ではありませんので誤解なさらないでください)。既に記しましたように、実に、パウロは栄光のうちに現れた復活のキリストに出会い、その復活の事実をを確かめることによってクリスチャンになった人であります。キリストの復活を証明する決定的な一つの事実は、キリスト者を迫害していたパウロがキリストの伝道者へと変えられたことであり、180度の方向転換をしたことであります。

 キリストを信じる者たちを迫害していたパウロが何故、突然、キリストを大胆に宣べ伝える人に変えられたのか。これは、絶対にキリストの復活を否定しては説明のできない事実であります。そして、新約聖書の中には、信者に宛てた21の書簡(手紙)がありますが、その中の13通(ローマ人への手紙~ピレモンへの手紙)は、実はパウロが書いた手紙なのであります。もちろん、その手紙の中では復活のキリストのことが度々語られているのであります。これは、キリストの復活を否定するならばどのように説明できるでしょうか。このことは、キリストの復活が明々白々であることを物語るものであります。

●「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ人への手紙4:25)。

 キリストは私たちの罪のために死なれました。そして、その死は私たちの罪に対する完全で十分なさばきを受けてくださったが故に、神はキリストをよみがえらせてくださったのです。もし、キリストの復活がなかったならば、私たちの罪は赦されず、まだ罪の中にいることになります。そうであれば、罪が赦されているという保証もないことになります。キリストの復活こそ、間違いなく、信者が神の前に義とされ救われたことを保証するものであります。

●「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。」(Ⅰコリント15:19、20)。

●「神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。 」(Ⅰコリント6:14)。

●「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 」(コリント15:51,52)。

  
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★聖書の権威について

2006-05-01 | 「聖書について」

 

 友人のクリスチャンから聞いた話ですが、最近新聞報道などで『ユダの福音書』に関する記事が話題になっていることを知らされ、改めて調べてみましたがそのような記事が確かに報道されています。しかし、真のクリスチャンはこのような記事の内容如何にかかわらず、聖書が神の唯一の啓示の書であり、永遠の真理であるという確信が揺らぐようなことはなく、惑わされるはずがありません。その新聞報道の概略は次のようなものであります。その報道によれば、エジプトの砂漠で見つかった約1700年前のパピルス文書を修復・翻訳したところ、この文書はキリスト教の黎明期に教会から異端とされた幻の書『ユダの福音書』の、現存する唯一の写本であることが判明したと発表したというものであります。

 そして驚くべきことに、このパピルス文書では、2000年にわたって裏切り者とされてきた、イエス・キリストの弟子「イスカリオテのユダ」が、実はキリストの真の教えを正しく理解した一番弟子として描かれているというのです。さらに、この書物には、ユダがイエスをローマの官憲に引き渡したのは、イエス自身の言いつけに従ってしたことだと書かれているというのです。私はこれらの報道の真偽について論じるつもりは毛頭ありませんが、これを神のことばである「聖書」につけ加えようとする試みは愚かであり、あるいはこの「ユダの福音書」なるものが神の霊感による書であるかのように言いふらす人がいるならば、全く話にならない馬鹿げたことであります。

 聖書は旧約39巻と新約27巻の66巻で、今から約2,000年前に既に完成(完結)されたものであります。この「聖書」66巻のみが、神の霊感によって記された「聖書」として存在しているのであります。聖書は、大きく分けると、「律法」と「詩歌」と「預言書」からなっていますが、不思議なことに、「律法」と「詩歌」と「預言」の書の中の三ケ所には、それぞれ次のような神の警告のことばがあります。これは、非常に厳粛なことであります。既に完結された聖書66巻のみが、神の唯一の啓示の書であります。サタンは常にこの聖書66巻に何かの新しい啓示(?)と呼ばれるものを付け加えようとし、それは聖書が完成された約2,000年前から今日までそれは続いているのであります。

●「私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。」(申命記4:2)。

●「神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。 」(箴言30:5,6)。

●「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。 」(ヨハネの黙示録22:18,19)。


 これらの聖書のみことばは、「聖書」こそ神が人類に与えられた唯一の啓示の書であるということを力強く語るものであり、これを決して忘れてはならないのであります。神は、聖書に付け加えたり、省いたりしてはならないことを命じているのであります。ですから、この聖書66巻に何か新しいもの(人間の教えや考え、思想、神からの啓示であるとの偽り教えなど)を付け加えることは、明らかに神に敵対する行為であり、恐ろしいことであります。下に記したみことばにありますように、神の霊感によって記されたのは「聖書」のみであります。

●「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(Ⅱテモテ3:16)
 
●「‥‥すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。 なぜなら、預言(聖書のことば)は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。 」(Ⅱペテロ1:20,21)。 


 それから、聖書の主題は何かと言えば、それはただ一つであり、それはイエス・キリストであります。モーセは、はるかに未来を望み見て、そこにメシヤ(救い主:キリスト)を見たのでした。ダビデもイザヤも同様です。その後、キリストが地上に来られて、十字架と復活のみわざを通して救いを実現し、天に帰られたのです。それから少しのちに、パウロも過去をかえりみて、このキリストこそ、むかし預言されたメシヤ(救い主)であることを見出したのです。

 イエス・キリストこそが聖書の大いなる中心主題であることを聖書全巻が一貫して、書き記しているのであります。すなわち、旧約聖書には、キリストについての多くの預言があり、新約聖書には、キリストが来られて、これらの預言が成就したことが記されたいるのであります。聖書には、あなたの直面している問題を根本的に解決する鍵が必ずあります。どうぞ、聖書に親しんで下さいますようにお勧めいたします。