聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★人間の罪と心の汚れ

2005-07-01 | 「人間の罪の問題」

  私たち人間は、だれでもうわべを美しく飾って、人の前に自分をきれいに見せようとする傾向があります。美容院が繁盛するのも、化粧品が飛ぶように売れるのもその一つの表われではないでしょうか。しかし、私たちの心の汚さについては殆どの方が無関心です。
 
 心の中のことは口に表われるものですが、私たちが毎日いろいろなことばを口から発しますが、そのことばは、すべて誰に聞かれても恥ずかしくないものでしょうか。冷静な時は、まだよいとしても、少し感情が高ぶったり、人から中傷されたりして嫌な思いさせられたりすると、人間は顔に似合わないような汚いことばを平気で吐くものです。私たちが毎日語ることばを録音して、それを一日の終わりに聞くとしたら、私たちは、きっと顔を赤くしてしまうのではないでしょうか。

 昔、一人の少年を連れた老人が病院を訪れて、「私はまだ医者にかかったことがないのが自慢ですが、わしの子供たちはみんな弱くて小さい時に死んでしまった。一人残った子供の父親もこの間、結核で亡くなってしまった。残されたこの子も弱くて年中風邪ばかり引いて困ったものです。」と訴えるのです。おかしいと思った医師は老人の胸にレントゲンをかけて見たら、一家の病原菌は、この老人の胸中に発見されたという皮肉な話があります。

 自覚症状のない病気ほど恐ろしいものはありません。真面目に働き、特別悪いことはしていないから‥‥と自分は善人であると思っておられる方はおられないでしょうか。私たちは、通常、法律的な犯罪以外は、罪であると意識しないかもしれません。しかし、聖書が教える罪というのは、それだけではなく、心の中の罪や汚れこそがすべての表に表われる犯罪の源であるというのです。
 
 レントゲンで胸を診られるとき、誰でもちょっと怖い感じを持つのではないでしょうか。もしかしたら、胸に空洞があるかもしれないという不安があるからです。人間は、自分で見られないところを見るのが怖いのです。それと同様に、人間は神の前に出るのを恐れるのですね。人間は神の声を聞きたくないのです。本当の自分の姿を見たくないし、また知りたくないからです。
 
 聖書は、人間の心を写す鏡のようです。聖書を真剣に読むなら誰でも自分が不完全な人間であり、罪人であることが分かって来ます。でも、神の前に、すべてをさらけ出す勇気を持っていただきたいのです。神様はあなたの心の中のすべてをご存じの御方であります。そして、その心の中の罪と汚れ、罪のさばきからの救いも用意してくださっておられるのです。

 人間というのは、罪の力に対して無力であり、一人の人間が真面目に生きようとすれば、もうそれだけで容易ではないことに気づきます。孔子は「不善を改むることあたわず、これわが憂いなり。」と言い、王陽明(学者)は、「山中の賊は平らぐるに易く、心中の賊(罪や汚れ)は、平らげ難し。」と、言いました。また、あの使徒パウロでさえ、「私には、自分のしていることが分かりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。‥‥‥私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ人への手紙7:24)と告白したのです。これは、すべての人の心からの叫びではないでしょうか。人間には善をしたい心があっても、それを行う力がないのです。

 暗い部屋の中では、どれだけの塵(ちり)があるか分かりません。しかし、戸の隙間から漏れる朝日の光に照らされると、千万無数の塵が飛び回っているのが見えて来ます。光が強ければ強いほど、小さい塵までも見えてくるのです。それと、同様に聖書のみことばの霊的な光によって、自らの心中が照らされると、自分の罪深さを初めて知るのです。
 
 一体、人間はどこで罪を犯すでしょうか。あなたの手で物を盗んでも手が痛くなるでしょうか。いいえ。口でウソをついたら口が痛くなるでしょうか。いいえ。目で汚れたものを見たら、目が痛くなるでしょうか。いいえ。あなたの心が痛むのです。人間には良心があるので、良心の呵責を覚えるのです。手も、口も、目も、あなたの心の中から出て来る罪を犯す道具のようなものに過ぎません。そして、-----人間の霊魂は肉体的な死の後にも存在しますから、その罪のさばきを受けるのは当然なのです。

 一つの石を池に投じれば、最初小さな波動が起こり、それがやがてその波紋が全面に広がって行くように、心の中に潜む罪もいつか外に表われて、周囲の人々にも害毒を及ぼします。怒り、恨み、妬み、高慢、貪りも、あるいは言葉に、あるいは行為に、あるいは態度に表われて、人の心に痛手を与えます。怒りに満ちた一言は刃物のように他人を傷つけ、高慢と恨みに燃える目の一瞥は、人の心に毒矢を射込むのです。「罪を犯すことは仕方のないことだ。そんなこと周りの人がみんなやっているではないか。」と言う人がいますね。
 
 しかし、その言葉を言っている人が被害者の立場に立つと、相手が言う「仕方がないではないか!」という言葉を決して受けつけません。また、法律的な罪を犯した場合、裁判官に「仕方がないではありませんか。」と言っても通用しないのです。ですから、私たちの罪が永遠の地獄に値すると言われる神の前に立った時に、同じような言い訳をしても通用しないのです。それは空しい口実に過ぎないし、罪の生活を続けたいからに他ならないのです。

●「クシュ人(エチオピヤ人:黒人)がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行なうことができるだろう。 」(エレミヤ書13:23)。

●「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよ。 」(エレミヤ17:9)。

●「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。 」(ヤコブの手紙1:14,15)。

●「人から出るもの、これが、人を汚すのです。 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねた み、そしり、 高ぶり、愚かさであり、 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコの福音書7:20~23)。

 聖書の中のこれらのみことばは、みな人間の罪深さを示しています。しかし、神は、私たちのように腐ってしまった人間を愛してくださり、ご自分の御子をこの世にお遣わしになられ、十字架につけられ、罪なきキリストが私たちの身代わりに神の刑罰をお受けくださったのです。この尊い救い主を信じる者はみな罪赦されて天国に入ることが出来るのです。なんと、驚くべき神の愛でしょうか。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「神は、罪を知らない方(キリスト)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。 」(コリント人への第二の手紙5:21)。

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