聖書から人生を考えよう

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★人間の罪とその結果

2005-09-20 | 「人間の罪の問題」
 
ある本に次のようなことが書かれていました。戦時中、日本の一人の軍人が捕虜を生きたまま解剖するという恐ろしい経験をしたのですが、戦後、その罪の呵責でず~っと長い間悩み続けたのです。そして、時間が経つうちに、やがて、だんだんその呵責を感じなくなって行くという内容です。人間というものは、ある時その心の中に罪の自覚が起こっても、あるいはそういう罪を教えられても、いつの間にかその自覚が希薄になって消えて行ってしまって何も残らなくなってしまうことがあるのです。ちょうど、広い太平洋に毒薬を一滴落としたようなもので、それがだんだん薄められて行くと、いつの間にかその毒が分からなくなってしまうのです。人間の罪についても同様のことが言えるのです。

 「公害」の問題が一時は大変大きな問題となりましたが、最近は当時ほど大きな問題として取り上げられなくなって来ているように感じます。しかし、実際には、当時に比べて何も改善されていないというか、さらに悪化しつつあると言っても過言ではないと思います。「公害」時代になって分かって来たことの一つに「希釈」(うすめる)ということの恐怖があります。大分以前の話ですが、スウェーデンの海で、海藻の多くが死滅したので調べたところ、工場排水に銅イオンが含まれていたことが分かりました。それは、ごく少量で何でもないと思われるほどであったのです。ところが、実はその薄められた少量の毒が海藻類の命取りになったのです。気がつかないうちに少しづつ海藻に害を与えていたのです。

 「水俣病」の場合も同じです。メチル水銀が大量に海に流れ込んだなら、魚介類は急に死んだと思いますが、当然、死んだ魚介類を人は食べるはずがありません。したがって、もしそうなら「水俣病」は起こらなかったはずです。ところが、毒が薄められていたので、気がつかないうちに魚介は汚染され、それを食べた人が「不治の病」となってしまったのです。海に落ちた猛毒は一度は分からないほどに薄められますが、プランクトン→魚→動物→人間という順序でだんだん濃縮されて、体の中に毒が残って、恐ろしい結果となることが分かったのです。太平洋の中に消えたはずの毒の一滴が突然の死を引き起こすように、人間が罪の自覚や罪の結果に恐怖しなければならない時が必ず来ることを聖書は厳粛に告げています。

●「見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。」(エゼキエル18:4)。

●「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。 」(ガラテヤ人への手紙6:7)。

●「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。 ・・・・・」(ローマ人への手紙2:1~5)。


 ユダヤ人は、自分たちは異邦人のように汚れた者ではないと自負していました。しかし、旧約聖書のユダヤ人の歴史を読むと、ユダヤ人も異邦人もみな同じように罪人であることがはっきりと示されています。それは、例えて言えば米の品質検査官が先のとがった細い管を米の俵(袋)に差し込んで、中から少量の米を取り出して、その米の品質を見て、その全体の等級を決めるのによく似ています。神は、全人類の中から、ユダヤ民族だけを取り出して、それに律法を与えてそれを守れるかどうかを試されたのです。そして、ユダヤ人は律法を守れないことがはっきりしました。ですから、ユダヤ人の恥ずべき罪状は全人類の罪状であると言い切ることができるのです。

 ユダヤ人も異邦人も、聖なる神の前にはみな罪人であり、悪を行えば罰せられるのであります。それには人種による差別はありません。異邦人(ユダヤ人以外の外国人)には、律法が与えられませんでしたが、良心が与えられましたので、それによって罪が分かるはずであります。また、当然ですが貴賎貧富や男女による差別もありません。私たちは、社会が悪い、政治が悪い、親が悪い、学校が悪い・・・・・といいますが、そして、それは事実そのとおりであるかもしれませんが、だからといって、それは神の前には言い訳にならないのです。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。

 人間の罪に対しては、必ずさばきがあります。そして、それは人が人を裁く時のような不完全なものではありません。神による完全な正義のさばきであります。聖書に記されている神は、人の心の中に隠されている思いもすべてご存じであり、それを明らかにし、正確に裁かれる方であります。しかし、神は人間の心の中の罪も、外に表された罪過もすべて裁くことのできる正義の御方でありますが、同時に愛の神でありますので、私たち罪人のために救い主をお遣わしになられ、その救いを提供しておられる方なのです。

●「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 」(ローマ人への手紙3:23,24)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。 


 「死」と「永遠のいのち」。これは、人間が最終的に行き着くところの両極端であります。私たちは、罪のゆえに、当然、死、すなわち永遠の滅び(地獄)に行くべき存在であります。しかし、愛なる神様は、イエス・キリストの十字架のゆえに、「永遠のいのち」を恵みによって与えてくださる方であります。しかし、そのためには、自分の罪の事実を素直に認めて、賜物としての救い(永遠のいのち)を受け入れる従順な心がなければならないのです。神様はあなたにもその賜物を与えようとしておられます。どうか、あなたも、頑なな心を開いて、救い主イエス様を信仰によって受け入れ、尊い救いをご自分のものとなさってくださいますようにお勧めいたします。


 

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