聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★「善悪」の天秤と天国

2005-06-04 | 「人間の罪の問題」



  私は若い時に、ある方と聖書と人生について、また、死後の問題や天国と地獄のことを話す機会があったのですが、この方は、ある考え方を持っていました。その方の意見はこうでした。大体の内容は次のようなものであったと思います。「私は、このように考えますがどうですか。人間には誰でも善悪があります。そして、一人の人間の生涯の間の善悪を天秤にかけて、『善』が『悪』よりも多ければ、死後天国に行き、『善』よりも『悪』の方が多ければ、残念ながら地獄に投げ込まれると考えています。」 今日でも、このような考えをお持ちの方が結構多いのではないかと思います。

 私はある小冊子で読んだこを思い出して、その方に次のように答えたのです。「例えば、Aさんという男の人が今日、赤十字社の事務所へ行って、5万円を寄付したと仮定しましょう。この団体は、洪水とか台風、疫病の流行している時などに人々を救護したり、その他いろいろな慈善を行っているのですから、この寄付行為を善と考えても差支えないですね!」その方は、「はい、あなたのおっしゃる通りです。」と返事をしました。それを聞いて、私は話を続けました。「しかし、受け取りを貰って事務所を出たAさんは、帰途、ちょうど空腹だったので、果物屋の前を通りかかった時、美味しそうなリンゴを見て、これは大好物だと思って、店員さんが見ていない時に、リンゴを手に取って素早くポケットに入れ、家に急いで帰ろうとしました。ところが、向こう側に立っていたお巡りさんがこれを見て、後をつけて来ました。ここまでの話は分かりましたね。これは、あくまでも仮定の話ですよ!」

 彼は「はい、分かりました。」と答えました。「‥‥それから、お巡りさんは、後ろからついて来て、『これ、これ、お前はここで何をしているのかね』と声をかけ、そのあと、次のような会話が続きました。『は、はい!リンゴを食べています。』『それは分かっているが、どこから来たのか』『あの~、あっちの果物屋から来ましたよ』『それも分かっている。でも、それは実は盗んだものではないのか』と聞かれたのです。Aさんは、慌てて『あの~、実はその通りなのです。私はこのリンゴを盗みました。どうか、お許しください。』と懇願しました。お巡りさんは、『他人の物を盗んでおいて、許してくださいとは何事だ!!』と厳しく答えました。‥‥」

 以下、次のように話は続きました。「‥‥Aさんは、それを聞くとすぐ、ポケットから先程の受け取りを出して、自分の立場を弁明しました。『お巡りさん、どうか、これを見てください。これは、私が先程5万円の善行を行った証拠ですよ。だから、今回の1個100円のリンゴを盗んだことくらい許してくれてもいいではありませんか。5万円から100円の悪を引いたとしても、4万9千9百円の善が残っているではありませんか。』とAさんは答えました。」というような話をしたのです。 私は「さて、もし、あなたがお巡りさんだったら、なるほど!と感じて許すでしょうか。」と彼に尋ねました。これを聞いた彼は、笑ったまま何も答えることができませんでした。

 また、次のようなことを仮定として考えてみてください。ある人が車を運転していて、通りがかった道の橋の下の川で子供が溺れているのを見ました。それで、彼はそれを見て、かわいそうに思い、急いで車を止めて、川に飛び込んで命がけでその子供を救助したのです。その後、彼は運転中に不注意のため、わき見運転中に事故を起こし、人を跳ねてしまいました。さて、この人は最初に一人の子供を救助する善行を行い、その後で不注意のために事故を起こし、通行人に大怪我をさせてしまったのですが、この人は最初の善行のゆえに、後に犯した罪がすべて許されるということがあるでしょうか。

 読者のみなさんは、私が言いたいことがお分かりだと思います。私たちは、人生の中で、誰でも善と悪を行ったことがあると思います。どんなに善が勝っているように見えても、たった一つの悪さえ消す力はないのです。従って、悪の一つ一つに神の刑罰があることは明白ではないでしょうか。その上、人間の善行は自分や他人の目から見た善行であって、まったく聖よい神の目には「汚れた衣」のようであり、善行などというものは実はないのです。聖書にも「善を行う人はいない。一人もいない。」と書いてあります。人は、常に自分より悪い人と比較して、「自分は、あの人よりは勝っている!」と、勝手に考えて自己満足しているのです。10円盗んでも、1億円盗んでも、泥棒であることには違いありません。1回嘘をついても、1万回嘘をついても「嘘つき」であることには、変わりはないのです。

●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。 

 私たちは、この神より受ける死後の刑罰から、どのようにしたら救われるのでしょうか?難行苦行や善行によってでしょうか?また、人間が作り出した宗教によってでしょうか。いや、決してそうではありません。神の前にはすべての人は有罪者です。有罪者の私たちは、神様の恵みと憐れみによらなけば、永遠の滅びに至る以外にないのです。愛と憐れみに満ちておられる真の神様は、哀れな私たちを救うために、御子イエス・キリストを遣わされました。これは、驚くべき神の愛であります。

●「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(コリント人への第二の手紙5:21)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。 

●「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 神は、キリスト・イエスを、その血に よる、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。」(ローマ人への手紙3:23~25)。


 このように、私たちは、神の御前にはみな罪人ですが、キリストが十字架上で、私たちの身代わりとなって神の刑罰を受けてくださったので、有罪者であってもキリストを信じる者は罪赦され、神の御前に義(正しい者)とされるのです。あなたも愛の神様の救いの御手を拒まないで、是非この尊い救いをお受けくださいますように。

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