聖書から人生を考えよう

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★人間には良心がある!

2007-06-14 | 「人間の罪の問題」



 人間であれば、どなたにも「良心」というものがあります。これは、天地万物の創造者なる神様が人間に与えてくださったすばらしいものの一つなのです。人間は、アメーバーから、偶然に進化したものではなく、最初から神の愛の対象である「人間」として創造されたのです。多くの人が信じている進化論によっては、「良心」というものを決して説明できません。しかし、人間の良心は、注意していないと、あなたが置かれている環境によって、あるいは子供から大人に成長するにつれて、罪を重ねる度に鈍感になって行くことがあるのです。最近は、恐ろしい殺人事件などが続発していますが、人間の良心も長い間、汚れた罪を犯していると麻痺してしまうことがあるので、よくよく注意する必要があります。 

 ある外国人が「良心」について次のような説明をしたのを聞いたことがあります。つまり、「良心とは、譬えて言えば、三つの角(かど)のあるものが心の中に入っていて、もし、私が悪いことをするとそれがぐるぐる廻り、角があるので、心の中を傷つけ痛みを感じるのです。しかし、なお悪いことを続けると、それがぐるぐると廻り続けているうちに、いつの間にか、その角がすり切れてしまうのです。するともう悪いことをしても、痛みを感じなくなってしまいます。良心とはそういうものなのです。」という説明です。それを聞いて、「なるほど!」と納得したのを覚えています。それが良心の麻痺というものでないかと思います。何かの異臭がする部屋に住んでいる人は、その異臭に慣れてしまいますが、外から来た人はすぐその臭いに気づきます。

 ところで、「良心」ということばの真の意味は何でしょうか。それは、「何々と共に知る」という意味を持っています。そして、それは、「神(God)と共に知る、判断する。」ことを差しているのです。つまり、神が私たち人間に「良心」というすばらしい見張り役(番人)を与えてくれたのです。この番人は、神と共に協力して働き、決して悪いことを見逃したり、大目に見たり、おべっかを使ったりしないで正義の神に服従するのです。ですから、私たちが真の神を知らないとしても、この良心によってしばしば善悪を見分けることができるのです。これは神の与えてくださったすばらしい賜物であり、知恵です。

 昔、ギリシャの哲学者で、ピタゴラスの弟子の一人がある靴屋で一足の靴を、他日お金を払う約束で買って帰えりました。そして、その約束の日が来たので、代金を払いに靴屋に行きました。すると、その主人がすでに死んでいて、そこに居なかったのです。そこで彼はただで靴が買えたと心ひそかに喜びながら帰ったのですが、彼の良心がそれを許しませんでした。毎日責められた末、とうとう堪え切れなくなって、再び靴屋へ行き、その代金を靴屋に置き、「彼は、すべての人にとって死んでいたとしても、私にはなお生きているのです!!」と叫んだのだそうです。だれでも、彼の心中を察することができると思います。

 彼の「良心」は、昼も夜も休むことなく彼の行いについて責めたのでした。彼はその良心の呵責には勝てなかったのです。私たちにおいても同じです。私たちは、何か悪いことを心に企てたり、悪事を働くと、良心が強く責めるのです。実はそれは、神様からの警告のランプなのです。私たちは、それを無視することができません。私たちはどんなにしても自分が犯した罪を隠すことができません。良心は、天の真の神様と共に働いているのです。だれに対しても、特別扱いをして見逃してくれたりは決してしないのです。この良心が正常に働いていて、その良心の呵責を敏感に感じる人は幸いです。

 今から約三千年前、あのイスラエルのダビデ王も、姦淫の罪と殺人罪を犯してしまいました。姦淫の罪を覆い隠すために、ダビデの忠実な部下であった彼女の夫を戦場の最前線に行かせて、死なせてしまったのです。彼は、一つの罪を隠すために、さらに罪を犯してしまい、二重に罪を犯しました。そして、心の中で「よし、これで大丈夫だ!」と完全犯罪を企て、それをやり遂げたつもりで平然とした顔をしていましたが、彼の良心は決して彼を許しませんでした。下に記した詩篇の一部を読めば分かりますように、神の御手が昼も夜も彼の上にあって、彼は良心の呵責によって苦しめられたのです。

●「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」(詩篇32:1~5)。 

 しかし、聖書はすばらしい慰めと救いの道を教えています。ダビデがそうしたように、心からへりくだって自分の犯した罪を神様の前で告白し、赦しを求める時に、あわれみ深い神様は、その罪を赦してくださるのです。そして、その罪からの救いの道を開いてくださった方が、イエス・キリストなのです。イエス・キリストが、十字架の上で私たちの罪の身代わりとして死んでくださり、流してくださった血は、イエス様を信じ受け入れる人の心を雪よりも白く洗い聖めてくださるのです。それによって、もう罪の責めで苦しむこともなく、むしろ、感謝と喜びと希望に満たされた心で神様にお仕えする日々を送ることができるのです。
 
●「‥‥後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており‥‥」 (1テモテ4:1,2)。
 
●「彼ら(異邦人)はこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。―― 私の福
音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。」(ローマ人への手紙2:14,15)。

●「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」(ヘブル人への手紙9:14)。

 私たちは、外側を飾ることにはとても気を使うのですが、心の中のことには無関心、無頓着に過ごしていないでしょうか。しかし、もし自分の心の中を見ることができるなら、それこそ目を覆いたくなるのではないかと思います。タバコを吸う人の食道は、キセルの管の中のようにヤニでいっぱいだそうです。肺癌になったとしても不思議ではありません。同じように、私たちの良心が罪に汚れていては、やはり心の平和も喜びもないのは当然です。不安と恐れだけが襲って来ます。どうか、心がきよめられ、平安を得る救いを真剣に求めて下さい。十字架のイエス様のもとに行くまでは決して心の平安は得られません。十字架の血潮によってお互いに心をきよくしていただこうではありませんか。

●「‥‥御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(1ヨハネ1:7)。
●「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義(正しい者)と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:25)。
 

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」

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