聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★不幸の原因は人間の罪

2005-06-21 | 「人間の罪の問題」

  「愛に満ちた慈悲深い神様がおられるのなら、どうして、人間の世の中にいろいろな不幸や災いがあるのか。」ということばをよく聞くことがあります。確かに、昔からこの世は憂き世だ、苦の娑婆だ、涙の谷だと言って、喜んで世渡りをしている者は誠に少ないのが現実です。
 
 病気で苦しむ者もあれば、貧困に喘ぎ苦しむ者もおり、あるいは事業で失敗する者もあり、死別の悲しみもあれば、あるいは家庭の不和に悩む人もあれば、突然の事故に遭遇して一瞬に家族が不幸に見舞われることもあり、また時には、裕福な暮らしをしていても心の中には様々な不安や心配事と悩みで満ちている人々も少なくありません。また、世界中に起こっている戦争やテロの報復合戦の悲劇は、一体なぜなのだ!と人は言うのです。

 「もし、愛の神が本当にいるのであれば、もっと、人間を幸福に暮らせるようにしてくださってもよさそうなものではないか!‥‥」との人々のことばは、もっともな考えであります。私も、若い頃、最初に聖書を手にした頃、同じようなことを考えたことがあります。しかし、そこには、ちゃんとした説明のできる理由があるのです。神様が人間を、わざわざ苦しめておられるのではないのです。実は、人間が神様に背を向けて、罪を犯し、神から離れ、災いをわが身に招いているのです。人間の不幸と悩みは、外から来るよりも実は心の中から来るのです。 

 昔、こんな話を聞いたことがあります。ある町外れの飲食店に、夜おそく、大きな鞄を提げた立派な紳士が入って来て、時もおそくなって町の旅館は閉まっているから一晩泊めてもらいたいとのこと、見れば、相当のお金もありそうな、よいお客がやって来たと奥座敷へ案内し、丁重に取り扱いました。そして、こんな金持ちを泊めてもしか泥棒でも入ってはと、いつになく戸締りも厳重にし、これで安心と床に就いたのはよいのですが、実はそのお客が泥棒で、家人が寝静まったのを見届けてむっくりと起き上がり、着物から金庫のお金から、すっかり大鞄の中に入れて、こっそり出て行ってしまったのです。夜が明けてみて家人はびっくり仰天、しかし、泥棒を家に閉じ込めておいていくら戸締りを厳重にしても何の意味もないのです。

 そのように、どんなに自分の境遇をよくし、持ち物を豊かにし、教養を身につけて外側のことばかり作り上げても、心の中に罪を宿していては、泥棒を内に閉じ込めているようなもので、聖書は災いの最初の原因は実は心の中にあると言っているのです。しかし、罪といえば、「私には、罪などない。警察の厄介になった覚えもないし、刑務所に入った記憶もない。」と言われる方もおられるでしょう。
 
 しかし、例えばの話ですが、コレラやペストや赤痢などの病気は伝染病で、そのまま放置しておいては、大変で法律上このような伝染病の人は、隔離病院(棟)に入れることになっていますが、それなら、隔離病院以外に病人はいないかと言えば、そんなことはありません。もっと念の入った病気がたくさんあります。自宅で苦しんでいる人もたくさんいるのです。

 それと同様に、窃盗、強盗、殺人、放火、誘拐、詐欺‥‥などの恐ろしい罪を犯した人は放っておいては、社会を乱すことになるので、刑務所に入れますが、しかし、ねたみ、恨み、偽り、高慢、放蕩、淫乱、好色、不品行、などのように根深い心の病気がたくさんあって、自分も苦しみ、また他人をも苦しめているのが、世界の実情です。罪と言っても、外側に現れたものは実は枝葉で、心の中にその根があるのです。主イエス様は次のように教えられました。

●「人から出るもの、これが、人を汚すのです。 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねた み、そしり、 高ぶり、愚かさであり、 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」 (マルコの福音書7:20~23)。

 ですから、心の中の罪の思いがすべての犯罪の種であり、卵なのです。一つの卵でも暖めれば雛が飛び出して来るように、人の心の中からもいろいろな罪が飛び出して来るのです。人には、外に現れた罪だけしか見えませんが、神様はその種をも卵をも罪として取り扱い、これを処置なさるのであります。聖よい神の前に、「私には罪など一つもない。」と言い得る人がいるでしょうか。
 
 人間は、みな、「罪」という爆弾を抱えて世渡りをしているようなものです。その爆弾がいつ爆発するか、自分でさえも分からないのです。自分は、絶対人殺しなどのような恐ろしい罪を犯すことなどあり得ないと考えておられる方が多いと思います。でも、ちょうど、そのような犯罪を犯す条件下に置かれるならば、だれでもその可能性を否定することができないのです。

●「義人はいない。ひとりもいない。 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。‥‥‥すべての人は罪を犯したので、神からの栄光を受けることができず‥‥」 (ローマ人への手紙3:10~12,23)。
 
 ある人に一人の女の子があって非常に可愛がっていました。そこで子どもの方でも父親の帰りが待ち遠しくて仕方がありませんでした。毎日靴音が聞こえると飛び出して行って父親を迎えるのです。 父親もそのことが何よりも楽しみでありました。ところが、ある日父の留守中に、この娘が父親が大切にしていた床の間の花瓶を割ってしまいました。それで、その日に限って父の帰るのが怖くて仕方がありませんでした。父親の靴音が聞こえると、障子の陰に隠れてしまいました。

 小さな罪でも、それがこのように親しい親子の交わりを妨げる結果となるのです。それと同じように、神は愛に満ちた慈悲深いお方ですが、人間の心に罪があり、その生涯が汚れているならば、聖よい神様との交わりはできなくなるのです。地球の130万倍近くもある太陽でも、目に一枚の銅貨を当てればもう見えなくなります。そのように、心の目を罪が覆うならば、神様が見えなくなってしまうのです。

●「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。 」(イザヤ書59:1)。

●「主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。 」(イザヤ書55:7)。

●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。 」(ヨハネの福音書3:36)。


 イエス・キリストは、あなたの罪のために十字架で身代わりに神の刑罰を受けて死んでくださった救い主です。どうぞ、ご自分の罪をお認めになられて、救い主を受け入れ、幸福と希望に満ちた人生をお送りください。

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