聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★悲しむ者は幸いである

2006-06-10 | 「人生と孤独」
   
    

●「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイの福音書5:4)。

 聖書には、時々人間の思いとは全く反対の逆説的なことばが出てくるので、多くの人が戸惑いを覚えることがあります。しかし、そこにこそ、人生の真理の深い意味が隠されているのです。この聖句もその一つではないかと思います。多くの悲しみは不幸であり、それを避けたいと思うのは、ごく自然のことです。「悲しむ者は幸いです。」とは、不思議なことばではないでしょうか。人は、富や地位、名誉、健康、愛する家族や友人などを失うときに悲しみの感情を覚えるのです。また、信じていた親友に裏切られたり、人間関係がこじれてしまったときにも、悲しみの感情が込み上げてきます。

 人間はすべてが順調に行き、自分の思い通りにことが運んでいる時は得意になって、益々自分の力を過信して高慢になって行くものであります。しかし、思いがけないことが起こって壁に突き当たって行き詰ると、はじめて自らの弱さを認め、他者の助けの必要を強く感じるのです。悲しみの中にある人は失望しており、孤独です。そして、慰めを求めています。そして、その求める心が真の慰め主なる神に触れるのです。悲しい時に、人から慰めを受けても、それは、一時的なものであり、表面的なものものです。しかし、神からの慰めこそ、真に心の底から与えられる慰めなのです。

●「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」(コリント人への第二の手紙1:3,4)。

 聖書の神は、「気落ちした者(へりくだった者)を慰めてくださる神」(Ⅱコリント7:6)であります。また、「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」(Ⅱコリント7:10)とありますように、悲しみを受けとめる心にも二種類あることが分かります。ただ、悲しいと嘆くだけで終わるのではなく、悲しみの淵に立って、静かに今までの自分の人生を顧みる砕けたたましいのみが神のみこころに触れるのです。この時こそ、自己中心的な罪の生活を悔い改めるべき、神が与えたチャンスなのです。

 聖書の中には、悲しんでいる者がイエス様に出会って、神の慰めを受ける場面がよくあります。ナインの町のやもめは、一人息子が死んで葬儀が終わり、出棺の途中でイエス様と弟子たちの一行に出会い、イエス様はひとり息子に先立たれた彼女を見て、深く同情され、「泣かなくともよい。」(ルカ7:13)と言われました。そして、続いて「青年よ。あなたに言う。起きなさい。」(ルカ7:14)と言いますと、何とその青年は生き返って棺から出て来たのであります。彼女が大きな慰めを受けたことは当然です。イエス・キリストこそ、力ある慰め主なのです。

 また、イエス様が早朝に宮に入られ、集まって来た民衆に教えておられた時のこと、そこに律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの婦人を連れて来て、「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」(ヨハネ8:5)と問い詰めました。彼らはイエス様を告発する理由を得ようとしてイエス様を試したのです。そして、彼らが問い続けてやめなかったので、イエス様は彼らにきっぱりと言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」 と。

 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエス様だけがひとり残されたのです。そして、その婦人に、「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」と。イエス様は、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と言明されたのです。自らの罪の重さと恥ずかしさで悲しんでいた彼女はイエス様によって慰めを受けたのです。当然のことですが、イエス様は、 彼女のためにも十字架で血を流して死なれたのです。

●「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。」(伝道者の書7:2,3)。

 現代においては、多くの人々は、快楽や笑いを求め、どうしたら愉快に過ごすことが出来るかを求めて生きています。しかし、聖書は「悲しみは笑いにまさる。」と言っています。なぜでしょうか?それは、悲しみは私たちの心より不純物を取り除く効果があるからであります。賢明な人は、喪中の家を訪ねて人生の「死」についてじっくり考えるのですが、愚かな人は、今、どうしたら楽しく過ごすことができるかだけを考えます。だから、聖書は「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。」と言っているのです。葬儀においては、人間は必ず「死」の時を迎えなければならないという厳粛な事実を教えられるのです。

 私たちの人生の最も悲しい時が、最も有益な時となることもあるのであります。星は長く暗い冬の夜にこそ最も輝きます。ダイヤモンドは、熱と巨大な岩石の圧力によって生じると言われています。貴重な宝石は、みな高熱と高圧の産物であります。見事な色彩の陶器は高温の炎の中で焼き上げられてこそ、生まれるのです。また、高価な香水は圧搾によってもたらされと聞いたことがあります。この同じ書の同じ章には、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。」(伝道7:14)とあります。逆境は、人間が反省するために、生涯のあちこちに散りばめられて配剤されているのです。

 人生には、多くの悲しみと苦しみがありますが、イエス様ご自身について、聖書の中で、「悲しみの人で病を知っていた。」(イザヤ書53:3)と預言されています。イエス様は人間の痛みと悲しみを知っておられる方です。私たちが悲しみに沈む時、悲しみの人であられるイエス・キリストは近くにおられます。そして、その時こそイエス様の恵み深い愛に触れることが出来るのです。悲しみを経験しない人は、神の慰めも経験できません。また、イエス様は人類に同情されるお方というだけでなく、私たちに真の希望と光を与えて下さるのであります。あなたが悲しみと孤独の中にあるとき、あなたは決してひとりではないことをお知りになって下さい。神があなたに慰めを与えようとしておられるのです。

●「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、・・・・・・・その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」(イザヤ書63:9)。

●「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。 」(詩篇119:71)。

●「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 (ヨハネの黙示録21:4)。  


          

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