聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★世界最初の殺人事件!

2006-09-28 | 「人間の罪の問題」



 最近は、あまりにも簡単に人の命が奪われるという、悲しい殺人事件のニュースが日常茶飯事となっています。親がわが子を殺し、子が親を殺し、キレル若者が家に放火をして全焼させてしまったり、学校では友達の間で、互いに傷つけ合い、昔はとても考えられなかった殺傷事件が頻発して起こっています。この日本の国は一体、どうなってしまったのだろうか。日本人はどこに向かって行こうとしているのだろうか・・・・と嘆く方も多いのではないでしょうか。また、無思慮な若者たちが飲酒運転をすることによって、車は走る鋼鉄の凶器と化し、普通に道を歩いている通行人や幼い子供たちの行列に、突然、車が突っ込んで来て多数の命が奪われ、負傷することも珍しくなくなって来ました。これは、本当に悲しいことではないでしょうか。

 なぜ、このように人の命が軽視され、簡単に人殺しが行われるようになったのでしょうか。もちろん、これは日本人だけの問題ではなく、世界的な傾向でもあります。人々が互いに憎み合い、殺戮と戦争は今日まで、ずっと繰り返され、いつの時代にもあったことなのです。大昔から現代に至るまで、人が人を殺すという恐ろしいことが罪が行われて来たのであります。人が人を殺すことによって、どれだけ家庭を不幸にし、一般社会に悪影響を与え、人の心を暗くさせ、悲劇をもたらして来たことでしょう。しかし、そのような愚行から人間は何も学んで来なかったのです。例えば、戦争によって人は何か益を受けたり、それによって問題が解決したことがあるでしょうか。断じてないと言っても過言ではありません。

ところで、世界最初の殺人事件はいつ起こったかご存じでしょうか。それは、神が啓示された「聖書」にはっきりと記録されています。創世記の四章には、その生々しい殺人事件が記るされているのです。

●「ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。『なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。』 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。『野に行こうではないか。』そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、『あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。『知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。』 」(創世記4:3~9)。  

 ここに記されてあるように、その殺人は、兄(カイン)が弟(アベル)を殺すという家庭内の殺人事件として起こったことであります。そして、その殺人の動機は何かと言いますと。それは「妬み」と「怒り」と「憎悪」であります。殺人のために何かの凶器を用いたかどうかは明確には分かりませんが、それが野で行われたことを考えると、ある程度の大きさの石で殴りかかったのではないか、刃物を用いたことも推測できます。そして、そこには、明らかに「殺意」があったのであります。カインは最初から、弟アベルを殺す目的で、野に誘ったのであります。殺意がなくて、争っているうちに人を死なせてしまうこともありますが、この場合は、「殺意」があった明らかであり、その罪は非常に重いことが分かります。

 人類の始祖アダムとエバの間に、カインとアベルの二人の兄弟が与えられました。そして、弟アベルは羊を飼う者となり、兄カインは、土を耕して作物を収穫する農耕者となったのです。そして、収穫の時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たのです。また、アベルは信仰によって(ヘブル11:4)、その羊の初子の中から、最良のものを自分自身で持って来たのです。主は、信仰によってささげられたアベルのささげ物に目を留められました。なぜ、神がアベルのささげ物にだけ目を留められたのかについては、今は、ここで触れないことにしますが、兄のカインはこれによって、弟アベルを妬み、怒り、憎悪の念を持ち、ついには殺人の罪を犯してしまいました。この家庭に何と悲しい不幸な事件が起こったことでしょうか。

 人間の罪は、常に悲しい結果をもたらします。創世記三章に記録されてあるように、禁断の木の実を食べて神に反逆し罪を犯したアダムとエバは、その罪の意識があったので、「主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」(3:8)のです。これが、最初の罪の結果です。今日も人は罪を犯すと、まず、それを隠そうとします。犯した悪を隠蔽しようとする心は今日も同様であります。その次に、アダムが神様に責任を問われたとき、最初に言ったのは「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(3:12)という言葉でした。これは、「責任転嫁」です。そして、女を問い詰めると、同じように、「蛇(サタン)が私を惑わしたのです。それで、私は食べたのです。」(3:13)と、やはり責任転嫁をしたのです。このように、神に背を向けた結果は、まず夫婦の間に亀裂が生じさせたのです。

 そして、創世記四章まで来ると、罪は家庭内に入って来ました。兄弟間の争いから殺人事件に発展したのです。罪がいかに素早く外側に向かって浸透し、伝染して行くものであるかを知らされるのであります。人はなぜ人を殺すようになったのでしょうか。それは、明らかに人類が人にいのちを与えておられる神に背を向け、反逆し、神を忘れた生活をしているからであります。人間にいのちをお与えになったのは創造者なる神であり、特に日本人はその創造者を認めようとしませんから、人命を軽視する傾向にあります。神を恐れることを知らない人生は暗く不幸な人生です。そして、いのちを軽んじる社会になってしまったのです。

 みなさん、どうか真剣に考えてみて下さい。ある方は「人が人を殺してなぜ悪いのですか?」と真面目に質問しました。もし、今日の学校で教えている進化論的教育が正しいのであれば、すなわち、アメーバーが何らかの理由で、自然発生して爬虫類とか、いろいろな動物に進化して、ついに偶然の積み重ねによって、今日の人間になったのだととすれば、「人が人を殺してはいけない」という理由が見つからないことになります。進化論は「自然淘汰によって、環境に順応する生物だけが生き残って行く」という論理ですから、人殺しも戦争も否定する根拠がないことになります。しかし、聖書は、創造者(God)が、人にいのちを与えたことを明言しています。これは、厳粛なことです。律法がなくても、人は人殺しは悪いことであることを良心によって分かっています。その良心は神が与えたのでなければ、どこから来たのでしょうか(進化論では説明できません)。

●「神はこのように、人をご自身のかたち(内面的に)に創造された。神のかたちに創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)。

●「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息(霊)を吹き込まれた。そこで、人は生きものとなった。」(創世記2:7)。

●「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は・・・・・すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。 」(創世記17:24,25)。

●「殺してはならない。」(出エジプト記20:13)。”「十戒」の中の第六戒”
  これは、神から与えられているいのちの尊さを教えているものです。

●「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身を(十字架で)お捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ガラテヤ人への手紙1:4)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

 
 主イエス様はあるとき、「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。・・・兄弟に向かって・・・・『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナ(地獄)に投げ込まれます。」(マタイ5:21,22)と言われました。神は外側に表われた罪だけではなく、心の中まですべてをお見通しの御方であり、聖なる神の前には、すべてが裸なのであります。神は光であって、人が闇の中で行った事もすべて明らかにされる時が来るのです。しかし、同時に愛なる神はその御子イエス・キリストの身代わりの死によって、私たち永遠の滅びに向かっている人類を救おうとなさったのであります。そして、肉体のいのちよりも、もっと大切なのは、「永遠のいのち」であります。どうか、この尊いいのちをご自分のものとなさいますように心からお勧めします。

◆(E-mail): goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」 

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