護憲+グループ・ごまめのブログ

護憲+・現憲法を守るグループの一人して、今後の社会の状況を戦時を経験した一人として社会を見つめていきたいと思います。

第三部 吉州編 その三

2007年08月14日 17時04分26秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
第三部 吉州編 その三

 吉州にきて、狭い町ですから分かったのですが、小学校は日本人小学校と朝鮮民族の小学校があり、朝鮮人も皆、義務教育で普通の家庭の子供は小学校には通っていましたから、朝鮮民族の子供たちは日本語をマスターしていました。

 どうなんでしょう。元山の小学校では経験していませんでしたが、他の小都市の日本人小学校には一人か二人朝鮮民族の子供が一緒に勉強していました。

 官立京城師範学校では、定員の一割は朝鮮民族を入れなければ成らない規則が有ったようです。大勢のか中から入れる学生は頭の良いものばかりで、席次は上位の者ばかりだったと覚えています。

 面白いのは、母は片言交じりの朝鮮語と日本語を入れた会話。朝鮮民族のおオモニは、片言の日本語を交えた朝鮮語で話していました。朝鮮の子供たちは日本語を話せますから、親が分からないところは通訳をしているよう、結構意志は通じていたようです。
 日本人でまず覚える言葉は、
「イゴオルマヨ・これ幾らですか」「コーマブスミニダ・ありがとうございます。」「アンディヨ・駄目です」
 それと、モジョリ「ばか」
まず最初に覚える言葉は生活に密着した言葉のようです。
 でも韓国語を知らなくても、朝鮮人が日本語を覚えるのか早いというのか、朝鮮人が日本語を知らなければ住みにくく成りつつある朝鮮半島だと今思うとそう感じます。

 ここでも、子供の遊びに「イゴリチョゴリ」がありました。

 この都市には水道は完備されていなく、其の為か家庭風呂はなく、銭湯に行ったり豪商宅に貰い湯した覚えは頭の中に残っています。日本人も朝鮮人も混浴でしたが、朝鮮人でもそこそこ裕福な家庭の人が入浴に来ていたと思います。

 この都市(吉州)で朝鮮のヤンバンサラミの豪邸に我が家の家族が招待されましたが立派な御殿で、ただ、びっくりしただけ。

 街全体の印象は、表通りは日本人が押さえられていて、裏町に朝鮮民族が住っていたと思います。これも日本の権力のせいでしょう。
 私たちの住っていた社宅は、町外れに成りますので、朝鮮民族と混在して生活していたので、此れが良い人生経験に成ったと思っています。

 吉州編おわり





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