護憲+グループ・ごまめのブログ

護憲+・現憲法を守るグループの一人して、今後の社会の状況を戦時を経験した一人として社会を見つめていきたいと思います。

第5部  恵山鎮編   その1

2007年08月21日 16時53分43秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
第5部  恵山鎮編   その1

 この町の国民学校(小学校)は新しく平家建ての校舎で、各学年一クラスの男女共学で26人くらいのクラスで、高等科二学年を入れても八教室しかありません。
 それに反して、同級生の父親が校長をしている朝鮮人の学校は各クラス二学級あり一学級も40人ぐらいの編成でした。

 この小学校に父につれられ校門を入ると、私のあだ名をいう声が聞こえるので、そちらを見ると、吉州時代の友が三人もいるのです。転校する度に、どのような学校かと緊張していますが、それがいっぺんで解消。
 
 ここは鴨緑江の上流で、昔よく歌われていた白頭山節(朝鮮と支那と境のあのおうりょっこう)。山頂に火口湖を持った白頭山の裾野の町で極寒時には零下30度にもなる所でしたから、日本人が少なかったのだと思います。

 この国境の町は昭和の一桁の時代までは匪賊が現れていたそうです。その名残に町の周辺に望楼がいくつか有ったのを覚えています。

 もう一つの特色は、大森林地帯ですから、その材木の輸送手段に筏を利用していました。関西の十津川出身の筏師の方が多く、だから奈良県には同級生が数人います。

 この鉄道は、吉州と恵山鎮の間の(吉恵線)という支線で、高度が高いので、機関車は前後に装着され、ジグザグ登っていく所があります。上から見ると下に次の駅が見えるのです。だから直線的には短い距離でも30分程時間がかかる難所が有ったのを記憶しています。

 この恵山鎮は、転勤した都市の中で一番人口の少ない都市でしたから、今までの中では規模の大きい日本人街を作ってなく、両民族が一番混在している町だったと思います。

 お米の配給も、朝鮮民族も一緒に並び、お米を升で量って入れてくれる販売員はオモニでした

 不思議なことに、日本の領土内の朝鮮側は、食料などは不足していましたが、鴨緑江の国境の橋一つ渡った対岸の町、長白に行くと、甜菜(砂糖大根)で作ったお砂糖があるのです。
 そして、お饅頭屋さんもあり、緑豆春雨など食料は朝鮮側よりほうふでした。本当は、国境を越えて持ち込んではいけない物も有ったようですが、日本人はフリーパスのようなものでした。

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2007-08-21 22:56:27
ごちゃごちゃチョウ~セン自慢するなよ!
拉致被害者をさっさと返せ!!
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